【宮崎】邪馬台国はどこにあったのか、考古学者・北郷泰道さん講演 「北部九州の範疇の中に邪馬台国の所在地は絞り込まれる」
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西都原古墳群の世界遺産登録を目指す西都市で、ガイドボランティアを養成するための講座が開かれました。
この講座は西都原考古博物館の運営を支援する団体「iさいと」が開き、約60人が参加しました。
きょうの講座では、考古学や古代史への関心を高めてもらおうと考古学者の北郷泰道さんが邪馬台国はどこにあったのか、当時の史料「魏志倭人伝」などを基に講演しました。
北郷泰道さんは「(『魏志倭人伝』の記述にある)一万二千里と水行十日・陸行一月というのは同じである、そうすると北部九州の範疇の中に邪馬台国の所在地は絞り込まれることになる」と考察を述べていました。
現在、西都原古墳群のガイドボランティアには、およそ50人が登録しています。
iさいとでは、古墳群の世界遺産登録を目指し、ガイドの人数を増やしたい考えで、講座は8月まで毎月1回開催される予定です。
2019年05月12日 18時21分更新
https://www.umk.co.jp/news/?news=20190512&no=100201
北郷泰道(ほんごう ひろみち)氏
1953年、宮崎県都城市生まれ。立正大学文学部史学科考古学専攻卒業。1980年度から宮崎県教育庁文化課に勤務し、宮崎学園都市遺跡群発掘調査を担当。以後県内の発掘調査に従事。埋蔵文化財係長として西都原古墳群の整備・活用事業及び西都原考古博物館建設事業を総括。宮崎県埋蔵文化財センター所長を経て退職。元宮崎県教育庁文化財課専門主幹、南九州大学非常勤講師。著書に『熊襲・隼人の原像―古代日向の印影―』(吉川弘文館 1994年 第5回宮日出版文化賞受賞)など。
http://www.isaito.net/20190512/kou_20190512.html >>701
聖徳太子(厩戸皇子)はエピソード的には脚色が入ってるけど
蘇我馬子や推古天皇と三頭政治やってるんだから有能な人物だよね。
推古が長生きしたから即位できなかっただけで摂政兼事実上の皇太子。 >>>>>1
ヤマトという地名も北部九州から移った
考古学者・森浩一、最後のインタビュー(足立倫行「倭人伝、古事記の正体」2012)
伊都国の平原古墓は、すべての銅鏡が破砕して墓に埋納されていたことで有名ですが
奈良県桜井市の前期の外山茶臼山古墳でも、2009年の再調査で、実に81面の
銅鏡が埋納され、ことごとく破片だったことがわかりました、2つの墓は
100年ほど年代が隔たっていますが、弥生時代の近畿には墓へ銅鏡を入れる風習も、
その銅鏡を割る風習もなかったことを考えると、北部九州の強い影響は明らかです
また「魏志倭人伝」では、中国人が倭地の朱や丹に関心を持っていたことが記されていますが、
伊都国の平原古墓や井原鑓??溝古墓では棺の中に大量の朱が使われました
近畿でも、前期の前方後円墳では遺骸の周囲に朱を撒くことが知られており、
奈良天理市の大和天神山古墳では約40キロもの朱がキビツに埋納されていた
これなども、北部九州からの風習の伝播でしょうね
そもそも、ヤマトという地域名、いずれ国名になる名称自体が北部九州からの東遷の結果です 百済王家、C2、百済王神社→祭神スサノオ
諏訪神族、C2、スサノオ→大国主→建御名方神→諏訪に逃げ込み→諏訪神族
アマテラス=日本皇室=D1b
ツクヨミ=高句麗王家=O2a2
スサノオ=百済王家→諏訪神族=C2c1a
日本・高句麗・百済の三国同盟
VS
唐・新羅連合軍
日高百三国同盟が敗戦し、高句麗・百済は滅亡→日本に高句麗王族・百済王族が亡命→日本書紀編纂し、三貴神はどれも貴いとし、一致団結を図った >>638
普通にカエルとか食べてたんじゃないかと思うがなw
あそこで当時海のものを日常的に食べるのは無理だと思う
倭人伝に書かれてるのは纏向のことじゃないと思う 旧唐書の「倭奴国」が魏志倭人伝の「奴国」とするなら、倭国(=倭奴国)の別種とされる日本国は
邪馬台国(系)とも考えられるよね?つまり唐の時代には日本国は畿内にあったのは間違いないけど、
それが九州の邪馬台国の系列だとも考えられるわけよね。 桃の種カエル土人はそもそも神武以前の土人やで
纒向にはニ段階あり、ある時期に大幅拡張されてる
これが畿内を制圧した神武の威勢を示すんやね >>893
>考古学的に畿内???何も出てないのにねwww
畿内から出ていない?
>邪馬台国ではないとハッキリとした物が考古学的には出たけどね w
?
具体的に何?マジで意味不明なのだが… >>856
お前、ソントばっかし
説得力無し
魏志倭人伝の内容も否定
入れ墨、貫頭衣、酒、ざんばら髪、シャーマニズム、巫女、鬼道
北方文化ではない、南方文化なのは明白
ちなみに、Y染色体Oは、NOから分離して成立している
その分離場所は、ゴビ砂漠周辺
Nは北方方面のフィンランド~沿海州に広がり
Oは黄河と揚子江にそって広がる。
よって、後から入ってきたのは明白
フィンランド人とOは近縁種 つか近畿にあるとしたら
邪馬台国の東に海があってさらに先に和人の国々があるってのと合わなくなるから 近畿は紀元前に入植した古代江南人の農民文化がそのまま根付いていたというだけで軍事国家でもない。 >>831
Y染色体ハプログループの分布 (東アジア) - Wikipedia
ミャオ族のハプログループ
C 8.9
D 3.6
K 0
N 1.2
O1a 3.6
O1b 22.5
O2 61.5 まず邪馬台国そのものが無い
卑弥呼なんてのもいない
どちらも想像の産物 邪馬台国のある近畿から北九州を経由して中国へ行ってたんだろ。吉野ヶ里遺跡とやらは、中国を行く前の下ごしらえの都市みたいなもんじゃねえの。 九州はいまだに田んぼとか土器が出まくってるからなあ、他の場所に比べたら量がものすごいから一番有力だろうな >>896
環濠集落を邪馬台国の都だと言いたいの?
あんな狭いとこに従者1000人が入るのかよwwwwwwwwwww
環濠集落は小豪族の居所だよ、残念でした
硯がどういう根拠で物証になるんだ?
文字を書いていた証拠がどこにある >>>>>1
近畿の古墳の石棺のピンクの石って熊本産なんだろ?
これこそ東遷の証拠じゃねえか
おまえら、嫌いな国の、地方の産物に囲まれて死にたいと思う?
九州以外で確認された阿蘇ピンク石(馬門石)の石棺 5世紀後半〜7世紀前半(築造年代は推定)
〈1〉岡山市・造山古墳
〈2〉大阪府藤井寺市・長持山古墳 (伝・允恭天皇陵陪塚2号棺)
〈3〉大阪府羽曳野市・峯ヶ塚古墳 〈4〉奈良県天理市・鑵子塚古墳
〈5〉奈良県桜井市・兜塚古墳 〈6〉桜井市・慶雲寺
〈7〉桜井市・金屋ミロク谷 〈8〉岡山県瀬戸内市・築山古墳
〈9〉奈良市・野神古墳 〈10〉滋賀県野洲市・円山古墳
〈11〉野洲市・甲山古墳 〈12〉大阪府高槻市・今城塚古墳
〈13〉奈良県天理市・東乗鞍古墳〈14〉奈良県橿原市・植山古墳
・なぜ、大王のひつぎという重要な石棺に、九州のピンク色の石が使われているのか?
関西でとれる石ではなく、わざわざ赤い石を熊本から運んで来た理由は何か?
阿蘇ピンク石石棺の謎は「何故、九州から遙か東方へ運ばれ、使われたのか」ということのほかにもまだあります。
その一つに、地元の九州では石棺材として使われた形跡が現在のところ見つかっていないのです。 >>815
もともと中臣氏って物部氏と一緒に廃仏を主張していたり
後の推古天皇をレイプしようとした皇子を天皇にしようとしたり
ろくでもないイメージだわ >>900
推古天皇はいわば代理なんだから、本来の皇太子である聖徳太子が成人になったら
譲位してもいいと思うんだけどなあ。 主な出土物
九州:金印、金鏡、八咫の鏡、五尺刀、素環頭大刀
近畿:桃のタネ、三角縁コピー鏡、棄てられた馬具 日本人が原始時代みたいな生活してるときに
中国から高度な文明が伝わって奈良時代になったのは有名な話
ほんの1500年前の話だよ
そう考えると日本の歴史って長いようで短いな・・・
寿命100年生きる人もいるからたったの15倍 >>877
ソレを日本国内でやろうというのが、学術的におかしい
刺青文化があった地域から当たるべき 北部九州の古墳って石室のとこ線で模様入ってたり色ついてたりで畿内とは文化流れが別物って思われる。複数勢力の一つが宮崎と畿内に都市を形成したと思う。 >>919
それな、どうしてわざわざそんな遠くから石を運んだのか?
相当意味があるよね。 日本の夜明けは九州から始まるとほかの歴史でも実証されてるからなぁ 驕れる畿内説、久しからず。
私の目の黒いうちは好きにはさせんぞ。 中国南部探しても、日本人のルーツに該当する民族はいないです
日本のO1b2a1が分岐したのが7100〜7800年前
さすがに中国にまとまった集団はない
7千年くらいあれば、中国本土も変異するし、漢民族のO2で上書きされてしまってる >>897
それが一番しっくりくるわな
邪馬台国は九州
近畿に後に征服された >>922
まあ金印みつかったあたりだろうね、あれは隠してたみたいだから住んでるとこからそんな遠くに隠すとは思えない 紀元前から700年まで九州倭国が日本代表
700年以降が奈良が代表となった
倭国での出来事
金印
ヒミカ
五王
イワイ
タリシホコ
白村江の戦い
サチヤマ >>867
日本人が箸を使っていた頃にヨーロッパにはフォークというものが
存在せず手づかみで肉を食べていたりする >>918
近畿の東に海があってその先に和人が住む土地があるのか
君の脳内の日本列島はどんななんだ? >>928
馬門 阿蘇ピンク石が切り出された所に行って来ました ...
lunabura.exblog.jp/20425723
何故阿蘇のピンク石の石棺が近畿に運ばれたのか? 案1・近畿の人間が九州で死んだから、ピンク石の石棺に入れられて
運ばれ埋葬された。 案2・九州ゆかりの人物だったので、特注して送らせた。 案3・ピンク石は近畿では神聖なもの ...
ここで石棺がある程度加工されて、近畿に運ばれて行ったそうです。
何せ古墳時代です。
この石を知っていたことも驚きだし、
あんな遠くまで運んでも、この石の中に眠りたかった情熱に驚かされます。
美しいものを求める欲望と、それに応えようとする人々の
不可思議な連携のようなものに思いは巡らされ、
それが文化を創りだす原動力になったという人間力のたくましさに
感動さえ覚えます。 >>923
偽物かどうかは正直わからんけど、金印は簡単に移動できるんで
金印に記された「奴国」が見つかった志賀島周辺なのかどうか
断定することはできない。 >>919
古墳時代中期のものを持ち出して東遷の証拠ってアホなの? >>922
動産だと証拠として薄い
不動産で頼むわ >>942
海なんかねえよなあw
まさか琵琶湖のことなのか? >>931
当然だね
Y染色体Oは乗取り民族
それがフィリピンや台湾にも到達してた
迫害を受けたと見るのが妥当 >>930
もうあと10年もしたら死に絶えるだろ九州説 >>938
まあ伊勢神宮あたりから海を渡って熱田神宮あたりを
示したっていう考え方もできないではない。 >>936
そんないきなり、文化の地が変わるなんて違和感しかねえよ。もともと九州で発展してなら、わざわざ移動する必要ないじゃん。 近畿とか桃の種が大量に出てきたのを根拠にしてて苦しくてかわいそうになってくる
有力なのは水銀くらいかな >>884
>棺あって槨なし
中国の槨って、あんなちゃちなやつじゃないみたいだな。
死者のための家ってくらいでかい。
日本で言う槨と中国の槨は違う。 >>853
支配層は少人数だから入れ替わるのは可能。
>>913
邪馬台国は八女辺りだと思う >>896
弥生中期までは九州が優勢だけどね。
その後は違うよ ちなみに日向(宮崎)と伊勢は東に海をのぞんで日が登る感じがなんとなく似てる気がするんだよね。 >>949
稲作文化の発達で平野の広いとこがほしかったんだろ >>938
伊勢湾あるじゃん。その先ってのは関東だろ 考古学者の多くは畿内説を支持していると聞いたぜ。
この御仁は身内、地元贔屓の変人だろ。 >>869
どの辺?
ぐぐったけど分からない
自分は八女と睨んでるけど広川は初耳 >>957
とりあえず、纒向遺跡レベルの遺跡が出てきてから九州説を言って欲しいよなw >>876
飛鳥にしても奈良盆地南端の山のふもと。
奈良湖にしても河内湖にしてもまだ広大な湿地帯。
それを新たに水田干拓できたから人口(∝兵力)が増えた。
みんな古墳時代からの話。卑弥呼の時代よりもウンとあと >>911
て事は邪馬台国は山にあるんじゃ無くて山の裾野かね >>965
考古学者ってゴッドハンドを長らく放置してた人たちだぜ? >>949
移転ではなく 神武が紀元頃開いた奈良が9代のスジンで近畿地方へ侵出した
其の後徐々に勢力範囲を拡大し 662年倭国が唐と戦い敗戦し700年ごろ滅亡した
其の後唐と朝貢貿易で奈良政権が日本代表となり今日に到る >>952
それは出鱈目だ。
楽浪郡の槨の研究者が、
日本の岡山から出た槨が、楽浪槨と同じものとハッキリ名言しているので、
本州は邪馬台国ではないことが確定している。 >>825
比恵那珂〜須玖岡本遺跡よりも巨大な弥生遺跡なんてねえよ。
無知君 遺跡のでかさで決まるとか考古学を舐めすぎw
そこまで適当じゃないだろ >>964
伊都国のあった糸島、奴国のあった博多は発掘が進んでる
畿内説に結びつくものは出るが、九州説に結びつくものは皆無
これだけ発掘してるのに皆無なんだよ 渡来人の弥生人政府なんだから母国に近い所に決まってんだろ
北九州で決まり
ていうか本国に帰ってくれないかな弥生人の末裔は
この国は日本人(縄文人)の物なんだから 近畿は都市を作ることを決めて都市を形成してる感ある。北部九州勢力と知的レベルが違う。 >>963
そうだとしたらクナ国の位置と矛盾が出ちゃうんだよ 九州も中国に出るための都市があったろうけど、中心は近畿だと思うわ。 >>976
近畿は遺跡が近いだけで記述と一致するものがないんだよなあ 常識で考えろ
魏志倭人伝は、邪馬台国までの道のりにあれだけ小さな国まで列挙していたのに、突然出雲も吉備もすっ飛ばして畿内とかありえないやろ 水行十日・陸行一月という記述の前に水行二十日というのもあるだろ。
トータル1か月の船旅は瀬戸内海を移動したと考えればつじつまが合う。
北部九州では長々としている旅路が全く説明できない。
これは、かなり本質的な問題だ。 ヨシタケタカギはニニギ
スクオカモトはヒミカ
の墓地 男王を擁し多くの戸数を抱える強国であった奴国が、魏志倭人伝の時代では
政治・軍事の中心は伊都国に移り、官吏が置かれるだけの存在になってしまった。
じゃあ彼らがどこに消えたか?近畿だよ。 >>959
魏志倭人伝にも見られる
風俗良く、犯罪は少ない
犯罪者が入ってくると対応できない そろそろ1000なので結論いこうか
邪馬台国はおらが村さあるだ 弥生中期以降、壺形土器の形態変化がほとんど無く、遠賀川の西、筑後川の北、
佐賀川の西を墨守し、停滞に次ぐ停滞、後退に次ぐ後退を続け
纏向型の、庄内甕と全国各地の祭祀土器セットを整合的に受容するまで
惰眠を貪り続けたアホ地域を邪馬台国などと称したいなら好きにすればいい 「到伊都国・・・,又南,至邪馬臺国」と書いてあるし
伊都国に至る〜〜〜又南に至る邪馬台国
やはり最有力は九州北部だと思う。
↓
https://imgur.com/6LswyPf 楼閣城柵の無い纏向を卑弥呼の宮殿といい、
曹操より遥かに巨大な箸墓を卑弥呼の墓という
カルト集団w 日本という国名を考察してみよう。一般的に大陸から見て東に位置するから「日ノ本」と名乗ったという
説があるが、国名をつける時にわざわざ大陸のことを考えるものだろうか。
つまり、九州にいた部族が畿内の大王となった時、祖先のいた地から見て今いる畿内が日ノ本になる
ことから「日本」と名付けたのではあるまいか。 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。