交通事故で重い後遺症を負った被害者の救済事業に充てられる自動車損害賠償責任(自賠責)保険の運用益が、国の一般会計に繰り入れられたままになっている問題で、財務省は一部を本来の国土交通省の特別会計(特会)に返還する動きを2018年度から進めている。消極的だった財務省に方針転換を促し、15年ぶりの返還再開を実現させたのは「救済事業を後退させてはいけない」という介護家族の危機感だった。【江刺正嘉】

 「あっちゃん、気持ちいいか」。大阪府交野市の桑山雄次さん(62)と妻晶子(あきこ)さん(58)が、交通事故の脳外傷で寝たきりの次男敦至(あつし)さん(31)をベッドから起こし、背中を伸ばしてやると、敦至さんの表情が緩んだ。息子の呼び名は事故があった小学2年の時のままだ。「うれしいと、いい顔になります」。夫婦は言葉を発することができない息子の気持ちを表情の変化で読み取る。

 1995年、自宅近くの道路を横断中に乗用車にはねられ、自力で動けず意思疎通も困難な最重度の遷延(せんえん)性意識障害になった。治療やリハビリに期待したが、回復せず、96年12月から在宅介護を始めた。

 雄次さんは高校教師、晶子さんも高校の事務職員として働いていたが、介護の負担は想像を超えていた。仕事との両立が難しくなり、晶子さんは99年、雄次さんも06年に退職した。雄次さんは趣味の山登りもやめた。「平凡な家庭でも子どもが元気に育てばいい」という人生設計は一転した。

 敦至さんは養護学校への転入を勧められたが、夫婦は「なじみの友達がいたほうが刺激になる」と考え、元の小学校に通わせた。旅行や地域行事にも積極的に連れ出すうち、敦至さんは少しずつ笑顔を見せるようになった。

 異変にすぐ気づくように、夫婦は息子のベッドのそばで寝る。たん吸引やおむつ交換、胃ろうでの水分補給があり、事故以来、熟睡できたことはない。介護のことが24時間頭から離れない生活が20年以上も続いている。

 雄次さんは04年、各地の介護家族に呼び掛け、「全国遷延性意識障害者・家族の会」を結成し、代表になった。それまで全国組織はなく、介護に追われる家族は施策の充実を行政に訴えるすべがなかった。雄次さんは約300の会員家族の思いを背負い、国交省や厚生労働省に陳情を重ねてきた。

 国交省所管の独立行政法人「自動車事故対策機構」が最重度の後遺症患者の治療のために運営する専門病院は、会発足前は全国に4カ所しかなかったが、雄次さんらの粘り強い要望で、現在では10カ所まで増えた。

■「親なき後」への対策強化も訴え

 親の高齢化などで、障害を負った子の介護が困難になる「親なき後」への対策強化も訴えてきた。雄次さんには「誰でも直面する可能性がある問題」との危機感がある。国交省は18年度から、交通事故の患者が入居するグループホームなどに職員の人件費などを補助する制度を始めた。

 救命医療の進歩で交通事故の死者は減っているが、重度後遺障害者は毎年新たに1700人程度が認定され、横ばい傾向が続く。自賠責運用益の未返還問題で、雄次さんは自動車関連団体の代表者らとともに麻生太郎財務相に面会し、支援策の強化を訴えた。その結果、運用益返還は来年度も継続され、増額されることになった。

 一人の親として、患者家族会の代表として、雄次さんは次世代への重い責任を感じている。「再生医療の進展などで脳の治療ももっと良くなっていくだろう。敦至の人生の『復活戦』を後押しするためにも活動は一生続けたい」。専門病院やグループホームの拡充、自賠責運用益の返還を求める訴えは続く。

■約6100億円が未返還

 運用益未返還問題 旧大蔵省が財政難を理由に1994〜95年度、旧運輸省所管の特別会計にあった運用益の中から約1兆1200億円を一般会計に繰り入れたのが発端。一部を除いて先送りが続き、約6100億円が返還されていない。国土交通省は特会に残った運用益を毎年約100億円ずつ取り崩して事業費に充てている。運用益の残高は1700億円台まで減少。被害者家族らが「十数年で底を突く」と訴え、財務省は2018年度に約23億円を特会に戻した。返還は03年度以来。19年度の予算編成でも約37億円の返還を決めた。

毎日新聞2019年2月11日 09時00分(最終更新 2月11日 09時01分)
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