【奈良】小山田古墳、飛鳥時代で最大の「方墳」と判明 被葬者は天皇か蘇我氏か
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【動画】小山田古墳、飛鳥時代最大方墳か
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/20190131/movie/2050001820_20190131184753.html
奈良県明日香村の小山田古墳
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2014年に養護学校の建て替え工事に伴って発見され、7世紀中ごろに造られた未知の古墳とされる奈良県明日香村の小山田(こやまだ)古墳(7世紀中ごろ)について、方形の古墳(方墳)の南辺の長さが80メートル以上になることがわかった。県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)が31日発表した。千葉県栄町の岩屋古墳(長辺約78メートル、7世紀)や他の天皇墓を上回り、飛鳥時代の国内最大規模を誇る巨大方墳だったとみられる。天皇陵なのか、あるいは豪族・蘇我氏の墓なのか。被葬者像をめぐる議論にも弾みがつきそうだ。
橿考研によれば、昨年12月下旬から古墳の西南端付近にあたる約64平方メートルを発掘調査し、墳丘西端と想定される裾部がみつかった。14年の調査では古墳北辺に石張りの大きな掘割(ほりわり、濠〈ほり〉)が出土。東西の長さは約70メートルとされたが、南辺の長さは80メートルを超えることが明らかになった。
また、結晶片岩や「榛原(はいばら)石」の板石の破片も多数みつかった。14年の調査でも、北辺の掘割の斜面に結晶片岩と榛原石が階段状に積み上げられた遺構が出土し、西辺でも同じように板石が積み上げられた可能性が高いとみられる。
小山田古墳の規模は、聖徳太子の父、用明(ようめい)天皇の陵墓とされる大阪府太子町の春日向山古墳(長辺66メートル)や、蘇我馬子(?〜626)の墓とされる奈良県明日香村の石舞台古墳(一辺約50メートル)などを上回る。
小山田古墳の被葬者像を巡って…
(残り:544文字/全文:1166文字)
朝日新聞デジタル 2019年1月31日19時16分
https://www.asahi.com/articles/ASM1X6KNPM1XPOMB015.html
明日香村にある飛鳥時代の古墳のひとつで、四角い形が特徴の「方墳」が国内最大の規模があったとみられることが、奈良県立橿原考古学研究所の調査でわかりました。
舒明天皇や蘇我蝦夷といった、当時、権勢を誇った人物の墓という見方があり、今後の研究が注目されます。
調査が行われたのは、明日香村にある「小山田古墳」です。
7世紀中頃の飛鳥時代に造られた四角い形が特徴の「方墳」で、これまで1辺の長さがおよそ70メートルとみられていました。
今回、橿原考古学研究所が古墳の外側の発掘調査を行ったところ、北から南にかけて広がっていて、大きいところでは幅が80メートル以上あることがわかったということです。
これまで、飛鳥時代で国内最大の方墳とされてきたのは、幅がおよそ78メートルある千葉県の「龍角寺岩屋古墳」で、橿原考古学研究所は今回の調査で、「小山田古墳」が「龍角寺岩屋古墳」を超えて最大の規模があったとみられるとしています。
研究者の間では、天智天皇の父親、舒明天皇や蘇我蝦夷など、当時、権勢を誇った人物の墓という見方があり、今後の研究が注目されます。
橿原考古学研究所の鈴木一議主任研究員は、「古墳の規模は当時の最高権力者が葬られたことを裏づけるものではないか」と話しています。
【古墳の被葬者は】
小山田古墳に葬られた人物について、専門家は、古墳が造られた7世紀中頃の飛鳥時代に強大な権力を持っていた天皇や豪族の名前をあげています。
その1人が天智天皇や天武天皇の父親で641年に亡くなったとされる舒明天皇です。
東京学芸大学の木下正史名誉教授は、「舒明天皇は大寺院の百済大寺を造るなど、天皇としての権威を高める政治を行っていて、強大な権力を持っていた。そうした政治的背景を踏まえると、舒明天皇の可能性がある」と話しています。
一方、絶大な権力を誇った豪族で645年に自害したとされる蘇我蝦夷が葬られたとみる専門家もいます。
大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎名誉館長は、「古墳は蘇我蝦夷と入鹿親子の邸宅があった本拠地、『甘樫丘』のすぐ近くにある。また同じ時期か、あるいは少し前の畿内にある王の墓より大きなものであることからも、当時、権勢を誇った蝦夷が生前に築いたとされる墓と一致するのではないか」と話しています。
NHKニュース 01月31日 17時48分
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/20190131/2050001820.html 蝦夷の墓として作られたが暗殺されたため破棄されたんだよ 蘇我氏の名前って好きこのんで付けるような名前じゃないよね?
馬子、蝦夷、入鹿
本当の名前は別にあったりして? 蘇我氏の古墳でしょ。甘樫丘に邸宅があって墓も作ってたらしいし。 舒明天皇は、改葬されてるのか
大したもの出てこないかも >>11
この当時は天皇が勝手に決めることもあったみたい。
天皇「お前は明日から馬子を名乗れ。」って。 記紀はフィクションだから蘇我氏なんておらんかしれん
中国の遣隋使の記録には聖徳太子も推古天皇も出てこない
遣隋使や冠位十二階はタリシヒコという男王の功績という記録ならある
でもタリシヒコの治める地には阿蘇山とかいう火を吹く山があるらしいからわけわからん 乙巳の変の時の蝦夷は60歳くらいだったと思われ
生前から墓を用意してたかも 四世紀後半からの「三韓征伐」で半島勢力と変なつながりが出来て、
その中から生まれたのが曽我氏らしい。
だが、半島系じゃなくて支那系だったかもしれんな。
方墳というのは、始皇帝陵とか支那系だよね。 蘇我氏は天武天皇が作り出した架空の存在だろうね
記紀以前の話はすべて妄想だよ
いわゆる勝者の記録 馬子?の石舞台古墳も方墳で小山田古墳とほぼおなじ大きさ
ちょっとだけ小山田古墳の方が大きいか 昭和の頃に中臣鎌足と思われるミイラが見つかったときは警察総動員で古墳を包囲してあわてて埋め直したんだよね
見つかるとやばいものがあったって話よ >天皇か蘇我氏か
あの時代、蘇我氏が天下を取ってたのだから蘇我氏が大王家 >>11
中臣氏
可多能祜(かたのこ)、御食子(みけこ)、鎌足の最初の名は鎌子(かまこ)
物部氏
荒山(あらやま)、尾輿(おこし)、守屋(もりや) >>1
南北朝鮮人の卑劣さは、チョンポップの人気偽装の手口にあらわれている。
サクラの在日朝鮮人を観客役として大量動員した人気偽装コンサート、
日本人になりすました人気偽装カキコミ
パンストを被ったような朝鮮顔の過剰整形・厚化粧
ユーチューブの再生連打、「いいね!」連打は、
朝鮮人がいつもやっている汚い手口だからな。
韓流アピールしてる人のほとんどが在日朝鮮人だってことはバレているから。
だいぶ以前から在日企業や在日学生、在日系メディアを総動員した人気偽装をやっている。
【韓流】やはり、K−POPチケットを買っていたのは日本人ではなく在日朝鮮人たちだった[2012/7/6]
https://www.google.co.jp/amp/s/gamp.ameblo.jp/205102/entry-11296191264.html
. 推古までと舒明からで古墳の作りが大きく変わってると言われてるね
古事記も推古まで >>38
前方後円墳は6世紀半ばで終わり。
飛鳥時代の天皇陵は方墳、後に八角墳になる >>38
この時代に前方後円墳なんてもんはないし方墳は渡来系の特徴であり蘇我氏の象徴と言うべき墳墓 >>41
まあ日本のこの時代の(主に文献)史学者は
蘇我氏は渡来系とはまだ認めてない人が多いけどね
ただ土器や古墳からみるに、流石に「渡来人とよく交流してた豪族」
で済ませるのはちょっとな‥‥
「聖徳太子→厩戸王子」みたいに、今後は書き換えられるかもね >>21
タリシヒコって統治者って意味だからね
アマノタリシヒコは天皇の古い呼び方
蘇我氏=天皇 >>21
記紀はフィクションだけどそれは天武や不比等が自分を正当化した部分だよね
天智や天武以前の日本の統治者で天皇だったのは物部氏や蘇我氏だよ >>11
蘇我氏が滅亡した後に
勝者が貶めるために動物の漢字を当てた説と
別の名前を持っていた説があるね
中国も随の煬帝とか良い意味の無い名前を
血縁の唐が後から付けたし
同時期の日本も同じような文化だった可能性も 蘇我氏の時代までチーズとか乳製品作ってたけどいつのまにか無くなった >>30
阿武山古墳ね。アブサンなんて、鎌足は飲んべえだったのかと思ったらアブヤマでやんの。 >>50
赤兄が壬申の乱で没落するまでは十分有力豪族だしな。
物部氏も大友皇子の首を手土産に物部麻呂が復活したし。 明治マセソン商会維新150年と孝明天皇睦仁親王と田布施システム >>11
馬子に入鹿って、合わせて「馬鹿」だからな 蘇我氏の居宅があったという甘樫の丘のすぐ隣だからな
これはきっと出るよ >>11
当時の感覚なら何も不思議はない。蝦夷も今の鬼的な扱いで他にも多数いる
鹿は神の使い。馬は大陸の武の象徴 梅原猛がくたばったから発表したなw
〜としか考えられない!とヨタ説言い出すからなー 蘇我氏はなぜ自分らの祖先に韓子とか高麗とか渡来人を疑われるような名前を付けたのだろうか?
当時はそちらの方が進んでいたので憧れでつけたのであろうか? 蘇我氏が歴史書まで燃やしたせいで、日本の古代の貴重な資料が失われた。 >>30
レントゲン撮ってるよ
弓道の鍛錬による肘の骨の変形(大化改新では弓をとって中大兄皇子に従った)
高速で走っていて地面に叩き付けられたと思しき骨折(落馬)など
歴史記述を裏付ける状況 今の日本史は天武天皇によるでっちあげだよね
中国の記録と整合性がとれない
卑弥呼も倭の五王もアマノタリシヒコも記紀には出てこない 遣隋使や冠位十二階は随の記録にもちゃんと残っている
ただし蘇我氏や推古天皇や聖徳太子の名前はいっさい出てこない
そこに出てくるのはまったくの別人よ >>44
それらは少なくとも天皇陵ではないということ >>47
継体天皇以降の皇統を疑っている歴史学者はいない 蘇我が天皇だった説は昔からあった
遺伝子検査すればいいのに、宮内庁の妨害がいつも入る 継体天皇って越前の王だよね
たしか腹心のアラコって人が朝鮮人であると記紀に明記されてるね
あっ(冊子) 入鹿のために生前から作っていた古墳だろうな
大化の改新の後、潰されたと
大化の改新後は蘇我本家は逆臣とされたので、馬子の墓=石舞台古墳ももともとあった土盛りを剥がされた >>21
まあ、勝った側に都合のいいことしか書いてないわな。
民間伝承では判官贔屓とか出てくるわけだが。 >>69
その頃朝鮮が存在したとは、歴史的発見ですな。 継体天皇って越前の王だよね
たしか腹心のアラコって人が朝鮮人であると記紀に明記されてるね
神功皇后が新羅征伐した時、新羅が奴隷として差し出した馬飼いの子孫 奈良は外部勢力による畿内統治の拠点やからな
謎が多いわ
大阪側と大分違う歴史的背景があるかもしれん 隋書を調べてみたら
倭国の王は邪靡堆(=邪馬台?)という都に住み阿蘇山とかいう火を吹く不可思議な山があるという
うーむ、畿内に火山は無いんだよなぁ 東京が首都だから、歴史も東京や千葉県でおきたイメージ
千葉に蘇我氏が暮らして東京で大化の改新みたいに >>75
神宮皇后は卑弥呼をモデルにした架空の人物で
新羅征伐も白村江の戦いを元にした架空の出来事だろ
そんな人物も遠征も無かった >>66
蘇我系の天皇は方墳
吉備系の天皇は円墳
みたいな感じか >>80
まず阿蘇というのは今でいう阿蘇山の事ではなく一般的な火山の事。
(アイヌ語でも燃える事をアソと言う)
そもそも隋書が書かれた7世紀に阿蘇山の活動などない。
また隋書の阿蘇山の記録は以下の通り。
死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。
貴人の場合、三年間は外で殯(かりもがり=埋葬前に棺桶に安置する)し、庶人は日を占って埋葬する。
葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。
阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。
如意宝珠があり、その色は青く、?卵のような大きさで、夜には光り、魚の眼の精霊だという。
新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。
…どこにも祁馬臺國の首都が阿蘇山の近くだなどという記述はない。
そもそも対馬を経由して九州北部に上陸してから
各地で見聞きしたものを乱雑に書いた書物にすぎないので
阿蘇山と祁馬臺國の首都の位置を結びつけるには無理がありすぎる。 方墳って半島由来じゃん
蘇我氏はやはり渡来人なのかね >>75
河内馬飼首荒籠(あらこ)が朝鮮半島系というのは、お前の妄想だねえ 古墳とか墳丘墓自体が渡来人の文化だから
蘇我氏以外も全部朝鮮とか中国になっちゃう >>91
墳丘墓が渡来じゃなくて
そう思いたいおたくが渡来なんだろうね 四大王時代とかの頃だと今の天皇家と同等の皇が4家あったわけで、
その中でも方墳だったり円墳だったり流行りでやってたからね。
東方や出雲の別王朝の可能性もあるしで、まあ記録ない国は想像しかできない。 >>92
倭人みずから呉の子孫だって言ってるんだからしょうがねーだろ >>94
と書いているのはシナの史書な
シナの中華思想から来た記述だろうな
それを信じるのはあんたが渡来系だからだろうなあ
日本人の祖先はイザナミイザナギです >>87
阿蘇山に決まってるだろ
山がついてるんだから
乱雑って何を見ていってる >>83
どちらも架空とは限らない
おかしな奴がいるもんだな 何か神話はダメちゃんが居るみたい
キリストも実在じゃないんだろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています