【宮崎】邪馬台国はどこにあったのか、考古学者・北郷泰道さん講演 「北部九州の範疇の中に邪馬台国の所在地は絞り込まれる」★3
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http://www.isaito.net/images/event/2019/img20190512.jpg
西都原古墳群の世界遺産登録を目指す西都市で、ガイドボランティアを養成するための講座が開かれました。
この講座は西都原考古博物館の運営を支援する団体「iさいと」が開き、約60人が参加しました。
きょうの講座では、考古学や古代史への関心を高めてもらおうと考古学者の北郷泰道さんが邪馬台国はどこにあったのか、当時の史料「魏志倭人伝」などを基に講演しました。
北郷泰道さんは「(『魏志倭人伝』の記述にある)一万二千里と水行十日・陸行一月というのは同じである、そうすると北部九州の範疇の中に邪馬台国の所在地は絞り込まれることになる」と考察を述べていました。
現在、西都原古墳群のガイドボランティアには、およそ50人が登録しています。
iさいとでは、古墳群の世界遺産登録を目指し、ガイドの人数を増やしたい考えで、講座は8月まで毎月1回開催される予定です。
2019年05月12日 18時21分更新
https://www.umk.co.jp/news/?news=20190512&no=100201
北郷泰道(ほんごう ひろみち)氏
1953年、宮崎県都城市生まれ。立正大学文学部史学科考古学専攻卒業。1980年度から宮崎県教育庁文化課に勤務し、宮崎学園都市遺跡群発掘調査を担当。以後県内の発掘調査に従事。埋蔵文化財係長として西都原古墳群の整備・活用事業及び西都原考古博物館建設事業を総括。宮崎県埋蔵文化財センター所長を経て退職。元宮崎県教育庁文化財課専門主幹、南九州大学非常勤講師。著書に『熊襲・隼人の原像―古代日向の印影―』(吉川弘文館 1994年 第5回宮日出版文化賞受賞)など。
http://www.isaito.net/20190512/kou_20190512.html
★1:2019/05/13(月) 17:58:38.06
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1557751518/ ■日本語の起源は朝鮮半島にあり■ [方言の共通祖先を発見、東大]
http://www.afpbb.com/articles/amp/2798334
https://i.imgur.com/7hyZX3Z.jpg
日本語の方言の多くは約2200年前に朝鮮半島から移住してきた農民たちに由来することが、進化遺伝学の観点から明らかになったとする論文が、4日の学術専門誌「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」に発表された。
紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を及ぼしたとするもので、先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語もほとんどが置き換えられたと考える。
最近の考古学上およびDNAの証拠は、いずれもこちらの説が有力であることを示している。
体の部位、基本動詞、数字、代名詞などの主な210単語について、59方言でリストを作成。数千世代にわたり改変されていない、いわゆる「高度保存遺伝子」を見つけ出すのと同じ要領で、他の方言に影響されて
いない「変化耐性」を持つと思われる単語を選び出し、コンピューターでモデル化した。
すると、これらの単語はすべて約2182年前の共通祖先に行き当たった。この年代は、朝鮮半島から大量の渡来人が来た時代に当たる。 神の子以外は天子さまになれない
皇族は神の子
皇子
皇女
親王
御子
神子
コレ全部ミコと読む
古代の祀り事(マツリゴト)は政(マツリゴト)
ヒミコも神の子
わかりましたか? 九州にあっても近畿にあってもどっちでもいいと思う。
いっぱい討論して研究して頑張ってほしい。
おれが思うに九州から近畿に国を移動しながら発展したと思う。 まずは水の確保
筑後川流域、筑紫平野のどこかだろう 日本人よ、
国譲り神話の真実を知れ
「相撲をとって勝ったから国を譲ってもらった」
とか、そんなバカみたいな話があるわけないだろう?
「我々は現世を治めることにするから、
お前たちは死者の世界を治めることにしろ」
=お前たちを死者の国に送ってやる
=お前たちは皆殺しだ
ということだ
武力による恫喝がまず始めにあり、
抵抗したから虐殺して血祭りにあげた
出雲の王権は、天皇家のご先祖様に奪われた 当時の測定技術なんて大したことないだろ。
魏志倭人伝のデータに誤差もあるだろう 邪馬台国、卑弥呼が歴史の謎として葬られてしまったのは
日本の歴史の暗部を隠すため、偽装・欺瞞工作が行われたから
昔々、西日本はいくつかの部族がそれぞれクニを作っていた
それらの頂点にいたのが出雲王朝
銅剣、鉄剣などの武器を保有した軍事国だが
「和の精神」でもって緩やかな連邦制で西日本を支配していた
倭=和 であり、
邪馬台=ヤマト=大和 である
すなわち、和国(倭国)は出雲王朝を頂点とする連邦国家全体を言い、
邪馬台=ヤマト=大和 とはその首都である出雲のことを指す
年に一回、収穫を終えた時期に、各クニの代表者が出雲にあつまり
今の中国の全人代のような会議を開いていた
これが「神在月」の由来
卑弥呼は天橋立周辺を支配していた海部一族の皇女、百襲姫であり、
代表者としてその会議に参加していた実力者
そうして時代が経つにつれ、王朝の中心地は三輪山周辺に移る
それが畿内の大和
そして、ある日突然、連邦国家「和」に侵略者がやってくる
いまの天皇家のご先祖にあたる人達であり、
出雲王朝は必死に抵抗したものの、ことごとく殺戮、虐殺され
王朝が乗っ取られる
これが「国譲り神話」の真実
虐殺と王朝簒奪の真実を隠すため、様々な偽装、欺瞞が行われ、
邪馬台国、卑弥呼の真実も分からなくなってしまった >>15 武力じゃねーよバカ。日本を統一したのは「絹織物」だよ。
この当時は寒冷期であり、日本の冬を越すには絹織物が必要だった。
その文明は中国南部からやってきたんだよ。それ以前は朝鮮半島も
日本も狩猟採集生活しか出来て居なかった。なぜか、越冬する
ためには獣皮が必要であり、獣皮を安定的に得るには自然制約があり
文明が花開く素地がなかったからだよ。
なに?紀元前200年に朝鮮半島から征服民が渡来した?は?
てめーら狩猟部族に外洋を渡海する技術があったのかよwww 魏志倭人伝しかないから仕方ないだろう
日本は文字を持たなかった >>2
半島南端は日本人の地域で、他の民族と一緒に暮らす必要性から
合成言語としていまの日本語が生まれた、つう説だよね。
列島先住民の一部であるアイヌが全く違う言語を持つことからも
可能性はあるが、いかんせん資料に乏しい 神武東征は事実である説は強いけど
邪馬台国崩壊後にそれと関係ない九州勢力によるんだろうか?
それとも邪馬台国以前の話で、卑弥呼が北九州に君臨していた同時期に
畿内で崇神天皇が大和朝廷のリーダーだった(大陸と交流ないから魏志倭人伝には当然のらない)のかな? つじつまの合わないラノベを強弁しつづければ史実になるほど学問は甘くねんだよ ほんとはヤマイなのにヤマタイってワザと誤読した奴がいるんだろ ID:EujksidS0
高句麗好太王碑文に「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡破百殘■■新羅以為臣民」とあり、辛卯年(391年)以降、倭国が百殘(百済)と新羅を臣民と為すとの記述がある。これは、ツングース系貊族による金石文。
4世紀後半な
朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られる。これらは5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代、日本の古墳時代中期-後期)
5世紀後半な
これ読んでも理解出来ないの?w
因みに古墳て3日出来ないし権力者の墓な 魏志倭人伝に出る水行1年の裸国や黒歯国は実は畿内の大和朝廷のことだったりして。 古代日本には狩猟採集民しかいなかった。数もわずかであり、農耕云々は重要ではなかった。
なぜか。仮に農耕をおこなっていたとしても越冬のためには獣皮が必須であり、狩猟生活を
放棄することができなかったからだ。人口は越冬可能性により制約されており、人口が増えないのは
農業生産性が低かったからではなく越冬が困難だったからだ。
これを劇的に変えたのが絹織物の渡来であり、養蚕の渡来である。これが中国南部から
北九州に渡来し、北九州が養蚕と繊維産業の中心地となり、原始「日本」が発生した。
この文明は朝鮮半島南部も侵略し、また絹織物の交易という「武装商団」により本州を
東に北に「侵略」して行った。これが神武東征の実態であり、決して流血と鉄器により
みなごろしの東征をおこなったわけではないのである。 >>1
経歴からすると地元びいきの村おこしと変わらんな >>26
好太王碑の記述から神功皇后による三韓征伐は史実だったと裏付け取れてるよね。
倭国軍は新羅には勝ったが好太王の高句麗には負けている。
新羅に勝ったのだから記紀で勝利をうたうのは分かる。
(なお高句麗には負けたため高句麗と戦ったとはわざと書いてない) 「邪馬台国」好きは高齢者が多いみたいだから、先細りのジャンルだね。(´・ω・`) 九州は日本人の枠内での人種のるつぼで
九州人で日本人全てが再現できる 空白の4世紀と言われるように
4世紀以前の倭国の記述は全部中国の捏造だよ だいたいこの低能学者もどきが言ってることがおかしい 九州に邪馬台国があったのならなぜ九州から渡ってきた天皇家は卑弥呼の事を知らないの?
つまり九州に邪馬台国はなかった。
大和の物部の女王が卑弥呼だよ。 北部九州だと気候が合わないんだよな
寒冷化で厳しかった当時の日本で、九州北部が記述通りの温暖な気候なのはありえない 発掘調査しようとすると地元の町起こし的な観点から
「土器が必ず見つかるんですよね?」
みたいな早とちりというか願望ですり寄る輩が現れて困ると言われる
そもそもわからないから発掘するんだよな〜 日本の古代史について仮説するさい、農耕と鉄器に比重が置かれすぎている。
彼らはまるはだかで農耕し戦争をおこなっていたのかね。冬のさむい朝に
まるはだかで暮らしていたのかね。ちがうだろう。現今の日本でさえ冬の夜に
麻織物の衣服に麻の寝具だけできみたちは暮らせるのかね。そのような場所は
南九州と西南諸島だけである。 >>42
知ってるけどナイショにしてるかもしれないw 倭国大乱の調停者としての卑弥呼は担がれてるから
天皇家が卑弥呼について記録を残すと
天皇家は畿内の王様で九州の王様と争った記録も残るから消えたんだろ ちょっと古代史をかじれば邪馬台国なんて実在しなかったことがわかる 日本の冬がすごく寒いということに思いをいたせば、日本の文明が開化したのは絹織物の
伝来によってであり、農耕などは関係がない。人口が増え始めたのは獣皮に頼らずとも
越冬が可能になって以降であり、これが神武東征の時期の話しなのである。 >>15
出雲族はその後も生き残ってるし、諏訪まで逃げて、関東、東北へ移動した
大国主神は出雲に祀られ封じられ元祖祟り神に 大和国の最初の王であるニギハヤヒは豊橋市出身の可能性が高い
大神神社の社殿曰く、三河国の石巻山(神山(ミワヤマ))は三輪山の奥の院である
大神神社の拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥の院、豊橋の石巻山(神山(ミワヤマ))に向いているわけだな 日本は明治維新の時に色々歴史を捏造してしまったからなあ >>28
そうじゃなくて
ヤマトに寄せてヤマタイって訳した奴がいるんだよ 邪馬台国が九州なのか畿内なのか議論するのは良い
しかし、邪馬台国が大和朝廷と関連があると考えるのはロマン見すぎ
ましてや、壬申の乱後に編纂された記紀に無理やり邪馬台国や卑弥呼、台与を当てはめようとする行為には失笑を禁じ得ない 無かったものを無理に作る方が強引すぎると思う
当時の状況に当てはめていくべきだと思うが >>51
同一面積で農耕は狩猟採集の200倍の人口を養えるなどとも言われ
人口急増の殆ど唯一の要因は農耕の開始 温暖でもあるし穀璧とか花弁状住居跡とかヒントになる遺物や遺跡は多いのだけど
戦前の反動で戦後の宮崎の遺跡は必要以上に貶められてきたからなぁ あと智慧でしったローマ史やイギリス古代史から連想して、ケルト人やバイキング、ノルマン人たちのように
朝鮮人が日本を武力で征服したなどと思いたいのであろうが、そのような甘い期待は完全に間違いなのである。
日本にはウシやウマがいないということは魏志倭人伝の明記するところであり、古代日本は牧畜から獣皮を
得るという手段が存在していなかった。越冬するために必要な獣皮は狩猟でのみ獲得できるものであって
これが古代(縄文)文化の最大の制約条件だったのだ。これを開放したのが絹(カイコ)の渡来であり、
カイコを育て糸をつむぎ、はたをおることで日本は成立した。馬鹿どもがあこがれる「血と暴力」による
征服という妄想は砂上の塔のようにもろく崩れ去り、現実の古代日本は知的な女性たちの実直な努力の
成果物である絹織物(むろん麻織物もあったろう)により開花し、文明として開始されたのだよ。ばかめ。 >>31
倭人伝の記述を見る限り、日本列島を傾いて認識している(南の記述は実は南東)。
邪馬台国は帯方郡から12000里、で伊都国までで10500里。残り1500里。
対馬、壱岐、奴国、伊都国、投馬国など行程に上がる国は邪馬台国の「北」にある。
で邪馬台国連合を構成する国々は具体的に名をあげてるが遠くて詳細がわからないとある。
よって邪馬台国は海側の大分あたりとみる。
対馬な福岡からみたら実方向が南東だし、他の連合構成国は内陸、佐賀平野ないし有明海方面。
狗奴国は女王国(本国と連合国全体を指す場合がある)の南とのことだが
邪馬台国本国(大分)の南じゃなく、邪馬台国連合全体からの南とみる。
佐賀あたりからみたら狗奴国の熊本は「南」(実方向では南東)だし。 >>58 いくら農耕を行っても越冬できなければ定住できないだろうと言っておる >>53
ニギハヤヒなんてもう神話時代だろう
大阪の石切劔箭神社に祭神として祀られているが
この神社は神武天皇紀2年に創建されたとされる
神社を調査すればなにか分かるかもしれんが 二つあった
九州と近畿
冬は九州に
夏は近畿に移動してた >>21
>蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る
大化の改新で蘇我邸が焼かれ消失してる
亀甲占いやってたかもしれない卑弥呼の時代に文字が無かったとは言えない >>22
アイヌはアイヌでオホーツク文化の担い手のニブフあたりと
混血、同化しているからね
言語形態も変化しているかもしれん 唐書にヤマト王権は元々小さい国だったけど倭国を併合して大きくしたって書いてるんで同時存在はしてるし邪馬台国東征説はありえない 九州人が嬉しそうに
「近畿に邪馬台国はありませんでした」
「ありませんでした」
「ありませんでした」
わいは何を思えばいいんだろう
わいは何て言えばいいんだろう 神武東征で北九州に大君が居なくなったから大乱が起こったんか、なるほど >>30
その仮説は、縄文時代の人口が東日本に偏っており、西日本はほとんど無人であったことと矛盾する >>68
関西人は小保方みたいに「畿内に邪馬台国は、ありまぁす」言ってるよね 墓のある場所が必ずしも国の中心ってことはないんじゃないの?
箸墓古墳が仮に卑弥呼の墓だったとしても、それでここが邪馬台国って断定はできないと思う
卑弥呼の眠りの地として選ばれただけかもしれないし 魏志倭人伝って書物は無いのに引用元の魏書を提示しない歴史学者って学者と恥ずかしいよな 日数なんてまともに信じないほうがいいかもしれんな
もてなしや見物で遊んでばかりだとそんなもんまともに出張報告あげられんだろ
適当でもわかるわけがない。ほんとうなのはかかった日数だけ >>62
北陸などの雪に埋もれる地域は朝鮮北東満州沿海あたりからの渡来の痕跡があり彼らの民族は越冬に獣皮や脂を用いる
弥生時代の服装は麻の貫頭衣である イエスキリストの遺骨が見つからないようにうに、
卑弥呼の遺骨も見つからないから、邪馬台国は存在しなかったのだ >>54
違うよ。戦後の話だよ。邪馬台国の機内捏造はw
日本語で論文書いてるから存在し得る詭弁で、
別の言葉で言えば、国内学会のガラパゴス政治だよ。
その内容を英語で論文書いてご覧よ?
世界の誰からも相手にされないからw >>70
おまい縄文時代の長さってどれくらいだと思ってんの? >>49
自分らが畿内の王なのにわざわざ九州から来た王だと記紀に書いたのは何の目的で書いたの? >>70 そのあたりは説明できる別のパラメータが必要になるのだろう
>>75 越冬において獣皮・獣脂はとてもたいせつ >>1
邪馬台国が存在したか?存在しなかったか?……どちらでもいいです。
邪馬台国が何処に存したか?……どうでもいいことです。 >>76
もし存在してないとしたら、あんな覇権を失った惨めな邪馬台国を
魏の役人に演出してみたりはしない。もっと違うものを演出した筈。
倭人伝にあるのは、3C頭の倭国大乱で負けて覇権を奪われた邪馬台。
漢の時代、邪馬台国が隷下の奴国(博多)を使って朝貢させてた様に、
今度は、新覇権国=奈良から、邪馬台が魏に朝貢させられてたわけだ。 >>84
現在の荒川より東北は蝦夷地で日本でさえなかったからあり得ない おそらくオウム真理教みたいな気持ち悪い集団だったんだろうな >>81
九州勢力の存在消した上で全国統一した経緯も示さないといけないから宮崎スタートにしただけなんじゃ? 権力は既に握ったのだから、出自や支配の正当性を示すのが目的だからな >>18
鉄剣を持っていた軍事大国の出雲さんが
何で九州の田舎者神武にあっさり負けるの?
神武が何か大きなアドバンテージを持っていないと成立しない話 >>1
>数千世代にわたり改変されていない、いわゆる「高度保存遺伝子」を見つけ出す
例えば「鏡」がそれに当たる。
鏡は古事記・日本書紀の時代から今に至るまで変化はなく、日本全国の方言の違いもない。
だから、弥生時代に鏡が朝鮮半島から日本列島に渡って来た時、それを最初に「かがみ」と名付けたのが、そのまま残ったと見られる。
しかし朝鮮半島では「鏡」は、「かがみ」とは言わない。
古代は分からないが、少なくとも15世紀以降は「かがみ」ではない。
「コウル」だ。
「鏡」が「高度保存遺伝子」ならば、古代朝鮮人が鏡を見て「コウル」と名付けたはず。
しかし「かがみ」と「コウル」は、全く違う。
従って、鏡が渡来した弥生時代から列島に住む原日本人と、半島に住む原朝鮮人は、違う民族としなければならない。 >>52
関東、東北に逃げたとしてもカスだろ
本体は三河に集積し、源頼朝を頭に据えて、中世近世の日本を牛耳った
出雲は勝ったんだよ
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平 >>49 >>81
邪馬台(やまと)が3C頭の大乱で負け、男王(剣を持つ王)を禁止され、
女王(権力無き権威)を強制され結果が卑弥呼だ。新覇権国は奈良かな。
ちょうど漢が滅亡し三国時代に移る混乱期、3C初頭に大乱が起きた。
4Cに入り華北が混乱し、朝貢秩序が崩壊すると、奈良に滅ぼされ、
漢代から続く倭国盟主としての権威ある「やまと」の名を奪われた。
東遷神話は、この権威簒奪を偽装・正統化する為の作話だな。 免田式土器のあの奇妙な形状も、カイコさんを煮て採糸するさいに
焼けてしまわないようにとの工夫であったのではないか 日本にやってきた中国人から見て
いくつもある部族の中でたまたま卑弥呼が第一村人だったってだけじゃないの? >>89
宮崎スタート自体、文献上あやしい。
「筑紫の日向」と書いてある。
「福岡の日向」という地域である可能性が十分ある。 徐福伝説とか「秦氏」=機(はた)に通じる、などを含め、古代日本史は
あきらかに中国とカイコさんにより開花されたのであって朝鮮人など関係がない
あったとしてもそれはせいぜい数万年前からの由来による、たかだか遺伝子の話しである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています