木戸番

江戸の町々には木戸が設けられており、夜は閉じられることになっていた。
その木戸にはそれぞれ「番太郎」または「番太」と呼ばれる木戸番が2人いた
彼らは大抵が老人で、番小屋に居住していた。

木戸番の収入
木戸番の給金はそれぞれの町内から支払われた。
晦日ごとに1軒につき20文から100文の銭を家主が集め、
これをその月の月行事が集計してその中から木戸番への給金を出していた。

木戸番の賃金は少なかったため、彼らは駄菓子・蝋燭・糊・箒・鼻紙・瓦火鉢
・草履・草鞋などの荒物(生活雑貨)を商ったり、夏には金魚、冬には焼き芋
などを売ったりして副収入としていた。
特に焼き芋屋は番太郎の専売のようになっていた。
そのため、番太郎は本職より内職の方で知られており、木戸番屋は
「商(あきない)番屋」とも呼ばれていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E7%95%AA


番太(ばんた)は

、江戸時代に、都市に置ける夜警、浮浪者の取り締まりや拘引、牢獄・刑場
などの雑用、処刑などに携わっていた人たちのことである。都市に設けられ
ていた木戸に接した番小屋と呼ばれる粗末な家に住み、多くは非人身分であった。
番太郎(ばんたろう)ともいう。

明治7年(1874年)に近代警察組織警視庁が士族を中心に発足したが、同年巡査
の欠員500人を補充するため、番太から優秀な者を採用することとなった。
6000人中500人程度であったが、武士や与力、同心から巡査になった者は憤慨し
、辞職者が相次いだという。このため警視庁は巡査2000人を各地から募集する
破目に陥った[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%AA%E5%A4%AA