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【人権】「士農工商は当然書いてある」「被差別民であったとか調べればわかる」 明治時代の“壬申戸籍”出品、問題点は?回収のワケ★2
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0001樽悶 ★
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2019/02/17(日) 03:44:49.77ID:I7cQAnAg9
https://lpt.c.yimg.jp/amd/20190215-00000079-nnn-000-thumb.jpg

明治時代の戸籍が、インターネットオークションに出品・落札され、その後、法務省が回収していたことがわかった。現在は閲覧が禁止されている明治時代の戸籍。いったい何が書かれているのか。

    ◇

15日、山下法相の会見ででた、聞き慣れない言葉。

山下法相「インターネットオークションサイトにおいて壬申(じんしん)戸籍と思われるものが出品され、法務局で回収している例がございます」

壬申戸籍という戸籍がネットオークションに出品されていたことが問題だとして回収したという。いったい「壬申戸籍」とは何のことなのだろうか。

    ◇

壬申戸籍とは、明治時代に戸籍法が制定されたことによって明治5年から編製された初めての全国的な戸籍のこと。この年の干支が壬申だったため、音読みの方をとって壬申戸籍と呼ばれるようになった。しかし初めての戸籍制度だったため、多くの問題点が指摘されている。

戸籍に詳しい専門家は―。

稲垣法律事務所・稲垣總一郎弁護士「初めの戸籍謄本なので、色々なことが書いてある。例えば士農工商は当然書いてあると思うが、今の差別につながるような被差別民であったとか、調べればわかる場合もでてくる」

一部の壬申戸籍に当時の身分や犯罪歴などの記載があったため、1968年、法務省は差別につながる恐れがあるとして壬申戸籍を封印するよう全国の市町村に伝達。

現在は法務局や市区町村が厳重に保管していて、戸籍に記載されている人物の子孫や職員でも閲覧することはできない。

    ◇

しかし今回、その壬申戸籍とみられる文書が先月31日、インターネットオークションサイト「ヤフオク!」に出品されていた。ヤフーの担当者によると、文書には「明治戸籍」と書かれていて90件以上の入札があったという。そして今月7日、13万3000円で落札されたが、翌日にはヤフー側が「不適切な出品」と判断し、売買不成立とした。

法務省によると、閲覧禁止になる前に取り寄せたものを「持っている」こと自体は問題ないという壬申戸籍。今回の問題点は何なのだろうか?

調査研究の過程で「明治8年の壬申戸籍」を譲り受けたという専門家は―。

家系図に詳しい・萩本勝紀行政書士「私は調査研究でこういう仕事をしているので、こういう戸籍が欲しいんですね」「問題は持ってる人がどう使うかという目的を売るときにわかりませんでしょ、(ネット)オークションだと」

当時の身分などが記載されているため、身辺調査などに利用される恐れがあるという。

今回出品された壬申戸籍は、その後、出品者が静岡地方法務局に無償で提出。現在は厳重に保管されているという。ヤフーは今後、同様の出品があった場合は、法務省と連携して回収していきたいとコメントしている。

2/15(金) 18:02配信
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20190215-00000079-nnn-soci

★1:2019/02/16(土) 23:09:18.77
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1550326158/
0602名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:23:28.22ID:6UDm+Whc0
>>555
鬼伝説は平安時代に集中してるね
温羅は一説では新羅人ともいう
吉備氏のように新羅と結託して乱を起こそとした豪族もいたらしい
0603名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:23:45.12ID:TTEoHEwB0
現在も続く特権の数々。本当はカネに関してはウハウハなんだぜ。税務署に名簿渡すべきだな。
0604名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:24:22.23ID:ioFctEXO0
>>780 >>781 >>782 >>783 >>784 >>785 >>786

世界大百科事典 第2版の解説
あぐちのはんがん【安口の判官】
古浄瑠璃の曲名。1637年(寛永14)刊。山本九兵衛板。六段。大夫の所属不明。《鸚鵡ヶ杣(おうむがそま)》
の序に5部の本節の一つとある。筑前国安口判官の上京中,留守を預かる家老兵部太夫が主家横領をたくらむが,
結局失敗に終わる。兵部の三男の三郎が父への孝と主への忠に悩みながらも内報し,御台と若君が逃れて人買い船に
乗り危機となるが,その人買いが旧臣であることが判明し,母子を救いやがて復讐をとげる。先行の《鎌田》《三荘太夫》と同工の部分がある。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について
0605名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:24:31.79ID:9Y9aq6ar0
坊主の存在が謎だよな
真宗以外は妻帯禁止で世襲なんかなかったのに
今の寺を世襲している連中はどうやって寺を手に入れたのだろうか
0606!id:ignore
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2019/02/17(日) 06:24:35.36ID:KkYlHDCb0
差別のない国などどこにも存在しない
存在するものをどうするかを考えないで
存在しないことにする日本方式は
みんなが損するだけで合理的じゃない
0607名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:24:55.75ID:2+gI4Faq0
>>569
天皇は縄文系海人だ
記紀よめ
ハヤトの血が入って海神のラスボス族と婚姻結んで人代に突入してるな
0608名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:25:20.54ID:4PWK7agl0
きたー
人食いレプタリアンの真相。
0609名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:25:27.90ID:Oy/Y1w5s0
>>603
税金取られたとしても返還されるので・・・
金持ちだぜほんと
0610名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:26:03.71ID:9Y9aq6ar0
武士なんかそれだけで食べていけないから
半農が多かっただろうに
0611名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:26:23.01ID:2+gI4Faq0
>>602
ウラは百済だ
吉備の反乱は寝取られたからだな
0612名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:26:27.41ID:deiUuGq00
>>601
そんなたらればのことなんか話してないが
今はたぶん住んでませんよとしか言ってないけど
0613!id:ignore
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2019/02/17(日) 06:26:47.69ID:KkYlHDCb0
欧米の学問で思考停止してる今の大学教授と同じで
中国の本読んで思考停止してたんだろ
0614名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:26:51.01ID:ioFctEXO0
>>790 >>791 >>792 >>793 >>794 >>795 >>796

明治天皇は儒教的専制君主となるよう積極的に動いていた時期があった(大久保の暗殺後に政治空白が生まれ宮中での天皇親政運動が強まる)
明治天皇とその側近である侍補グループの天皇親政運動は五箇条の御誓文や維新革命後の政治体制に反する存在となった為に伊藤博文が介入した。最終的に軍の支持を受けた伊藤
の封殺案に抵抗する術はなく、侍補は廃された。宮中グループはその後も教学聖旨によって儒教君主化を企んだが伊藤博文はこれも頓挫させた

「〔明治13年〕11月3日(東京)天皇誕生日。この国の人民がその君主に寄せる関心の程度が低い有様をみることは情けない。
警察の力で,家々に国旗を立てさせねばならないのだ。自発的にやるものは、ごく少数だろう」(エルヴィン・フォン・ベルツの日記より)

憲法の制定後は明治天皇の権力はさらに制限され、親政の希望は失われたが、伊藤博文は傀儡となった天皇の権威を最大限利用すべく動き
最終的には西欧におけるキリスト教の役割となることを期待し、操り人形の前提で天皇崇拝を強化した
明治天皇の信任が厚かった宮中グループも、朝鮮朱子学による天皇儒教権威の強化、儒教的・絶対的な天皇中心主義が教育勅語に組み入れられたことで満足(侍補達の権威アップ)し、その後はおとなしくなった

https ://ja.wikipedia.org/wiki/明治天皇
若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者・元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。

教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命されたことには不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省
の顧問として御用掛に任命されることを知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2か月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/機務六条
宮中側は明治天皇が儒教に基づいた東洋的な専制君主として「天皇親政」を行うべきであると主張し、明治天皇への帝王教育もその路線で行ってきた。これは将来的には天皇を西洋的な立憲君主として近代国家の中枢に据えようとす
る太政官の方針と矛盾したものであった。このため、岩倉や伊藤らは侍補を廃止して親政路線を停止しようと図ったが、明治天皇自身が元田永孚・佐々木高行ら侍補に心を寄せて彼らを私的なブレーンとして遇し、彼らが期待する君主像を実現させようと試みた。

1879年(明治12年)3月10日、明治天皇が「勤倹の聖旨」を公布して政府の財政路線を批判し、続いて元田に「教学聖旨」を執筆させて教育政策を批判した。伊藤らは天皇と宮中側の関係を改めさせようとしたが、急速に立憲制が確立することで
公家出身の門地に依存してきた自分の地位が危うくなることを危惧した三条や岩倉は、元田や佐々木らの宮中側勢力を完全に抑えることには消極的で、大隈財政末期の外債発行問題などでは宮中側と連携して太政官側を動かそうとする動きも見せたのである。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤博文
お雇い外国人であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤が会議の席上、半ば有栖川宮威仁親王の方を向き、「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。
生まれるが早いか、到るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたことを紹介している。
0615名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:27:07.87ID:eAXP01Au0
今回のことでは、時事通信社がオークションを注視しており、ヤフーに連絡をした──というのがびっくりした。
0616名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:27:25.16ID:MKOfBSxh0
恐らく部落解放同盟の関係者が注目させたいが為に故意に出品したのだろう
0617名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:27:35.51ID:8pSpxpyX0
>>569
天皇 遺伝子で検索してみて
0618名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:27:44.62ID:NCpoqDVR0
>>518
出自が怪しくて仮冒って言われてるのが何党かあるけど
新羅人だってわかってる党はない

九州、中国地方に元寇の時にかなり散ってるんだよね
支配層の家臣としてね
0620名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:28:12.98ID:ioFctEXO0
>>900 >>901 >>902 >>903 >>904 >>905 >>906

>天保の改革最中の天保13年(1842年)9月の御触書には「百姓の余技として、町人の商売を始めてはならない」

地下請、村請けは荘園制度の名残り

https://ja.wikipedia.org/wiki/地下請
地下請(じげうけ)とは、中世日本の村落が、荘園・公領への年貢徴収を領主から請け負っていた制度。惣村請(そうそんうけ)、百姓請(ひゃくしょううけ)ともいう。

地下請を行う惣村は、毎年一定額の年貢を領主へ納入した。領主側から見れば、自らが年貢徴収を行う場合と比べて、
凶作時のリスクを回避し、また徴収に係るコストを軽減することができ、大きな利点があると言えた。地下請の実施は、
被支配者からなる惣村が、支配者の信頼を得るまでに至っていたことを意味する。そのため、惣村は支配者の信頼に応えるため、
惣内部で年貢の割り当てを行い、割り当てを満たすことのできない構成員には惣掟で罰則(財産没収など)を設けるなど、
年貢納入の確実な履行に努めていた。

地下請は、室町期から安土桃山期まで継続し、江戸期の村請へと継承されていった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/太閤検地
土地の権利関係
戦国時代の日本では、個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、農民たちは「村(惣村)」という団体として領主に年貢を
納めることがほとんどであった(地下請)。この体制では1つの村が複数の領主に年貢を納めていたり、農民が有力農民に年貢を納め、
そこからさらに領主に年貢が納められるといった複雑な権利関係が存在した。

太閤検地ではこういった権利関係を整理し、ひとつの土地にひとりの耕作者=納税者を定めようとしたが、帳簿の上ではそうなっても、
実際には依然として農村内で様々な権利関係が存在しており、領主に提出するものとは別に、村内向けのより実態に近い帳簿が作成されていた[2]。
0621名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:28:18.40ID:Oy/Y1w5s0
>>610
武士はどーでもいいよどこの藩だか江戸だ知らんが
下の方は藩によって身分があいまいだからな。
基本農民だろwww
0622名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:28:35.56ID:2+gI4Faq0
>>591
江原かどこかで縄文遺物でも出たのか?
出鱈目はやめろ
新羅と縄文などまるで関係ない
0623名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:28:38.77ID:BoWJc3zZ0
>>540
新羅人はそもそもパルティア出身が大半ですよ?仏教を持って来たのはこいつら

百済系は呉人だから海洋系民族だし結構繋がる話だったりする平氏の起源はこの辺かもな
0625名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:28:47.40ID:NCpoqDVR0
>>569
狩猟では階層は出来にくいが
貿易では階層が出来ることがわかってる
0626名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:29:28.72ID:ioFctEXO0
>>910 >>911 >>912 >>913 >>914 >>915 >>916

https://ja.wikipedia.org/wiki/検地
また、太閤検地が画期的なのは、土地の所有者ではなく、耕作者を調査し、耕作者に課税したことである。
これにより、土地に対して重層的にあった中世的な中間権利である様々な職が否定され、耕作者は直接領主に
納税することとなり、農村にいた中間搾取者としての武士はほぼ一掃されることとなった。そして、奈良時代
より続いた荘園制も全廃されることとなった。

続く江戸時代は、農業技術の進歩と新田開発の進展、幕府や藩の財政悪化などによりたびたび検地が行われた。
江戸時代の検地は農村内の様々な権利関係を否定し、実態に近い帳簿が幕府ならびに藩に提出されたため、
農民支配の一本化につながった。検地により農民への課税は重くなる傾向が強いため、農民も一揆などでそれを
阻止しようと試みることもあった。

明治政府は、農業収入に課税する年貢制を廃止し、地価に課税する地租制を導入した(地租改正)。これにより、
制度として検地は廃止された。
0628名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:29:31.83ID:N+y6ZZZy0
φ(-_-;)y-~
インティ来ると思う。
インティ、サンライズソア、サクセスエナジーのワイドと枠連。
0629!id:ignore
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2019/02/17(日) 06:29:48.88ID:KkYlHDCb0
天皇と幕府の二重構造が好ましいが
今は厚木幕府で植民地なんだよな
日本人の幕府はいつになった成立するんだ
0630名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:30:22.13ID:9GBrLNhe0
明治時代の戸籍を持っているが
身分制度と言ってもどうにでもなったことがよくわかる。
0631名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:30:31.29ID:ioFctEXO0
>>920 >>921 >>922 >>923 >>924 >>925 >>926

近世の検地は税収を下げないために大名が必死だったから、農民が他の職業に移るのは難しかったはずだ

https://ja.wikipedia.org/wiki/元禄検地
田畑の位付けを細分化し、名請人は小農や小作百姓も検地帳に登録、隠田を摘発し、開墾可能な土地は山林や原野、
荒れ地や湖沼地帯をも検地して、台帳に記入して石盛を高めるという方法で行った。武蔵国世田谷の村々では石盛
が2-3倍に増加するなど[1]検地は峻烈なものであったが、生産技術が進歩したことによる生産量の増加が石高の大幅
な上昇をもたらしたのであった。
0632名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:30:31.43ID:6UDm+Whc0
>>611
はっきりしてないよ
ただ、新羅人は日本と敵対してた
その後に日本で暴れた事実もある
0633名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:30:32.45ID:9Y9aq6ar0
>>621
萩なんか有名だけど
ほとんど郷に戻っていて出仕しなければならない時だけ
仕方がなく出仕していたって感じだよな
0634名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:31:14.67ID:ioFctEXO0
>>930 >>931 >>932 >>933 >>934 >>935 >>936

https://ja.wikipedia.org/wiki/検地帳
検地帳は同一内容のものが2冊作成され、検地役人と村役人がそれぞれに連署して全ての綴じ目に奉行の
割印を押印した上で領主側と村方に1冊ずつ保管した。名請人の記載方法には大きく分けて2つあり、単純
に年貢・諸役の負担義務者を記したものと「○分(○家抱)・×作」と併記して負担義務者と実際の耕作者
に分けて記したものがある。名請人として記載された者は土地の保有者として認められる一方で、その土地
に緊縛されることになる。後者は実際の耕作者名を記載することで所有するだけで耕作を行わない地主層へ
の牽制の意味も含まれていた。これは逆に考えれば、当時の村内部で重層的な階層が形成されていたことを
示しているとみることも可能である。
0635名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:31:57.82ID:ioFctEXO0
>>940 >>941 >>942 >>943 >>944 >>945 >>946

https://ja.wikipedia.org/wiki/上下定分の理

その羅山が打ち出したのが「上下定分の理」である。羅山は寛永6年(1629年)に著し
た自著『春鑑抄』[注釈 4]において、「天は尊く地は卑し、天は高く地は低し。上下差別
あるごとく、人にも又君は尊く、臣は卑しきぞ」と記している。

羅山によれば、天が上にあり、地が下にあることは時代の転変いかんによらない絶対不変
の天理なのであり、それは君臣、父子、夫婦、兄弟などあらゆる人間社会の上下関係[注釈 5]
をも貫くものである。そして、士農工商の身分秩序もまた、天理によるものであるから不変不滅
なものである、と述べる[1]。朱子学の理気説にあっては、「理」とは本来万物のなかに存在し、
万物を存在たらしめる根源・原理である[4]。したがって、それは人間社会のなかにもあって、
人間関係を秩序づける原理・法則として機能する、と羅山はとらえたのである[4]。

そして羅山は、上述の『春鑑抄』において、国をよく治めるためには「序」(秩序・序列)を
保つため、「敬」(つつしみあざむかない心)と、その具体的な現れである「礼」(礼儀・法度)
が重要視されるべき、と説き、とくに身分に対して持敬(心のなかに「敬」を持ち続けること)
を強調した(存心持敬)。羅山は、宇宙の原理である理をきわめれば、内に敬、外には礼とし
て現れると説き、敬と礼が人倫の基本であり、理と心の一体化を説いたのである(居敬窮理)[2][注釈 6]。

林羅山は、江戸幕府の徳川家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕え、その侍講として儒書や
史書を講じて幕政にも深くかかわった。その活躍は、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』など
の伝記・歴史の編纂、「武家諸法度」「諸士法度」などの撰定、外交文書の起草、朝鮮通信使の
応接など多岐にわたっている[5][注釈 7]。また、かれの努力によって朱子学は幕府の「正学」
[注釈 8]とされ、かれの子孫は林家として代々朱子学を講ずる家としてつづいた[3][注釈 9]。
0636名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:32:46.68ID:EAopWTRM0
どれくらいの数が発行されたのか、あと回収率はどの程度なんだろう?
こういう形で変に話題になっちゃうと欲掻いて隠しておこうと思う者もいるかも知れん
0637名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:33:05.37ID:6UDm+Whc0
>>616
それな
新たな同和対策が始まったからな
盛り上げないとね
0638名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:33:16.83ID:2+gI4Faq0
>>632
雄略天皇はいろいろと強引なスメラノミコトだったが政教分離はすばらしかった
それに長けた奈良盆地の南東部勢力を弱めようとしていたのだ
0639名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:33:20.83ID:BoWJc3zZ0
>>602
いやそもそも百済の皇族が新羅本国に人質として送り込まれて政略結婚をしてその子孫が日本に帰って来たりしてるんだよね!

ちなみに昔の中国の伝統は今の苗字とされる物が母方から継承される様になっているんだよ?

今の父方由来じゃ無いんだよ。
0640名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:33:21.68ID:ioFctEXO0
>>950 >>951 >>952 >>953 >>954 >>955 >>956

https://ja.wikipedia.org/wiki/上下定分の理

なお、ベルギー出身の歴史学者ヘルマン・オームスは、その著書のなかで、「上下定分の理」において語られる
「名分」こそが徳川幕藩体制の原理と合致した「徳川イデオロギー」と称されるべきイデオロギーなのであり、
その最も重要な部分を用意したのは、むしろ朱子学者であると同時に垂加神道の創始者としても知られる山崎闇斎であったと指摘している[5]。
0641名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:33:55.49ID:vFKA5y3g0
兵農分離
0642名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:33:56.95ID:ioFctEXO0
>>960 >>961 >>962 >>963 >>964 >>965 >>966

士・農工商・穢多非人(読み)しのうこうしょうえたひにん
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
https://kotobank.jp/word/士・農工商・穢多非人-1542795
農民
武士身分の下に平民身分として農工商があった。農民を上位としたのは儒者の思想上のことであって、実際は農工商は並列した身分的存在であった。
通常農民身分で特定条件を備えている者は百姓とよばれ、年貢負担者として、平民身分のなかで武士からもっとも厳しい支配・統制を受けた。農民
の場合も身分内部の身分的差異は甚だしく、名主(なぬし)(地方により庄屋(しょうや)、肝煎(きもいり)などと称した)、組頭(くみがしら)、百姓代
(ひゃくしょうだい)の地方三役(じかたさんやく)(村方三役(むらかたさんやく))をはじめとする石高所持者の本百姓(ほんびゃくしょう)は一人前の農民
であったが、無高の水呑(みずのみ)百姓は村寄合(むらよりあい)に参加する権利がなかった。水呑百姓の下には、地方により、有力な本百姓に隷属し、
独立した生計を営めない名子(なご)、門屋(かどや)、家抱(けほう)、被官(ひかん)などとよばれる農民があり、さらに隷属性の強い譜代(地方によって
は庭子(にわこ)、買子(かいこ)と称した)も存在した。無高の水呑百姓以下は厳密には百姓ではない。士農工商の農民イコール百姓ではないのである。
美濃(みの)(岐阜県)大垣藩では、庇(ひさし)・濡縁(ぬれえん)・破風板(はふいた)・釣天井(つりてんじょう)および3尺以上の座敷口の造作、
衛門・兵衛・太郎・太夫(たゆう)のついた命名は頭(かしら)百姓(本百姓)には許されたが、下(しも)百姓(水呑百姓)には許されなかった。また、
下百姓は頭百姓の宅内へ履き物を履いて入ることも認められなかった。[成澤榮壽]
0643名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:34:12.90ID:9Y9aq6ar0
江戸時代は知的な肩書と知名度の方が遥かに大事だったよな
歌人、漢学者、連歌師、医者、役者とか
評判・名声の方が重要視されていたよな
0644名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:34:50.22ID:8pSpxpyX0
天皇家、足利家、新田家、佐竹家、安倍家、武田家
それぞれの末裔には同じ縄文系遺伝子がありましたとさ
0645名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:35:21.36ID:lH8jsNip0
>>610
ξ´・ω・`ξ 帰化チョン家系が喚く所の賤業を副職にしてて、代表的な副業が"御狩場"。
鶴や猪なんかを狩って、商人に転職した元武士の親友に買ってもらったりとか。
養鶏や盆栽、金魚を育てて売ったりとかの賤業の方が、ま〜やっぱ何時の世も手堅いかんねぇ。
0646名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:35:30.83ID:vFKA5y3g0
農業系武士の代表が鎌倉幕府の御家人たち。
商業系武士の代表としては鉱山経営者であり運輸業者であったといわれる楠木正成等。
0647名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:35:40.10ID:ioFctEXO0
>>967 >>968 >>969 >>977 >>978 >>979 >>987

士・農工商・穢多非人(読み)しのうこうしょうえたひにん
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
https://kotobank.jp/word/士・農工商・穢多非人-1542795
武士
武士は支配身分として武力を独占し、政務に携わり、特権を享受したが、この身分内部における身分的構成は複雑多岐にわたり、
差別的な規制は厳格であった。たとえば、同じ大名であっても、御三家(ごさんけ)および金沢の前田家、大身外様(たいしんとざま)、
家門(かもん)・門閥譜代(もんばつふだい)、譜代城持格(しろもちかく)以上、中堅譜代、小身(しょうしん)外様、小身譜代によって
江戸城中の詰所(つめしょ)の格式を異にした。

 家臣団については、たとえば広島藩では、1868年(慶応4)、最上位の長柄(ながえ)以上の者は100人で、家老以下、年寄、
番頭(ばんがしら)、寄合、旗奉行(はたぶぎょう)、用人、大小姓組頭(おおこしょうくみがしら)、中小姓頭、大目付などがこれに属した。
次が布衣(ほい)以上の者で87人、留守居(るすい)、郡(こおり)奉行、町奉行、勘定奉行、普請(ふしん)奉行、歩行頭(おかちがしら)な
どがこれに属し、その下に馬持(うまもち)以上305人があり、さらにその下に御前御用(おんまえごよう)(御直御用(おじきごよう))23人、
御序(おついで)の御前御用39人があった。そのまた下に役方(やくかた)291人、中小姓228人、儒医組(じゅいぐみ)106人があって、以上
の1179人が家中(かちゅう)(侍士(じし))であった。家中の下には御前(藩主)に直接応答できない歩行(おかち)(徒士)があり、これ
には左右小姓組に属する者70人、外様歩行組に属する者257人、他の諸役方配属の者453人、計780人がいた。ここまでが士分(しぶん)
で、その下に小人(こおひと)とよばれる足軽(あしがる)がいて、これは卒(そつ)身分であり、およそ2000人、諸役方の下役に従事した。

 こうした身分的差異は日常生活を隅々まで規制した。そのことについて、福沢諭吉は、その著『旧藩情』において、出身藩の豊前
(ぶぜん)中津藩では、足軽は上級士族に対して雨中でも往来で出会ったときには下駄(げた)を脱いで路傍に平伏し、足軽以上の小役人
も大身に対して同様にするのが作法になっていたと述べている。[成澤榮壽]
0648名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:35:52.52ID:36lQPF7k0
150年近く経った今、たとえひいひいひい爺さんの一人が身分が低かったとしても別のひいひいひい爺さんは高貴な家柄だったりするわけだし
何人たりとも閲覧不可なのは時代にそぐわない
0649名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:36:02.78ID:5tr6LIj80
>>644
嘘書くなよ。そんな研究されてないだろ。
0650!id:ignore
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2019/02/17(日) 06:36:23.84ID:KkYlHDCb0
「上下定分の理」は120年間つづいた戦国時代に戻さないために
下克上を出来なくする合理的政策だろ
0651名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:36:33.09ID:scNShQdB0
これってなぜ出品されてしまったのか
が論点じゃないの?
歴史なんてどーでも良いし
というか自分自身のルーツくらい知ってるでしょうに

お前らクンタキンテ?
0652名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:36:49.93ID:oTndNLdT0
>>555
土蜘蛛だろうね
縄文人が起源だからおそらく
0653名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:36:54.54ID:5tr6LIj80
天皇はどう考えても弥生人の王なのに、縄文人って天皇を穢れた縄文人の王にしようとしてんの?
( ´,_ゝ`)プッ
かわいそう
0654名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:37:01.32ID:JFLAgFT40
そのほかの回答(6)
tai********
被差別部落にある、浄土真宗のお寺の住職からお聞き
したのですが、お寺の本堂に部落の人を入れない時代
が昭和以前、ごく最近まであったそうです。
外に蓆を敷き、そこに座らせたと言う事です。
悲しい歴史です。
2015/06/17 16:00
0655名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:37:01.85ID:BLytpmh60
今だと公務員と正社員とブラック正社員と非正規派遣で
公正ブ非ってところかな
0656名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:37:17.31ID:2+gI4Faq0
>>644
安倍と佐竹はざっくり外物部となった
0657名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:37:32.59ID:ioFctEXO0
>>690 >>691 >>692 >>693 >>694 >>695 >>696

士・農工商・穢多非人(読み)しのうこうしょうえたひにん
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
https://kotobank.jp/word/士・農工商・穢多非人-1542795
賤民
士・農工商の4身分の下に、穢多・非人を主要部分とする賤民(せんみん)身分があった。穢多は斃牛馬(へいぎゅうば)処理、皮革の加工、
農業や雑業的手工業などを行い、非人は主として乞食(こじき)をしたが、加賀藩のように、非人の物乞いを禁じ、彼らに雑業的手工業や
日雇労働に従事させ、新田開発を奨励した藩もあった。また、江戸周辺では、斃牛馬処理権をもつ穢多のもとで、実際の仕事は主として
非人がやらされた所もあった。多くの地方では、穢多は、賦役として、警察・刑場関係の下役人足に従事させられ、百姓一揆(いっき)など
に際しては、弾圧の手先に使われることもあった。しかし江戸では、刑場の、とくにむごい下役には非人が従事させられた。また、加賀藩
では、同藩の賤民の中核的存在であった藤内(とうない)が警察関係の下役人足に従事、穢多はまったくこれを行わなかった。非人のなか
には「足洗い」といって平民に戻れる者もあったが、穢多はそれが認められなかった。穢多・非人その他の賤民は一般庶民との交際を禁
じられるなど、厳しい差別を受けた。彼らに対する上位身分の人々による蔑視(べっし)と迫害は、彼らがむごい賦役に従事させられるこ
とによって助長された。
0658名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:37:44.54ID:8pSpxpyX0
>>649
天皇遺伝子で検索
0659名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:38:15.18ID:ioFctEXO0
>>680 >>681 >>682 >>683 >>684 >>685 >>686

士・農工商・穢多非人(読み)しのうこうしょうえたひにん
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
https://kotobank.jp/word/士・農工商・穢多非人-1542795
賤民

 このような封建的身分は明治維新の改革で廃止された(四民平等)。しかしあらたに華族・士族・(卒族)・平民
という身分関係がつくられ、その根本的廃止は第二次世界大戦後を待たなければならなかった。とりわけ旧賤民身分、
とくに旧穢多身分であった人々に対する差別は、その後も厳しく存在した。身分制度が再編成されたのは1869年(明治2)
であるが、旧賤民身分の人々が「平民」に編入されたのは「賤民解放令」が布告された1871年であった。彼らは従来の
平民と区別され「新平民」という呼称が用いられることが多かった。旧賤民身分の人々は法的には平民となり、自由民権運動
が発展する折から、彼らのなかから「解放令」を根拠として平等を要求する動きが現れた。大審院判決も彼らの祭礼行事
への参加などの要求を支持する判決を出した。しかし、明治政府は自由民権運動を弾圧し、大日本帝国憲法を中心に、
絶対主義的天皇制を確立させた。政府がいったん切り崩そうとした大地主を頂点とする半封建的な農村の構造を温存したの
で、小作人の地主に対する経済外的強制などの隷属性は維持された。また、家父長的「家」制度が確立されたことによって
女性差別が法的に存続することとなり、これらが絶対主義的天皇制の有力な支柱となった。こうした反動化は封建的身分に
起因する社会的身分差別の撤廃をすこぶる困難にした。旧賤民身分の人々への差別も存続し、大審院判決も彼らの要求を
退けることが多くなり、民衆の間でも「新平民」という呼称がいっそう差別的に用いられるようになった。こうして
大日本帝国憲法の制定前後に部落問題は社会問題化した。1907年(明治40)前後から(明治末以降、官庁を中心に「細民部落」
が用いられた一時期を除き)「新平民」にかわって「特殊部落」の呼称が主流となった。この呼称も侮蔑(ぶべつ)的に使わ
れることが多く、差別と偏見の残存の厳しさを示した。[成澤榮壽]
0660名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:38:46.15ID:scNShQdB0
ごちゃごちゃと歴史ばかり知ったかしやがって
ばかだろ?
それを披露してどうする
0661名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:39:05.85ID:9Y9aq6ar0
>>648
家柄とか関係ないんだよ
次男以下に生まれたら家の使用人でしかないし
仮に結婚独立できたらそういう地域に住まわさせられるのがしきたりだったってだけで
0662名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:39:17.66ID:3LctQ7gT0
>>651
読めなかったか自分の住んでる地域の情報じゃなかったとか
一般人が持っててもしょうがないだろ、金にしようと出品しただけだろ
0664名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:40:22.87ID:scNShQdB0
このスレは
オレは歴女だぜ歴男だぜ?ってか?
マジで死んでくれないか?
0665名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:40:50.72ID:NCpoqDVR0
>>639
支那で苗字が母方からっていつの時代だよ?
紀元後はずっと父方が伝統だよ
0666名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:41:21.80ID:OnuwGAPF0
江戸時代の身分制度は
武家----足軽
土地持ち百姓----水飲み百姓(ここに農工商が含まれる)
の2本立て

それに、武家と百姓の間を取り持つ仲間(ちゅうげん)がいた
仲間とは、例えば、大庄屋とか苗字帯刀の家とか
士農工商は明治時代の造語
0667名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:41:23.03ID:6UDm+Whc0
縄文系、弥生系なんて戦前の教育にはないをだよ
日本の文明を貶めようとするGHQの陰謀
鎌倉時代、江戸時代と現代人の頭骨を比べても
顎の骨の大きさが明らかに違う
昔から日本にはいろんな顔立ちがいた
0669名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:41:42.64ID:scNShQdB0
>>662
それを回収した
そうなるよね
0670名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:41:55.39ID:j4jutDy3O
>>632
沙良真熊のように出世した人物もいるけどね
0671名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:42:03.59ID:+vGKdHXw0
>>653
日本で昔から穢れてるのは朝廷から隔離管理されていた半島難民だけ
0672名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:42:05.73ID:vFKA5y3g0
天皇家の分家の分家の分家の分家の分家の分家が続いて君たちになる。
日本人ならね。
0673名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:42:18.82ID:J0i8x5N20
身分は関係ないよな、俺も先祖は藩の殿様の教育係をしていた士族だけど
何の因果か落ちぶれて今じゃマッポの手先、笑いたければ笑えばいいさ
0674名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:42:50.39ID:OnuwGAPF0
江戸時代を終わらせた戊辰戦争
戊辰戦争の功績で
壬申戸籍では、卒の足軽が士族に格上げされたが
江戸時代の足軽は、武士の使い走り、単なる武士の奴隷だった
0675名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:43:02.78ID:BoWJc3zZ0
>>644
新羅系の遺伝情報でしょ?中国史だって仏教は北から入って来てんだから辻褄は合うし何より金氏安倍族だろ?

そもそも中国や朝鮮半島に多い安の字をつける奴はソグド系遊牧民のルーツじゃん?
0676名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:43:32.12ID:Oy/Y1w5s0
>>651
どこぞの人の遺品整理した奴がぐるぐるまわって出品されたんでしょ
0677名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:43:34.76ID:qR3OKFir0
京都とか九州へサッカー観戦しに行ってハーフタイムに部落問題考えようの映像流してたな
0678名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:43:56.83ID:2Muwk4GF0
差別はよくないっていうけど
現代だって非正規だの正規だので差別してるじゃないかw
0680名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:44:38.65ID:9GBrLNhe0
明治時代は外来の者たちが身分制度を都合よく利用している。
0682!id:ignore
垢版 |
2019/02/17(日) 06:44:53.99ID:KkYlHDCb0
足軽は奴隷じゃないだろ
派遣の人みたいな感じだろ
0683名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:45:02.56ID:JFLAgFT40
マジに簡単な話

@国分寺の檀家が代々続いてる

A家系を6代遡れる

これがないなら
かなり身分が下
明治まで家系が遡れるならそこそこの身分
江戸まで遡れるなら上流階級

このスレ身分がやばい奴多すぎ
0684名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:45:15.60ID:OnuwGAPF0
江戸時代の百姓は
実力勝負で、水飲み百姓や丁稚でも優秀なら
上座に座ることを義務にされた
(上座に座ることを許された、のではない)
江戸時代には
身分の低い実力者を潰すのを防ぐための政策があった
0685名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:45:23.10ID:2ACZgre00
別に差別されてたからどうだって話。
むしろわかるなら知りたいくらいだ。

逆に今の時代、エッタがどうとか部落差別言い出すやつが身近にいたら喜んで距離を取るからどんどんご自身のバカを晒してほしい
0686名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:45:45.01ID:scNShQdB0
日本では古くから戸籍があることを証明した、明らかだ
一方お隣国さんには無いってその程度のこと
だけど回収目的は今でいうとコンプライアンス
0687名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:45:49.36ID:HX9ewT450
>>107
昭和40年代生まれだが、渋谷区広尾で町工場をやっていた親が、屑鉄を近くの朝鮮部落に良く売りに行ったと話していた。
その場所は、今や名残も住人も全く無く、とんでもない家賃の住宅や商業地域になっているよ。
0688名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:45:52.13ID:8uU3ZKtG0
>>602
日本は地理的に朝鮮半島の難民が流れ着くから当然

百済や高句麗や新羅の難民は関東や東海に大勢の単位で移配されたりで
北関東が朝鮮半島と血が近いともいわれるが、そういう移配や政府の管理からも
逃れて化外の民となった半島難民は鬼や土蜘蛛や山賊として生活するしか
仕方がない
日本の主流の水耕も日本の畑作にも不慣れだからやむなし
0689名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:46:57.72ID:OnuwGAPF0
江戸時代の戸籍は、
人別帳というもので寺が管理していた

結婚などで籍が移る場合は、
村の庄屋(名主・肝煎)が書換え業務を行っていた

キリシタンやエタ・非人などは、「様々な理由」で
人別帳への登録ができなかった
0690名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:47:09.42ID:Oy/Y1w5s0
>>682
農民 田植えと稲刈りは戦をしない 稲刈りしに帰るのです
0692名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:47:30.50ID:NeeijPeW0
>>678
生まれながらにして身分が決められていない
個人の能力によって格差ができているだけだから無問題
0693名無しさん@1周年
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2019/02/17(日) 06:47:43.29ID:6UDm+Whc0
>>685
いろいろ知っちゃうとなぁ
まぁあんまり意識せんことだね
0694名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:47:53.62ID:7dGVjoff0
>>687
広尾って土地はほぼ坊主の持ち物だってね
銭湯行ったら、アレが坊主の娘とか地主とか世間話好きババアが言ってた
地主が銭湯になんで来るのか知らんが
0695名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:47:59.82ID:8pSpxpyX0
>>675
今の安倍氏は平氏の血筋ね
0696名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:48:06.06ID:Ixcy/yxW0
>>653
半島民族というのは妄想とかの嘘吐きベースの恨を理屈みたいに捏ねる捏造エピソードの天才でしょ
日本の縄文の誹謗なんかも話題になってる徴用工判決みたいにさ
自分たちの民族的劣等感を日本的なものにぶつけたいんだよね
0697名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:48:55.32ID:kdkoqd4l0
>>673
ヨーヨー出品しなさい
0698名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:48:58.08ID:7dGVjoff0
>>691
明治から昭和にかけて結構海外に日本人渡らせてた政府だしな
0699名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:49:20.34ID:6UDm+Whc0
>>692
環境による条件は個人の能力を凌駕すると思うぞ
0700名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:49:22.06ID:lH8jsNip0
>>657
ξ´・ω・`ξ ま〜家を出た農民の子供が都市部に行けば、直ちに非人。
今の日本でも中国でも、ほぼ変わらないんよねぇ。
0701名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/17(日) 06:49:27.57ID:BoWJc3zZ0
>>661
北前船で成り上がりの次男以降の人はかなり増えたからね!江戸時代は戦争がなくて人口過多だったから食いぶちが減るから船乗りになる連中は多かった!

成功した奴は追い出された地元に帰って新しい職を開拓する人が多かったから地元からヒーロー扱いされたりする訳
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