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後醍醐天皇が重用した文観の真言立川流はオウムや後期密教の教義に近いとする説もあり弾圧され消滅した
公家・武家・破戒僧による無礼講(乱交)という乱行騒ぎであり、立川流のタントラの実体を問わずとも猪熊事件や花園天皇宸記から朝廷の腐敗・腐臭は十分に推測できる

破廉恥な日本神話の乱痴気騒ぎと一致する点においても、朝廷や京が必ずしも道徳の府でなかったことが分かる
また全てが血縁で動き、前例踏襲主義の朝廷には自浄作用が働きにくく独特の澱みが堆積しやすい

https ://kotobank.jp/word/無礼講・不礼講-2080806

花園天皇宸記‐元亨四年(1324)「不レ着二衣冠一、殆裸形、飲茶之会有レ之〈略〉此衆有二数輩一、世称レ之無礼講〈或称二破礼講一〉之衆云々」
太平記「能く能く其の心を窺ひ見ん為に、無礼講(ブレイカウ)と云ふ事をぞ始められける」

https ://ja.wikipedia.org/wiki/密教
https ://ja.wikipedia.org/wiki/無上瑜伽タントラ

後期密教
中期密教ではヒンドゥー教の隆盛に対抗できなくなると、理論より実践を重視した無上瑜伽タントラの
経典類を中心とする後期密教が登場した。後期密教では仏性の原理の追求が図られ、また、それに伴っ
て法身普賢や金剛薩埵、持金剛仏が最勝本初仏として最も尊崇されることになった。

また、インドにおいてヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受け
たとされる、男性原理(精神・理性・方便)と女性原理(肉体・感情・般若)との合一を目指す無上瑜
伽の行も無上瑜伽タントラと呼ばれる後期密教の特徴である。男性名詞であるため男尊として表される
方便と、女性名詞であるため女尊として表される智慧が交わることによって生じる、密教における不二
智[注釈 20]を象徴的に表す「歓喜仏」も多数登場した。無上瑜伽タントラの理解が分かれていた初期の
段階では、修行者である瑜伽行者がしばしばタントラに書かれていることを文字通りに解釈し、あるい
は象徴的な意味を持つ諸尊の交合の姿から発想して、女尊との性的瑜伽を実際の性行為として実行する
ことがあったとされる。そうした性的実践が後期密教にどの時期にいかなる経緯で導入されていったか
についてはいくつかの説があるが、仏教学者の津田真一は後期密教の性的要素の淵源として、性的儀礼
を伴う「尸林の宗教」という中世インドの土着宗教の存在を仮定した[23]。後にチベットでジョルと呼
ばれて非難されることになる性的実践[24]は主に在家の密教行者によって行われていたとも考えられて
いるが、出家教団においてはタントラの中の過激な文言や性的要素をそのまま受け容れることができな
いため、譬喩として穏当なものに解釈する必要が生じた[25]。しかし、時には男性僧侶が在家女性信者
に我が身を捧げる無上の供養としてそれを強要する破戒行為にまで及ぶこともあったことから、インド
の仏教徒の間には後期密教を離れて戒律を重視する部派仏教(上座部仏教)や、大乗仏教への回帰もみ
られた。