【宗教】「天皇制が性差別などのあらゆる差別をつくり出している」 日本聖公会、日本キリスト教会など「政教分離」訴え声明★10
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
日本聖公会主教会、正義と平和委員会は2月21日、今回の天皇の代替わりに関する一連の行事も、基本的な考え方や内容は、大嘗祭を公的な行事と位置づけ国費を支出した前回を踏襲するとの閣議決定を受け、抗議声明を安倍晋三首相に宛てて送付。声明では大嘗祭を公的な行事とし国費を支出することが日本国憲法20条の「信教の自由の保障・政教分離」に反すると指摘。また大嘗祭を公的な行事と位置づけることにより、天皇が特別な存在であること、さらに神格化のイメージを植え付けることを危惧し、強く抗議した。
2月27日には、21日に安倍首相が天皇に内奏をしたこと、及び翌22日に皇太子を訪問したことについて、日本キリスト教会靖国問題特別委員会(古賀清敬委員長)が安倍首相に抗議声明を送付。象徴である天皇は政治に一切関わってはならないとする現憲法に対する重大な違反であり、天皇の政治利用であると指摘するとともに、政治報告をなすべきは国会であり、政治的責任を果たすよう強く求めた。
また、2月28日には日本キリスト教婦人矯風会が抗議声明を安倍首相や菅義偉内閣官房長官、山本信一郎宮内庁長官らに宛てて送付。声明では、宮中祭祀は日本の文化であるため政教分離に抵触せず、また国費の支出は必要経費である、とすることは日本国憲法20条の「政教分離」、89条の「公の財産の支出又は利用制限」に違反すると指摘。即位礼、大嘗祭などの儀式を国の行事として行うことに強く反対した。
同日、日本パブテスト連盟性差別問題特別委員会は安倍首相に宛てて声明を送付。天皇の皇位継承が男性天皇、男系天皇しか認められていないことなどを指摘し、天皇制が性差別、セクシャルマイノリティ差別などのあらゆる差別をつくり出していると批判。代替わりを前に、一人ひとりの人権が大切にされる歩みへ踏み出せるよう求めた。
キリスト新聞 2019/03/09
http://www.kirishin.com/2019/03/09/23767/
★1:2019/03/10(日) 16:55:33.46
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1552268917/ >>875
少なくとも処分内容みると、そんな感じはあるね 天皇制は天皇を制限するためのものだけど。
天皇の宗教に国が回遊してるのは政教分離に反するという意見はある程度あるな。
皇室もちょっと疑問持ってるだろうし。
政府が憲法違反だからな、天皇制は憲法そのものだし。
主張がわけわかんなくなってるよな。 >>878
同格じゃないよ。外交プロトコルでは天皇の方が上。 キリスト教の方が差別的だろ
新約聖書
コリント人への手紙1
また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。 イギリス王室に同じこと言ってみろ
そのあとで聞いてやる 玉砕した兵士に詫たら?
それは一切しないよなこの世襲 >>882
によると
西暦3000〜3500年には最後の日本人がいなくなるのです。
らしいです
でもこんなことには流石にならないと思いますが
いやこれだけ長く人類が存在してるかもわこらんし、そもそも大規模な噴火でその前に日本人はほとんどいなくなってる可能性もあるけど スレを埋め立てることで読めなくさせる
この天皇とその支持者は >>1
キリスト教徒だけが天国にいく、神に選ばれていると教えるキリスト教は
キリスト教徒(白人)と非キリスト教徒(非白人)の間の差別を作り出してきたけどね。
皇室を蔑視する見方は、あらゆる非キリスト教文化に対する差別心の現れであることに
気付こうね。 >>880
カトリックの方はまだマシな気はするけどね
韓国の影響が少ない分 >>885
へえ、そうなんですか
大統領>天皇>教皇
こんな感じですか? 日本聖公会、日本キリスト教会
↑
サタンの集会所
恥を知れカスが なんちゃってキリスト教はほんとのキリスト教の邪魔なんだよ。 天皇を中心とする、八百万のカルト右翼の巣窟だから大変ですね。
天皇は悪いことしてないのにね。 玉砕した兵士の墓前に足運んで詫びてみろよ
それは一切しない
一切しないよなこの世襲 京都にバチカン市国案
観光立国的にも良いと思うんだけど >>898
逆ではないよ
このスレは朝鮮人が埋める >>900
それ総理大臣がやるべきことだろ?
日本国に土下座、謝罪、賠償しろよ。 >>905
詫びるのは総理じゃねーよ
明治昭和の天皇陛下だ >>906
ウルトラマンセブンの作曲者讃美歌作ってるしなw 政教分離できてないやつらがどの面さげて抗議なんかしてくるのか 重くて読めないよこのスレ
誰が読めなくさせるのかを知れ まあ色々と解釈はあるけど、政教分離の原則は Separation of Church and State の通りに
「政治と教会の分離」であって「政治と宗教の分離」ではないよ。
もちろん「政治と教育の分離」でも無い。
で?
日本キリスト教教会が「政治と教会の分離」について何を言いたいって? >>910
かの民族とやり方がそっくり
かの民族なんじゃないか >>906
円谷英二(つぶらや えいじ、1901年 - 1970年、カトリック、映画監督・特殊撮影技術者) この団体ってよくコピペで住所が載せられてる西早稲田のやつら? >>916
いや廃止案は無理だ
むしろバチカン市国見たいのを作って分離するような案の方が良いと思う 日本聖公会、日本キリスト教会
日本国民と日本の魂を穢した
これがキリストの神としてやっていいことなのか?
ほんとにそれが正しいと思っているのか? >>1
法人税払えカス
政教分離ならまずは創価に文句言えカス >>908
なんでだよ、天皇はそういう存在じゃねぇのに引っ張り出した、明治維新の奴らが謝罪せよ。 日本国民の象徴があらゆる差別の根源などという前代未聞のヘイトスピーチ
つまり日本人が差別をつくりだしているらしい 日本聖公会の声明文を見たけど護憲派っぽいね
憲法って国の統治や有り様を定めるものなんだけど
それを宗教が引用してとやかく言うのっておかしいよ >>922
憲法改正には国民の大多数の賛成が必要なんだっけ?
少なくとも100年とか経てば日本人の考え方が変わってる可能性もあるけど
現状では現実的ではないだろう
やはり京都に天皇教団バカチン市国案の方が優れている 反日ウリスト狂に堕した日本のプロテスタント諸教会
しっかりしろ >>918
大いに関係ある、NCCの団体ってことで >>923
だからもう求めていないわ
何百万人殺した昭和天皇なんざ死んじまってんだから
天皇陛下はこの過ちやってきた日本の天皇制を自らやめるよと国民に問うたらいいんだぜ >>933
海外だと悪魔のヒロヒトみたいな扱いされてた人がなぜか戦後は植物学者だもんなあ
世界一の変わり身の速さ
でも世界の歴史なんてほとんど殺し合いの歴史だから時代がそういう時代に戻ったら偉大なる将軍みたいな扱いされるかもしれない >>933
明治憲法では大臣が天皇を補弼することになってるんだけど知らなかった? 日本聖公会管区事務所だより(2019年2月25日)より抜粋
1919年の2.8独立宣言(東京)、3.1独立運動(ソウル)から100
年目を迎える今年、1910年の「韓国併合」から始まり、日本が35年
にわたり韓国を支配した歴史の流れの中で、1923年の関東大震災
の時には朝鮮人大虐殺があり、強制連行・強制労働や日本軍「慰
安婦」という負の遺産を記憶します。朝鮮半島の分断や済州4.3事
件につながる大きな要因が日本の起こした戦争にあったことや、天
皇を中心とした国家神道の名のもとで植民地支配と侵略戦争をし
た反省の上に作られた憲法を守ることも、私たちの戦争責任である
と思います。3.1独立宣言は、敵国である日本に対して真の友好関係
の樹立を呼びかけ、非暴力の運動として呼びかけられました。近代
史を学び、イエスさまの十字架の意味を再確認する必用があるよう
に思います。
ttp://www.nskk.org/province/jimusyo_pdf/tayori340.pdf
沖縄の米軍基地の件とかもいろいろ言ってた
こんな過激な集団とは全く知らなかった
絶対に近付かないようにしよう… >>849
吉田松陰が育てた陽明学徒の維新勢力は禁門の変で賊軍・朝敵となり、さらに天皇親政運動を封殺しており、陽明学徒はその時々の情勢に応じて天皇の利用を流動的に使い分ける傾向がある
陽明学は経典を軽視する傾向が顕著なため、これに驚きはない
そのため陽明学徒には経典も含めて外部から見た道徳的な制約は存在しないが、朱子学徒は事実・現実を無視した儒教序列妄想に強烈な執着を持つ
朱子学水戸藩は内紛と内部粛清でぼろぼろになり、儒教道理等には眼中にさえない陽明学徒テロリスト兼反乱軍(元賊軍)・一揆軍部隊長が政権を奪取したのは合理的必然であると言ってよい
https://ja.wikipedia.org/wiki/陽明学
経書の地位低下
心を外的な規範から解放した結果、六経などの経書を尊び学ぶ姿勢が減退していくことになる。王陽明自身は「吾が心に省みて非なれば、孔子の言といえども是とせず」
と言い切ってはいても、未だ経書への姿勢は謙虚さがあった。しかしその弟子、就中高弟と言われる者でも生涯に読んだ経書は四書だけといわれる人が陽明学派から出て
くるようになる。かくして経書はその聖性を減じていき、六経は単なる歴史に過ぎないという解釈が生まれた。これは清代考証学の一派である黄宗羲ら浙東史学から章学誠
を経て、章炳麟へ受け継がれていった。
元田永孚が宮中や教育を朝鮮朱子学で汚染したのに対して、反朱子学である陽明学を学んだ西郷隆盛の西南戦争(第二維新、第二革命と北一輝は名付ける)の例もある
陽明学を学んだ革命愛好家・趣味的革命研究家である北一輝は、明治維新革命の延長(長州は朝敵であったため明治維新と皇道派との整合性はないので延長ではない)
であると皇道派の将軍に売り込むためか、または朱子学的だった世相を考慮して天皇親政を掲げた
一方で窮乏していた貧民層を救うために、明らかに肥大しすぎた皇族資産の凍結・徴収といった皇室・皇族が嫌悪する政策(しかし否定すれば皇族に理は失われる)
を提案しているが、これは皇族サイドの欲やエゴにはマイナス要因としかならず、権力者・序列主義への忠誠が全てに優先される朱子学的思想から逸脱したことで、
信じがたい非礼、として皇族や宮中を激怒させたことは容易に想像できる
天皇親政という朱子学思想(建前)と、弱者救済や改革といった陽明学思想(本音)が混在する倒錯は、賊軍・朝敵となっても力と流血で全てをひっくり返して権力を奪取する(明治維新、足利尊氏等)
という軍事クーデターとの相性は最悪でありニ・二六事件は必然的に失敗した。また北一輝のような目立ちたがりやの革命愛好家・革命オタクが関わり表に出張ると情報が外部に漏れて時宜を見失うことで失敗しやすくなる >>938
天皇親政運動を明治天皇の意向を受けて主導した元田永孚による朝鮮朱子学から生まれた国学を用いた天皇儒教権威の強化によって、
戦前は神風神話・神明に加護された神州不滅思想のような神話が生まれた
結果として無様な敗戦をきっする前までは天皇になにか超人的な力(超能力や霊力)があると期待していた宗教的風潮があったと見られるが、戦後に神国神話は
敗戦という現実によって粉砕されごく一部の狂人しか信じるものはいない
https://ja.wikipedia.org/wiki/神州不滅
江戸時代
江戸時代末期、藤田東湖は「神州誰君臨、万古仰天皇」と述べ、「支那」は革命を主体とする国家で王朝交代があるので「正気観念」にも変動があるが、
日本は万世一系の皇室を頂いて永遠に変わらないので「正気観念」にも変動が無く、そこに日本民族の特徴があるとした[1]。藤田東湖は「正気」とは
一般的には道義、特殊的には忠義であるし、更に「正気」の粋を集めた「神国日本」のその皇風が世界に広がり、皇室の御聖徳は太陽にも等しい、とした[1]。
藤田東湖の「正気歌」は吉田松陰や、明治の広瀬武夫にも影響を与えた[1]。平田篤胤の思想と、この水戸学の勤皇思想が混ざり、幕末に「神州不滅」の思想
が巻き起こった[2]。
明治以降
大日本帝国憲法では、日本は万世一系の天皇が統治し、天皇は神聖と明記された。
昭和および太平洋戦争終結時迄は、軍部によって「神国日本」「神州不滅」など、民族主義、精神主義、宗教などの傾向を持つスローガンが広く使用された。
また「神州不滅」の理由として、日本は神国であるから国家の危機の場合には元寇と同様に神風が吹く、とも説明され、神風特別攻撃隊も組織された。 >>933
満州事変にも三国同盟にも日米開戦にも反対だったよ昭和天皇は >>939
>北一輝は、日蓮主義者だったんでしょ。
北一輝は戦前の日蓮主義とは距離があるし、石原莞爾ほど低能ではない
印象としては日蓮宗というよりは日本版(劣化)マニ教の信者に見える
北一輝の著作を見ると(社会・共産主義を否定した上での)社会進化論、超人進歩史観に関する論考と、日本人の古代中世儒教土人社会と西洋の人権の対立をどう解消するかの論考が大半を占めるため、
仏・大宇宙・個人融合観、天理教蔑視といった点が日蓮宗要素となるぐらいで、石原莞爾のような霊感商法的なところはない
北のアメリカ(それと南京政府)と組んで、英国の植民地を解放するプランは、石原莞爾のような上位者の意向に合わせるだけの欧州出羽守には発想さえ難しい
そもそも北一輝は天皇機関説側の人間であり、天皇本仏論を信じているとは考え難い。ニ・二六事件の天皇親政はどう考えても明治天皇が乗り出したような親政とは真逆で
天皇に新憲法を入れさせた後は、天皇から権力・余剰財産を剥奪する道筋にしか見えない。これは青年将校にも大なり小なり共通した思想であった可能性はある
初期の北一輝の社会主義というのは、法の下の平等や、誰にでも国民の権利があるから社会主義というトンデモな定義なので、北の思想では明治維新初期も社会主義になる
だから純正社会主義は、どう考えても社会主義ではない。西郷隆盛は北一輝的には社会主義者となってしまう
証明なしで言葉の定義上から自己理論を導出していくのが北一輝に見られる特徴であり、北一輝の趣味である革命研究、それと西郷隆盛の第二革命は掘り下げるが
定量的な政治経済理論には関心があるとは言えず、ある意味日本人らしい儒教土人的理論軽視、エビデンス軽視は北一輝にも見られる
https://ja.wikipedia.org/wiki/磯部浅一
磯部、北らによると、日本は明治維新革命以来「天皇の独裁国家ではなく」「重臣の独裁国家でもなく」「天皇を中心とした近代的民主国」であったのだが、
「今の日本は重臣と財閥の独裁国家」としている。そしてその大義を理解しなかった昭和天皇を獄中から「御叱り申して」いた[5]。
磯部・村中・北・西田は、銃殺時に「天皇陛下万歳」は唱えなかった[6]。 フィアンセへの特別待遇は、
寄り添うとか甘い事言って、国民に乗り掛かかっての特権発動 >>941
北一輝の問題点は日蓮宗であったことでなく、辛亥革命に参加したエキスパートを名刺代わりにしていたのに肝心の革命技術において名前倒れだったことだ
また日蓮宗がクーデターで今後用いられる可能性はほぼゼロに近い。なぜなら神風・神洲伝説は終わったのであり、日本は極東の弱小国に戻り、
確固とした説のないチャラい教義の島国カルトで有力国との関係を維持・構築するのは不可能だからだ
二・二六事件の将校のうち少数が北一輝との師弟関係的なもので、北一輝の思想は参考程度だったと考えるほうが現実的だろう
青年将校は窮乏する社会との関わりから得た義憤やルサンチマンは持っていたとしても指針がなかった
北一輝は革命オタクとして明治維新の第三革命(失敗した西郷隆盛の第二革命のやり直し)を提供したわけだが、青年将校側に必要なのは大まかな枠組みではな
く失われた明治維新のノーハウであり、それを埋められるのは、辛亥革命に参加した北一輝しかいない
しかし北一輝はあくまで辛亥革命のサポーターであり、外国人である北一輝は当事者・責任者とは言えないし、本物の革命家である孫文は
米国式の信奉者であるため、北一輝とは相容れない。孫文を批判しているが、孫文ほどの能力が北一輝にあったかは疑わしい
北一輝の過剰評価・過剰な名声が合わさったことで、二・二六事件はおかしな方向にいった
小手先的に天皇親政を掲げるのは、朝鮮朱子学土人の心を安心させる一時的効果しかない。明治維新の例でいえば最悪の状況では朝廷に射撃・砲撃をしたり、
長州や薩摩は裏で天皇を毒殺しかねないほどの危険人物を揃えていた (実際に実行したかは知らないが最後まで長州討伐にこだわった孝明天皇のヒ素暗殺説もある)、
足利尊氏や鎌倉幕府は島流しにして差し替えるぐらいの緊迫感があるのに、 北一輝の天皇親政論には合理主義が徹底されているとは言えない
名前の通り「一揆(一輝)」であれば徳政令や米の配給・分配、フランス革命であればパンという明確なゴールがあるため、分かりやすかったが、
大風呂敷をたたんで限定的な直訴でもなく、いまいち悪目立ちばかりして、青年将校の足を引っ張っていた感も拭えない
二・二六事件は今後軍事クーデターがおきる際の失敗例として研究対象となることは間違いないが、北一輝と青年将校が明治維新の事例を踏襲していたのならば
真っ先にやるべきことは余計な政治テロは一切せずに皇居への進軍と、堀によって囲まれ脱出しにくい旧江戸城・皇居の包囲と皇室の身柄確保、さらに皇居を人質にとって他軍の介入排除および統制派の殺処分だ
そして身の危険を感じても天皇が新憲法に同意しない場合は孝明天皇コースとなる >>894
宮内庁の式部官と外務省研修所講師をつとめた友田二郎氏の著書『外交儀礼とエチケット』
によると、万国共通の席次は、第一が国家元首(皇帝、大統領)
どの国の国家元首を上にもってくるかは、主催国やその時の国際関係の事情などによって違うんじゃないかな
教皇はヴァティカンの国家元首だけと、現在の天皇は国家元首とされているわけではない
日本の国家元首がだれなのかは諸説あり、天皇、総理大臣、だれもいないが主な説
しかし国際親善では天皇が国家元首の役割をつとめるから、普通は天皇だと思う >>943
強気だった山内容堂や老中も身の危険を感じるや服従したため、孝明天皇コースの確率はほぼゼロと見て良い
ようは薩長のように覚悟を見せれるかがクーデターの鍵と言える
長州や薩摩ならこれぐらいは平気でやるだろう
つまり薩長・足利尊氏ほどリアリズムに徹しきれない時点で敗北は確定していたということだ
長州や過去の幕府の例でいえば朝敵・賊軍になった方がクーデター側が一致団結しやすいのだから、皇居に対しての攻撃を躊躇すべき合理的理由が見つからない
皇居の電気・電話を遮断し、水道さえも止めて外部から隔絶させれば、天皇が偶然に砲撃で死んでも外からは分からない
逆に近衛兵が狂って天皇を殺したことにして、傀儡にできる若年の新天皇を即位させてもクーデターは成功する
明治維新の教訓を全く踏襲しなかったのが、二・二六事件だと言って良い >>945
明治維新の序章となった尊王攘夷は水戸朝鮮朱子学が巻き起こした狂騒は宮家や公家、門閥一族・宗族にとっては最初で最後の復権チャンスだった
葵の御紋の権威は維新戦争での敗戦で失われたが、菊の御紋や血筋で全ての欲望が満たすことができる時代は無様で悲惨な敗戦と共に終わった
門閥貴族の特権意識で戦後資本主義を生きるのは大変な困難だったろうが、それでも縁故資本主義の日本では何のバックもいない貧乏人に比べれば遥かに生きやすかったことだろう
しかしその門閥のアドバンテージも日本の豊かさの源泉であった技術競争力の低下によって経済が崩壊する見込みのある現在では無効となる見込みであり、従来の利権を守ろうとすればするほど
あらがいようのない運命・対流によって深い沼に引きずり込まれ徐々に落ちて、もがき苦しんで死ぬことになる
https://ja.wikipedia.org/wiki/水戸黄門
この講談話の始まりについては、一橋慶喜を将軍職に就けるため、父である水戸斉昭が裏で動いて、水戸徳川家は「天下の副将軍」であるという話を世間に広めようとしたのだという説がある。
しかしながら光圀が正すのは局所々における役人の不正であり、時には身分制度の掟で結ばれない恋人同士に粋なはからいを示すことなどはあるが、身分制度の矛盾を根本的に正す社会改革にまで踏み込んだ対応を試みようとすることはない。
印籠で平伏するような人間は今の時代いないし、存在しない権威を振り回して暴れたり、洗脳やビジネスツールとして低能を信じさせるための詐欺に使う内質は幼児退行であり、現実逃避に過ぎない
悔しいなら門閥・貴族の一族が本気を見せて日本の経済や競争力を回復させれば良いだけだが、そんな実力がないのは本人達が重々承知しているだろう
なぜ安定して繁栄してきた日本が不運に見舞われ、失敗し続け、衰退中かということだが、それは国民を家畜にしてきたからだ。自由と正義を自ら放棄するような国民は自ら考えることをやめて家畜化され、
上位者である無能で下劣な品性しかない門閥や宮家の残りかすである愛国自慰廃棄物を模倣する。二言目に忠君や国体を連呼するような無能依存体質が下の重層的身分階層に下方伝播・伝染するという至極当然な道理に過ぎない
つまり底辺まで腐りきった儒教的衰退と言える
皮肉なのはアメリカは真剣に日本人が自由を持ち人間としての尊厳を取り戻せるよう願っていたことであり、それが実現すれば門閥一族は一定の権威を保つことも可能だったかもしれないことだ
しかし所詮は飼いならされた家畜しか望まない儒教政府では限界があり、自らの無能という印籠紐によって首がしまって窒息寸前という実に同情が不可能な醜態をさらしているのが現在の状況だ
国難時の力の源泉は皇室や国体の失われた権威ではなく、優れた武器と金となる。それを誰よりも持っているのは言うまでもなくアメリカであり、日本がアカく染まって中国の属国となり日本の血の中国人化が進む前に
アメリカは介入するだろう まともなキリスト教団は仲間と間違われるからしっかり抗議なりしといた方がいいぞ。在日問題と一緒で身内の不逞を見て見ぬ振りしてたらやがて関係ないと思ってる自分達にも疑惑の目が向けられるよ。 >>937
日本共産党とか極左とかの主張とほとんど一緒ってのがなあ >>946
明治維新の前哨戦において薩摩藩は勅令と軍を使い幕府老中の(殺害)脅迫・強要をして要求をのませたという(文久の変)
さらに小御所会議では優勢な論を展開した山内容堂に対して殺害をほのめかして黙らせた。この当時、勅令・勅書はヤクザ顔負けの強引で理不尽な要求を
押し通すための恐喝・脅迫に使用された小道具だったが、長州は平気で朝敵・賊軍となり戦争を継続し薩摩も裏で強力をしているため勅書など全く意にかいしないものが多くいたということだ
今なら勅書など発行しても銃弾・爆発物で消し飛ぶ、頑張って劣化楠正成を探そうとしても勅書程度に自らの人生を振り回され、生命の危険のリスクをとるのは相当な知恵遅れだけだろう
科学的軍事理論を学んだ連中に勅書などは到底通用する理屈ではなく、血統世襲理論で印象は最悪になるので効果はむしろマイナスとなる
山内容堂や老中の例でも分かる通り武家の名門・門閥一族は自らの命が危機に瀕すると見るや下級武士の脅迫に対してあっけなく屈する腰抜ばかりで、名門の誇りもあったものではない
薩摩藩と長州藩の強さは青白い顔の名門では思いつきさえしない、下級武士ならではの脅迫や暗殺、テロを平気でやってみせる決断力と実行力にあった
つまり薩長の物理的脅迫は現代でも十分に通じる表現方法だということだ
だが薩長の下級武士も道徳面では特権に安住して腐敗しきった公家よりはおそらくマシだった。そして没落する上級武士を横目に下級テロリスト武士が栄達し実権を握ったのは
武士どころか下民出身の伊藤博文と山県有朋という有様だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/猪熊事件
公家衆乱行の発覚
左近衛権少将・花山院忠長は、ある時後陽成天皇の寵愛深い広橋局(武家伝奏・大納言広橋兼勝の娘)に懸想した。
そこで宮中深くまで出入りを許されていた歯科医の兼安備後(妹の命婦讃岐も宮中に仕えていた)に仲介を頼んで文通を始め、
それをきっかけとして二人で逢瀬を重ねていた。その話を漏れ聞いた猪熊は、俄然興味を持ち、かねてから懇意の飛鳥井雅賢
をはじめ、言葉巧みに他の公卿・女官をも誘い出し、様々な場所で乱交を重ねることとなった。
しかし、このように大人数の乱行が発覚しないわけはない。飛鳥井には恨みを含む女性がいた >>950
朱子学を教育勅語に編み込んで日本人を朝鮮朱子学で洗脳した元田永孚に先駆けて日本国内に李氏朝鮮の朱子学を復元した壮大な社会実験は水戸藩で行われた
朝鮮人的思考形態を持つ陸軍統制派によってさらに拡大運用された結果として集団パニック症候群が大量に発生した。現代の愛国烈士の姿は天狗党に被る
https://ja.wikipedia.org/wiki/天狗党の乱
天狗党の発生
こうして権力を得た一派は、反対派から「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということ
で、天狗党と呼ばれるようになった。これに対して斉昭は、弘化2年(1845年)10月に老中阿部正弘に対し、江戸では高慢な者を「天狗」と
言うが、水戸では義気があり、国家に忠誠心のある有志を「天狗」と言うのだと主張している[3]。とはいえ、天狗党という集団はその内部
においても盛んに党争と集合離散を繰り返しており、それぞれの時期においてその編成に大きな差異が見られる。まず天狗党は後述する
「勅書」返納問題において鎮派・激派に分裂したうえ、さらに激派内でも根拠地別に筑波勢・潮来勢などの集団があってそれぞれ独自に動
き回っていたことから、『水戸市史 中巻(五)』においては、一味の総称である天狗党の呼称を、最終的に京へ向かって西上した集団に
限定して使用している[2]。
大発勢の出陣と那珂湊の戦い
江戸の水戸藩邸を掌握した諸生党に対し、激派・鎮派は領内の尊攘派士民を下総小金(千葉県松戸市)に大量動員し、藩主慶篤に圧力をかけ
交代したばかりの諸生党の重役の排斥を認めさせ[15]、水戸藩邸を再び掌握した。しかし、市川らによる水戸城占拠の報に接し、国元の奪還
を図ることとなった[16]。そこで、在府の慶篤の名代として支藩・宍戸藩主の松平頼徳が内乱鎮静の名目で水戸へ下向することとなり、執政
・榊原新左衛門(鎮派)らとともに8月4日に江戸を出発した。これを大発勢という[17][18]。これに諸生党により失脚させられていた武田耕
雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民が加入して1000人から3000人にも膨れ上がった。
投降
関東において天狗党がもたらした惨禍を目の当たりにしていた意尊らはこの光景に激怒し、加賀藩から引渡しを受けるとただちに天狗党員
を鰊倉(鰊粕の貯蔵施設)の中に放り込んで厳重に監禁し、小四郎ら一部の幹部達を除く者共には手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本に限り、
一日あたり握飯一つと湯水一杯のみを与えることとした。腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠る狭い鰊倉の中に大人数が押し込められ
たために衛生状態は最悪であり、また折からの厳寒も相まって病に倒れる者が続出し20名以上が死亡した。
この時捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑された。1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内に
おいて斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに斬首を終え、他
は遠島・追放などの処分を科された。
乱後
天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では市川三左衛門ら諸生党が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑した。
水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、藩内抗争は他藩にも例を見ないほどの凄惨な殲滅戦となって人材のことご
とくを失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることは無かった。 >>951
明治天皇は儒教的専制君主となるよう積極的に動いていた時期があった(大久保の暗殺後に政治空白が生まれ宮中での天皇親政運動が強まる)
明治天皇とその側近である侍補グループの天皇親政運動は五箇条の御誓文や維新革命後の政治体制に反する存在となった為に伊藤博文が介入した。最終的に軍の支持を受けた伊藤
の封殺案に抵抗する術はなく、侍補は廃された。宮中グループはその後も教学聖旨によって儒教君主化を企んだが伊藤博文はこれも頓挫させた
「〔明治13年〕11月3日(東京)天皇誕生日。この国の人民がその君主に寄せる関心の程度が低い有様をみることは情けない。
警察の力で,家々に国旗を立てさせねばならないのだ。自発的にやるものは、ごく少数だろう」(エルヴィン・フォン・ベルツの日記より)
憲法の制定後は明治天皇の権力はさらに制限され、親政の希望は失われたが、伊藤博文は傀儡となった天皇の権威を最大限利用すべく動き
最終的には西欧におけるキリスト教の役割となることを期待し、操り人形の前提で天皇崇拝を強化した
明治天皇の信任が厚かった宮中グループも、朝鮮朱子学による天皇儒教権威の強化、儒教的・絶対的な天皇中心主義が教育勅語に組み入れられたことで満足(侍補達の権威アップ)し、その後はおとなしくなった
https ://ja.wikipedia.org/wiki/明治天皇
若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者・元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。
教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命されたことには不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省
の顧問として御用掛に任命されることを知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2か月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。
https ://ja.wikipedia.org/wiki/機務六条
宮中側は明治天皇が儒教に基づいた東洋的な専制君主として「天皇親政」を行うべきであると主張し、明治天皇への帝王教育もその路線で行ってきた。これは将来的には天皇を西洋的な立憲君主として近代国家の中枢に据えようとす
る太政官の方針と矛盾したものであった。このため、岩倉や伊藤らは侍補を廃止して親政路線を停止しようと図ったが、明治天皇自身が元田永孚・佐々木高行ら侍補に心を寄せて彼らを私的なブレーンとして遇し、彼らが期待する君主像を実現させようと試みた。
1879年(明治12年)3月10日、明治天皇が「勤倹の聖旨」を公布して政府の財政路線を批判し、続いて元田に「教学聖旨」を執筆させて教育政策を批判した。伊藤らは天皇と宮中側の関係を改めさせようとしたが、急速に立憲制が確立することで
公家出身の門地に依存してきた自分の地位が危うくなることを危惧した三条や岩倉は、元田や佐々木らの宮中側勢力を完全に抑えることには消極的で、大隈財政末期の外債発行問題などでは宮中側と連携して太政官側を動かそうとする動きも見せたのである。
https ://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤博文
お雇い外国人であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤が会議の席上、半ば有栖川宮威仁親王の方を向き、「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。
生まれるが早いか、到るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたことを紹介している。 >>793
伊藤博文は百姓、山県有朋は奉公人の出身と記憶しているが、明治維新の長州閥に限定すれば大規模な身分変動があったことになる
足利尊氏のように賊軍・朝敵になってから政権を奪取したりする例はあるが、百姓・奉公人の血筋からの出世では豊臣秀吉以来と言えるだろう
王政復古・明治維新後には公家や宮家が権勢を振るう可能性があったが、権力を得たのは伊藤博文と山県有朋を筆頭にテロリスト兼反乱軍(元賊軍)・一揆軍部隊長のような指折りの危険人物
ぞろいであったため明治天皇や側近・皇族・公家を差し置いて実権を握ったのは長州・薩摩の勢力となった。伊藤博文と山県有朋は天皇親政運動を封殺して天皇から実権を剥奪したが
元田永孚や公家からの圧力を受け教育勅語において妥協をしている
伊藤や山県の死後、薩長では天皇や側近に薄気味悪さを感じさせる(怯えさせる)ような人材を輩出しておらず、教育勅語で元田永孚(熊本藩の上級武士出身)がしかけた時限爆弾に
よって国論の儒教化・朝鮮朱子学化の圧力が急速に強まっていくことになる。朝鮮朱子学の暴走の歯止めとなっていた明治の元勲が消えたことで、止め金が失われたわけだ
儒教・朱子学は短期的に社会を安定させる効果と、長期的に停滞をおこし社会を過激な動乱に導く滅びの笛であり、定期的に動乱の渦に国が呑まれていくことになる
https://ja.wikipedia.org/wiki/元田永孚
朱子学的な大義名分論を日本の現実社会に徹底化して、修身と治国の一体化を図ると共に皇室への崇敬を一種の「国教」として確立することを
目指した元田の「政教一致」路線は、教育勅語を通じた天皇制国家の確立によって実現されていく。 >>953
北一輝が西郷隆盛の信奉者であったことを考えると、儒教君主の天皇親政とは考えにくいため、本音は別のところにあったのかもしれない
しかし明治天皇が儒教君主になろうと天皇親政運動をしていたことを北一輝が知らない可能性もある
ある意味では伊藤博文・山県有朋が明治天皇の親政の希望を断ったのも事実ではあるし、プロイセン・ドイツ流の国家主義はカルテル経済のハリボテであったので
両名に対する批判はもっともであるが、伊藤博文が傀儡として天皇を利用せず、明治維新が天皇親政に向かおうとした場合は、薩長や雄藩の軍人によって国体(天皇を中心とする国家体制)が消滅していた可能性もゼロではない
https://ja.wikipedia.org/wiki/孝明天皇
その後、幕府・一会桑・薩摩藩・長州藩等の諸藩・公家・志士達の権力を巡る争奪戦に巻き込まれていくと、孝明天皇自身
の権威は低下していくことになった。
1865年(慶応元年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は、艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を
天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出すこととした。だが、この年には実際には宮中のみに留
まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は崩さなかった[注 2]。
このような状況の中で、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出するよう
になる。第二次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通は西郷隆盛に宛てた書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言[5]し、
岩倉具視は「国内諸派の対立の根幹は天皇にある」と暗に示唆して、「孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果た
し、政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよ」と記している[6]。こうした中で1866年10月8日(慶応2年8月30日)には、
天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後薩摩藩の要請を受けた内大臣・近衛忠房
が天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは
誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている[7]。 >>956
中国をお手本とした結果、「女三界に家無し」なんていう蛮族の因習が作られた
「女三界に家無し」
《「三界」は仏語で、欲界・色界・無色界、すなわち全世界のこと》女は幼少のときは親に、嫁に行ってからは夫に、老いては子供に従うものだから、広い世界のどこにも身を落ち着ける場所がない。
【日中】安倍首相「漢字や仏教、社会制度、都市づくりは 中国から日本に伝わった」「中国は長く日本のお手本」北京のフォーラムで★2
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1540695700/
「三従四徳」
昔の中国の女性への教え。
「三従」は従うべき三つのことで、幼い時は父親に従い、嫁いだ後には夫に従い、年老いたら子どもに従うべきであるということ。
「四徳」はいつもの生活で心がけるべき四つのことで、女性としての節操を守ることをいう婦徳、言葉遣いをいう婦言、身だしなみをいう婦容、家事をいう婦功のこと。 >>957
渡来思想である仏教に挑んで敗者となり奴隷となった神の子孫物部氏や、世界を霊力で征服する予定だった「神の子神武天皇」の子孫である「現人神」が
天候関係なくサングラス着用で田舎者が好きそうなコーンパイプでタバコ中毒の肥満中年の一軍人に、取り巻きの高齢者重臣と一緒に命乞いをして身分維持・制度維持
のバーターとして憲法9条という信じがたい悪法を制定し国を売り渡すとは、反科学的で合理的な思考のできない頭の出来が悪い愛国火病には到底予想できず、戦後70年経過しても理解できないのだろう
まさに神話が作られた瞬間と言える
人間なら失敗するので敗北後に命乞いのため売国をした点は理解できるが、神の子孫がこの体たらくなら「自称神の子孫」「偽の神の子孫」だったと判断すべきなのか、
排泄物、目くそ・鼻くそや嘔吐物で出産し嬰児を殺害するイザナギ・イザナミの子孫であればこの程度で納得と思うかは信仰心にもよるだろう
ちなみにイザナギからアマテラス、間をはさんで神武天皇という系譜なので神武天皇は女系から正統性を得たと言えないでもない
https://ja.wikipedia.org/wiki/現人神
なお陸軍中将であった石原莞爾は日蓮主義の見地から独特の終末論的な世界観を持っていたが、著書の
『戦争史大観』(1941年)には「人類が心から現人神の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。」
「更に端的に云えば、現人神たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむる」としている。
本書は用紙統制・出版統制が行われている中で検閲を通過して出版されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本国憲法第9条
本条の淵源
本条の淵源については、立法経緯が複雑であることもあって様々な議論がある[12]。憲法9条の発案において、その背景にあった、
主な動機は、「連合国が参加する極東委員会の中の、中華民国・オーストラリア・フィリピン・ソビエト社会主義共和国連邦などの
国家や、アメリカ国内世論[13][14]からの『天皇制の保持』に対する批判を逸らす為であった。」という見解で、日本人もアメリカ人
の学者も一致する傾向がある、とされる[15]。 >>937
昔のことばっかり。
こいつ等は、そうした事件から100年過ぎても言い続けるつもりだろうか。
後ろ向きで暗い奴だわな。 >>958
https://ja.wikipedia.org/wiki/奴婢
ヤマト王権では、もともと奴隷階級であったものを「ヤツコ(夜都古)」と呼び[1]、奴婢はそ
の子孫であるか、前述の捕虜や帰化人、あるいは罪人で奴婢に落とされた者であった。律令法
においては、良民を奪って奴婢とすることは賊盗律で禁じられていたが、逆に言えば誘拐して
奴婢とする習慣があったということである。経済的理由で奴婢となる者もおり、債務返済では
役身折酬と呼ばれる返済方法が認められていたので、多額の負債を背負わされて奴婢に落とさ
れて使役される者もいた。
奴婢はもともと売買の対象であったが、律令が整備される過程で田畑と同じような扱いを受け
るようになり、弘仁式によると持統天皇4年(690年)に、いったん奴婢の売買が禁止されたが[2]、
翌691年2月にはあらためて詔を発して官司への届出を条件に売買が許可されることになった[3]。
...
律令制崩壊後
律令制での身分制度としての奴婢は消滅したが、その後も日本では下男下女など隷属的な
年季奉公人が、奴婢と称された。また経済的な奴隷は中世を通じて存在して広く売買され、これら
は用途によって様々な呼称があるが、総称としては同様に奴婢と呼ばれた。平安時代以降の歴代政権
も奴隷や賤民の存在を否定することはなく、法的に公認していた。人身売買はたびたび禁止されたが、
それはあくまで自由民の売買を禁じたものだった。戦争による捕虜や拉致された非戦闘員など、多数
の奴隷が発生した戦国時代には、スペインやポルトガルを通じて海外への輸出も行われた。このよう
な身分制度は明治4年(1871年)の解放令まで続いた。 >>961
https://www.andrew.ac.jp/soken/pdf_3-1/sokenk193-2.pdf
前期倭寇は食糧の他に人々を捉え, これを奴隷として使役したり売却したりしたと述べた。
後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行っている。中国東南部の江南・淅江。福建などを襲
撃し人民を拉致した倭寇は対馬・松浦・博多・薩摩・大隅などの九州地方で奴隷として売却
した。これらの奴隷は, 牛馬の飼育や薪取り, 水汲みなどの仕事をさせられた。さらに彼ら
の一部はポルトガル商人によってマカオに転売され, そこから東南アジア・インドに送られていった。 >>962
https://ja.wikipedia.org/wiki/律令制
身分制度
日本の律令制における身分は、良民と賎民に大別される。良民は、高級官僚である貴族を初め、
下級官人、一般の百姓(公民と呼ばれることもあった)、雑色人(品部・雑戸という工芸技術を
持つ半自由民)があった。賎民は五色の賎と言われ、陵戸(天皇・皇族の陵墓を代々守る家系)、
官戸(諸官庁に属し公用に従事)、公奴婢(官有の奴隷)、家人(貴族や有力者に属し雑用に従事)、
私奴婢(私有の奴隷)があった。
賎民のうち、公奴婢と私奴婢は売買の対象とされるなど、奴隷として位置づけられていた。この
ように、律令制下では奴隷制が存在していた。 >>949
日本聖公会ってのはイギリス国教系だし東京裁判史観ばりばりだろうしね
立教もだし、関口宏なんか典型w >>963
聖徳太子の憲法17条も論語の学而や礼記のコピーとされている
https://ja.wikipedia.org/wiki/学而
有子曰:「禮之用,和爲貴;先王之道,斯爲美;小大由之。有所不行,知和而和,不以禮節之,亦不可行也。」
(有子曰く「礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美と為す、小大これに由るも行なわれざる所あり。
和を知りて和すれども礼を以てこれを節せざれば、亦行なわるべからず。」)
『中庸』は中華主義者がしばしば引用する
日本中華主義・日本型華夷思想
https://ja.wikipedia.org/wiki/中華思想
江戸期日本の中華思想
明が異民族王朝の清に支配されると、日本の朱子学者の一部、林羅山などは、日本の
天皇家は中華正統王朝である周王朝の分家である呉の太伯の子孫であるから、日本こ
そは中華であると主張し始めた。更に、明の遺臣の一部は清に仕えることを潔しとせ
ず抵抗もしくは亡命し、そのうちの一人である朱舜水は、夷狄によって治められてい
る現在の中国はもはや中国でなく、亡命先の日本こそが中華であると述べた。日本の
江戸時代の儒学者山鹿素行も著書『中朝事実』の中で同様の主張をした。また、国学
者本居宣長も日本外交史を扱った歴史書『馭戒慨言』おいて、世界の国々は日神の子
孫である天皇に朝貢してその暦を奉じるのが正しい姿であり中国皇帝は「戎王」に過
ぎないとして、中国中心の華夷秩序を反転させて日本中心の華夷秩序をあるべき姿と
して描いている[12]。これが後に水戸学や平田派国学へも思想的影響を与え、幕末の
尊王攘夷論に結びつくこととなる。
太平洋戦争中に天皇を現人神として崇め奉り、軍 部が敗色濃厚になるや神州(中華正統王朝)
不滅を唱えるに至ったのも、朱子学に基づく中華思想に影響されたものであるという[13]。 >>916
おまえが日本から出て行けば解決する
早く出て行けよ? >>960
キリスト教自体が
「奴隷向きの陰気なルサンチマン宗教」
と哲学界で言われている >>965
日本とは戦争をするよりも、戦争継続のための資源を干上がらせて
大陸から撤退させるというのがドイツとの戦争を目指した勢力(ユダヤ人が筆頭)を除いた戦前のアメリカ側の見立てだ
あえて戦争を仕掛けたのに自国の無力を嘆き悲しみ、敵国に対し道徳と情けを求めるくらいなら、はなから
世界最強国に戦いを挑むなんて考えなければよかった
そもそも1942年には鬼畜米英なりを言い始めた朝日新聞・軍部等が、情け容赦のない相手だからと負け戦に国民を引きづりこみ玉砕自殺を強要するのは喜劇そのものだ
最後は無様な命乞いで終わったが、より悪いシナリオもあり得た
脳なしが描く儒教パターリズムが産んだ悲劇だが、いまだに道徳的勝利と中庸を追求し負け犬が戦争の正義と聖戦を主張して
泣き喚いたところで虚しいだけだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の分割統治計画
三ヶ月目からは、米軍を撤収させ、各国軍に占領させる。
ソ連:北海道、東北地方。
アメリカ:本州中央、関東、信越、東海、北陸、近畿。
中華民国:四国。
イギリス:西日本(中国、九州)をそれぞれ統治
東京は四カ国共同占領。
ソ連や中国の脅威によって、アメリカの戦後政策は共産主義の駆逐にシフトしたため日本を3分割、4分割する
ような事態にはならなかった >>968
中国共産党と精神同レベルの愛国火病は朝鮮朱子学に先祖帰りをして攘夷活動中らしいが、誤りに気づけ無いなら過去の王朝と同様に自滅するだろう
https://ja.wikipedia.org/wiki/攘夷論
一方、国学の発展によって、日本は神国であるというナショナリズム(神国思想)が次第に力
を増し、勤皇思想(尊皇論)もまた力を得ていたが、これが現実の外国勢力の脅威下で攘夷論
と結びついて尊皇攘夷論が形作られた。尊皇攘夷の思想は、特に 嘉永6年(1853年)の黒船来航
(マシュー・ペリーの来航)によって開港された後、日米修好通商条約締結反対を主張する反幕勢力
の思想的支柱となり、鎖国を維持しようとする諸藩の下級志士や公卿たちによって支持された。
そして、開国後から明治維新直後にかけて攘夷思想による外国人襲撃・殺害事件が頻発する。
しかし、文久3年(1863年)に薩摩藩が攘夷を実行した薩英戦争や同時期の長州藩による下関戦争
は日本側の大敗北に終わり、外国艦隊との間の圧倒的な軍事力の差に直面したことにより、鎖国政策
の維持に固執した攘夷論に対する批判が生じた。 >>949
ほんと極左とか中韓の主張と同じだね びっくりだわ
聖路加病院には聖公会の礼拝堂ってのがあるけど
そういう系統の教会とは知らんかった… >>969
反米愛国カルトは朝鮮朱子学の亜種のため精神的には韓国と同レベルの火病持ちだ
スペイン商人の奴隷貿易を21世紀でも持ち出すのであれば、原爆やシベリア連行は1000年恨むだろう
キリスト教国とキリスト教は16世紀よりはるかに強大になっているというのに、頭の中がいまだに中世・近世の勢力図に囚われているのも滑稽だ
もはや海が国を守ってくれる時代ではないのに、5世紀も前の勢力図から脳がアップデートできておらず、情勢変化を直視することを頑なに拒否する
自衛隊の研究では日本列島の防衛には同盟国は必須だ
地図を見れば分かるが、日本に隣接しているロシア、中国、北朝鮮は同盟国どうしだ
韓国も信頼ならないし、北朝鮮の核をアメリカが認めて撤退すれば赤化統一する可能性もある
フィリピンも将来的に中国の圧力に屈して、露中と同盟する可能性もある (キリスト教化したロシアについては自己改革を促す方針であり滅ぼす対象からは外れる)
現代の日本のような立地で孤立していれば、中国一国の通常戦力でさえ持て余す
中国には、中国を一度でも侵略した国家は中国の一部になるという思想がある
中国に支配されれば圧倒的な人口数を背景に漢民族が移住し、日本人の土地や資産は全て漢民族が所有することになり、現地の一部族である日本人は文字通りの奴隷となるだろう
(清王朝が滅亡した際に女真族が中国で虐殺された故事もある)
中国が日本を侵略するのであれば戦闘機の補給線を狭め、滞空時間・航続距離を長くするために、五島列島、沖縄から徐々に侵略し九州に上陸するだろう
また島国である日本は潜水艦や機雷による海上封鎖に弱く、文字通り経済は壊滅状態になり長期的な戦争継続は不可能だ
中国はロシア等の伝統的な同盟国から資源や支援を得られるだろうし、ロシアも日本が不利と見るや北海道や東北、関東に進軍するだろう
それで中国やロシアと戦いたいから同盟を組みたいと日本がオファーして受けいれてくれる国は存在するのかという問題が残る
そんな国は自由主義国のリーダーであるアメリカ以外に存在しない >>971
降伏前は日本軍上層部は無策だとするものがいるが、これは間違いで
最終作戦は一億玉砕によって敵が戦意を放棄することだったらしい
https://ja.wikipedia.org/wiki/玉砕
本土決戦と一億玉砕
戦局が絶望的となると、軍部は「本土決戦」を主張し、「一億玉砕」や「一億(総)特攻」、「神州不滅」
などをスローガンとした[3]。なお既に1941年(昭和16年)から「進め一億火の玉だ」とのスローガンが使
用されていた[4]が、これらの「一億」とは、当時日本の勢力下にあった満洲・朝鮮半島・台湾・内南洋など
の日本本土以外の地域居住者(その大半が朝鮮人や台湾人)を含む数字であり、日本本土の人口は7000万人程であった。
1944年(昭和19年)6月24日、大本営は戦争指導日誌に以下の記載をした。
もはや希望ある戦争政策は遂行し得ない。残るは一億玉砕による敵の戦意放棄を待つのみ— [5]
1944年(昭和19年)9月、岡田啓介は「一億玉砕して国体を護る決心と覚悟で国民の士気を高揚し、其の結束
を固くする以外方法がない」と主張した[6]。1945年(昭和20年)4月、戦艦大和の沖縄出撃は、軍内の
最後通告に「一億玉砕ニサキガケテ立派ニ死ンデモライタシ」(一億玉砕に先駆けて立派に死んでもらいたい)
との表現が使用され[7]、「海上特攻」または「水上特攻」とも呼ばれた。 >>964
関口宏なんか庶民の味方ぶってるけど
30年前から1000万円のベンツにばっかり乗ってるぞw >>972
https://ja.wikipedia.org/wiki/本土決戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/決号作戦
人員
陸軍軍人および軍属
約315万人
海軍軍人および軍属
約150万人
国民義勇戦闘隊
約2800万人
行政・民兵等の整備
軍事上の要望と国民の権利を調整するために、『軍事特別措置法』が施行され、船舶港湾などの一元的運営、地方行政組織の
臨戦化も計られた。
正規の陸海軍部隊以外に、国家総武装と言うことで国民戦闘組織の構築が図られた。陸海軍への従軍を規定する兵役法と別に、
新法の『義勇兵役法』が1945年6月に公布され、男子は15歳から60歳(当時の男子平均寿命46.9歳)、女子17歳から40歳まで
が召集可能となった。これらの人員により、国民義勇戦闘隊を組織する計画であった。対象年齢者以外も、志願すれば戦闘隊に
参加することが可能で、それ以外の者は戦闘予測地域からの退避が予定されていた。 >>974
https://ja.wikipedia.org/wiki/竹槍
第二次世界大戦中の大日本帝国における竹槍は、当初はあくまで銃剣の代用品としての位置づけ
で、日中戦争頃より後方部隊での使用例が見られる。銃剣の代用品としての竹槍に関しては、
『銃剣術指導必携』(陸軍戸山学校編、1942年)に詳しい。
1942年(昭和17年)頃より、竹槍は正規の兵器と位置付けられて規格化され、さらに1945年には
国民義勇隊における主要武器と位置付けられた。また竹槍の扱い方も、武術の一つである「竹槍術」
として完成され、1942年より全国民に竹槍訓練が行われるに至った。武術としての「竹槍術」の
神髄、及び訓練方法に関しては、『竹槍術訓練ノ参考』(教育総監部、1943年)に詳しい。本書
では、竹槍の代用品として木槍を使う方法も紹介されている。
竹槍術は実戦向けに洗練されており、白兵戦では非常に強いが、一方で大日本帝国海軍を中心に
「竹槍で航空兵力に勝てるのか」と言う疑問が当時からあり、海軍の意向をくむ形で毎日新聞の
新名丈夫記者が『毎日新聞』(1944年2月23日付)に「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」
との記事を載せたところ、東條英機陸相兼首相が激怒。毎日新聞は発禁となり、新名は招集された(竹槍事件) >>975
聖戦という言葉の使用は何もイスラム国に限ったことではない
この中には国民一体となる中庸と家族全体主義らしきものがあるが、自身の正統性にこだわる信仰が行き過ぎて
弱小国の分際で世界秩序であるアメリカに戦争をしかけて滅ぼされたというわけだ
進軍の歌
毎日新聞社(1937年)
雲わきあがる、この朝
旭日の下、敢然と
正義に起てり、大日本
執れ膺懲の銃と剣
祖国の護り、道の為
君の御勅を、畏みて
山河に興る、肝と熱
鳴れ進軍の、旗の風
広漠の土、吼ゆる海
越えゆくところ、厳然と
空に光れリ、日章旗
撃て暴虐の、世々の敵
巌と固き、軍律に
轟く正義、その力
千万人も、敢て往く
これ神州の、大和魂
すでに聖戦、幾そ度
凱歌は常に、我とあり
貫く誠、ただ一つ
知れ万世の、大日本
水漬き草むす、純忠の
屍にかをる、桜花
光と仰ぐ、皇軍
聴け堂々の、進軍歌 >>976
当時の国際社会の日本に対する見方というのを一つに統一するのは不可能だろうが
今で言うところイラク、北朝鮮、イスラム国、アフガニスタン、リビアのようなイメージだ
1937年にはすでに中国から化学兵器を日本軍が使っているとの訴えがあり
1942年には化学兵器の使用を停止するようアメリカから要請も受けている
さらにアメリカに先制攻撃と言う名の(偽義経式の)騙し討ち(少なくとも国際社会の受け止められ方)をしたことで
さらにテロ国家で反キリスト教国の印象を米世論に与えてしまい、その報復は徹底した殲滅戦だった >>944自己レス続き
エリザベス女王の父君ジョージ六世の戴冠式には、昭和天皇の名代として秩父宮が参列した
当時は日英の関係は良好だったし互いに配慮しなくてはいけなかったので、秩父宮(夫妻)
は日本の国家元首ではなかったのにもかかわらず、参列した各国元首の中でも非常に良い席次をあたえられた
そのときの国の状況や国際関係に応じて、席次は変化することの好例なのでは
秩父宮が戴冠式に参列したのは、この弟宮が立憲君主制に反して過激な天皇絶対思想にそまっているので危険と判断した昭和天皇が
ていよく外国訪問をさせて日本からだしたのではという見解もあるけど >>977
冷戦時に同盟国として日本を優遇してきたアメリカが望み続けたのは自由主義国家でキリスト教化
した日本であったことは間違いなく現在の官僚が支配する半分社会選民主義・半分儒教資本主義の日本は
失望・失笑が絶えぬといったところだろう
だがアメリカの前提に反逆するだけの力が日本には無いことは間違いない
安倍晋三のように土下座に長じた総理大臣に恵まれれば、それでも延命することは可能だろう
日本も形式だけでもキリスト教化し、徐々にでも本格的な自由主義化に取り組まなければいつかは見放さ
れる可能性は理解すべきであり、見放されたなら通常戦力でも圧倒されている日本は中国の植民地
(良くて植民地、悪くて虐殺後に漢民族の奴隷、奴隷として漢民族に同化) になりかねない >>979
自称愛国の右翼陰謀論カルトや保守を自称する共産主義者・社会主義者が辺境弱小国である日本の現実を見てないのは分かる
まず日本が一国で他国の侵略から列島を守る術はない(北朝鮮のように核武装にこだわって餓死者が頻繁に出る国家になりたいなら別だが)
仮にアメリカとの同盟関係を解消する状況に追い詰められたなら、中国・ロシアに従属しなければ、いつ挟撃・侵略・(機雷・潜水艦による)海上封鎖されるか分かったものではない
中国・ロシアが求める隷属的同盟関係においては日本の民主主義は形骸化しアサドや金日成のような独裁者が生まれなければならない
さらにロシアは北海道から関東にまで軍事基地を置くよう要求するだろうし、中国も沖縄から近畿圏までを勢力範囲とするだろう
そして日本は晴れて中国とロシアが米帝国主義と戦うための前線基地となるわけだ
長期的に大量の漢民族が流入し、日本民族など跡形もなく同化・隷従化され消えるだけだ 政教分離なら、最初に創価を問題にして次は共産党だろうが
神道が何もしてないとは言わんが、上記2つほど酷くはない レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。