【昭和史】二・二六事件巡る3人の写真発見 発生100日前の天皇、鈴木貫太郎侍従長ら
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二・二六事件巡る3人の写真発見 発生100日前の天皇、侍従長ら
2019.2.26(Tue)
https://www.daily.co.jp/society/national/2019/02/26/0012097936.shtml
1936年に起きた二・二六事件で、銃撃された鈴木貫太郎侍従長と反乱軍の鎮圧に動いた昭和天皇、本庄繁侍従武官長の3人が事件の約100日前、一緒に歩く姿の写真が25日までに見つかった。3人がそろった写真はほとんどなく、昭和史の貴重な記録と言える。
事件前年の35年11月、昭和天皇は陸軍特別大演習を統監するため鹿児島、宮崎両県を訪問。鈴木と本庄が随行した。大演習後の地方巡視で11月16日、鹿児島県の霧島神宮を参拝。参道を歩む天皇の後ろを鈴木と本庄が従う場面が写真に収められた。
新聞聯合の内山林之助カメラマンが撮影。内山は後に同盟通信や共同通信でも活躍した。 陛下の幼少期の乳母(?)の安達たかだっけ?
昭和天皇が「雑草というのはない〜」の元を教えた女性
陛下がとても慕っていたという
その安達たかが鈴木貫太郎の後妻に
鈴木が襲撃された時、虫の息である夫を体を張って庇って
反乱軍はその勢いに気圧されたか、武士の情けか
そのまま去った 安達たかは陛下直通の電話をかけ助けを求め
鈴木は皇室関係の病院に担ぎ込まれ一命をとりとめた
226事件を最初に知ったのは陛下だと思われる
この鈴木と陛下の関係があったから、
のちの終戦まで繋がった
また、安達たかの切迫した電話を陛下が受けなければ
あそこまで激怒したのだろうか
って読んだことあるけど、これ本当なのかね? >>97
そうなんだよね、青年将校の求めた昭和維新は全く持って正しいことなんだ。
それを理解せずに反乱軍として処理した天皇陛下は少々不見識だったとしか思えない。
方法が悪かろうが、間違っていようが、結果正しければそれで良い。
日本は、軍の暴走が国を崩壊させたという間違った考えが広まっているが、何故軍が独走したのかを良く考えないといけない。
それはつまり、当時の政府・政治家や資本家が国民の代表者たるべきことを為さなかったからなんだ。
当時の民衆の代弁者が軍だったんだよ。 >>91
天皇が最高責任者となると失政があった場合に天皇の責任になってしまう。
だから今の9条みたいに解釈改憲で大権を天皇から徐々に移していったんじゃないかな。その歪みが統帥権問題につながって行くのかと。 じゃあおまえは226の時も終戦の時も陛下は何もしなきゃ良かったというのか?
バカすぎる
普段は昭和天皇が何を言っても言うこと聞かないくせに226の時は責任者不在で右往左往するばかり
終戦の時は責任者自ら陛下に判断を丸投げした
この時に何もしないのが良かったというのか?
現実をあまりにわかってなさすぎる
後から好き勝手言ってもなんの役にも立たんぞ >>91
求められれば、自分の見解を言うことはできる。 226事件は天皇親政の国家社会主義を実現しようとしたクーデター未遂。
戦前は格差が大きかった。財閥への反感もあった。陸軍には貧乏人のせがれが多く、軍にも社会主義を
支持する者もいて、右翼、左翼と単純化して考えてはいけない。 >>100
その時には昭和天皇の決断を仰ぐ前に決まってたから。昭和天皇は追認しただけ。 >>104
徐々にじゃない
天皇は神聖にして侵すべからずという条文はベルギー憲法から持ってきたもので最初から天皇の大権は天皇の個人的意思で行使してはならないという意味の条文だよ
起草者の伊藤博文の憲法義解にはっきり書いてある
争いの余地はない >>107
226が精神的支柱として求めた北一輝は財閥から金を貰ってたって話も。 >>103
それ四分の一ホントで残りは嘘。2・26事件の将校が代弁してたのは当時まだ貧しかった東北のみ。 >>105
君の意見で言えば、そういう馬鹿な軍部を何故聡明な陛下が放置していたのかということが謎になる。
はっきり言ってその点を見るに先帝陛下は無責任だ。
先帝陛下の良いところは良い、悪いところは悪いと言った方が、後世のためになると思うがね。
軍の台頭に問題があれば、陛下がそれを抑えておくべき行動をするべきだったとは考え付かないかな?
まあ、大日本帝国の崩壊は、軍よりも近衛文麿や西園寺公望らリベラル集団の非現実的な行動の方が大きいと思うが。
近衛声明を見るにもう。 昭和の一番の問題は議会制民主主義が自壊したことだ
議会開設後日本では議会の力は最強だった
その議会が政争で機能を自ら失った時大日本帝国の滅亡が決まったんだよ
だいたい天皇機関説論争なんて愚かな話も元々は政争で鳩山一郎が持って来たもんだ
そんな愚かなことばかりしてるから議会は国民の信用を失い国が崩壊して行った
今とそっくりだぞ >>102
八紘一宇という言葉も、日蓮主義者が作ったんじゃね?
戦前の政治や軍部に、日蓮主義は大きな影響を与えているだろ。 >>113
鳩山といえば統帥権干犯問題と言うメガトン級の議会破壊爆弾が… >>113
今信頼を失ってるのは、基本的に野党だろう。 >>111
226事件の将校が東北のみの代弁というのも実は違っていて、当時の日本は日本共産党の暗躍が示すとおりに、低賃金労働者と貧農、そして自由主義者のの不満が溜まっていたからね。
今のグローバル資本によって貧富の差が極端になっており、議会政治では解決不可能だという閉塞感が北一輝のような思想家、出口王仁三郎のような宗教家を求める雰囲気にあったようなんだ。
だから、226事件の求めた国家革新が、東北の貧農の救済だというのは少し矮小化した話なのではないかと思う。
そういう議会制民主主義では遅く、解決しない物事を、本来天皇陛下が持っている大権で素早く独断的に進行できるような国を作るのが、青年将校の目的だったろうとは思うんだ。
独裁者が開明的ならば、国家の躍進や矛盾解消が素早くできるからねぇ。 >>23
軍隊が反乱起こして大臣を殺すような国が暗くてひどい国ではないと >>115
間違えた
鳩山は統帥権干犯問題の責任者だったなw
天皇機関説に関しては鳩山は冤罪w >>30
厚生省次官宅連続襲撃なんか
ペットの恨みみたいな矮小な話にさせられて
死人に口なしでさっさと死刑 昭和の陸軍いい加減さは本当にひどい
上は鷹揚な大山元帥風を誤解して部下に好き勝手
やらせてたら止められなくなり、増長した中堅ども
が怖くてそのまま無責任に放置。
天皇に叱責されても「叱られちゃった」とわらう
無責任の極みのグズ元とかもう絶対おかしい。
開戦のグダグダもそういう軍の無秩序さか来てる。
天皇と元老は「東條ならこれらを押さえつけられるのでは」
と期待して首班に指名したが、小官僚の器だった東條は
天皇への忠誠はあったものの、すでに無統制状態の陸軍
を恐れて結局何もできなかった。
天皇の責任とか言いたがるパヨクはもっと近代史を知るべき。
また義務教育で昭和の軍部。特に陸軍の無法、無統制状態
をキチンと教えるべき。
いかに昭和の軍部が組織としてクソだったか。 >>113
それはちょっと違うと思う。
議会開設後も、桂園内閣の時期迄は議会よりも藩閥経験者による「お友達運営」が強力な政治力を持っていた。
それが議会にシフトしたのが、大正デモクラシー以降であるけど、問題は議会がロクでもない連中だったということ。
私利私欲に走って中国への無理な拡大、シベリア出兵などやらかすし、財閥等の既得権益重視で国民生活の向上を図らなかったんで国民から愛想をつかされた。
日本には、そもそも議会選民主主義が合わないのかもしれないな。 ★ダアト<生命の樹;知恵)の守護天使はエイワス(Aiwass, Aiwaz)2019/2/26の2:09★
2019/2/26の夢。@黒人男と白人女がなにかの話してた。
A大勢の人が倒れ死んでるようだった。死体を見回ると最後に答案用紙がある
記入しようとするとみんな生き返り授業が始まったようだ。
■バガヴァッドギーターカード2019/2/26の
アートマン;今週末ケセドのニガーの決戦がある予定
ヴァイラーギャ;安保闘争はモントークニガーの製造所だった。●13:01だっぷんだ?脱糞のイメージ発生!
イーシュヴァラ;コンチネンタルサマーディは混沌に投げ入れられたがコントロールを失ってない。
カルター;麻生はコンチネンタルサマーディの取締役で先導者でモントークニガーの放出先を決めてる。
サーンキャ;コンチネンタルコデックスのシャイターンはアモイの方針で作られ消滅した
サルヴァ;麻生はコンチネンタルを作るため炭鉱にコデックスのシャイターンの像を仕込み鉱員を生き埋めにした
ブラフマン:死んだ鉱員は麻生に取り込まれてしまった。
カルマヨーガ;リアルのモントークは麻生の所の鉱員の巡査員でまだ戻ってくるつもりだ。
シュラダッダー;アモイでは金色夜叉のフレスコ画が残っており呪術に使用されてる
ヴェーダ;金色夜叉の呪いは追いつき次第解除の予定だけどかなりきつい呪いなのでどうなるかは未定
チャンドラローカ;コンチネンタルアカハラはサマーディの副組織でもういなくて決算予定。■ >>113
鳩山一郎と平沼騏一郎が持ち出した統帥権干犯問題
はガチで日本を誤らせた。
鳩山由紀夫礼賛したパヨクが
「戦犯の孫」
と安倍晋三を呼んでいたのは本当におかしい。
鳩山由紀夫こそ最悪の戦犯のくせに裁判免れたクズの孫。 >>122
わかってねーな
議会の賛同なけりゃ予算が通らない
予算が通らないと行政は動かない
議会は最初から絶大な力を持っていたんだよ 当時の兵士らは本当にかわいそうな立場だった
どうせ天皇と財閥は青年将校の姉妹だって海外に売って資産にしてたんだろ?
言いたくないけど将校らは昭和天皇の首を取らなければ現状は変わらなかっただろう >>124
だから昭和天皇は最後まで平沼が大嫌いだったんだよね >>15
明治三陸大津波
昭和三陸大津波
投資しても数十年ごとに壊滅 >>130
こんな状況で皇室を存続させた昭和天皇はあらためて凄いわw 【革新派の150年の歴史】
倒幕運動: 成功。明治政府樹立。
226事件: 失敗。軍部が天皇制の国家社会主義を目指したクーデター未遂。
安保闘争: 失敗。安保法案の中身も読まず、反政府が目的化して暴れる。その後は内ゲバ、テロ活動で人としての道を誤る。
集団的自衛権: 失敗。パヨクの反日活動に成り下がる。もはや若者から相手にもされず、痛々しい人たち化。 日米合作茶番戦争にはアメリカを超大国にするという目的の他に
邪魔な右翼を一掃する目的もあったからね >>108
いや、天皇の発言で左右されたことも多いよ >>100
太平洋戦争決断の時は、文武官ともに開戦支持だったから。日中戦争時は日中両軍とも止める気がなかったから。 おお気が付けば今日は226か
あの時は雪が降って電車も止まって大変だったわ >>137
客観的に見て昭和初期の指導者で西園寺含めて昭和天皇以上の政治的識見持っていた人間皆無だったからね
昭和天皇が専制君主ではない以上止めることは不可能だった
昭和天皇の言ってることはきちんと記録に残っているがその通りしてりゃ国は滅びん判断ばかり
その反対ばかりやり続けたんだから国は滅びた 結局、政府と陸軍から長州閥を追い出したのが
昭和の迷走を生んだといえなくもないw
元老の死と共に完全に責任者不在 昭和帝くらいの見識を持った人が上層部にあと数人いて
さらに実行力に富んでいれば全然違ったのに >>140
色々読むと完全に無責任、無法状態。
誰も中堅どころの命令違反や規則違反を罰しない。 >>10
鈴木貫太郎はこの時点ではもう現役軍人じゃないけど軍服で参拝するんだね 今日みたいに陽気だったらクーデターも起こらんかったかもな。 >>1
100日前か
無理やり感があるぞ、この記事 今の天皇は人前で結構しゃべっているけど昭和天皇ってそういう機会はあったの? >>146
あるよ、昭和天皇全国行幸
それこそ、GHQが驚くほど、国民の大歓迎をあちこちで受けた
広島、長崎でもね
全国八年かけて、まわられた 昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、
占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされた。
しかし、その結果は高官達の"期待"を裏切るものだった。
昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/昭和天皇の戦後の巡幸都道府県一覧
全国巡幸 国民を慰め、励まされるための旅 - iRONNA
https://ironna.jp/article/1303
終戦直後で、陛下の悪口をいってた者を、陛下のお姿をみて
万歳と叫んだ逸話は多い。 >>118
宦官が腐敗してたからだろ、
武官が廃帝する様なクーデター
では無いということw >>145
国体明徴運動→真崎甚三郎教育総監更迭→相沢事件→226
だから皇道派と統制派の派閥抗争のまっただ中やん >>147
そうなんだ
昭和の中期から後期はどうだった? >>150
順番からして先に
陸軍内部で統制派を始末するべき
だったんだよなw https://togetter.com/li/1272388
これ話題になった直後に多分売れてしまっただろうけど
この金額なら欲しかった 君たちの志は天朝に達せりと青年将校を
煽った将軍にはお咎め無し。
上層部はいつも、どの時代でも言い訳弁解で逃げる。
青年将校は裁判もなしで銃殺。 昔にさかのぼればさかのぼるほど
人を簡単に殺す人間が多くて怖い
昭和初期は情報が発達してないから知られてないだけで
小学生が小学生を殺すのは当たり前だった時代
明治時代も日本で内戦ばかり
江戸時代より昔になれば侍が「斬り捨て御免」という名で人を殺しても処罰されない
人殺しで捕まった平民の60%が無実の罪で処刑される
権力闘争で親兄弟が殺し合い 東京湾の長門が威圧のため帝都に砲門向けたって本当? 2.26も、ノモンハンも、関東軍も
統帥権の明らかな干犯だ。 >>153
皇道派は対ソ戦を今にも始めそうな雰囲気だったしテロに甘いので、1936
年までは、昭和天皇の目には統制派の方が穏健な良識派に見えた。 >>160
鳩山一郎はそんなの知らんぷりw
軍部とその威勢の尻馬に乗った連中が怖かったから
自分で利用しといてまずくなったらしらんぷり
鳩山家こそ戦犯家系 戦争なんて議会が予算つけなきゃできねー
その議会が戦争煽ってんだからどーしようもない
そして普通選挙だから当時の成年男子が議会選んでんだ >>164
犬養毅なんて日清日露と政府の弱腰を口汚く罵ったり、与党の軍事費査定を統帥権干犯で炎上させてたからな。
「なら、お前やってみろや」で総理になったら結局予算削減で「問答無用」。 三大海軍大将
鈴木貫太郎、米内光政、井上成美
三等大将
末次信正、及川古四郎、嶋田繁太郎 >>1 >>2 >>3 >>4 >>5 >>6 >>7
朝鮮朱子学において家族主義は集産主義(社会主義・全体主義・共産主義)と相性が良くなる
http://www.sankei.com/life/news/130812/lif1308120009-n1.html
鈴木貫太郎首相(肩書は当時)は昭和20年6月22日の最高戦争指導会議で、ソ連仲介の和平案
を国策として決めた際、「(共産党書記長の)スターリンは西郷隆盛に似ているような気がする」 と、スターリンを評価する発言をした。
この発言に影響を与えたとみられるのが、首相秘書官を務めた松谷誠・陸軍大佐が、4月に国家再建策
として作成した「終戦処理案」だ。松谷氏は回顧録『大東亜戦収拾の真相』で「スターリンは人情の機微
があり、日本の国体を破壊しようとは考えられない」「ソ連の民族政策は寛容。国体と共産主義は相容れ
ざるものとは考えない」などと、日本が共産化しても天皇制は維持できるとの見方を示していた。
さらに「戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。
米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる」として、戦後はソ連流の共産主義国家を目指
すべきだとしている。 >>300 >>301 >>302 >>303 >>304 >>305 >>306
https://ja.wikipedia.org/wiki/日支闘争計画
日支闘争計画(にっしとうそうけいかく)日本と中国を争わせ、世界戦争を誘発して日本を包囲殲滅する計画。
コミンテルン(国際共産党、第三インターナショナル)によって考案され、コミンテルンに指導された勢力ー
中国共産党[1]、日本軍部の統制派[2][3]、太平洋問題調査会(IPR)[4]などによって実行されたと一部の論者
により主張されている。
終戦へ共産国家構想 陸軍中枢「天皇制両立できる」
http://www.sankei.com/life/news/130812/lif1308120009-n1.html
陸軍中枢にはソ連に接近し、天皇制存続を条件に戦後、ソ連や中国共産党と同盟を
結び、共産主義国家の創設を目指す「終戦構想」があった。
鈴木貫太郎首相(肩書は当時)は昭和20年6月22日の最高戦争指導会議で、
ソ連仲介の和平案を国策として決めた際、「(共産党書記長の)スターリンは
西郷隆盛に似ているような気がする」と、スターリンを評価する発言をした。
当時、統制派を中心とする陸軍中枢が共産主義(コミンテルン)に汚染され、傾斜して
いたことがだんだんと知られ、大本営の元参謀から『中枢にソ連のスパイがいた』と聞
いたことがあったが、それを裏付ける確証がなかった。英国が傍受解読した秘密文書で
判明した意義は大きい。米国の情報源は、ベルンで活発に諜報活動をしていた米中央情
報局(CIA)の前身、戦略情報局(OSS)欧州総局長、アレン・ダレスだろう。当
時、米国と中国国民党政府は、日本の首脳部が赤化していると判断していたことがうか
がえる。 >>310 >>311 >>312 >>313 >>314 >>315 >>316
https ://ja.wikipedia.org/wiki/松谷誠
松谷は、戦中から戦後初期において自らの業務のために、官僚や学者などの部外専門家を集めてブレーングループ(松谷グループ)を組織して、情勢判断と対策案
の作成を行っていた。1946年1月に松谷グループは、「戦後処理における調査研究」(中央/終戦処理/二四一)として、「建国綱領(案)」という文書を作成していた
松谷らは「建国綱領(案)」を、国内体制を整備し、国民の「訓政」を実施するための基準(憲法)として、天皇の名で発布し、成案は日本共産党を含めた全国規模
の人民代表会議に諮問し決定することを想定していたという
https ://ja.wikipedia.org/wiki/種村佐孝
戦争末期、対米降伏・和平交渉はアメリカの偽装であり、対米戦争の継続のためソ連同盟論を主張、対ソ終戦工作に従事する。
戦後にシベリア抑留に遭い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」にて、共産主義革命のための特殊工作員として朝枝繁春、志位正二、瀬島龍三らとともに訓練を受ける。
終戦へ共産国家構想 陸軍中枢「天皇制両立できる」
http ://www.sankei.com/life/news/130812/lif1308120009-n2.html
同年4月に陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝大佐がまとめた終戦工作の原案「今後の対ソ施策に対する意見」でも、(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結
(2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる(3)ソ連、中共と同盟結ぶ−と書かれている。 >>8 >>9 >>10 >>11 >>12 >>13 >>14
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14142850534
第二次大戦の陸軍は皇道派が築いた遺産で半ば戦ったようなものです。
皇道派は軍事面には注力しましたが、彼らはこのための予算の獲得やら、これを”効率的に実現するための社会体制の実現(社会主義の実現)”とやらには関心がありませんでし逆に嫌悪を覚えていました。
逆にこれに前のめりだったのは統制派と呼ばれる人たちです。
特に第一次大戦の特にドイツを見て永田鉄山がそうでした。
統制派と呼ばれる人たちが、皇道派より近代的と言えるのは国家総力戦体制の構築について前向きな部分なだけです。
実際的な軍事実務においては皇道派の軍人に比べて数段劣りました。
対支先制論を唱えた永田鉄山の見識や、東条の軍人としての資質を見れば明らかです。
彼らがのめりこんだのは社会主義実現のためのテロやクーデターなどの陰謀でした。
それが3月事件や10月事件、餌(陰謀計画)に飛びついた青年将校たちの暴発による2・26事件です。
皇道派は天皇親政主義者でもなかったので、こうした陰謀には嫌悪感を示してこれらのいずれの事件においても一貫して反対をしていました。
3月事件と10月事件で主要な働きをした桜会のメンバーが後に統制派の流れを形成した対照的です。
....
皇道派が対ソ戦略に重点を置いたのは、現状から言えば当然といえば当然の反応に過ぎなかったのです。
満州は実質的な新領土で、しかも、この広大な土地を得たことでむしろソ連との接する国境は拡大したからです。
一方で当時の中国は国防の脅威とはみなされませんでした。
そのために皇道派は対ソ戦略を重視したのですが、彼らの考えは”防衛計画”です。
そのために国境の要塞や満州領土内の交通網の整備、それに基づいた作戦計画の立案をします。
対ソ戦略においては陸軍は後に至るまでこの皇道派の遺産におんぶに抱っこでした。
このためにノモンハン事件で「ノモンハンとはどこだ?」と喚き、独ソ戦になっても対ソ攻勢のための作戦計画がそもそもなかったという状態となります。
皇道派は軍事にのみ熱中したい人たちでしたから、永田や石原のような夢想と評するしかない「中国を屈服させて日本に資するようにする」といった戦略は非現実的と判断しており、そもそも純軍事の範疇を超えたこうした考えを忌避しました。
皇道派は対ソ戦略についての”誤解”は元老西園寺の「対ソ先制を唱える小畑とこれに批判的な永田が論争をして永田が優勢だった」が基になっています。
西園寺はこの話を秘書役の原田から聞き、原田は交流があった永田から聞いたのです。
ところが、この陸軍の会議に直接参加した荒木は「小畑の対ソ戦略(といっても先制ではない)の意見に永田以外は賛同した」と証言しています。
実際にその後の陸軍が力を注いだのは満州防衛策です。
この件はそれまで親しかった永田と小畑の仲に亀裂が入り以降の永田は皇道派の追い落としに夢中になります。
これを見ても議論の中身と結論が、荒木と永田どちらが真実に近いかは明らかでしょう。
要するに永田は皇道派への悪印象と己の野心のために力のある西園寺に伝わるよう虚偽を原田に吹き込んだのです。
荒木はまた「永田はずるい男で次の会議の時には出張だとか言って逃げてしまった。あれが派閥の始まりだった」と回想しています。
そういうわけで、皇道派が対ソ先制を考えていたとの意味で質問をされているのでしたら、それは誤った俗説に基づいての認識です。 >>320 >>321 >>322 >>323 >>324 >>325 >>326
愛国保守を偽装して日中戦争を煽った尾崎秀美は朝日新聞社員
西園寺一晃も朝日新聞社員だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/西園寺 一晃
西園寺 一晃(さいおんじ かずてる、1942年 - )は日本の研究者、フリーランスジャーナリスト。工学院大学孔子学院院長(2013年3月)。
来歴・人物
椙山女学園大学客員教授、AAN研究員、北京大学在外研究員など歴任。学歴は北京大学経済学部卒業。
西園寺公一の長男として東京市に生まれる。1958年、一家で中国に移住。10年間を北京市で過ごす。1966年、北京大学経済学部政治経済科卒業後、朝日新聞社に入社。調査研究室に勤務。
中国滞在中は文化大革命に遭遇し、帰国後に文革を肯定的に描いた『青春の北京』を執筆した。
定年後は日本中国友好協会全国本部参与、東京都日中友好協会副会長、北京大学日本研究センター在外研究員、椙山女学園大学客員教授、工学院大学孔子学院学院長。
共著がある西園寺雪江は母、西園寺彬弘は弟。 西園寺公望がすごい、、
徳川幕府時代から活動していて
そして、この時代まで生きてたとは。。 >>170
そのWikiの日支闘争計画の出典に、誠ってブログがあり、スターリンからの資金が統制派の前身桜会に流れるのが書いてある
日支闘争計画と言う名称は日本人研究者の命名だろう
渡部ナントカって人だな
ソ連では何と言ってたかわからんが、日本とのWar Planは1920年頃からあったと思われる 昭和天皇が靖国参拝を止めた理由はA級戦犯合祀なのは明らか
統制派が合祀されたからだよ >>330 >>331 >>332 >>333 >>334 >>335 >>336
1936年以前から統制派=東條・辻・永田は戦争をけしかけ扇動していた
1928-04 第二次山東出兵
1928-05 済南事件
1928-06 張作霖爆殺事件
1928 治安維持法改正
・北一輝が一連の治安維持法関連・報道規制・重臣会議による内閣決定・軍閥・過度な市場独占の流れが五箇条の御誓文や明治維新の理念に反すると考える一端となる
1930/1931 昭和恐慌、世界恐慌、昭和農業恐慌、小作争議
・恐慌により農村出身者の兵士や、青年将校が国内の惨状にも関わらず戦争を起こした統制派に敵意をいだき始める
・当時、総理大臣だった立憲民政党の濱口は大恐慌時代の舵取りを財政緊縮と金本位体制、産業合理化で乗りきろうとし
致命的な経済運営の失政で多数の国民を苦境に追い込み、高橋是清が大蔵大臣になるまでの民政党の2年間は
日本国民に巨大な混乱を生じさせ、満蒙を日本経済の生命線とする理解不能な政治的空白を生んで軍閥が武勲争いに興じる序章となった >>177
1931/09 満州事変(中華民国と開戦)
・石原莞爾は欧州視察にいった後に欧州出羽守に転じて、世界最終戦争という妄想を広めて統制派に注目される
1931/09 柳条湖事件(統制派の石原莞爾が鉄道を爆破)
1932/01 第一次上海事変
1933 国際連盟を脱退
・(反英米ではないという意味での)親英米の皇道派将軍が、軍部統制派の反英米・親ソ連・親独に危機感を持ち始める
1934 帝人事件(汚職、起訴されるも全員が無罪)
1934/11 陸軍士官学校事件(東條英機、辻政信等が青年将校を失脚させるために罠に陥れる)
・比較的恵まれていた青年将校の実家でさえ零落したり、幼馴染等の姉妹が売られ、家族で心中を図った惨状にも関わらず汚職まみれだった当時の政治家・官僚・軍幹部に対して憤激
(第4次産業革命や、企業の前近代的な封建的体質により低下する産業競争力によって、国が貧しくなることで状況は酷似してくる)
1935 八・一宣言、抗日宣言
1936/02 二・二六事件 >>1
二・二六、、、何故だろう
これを見た瞬間トップをねらえ!を思い出したんだが
そんなセリフ有ったっけ? >>176
東条英機は昭和天皇のお気に入りだったわけだが
これは戦後の発言である昭和天皇独白録でも出てくる >>180
1946年の時点で昭和天皇は何処まで真相に気付いていたのか なんか第二次大戦前後のエピソードっていかにも日本らしいなと思う
精神論ぶつお偉いさんと
それに洗脳された意識高い系の若手の暴走とか
アホすぎて嫌になってくるね >>182
精神論は第一次世界大戦の流行だったからな
第一次世界大戦のフランス軍トップだったフェルディナン・フォッシュとエラン・ヴィタールで調べると面白いぞ
日本軍以上の攻勢主義・精神論だから >>175
その手のソースは陰謀論のため信頼できないが、ゾルゲ事件も起こせる能力のある国だから幅広くやっていた可能性はゼロではない
日本では陸軍幼年学校や士官学校の成績優秀者が軍官僚・軍閥のトップになることを考えればターゲットを絞るのは難しくなく
やったかどうかは別として諜報屋が企画しそうなことではある >>184
俺は調べて無いから信憑性は不明だが、ブログには昭和初期の文献が出典として挙げられてる
また、ルーズベルトに関する研究と突き合わせれば、大体近衛が上奏したとおりで、矛盾が無いと思われる >>183
だから後にフランスもああだったんだなw >>177 >>178 >>1 >>2 >>3 >>4 >>5
北一輝は日英同盟を破って、第一次世界大戦時の段階で日米同盟・日米経済同盟を締結すべきと主張しており、色々と誤った情報に基づいているものの1916年の
時点でこれを主張している意味は大きい
北一輝はアメリカの実力を重視する一方で、歴史が浅くスムーズに行き過ぎた米革命を嫌っており、アメリカの「革命」や共和制を軽蔑していた
同時に明治維新後期の教育勅語に代表される中世儒教土人国家・中世代官国家の後進性を嫌っていることは明らかではあるので、米国の評価に一貫性は無い
西郷隆盛の西南戦争を第二維新、第二革命と呼び、天皇親政とは整合性がない五箇条の御誓文を重視する姿勢には解決不可能な矛盾点がある
北一輝の言う天皇親政が五箇条の御誓文だとすると、天皇親政とは真逆でもある
北一輝は皇道派の将軍にアピールするために、色々と変更を加えていたようでもあるし、西郷隆盛のファンが西郷を殺した伊藤博文や山県有朋を憎しみ
それをこじらせて明治維新革命オタク・明治維新革命愛好家になったという印象が強い。よって政治経済理論を理解する必要はなく、青年将校には分かりやすい部分があったはずだ
なぜなら青年将校からすると、失敗した明治維新のやり直しに過ぎないからだ >>188
戦間期フランスは左派政権で、フォッシュのエラン・ヴィタールとは逆方向の防衛主義だったのが敗因
むしろ戦後のド・ゴールとかが後継者っぽいw >>165
この時って、お前やってみろやっていうことで
やらせたのは、内大臣かな?
それとも元老かな?
天皇が内大臣の輔弼を受けて、参謀総長や海軍の偉いさん
(なんて言ったっけ?)とか大臣、内閣総理大臣を指名していたからね
大臣と内閣総理大臣は同じフラットな立場
だったんだよね。国会というのは国民部門
なわけでそちら担当が内閣総理大臣であり他の
大臣だったわけで、それとは別に参謀総長や
海軍のトップ(多分、軍務局長?)がいたわけで
そちらは天皇の直接の下だったわけで。 >>189 >>340 >>341 >>342 >>343 >>344 >>345
北一輝の頭の中の革命とは常に明治維新であり、西郷隆盛の第二革命となる
そのため辛亥革命を除いた海外の革命(フランス革命と米独立革命、ロシア革命)に対する理解や洞察力はあまりないが、
辛亥革命の経験で革命オタクになり、日本では珍しい社会主義が嫌いな革命研究屋・革命愛好家というポジションを獲得した
北一輝は目立ちがりやで出しゃばりを自制できなかったので、情報漏えいが致命傷となる軍事クーデターないし維新革命の再現
という大事業には向いていなかった。そのため統制派からでさえもクーデターに意外性は無かっただろう >>187
>俺は調べて無いから信憑性は不明だが、ブログには昭和初期の文献が出典として挙げられてる
昭和初期の文献らしきものには、戦後に改竄が見られるものが数多くある
総じて言えるのは、共産主義者自称リベラルも自称愛国極左=国家社会主義者のソースは証拠の捏造ばかりで信頼するのは不可能だということだ >>191
犬養の当時はまだ元老が決めてた
内大臣が出てくるようになるのは元老がいなくなった後の重臣会議だね
あと軍の統帥部(陸軍参謀総長や海軍軍令部長)は軍内部で決める
陸軍では三長官会議(参謀総長・陸軍大臣・教育総監)とかね
あと陸海軍大臣は内閣の一員なので軍の動静は機密も含めて総理大臣に報告する義務があった >>193
日支闘争計画の根拠のコミンテルン指令は信用出来る物なのか? 明治ジャーディン・マセソン商会維新150年と孝明天皇睦仁親王××と田布施システム >>182
海軍軍縮条約→軍艦が減っちゃう!→「百発百中の1門は百発一中の100門に勝る」「訓練には軍縮制限は無いぞ」
→訓練訓練猛訓練
帝国海軍はこの辺からおかしくなっていたな 五・一五事件とよくこんがらがる
将校のクーデタだったな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています