ハンセン病家族訴訟判決を前に思いを語る原告団長の林力さん。自室では元患者の父の肖像画(左上)に「いつも見守られている」という=福岡市城南区で2019年2月、森園道子撮影
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 ハンセン病元患者の家族561人が国家賠償と謝罪を求めた訴訟の判決が28日、熊本地裁で言い渡される。国は元患者への救済策を進めてきたが、家族については救済の対象外としてきた。しかし、家族もまた差別や偏見の目にさらされてきた。ひた隠しにしてきた被害を法廷で明かした人たちの訴えは、司法に届くのか。

 「力(ちから)、よう頑張りよるね」。書斎の壁に掛かる父の肖像画から懐かしい声が聞こえるようだ。裁判が始まってから、561人の団長を務める元九州産業大教授の林力さん(94)=福岡市=は心の中で亡き父と対話することが増えた。患者だった父の存在がなければ、差別の問題に目を向けることはなかったかもしれない。

 林さんは長崎県で材木商などを営む家に生まれたが、父が事業に失敗して借金を抱え、家族で福岡に移り住んだ。小学生の頃、父はハンセン病の影響で両手の指が内側に曲がり、足の傷も治らなくなった。近所から「腐れの子」と言われ、友達も寄りつかなくなった。

 1937年、父は42歳で鹿児島県鹿屋市の国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」に入った。数日後、役場の職員が家中を消毒し、「らいの家」として烙印(らくいん)を押された。大人になってからも差別は続いた。小学校の教師となり、同僚と恋に落ちたが、相手の家族から身上調査をされ、別れた。

 父を憎んだこともあったが、その後出会った同和教育に生涯をささげる決意をしたのは、自らも差別に苦しんだからだ。被差別地区の住民と膝を交え、識字学級を開いた。差別に負けずに生きる人たちの姿に心を打たれた。「お前はいいことをした。最後までやらなあいかん」。面会した療養所の父は褒め、励ましてくれた。

 四半世紀にわたり隔離されたまま67歳で亡くなった父からは「俺の病気は生涯隠せ」と言われ続けたが、林さんは74年、著書で患者の子であることを明かした。「差別の問題に取り組みながら、なぜ隠すのか」。悩んだ末の結論だった。

 訴訟では、差別を恐れて今も氏名を名乗れない原告たちの法廷証言に心を揺さぶられた。学校や就職、結婚……。人生のさまざまな場面で家族は差別されてきた。ところが、国側は「家族への偏見差別が生じたとしても、それは社会の構成員が『家族は潜在的感染者』と誤解したためだ」などと責任を否定してきた。

 教師経験から、ハンセン病の問題が長く教育の枠外に置かれてきたことを知っている。国民が「無知」の状態に置かれ、差別が広がった。それは「国策」でないのか。

 最近、生前の父を知る関係者から「顔も声もそっくりになった」と言われるようになった。患者の子としての重い荷物を背負って歩み、いま「父ありてこその人生だった」と思える。昨年3月、長年連れ添った妻を失った。失意に沈む林さんを長女美知子さん(64)が支え、裁判にも付き添ってくれている。「父は裁判に生かされています」。美知子さんは言う。

 「ハンセン病を病んだ肉親や古里のことを堂々と語れる世の中にしたい。勝訴を父に報告したい」。28日の判決が光を照らしてくれる。林さんはそう信じている。

 ■ことば

ハンセン病と訴訟

 ハンセン病は感染力が弱い「らい菌」による慢性感染症で、手足の知覚がまひしたり変形したりすることがあるが、戦後は化学療法で完治するようになった。しかし、政府は1996年のらい予防法廃止まで約90年間隔離政策を維持。熊本地裁が2001年、世界的な情勢などからみて60年以降の隔離政策を違憲と断じ、差別を助長した国や国会の責任を認めた。政府は元患者に謝罪し賠償するとともに、名誉回復のための啓発活動も実施してきたが、家族への対策は講じられず、家族が16年2月以降、同地裁に順次提訴した。

毎日新聞 2019年6月4日
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