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妖怪マニアの間では、妖怪「寺つつき」といえば、蘇我氏に滅ぼされた物部守屋の怨霊が啄木鳥に似た化け物に変化したものであり、聖徳太子が鷹に化けて追い払ったと言う「源平盛衰記」のエピソードが頭に浮かぶ。仏教を嫌っていた守屋だけに、聖徳太子ゆかりの法隆寺や四天王寺をつついて回ったとされている。

今日は物部氏に関して少し考えたことをメモしておきたい。「日本書紀」によると第30代敏達天皇の御代、物部守屋大連(もののべのもりやのおおむらじ)は、国内の疫病の蔓延は神をないがしろにし、海外から渡来した仏教を崇めているからだと天皇に進言した。天皇は仏教を信仰することをやめるように臣下に命じ守屋は寺を焼き僧侶や尼を折檻したが、病気の蔓延は収まらず、天皇どころか守屋さえも疱瘡(ほうそう=天然痘)に羅病してしまった。

すると蘇我氏を中心とする崇仏派が勢いを盛り返し、「寺や仏像を焼いた罪だ」と喧伝した。その後即位した第31代用明天皇もまた病にかかり、「仏・ 法・僧の三宝に帰依したい」と言い出し、守屋は政治的に窮地に追い込まれた。

用明天皇二年(587年)7月、物部氏は蘇我氏と軍事衝突に突入してしまう。この戦において、蘇我氏の軍勢に従軍していた厩戸皇子(後の聖徳太子)は、白膠木(ヌルデ)を切り、仏教の守護神・四天王の像を作り、束髪の上にのせて、「この戦に勝てたならば、四天王を祀る寺を作りましょう」と誓いを立てた。

すると大木に登って矢を射ていた物部守屋が、木の下に忍び寄った迹見赤檮に射殺されてしまった。大将を失った物部軍は散り散りとなり敗走した。こうして天皇家より古く、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祖に持つ豪族物部氏は壊滅する。物部氏の所有していた領地や奴婢は蘇我氏によって奪い取られた。その相続の大義名分は、守屋の妻が蘇我馬子の妹であったからである。

大阪府八尾市太子堂にある大聖勝軍寺(だいせいしょうぐんじ)は、もともと物部守屋の邸宅があった場所だとされ、その跡地に建てられた寺院である。この寺が建つ前は四天王寺が同所に建立されていたと言われている。物部守屋の怨霊を封印するための仕掛けだと思われるが、なんとも残酷な仕打ちである。境内には守屋の首を洗ったと言われる「守屋池」が残されている。

後に天武天皇により、物部の名誉回復が行われ全国に物部神社が祀られるようになるが、それまでは死後も物部守屋は冷遇されたままであった。

この滅び去った豪族「物部氏」の正体は、渡来人だと言う説がある。しかも、始皇帝が派遣した徐福一団がそのルーツだという説があるのだ。さらに大胆な仮説では中国に帰化していたユダヤ系の人々が集団で渡来して物部氏を名乗ったと言う説もあるぐらいである。

それにしても、なぜ怨霊になった物部守屋は鳥と言う形態を取ったのであろうか。もし彼らがユダヤ系中国人だったとした場合、カパロット(ヘブライ語で償い)と言う儀式が思い出される。これは鳥を頭に乗せて行う儀式であり、自分の罪や穢れを鳥に移して自身を浄化するという意味合いがある。恨みや妬みという守屋の怨念を吸収した鳥が妖怪「寺つつき」になってしまったのであろうか。

蘇我氏に追われた物部氏は全国に離散した。九州各地、諏訪地方など物部氏の末裔が身を潜めたと言われる場所には必ず諏訪神社か物部神社が鎮座している。また同時にそれらの地域では馬の肉を食べる食文化が残されている。文化放送で人気の番組「今朝の3枚おろし」で俳優の武田鉄矢が面白い自説を披露していた。蘇我馬子と厩戸皇子に滅ぼされた物部氏の子孫は馬と縁のある名前(蘇我馬子、厩戸皇子)の2人を呪うために馬肉を食べる習慣ができたのではないかと説明していた。

そもそも神道では馬の首を神に供えていた。この習慣が後に絵馬のルーツとなる。この習慣は古代のユダヤ教との関連が指摘されているが、物部氏がユダヤ系中国人であったとしたら納得がいく。同時に首を備えた後に大量に余った馬肉を消費するために、馬を食べる色文化が発達したとしたら納得がいく。

妖怪「寺つつき」、物部氏ユダヤ系中国人説、物部の残党と馬肉の食文化全てが1本の線でつながる気がする。(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

2019/4/30
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