【京都】「ほとんどが飢えや病気で亡くなった」 97歳、インパール作戦を語る★4
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
インパール作戦について回想録を見ながら語る今井さん(南丹市園部町)
https://amd.c.yimg.jp/amd/20190605-00000018-kyt-000-3-view.jpg
太平洋戦争の旧日本軍による「インパール作戦」に従軍した京都府南丹市園部町小桜町の今井冨佐三さん(97)が実体験を語る「平和のための集い」が6月15日、同町の市国際交流会館で開かれる。今井さんは「無謀な作戦で多くの犠牲者が出た。戦争の愚かさを伝えたい」と話している。
インパール作戦はビルマ(現・ミャンマー)を占領した旧日本軍が中国への物資補給路を断つ目的で、イギリス軍が防衛するインド北東部のインパールの攻略を目指した作戦。1944年3〜7月に行われ、3万人以上が死亡したとされる。
今井さんが所属した31師団はインパール北側のコヒマ制圧を目指して3月に出発した。食糧にするために牛を連れて行ったが、途中の大河やインド国境の2千〜3千メートル級のアラカン山脈を越えなければならず、牛は山道から落ちるなどして全滅。今井さんは20日分の重い米を持って徒歩でコヒマに到着したという。
コヒマで戦闘となった英軍は戦車があり、飛行機で毎日、弾薬や食糧、水を補給していた。日本は補給はなく、現地住民の食糧を奪い、キノコや雑草を食べて飢えをしのいだ。
6月に師団長が独断で撤退を決断。雨期に入ってマラリアや赤痢で次々と戦友が動けなくなり、「迷惑がかかると、手りゅう弾で自殺した」と証言する。撤退路は「白骨街道」となり、遺体に野の花を手向けて冥福を祈るのが精いっぱいだった。今井さんは「ほとんどが飢えや病気で亡くなった。戦争を絶対にしてはだめだ」と力を込める。
集いは「憲法9条そのべの会」が主催し、昨年12月に同会のメンバーらがコヒマやインパールを巡った旅の報告もある。入場無料。午後1時半から。
6/5(水) 19:50配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190605-00000018-kyt-l26
★1:2019/06/07(金) 18:43:19.07
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1560174544/ >>166
その素人が作った出来の悪い飛行機が多いせいで前線では「出来の悪い100機よりまともな10機を送って欲しい」と嘆いたとか。 日本は人を集めれば何とかなると思っているが
ゴタゴタしている現場に人だけ集まりやっつけ仕事をしてるだけ
何人か出来る奴が出て来たらリーダーに指名して丸投げ
最初からマニュアル作れば
英雄がいないと回らない職場なんかいらないわけで
リーダーはマニュアルを補完してサポートする役割で職場もスマートに収まる
日本人は頭は良いかもしれんがバカだと思うよ >>161
俺が100%嘘だと書いてるか?
おまえにはそう読めるのかも知れないが日本語が理解できないのは仕方ないな
さっさと祖国に帰って徴兵義務を果たし、祖国の土になって来るがいい >>169
「電探は電波を出すから逆探されたらこっちの位置がバレる」「闇夜に提灯を灯すようなもの」と
分からんでもない反対理由はあったけどね
南雲機動部隊の草鹿参謀長が中尉だったか大尉の時に
「電波を利用すれば敵艦や敵機の位置を探る事ができるのではないか?」と電探のアイディアを思いつき直属の上官に進言したが
「中尉の言うことを帝国海軍が聞くわけ無いだろ」と却下されてしまった
この上官は戦後に「上に話だけでも通しておけば良かった」と悔やんだらしいが >>173
レーダーも決して万能兵器ではないから導入すればすぐに役立つというものでもない
実戦で活用するためにはそれなりの性能を持った物を作ってそれを活用できるシステムが必要になる
あのアメリカでさえレーダーを使いこなせるようになるまで時間がかかったことを考えると
積極的に使っていたとしても金も技術も時間もない日本にとってレーダーは手に余る代物ではなかったかと思う >>167
戦闘機乗りでも自分が習得してきた技術や経験をどんどん部下に教えて戦力の増強を図る人間もいれば
「俺が文字通り死ぬ気で覚えた技術をなんでヒヨッコ共に教えないとイカンのだ」と「見て盗め」方式の人間も結構居たという話が残ってる
歩兵の場合も日本は新兵教育で「皇国の成り立ち」「軍人勅諭」「戦陣訓」の丸暗記や敬礼や行進の所作ばかりに力を入れていたが
米軍はそういったものはササッと済ませて「ジャップと取っ組み合いになったら指で目を突け」「銃剣は接近戦ではこう使え」と
より実戦的な訓練を行っていたという
>>174
逆に日本は技術も時間も無いからこそ他国より早くやるべきだったんじゃないかなとは思う >>120
台湾沖航空戦ではインパールの後なのに日本も1000機以上の航空機を投入してるんだね。
インパールでは100機以下。やるならやるでもう少し戦力を集中する気はなかったのか。 >>176
つっても戦果が魚雷命中2発のみじゃなぁ 牟田口一人が悪いんじゃなくて日本陸軍全体が欠陥軍隊だったのではないか 台湾沖航空戦は戦果の誤報が大問題で未熟な母艦パイロットまで夜間攻撃に
投入して未帰還機多数でレイテ沖海戦では機動部隊を囮にするしかなくなり、
陸軍はルソンを棄ててレイテで無茶な戦いをすることになり、台湾からレイテに
兵力移動、沖縄から精鋭の第9師団を台湾に転出と玉突きで日本軍壊滅を早めた
戦いだな。
予備兵力まで投入してドイツの崩壊を早めたラインの守り作戦に匹敵する。 上級ジャップ「やっべw俺たちの分の食料まで尽きてきそうw」
上級ジャップ「そうだ遠い前線に適当に人員送りまくって補給一切しないでおこうw」
上級ジャップ「ついでに都合悪い奴らも前線に島流しして飢え死になw」 >>180
日本が艦隊をレイテで蕩尽せずに温存してても大したことはできてない気がするので
攻勢を控えればそれなりに守りを固めることができたと思われるルントシュテット攻勢とは話が違うのでは 後知恵、入れ知恵での日本軍批判w
ではなぜ失われた20年のままなのか? >>183
失われた20年を批判したら後知恵になるのか。
10年前は、失われた10年て言われてたけど。 >>148
お言葉ですが日本軍将校を買いかぶりすぎです。
日本が悪いとは思っていないが、信念があって戦ったわけではない。
その通り主人の命令だったから戦争しただけです。
日本の将校で敗戦の時に自決したやつがどれほどいますか。
信念があって戦ったなら、負けたら死にます。 >>185
ソ連みたいな国防戦争ではなく、中国大陸の利権絡みのイザコザが戦端を開く切っ掛けだったからな
日本が日清戦争後の三国協商の時みたいに妥協したら対米戦争は起きてなかった インバール作戦はインド人と共に戦った。
そしてインパール作戦はチャンドラボースが熱望した作戦であった。
チャンドラボースはインド独立のために世界を飛び回っていたが、
日本が米英と戦争を始めたのを知ると即座に日本にやってきた。
当初日本の政治家や軍人はチャンドラボースを重要視していなかったが、
ボースは会う人をことごとく魅了していった。
東條英機は会見後に「あれは人物だ」と感嘆したという。
インド独立の為に睡眠時間三時間で働くほどバイタリティがあり、知的で礼儀正しい。
ボースから特別なオーラみたいなのを感じとったのだろう
日本の軍人もチャンドラボース熱意を意気に感じインパール作戦をやった。
もはや作戦の失敗が明らかになってもチャンドラボースは最後まで撤退に反対。
日本の軍人が「また機会はある」としてチャンドラボースを説得し作戦の中止を決めた。 >>189の続き
チャンドラボースは会う人をことごとく魅了していった。
河辺大将(牟田口中将の上官)もその一人
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
また「チャンドラ・ボースの壮図を見殺しにできぬ苦慮が、正純な戦略的判断を混濁させたのである」と、
インパール作戦実行の背景にはボースに対する日本軍側の「情」があったとしている[2]。
河辺はすでに作戦の失敗は明らかであった6月の段階になっても、
「この作戦には、日印両国の運命がかかっている。一兵一馬でも注ぎ込んで、
牟田口を押してやろう。そして、チャンドラ・ボースと心中するのだ。」と考えていたという[3]。
ウィキペディア 河辺正三
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
作戦そのものは失敗したが、これがインド独立への道に繋がった。
イギリスに反抗したインド国民軍を処罰するために公開裁判が開かれたが、ここでイギリスは致命的な誤りを犯してしまう。
反乱軍(インド国民軍)被告代表の将校三人をそれぞれヒンドゥー教徒、イスラム教徒、シーク教徒から選んだのであった。
しかしこの事が宗教で対立していたインド人達を団結させた。
インド国民軍が命をかけて祖国を解放しようとしていた事がインド国中に知れ渡ると、
この時からイギリスに対し各地で激しい抵抗運動が始まり、インド人水兵達が70隻以上のイギリス艦船を乗っ取る事まで起き、
イギリスは独立を認めざるを得ない事となった。 >>185
>信念があって戦ったわけではない。
日米開戦の真実 大川周明著「米英東亜侵略史」を読み解く
佐藤優はまえがきでこのように書く
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1941年12月の開戦直後、当時の政府は戦争の目的と
そこに至った経緯を国民に対して論理的かつ実証的に説明することを試みた。
その一つが大川周明によるNHKラジオの連続講演(全12回)だ。
この速記録は講演が行われた翌月(1942年1月)に『米英東亜侵略史』(第一書房)
という単行本として上梓され、ベストセラーになった。
本書を読めば、日本が何故にアメリカ、イギリスとの戦争に至らざるを得なかったのかが
よくわかる。さらにその内容が客観的事実に基づいた冷静な主張であることにも驚かされる。
本書にその全文を掲載している。
読まれた方は、「鬼畜米英!」などといった過激なプロパガンダが見られないことを
意外に思われるかもしれない。
しかし、そのことは当時の日本国民の知的水準の高さを示している。
(中略)
日本国民は当時の国家指導者に騙されて戦争に突入したのでもなければ、
日本人が集団ヒステリーに陥って世界制覇という夢想に取り憑かれたのでもない。
日本は当時の国際社会のルールを守って行動しながら、じりじりと破滅に向けて
追い込まれていったのである。
あの戦争を避けるためにアメリカと妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、
準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。
日米開戦の真実 大川周明著「米英東亜侵略史」を読み解く 佐藤 優
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まず大川周明の「米英東亜侵略史」か、全文掲載されてある日米開戦の真実 大川周明著「米英東亜侵略史」を読み解く
を読むべきだな。
開戦直後に政府の代理で説明したのだから。
それに反論するように書いてみて >>188
日本にとって望ましくない政府に統治されるシナを危険視し
日本の半傀儡の汪兆銘政府を唯一のシナ政府にしたかったので
シナからの撤兵は国民党軍や共産の山賊を完全に消すまでは撤兵は出来ない。
そのために援蒋ルートの制圧が必要でそのために占領地域が仏印やビルマに拡大していったと言う。
将来の脅威を消すためならば容易に譲れないが
直近のより巨大な脅威のアメリカならばアメリカに譲歩してシナから撤兵すべきだった。 >>192
だから撤退の時期などを日米交渉で話し合っていたわけだ。
−−−−−−−−−−−−
ハル・ノートの過酷な要求が戦争を誘発したとの批判は米英の識者の間に当初からあった。
英国では、戦時中の1944年6月、保守党内閣の重鎮であったオリヴァー・リトルトン生産相が
ロンドン米人商工会議所で
『米国が戦争に追い込まれたと云うのは歴史を歪曲するも甚だしい。
米国が余り酷く日本を挑発したので日本は真珠湾攻撃の止むなきに至ったのだ』と述べて
英米間の問題になり、国務長官弁明まで飛び出す始末であった。
「大東亜戦争への道」展転社 中村粲
−−−−−−−−−−−− 東京裁判最終弁論でブレークニー弁護人は主張した。
「日本が真に重大なる譲歩を行ったのは東條内閣が交渉の再検討をした最初の成果、即ち甲案に於いてであった
証拠の分析は、日本がただにあらゆる点に於いて譲歩したに止まらず、譲歩に譲歩を重ね、
遂に譲歩の極に到達したことを証するものである」極東軍事裁判速記録393号
「大東亜戦争への道」展転社 中村粲
東郷茂徳は東京裁判の口述書でその時の我方の反応を
「ハル・ノートに対する出席者全員の感じは一様だった思う。
米国は従来の交渉経緯と一致点を全て無視し、最後通牒を突きつけてきたのだ。
我々は、米側は明らかに平和解決の望みも意思も持っていないと感じた。
蓋しハル・ノートは平和の代価として日本が米国の立場に全面降伏することを
要求するものであることは我々に明らかであり、米側にも明らかであったに違いないからだ。
日本は今や長年の犠牲の結果を全て放棄するばかりか、極東の大国たる国際的地位を棄てることを
求められたのである。
これは国家的自殺に等しく、この挑戦に対抗し、自らを護る唯一の残された道は戦争であった」と述べている。
これは軍部の見解ではなく、文官たる外務大臣の意見であることに注意すべきである。
無論、東條首相の宣誓供述書も殆どこれと同趣旨である。
即ち連絡会議の結論は
(1)ハルノートは明らかに最後通牒であり
(2)米国は我国が受諾できない事を知りつつ、しかも関係国との緊密な了解の上に通知してきて居り
(3)米側はすでに対日戦争を決意しているが如くである。
「大東亜戦争への道」展転社 中村粲 >>194
>日本は今や長年の犠牲の結果を全て放棄するばかりか、極東の大国たる国際的地位を棄てることを
>求められたのである。
>これは国家的自殺に等しく、
反日左翼達のやり口は故意に戦前と戦後の世界の秩序、価値観を同じように見せかけるのである。
だから何故「極東の大国たる国際的地位」を捨てたら「国家的自殺」なのかが見えない。
戦前は植民地主義で人種差別があからさまに行われていた。
そんな中で国力を失ったらどうなっていたか・・・
日本が人種差別撤廃を国際連盟規約に盛り込もうとして拒否された事実は
人種平等の現在からすれば考えられないことであろう。
−−−−−−−−−−−−−−−
■1.われわれ黒人は日本に最大の敬意を払う■
全米1200万の黒人が息を飲んで、会議の成り行きを見守っている。
1919年、パリ講和会議。第一次大戦の惨禍を再び繰り返すことのないよう、
国際連盟創設のための議論が進められていた。米国の黒人たちが注目していたのは、
国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲げて参加した日本であった。
『われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で「人種問題」について激しい議論を戦わせている日本に、
最大の敬意を払うものである。』
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog132.html 第二次大戦で戦争のやり方に失敗したから、戦争は決してしてはいけないなどというのは
最も愚かな言い草だ。
まあ実際には反日工作員に言わされているだけだがな。 >>198
端から見ててもアホすぎる作戦やら情報統制やらが批判されてるんだと思います
あとはそれを止めることができなかった命令系統とか政治形態とか >>199
うん、だから「戦略や体制がこのように不味かったから、こう改良すべき」というべきなんだよ。
それが、全然関係ない「戦争はしてはいけない」という馬鹿げた結論に直行してしまうのは
反日工作員だけ。 >>188
日本は停戦協定を結んで不拡大に努力したが
その度にシナはテロを仕掛けて協定を破ってきた >>184
これ程までに的確に、日本軍の欠点を指摘できる”賢人“がこのスレに揃っていながら
日本は失われた20年のまま
こんなに賢人が沢山いるなら今の日本はとっくに完全無欠社会が達成出来ているはずだが >>200
これな
現代の価値観に戦中の過酷を無理矢理焼きこんでるだけ、そんなクソ甘な理屈が当時の世界情勢で通用するわけないんだよ
ハワイ王朝、ビルマ王朝、トランスヴァール共和国、オレンジ自由国、これらの国々は何であるか?どのような運命を辿ったか?
日本が戦後、復興を遂げて経済大国になれたのが奇跡なだけであって
明治維新の直前には中国同様に開港を迫られ、不平等条約を結ばされ、ちょっとでも西欧列強に歯向かえば租借地という形で侵食される
租借地を渡せばそこを防衛するために軍事拠点が造成され、ことあるごとに西欧本国からの武力干渉を受ける
武力行使がなされれば現地民衆が蜂起して争乱が惹起し、鎮圧されると同時に主権を奪われ王統も除外される、完全な植民地化だ
もしそのような武力衝突が発生しなかったとしても、うっかり石油や金鉱が発見されればたちまち列強に侵略される
またそれらを回避して独立国家を維持しながら経済発展を成功させたとしても、世界経済から排除されるのが西欧諸国以外の国家の扱われ方だ >>183
兵士を犬死にするバカとか
平時の考えを戦時にあてはめる時点で、旧日本軍と同じ机上の空論だわ >>198
> 第二次大戦で戦争のやり方に失敗したから、戦争は決してしてはいけない
それは2つの点で違う。
全体としてやり方が良くなかったことが戦争に悪いイメージをもたらしたわけではない。それだと戦勝国の
側にいるかぎり、いつまでたっても戦争は良いイメージでとらえられることになるが、実際には20世紀以降
の列強の戦争に対する意識の変化は勝ち負けを超えて広汎に生じた。
そして2つめの間違いは、戦争が悪いイメージになったのはWWIIではなくてWWIだということだ。
列強の戦争が、産業や国家組織の高度化によって、牧歌的な王朝間戦争の時代からはずいぶん遠くなって、
大規模にしかも銃後を巻き込んでおこなわれる段階に達したのが第一次大戦だった。人対人の戦いでは
なく機械対人となる大規模な殺戮、国民経済の破壊によって長くつづく生活レベルの低下、戦後の革命の
危険性といった総力戦の現実を欧州は経験することになった。
ところが明治以降むしろ戦争によって産業の近代化をなしとげてきた日本は、欧州の先進国とは違って
第一次大戦の主戦場から離れていたことや、どうにか先進国に伍する水準にまで発達した産業のうえに
2世紀前の絶対主義を微修正しただけの王朝が君臨するなど、歴史的段階から考えると国家組織の
民主化が遅れていたために、1928年不戦条約の締約国でありながらその趣旨をよく理解していなかった。
それで日本はWWIIでレッスンを受けることになったんだろう。ちなみに石原莞爾は日本のつぎの戦争が
「最終戦」になることを、日米開戦の前からすでに見通していた。「人類の戦争発達の極限に達するこの
次の決戦戦争で戦争が無くなるのです。人間の争闘心は無くなりません。 (中略) 戦争の発達の極限
が戦争を不可能にする。 (中略) この次の凄い決戦戦争でとても人類が戦争をやることは出来ない
ということになる。そこで始めて世界の人類が長く憧れて居った本当の平和に到着するのであります。」
(石原莞爾『世界最終戦論』立命館出版部、1940年、pp.36-38)
戦後の日本の国民感情は、しかしながら国際紛争の解決の手段として戦争に訴えることを悪いことだと
ようやく理解する機会を得たにとどまらず、さらには外国からの武力攻撃に対して武器を使って抵抗する
こと、つまり自衛権をも否定する方向に進んだ。そうした思想そのものはインドのガンジーと似ていて特殊
なものではないが、戦争の結果それが出てきたということは日本の反応のユニークさということになるだろう。 >>1
東京裁判史観に侵された反日左翼ジジイが歴史を歪曲するな
スラバヤ沖海戦で日本海軍の駆逐艦「電」と「雷」は
沈めた英駆逐「エンカウンター」と米駆逐「ポープ」の乗員422名を救助した
「雷」に救助された英軍兵は暖かいもてなしを受けた
(恵隆之介「敵兵を救助せよ!―駆逐艦「雷」工藤艦長」)
↓
藤田幸久
「電」と「雷」が救助した英軍兵400名はその後どこに連れて行かれたのか
政府参考人谷崎泰久
セレベス島東岸で終戦を迎えました
藤田幸久
麻生鉱業で終戦の2週間後の8月末に撮られた写真がございます
最後列の右から5番目の方がジェームズ・マクアナルティという方で
この「電」と「雷」に救出された方のお一人だそうでございます
東京裁判はただの自業自得でした >>1
満州事変(1931)
中国東北部の鉄道爆破事件をきっかけに、日本軍が軍事行動を開始。
中国東北部のほとんどを占領する。
翌年3月、日本軍は、清朝最後の皇帝溥儀を皇帝に加えて、満州国建国を宣言させる。
国際連盟脱退(1932〜33)
スイスのジュネーブで、満州国建国を認めるか否かをめぐり、国際連盟の臨時総会が開かれた。
本会議で、日本は非難を浴びる。議場では、満州国建国は認められないという意見が相次ぐ。
これに対し松岡は「日露戦争での10万の英霊の犠牲と、満州事変で確保したものである」と日本の立場を訴えた。
満州における中国の主権を認め、日本の占領を不当とする決議案が賛成42の圧倒的多数で可決される。
可決直後、松岡は演壇に登り「この会議で採択された勧告を、日本が受け入れることは不可能である」
松岡は席を立って退場する。その一月後、日本は、国際連盟脱退を通告する。
日蘭会商(1941)
蘭印は年間200万トンもの石油輸出で合意してたのに蘭印側がゴムの輸出量を減少させたことに対して、
松岡洋右は「蘭印の如き弱小国が日本に対してドイツに再輸出しないとの保証を要求するとは、
蘭印の増長を示すものにして、大国日本に対してヒューミリエーション(屈辱)なり。日本は断じて保 証を与えす」
高橋健夫「油断の幻影 一技術将校の見た日米開戦の内幕」
日下公人「人間はなぜ戦争をするのか」
1941年8月のアメリカによる対日石油輸出全面禁止は日本に大きな衝撃を与えた。
まず手持ち量だが、実は、1940年から1942年にかけてルーズベルトが日本に石油を大量に売っていた。
イギリスの妨害でオランダから石油を輸入できなかった日本に、「いくらでも売ります」と言ってくれたのである。
アメリカ国内では「石油は配給制なのに、仮想敵国である日本に大量の石油を売るとはどういうことか」
という議会の反発を恐れて、1941年2月16日には貯油タンクとドラム缶の輸出を許可制にしたが、
少し時間を置いて小さい5ガロン缶ならよいことにした。
アメリカの石油輸出業者は積極的に5ガロン缶を作って、どんどん輸出してくれた。
人は、犯罪には何か動機があるに違いないなどと都合よく解釈するが、現実は特に理由などない >>206
横からだが、すげー説得力あるな
ただ俺の意見は若干異なる
国家組織の民主化が遅れていたというよりは近代化と懐古思想が同時に起こったように思える
遅れていたのではなく天皇の権威で新政府を樹立・維持していく過程で、皇室にゆかりのある歴史上の人物を再評価して教育に取り入れた
もちろんそれは欧米列強と渡り合うために愛国心の醸成が必要であったし徴兵制度の確立という面でも重要だったのだが
ベクトルとしては一般社会における武士道の普及に繋がった、つまり日本の軍国主義とは近代化された軍隊と武士道の融合だったと言える
だから日本軍は大命を奉じ、将兵は身命を投げ打ち、最後の最後まで勇戦敢闘したのだが
敗戦と同時に武士の魂たる刀を奪われてしまったがために、そのアイデンティティを完全に失ったのだろう
しかし今なお戦前戦中の国策が誤りではなかったという認識が広く支持されるのは、単に現在の日本が第三国人の調略に主権を脅かされてるというだけでなく
当時の世界情勢の中で唯一、高潔な理想を掲げてたことに起因するからだと思われる 騙し討ちが高潔な理想だといっているうちは同じことの繰り返しだよ
現実はゲームじゃないからな 後知恵はちょっとちがうと思うな。前線の日本の兵士たちが飢えや病気でバタバタ倒れていってたのは当然
後方の牟田口中将や参謀たちはリアルタイムで知ってたんでしょ? >>206
「絶対主義を微修正しただけの王朝」ではないな。
軍が暴走して勝手に戦線を拡げるとか、軍内部で馴れ合い人事が横行するとか、全く持って絶対王政的とは言い難い。
そもそも国家の発達・民主化が直線的に起こると言う発想が時代遅れ。 兵が死ぬことをなんとも思わず
死ぬことを前提にした作戦が最上だとかやむを得ないとか言うなら
原理主義者の自爆テロをもっと誉めればいいんじゃないの?(テキトー) 最初から下の連中は使い捨ての消耗品でしょう?
今の日本も末端はそうじゃないですか。
昔からまったく変わっていない。 >>166
牟田口どうこう以前にこれを読むと、日本は本気で戦争をする気があったのかね? シナにodaやハイテクを渡せば手の付けられない軍事大国になる。
バカでもわかる事を平気でやり続けた戦後の日本人。
「日中友好!」を叫んでいたヤツ、責任を取れ!
取れないなら東條英機を批判する資格なし。 >>216
こっちがボルトアクション式の歩兵銃をチマチマ作ってる間に
向こうじゃセミオートのガーランド小銃やマシンガンのトンプソンをガンガン生産
こっちが分かり辛い説明書と格闘し職人のおっちゃんから旋盤やドリルの扱いを教えてもらっている間に
向こうじゃ分かりやすいマニュアルを配ってそこらのオバちゃんや兄ちゃんがガムを噛みながら飛行機を組み立て
「うちのエンジンは非力だから」と零戦のフレームに肉抜き穴を開けたり沈頭鋲を打ってる時に
「うちのエンジンはパワフルだから多少重くても大丈夫だぜHAHAHA」と肉抜きなど関係なくP-51をドンドン生産
(P-51は零戦の半分〜1/3の工程で完成したと言われている)
こっちが輜重兵(補給部隊の兵隊)に操典の「自動車運転心得」を一言一句間違えず暗記させてから教習に入って「特殊技能」としてトラックの運転手を鍛えていた時に
向こうじゃ大体の新兵が車の運転や車の整備の心得があったので1ヶ月で軍の大体の車を扱える立派な運転手に
(日本軍では「部隊にトラックはあったのに運転する輜重兵が空襲で負傷していて使えなかった」なんて話も残ってる)
本気と言うより技術や人の使い方という戦争の根本の部分でもう負けていた >>202
後知恵もなにも、めちゃくちゃな計画だったから当時も反対意見はあったんだがな。
ここまでめちゃくちゃだと、おまえの言う賢人とやらじゃなくても間違いの指摘く
らいできるだろ。 そもそも当時実際に戦場で戦ってた現場指揮官が、こんな状態では戦えない
と言って無断で撤退してるからな。
なおこの部隊はコヒマ方面で2ヶ月以上、ほぼ全く補給のない状態で
戦ってたので、本来はかなり勇猛な指揮官だと思えるのだが。 >>216
日本軍が日本国を征服するために起こした戦争が太平洋戦争だと思う
だから軍が逆らう政治家をテロで銃殺したり、生意気な技術者たちを徴兵して一兵卒として南方送ったりしてた
でも外国に手を出したのは不味かったな >>219
航空機の整備マニュアルでも日本は漢語調で難しい分かりにくいので整備員の質にバラツキ。
アメリカはマンガやイラスト使い分かりやすく。
そういう万人向け分かりやすくと言う点が欠けていた。 相変わらず、自虐歴史観、東京裁判歴史観察等、ネットウヨが出現
している。
一部の捕虜優遇例を取り上げて虐待はなかったとか言って、
大多数の捕虜への虐待行為をスルーしたり、
朝鮮半島を植民地化した事実も無視し、大東亜解放とかほざいて
マレー半島やインドシナ半島を日本領土に編入しようとしていた
事も触れず、正義の戦争とかぬかしている。
ビルマでも日本のそうした魂胆を見抜かれて、1945年には
日本軍への軍事行動が発生していた。
米英オランダにとって代わり、南方地域の覇者になろうとしていた
だけに過ぎない。戦後、南方地域が独立が早まったのは、事実だが
それをあたかも日本の手柄と厚顔無恥さをさらす皇国史観。 >>164
前の勤め先の経営者の母親(婆さん)が、
秘密兵器風船爆弾作ってたと言ってた。
「あたしが作ってるようじゃ勝てない」と思ってたとか。
↑これは戦後の後知恵かも知れんが。 >>日本は補給はなく、現地住民の食糧を奪い
誤解を招くような書き方をするな。徴発といって正規購入しているのだ。
軍票でwwwww 1944年の晩秋あたりから本土空襲が多くなっていくようだけども、戦前の幾人かの有名人・作家の日記を
見たかぎりでは、だいたい空襲を受けるころから負けると思い始めたような感じだな。ちょうど天王山と思わ
れていたフィリピンに米軍が上陸して苦戦していく時期でもあるし。
風船爆弾の作戦もそのころにはじまるので、「勝てない」と思ってたのは事実かも。 漢文調は現代の人には難しいかもしれないが、当時は軍隊の文書にかぎらず、生活のあらゆる面で漢文の
書き下し文に満ちていたし、それどころか人前での演説やインタビューでのしゃべり方、映像のナレーション
まで漢文調ないしその影響を受けていた。
いまの感覚で、当時の人にも難しかったに違いないと評価してしまうのは早計かと思われ。
一方、マニュアルにイラストが少ないから分かりにくいというのは、理屈としては分かる。 >>229
戦果を切り抜きして記録したりしていた人も多かった
最初はまあともかく後半になると集計すると敵艦を山ほど沈めてるのに米軍の勢いは止まらない
まあおかしいと思うよな >>228
日本は中国でも物資は全部じゃないでしょうが現地調達だったらしいです。
後方からの補給に不安あったんでしょうか? >>214
逆に、自爆テロも厭わない原理主義者は日本の特攻にヒントを得た可能性が・・・。 >>231
そうそう、たしかに。
しかも、伊藤整の『太平洋戦争日記』だったかかもしれんが、日米開戦からしばらくは日本側が発表する撃沈数と連合国側
が発表する撃沈数を比べていて、日本側のほうが正確だなんて当人は冷静に評価しているわけだ。当時は敵側の発表も
新聞に載っていたんだなと驚いたと同時に、のちに見向きもされなくなっていく「大本営発表」が、それ以前に比較的に正確な
発表で信者を獲得していった過程がみられて面白い。 >>233
石原莞爾の現地自活経済妄想が原因だよ
大日本帝国陸軍は石原莞爾を天才と崇めてるやつがたくさんいたからな
現地自活、現地自活で、現地経済が破綻して現地人が餓死の嵐なんだよな >>236
総員農作業で自活成功したラバウルという稀有な例もありますが・・・・ >>219
アメリカに行った事のある上層部の連中(例えば山本五十六)は彼我のこの差を知ってたんだろうけどなぁ >>227
見方次第だと思うよ 女が兵器を作っても別におかしくはない
アメリカはもちろん英独ソどこも戦前は働いたこともない女性を工場に動員していた
アメリカやドイツは生産工学が進んでいたから労働者が女性だろうと品質管理はキチンと出来ていた 女子供だか質が低いというのは言い訳と思う 597 名無しさん@1周年 2019/06/14(金) 16:05:11.16 ID:lERUf8fr0
原爆投下や大空襲で、日本を軍国主義から解放してくれた米軍には、心の底から感謝してるよ! 30万程が死んだだけだしね。 >>238
上層部が「これでやろう!」「この道しかない!」「こうするしかないんだ!」とノリノリ(ある種の悲壮感)だと
下の人間は内心ヤバイと思っていても左遷や閑職送りを恐れて積極的に反対意見を出さないし
お偉いさんの派閥の取り巻きや腰巾着が周りを煽るから更に反対意見を言い出せない空気になる
勇気を出して反対意見を出す人間も居たがそういう人間は煽られた連中に「裏切り者」「売国奴」と言われて潰される
そしていざその計画を実行すると綻びや穴が出来てくるがみんな「変なことを言ったら叩かれる」と言って意見を出さない
上層部もヤバイかなと思いつつも責任問題やメンツの問題で見て見ぬふりをして破滅まで突き進む
当時の海軍内部で蔓延していたと言われる「やましい沈黙」と呼ばれた現象 戦争末期、菅野直や紫電改で有名な343空に特攻の話が来た時のエピソード
参謀から来た特攻の下問をどうするか
司令の源田實大佐が飛行長の志賀淑雄少佐に相談した時のやりとり
源田「うちに特攻に出せと言ってきたよ」
志賀「誰が言いました?」
源田「……………」
志賀「いいですよ、出しましょう。私が先頭で出ます。
優秀な奴は全員出しましょう。若い予備士官は出しちゃいけません。
司令、貴方は最後に出撃してください」
源田「………」
志賀「それともう一つ、条件があります」
源田「なんだ?」
志賀「その、特攻に出せ出せと言ってる参謀(※)を連れてきてください。
私の後ろに載っけてやりますから。
特攻がどういうものか最期に知って貰いましょう。」
源田「………………全くだ」
これ以降、343空に特攻の話が来ることは無かった
志賀淑雄少佐
https://i.imgur.com/AaKJSSV.jpg
海軍兵学校62期卒
空母「加賀」戦闘機隊長
真珠湾攻撃では第一次制空隊長を務める
南太平洋海戦では空母「隼鷹」飛行隊長として第一次、第三次攻撃隊を指揮
その後、海軍航空技術廠所属となり
紫電改や烈風のテストパイロットとして開発に関わる
空母「信濃」飛行長に任命されるも着任直前に信濃が沈没
第三四三海軍航空隊の飛行長となる。
戦後は航空自衛隊の誘いを断りノーベル工業に入社。
特殊警棒や防弾チョッキ等を開発。
1955年、同社社長に就任、1994年に会長を退く。
2005年(平成17年)11月25日、死去。享年91。 >>240
これ書いたの原爆がどこに使われる目的で開発されたのや思惑とか東京大空襲がどんな残忍なやり方したとかもわからないんだろうな。 >>240
軍部は日本人を2000万人特攻させようとしてたからな
米軍さまさまだよ とにかく根性で行けっていうジャップらしい作戦だったね
当然の報いを受けただけ 最近読んだ著書でワコールの創設者が出てきたから、どんな人かとググったら、インパラ作戦に従事してたんだな 塚本 幸一(つかもと こういち、1920年9月17日 - 1998年6月10日)
ご存命なら98歳だから、>>1の人とちょうど被るわな >>1
その頃、軍の上層部たちは日本の料亭で会議をしていたのか >>245
アベノミクスって実際はほぼ何もしてないに等しいから
おとなしくしてりゃいいのに余計なことして破滅を招いたインパール作戦とはかなり違う >>228
軍票なら蒋介石時代のシナ軍閥が各地で乱発していた。モチロン徴発、徴兵も乱発
だから日本軍が駐留した地域の方が治安も経済も安定していた >>67
バーカ 日本はアメリカ潜水艦に海上封鎖されてたんだよ
だから海外領地から資源、食料が入ってこないから継戦不可
B29も原爆も不要 まともな護衛も無しにアメリカにバカバカ沈められたからな。 >>244
民間人を集めてつくった急ごしらえの義勇兵2800万人を米軍の火力の前につぎつぎ繰り出して米軍の前進を
押しとどめるつもりだったらしいが、ある意味、上官すなわち天皇の権威でどこまで人を服従させられるかの限界を
試すということでもある。
義勇兵たちが公然と上官の命令を無視するようになってしまうと、ガダルカナルやニューギニアの一部で起きたような
組織の崩壊が本土でも起きるということになるし、その後の日本の歴史に与える政治的影響ははかり知れなかっただろう。 >>245
これな
パヨクが言いたいのは結局これなんだよ
別に戦争に反対してるわけではない、どうせアカが政権奪い取ったら反対派を一人残らず粛清するつもりだしな >>241
> 海軍内部で蔓延していたと言われる「やましい沈黙」
『[証言録]海軍反省会』のなかでそれがとりあげられていたかどうか忘れてしまったが、あれを読んでも「ああすれば
よかった」論が戦後の立場で掘り起こされたことについては多としつつも、やはり戦前の当時の海軍内部の力関係や
個々人の権限ではどうしようもなかったということが、かえって透けて見えるような印象があった。
むしろ外部から海軍に圧力がかかって変革を迫られたほうが、「いいアイデア」をもちながら権限がなくてくすぶってる
中堅や若手にとっては僥倖になったのかもしれない。 >>1
コヒマに進出した31師団は、山砲と歩兵をあわせると、野砲を固有編成の口径105mm 12門、75mm 36門、
37mm 12門から、口径75mm 66門、37mm 12門に増やして火力を強化しようとはしてたみたいね(*1)。
「第31師団戦史資料」によると、4月4日にコヒマに到着してから23日までの間の、駐屯地のテニスコートを
攻めていた期間の終わりには、弾薬の残りは「山砲一門に対して榴弾十数発、榴霰弾十数発」になってし
まったという。それに対して英印軍は「払暁より薄暮に至る間…射撃を連続する一方 死角に対しては9機
ないし12機の戦爆機をもって制圧するなど連日に及」んだ。
5月中旬をすぎると弾薬の補給はいよいよ厳しく、5月17日から6月1日の間に受けた山砲弾薬の補給は500
発にすぎなかったが、これは(残存する)山砲の1門あたり15発にしかならないという。
(第31師団戦史資料/第2 「ウ」号作戦/(ハ) 作戦経過の概要(状況判断を含む)、アジア歴史資料センター C14060222300) (*1) 「第31師団戦史資料/附表(2) 作戦各期に於ける31D編成装備の概要」(アジア歴史資料センターC14060222500)
第31師団(1万3千人)
【固有の編成および装備】
○歩兵第58連隊、第124連隊、第138連隊
(それぞれ歩兵3個大隊、通信1個中隊、速射砲1個中隊、歩兵砲1個中隊、乗馬1個小隊)
△歩兵大隊
ig(Infanteriegewehr小銃) 390
Lg(leichte Maschinengewehr軽機関銃) 27
MG(Maschinengewehr重機関銃) 8
MW(Minen-Werfer擲弾筒) 6
biA(Bataillons Infanterieartillerie大隊砲) 2
△速射砲中隊
94式TiA(37mm)(Tankabwehr-Infanterieartillerie速射砲) 4
△連隊砲中隊
41式山砲(75mm) 4
(第138連隊は加えて97式曲射砲 2)
○山砲兵第31連隊 BA(Bergartillerie)
(山砲2個大隊、十榴1個大隊)
△山砲大隊
94式山砲(75mm) 12
△十榴大隊
91式十糎榴弾砲(105mm) 12
【インパール作戦時の編成および装備】
○歩兵138連隊、歩兵大隊は4個中隊編成のままとするが、連隊内から(輸送のための3個)中隊を臨時編成する
歩兵第58連隊、歩兵大隊はそれぞれ4個中隊から3個中隊に減らし、それにより3個中隊を捻出して輸送渡河作業にあてる
歩兵124連隊、歩兵大隊はそれぞれ4個中隊から3個中隊に減らし、それにより大隊内に作業・輸送の小隊を編成する
○山砲兵連隊
山砲3個大隊とし、山砲大隊はそれぞれ18門、したがってその中の3個の山砲中隊は4門ではなく6門編成とする。 >>260
31師団にそんなに火砲があったというのは初耳
榴弾砲は全て残置して行ったのでは?
コヒマ到着後に砲弾の補給など受けていないのでは? >>261
正式編成ではそれだけの数なんでしょうが、
険路を越えるため残置した結果機関銃も速射砲も山砲も半減もしくはそれ以下となり
大変に火力が低下していたようです。 >>260
口径105mmの砲は一門も持っていかなかったの? >>262
いや、言われてみて違うかもしれんと思い始めた。十榴を置いていったというのは考慮に入れてるんだが、
上では山砲連隊の山砲ところを 12+12+12=36 のかわりに 18+18+18=54 と解釈して計算してる。
これは間違いで 6+6+6=18 かも。すると75mm は 66門ではなく30門になる。500発が1門あたり約15発と
なるという記述とも整合性がある。
ちなみに山砲兵連隊の原文は、「「ウ」号作戦時期 固有編成装備と異なる点」として、「連隊:山砲3個大隊
18門戦力とし改編す 大隊:各3個中隊6門編成とす」となってる。
>>260
> 野砲を固有編成の口径105mm 12門、75mm 36門、37mm 12門から、口径75mm 66門、37mm 12門に
> 増やして火力を強化しようとはしてたみたいね(*1)。
訂正
野砲を固有編成の口径105mm 12門、75mm 36門、37mm 12門から、口径75mm 30門、37mm 12門に減ら
して自殺しにいったみたいね >>264
十榴は置いていって、十榴大隊にはかわりに山砲を持たせたらしい。 >>262
> コヒマ到着後に砲弾の補給など受けていないのでは?
いや5月17日から6月1日の間の戦況のところに、「この間師団の受けし補給は山砲弾薬500発(1門15発)
にして 糧秣は現地収集のみによれるも …北方正面よりの敵の浸透は糧秣の収集に大なる影響を与えたる
のみならず 敵に帰す者また漸増し…自活は逐次困難となれり」と書かれている(C14060222300)。 >>265
なんかふと
この国の支配層は危機が迫ると買い解決に尽力するんじゃなくて
下層をいじめてストレス発散してるだけなのかと思った >>268
敵に帰す者が漸増、ってどういう意味?
さすがに飢餓ががひど過ぎて降伏した人もいたのか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています