今年2月、国立ヘブライ大で神道の儀式を執り行う伊勢神宮の宮司
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 私の勤める国立ヘブライ大学にはユダヤ教のシナゴーク(ユダヤ教会堂)があります。ユダヤ人学生が80%という大学だから当然といえば当然でしょう。ここに3月、伊勢神宮の宮司の三宅勝正さんがやってきてお祓いの儀式をやってくれました。

 大勢の学生や教職員が見守る中、宮司さん自らセッティングした神殿にお供えをしたあと神を呼ぶ儀式に入りました。一時間に及ぶ儀式はおそらくエルサレムでは初めて。周囲の人たちは興味深く見ていました。儀式の後には、皇學館大学の瓜田理子准教授による伊勢神宮に関する講義が行われました。

 私は昨年、諏訪大社で毎年4月に行われる儀式に参加したことがありますが、それと同じように宮司さんは手を左右に動かし、神様を呼びます。お神輿が大社のほうから幕屋に運ばれます。そして驚くのが、神殿への供え物。鹿の肉、鶏など。儀式を見たときに何百年も前に引き戻された感覚を覚えました。神道儀式を見たのは初めてだったのですが、まるで旧約聖書の世界に連れていかれた気がしたのです。

 確かにユダヤ教と神道は共通点があるといわれています。伊勢神宮の灯篭には「五芒星」が刻まれているとか、石川県にはモーゼの墓があるとされています。日本人とユダヤ人は同じ祖先であったという議論はずっと以前からあります。

 私が日本における宗教的儀式に魅かれるのは最初に京都に住んだ時以来です。京都に住んだ時の「マイルール」は毎週、寺社にひとつは行くことでした。有名どころではなく小さなあまり知られていない寺社ばかりを巡っていったのです。そこで私はイスラエルで感じたような親近感と違和感の両方を抱きました。2017年に私はユダヤ教の研究者たちを連れて日本に行き、出雲大社、伊勢神宮、高山、明治神宮を巡りました。

 その中の一人、メナハム・ブロンデヘン教授は、「神道とユダヤ教は民族の認定において特別なものである。ユダヤ教はユダヤ人の宗教であり、他の民族とは関係ないだろう。神道も日本民族のものである。ユダヤ教と神道は民族固有のものとして不可分である」。そう主張しています。

 さて、神道とユダヤ教の違いもあります。神社は共同体の周辺に位置していて、自然に囲まれ一人になれる環境にあります。シナゴーグは常に共同体の中心に置かれています。最も大きな違いは、日本の神様はたくさんいて、ユダヤ教は一神教ということです。ただ、イスラエルがカナンの地と呼ばれていた古代ユダヤの時代では、地域の神もユダヤ教として信仰の対象になっていたと思われます。

 また、はっきり違うのは、ユダヤ教は日々の生活において食べ物の戒律が厳しく、日に三回のお祈りが求められています。一方、神道は自発的なもので、戒律もゆるやかです。

 近代になって神道とユダヤ教はそれぞれの国で違う役割を演じました。19世紀から20世紀にかけて神道は、「国家神道」として大日本帝国の象徴となりました。今は平和国家としての日本のイメージに貢献しています。

 ユダヤ教は違う方向に進みました。過去2千年間、戦争はユダヤ教徒にとって最悪の事態を招いていました。ユダヤ人は世界中でバラバラに住み、戦争でたいへん被害を受けやすい民族でした。戦争が起こればいつなんどきでも命を守るために逃げなければならなかったからです。いまユダヤ教徒は一つの国に融合され、軍事的なイメージをもたらしています。

 宗教を考えるとき、私は一人の学者を思い出します。4年前に亡くなったヘブライ大のツバイ・ウエルブルホウキー教授という、世界的にも著名な宗教学者です。この言葉を遺しています。

「もしあなた方自身の宗教を理解したいのなら、ほかの宗教を調べて理解しなければならない」

○Nissim Otmazgin(ニシム・オトマズキン)/国立ヘブライ大学教授、同大東アジア学科学科長。トルーマン研究所所長。1996年、東洋言語学院(東京都)にて言語文化学を学ぶ。2000年エルサレム・ヘブライ大にて政治学および東アジア地域学を修了。07年京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科修了、博士号を取得。同年10月、アジア地域の社会文化に関する優秀な論文に送られる第6回井植記念「アジア太平洋研究賞」を受賞。12年エルサレム・ヘブライ大学学長賞を受賞。研究分野は「日本政治と外交関係」「アジアにおける日本の文化外交」など。京都をこよなく愛している。

4/14(日) 11:30配信
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