0001樽悶 ★
2019/06/07(金) 20:22:23.41ID:obQaWk/T9私の疑問はシンプルです。
報道されているかもしれない、またされていないかもしれない、ほかのあらゆる観点を捨象するとして、76歳の父親は、44歳にもなる息子を「扶養」し続けたのか?
中学2年生の少年が、母親に暴力をふるうというのは、もちろんそういう家庭では深刻な問題だと思いますが、実は「愛憎半ばする」であって、母親を愛するがゆえに憎む、というコインの両面が一体になった行動と考えるべきかと思います。
もし、本当に人が人を嫌いになったら、憎むという以前に無関心になるものです。
特に肉親の間で、憎悪の感情があるとするなら、それはまた、近親の情が残っているから、そういう甘えも生まれる側面がある。
子供がお母さんに対して、暴れ、甘えるというとき、まさかお母さんは最終的に自分を見放したりはしない、という、根の底の信頼、安心、あるいは思考停止と依存があることが少なくないように思います。
44歳にもなって76歳の父親に激しい暴行を加えたという報道が事実であるなら、一方で息子としては、父親に愛憎ごたまぜになった、自分自身どうしようもない感情をもてあましながら、その裏に、本当は大好きなお父さんは、最後まで自分のことは守ってくれるという、ある思考停止と依存があったかもしれません。
そして、その根の底の信頼が、加害者であるKH容疑者には、なかった。
犯行には関係していないけれど、もしかすると事件の中心に存在しているかもしれない、母親にも、そのような感情はなかった。
いくつになっても、どれだけ暴れても、甘えても、結局は自分を保護してくれる、骨がらみであるけれど絶対的な存在でもあったお父さん、お母さん。
そういう存在が、実は錯覚か虚妄にすぎないものになってしまっていたことに、中年を迎えながら、様々な遠近感を持ち損ねていたであろう息子は、ついに気づかずに、このような事態を迎えてしまったのではないか・・・。
そのような印象を拭うことができません。
5月25日に「同居」を息子が願い出たとき、両親がそれを断っていたなら、今回の事件は起きていなかった可能性があるでしょう。
なぜ、そこで保つべき「距離」をもてなかったのか?
そこに、親が子供をどこかで「所有」しつつ「スポイル」してしまう、という悪循環を生み出していたのではないか?
この子を作ったのも私たち両親なら、育てたのも、育て損ねたのも、そしていま、本当に人様に迷惑をかけるかもしれないとき、何とかするのも、親の責任だと思い詰めたらしい、伝えられるKH容疑者の供述に垣間見える、意識のど真ん中にぽっかりとあいた死角の穴こそ、問題ではないか、と思うのです。
息子を、一個の独立した人格として認めるとともに、それを突き放し、生活費などは「自分で生計を立てておのれを養え!」と、千尋の谷から我が子を谷に叩き落す、親としての子離れがあったなら、こういうことは起きていなかったのではないか?
しばらく前のことですが、JRの車両の中で優先席に小学生の子供を平気で座らせている親を見ました。
別段病気や怪我などもなく、子供は率先して立って高齢者に席を譲るべき、と教えられた世代の私としては、若い親がさらに下の世代の子供をスポイルしている現場と認識したのですが、そういう延長に今回のような事件があるように思われてなりません。
スポイル、甘やかしという問題を、超高齢化する日本社会の中で、もう一度考え直してみる必要があるのではないか?
相互に甘え合い、甘やかし合う馴れ合いは、決して本当の意味での愛情でもなければ、人を大切にする行動でもないと私は思います。
真の意味での愛情に枯渇し、窒息しながらもがき苦しむ中で、今回のような事件が発生してしまったのではないか・・・。
いまだ伝えられる事実が少ない、発生して1週間を経過しない事件ですので、今後の報道に注目したいと思いますが、「ポスト・トゥルース」が懸念される世情のなか、このような事件が発生してしまったことが、個人的には残念でなりません。(伊東 乾)
6/7(金) 6:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190607-00056632-jbpressz-soci