【歴史】吉野ケ里遺跡で弥生時代後期のすずり。有明海沿岸で初。佐賀県教委発表
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https://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/494037/
佐賀県教育委員会は13日、国特別史跡の吉野ケ里遺跡(同県神埼市、吉野ケ里町)で出土した
石製品が弥生時代後期のすずりとみられると発表した。すずりは北部九州を中心に相次いで確認されているが、
有明海沿岸では初めて。県教委は「吉野ケ里では中国大陸や朝鮮半島の遺物が出土しており、
すずりは有明海を通じた対外交流を裏付ける史料の一つ」としている。
すずりは、弥生後期の竪穴住居跡から1993年に出土した。長さ7・8センチ、幅5・2センチ、厚さ1・0センチ。
長方形の板状に整形され、全ての側面が磨かれているため、完成品とみられる。表面にこすったような跡が残る。
ただ、墨が付着した痕跡は確認されていない。
鑑定した国学院大の柳田康雄客員教授は「中国のすずりと似た長方形の完成品としては国内で最古ではないか」としている。
また、95年に遺跡内の溝跡で出土した石製品は、墨をすりつぶすときに使う研石(長さ3・8センチ、幅3・5センチ、厚さ0・5センチ)
とみられるという。すずりと研石が佐賀県内で見つかったのは中原遺跡(同県唐津市)に次いで2例目。
県教委はこれまで、石製品2点について「用途不明」としてきたが、玄界灘沿岸などですずりが発見されたことから、形状などを再確認した。
県教委は14日から4月上旬まで、吉野ケ里歴史公園で展示会を開く。 魏志倭人伝の世界そのものです、
近畿には土偶しかない >>3
今の韓国人の先祖のエベンキが、半島に移動してくるより前の時代です。 やまたのおろちなる魔物に皆々困り果てておりまする。 後期なら文字も入ってきてたろ
国が大きくなって農業生産力が上がったら絶対に記録が必要になる
馬よりも前に特殊技能者として入ってきてたはず >>3
その頃にはもう韓国人は須恵器レベルで日本より数百年進んだ技術を持っていた。 ────────────────確定
対馬国 (対馬)
一大国 (壱岐)
────────────────九州北部
末廬国
伊都国
奴国
不弥国
────────────────不明
投馬国 (南に水行二十曰)
邪馬台国 (南に水行十日、陸行一月) >>3
日本史に中国との交易の話は出てくるが、朝鮮半島との交易の話は出てこないな >>3
だな
韓国人だろうな
出雲博物館に訪れた時も、
展示物の銅鐸を見てたら、案内人のかわいい女の子が
銅鐸は韓国から来たんですよって言ってたよ
朝鮮半島ではなく、はっきりと韓国からと言っていたことに衝撃を受けたわwww 吉野ヶ里をよしのがさとと読んだら恥をかきました
まさかのよしのがり 鐸は越の墓から陶製の鐸が見つかっていて、現地の学者は銅鐸の起源ちゃうかと言っていたな
下戸遺伝子の分布と被るし中国由来やろな >>18
水行は韓国の出発点から
>>1
文字の無いところに邪馬台国は無い
やっぱり邪馬台国は九州にあった >>32
その考え方もあるな
だとするなら帯方郡から末廬国まで水行で10日となる >>32
何の根拠もないし、学会も認めてない>出発点
そのほうが都合が良いから無理矢理読んでいるだけ
まさに古田カスと同じ論法 そもそも水行は川を船で移動する時に使われるものであって海には使われないと
べつの九州論者が力説してただろw 春秋戦国時代あたりか?
まだ漢字も統一されてないようだし弥生人は字書けたんやろか 昨日行ったけどアンケートに
アトラクションとして最低なんて書いてあった
以前は見学者の態度が悪いと叱りつける
ボランティアのガイドが居て頼もしく思ってたけど
少し見学者を甘やかし始めたかな 漢倭奴国王印の時代から200年後の魏志倭人伝の時代には、
奴国は南北に分裂して邪馬台国連合の南奴国は吉野ケ里にあった。
ちなみに北奴国は大国主の出雲国と連合して邪馬台国と対立していた。
久留米の不弥国から邪馬台国の投馬国に小舟で水行したのは、有明海
が泥の海のため、筑後川河口の久留米:不弥国が邪馬台国への公式な
出入り口になっていたからだ。
魏の使節から見たら有明海は湖にしか見えなかったし、さらに球磨川
を水行して邪馬台国に向かっている。 すずりが何か分からないけど飾ってありがたがってたのか >>34
上は行程と距離
下は日数を記載
これを繋げて読むから不可解になるんですよ
そして陸行一月は伊都国に留まる日数を含んでるから
邪馬台国まで実質はもっと短い 弥生人は漢字は知ってたけど紙を知らなかったのかな? 墨のついてない硯なんてあるか?
宝飾品の製作途中じゃねえのか? 文字を書いたのか、それとも印を付けたり線を引いたりする目的か?
後者だと思うけど >>29
稲のプラントオパールも岡山で6000年前に発見されてるし、ほとんど河姆渡遺跡と買わない頃だし
呉越人って言ってるけど同じ人種が日本から江南にかけて住んでたってだけじゃないの?縄文時代からずっと
それが証拠に中国本土は倭人いなくなって日本とベトナムとか朝鮮にしかいないし まあ普通に考えて教養ある人間が
北に1キロそこから南に2キロそれから車で3時間行って船で1時間なんて説明せんわな
なんでやねんって素人のツッコミ入るレベル 福岡平野は、弥生中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。 博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。
発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。
30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。
須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。
比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。
吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、福岡の遺跡と比べるとこれらは規模が小さく、どんぐりの背比べである。 >>35
從郡至倭、循海岸水行、?韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
ここは思いっきり海上移動を「水行」と書いてるわけだが >>53
その文では「海岸水行」とそこが海であることが明示してあるだろ
何も説明がない場合は川なんだよ
言葉には暗黙のうちに対象を指定しているものがあるんだ
例えば「飲みに行く」と言ったら飲むのは水でもジュースでもなく酒のことだと分かるだろ?
それは飲むという言葉には酒が暗黙の対象として指定されているってことなんだよ
でも「水を飲みに行く」と対象が水だと明示されていたら誰も酒を飲むんだとは思わないだろ?
それと同じことなんだよ >>57
三国志の中で「水行」が川の例は出せないということだな?
つまり、九州説が得意の嘘だったわけだ >>1
> ただ、墨が付着した痕跡は確認されていない。
さては、使い方が分からなくて飾っていたなw >>59
意味不明
言葉の意味は陳寿が決めてるわけじゃないぞ
そんなイチャモンをつけるなら海と明示せずに海を水行した例を出してみろ
畿内説がよくやるイチャモンに三国志の他の記述では順流、斥流を使っているという詭弁があるが、
それは中国国内の河川は流れの向きがどちらか陳寿が知っているからそう書けたのであって、
未知の土地である倭国の川はどちらに向かって流れているか陳寿には分からないのでそうした表現は使えない
倭を訪れた使者が水行としか記してなければ陳寿もそのままそう書くしかない >>49
放射説もあるし
新宿から北に行けば池袋、南に行けば渋谷、中央線で東に行けば東京、そこからフェリー乗ったら小笠原
そんな説明があってもいいだろ >>59
単純に現代語の「水行」だと水が流れていくことの意味だから
川でも海でもどっちでもいい >>44
中国も紙が使われ出すの後漢以降よコスパ悪くて竹優勢だった >>61
・「水行」とは川の場合だけ
・海を移動する場合は、必ず説明をつける
↑
こんなルールがあると言い張ったんだから、立証義務があるのはおまえの方だ
実際、三国志の中で川の移動には、「順流」「斥流」が使われている
川の移動を「水行」とした例はない
トンデモ言い張りたいなら
・川の移動を「水行」とした例をはやく出してくれ
・「水行」だけでは海の移動にならないというルールが書かれている文献出してくれ >>63
「水行」とは川の場合だけで、海の場合は必ず説明がつくと言い張ってるのは九州説論者の方 あのさ魏志倭人伝に循海岸水行と答えがあるの知らないの? 2019/02/21
【考古学】北部九州に紀元前の硯製作跡 国内の文字使用開始、300年以上さかのぼる可能性[02/19]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1550732843/43-45 水行が川だけとか、無理筋の屁理屈詭弁
というか、川では他の漢字を使っている以上、普通に考えれば水行は海だよな
循海岸水行とあって、その後の水行だから循海岸が省略されてると読むべき 「水行」議論が盛んだが、そんな混乱することじゃないだろと。
水行は単に「水ヲ行ク」というだけの意味で、「川だけだ」「いや海もあり」「いやいや、海岸水行は
ありだけど渡海は区別すべき」などなどの議論は、そもそも無意味なのだ。みんな水行く。
同様に、「徒歩」「騎行」は手段による分類で、「登山」は場所による分類だけど、
すべては「陸行」の部分集合だよね。
その上で俺は、水行の対義語である陸行の「陸」の意味にこだわりたい。
陸という漢字の字義は「丘や山がうねり続く、堅固な大地」である。
つまり、当時形成されつつあった筑後川下流域の沖積平野の湿地帯は、「陸」ではない。
葦茂る湿原とラグーンが連続する「水域」なのだ。
これが「水行十日」のカラクリではなかろうかと。 摺り跡はあるけれど墨跡はない
でもこれはすずりで間違いないとかw
さすが九州の研究者は違うな 『翰苑』
・邪馬台国は帯方郡(ソウル近辺)から15000里(約1115km)のところにある。
・九州上陸後、500里(約38.5km)東南に伊都国(糸島平野)があり、その南に邪馬台国がある。
・斯馬国(糸島半島)は伊都国の隣にある。
・邪馬台国は伊都国に近接していて、その向こうに斯馬国が続いている。 >>67
こちらはすでに史記というソースを提示したのだからトンデモを言っているのも反証しなきゃいけなくなったのも君ですよ
反証ソースが無いなら君の負けです
>実際、三国志の中で川の移動には、「順流」「斥流」が使われている
もう論破された詭弁を何度繰り返す気なの?
だからそれは陳寿が中国国内の川の流れの向きを知ってるからそう書けただけ
陳寿にとって未知の土地である倭国の川は向きがわからないから流れに沿っているのか逆らっているのか陳寿には分からない
倭を訪れた使者が水行としか記してなければ陳寿もそのままそう書くしかない 半島南部を中継地点に楽浪郡や帯方郡と交易してたんだから文字くらい使ってただろう >>73
それは現代日本人の発想なんだな
中国語の「水」にはもともと「川」という意味があるんだよ
http://www.zdic.net/z/1c/js/6C34.htm
> 2. 河流:汉〜。湘〜。
三国志を読めば淮水とか渭水とか出てくるけど全部川
「河」は黄河、「江」は長江でそれ以外の中小の水系は「水」なんだよ 吉野ケ里は古代の重要なクニ(伊都国か邪馬台国)。
シナ王朝の魏と文書をやりとりをしてたからシナ語が読み書きできるのは当然。
一般人が貿易(国内、国外)で記帳してたのは糸島や博多の硯からも明らか。
縄数字から進歩した記帳法があったのだろうが、独自の印だったかどうかは
明らかではない。 >>35
いや海岸沿いに海を行く場合だけどいきなり「水行」を使ってるよw
「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」(魏志倭人伝)
「'水'は淡水に限る」というのは、原文を読んでない人の空論法w こりゃ畿内にあった邪馬台国の出張所である九州北部が
中国や朝鮮との貿易の玄関口としても使われていた可能性高いな >>90
そうだね。女王(=卑弥呼)連合は地域の1連合国
なぜかそれに「倭国王」と認定してしまい、「倭人伝」を書こうとしている著者が
他のソース(魏略にはない)から引っ張って、変に他の連合を加えてしまったのが
次の2行。
南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬台国 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳? 可七萬餘戸
邪馬台國はヤマト連合のことだと思う。
行ったことのない著者はそれを女王国だと思ってしまった 床の間に飾っていたのかなあ
古事記(712年)が日本最古の書物じゃないの?稗田の阿礼が暗記していたのを太安万侶が筆記したと言われる。 >>98
当時の伊都国は大きな国で、山々を越えて筑紫川河口の有明海沿岸も
支配してた可能性があるね >>71
キナイコシ毎回わいてくるな
24時間邪馬台国スレを監視するキチガイ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています