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>天保の改革最中の天保13年(1842年)9月の御触書には「百姓の余技として、町人の商売を始めてはならない」

地下請、村請けは荘園制度の名残り

https://ja.wikipedia.org/wiki/地下請
地下請(じげうけ)とは、中世日本の村落が、荘園・公領への年貢徴収を領主から請け負っていた制度。惣村請(そうそんうけ)、百姓請(ひゃくしょううけ)ともいう。

地下請を行う惣村は、毎年一定額の年貢を領主へ納入した。領主側から見れば、自らが年貢徴収を行う場合と比べて、
凶作時のリスクを回避し、また徴収に係るコストを軽減することができ、大きな利点があると言えた。地下請の実施は、
被支配者からなる惣村が、支配者の信頼を得るまでに至っていたことを意味する。そのため、惣村は支配者の信頼に応えるため、
惣内部で年貢の割り当てを行い、割り当てを満たすことのできない構成員には惣掟で罰則(財産没収など)を設けるなど、
年貢納入の確実な履行に努めていた。

地下請は、室町期から安土桃山期まで継続し、江戸期の村請へと継承されていった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/太閤検地
土地の権利関係
戦国時代の日本では、個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、農民たちは「村(惣村)」という団体として領主に年貢を
納めることがほとんどであった(地下請)。この体制では1つの村が複数の領主に年貢を納めていたり、農民が有力農民に年貢を納め、
そこからさらに領主に年貢が納められるといった複雑な権利関係が存在した。

太閤検地ではこういった権利関係を整理し、ひとつの土地にひとりの耕作者=納税者を定めようとしたが、帳簿の上ではそうなっても、
実際には依然として農村内で様々な権利関係が存在しており、領主に提出するものとは別に、村内向けのより実態に近い帳簿が作成されていた[2]。