【古代】三重・熊野灘沿岸で発見の土器片、邪馬台国の最有力候補地「纒向遺跡」で作成か 「ヤマト王権の航行おさえる拠点」
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調査の結果、3世紀後半にさかのぼる近畿中央部系の物が含まれていることが判明した土器片=三重県大紀町教委提供
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2019/06/08/20190608oog00m010047000p/9.jpg
三重県大紀町の沿岸部で1950年代に発見された土器片の中に、3世紀後半に近畿中央部で作られたとみられるものが確認された。調査に当たった桜井市纒向(まきむく)学研究センターの橋本輝彦・統括研究員は「(現地は)ヤマト王権にとって熊野灘の航行をおさえる重要な拠点だったのでは」と見ている。
土器片は地元の中学生らが見つけた後、現在は町が所蔵している。橋本統括研究員はうち20点余りを分析。その結果、20点が3世紀後半〜4世紀中ごろの近畿中央部系の「庄内式・布留(ふる)式土器」の破片で、うち5点ほどは3世紀後半にさかのぼると判明した。近畿中央部で作られた土器が、大紀町へ運び込まれたと考えられるという。
3世紀後半は邪馬台国の最有力候補地とされる纒向遺跡(桜井市)の最盛期に当たる。橋本総括研究員によると、同様の土器片は瀬戸内海や福岡県博多湾沿岸などで見つかっているが、紀伊半島の熊野灘沿岸では初めて。橋本統括研究員は「ヤマトとの関係を示す証拠と言える」と話す。
調査された土器片は大紀町役場錦支所で公開されている。問い合わせは、大紀町教委。【藤原弘】
毎日新聞:2019年6月8日
https://mainichi.jp/articles/20190608/ddl/k29/040/458000c?inb=ra
関連記事:6/2(日) 11:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190602-00000609-isenp-l24 >>1
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、bj 邪馬台国が近畿なのはどう考えても常識だから
九州とか非常識なことを言って注目されたいだけの頭してるんだろ >>7
どこが無関係?
>熊野灘に面した三重県大紀町錦で昭和20年代後半―30年代に出土した土器の破片約20点が、
>邪馬台国の有力な候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(3世紀初め―4世紀前半)
>から出土した土器と同じ粘土で作られていたと町教委が31日、発表した。
>ヤマト王権と錦との密接なつながりがうかがえる資料として注目されている。 >>1
>邪馬台国の最有力候補地「纒向遺跡」
はい、燃料投下いただきました。 >>1
>土器片は地元の中学生らが見つけた後
畿内説は中学生までゴッドハンドするのかよw
クソカルト共がw 大和から天照大神を伊勢に移したのがこの頃だろ?
その周辺で大和の土器が見つかっても不思議ではないんじゃないの >>11
新聞に有力候補と頻出
九州は吉野ヶ里すら候補落ちで辛いよな >>9
とある地域産の粘土で作られた土器が纏向と三重でみつかっただけやん 邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
邪馬台国が九州なのはどう考えても常識だから
畿内とか非常識なことを言って注目されたいだけの頭してるんだろ >>15
どの新聞も学者も相手にしてくれなくて辛いな 華麗に必殺自己紹介ビームを乱れ撃ちする近畿パー
↓ >15
だけど大和は綺麗で雄大だから俺にぴったりつって
九州や近場の瀬戸内抑えた後神武はわざわざ大和に向かい
その後大宰府出来るまで大した資料が出てこないとw
神武「九州チョロかったけど、大阪、奈良は苦戦続きだったぜ」
かっぺの癖に雑魚とかマジかよw笑わせるわw >>13
変態毎日新聞に擦寄られるよりはいいかも... 毎日変態新聞「ヤマト王権の航行おさえる拠点」がどう解釈していいのか迷う変態日本語w >>20
奈良とか当時から人より鹿の方が多いんだから
苦戦するかよ。
大阪も伝統的弱兵で有名だからなw
九州では全く通用しなかった末っ子神武が天下を取れる畿内w まあ熊野古道もある事だし、大和朝廷を作った人の先祖には縁のある場所でしょうね
それが邪馬台国とは思えませんが 熊野で土器片が見つかったのか
けど今のところ古代の東海ルートって宇陀或いは甲賀・伊賀とか通るのがメインで
航路が一般的であったのは実証されてないし
どう解釈していいのか難しいがなあ
もっともらしいのは他の年代の土器もあるので
後世の人が物珍しいのを運ぼうとしたら難破したってとこかね 邪馬台国とかより、当時の畿内人がいかに
変態で、桃の種をアナルに入れて、カエルをオナホ代わりにして自分を慰めてたかを記事にしろよ。
それが変態新聞に求められる役割だろ。 >>23
九州平定した神武の話じゃ苦戦なし。浪速、大和で苦戦続きで宮家一子相伝
酒を飲ませて寝首をかくを始めたんだがなw
九州が強い?どの時代の話?島津以外に何かいたっけ?
大宰府ですら中国への防備で九州の抑えじゃねえんだがw悲しいなw 波と岩との喧嘩場岬
本州南端潮岬よ
男だったら後には引けぬ
賭けもあるのさ一生に一度
踊れ黒潮熊野灘 ホケノ山古墳
//www.kashikoken.jp/museum/yamatonoiseki/kofun/hokenoyama-hashika.html
過去に部分的な盗掘を受けていたが、完形で副葬された画文帯同向式神獣鏡一面のほか、
意図的に打ち割られた画文帯神獣鏡、内行花文鏡などの破片23点、
多数の銅鏃(どうぞく)、鉄鏃・刀剣類・工具類などの鉄製品が出土した。
これらを総合して、その造営年代は3世紀中葉と判断されている。
出土品
銅鏃 約60本
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
画紋帯同向式神獣鏡1面
画紋帯神獣鏡かと考えられる破鏡片2個体分、内行花文鏡片
鉄製農工具
布留0式土器3点 >>6
まだヤマタイって読んでるのw
女王卑弥呼の都のクニはヤマト國と読むと確定してるのにw >>27
神武は九州平定なんかしてねえよw
どうして子孫が熊襲討伐しなきゃいけなかったと思ってんだ 六波羅探題→鎌倉幕府が京都の朝廷を抑える為設置
鎌倉公方→室町幕府が鎌倉、東国抑える為に設置
大阪城代→江戸幕府が大阪や近畿、西国の抑えとして設置
大宰府→中国、朝鮮半島への抑えで九州じゃない
クソ雑魚九州wwwww >>27
日露戦争で連戦連敗、
“またも負けたか八連隊”の勇名は、
日本中に喧伝され、
それから昭和12年の日中戦争までに起きた戦乱にも、一度も出動せず、
わずかに昭和8年大阪市内の繁華街で起きた、信号無視による交通事故がトラブルに発展して、時の寺内師団長が「皇軍の威信にかかわる」と見当違いの大見得を切って世の嘲笑を買った事件が大阪師団唯一の武勇伝である。 >>32
神武は全域じゃないがある程度抑えた後、瀬戸内通って浪速に入ったんだが?
千数百年前でも九州説唱える奴より頭良いから
後方の憂いは消している >>34
西南戦争で八連隊にボコられて負けた九州田舎侍が悔し紛れに流した嘘で
特段負けた記録がないと否定されてるなw
本土防空で大阪や奈良以上に戦った本土の地域ってどっかあったっけ?
まさか九州とか沖縄超近いのに移動してきた外様の芙蓉部隊以外に活躍ないとか言わないよなw >>37
第八連隊は日露戦争で活躍して明治天皇からお褒めの言葉を賜ったからね。
すげえ妬まれたんだよ。 西南戦争でクソ雑魚九州田舎侍ボコったら、天皇陛下から感状届いたぜ by第八連隊
おい、錦の御旗捏造以外の活躍教えてくれよwww 神武帝が河内湖の戦闘で負けて、大迂回して熊野から大和へ攻め入って勝利を収めた。
古代から大和と熊野の間には何かルートがあったんだろうね。 >>35
またこういう嘘をつくw
岡の宮に1年いた間に平定したのは筑豊だけで九州全体でみればごくごく一部分に過ぎない
畿内人は昔からこうやって嘘ばかりついていたので江戸時代の「人国記」にも
畿内=嘘つきと明記されてしまいましたとさw
http://dettalant.hatenablog.com/entry/Translation/01
> 大和国(奈良県)
> 大和国の風俗は、表郡については大げさなことや見栄えの良いものを好むものが多い。
> [※6]奥郡の人は引きこもりな隠者気質であるが、基本的にこの国の者は山城国と似たような風俗である。
>
> かつては同じように都として栄えていたからこそ、風俗が似る部分があるのだろうが、山城国より人が少ないだけ、先鋭化している部分がある。
> 表郡の者は名声にこだわるもの多く、常に言葉巧みに嘘をつき、支払うお金はケチった上で名を高められないかと願っている。[※7]
>
> しかも下劣さは言葉の外にまで表れて、平気で二枚舌で嘘をつく風俗である。 明治天皇「大阪の八連隊は凄いし、先祖の親戚守って戦い抜いた楠木正成は武士の鑑」
おーい、九州の活躍聞かせてくれよw神武に捻られた後何もないのかw
あ、島津の退き口と錦の御旗捏造があったかw >>41
敗残畿内は昔からウソつきだったんだなwwww >>39
そのクソザコの田舎侍に、軍旗を奪われた大将も居るんやでw >>41
その地域以外に大規模な邪魔になりそうな国が存在しなかっただけじゃんw
通りすがりに瀬戸内で二か国抑えた後畿内に行ったと言うことは
九州はそこで十分だったクソ雑魚だと自分で認めただけの話
八連隊とか言ってた嘘つき隼人が何か言ってるわw >>42
昭和14年7月、満州ノモンハンでの
日ソ激突が重大危機に、逆上した関東軍が、
北満国境駐屯地の仙台・大阪両師団に
応急動員をかけて出動させたとき、
仙台二師団は勇躍出発し、
駐屯地のハイラルから徒歩四日間で
現地到着、先遣隊の新発田(しばた)
十六連隊などは、直ちに戦闘に加入、
勇戦奮闘したのに、「大阪四師団」
は出動を命じられるや、急病人激増、
何とかして残留部隊に残ろうと将兵が
右往左往、怒った連隊長が医務室に出向き、
自ら軍医の診断に立ち会うしまつだった。 >>45
江戸時代から伝統的に嘘つきだったと明らかになっちゃった気分はどう?w
今どんな気持ち?w やっと出動部隊を編成したものの、
駐屯地ハイラルから現地までの行軍では、
他の二師団は四日間で強行進軍したのに、
大阪師団は一週間、しかも落伍兵続出、
やっと到着したら日ソ停戦協定成立。
とたんに元気が出た浪速っ子の面々、
「口々に戦闘に間に合わなかったことを残念」がり、落伍した将兵は急にシャンとなって続々原隊復帰。帰りの軍用列車ではいちばん威勢が良かったという、おとぼけ師団だった。 >>47
古代から役立たずのクソ雑魚だった九州田舎侍だと明らかになった気分はどう?
天皇に銅像建ててもらった侍いないの? 三角縁神獣鏡も古墳から出土しているから別に不思議でもない ここ2週間ほどずっと邪馬台国ネタが続いてるけど、樽悶 ★も好きだなー >>42
その楠木正成を破った湊川の戦いで足利尊氏が率いていたのは九州兵なんだがw >>41
>しかも下劣さは言葉の外にまで表れて、平気で二枚舌で嘘をつく風俗である。
wwwwwwww >>48
東北の仙台の師団がそう書いてるだけじゃん
で、九州が強かったのはいつ?八連隊は嘘でしたなw
>>55
足利家は丹波ですよ?アホですかw
畿内の侍同士で戦っただけですなw 黒潮太平洋航路の存在が現実味を帯びてきたな
大隅半島→黒潮→潮岬→熊野
帰りは
紀ノ川→淡路島→徳島→高知→宮崎、大分 >>59
元寇後に設置された元への防備の為の探題ですね
九州田舎侍は捏造絵持って鎌倉に戦費せびりに言ってた時期かw >>64
鎮西探題が名前変えただけの話に何言ってんだかw いや神武がどうのって言われても
神話の人なので東遷いうても、府官制のために採ってきた北方神話の始祖伝説がどっかの方角に移動したり
或いは参考にした漢訳仏典でも東へ西へ云々てのがあっただけで
そういうもんが基になってたからそうなっただけだし
そもそも論として安康(正確には雄略もだが)までは大王ではなく地方有力豪族に繰り返しの説話を重ね合わせてる側面が強いので
まああまり史実性の高い話とは見做されてないし、そこから史実を取り出すというのも無理な話 なんや 邪馬台国論争とまるっきり無関係なネタで盛り上がってんな
後にしよっと >>33
wiki
1333年(元弘3年)に後醍醐天皇の
討幕運動から元弘の乱が起こると、
鎮西探題の北条英時は呼応した
少弐貞経や大友貞宗、南九州の
島津貞久らにより攻められ滅亡する。
後に室町幕府は九州統治のため、
鎮西探題に倣って九州探題を設置した。
江戸幕府は九州諸藩の監視、
天領統治の為に西国筋郡代を置いた。 勿論、具体的な話に見えるとこからの研究はおおいにあるけどな
あと擬制氏族制が色濃く残る中で、各豪族表彰(論功行賞に近いか)のためにも必要だった
欠史八代もそれで出来た
ただ律令制、特に大宝令以降で中央政府というものが出来たときには、それらの主張はあまり意味のないものになってしまったがな
八色の姓とかも有名無実で無意味なものに‥‥ >>66
元が鎮西探題だし、1336年に初代が就いた時は元はまだ存在してる、明は1360年代後半だぞ
まーた、始まったw >>71
wiki
1333年(元弘3年)に後醍醐天皇の
討幕運動から元弘の乱が起こると、
鎮西探題の北条英時は呼応した
少弐貞経や大友貞宗、南九州の
島津貞久らにより攻められ滅亡する。
後に室町幕府は九州統治のため、
鎮西探題に倣って九州探題を設置した。
江戸幕府は九州諸藩の監視、
天領統治の為に西国筋郡代を置いた。 Q州説って
相変わらずギシワジンデン、ギシワジンデンなんだろ?
考古学を大事にする近畿説は科学的で説得力あるから、わくわくするけど
ギシワジンデンをどう解釈するかに執着するQ州説ってファンタジーだろ
暗号解読の文系じゃん
邪馬台国がQ州のどこにあったのか考古学的証拠出せよ >六波羅探題→鎌倉幕府が京都の朝廷を抑える為>設置
>鎌倉公方→室町幕府が鎌倉、東国抑える為に設>置
>大阪城代→江戸幕府が大阪や近畿、西国の抑え>として設置
>大宰府→中国、朝鮮半島への抑えで九州じゃな>い
>クソ雑魚九州wwwww
ところが
↓
室町幕府は九州統治のため、
鎮西探題に倣って九州探題を設置した。
江戸幕府は九州諸藩の監視、
天領統治の為に西国筋郡代を置いた。 >>74
畿内の足利家に監視される為に九州田舎侍はクソ雑魚ながら頑張ったけど
監視強化されただけで、鎌倉公方みたいに重要な家柄の奴も置かれてないと
笑えるなw >>1
●偏差値50私立理系新設バイオ大学へ入学して卒業した。
すると、無職(むしょく)の私を見て親は混乱、動揺(どうよう)、狼狽(ろうばい)した。
親が混乱、動揺、狼狽する姿を見たくない。
そうなら、中学生は進学高校へ、高校生は上位大学へ入学したほうがいいよ。
私は明石家さんまの名言「生きてるだけで丸儲け」だ。
●一部の愛情のない田舎娘たちの金銭欲婚活だとこうなる。
偏差値50のバイオ大学だ。
バイオ女は手先が器用で、教授のバイオ実験を無賃代行するので、教授の次に発言力が強い。
バイオ女たちの側がカネ目当てで婚活すると、不良をテコに悪に手を染め、弱い金持ちを恐喝する。
(女に無賃労働させ1千万円以上の研究費を浮かす教授の要素は複雑なので、あえて説明から抜く。)
不良は女を仲間と思ってないので、イジメの口実を女からもらい私から金を奪い、女にはあげない。
奪われた側が女に「不良へ戦え」と呼びかけると、女は奇声発作で口から電子音を鳴らし記憶を失う。
女は脳医学的な病気だった。そういう女が田舎出身者に大勢いる。これが田舎っぺ婚活の現実だ。
●普段、問題児の女たちは、モヤシ金持ちのことをコキ下ろして振り向かせ、セックスを迫る。
私は体調不良で何年も休学し復学した。
復学の4月から再びイジメが始まり、半年過ぎの12月で私は、なかば女たちに屈服した。
女の住所電話番号を聞いて、ウソのラブレターでお世辞オベッカを言うようになった。
世間向けに言えば、7ヶ月間、私の悪口を言ってる女が、私から住所を聞かれる。
聞かれると、1分以内に女自身の住所を書いてよこすのは異常だった。
●証拠を取るときの軋轢
カツアゲといっても私のほうから「どうか受け取ってください。」と不良へ渡してるので法的には恐喝ではない。
卒業単位を邪魔されてる証拠があれば法的に恐喝にできたろう。
女のボスの将軍H教授とは赤の他人のバイオ学科長の教授が証拠写真を撮る行為を私にだけ差別して禁止した。
「肖像権の侵害だ」と私個人に面と向かって直接差別した。私だけ写真が撮れない。証拠取りは大変だ。
あいう
web-n17-0093 2019-06-11 21:28
https://files-uploader.xzy.pw/upload/20190611215104_57316a7a65.gif
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kouri/1547360809/7-
●エントリーシートがない時代だ。
ネットはあったがマニア向けで、一般学生には未普及だった。
縁故コネなし人文系は80社回り、縁故コネなし理系は20社回るのが普通の時代だった。
葉書か電話予約で少人数の個別入社試験か、大会場の大規模ふるい落としの時代だ。
もっともっと業界によって細かい分類がある。書かないけど、例外も多い。ある程度の傾向の話ね。
就職協定はあったが、ザックリ、協定守る会社と協定に縛られない技術系採用部門の会社があった。
就職協定は人文系大卒を採用するときの大企業、中堅企業の紳士協定だった。
理系は青田買いで、就職協定なんかまるで関係ない。
医薬食品の理系は3年生の青田買いと、一流大学の教授推薦でほぼ採用枠は埋まる。
●親子離間工作
大学が父の職場へ「お宅の息子はストーカー」と息子を人質にイタズラ電話で直接商売の邪魔した離間工作が効いた。
就活スーツがない。交通費も食べ物にも事欠く。殴られる。病院にも行けない。家族関係が悪いとはそういうこと。
バイト首になる子から専門教育を奪うのも残酷な上に、親子離間工作もきつい。履歴書を買う金も自由もない。
親子離間工作があると、家族の付き合いは長いから、その後の人生の障害にもなる。
大学側は大学のハンコ押した封書郵送で済むことなのに、職場で邪魔する電話は非常識で悪質だ。
私は就活スーツも交通費も食費すらなかったので技術系就職の時期を逃した。ストレスか、体の具合も悪い。
仮に、就活し工場技術者に面接技術テストされても、理系教育ゼロの大学生で困惑されただろうが。
●単なる公益投稿だ。
相談すると、東大卒の心理カウンセラーはウソだと断言し、現実と違うから、公益で投稿している。
入学すると研究室から腕と肩を捕まれて、物を投げ出すように廊下へ放り出されたから、無理。
入学すると濡れ衣を着せられて、履歴書も就活スーツも買えなくなるほど親子関係が悪くなる。
そこは、女の指先労力を無賃使用する世界で、技術系就職に「最低限」必要な理系教育水準が未達成。
理系学歴もらっても、学食3日分相当の学研の科学学習漫画を読んだ程度。気がついたら廃学部になってた。 >>73
最近は魏志倭人伝とも一致しないから、魏志倭人伝すら否定しだしてるけどな。 >>76
●偏差値50バイオ大学は、女がただ働きで、ほかはほったらかし。
不良の縄張りにいる田舎娘が、モヤシ金持ちへ、乳首、女性器を出して求婚し断られる。
東京の屋外の通行人同士なら、モヤシ金持ちが不良と女を怖がって、遠くへ逃げる。それっきりだ。
バイオ大学は女が無賃で教授の実験を肩代わりするので、教授に次ぐ発言力がある。
断られた女は、モヤシ金持ちへ虐待求婚する。虐待に関しては教授も手伝ってくれる。
男にストーカー濡れ衣を着せて屈服させ、求婚する。
屈服させることが最優先なので、手段がストーカー濡れ衣になる。周囲が女へそう誘導もある。
バイト首になる男が職を求めて理系大学で教育を奪われると、無職破滅する。
そんなことを教授がやったら、一事が万事、万事が一事で、卒業動向が悪くなるでしょ。
そう、悪くなって、理工学部は廃学部だ。その教授の老齢引退までは理工学部の余韻は持った。
廃学部には猶予があるので、犬猫ペットと遊ぶ大学にしたり、医療資格取得大学にした。
数ある企画の中で、医療資格大学が当たって学部改変で生き残った。
理工学部の学生はどうなったの?
理系学歴もらっても、学食3日分相当の学研の科学学習漫画を読んだ程度。
バイオ実験は、ケチな企業なら女性高卒アルバイトにやらせる簡単単純作業。
気がついたら廃学部になってた。
学部生は医療資格大学へ学部改変するまでの、継投役の、畑の肥やしになった。
●言われるまではわからないが、言われてみれば、なるほどそうだと思う。
不良たちの縄張りでスーハー呼吸してるバイオ女たちが、モヤシ金持ちへ視線を送る。
彼女たちの考えてることは、モヤシ金持ちを半殺しにして財産を奪うことだ。
生まれたてのヒヨコのようなモヤシ金持ちが、不良の輪から色目をつかう女をだ。
「モヤシ金持ちを半殺しにして財産をせしめること」を考えてるなんて
それに気が付くのも無理な話でね。これには説明に「コツ」がいる。
高校を卒業した女は、異性と接点を持つとき、自意識過剰の弊害があるくらい結婚を考えるお年頃だ。
その女が不良の縄張りに立って色目をつかうだなんて、あなたの身を危険にさらす行為だから、配慮不足でしょ。
ケンカの強い男にとって、女が不良の縄張りにいようがいまいが無問題だ。
ケンカの弱いあなたにとって、女が不良の縄張りにいるかいないかは重大問題だ。
女の側がケンカの弱い男とお友達や恋人になりたがってるのに、あまりにも女の側に配慮がなさ過ぎる。
「女が若いから相手への配慮に欠けるのは大目に見よう」は本番の恋愛だから、厳しく却下。
ケンカの弱い男は、この部分だけ厳格に門前払いする必要があり、ほかのタイプの男性と大きく異なる点だ。
本番の恋愛だから、それは高校を卒業した女の側が責任を持って対処すべき問題だ。
外見は幼くても、彼女たちは子供じゃないんだよ。
責任を持って夫婦になることもできる年齢であるし、人に濡れ衣を着せることができる大人なんだよ。
言われるまではわからないが、言われてみれば、確かに、高校卒業年齢のわりには、気か利かない娘だと思う。
バイオ女は手先が器用で、教授のバイオ実験を無賃代行するので、教授の次に発言力が強い。
不良の縄張りから色目をつかう彼女たちが、高校卒業年齢であることから、いかがわしいことにやっとわかる。
彼女たちは高校を卒業してるのに、気か利かない女だと門前払いする。
故人の落語家の桂歌丸は、田舎者の人間関係トラブルを田舎娘で実の母の姿から一言で「気が利かない」と言ってた。
接客業の娼館経営の祖母と母は折り合いが悪く、母の夫は他界していたので、かわいそうに実家へ帰ったらしいと。 >>76
●バイオ校で一部の田舎娘たちの自我が解放される
「モヤシ金持ち相手に接点を作るのが面倒くさいから、モヤシ金持ちを損させて振り向かせる。」
「不良の大きな背中に隠れ、その背中から、亀の頭のように首を伸ばしてモヤシ金持ちへ色目をつかう。」
それは相手のモヤシ金持ちを半殺しにして、落ちた財布を拾おうと皮算用してるんだろう。
田舎娘たちにとっては想定外が起こる。落ちた財布は不良が拾って仲間内に配ってしまう。
不良は女を仲間と思ってないので女にあげない。女は攻撃継続。
そうやって私から不自然に金を奪ってゆくと、父は不審がって私の生活費を削る。
私を逆さにして振り回しても、そのうち私はカラカラに干からびて血の1滴も出なくなる。
電車賃がないので大学を休みがちになる。
「あの女たちは、誰と結婚しても、不倫で俺(不良)たちの子を産むリモコン女だ。」
不良は私にこう男便所でほのめかす。私の隣で音出し放尿しながら、犬の壁ション、マーキングだ。
(女に無賃労働させ1千万円以上の研究費を浮かす将軍H教授の要素は複雑なので、あえて説明から抜く。)
私が彼女たちへ先払いすると、不良たちから不良の縄張りを荒らしたとみなされ、卒業単位が危ない。
その田舎娘たちへ不良のことを話すと、娘たちは5分で共通して、口で電子音を鳴らし錯乱し、記憶を失った。
大学はお金を拾う場所じゃない。見返りゼロだから、本当に好きな男を探したほうが良いよ。
あなたは私にストーカーなど濡れ衣を着せて勉強実験だめにしたから、私のことは恋愛対象じゃない。
「将来、家族になるかも」の男へ大怪我させる可能性がその場で想定できる手段を選ぶのはダメだよ。
あなたは1円も手に入らないんだから、本当に好きな運命の旦那さんを探すなど、ほかの事をしたほうがいい。
女の労力を無賃使用する教授は、女の自我をガス抜きで適当に解放する必要があり、バイオ校の構造問題。
社会学系は「周囲と上手くやる能力」を重視し、女と不良に100%お調子を合わせることが至上命題。
社会学系は専門セット教育を部分つまみ食いで済ませ「穴の開いた鍋」の劣等人材を輩出することになる。
企業側で拒絶役させ理工学部は問題教授の老齢引退で閉じる規定路線だった。
●取り巻きが女へ「坊ちゃんは女の体目当て」とウソを吹き込む
手先の器用な女は教授のバイオ実験を無賃代行するので、教授の次に発言力が強い。助教授よりも強い。
バイオ大学は、バイオ女に無賃で実験代行してもらう見返りに、モヤシ金持ちへ虐待求婚する権利を与える。
東京女多摩女なら、東京で虐待求婚したら失敗すると先が読めるので、権利があっても虐待を行使しない。
田舎娘は、モヤシ金持ち相手に接点を作るのが馬鹿馬鹿しいから、実行が簡単な虐待求婚を手段として選ぶ。
高校生に説明が難しいが、大学は高校生では想像できないことが起こる。
大学では周囲の人々が、無賃実験する女たちへ、常習的にウソを言って喜ばせる。「あいつは女の体目当て」
彼女たちは、私へセックス懇願し断られた後で、ウソを信じる。気持ち良く記憶を上書きされる。
ウソを信じ込ませるテクニックは、私はその場にいないので、具体的な言い回しはまったくわからない。
潔白証明は、ストーカーと騒ぐ女が、新聞日付とともに私のチンコをしゃぶらせた着衣姿を撮れば済む。
女の側は意味がわからないだろうが、チンコしゃぶり写真で周知すれば、不良は私へ人前で因縁つけられない。
しかし、「坊ちゃんは女の体目当て」と高圧的に女性器を出す女が、実際にはゴムフェラ「奉仕」を無賃でやる気なし。
仮に、不良の縄張りにいる女へ私が金を渡してることが不良側にバレたら、私は卒業不可能だ。
「坊ちゃんは私の体目当て」と高をくくった女から、ゴムフェラ写真を撮るなんて不可能だと、わからなかった。
●男に損させて振り向かせる女は、農林水産業のつもりで性行動していてるのかもしれない。
私へ求婚する田舎娘が、私にストーカー濡れ衣を着せるとは、東京恋愛では、悪い田舎娘だ。
田舎では男に損させて振り向かせる行動で、農林水産業男は稼げるから、結婚生活維持可能かもしれない。
理系で勉強実験邪魔して振り向かせたら、その男は無職になるから、結婚しても赤ちゃんを養育する金はない。
男へ損させて振り向かせる女は、農林水産業男の趣味や余暇を台無しにして結婚するなら、正しい行動だ。
高校卒業年齢で、女が男へ損させて振り向かせたら、農林水産業の女の求愛行動かも。 要は熊野灘からヤマト関連の土器片が見つかったと
なのでヤマトと熊野灘沿岸は関わりがあったんじゃないかと
そりゃまぁ近隣だしな >>78
何で関係しないと思うの?重要な事柄を面子重視の武士が
身分や家柄の低い奴にやらせる訳ないじゃん。軍事力にも直結するし
楠木正成は例外だし、あれだけの才能見せても家柄から発言力が低い
活躍が聞きたいなw九州の活躍がw 時代とか細かい設定が違うけど君たちって天照大神だよね 毎日毎日、僕らは、新聞の、記事に騙され、いやになっちゃうよ >>73
暗号解読しちゃったらダメなんだよ
三国志は史書であって、判じ物でも暗号書でもないんだからさ
九州説は最初カラタチ位置がおかしい 熊野灘からちょい西だけど、西牟婁郡のすさみ町が気になる。
元は周参見町(その前は周参見村)で、町名の由来は
「海を波風が激しく吹きすさんでいたことより」とかすっとぼけちゃってるけど、
どう見てもスサノヲだよな。
息子の木の神 五十猛命を連れて、新羅から熊野に降臨したスサノヲ。 >>77
下手すりゃ邪馬台国の後継が聖徳太子の時代にいて
隋に送った手紙の日本の二人の統治者は二か国だったという説唱える基地外まで出始めた
ほぼ同時期に筑紫太宰置かれて滅亡したのかよとw スサノオの木ね
柵、城は『き』と呼ばれていたらしい
高城たかき 石城いわき
というような例がある
神話におけるスサノオが木を植える話とかどういう意味なんだろうか?
兵を集めて拠点を作ったのかもしれない
古代において、【兵】【巫女】【櫛】【鏡】はセット
軍隊に随行する巫女の一軍の埴輪も見つかっている
また櫛を頭に刺した巫女や鏡を掲げた巫女の埴輪も見つかっている
木、兵、巫女、櫛、鏡
これが邪馬台国、初期のヤマト政権の起源かもしれない 更に興味深いのは、【賀】と【櫛】の関係性
賀は牙
旗印を掲げた拠点 、国境の防衛拠点、関
◎伊勢津彦、又の名は【櫛】玉命
伊勢津彦は伊賀に石の【城】を作っていたという伝承もある
玖賀(京都)〜敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀(阿波)〜香賀(讃岐)〜英賀 (播磨)
倭国大乱前、賀で囲まれた国が作られていた可能性がある
賀と天の岩戸は関係あるのだろうか? 今どき九州論信者なんかいるの?
日本人じゃないだろ 広岡浅子「大阪の男は話通じるけど、九州土人は鉄砲で躾なしゃあないなw」
事実炭鉱経営程度で鉄砲で武装しなきゃいけない九州土人地帯
逆に鉄砲持たれただけで相手が女と粋がってた九州の田舎者はキャインつって地に伏したw >>90
「きっ」と言い切っちゃうとダメなのよ。
関西人は今でも一音節の単語を無理やり二音節にしたがる。
目→「目ぇ」とか、歯→「歯ぁ」とか。
だから木→「木ぃ」で、これが紀伊。 >>88
まさに九州説の断末魔の悲鳴
実に心地よい >>82
なるほど。
一色みたいな雑魚を残したから九州を
抑えられなかったんだねw
なんか九州に南朝勢力とか築かれて全く抑えられてないしw 邪馬台国畿内説の理論って朝鮮人の思考パターンと全く同じで気持ち悪い。 九州土人と言えば牟田口廉也と神重徳
ああ、成る程なw神がかってるわ、マジでw
嘘の話ですら第八連隊や第四連隊の比じゃないのがきたなw
卑弥呼の末裔なんですねwwwww >>99
卑弥呼に子孫はおらんのじゃ…(ノД`)・゜・。 >>85
そういうことだな
陳寿は、読んだ人が誰でも分かるように書いたつもりなんだし
今まで誰も解読できなかった暗号を、オレ様が解読したぞと言うやつは確実にトンデモ >>97
南朝って福井の新田義貞が総大将で、軍事では楠木正成が最初に幕府軍を倒して滅亡への道を作った
九州土人の活躍ってどこだよw ちなみに南朝の本拠地は奈良の吉野
またまた九州関係ないなwwwww
神さん神がかってるわw >>103
活躍なんて言ってないだろw
足利の監視強化とか全然なってねぇて話だよ。
そろそろ邪馬台国の話聞かせてくれよ。
畿内説のわくわくする話とやらを。 2007年3月14日(水)の夜、NHKのテレビ番組「その時歴史は動いた」(松平定知、上田早苗司会進行)で、「邪馬台国はどこか−近畿説vs九州説−」を放映していた。
この番組は、「双方向企画・歴史の選択」と題し、番組放映中に視聴者が、近畿説と九州説とのどちらを支持するかを、調査していた。
投票結果
九州説支持 35087票 (62.4%)
近畿説支持 21102票 (37.5%)
合計 56189票 (100%)
結果は九州説の圧勝である。近畿を中心とする考古学者はこれまで、なにか大きな発掘があると、ほとんど邪馬台国と結びつくとは思えないことまで、「邪馬台国近畿説」と結びつけて発表し、新聞をはじめとする報道機関も、それを大報道してきた。
それは、ほとんど近畿説プロパガンダの一種のようにさえ思えた。やや忿懣をおぼえるところであった。
にも関わらず、国民は九州説を支持している。
プロバガンダでは国民は納得しないというところか。
★2015アンケート結果
九州説支持:54.4%
近畿説支持:35.7%
その他:9.9%
https://i.imgur.com/iEhi8FB_d.jpg?maxwidth=640&shape=thumb&fidelity=medium 纏向は伊勢や熊野とかの海が現代人が考えるより身近だな
日本中の土器が見つかってその当時最大の建物があるんだから
只の都市じゃないだろう各地の首長が集まる政治の場所か宗教施設か >>105
>>1やら何やらで散々語られてるからワクワクはしねえだろ。常識の話だし
逆に九州説のこじつけと捏造の神さん神がかってるわに期待だよw >>107
あれくらいの建物は吉竹高木遺跡には紀元前
2世紀頃にはあったけどな。 >>108
纏向の宮殿()跡って城柵や楼閣の跡が見つからないよねw >>108
三角縁神獣強化って日本でしか発掘されてない
のに魏鏡っていう頭のおかしい人がいるらしいよ。 >>108
当時魏王曹操の墓でさえ全長60mくらいなのに、全長280m近い箸墓を冊封国女王卑弥呼の墓だっていう馬鹿がいるらしいよw >>106
そりゃ、そうだ現皇室の正当性が否定されるからね。近畿説だと予算取りやすい。GHQに記紀以前の空白の150年の書簡、資料を押さえられていた。日本がアメポチの理由の一つ。 >>110
語られてる通りなら、卑弥呼が死んで弟に代わったらみるみる衰退し敗戦
一定の軍事拠点として機能できるなら、逆にこうはならんでしょ
九州田舎侍の小競り合いは知らんが。島原みたいに遊んでるのとは違うわけでw >>112
治る病気を治さなかった人の価値観の話されましてもw >>118
そうなのか じゃ邪馬台国は記紀には書けない所に在ったわけだ なんか、邪馬台国近畿説の連中必死だな、て感じで笑ってしまう。 >>114
何が言いたいかよくわからんが、纏向の建物が魏志倭人伝の記述と違うことは認めるってことね?
そのギャップを妄想で補う手法ね。 まあ、九州に大勢力がいたなら神武が九州は特筆すべき事なく平定したが
浪速と大和は超しんどかったとは言わないわなw
それが全ての答え >>122
それ誰がそう言ったと何に書いてあんの? >>122
それ答えじゃなく
御都合主義って言うんだぜ 全ての答えらしいからその書物が分かれば万事解決やん >>116
曹植とか曹洪などの魏朝皇族墓はもっと小さい。
まあ箸墓が冊封国女王卑弥呼の墓なんて言ってたら馬鹿と思われるだろうね。 >>123
日本書紀
宮家伝統の酒を飲ませて寝込みを襲うもこの時の神武発案とあるぐらい >>119
俺は多分そうだと思ってる。
邪馬台国が東遷したってのも、同じく無関係だからあり得ない。 >>122
本気でそれが纏向建物に城柵楼閣跡が無いことや、
冊封国女王卑弥呼の墓が魏朝皇族墓よりも
遥かに馬鹿デカイことの答えになると思っているのかw >>128
おぉ日本書紀に書いてあるのか じゃその日本書紀の記述が答えなんやね
んじゃまず初級から行こうか
遣隋使の第一回目は何年なん?日本書紀によると 九州土人は日本の歴史にろくすっぽ名を残してないからって
資料の乏しい邪馬台国に一縷の望みかけてんだなw
東北とか相当強かったらしいが、九州はほぼ話が無いもんなw
有名人、牟田口と神w >>53
へー、伊勢が奈良だった時代があったんだー
へーすごいねー >>46
伊藤桂一は、文春新書『若き世代に語る日中戦争』で、連隊にも県民性があったと指摘し、
「大阪の兵隊は大阪人らしく、確実に負けるとわかっているときは無理をせず、勝てる見込みがでてきたら反撃する。やはり合理的というのか、頭のいい戦い方をしました。」、
「関西の部隊には、何がなんでも戦って玉砕する、と言う考えはないかもしれません。やむなく玉砕することはあったにしても。」との意見を語っている。 >>132
邪馬台国の話が飛んでいったなw九州の筑紫に太宰を置かれた話で良いのかw
つまり大和朝廷が支配して、大きな勢力は監視の必要もなく消えた後だった訳でwww 奈良から遣隋使が「日出處天子(日出る處の天子)」と隋の煬帝へ国書を持参し
翌年(大業4年 608年)隋の煬帝は文林郎裴清を奈良に遣して
邪馬台国は奈良だと『隋書』で明確に記述している
倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。山の多い島に居住している。
魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。
夷人(倭人)は里数を知らない。
ただ日を以って計算している。
その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。
地勢は東が高く西が低い。
邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。 >>46
実際に第8連隊は特段負け戦をしておらず、また背後に聳える盃ケ岳や多紀連山を使った厳しい訓練や演習で「丹波の鬼」「山岳戦の篠山連隊」と恐れられ、
信頼された篠山歩兵第70連隊の直系母体(第8連隊内から要員が捻出・編成され篠山に移駐した連隊)にもなっており、決して弱かったわけではなく、
大阪鎮台時代の西南の役に連隊が従事した際には明治天皇より、「戦功ご嘉賞」の詔勅を日本軍で唯一賜るという偉業を達している。
太平洋戦争時のバターン・コレヒドール攻略戦に於いても第8連隊は奮戦勝利しており、軍司令官の本間雅晴中将から謝意を述べられている。 もう決着済みです
九州説みたいな学問的な根拠のない俗説はどうでもいいです
俗説は所詮ただの作り話です
国立歴史民俗博物館FAQ
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c >>137
いやいや 君がいうには日本書紀に答えのすべてがあるらしいから
その日本書紀の正確性確認させてもらわんと
邪馬台国の記述が日本書紀には無い以上、他のことで聞くしかないわな 魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。
その三十余国の中のひとつが奈良の邪馬台国で「親魏倭王」
その三十余国の中のひとつが北九州の狗奴国で「漢委奴國王」 ただ祭壇ならおかしくないんじゃね、卑弥呼無き後、ドでかいの作って脅すっての、壱与の祭壇とか? >>138
開皇二十年 ?王姓阿毎字多利思北孤號阿輩?彌遣使詣闕(隋書?(倭)国伝)
開皇二〇年〈六〇〇年推古天皇八年)
倭王の姓”アマ”、字”タリシホコ” 号”アハケミ”が遣使して宮中にやって来た
隋書にはしっかり記録が残ってるんだが、日本書紀にはなぜ記載がない? >>141
邪馬台国の事聞けるじゃん。神武の語った話にらしきものの痕跡が九州にあったか?
答え無い。多少強かったらしい国一か国平定で後方の憂いは断て
道中で瀬戸内二か国を平定出来る余裕が出来る状態 >>146
神武が邪馬台国のなにか語ったのか?
無意味な議論拡げないでくれ ヤマト政権は簒奪だろ?簒奪の繰り返しから生まれてると思うが。 >>147
無意味な議論は遣隋使じゃんwお前がいいだしたんだぞ、遣隋使とかw
九州土人は神がかってるわw 古代ヤマト大王は熊野詣してるんだから近畿の土器片ぐらいあるだろ どうやら 日本書紀に答えはないらしいな
記紀に頼る時点で邪馬台国とはなんの関係も無いってこと
畿内連中はとっくに知ってるからな
ま、こいつは初心者なんだろう まあ、邪馬台国もそうだが第八連隊といい九州土人は嘘つきばかりだなw
牟田口、神じゃしょうがないがな
そういや嘘つき九州土人カチンとくるけんは凄かったな
証言全部彼女にすら否定されてw九州説もこうなるんだろうなw 魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。
その三十余国の中のひとつが女王卑弥呼の奈良の邪馬台国で「親魏倭王」
国譲りで伊都国(出雲)を併合し、末廬国(松江)の港から一大国(隠岐)を経て対馬に渡り、通訳を介して中国と交流した
その三十余国の中のひとつが男王卑弥弓呼の北九州の狗奴国で「漢委奴國王」
邪馬台国よりも200年も以前から、竹斯国(筑紫)の港から一支国(壱岐)を経て対馬に渡り、中国と交流していた大国で、九州全体を強大な勢力下に納めていた 九州説って、時々おかしなことを言い出すやつがいるよね
遣隋使の1回目が日本書紀に載ってないから大和政権が遣使したのではない
1回目は九州王朝が送った遣隋使だとか
頭のネジが外れてるのかとしか思えない >>145
大業三年(607年)の遣隋使が、日本書記にも隋書にも記述されていて
大業四年(608年)隋が文林郎裴清を奈良へ遣して
「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
っつってるんだから、問題なし >>154
ほう これは議論できそうなやつがきたな
じゃ誰が送ったと?自分で九州王朝と書いてるところみると
一応は知ってるらしな 楽しめそうだ 当時外交をやってたのは熊野や伊勢の海人 紀氏の先祖とかだから
おそらく、中国と勝手に外交やってたのではと言う気がする。
伊勢は完全に治外法権で天皇すら宮川より中には入れなかったから松阪に斎宮がある。 >>155
そだな それで問題が無いとおまえが感じるならそれでいいよ
何も問題はないね
そんな考えなら問題や矛盾は何一つ出てこないから楽でいいなw だから卑弥呼はユダヤ人で九州いたが帰化中国人の戦乱に紀伊半島に移住しんだからどちらも正しいの 何を反論するんだよ 六〇〇年の記述は無くても矛盾は無いと
言い張ってる奴にwwww 裴世清て筑紫から難波までどのくらい水行したん?
水行三十日でおk?まさかそれ以上かかったの?
もしそうなら魏志倭人伝とは別の場所に行ったんじゃね? 日本は紀元前千年頃に箕氏朝鮮(殷王家)と親しく、箕氏から燕国経由で周と交流していた 最初の開皇二十年(600)の遣使は、隋の始祖、楊堅(文帝)へ
大業三年(607)は二代目、煬帝の三年目で
日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けます。
お変わりありませんか
つまり、日本側は同一政権 >>161
キナイコシが正体ばれないように
大好きな邪馬台国の話を一生懸命我慢してて笑う。
365日24時間5chの邪馬台国スレにへばりついて、地獄にいるおっ母も泣いている。 >>162
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡 ー 韓国 − 対馬國 − 一大国(隠岐)− 末廬国(松江)− 伊都国(出雲)− 奴国(因幡)− 不弥国(摂津住吉)− 投馬国(和歌山)− 邪馬壱國(奈良)
一大国(隠岐)
「一大国」は、宗像氏の祖先、出雲6代主王の息子が拠点にしていた【隠岐】
末廬国(松江)
上陸地点の「末廬国」は【天然の良港 松江】
伊都国(出雲)
王がいて、長官は爾支(にき)がいる「伊都国」は
大国主の国譲りのあと、邪馬台国が、アマテラスの孫の邇邇芸(ニニギ)を派遣した【出雲】
奴国(因幡)
「奴国」は、伊都国(出雲)の奴国・・つまり大国主の最初の妃「八上比売」の国【因幡】
不弥国(摂津住吉)
長官は多模(たも)がいる「不弥国」は、田裳見宿禰の【摂津国住吉】
投馬国(和歌山)
長官「彌彌(ミミ)」がいる「投馬国」は、スサノオの娘婿の大国主が、兄弟の八十神からの迫害を逃れるために訪れた、スサノオの長男の「アメノオシホミミ」の国「木の国」【紀伊】
を経て邪馬壱國(奈良) >>164
ほう その文知ってるなら指摘省けてええわ
つつがなきや(お元気でお変わりありませんか?)の意味だが
おかしいと思わんか?思わんのやろな〜w
天子が変わってることに気づいてない証拠の文だぞ
つまり六〇〇年の遣使は大和側じゃないってこと >>153
すまん
これ読んだらキミはキナイコシじゃないなw >>167
近畿説ってみんなそんなルート信じてんの?マジ?
って因幡まで水行三十日でそこから陸行一月で大阪和歌山経由して奈良? >>170
畿内は都会だからきっと道も整備されてて牛車とかで雅に
移動してたんでしょ、、、きっと そもそもだ
邪馬台国が「親魏倭王」になったよりも200年も以前から中国と交流し、
「漢委奴國王」になっていた九州が、邪馬台国になったのならば
200年も行き来をしていたのだから、対馬までのように
方角も日程も、バッチリ正確に記述出来るはずで
こんなにいい加減な道順になるわけがない
のだ
200年も行き来をしていた九州では無い、数回しか行っていない
ほぼ初めて行くところが邪馬台国だったから、
対馬から先が、いい加減な方位と日程になっとるのだよ 自分でいい加減な方位と日程ってことにするのか
いさぎ良いなw >>173
どこにもあてはまらないんだからいい加減だろ そりゃ奈良にもってことすりゃ当てはまるわけねぇわw つまり
魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。
その三十余国の中のひとつが女王卑弥呼の奈良の邪馬台国で「親魏倭王」
国譲りで伊都国(出雲)を併合し、末廬国(松江)の港から一大国(隠岐)を経て対馬に渡り、通訳を介して中国と交流した、ぽっと出の新興国
その三十余国の中のひとつが男王卑弥弓呼の北九州の狗奴国で「漢委奴國王」
邪馬台国よりも200年も以前から、竹斯国(筑紫)の港から一支国(壱岐)を経て対馬に渡り中国と交流し、九州全体を強大な勢力下に納めていた、邪馬台国以上に大陸との歴史が古い大国 毎日新聞だけが纏向を邪馬台国の有力候補地と断定した訳だな。他の新聞社は
そこまで断定した書き方はしていないな、古代史の知識が僅かでもあれば
そんなデタラメな記事は書けんからね。 漢、魏、晋と交流ありながら、
国内記録が記紀以前に、ないのが不思議と思わないか?終戦後、米国は、GHQが調査に入ってデータ持っている。古墳調査させない宮内庁。古くは織田信長が、
古墳を調査しようとした。これが本能寺の変の真相。 >>176
それで矛盾感じないならそれでいいじゃん よくできてるよ
2‐3世紀にどうやって海流に逆らって隠岐から対馬に渡ったのかぐらいは
考えような
畿内説はすでに帆船とかが在ったのかな?すごいですね 魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた
っつーんだから
魏の時、日本から中国に交流するための海路は
奈良の邪馬台国が利用していた伊都国(出雲)、末廬国(松江)、一大国(隠岐)ルート
北九州の狗奴国が利用していた竹斯国(筑紫)、一支国(壱岐)ルート
の他に20以上のルートが存在して、みな自ら王と称して三十余国が中国と交流したんだろうね >>177
その記事、考古学会も苦言呈したはず
そんなことは一言も言ってねぇぞってw
すぐに毎日は謝罪&訂正文だしたはずだよ 邪馬台国畿内説は箸墓古墳と纏向遺跡が最期の砦。
頼みの纏向が中身スカスカで、箸墓も倭人伝の
記述に合わない。 >>179
はいはい
例えば邪馬台国が九州にあって、竹斯国(筑紫)、一支国(壱岐)ルートで中国と朝貢していたとする
そこに別の国の王が
俺様が倭国の王だと中国に朝貢しにいくから、竹斯国(筑紫)、一支国(壱岐)を使わせろ
っつって、邪馬台国がOKする、ほうが現実離れしてるぞ(笑) >>183
おまえな〜30か国はどこの国に従属してたと書いてあるんだ?
そんなことも知らずに畿内説言い張ってると仲間からハブられるぞ
畿内派の恥晒すなとな 北九州には、邪馬台国が「親魏倭王」になったよりも200年も以前から中国と交流し、「漢委奴國王」になっていた大国が存在している
その「漢委奴國王」になっていた大国に対して邪馬台国が
魏から「倭王」と認めてもらうために朝貢するから竹斯国(筑紫)、一支国(壱岐)を使わせろっつって
「漢委奴國王」になっていた大国が
わかった、気を付けて行ってきてねって使わせると思うか? 好きに妄想楽しんでてくれ 実りねぇからもうパスする
誰かこのかまってちゃんの相手してやってくれーw >>180
通訳や文字、航海術を持つ国は、
限られている。国際交流が盛んな国は、九州北部、山陰の国々。 >>186
わかったか
きちんと考えれば、
北九州には邪馬台国が「親魏倭王」になったよりも200年も以前から、竹斯国(筑紫)、一支国(壱岐)ルートで中国と朝貢していた「漢委奴國王」という大国が存在していたのだから
邪馬台国が、魏から「倭王」と認めてもらうために、竹斯国(筑紫)、一支国(壱岐)ルートを使うのは使用不可
北九州に邪馬台国は有り得ないんだよ >>185
伊都国だと思うよこれが近畿の伊勢の名の由来、次に邪馬台国これが近畿の大和の名の由来。伊都国と邪馬台国は、同一族。近畿と九州との直接の関係性はわからん。 >>187
んなこたぁねーんじゃね?
東北も大陸と行き来してたし
新潟辺りも行き来していた >>189
結局
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡 ー 韓国 − 対馬國 − 一大国(隠岐)− 末廬国(松江)− 伊都国(出雲)− 奴国(因幡)− 不弥国(摂津住吉)− 投馬国(和歌山)− 邪馬壱國(奈良)
一大国(隠岐)
「一大国」は、宗像氏の祖先、出雲6代主王の息子が拠点にしていた【隠岐】
末廬国(松江)
上陸地点の「末廬国」は【天然の良港 松江】
伊都国(出雲)
王がいて、長官は爾支(にき)がいる「伊都国」は
大国主の国譲りのあと、邪馬台国が、アマテラスの孫の邇邇芸(ニニギ)を派遣した【出雲】
奴国(因幡)
「奴国」は、伊都国(出雲)の奴国
・・つまり大国主の最初の妃「八上比売」の国【因幡】
不弥国(摂津住吉)
長官は多模(たも)がいる「不弥国」は、田裳見宿禰の【摂津国住吉】
投馬国(和歌山)
長官「彌彌(ミミ)」がいる「投馬国」は、スサノオの娘婿の大国主が、兄弟の八十神からの迫害を逃れるために訪れた、スサノオの長男の「アメノオシホミミ」の国「木の国」【紀伊】
を経て邪馬壱國(奈良) >>190
おいおい、現代航海で考えているだろ?
中間に島がないと、物資、水の供給どうすんの? >>192
おまえが考えている以上に発達していたんだよ >>190
直接は無理だろう。
日本海海岸線づたいだろうな。
出雲が中心。 渥美半島に南国の椰子の実が流れ着くのだから、熊野灘に大和の土器が流れ着いても不思議ではない。 >>188
読んでいると逆じゃないの?近畿はありえない。九州・山陰の何処だよ。 室町時代に三輪に泥棒に行った熊野水軍が運べなくなって捨てていった収穫品の一部。 神武天皇が生駒山で負けてそこからの大和国侵入を諦め
熊野まで大回りして八咫烏の誘導で山を越えて大和国に入ったとはいうけれど、
古代から大和と熊野を結ぶ山道が機能していたのは確かっぽいな。
これが後の熊野古道なんだろうか? >>197
奈良の邪馬台国は、出雲(伊都国)を国譲りさせて、大陸と交流できるようになったのさ >>203
日向の高千穂の宮から奈良に東征したのは「神武」
神武の父ちゃんは「ウガヤフキアエズ」
宮崎県日南市の鵜戸神宮で産まれ、鹿児島県鹿屋市の吾平山上陵に墓がある
ウガヤフキアエズの父ちゃんは「山幸彦」
海幸彦に出雲を追い出されて、海神国・・つまり北九州の狗奴国に亡命し
日向に高千穂の宮を建立して居住していた
山幸彦の父ちゃんは「ニニギ(邇邇芸)」
大国主がアマテラスに国譲りした後に、奈良から出雲に一大卒として派遣された
倭人伝では「伊都国(出雲)」の長官「爾支(にき)」として登場する
ニニギ(邇邇芸)の父ちゃんは「アメノオシホミミ」
スサノオが奈良にいたときに産まれた長男で、スサノオが奈良を追い出された後、アマテラスがひきとって自分の子にした
倭人伝では「投馬国」の長官「彌彌(ミミ)」として登場する
アメノオシホミミの父ちゃんは「スサノオ」で
奈良を追い出されて出雲にやってきて、巨大な怪物八俣遠呂智への生贄にされそうになっていた美しい少女櫛名田比売命と結婚し、出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地(中国・山陰地方にある島根県雲南市)で暮らしていた
つまり「神武」は、産まれも育ちも北九州の狗奴国で奈良では無いが
奈良のアマテラスと出雲のスサノオの直系
だけど、狗奴国軍と共に軍事クーデターを成功させて邪馬台国を掌握し、大和政権を樹立した
まぁ、記紀には書けないわなぁ >>26
明太子をアナルに入れて、カエルをオナホ代わりにしてた珍敷塚古墳に葬られた変態土人の酋長を棚に上げてよく云うよw
//3.bp.blogspot.com/-TJPy9Omx96M/WxXXjG-QDhI/AAAAAAAAL3k/pi5kHNVb-lg7qz70WEGCTrkZgaTNogVaACLcBGAs/s1600/300605%2B%25281%2529.jpg 熊野灘の近くにある三重県熊野市はいいホテルがたくさんありますね。 むしろ
邪馬台国が「親魏倭王」になったよりも200年も以前から
竹斯国(筑紫)、一支国(壱岐)を使って中国と交流し
「漢委奴國王」になっていた北九州の大国が
邪馬台国が魏から「倭王」と認めてもらうために朝貢するのに
自分の竹斯国(筑紫)、一支国(壱岐)を使わせたというほうが弱いどころかありえない
魏は、自分を「漢委奴國王」にした後漢が、権力を禅譲した継承国であり
魏から「倭王」を継承するのも、当然「漢委奴國王」の自分だ
なのに邪馬台国が魏から「倭王」と認めてもらうために朝貢する?
させねーよ
で、自分の竹斯国(筑紫)、一支国(壱岐)は邪馬台国には使わせないのが当然 つまり
帯方郡 ー 韓国 − 対馬國 − 一大国(隠岐)− 末廬国(松江)− 伊都国(出雲)− 奴国(因幡)− 不弥国(摂津住吉)− 投馬国(和歌山)− 邪馬壱國(奈良) >>210
弱いよ。
九州・山陰なら無理がない。
奴国の金印は、中国側の文献で漢(光武帝)卑弥呼は、魏志、トヨは、晋。稲作考えると、近畿はない。九州・山陰の物流経済圏に飢饉で内乱、卑弥呼が登場する。
鬼道で雨を呼んだ。 >>215
ならば
「漢委奴國王」になっていた北九州の大国が邪馬台国
じゃないと成立せず
邪馬台国が「親魏倭王」になったよりも200年も以前から中国と交流し、知識の蓄積があるのだから、方位も日程も正確じゃないとおかしい
行き方がデタラメ・・というのはあり得ない >>217
貧しくて教育を受けれなかったんだろう
頭も悪いのでどうしても妄想してしまう
前後裁断を教えよう >>218
奴国の一族が邪馬台国と関係があった。
方角、距離とると近畿説はさらに弱いよ。卑弥呼は、奴国の子孫。この二つの国は、大の穀倉地帯を持っていて島々に米や物資を提供、海路を構築していった。
武力の側面だけで捉えることは、できない。 つまりだ
邪馬台国が「親魏倭王」になったとき
それより200年も前から中国と交流し、
縄文時代から中国と交流し、
後漢から「漢委奴國王」を任命された
北九州・筑紫一体は
渡来人が隅々まで出向いて、
どこに何があるかをわかっていた
へたすれば地図すら作っていた可能性もある
それなのに
邪馬台国への行程が、方位も時間もムチャクチャだ
ということが、邪馬台国は九州では無いことを証明している 最近纏向を邪馬台国と紐づけるようなものを見ると
クスッと来るようになってしまった
桃の種wみたいな
学者がまじめに馬鹿な事やってるのはなんか滑稽で良いな
いい加減邪馬台国なんてのを離れてもっとちゃんと研究しろよ
遺跡自体は興味深いのにコントにすな! >>221
近畿では、説明できるのか?
距離、方角。漢の文献、魏の文献。 魏志倭人伝では邪馬台国は帯方郡から一万二千里。
帯方郡から九州北端の末盧国まで一万里なので残りは2000里。
九州以外は有り得ない。 纏向の土器は半分が東海。九州や大陸の土器が出土しないから、九州や大陸との交易が無い田舎の豪族だった。 >>224
四国(紫黒)、山陽、山陰も含まるよね。
近畿は除外だけど。 邪馬台国のルーツは朝鮮半島。
日王はじめ日本の支配層は渡来人。
朝鮮民族の末裔。
チョッパリに文明を教えたのは韓国人。 はい来ました今週の「だろう」「らしい」です!!
学者と称する畿内説キチガイのデマを味わいましょう!
今回は「土器が出たら大和王権」です。
海洋文化も無い大和の土器が出たらなんで航行の確保なのか。
例えば長野から出てもそうなるのか?他地域の土器と混在する場合は?
「安くていい土器だべ、この干し魚と変えてくんろ」→「大和王権の
航行確保だ!」とか、相変わらず恥ずかしいという言葉をどこかへ忘
れてきた模様。 塚もない銅鏡100枚もない金印もない場所は特定出来ない
邪馬台国はほぼほぼ捏造の産物
倭にそれらしい国があると聞いた伝聞をまとめたにすぎない
それが当時の北九州と出雲と畿内の混合だ
真相はこれしかない これらは東の海を渡った卑弥呼の支配の境界にある交易国。
近畿は丹朱を交易で得るための商用地区 弥生時代の畿内には朱丹が使われた
遺跡は二箇所しかない。
一方北部九州では豊富に使われている。
畿内は朱丹交易ルートからは
外れてると考えられる。 土器なんていう原始的なものは日本中いたる所で作られていた
邪馬台国に強引に結びつけようとする気狂いは死ね 阿倍仲麻呂の時も何回も流されとる、一番安心のルートは対馬九州の最短距離。倭人は日の出てる時しか舟を出さない、1日で行ける所だけよ。 丹と青玉の両方が取れたのは大分だけ。
畿内は100%ない。
畿内派は丹と青玉の両方取れた場所を見つけるまでは出てくるな。 纏向は馬具が出土するから4世紀から5世紀の古墳なのに3世紀と書いている。
毎日はフェイクニュースを垂れ流し状態。 元々畿内で力を持っていたのは畿内の唐子鍵に住む出雲系の弥生人
巻向は征服でなく交易と祭祀を持ち込んだ海人系の倭人
さらに水源と周辺沿岸を押さえることで畿内の交易ルートを遮断し独占化
これが畿内の緩やかな征服の真相 九州勢力は白村江の戦で壊滅的なダメージを受け、この時とばかりに畿内勢力が台頭し全国制覇へ
それを仕組んで九州勢力に朝鮮出征させたのは畿内勢力の誰か? >>221
邪馬台国は佐賀県の吉野ヶ里遺跡だよ。
お前さんの指摘はもっともだが、それは過度に北九州を美化する輩の妄想上の北九州の姿だからさ。
女王国には暦もないと魏志倭人伝にもあるように、実態は文明化はまだ始まったばかりの非常に牧歌的な集団
筑紫平野を中心に、邑の寄り合い組合レベルの集団が、渡来品の鉄器で農耕に励んでいたのさ。
魏志倭人伝の短里で距離を7倍も誇張しているのと同じく、女王国のレベルも大幅に誇張されてる。 >>221
理論が破綻し過ぎとる。
まず狗奴国の方向は南の筈なのに、邪馬台国から西になってしまう。
しかもそんなによく知った国なのに
王の名前くらいしか言及してないとかw >>221
エドガー・ケーシーのポールシフトに言及した部分を当てはめると時期も方位も合致すると言われてる。
日本国内のものも含め古代ピラミッドの一部は30度くらい東西南北がズレてる事がある。 畿内説の倭人伝無視もここまでくると、
魏志倭人伝を憎んでいるとしか思えんな。 >>242
魏志倭人伝の方角は畿内説にせよ九州説にせよ、アテにはならんよ?
女王国より以北の監視に伊都国に一大率を置いたり、以北の国々の名前を列挙してるが、糸島市の北は海だぜ?
45度や90度の傾きは、九州説をとっても必須なんだからさ。 >>225
邪馬台国は九州の地方政権なのは確定。
天皇家は九州出身で大和を征服したと明言しているのに
纏向は愛知静岡の土器が多く出て西日本のそれはごくわずか。
纏向は大和国の先行勢力の遺跡で神武はそれを破壊した? >>245
少なくとも一大国や対海国や狗邪韓国はある >>247
せやね。
でも糸島市の真北に20程も国が置けないのも事実やろ?
海の向こうを監視するために一大率を置いたわけでもない。
魏志倭人伝のどこまでの方角を信じて、どこから傾けるか?だけの話し。
畿内だ、九州だの前に、そもそも魏志倭人伝は正確なことを書いてないと覚悟しておくべき。 >>205
神武は日向国出身でそれが畿内制圧は史実と思ってる。
卑弥呼より前の倭国大乱か、死後の男王の時か知らないが北九州が戦乱の時に
日向国に脱出したのがニニギで神武はその子孫。これが神話でいう天孫降臨。
神武が東征するのにかつて邪馬台国のあった北九州勢力を味方につけるために
俺たちは卑弥呼の遠い末裔で邪馬台国の正当な後継者だとのプロパガンダを行った。
だから皇祖神アマテラスは卑弥呼のイメージ。 独断で選んだ九州説トンデモ度ランキング
1位 九州王朝が倭の五王や遣隋使の時代にも存在していた
2位 邪馬台国が東遷してヤマト王権になった
3位 魏志倭人伝では短里が使われている
4位 伊都国が邪馬台国の都である
5位 邪馬台国は本当は小国であった >>248
伊都国には邪馬台国が北を監視、
つまり対馬海峡の物流を監視して国防のための機関を置いてるのだと思う。 >>250
1、完全にアホ。白村江の戦いにまけたのは九州政権の軍隊で唐が一時期九州を占領って何だ?
2、東征そのものは史実。邪馬台国ではないが完全に無縁ではない。
3、倭人伝で短里は正解。
4、完全に間違い。
5、本国と邪馬台国連合をごっちゃにしてないか?倭人伝で女王国と書いても文脈によってどちらの場合もあるのに。 >>208
大陸の日本海側(沿海州)で縄文土器が出たり、新潟産の翡翠が見つかったりしてるからな。
日本海を囲む地域で交流があったことは間違いない。 >>250
3位と5位は俺かなぁ
他は九州説でも妄言の類。陰謀論に近いので、まともに取り合わなくていい。
魏の公式の度量衡自体は長里だけど、倭人条と韓条ではやはり短里が使われてる。
つまり帯方郡の管轄範囲で、魏本国でない地域限定の偽装があったという事。
主導したのは帯方郡か魏の本国か、張政達なのか定かではないし調べようもないけど、実体がそうなってるのは動かない。
邪馬台国が小国なのも同じ理屈
誰かが意図的に誇張して書いただけ。
北九州の人口に戸数15万戸が収まらないように、畿内だけで邪馬台国の7万戸は人口推計的に収まらない。 >>252
史実って、神話以外何の根拠もないのにwまた妄想を根拠に断定ですか?w>2
それと、短里なら、会稽東冶の東にはならないよ
史記や漢書や三国志にも会稽は出てくるんだから、ねつ造説も不可能だなw
ま、都合のよいことは事実で、悪いことはねつ造ではまともな議論にはならんわな>宇佐説さんw >>188
壱岐が奴国に服従してる証拠でもあるのかい?
30の国と友好的に付き合っていれば、それぞれが大陸に渡る際に立ち寄ってもおかしくない。 >>255
人口に関しては7万戸は7万軒じゃなく7万人のことだよね。 畿内説のゴットハンド使っても3世紀後半までしかズラせなかったかw
本当は4世紀の土器なんだけどなw
ちなみに邪馬臺国の名残りを探す場合は3世紀前半なw 何の物証も見つからない
邪馬台国九州説()カルト信者は息してる? >>256
日本列島全体の形を直接目視できないゆえに日本列島の形を誤認しているからだと思う。
実際は南西から東北に伸びてるのに傾いて認識して東西に伸びてるように思っていたと。 >>256
お前が知らんだけやろ。
会稽東冶の東と記載されている地域は、
ちょうど九州のあたりです。
「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf 九州の問題の一つは戦国時代や江戸時代に権威付けの為に捏造や地名改変が行われてること
霧島連山周辺の地名を改変し、旧跡の「復元」という名の新造を行った戦国時代の島津氏
同様に福岡周辺を改変した江戸時代の福岡藩。このあたりのせいで過去が上書きされてる
破壊するだけ破壊して捏造はしなかった大友氏の方がマシである >>248
>魏志倭人伝のどこまでの方角を信じて、どこから傾けるか?だけの話し。
要するに狗奴国の場合は南→西で、
邪馬台国はそのまま南→南っていう解釈なんやろ?
ご都合主義というか、魏志倭人伝がそれほど不確かな史書なら、邪馬台国があったかどうかも疑う話になると思うけど。 >>258
当時の北九州の人口は4万人
南九州合わせても10万人
畿内の人口は3万人
畿外近畿を合わせても10万人
どちらにせよハマらないし、戸数と人数の区別は後漢の時代から成立してる。 旧唐書より
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
■倭國条 〜631年
「倭國者,古倭奴國也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
倭奴国とは、漢委奴国王の金印を貰った国。
「去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。」
(新羅の東南一万四千里)
北部九州から東へと移動している。
郡の位置が変わったので補正された。
■日本条 701年〜
「日本國者,倭國之別種也。」
(日本国は倭国の別種である)
日本は倭国とは別物と言い切っている。
以下、日本人使者の言い訳が続く。
「以其國在日邊,故以日本爲名。」
(日出る国だから改名した)
「或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。」
(字が嫌いだから改名した)
「或云:日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
「其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。」
(日本人は不誠実なので中国はこれを信用しない)
結局、倭国がなぜ日本国になったのか不明確なまま。 >>265
それもアリかもね。
ただそうすると遊べんやん? ヤマト王権初期は明らかに東海勢力と密接に関わっている。
東海地方の豪族がヤマト王権誕生に関わったんだろうね。 >>263
混一彊理図(混一彊理歴代国都之図)
世界地図として1402年に朝鮮で作図された混一彊理図(こんいっきょうりず)では、日本
列島を南北に配置している。このことから、古代中国では日本を朝鮮半島の南に南北に連なる
列島と誤認し、結果として邪馬台国は畿内大和が妥当としてきた。ところが、この混一彊理図はもともと中国での地図に日本からもたらされた行基図を朝鮮で合成したものである。
最近、別の混一彊理図が長崎県島原市で発見
され、それでは日本列島は東西に配置されている。従来の混一彊理図は地図のスペースの関係で日本を南北に配置したのでは、と推測されて
いるのが昨今の状況である。このように、混一彊理図は畿内説の根拠としては影が薄れている。
だいたい、1402年と言えば邪馬台国から1000年以上も新しい。邪馬台国から1000年以上も後世の合成地図で畿内説の根拠とするのは本来ナンセンス。 >>269
纒向は出土品からして東海との関わりが深い遺跡だよな。
対して九州や大陸とは無縁という意外な遺跡。 >>270
>>263は島原で見つかった地図で、
正常に日本まで描かれていた地図だよ。
畿内説が提示したのは、これより小さい合成地図。 >>267
金印を受けた奴国や親魏倭王の邪馬台国を そもそも方角を間違えるような使者だったなら、
本国に帰ることも出来なかったでしょう。
そしたら記録も残ってないはずだし。 >>267
金印を受けた奴国や親魏倭王の邪馬台国は既に崩壊していたのだろうが
大和朝廷サイドはそのことを知らない、あるいは過去にそんな国があったかとな、って程度。
だけど中国側は過去の王朝の記録から倭国の朝貢のことを知ってて
「奴国や邪馬台国ってどうなったの?(お前らが滅ぼしたんちゃうんか?)」
と突っ込まれてタジタジになってるんだと思う。 大和国の最初の王であるニギハヤヒは三河県豊橋市出身の可能性が高い
ニギハヤヒの天孫降臨ルート
三河→伊勢→熊野→河内(天孫降臨)→纒向
三河県豊橋市の石巻山は三輪山の奥の院であると大神神社の社伝に書いてある
神社の拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥の院、豊橋の石巻山(神山)に向いているわけだな >>266
弥生時代末期の人口推計は、研究者自身が60万人から100数十万人に訂正してるよ
200万人に変更したというのもよくみかけるが、ソースが見当たらない >>275
>大和朝廷サイドはそのことを知らない、
文字が普及して間もない時代だし、知ってる人は少なかっただろうね。 >>271
記紀は明らかに西向きで東国の話がほとんど出てこないんだよな。
ヤマトタケルの遠征ぐらい。が東海地方通って筑波まで行ってターンしていて
纏向から出る土器の地域と重なるのが不気味。
ヤマトタケルは東国を味方につけた、あるいは東国出身の雄で纏向作ったのは彼で
九州出身の神武と共同で大和朝廷たてたがクーデターで存在を一切消された悲劇のヒーロー? >>277
ニギハヤヒが東国説か。
僕の読んだ話ではニギハヤヒは西日本、だから神武は俺たちと同じく天孫の子孫と言ってる。
ナガスネヒコが東の出身としていたな。 >>280
神武は最初、日に向かって戦ったから負けた
→日を背負って戦うべきだ
→紀伊半島の東に回った
これが、東日本を味方に付けたという意味だと思う。 >>278
鬼頭宏自身は数値を訂正したのではなく、対談の席で推計値の変動はありうると言っただけだよ。 >>275
全文読むと奴国は少なくとも648年ごろまでは、存在してたっぽいぞ
『旧唐書』
倭国伝
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。倭人は山ばかりの島に依り
付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月
の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。
その国の町などには城郭が無く、木で柵を作り
、家の屋根は草で葺いている。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。
倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国
はこれを畏怖している。制定する官位は12等級ある。訴訟する者は匍匐(ほふく)して前に
出る。
倭国には女が多く、男は少ない。かなりの漢字
が通用している。俗人は仏法を敬っている。
人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。
貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷
(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。
婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、
髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。
貞観5年(631)。倭国は使いを送って来て、地方の産物を献上した。太宗は道のりが遠いのを
あわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(しし=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国
の王子と礼儀の事で争いを起こして、国書を述べずに帰国した。
貞観22年(648)になって、倭国王は再び新羅
の遣唐使に上表文をことづけて太祖へ安否を伺うあいさつをしてきた。 >>278
オマケ
仮に3世紀後半の日本の総人口を200万人だと仮定した机上の空論遊びをしよう。
邪馬台国人口論に則り、九州全体の人口は日本全体の1/6なので33.3万人となる。
九州の南北の人口比率は、北40%、南60%なので、北九州の人口は13.3万人となる。
やはり15万戸には全然足りない。
15万戸に必要な北九州の人口は75万〜82万人
同じく近畿全体の人口も日本全体の1/6なので33.3万人
畿内と周辺近畿の人口比率は、畿内30%、他70%なので畿内の人口は10万人
邪馬台国の7万戸にはやはり全然足りない。 倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、
天皇家には、姓が無いので倭国王は天皇家では無いな 馬もないのに遠くへ行かないよ。川を挟んで一国づつある程度、山、丘の向こうにも一国、また一国、対馬なんて一国とは限らないよ、寄らなかっただけで、博多から門司までだって行かないよ、何の用があんだよ?動き出すのは足が出来てからだよ。 中国の戸数など数値を気にするのは超素人。
陳寿はそれらの比率で重要度を示しただけ。 >>284
近代以前の日本の人口統計
>鬼頭宏の推定人口は、小山修三 (1978,1983年)[15]に依拠している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
↓その小山氏が見解を修正している
>弥生時代の人口は遺跡からの計算では約 60 万となった。
>ただし、弥生時代の遺跡の重み付けを関東地方の遺跡からとったため、全体量が低くなりすぎたようである。
>その後の発掘によってわかった、吉野ヶ里遺跡をはじめとする西日本における弥生集落の大きさを考えると、
>弥生末期には 100 万を越えていたのではないかと考えている。
http://minato.sip21c.org/humeco/anthro2000/koyama.pdf >>260
邪馬台国は丹と青玉が取れたと書いてあるから畿内は可能性ゼロ >>286
弥生末期200万人なら、近畿周辺まで含めれば33万人で、邪馬台国7万戸≒28〜35万人はぎりぎりOK
畿内限定だと、推定人口10万人の地域に、邪馬台国28〜35万人を押し込むのは厳しい
魏志倭人伝の戸数に誇張があり、また邪馬台国の版図を畿内とその周辺も若干含むとすれば、十分可能
一方、九州は倭人伝記載の15万戸に、旁国21ヶ国の戸数を加えなければならない
合計が20万戸と仮定しても、80〜100万人になる
推定人口13万人の地域に、80〜100万人を押し込むのは、到底不可能
魏志倭人伝の戸数が誇張で済まされる話ではない >>280
纏向は水に浮く木製の馬具が埋まってたから5世紀以降だからな >>295
それって箸墓古墳の外堀じゃ。
箸墓古墳はモモソ姫じゃなくて実の崇神天皇陵説有力だよね。 史記は司馬遷が情熱で持って書き上げて、
時の皇帝が激怒するような事まで書いてあるけどさ、
記紀は支配者が作った公式設定集でしょ
こんなものがそれまでの歴史の流れを正しく書いてるとは到底思えないね
>>269
そりゃ壬申の乱で大海人皇子に味方したのがそこらの豪族だからねえ
神武東征だってさ、どの部族だって西から来たに決まってるんだぜ
だからご先祖が東にやってきた伝承なんてどの部族が持っててもおかしくないわけ
弱小部族が東に移動してきた伝承を大仰に書いただけじゃないの 鬼頭氏の弥生時代の人口推計は
当時確認できる1万箇所の遺跡に
係数をかけて計算されている。
その結果が60万人。
今確認できる弥生遺跡数は4万箇所。
つまり、同じ計算方法なら4倍の240万人になる。
さらに遺跡として登録されていない
遺物確認地点はその10倍以上あるらしい。
これらの分布は各市町村の
遺跡地図で確認できる。 ID:NmGlC6lY0
おまえ全てのレスに嘘書いてるな
しかも毎日だ
嘘を書けば事実がひっくり返ると思ってるんか
馬鹿すぎ
倫理観ゼロ、人間のクズ >>300←これが典型的な畿内教信者。中身はネトウヨw >>300
えっ?箸墓から鐙が出土したのは事実だろ? 8 名無しさん@1周年 sage 2019/06/11(火) 20:21:41.47 ID:nSYSUhYv0
邪馬台国が近畿なのはどう考えても常識だから
九州とか非常識なことを言って注目されたいだけの頭してるんだろ
17 名無しさん@1周年 2019/06/11(火) 20:58:44.05 ID:v/42g4Mt0
邪馬台国が九州なのはどう考えても常識だから
畿内とか非常識なことを言って注目されたいだけの頭してるんだろ >>301
近畿説は東大だからなあ
それだけで胡散臭い 箸墓は卑弥呼の墓?
奈良県桜井市の箸墓古墳は全長280メートル
の初期の巨大前方後円墳で、卑弥呼の墓と畿内
説は言う。ところが、箸墓の周濠から木製の
輪鐙(わあぶみ=乗馬の時に使用する足掛け)
が出土した。倭人伝によれば、卑弥呼時代は
日本に馬はいない。鐙自体は中国晋王朝時代
に発明され、邪馬台国より時代が新しい。
記紀の記録でも日本で馬の使用は早くても4世
紀後半。畿内説の牙城であった橿原考古学研究
所さえ、箸墓は卑弥呼の墓ではないと言い出し
ており(台与の墓とか、台与の後の男王の墓と
言っている)最近は完全にトーンダウンしてい
る。畿内説は卑弥呼の墓を新たに見つける必要
がある。 >>305
いくらID変えても畿内教信者はお前一人だよ、奥山くんw 三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡?
近畿地方を中心に全国から出土している三角縁
神獣鏡は卑弥呼の鏡と言われ、長らく畿内大和
説の支柱をなしてきた。しかし、三角縁神獣鏡
は日本国内で既に500枚以上も出土している。卑弥呼が魏王朝よりもらった銅鏡100枚と
は数が全く合わない。しかもこの三角縁鏡は
日本以外から全く出土せず、肝心の中国本土で
の出土も無し、また鋳型も全く出土せず。三角
縁鏡は卑弥呼の鏡だと大合唱していた畿内派で
も最近は国産説を取る人が多くなっている。 日本史板で畿内説の布教活動やってる通称奥山氏というのが居て、
これが畿内説の宣伝係を担当している纒向センターの関係者だとか。
俺はコイツをMだと認定してるw wikiより
奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、
卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、
また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。 九州北部は間の時代から盛んに交流しており
後漢書東夷伝倭人条にもそのことが記載されている
それによると、拘邪韓国まで七千余里、邪馬臺国一万二千里とあり
この距離関係からすると場所は明らかに北部九州に限定される。
また拘邪韓国が倭国の西北端とのことなので、韓国の最下部も倭国の範囲だということをうかがわせている。
つまり現在の韓国側の数か国も倭国であり、漢に使者を送る30余国に含まれると考えられる。
これを踏まえて魏志倭人伝の行程を見直すと、移動が急に日数に変化してる投馬国と邪馬台国の記載は
前段の続きではなく、帯方郡からの行程であり、韓国南部に投馬国があり、そこから海を渡って陸行して邪馬台国がある
韓国側に二万余戸、九州北部に五万余戸と、倭国をおおざっぱに2つに分けて記載した資料から転載したものだろ。 >>280
高天原って伊勢湾地域のことだから
そう考えれば、たくさん出てくる >>302
箸墓から鐙など出土してない
周濠からだ
数十年前の年代差が想定されている つまりだ
北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている
邪馬台国が、魏(220年 - 265年)に朝貢し、240年に「親魏倭王」に任じられたときには
それより200年も前から中国と交流し、
それどころか、縄文時代から中国と交流し、
57年には後漢から「漢委奴國王」を任命された北九州・筑紫一体は
いたるところに渡来人が居住し出歩いて、どこにどんな国があるかをわかっていた
へたすれば、交易のために、玄関口の筑紫から九州の様々な国へ行き来するための地図すら作っていた可能性もある
それなのに
邪馬台国への行程が、方位も時間もムチャクチャだ
ということが、
邪馬台国は、
縄文時代から中国と交流し、
57年には後漢から「漢委奴國王」を任命され
渡来人が庭のように闊歩していた九州にある国ではなかった
ことを証明している >>318
ここにいるのが日本史版の住人ばかりだと思うなよ ではなぜ北部九州内で陸行1月なのかという点
これは、大陸からの使者へ九州の地理が詳しく漏れるといつか進軍されるから。
博多方面へ船で行くほうが楽ではあるが、そうした行程は防衛機密とし、九州への入り口を中心部から遠いところに限定した。 >>12
三重県から、愛知県にかけて 地質調査 発掘調査していけば 詳しくわかるよ
土器が大量に見つかったんで、かなりの数の人民が、東日本や、東海地方から 関西へ移動してきてることがわかってきたんだってさ >>297
ホンモノのほうな
祟りは 在るよ
モノから入ってくる >>310
全く逆だ
北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている
頻繁に使いを送り、また使いや軍人が渡ってくるなど、北部九州一帯が半島や大陸と活発に交流していた歴史は200年以上続く
半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのは当然
しかし、奈良が、魏(220年 - 265年)に朝貢し、240年に「親魏倭王」に任じられ
頻繁に使いを送り、また使いや軍人が渡ってくるなど、半島や大陸と活発に交流していた歴史は、数十年しか無く
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく
半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などがまったく出土していないのも当然 >>299
>今確認できる弥生遺跡数は4万箇所。
>つまり、同じ計算方法なら4倍の240万人になる。
もしその推定が正しいなら、畿内系土器の分布は播磨や紀伊にも広がってるから
畿内説前提での戸数は魏志倭人伝と大きな矛盾はないな 至るところに渡来人が歩き回ったりしてねぇよ、倭人伝でも卑弥呼に騙されとる位アホだと思ってる。相手にしとらんよ、このころわ。近畿じゃあ頻繁に交易なんて出来やしない。てめえんとこの周辺の畑や道路整備すんだけで精一杯だよ。 >>320
北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている
200年も前から中国と交流し、
いたるところに渡来人が居住し出歩いて、どこにどんな国があるかをわかっていた
へたすれば、交易のために、玄関口の筑紫から九州の様々な国へ行き来するための地図すら作っていた可能性もある
しかも魏(220年 - 265年)は後漢(25年 - 220年)から、地位を平和裏に禅譲された、後漢の継承国
なのに、いまさら
>大陸からの使者へ九州の地理が詳しく漏れるといつか進軍されるから。
もクソもねーわ では九州の多くの弥生時代の遺跡が多く残されてる理由は何なのか?
そこにずっと住み続けていれば、古墳時代のものも出るはずだが弥生時代後期でぱったり途絶えている遺跡が数多くある。
弥生後期には女王の世代交代により影響力が衰えたのかもしれないが、その後の畿内の急速な発展と百済など韓国との交易を考えると
当時の倭人が、韓国や中国情勢の変化により、日本海を防衛ラインとし、都市機能は太平洋側へ安住の地を築いたのではないか。 >>324
勝手に紀伊を含むなよw
畿内説だとそこは狗奴国だろw >>326
その渡来人と思ってるのはあなたの勘違いで、倭人が韓国南部と九州を行き来してただけだろ。
当時は韓国南部も倭人の領有地なんだ。
大陸からの使者は必ず松浦国と壱岐国を通過することを貿易のルールとみてるんだが
あなたの主張はどこの資料を参考にして、九州の地理が大陸に漏れてると考えるの? だから移動するにも牛馬が入って来てからだよ。その前に病気も入って来るけどな。馬を連れてきた連中らが暴れ出したんだろ? 単独では朝貢しても魏に重く受け取ってもらえない伊都国の卑弥呼と〜
朝貢したいがやり方がわからない近畿とかが〜
出会った〜
共立して国の規模を大きくして
朝貢でお辞儀とかしきたりとか知ってる伊都国卑弥呼が女王となり
魏に朝貢して鏡100枚と絹50枚と丹1.5kgもらう
それでは1回目の遣隋使が失敗した話をします 耕作可能な土地の面積
奈良盆地:450km2
河内平野:200km2
福岡平野:250km2
筑紫平野:950km2
中津平野:180km2
宮崎平野:800km2
30万人養うには700km2は必要。 >>310
九州は弥生の在庫で頑張るしかないんだよな
吉野ヶ里、弥生墓も弥生自慢
年代が違いますねで終わり
物証もないし妄想ホラ吹きばかりだから壊滅的 日本書紀に記述がない1回目の遣隋使は隋書にはあって
倭国の政治制度の遅れにより歓迎してもらえなかったと思われる
238年の1回目の朝貢を大成功におさめたのには
昔から後漢などに朝貢していた北部九州のノウハウが役立った >>330
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ、その後200年近く中国と交流を続け、
その長い歴史の過程で、いたるところに渡来人が居住し出歩いて、どこにどんな国があるかをわかっていた、
へたすれば、交易のために渡来人が、玄関口の筑紫から九州の様々な国へ行き来するための地図すら作っていた可能性もある北部九州一帯
ではなく
これまで頻繁に交易なんて出来ず、数回しか行っておらず、ほぼ初めて行く近畿に邪馬台国があった
だから方位も行程時間も、カンで書かれていて正確では無い
ということだ 何で記紀が編纂された時代が分からん人が多いんだろ?
老人だから記憶出来ないのか?
大切な魏志倭人伝とやらに文字が無いとあるだろ
そして、記紀編纂は700年頃だ
400年以上前なんて厳しいんだよ
今で言えば、関が原以前だ。それも文字の無い >>335
ヤマト政権一回目の朝貢については北史に記録がある。
一応国書持っていたようだが、気分を害して読んで貰えなかったらしい。 遣使は、厳しい検察が行なわれ、伝達される。当然返事を待つだろ、1ヶ月も待たされたら、帰るわ。 >>250
九州 少
吉備 中
大阪奈良 大
の比率だからな
九州から離れた方が大きいの気にくわないだろう >>336
だからあなたが言ってる渡来人の資料はどこみればわかるんだよ
それにあなたは筑紫を盛んに強調してるけど、漢の時代や魏の時代の資料に、筑紫の地名はどこに出てくるの? もう、今更九州説は間違いでしたとは認められないんだろうな
歳とり過ぎて
なら、黙って静観してればいいのに
元号が変わった時のサヨクの行動とそっくりww >>310
>また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
>纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず
そんな見解を示してるのは関川氏だけで、他の考古学者は同意してない
Wikiには大多数の考古学者の共通の見解は載ってないが、
九州説論者が恣意的に編集した、たった一人の考古学者の見解だけが載ってる
実際、鉄器はホケノから大量に出ている
http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html
中国鏡に関しては、畿内が独占状態のようなもの
3世紀の九州は中国鏡の取引に関しては、帯方郡から相手にされていなかったことを示す
https://i.imgur.com/JoDxm9x.jpg
(この分布図は古いので若干修正が必要だが、九州が3世紀には中国鏡を入手できなくなっていた傾向は変わらない) >>340
奥山くん、そちらではまだお昼休みが続くのか?w
君は一生お昼休みだっけ?w 3世紀前半、畿内では鉄が流通していなかった。
■魏志韓伝より
國出鐵韓濊倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡
(国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従って
これを取っている。 諸の市買ではみな、中国が
銭を用いるように、鉄を用いる。 また、楽浪、
帯方の二郡にも供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を利用していた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
■推測されること
・畿内は取りに行ってない
・畿内は九州に鉄を分けてもらえなかった
・畿内説によると北部九州に一大率を置いて収税まで
行っていたと言うが、鉄は畿内まで流通していなかった。
■結論
・北部九州と畿内の関係は希薄だった。
・一大率は畿内政権とは無関係だった。
・畿内は鉄が不足していたので海外と交易できなかった。
■関連
纏向では九州産、海外産の土器が出土していない。 九州説論者がよく鉄の出土量を自慢してくる
だが、鉄と中国鏡を同列に考えてはいけない
・鉄は朝鮮半島南部との取引で、魏とは直接関係ない
・中国鏡は帯方郡や楽浪郡との取引
邪馬台国は帯方郡を通じて魏と外交をやっていた国であり、魏との関係を考えるうえで重要度は
『 中国鏡 >>>>>>>>>> 鉄 』
そして九州は3世紀以降、中国鏡をほとんど入手できなくなる
これは九州は帯方郡に相手にされなかったことを物語っている
九州が帯方郡を通じて魏と外交を行っていたとはずというこじつけは全く通らない 他人に指摘されてなるほどと思ったこと。
・記紀に出てくる朝鮮半島の話は百済、新羅、高句麗の話、
つまり大和朝廷は2世紀3世紀のことは知らない。
・邪馬台国と敵対した狗奴国は(文化圏の違う)熊襲ではない。
狗奴国王の卑弥弓呼は卑弥呼と仲が悪いと名指しで書かれている。
つまり個人的な面識と確執がある。また文化が違うとの記述もなく、
同じ文化圏だが政治的対立から連合を離脱したような書き方。 >>345
鉄デマ
鉄遺跡複数出てる
九州からは瀬戸内近畿土器が出てる非対象性
近畿瀬戸内の九州進出を裏付ける物証 >>341
北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている
北部九州一帯は、その長い中国との交流の歴史の過程で、
頻繁に使いを送り、また使いや軍人が渡ってくるなど、半島や大陸と活発に交流していた歴史は200年以上続き
半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土している
つまり北部九州一帯は、いたるところに渡来人が居住し出歩いており、中国は北部九州一帯の、どこにどんな国があるかをわかっている
へたすれば、交易のために渡来人が、玄関口の筑紫から九州の様々な国へ行き来するための地図すら作っていた可能性もある
しかも魏(220年 - 265年)は後漢(25年 - 220年)から、地位を平和裏に禅譲された、後漢の継承国
もしも邪馬台国が九州にあったのならば、対馬から先の行程時間・方角を、間違えるわけがない
200年間の倭との交流により蓄積された、中国の方位や行程時間が、まったく通用しない地方・・つまり
これまで中国が、頻繁に交易なんて出来ず、数回しか行っておらず、ほぼ初めて行くにちかい近畿に邪馬台国があった
ので
対馬から先の行程時間・方角が、カンやたぶんで記述されている >>346
希望的観測乙
畿内出土の銅鏡は4世紀の国産品と判明。
銅鐸を溶かして作った説が最も適合する。 >>347
大和朝廷は2世紀3世紀のことは知らないというよりも
天皇がいかに昔から君臨して日本の始まりであってそれ以前は存在しないという風に世間に知らしめたいと考えたんだと思う。 出土品などから考えると
狗奴国に比定され得る大国は尾張あたりにあったんだろ
伊勢方面はそこを抑える要地だったんかな >>348
畿内説は先住民族の文化を無視しすぎなんだよ。
墓制や土器は先住民たちによって広まるものであり、政権とはリンクしない。
それより、4世紀以降の古墳から阿蘇石が使われ始めるのをどう説明する?
それまでは阿蘇石は手に入らなかった=九州とは無縁だったということだ。 >>345
つまり
魏(220年 - 265年)に朝貢し、240年に「親魏倭王」に任じられた邪馬台国は
そんな未開の地の奈良にあった
だから対馬から先の行程時間・方角・周辺国が、「カン」や「たぶん」で記述されている >>349
方角はそれほどシビアに考える必要はない。
対馬---壱岐ラインを南北と見なせば良い。 >>350
そんなこと、考古学者は誰も唱えてない
九州説がでっち上げた嘘八百だ
ちなみに、>>343の中国鏡分布図には製作地論争が続いている三角縁神獣鏡は含まれていない >>353
一行一行願望が入ってくる
貧しくて教育受けれなかったのの典型だな 鏡は入手主体ではなく配布先が西から東に変わったんだろ 畿内説の勘違いがもう一つ。
奈良は広いと思っている
現実はこれ↓
可住地面積
奈良県 853(km2)
福岡県 2773(km2)
佐賀県 1332(km2)
熊本県 2732(km2) >>357
お前のような朝鮮式教育は受けなかったよw 奈良盆地は中央政府
文字通り本州の中心
北部九州は周辺 >>358
畿内勢力は3世紀前半には北部九州に進出している
したがって、帯方郡から来た人と畿内系住人との直接取引と想定される 朝貢していいものをもらうために
伊都国卑弥呼とヤマト国と東海と出雲と吉備が打算的にくっついた
卑弥呼は伊都国から東に移動して奈良に入るときは
昇る太陽に逆らって進むのは良くないので
太陽に押される形で南から入って
どこかの東征みたいなことをやった
そしてこれが後の大和政権のもとになるのであった 4世紀中頃で消滅した纏向の住民はどこへ行った?
〜2世紀末 唐古・鍵遺跡
〜4世紀半ば 纏向遺跡
4世紀末〜半島人押し寄せる↓
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。 >>362
畿内が九州進出とかw
ヤマト西征説という新説でも出来たのかwww
畿内説の人材不足は深刻だなオイw >>349
あなたは半島や大陸と活発に交流していた歴史は200年以上続いたこととから
あなたはいたるところに渡来人が居住し出歩いてると、そのように想像したんだ?
俺の考えは違う、九州北部と韓国を活発に行き来してたのは倭人で、大陸の使者が大勢移民してきてるわけではない。
使者はあくまで大陸との交易が目的ではるばるやってきており、そのルートは防衛上の理由から限られている。
「当時の情勢は」大陸勢力の機動力は、その地理と戦闘の歴史により、主に川を移動する水軍として発展していて
古代から海に囲まれて海のものを食料としてきた倭人のほうが海を支配していたと考える。
漢の記録から拘邪韓国が倭国の西北端と書かれてることがその根拠ね。
韓国-対馬-壱岐-松浦このルートは倭人が完全に支配していた時代。
したがってその時代には、倭国に対する正確な地図も出てきていない。
俺とあなたの書き込みの違いは、自分の考えのもとになる資料を提示しているのかどうか
すでに根拠を提示してる意見に対して、根拠のない反論をされてもちょっと議論のしようがないんだが。 >>346
それ朝鮮半島北部の高句麗の強大化で中国との通商路を断たれたんだろうに。
ふと思ったが神功皇后の三韓征伐は朝鮮半島南部の勢力下において対馬海峡を聖域化する、
だけでなく中国との通商路を確保も目的にあったのではないかと思える。
広開土王碑に倭国軍は帯方郡(今のソウル付近)まで侵攻してきたとあるんだから。
まあ結果は高句麗にボコボコにされて負けてる。
記紀では高句麗との戦は消して新羅に勝ったことだけ書いて大勝利と大本営発表しているが。
敗戦に軍事的に大ショック受けて馬を積極的に大陸から導入した疑いさえある。
だって広開土王碑による倭国軍侵攻は400年前後、馬の出土は4世紀末から5世紀。 >>365
・神話では東征
・考古学では西進
古代史の常識レベルの知識のはずだが >>359
そんな「中国にとって未開の地」に邪馬台国があったから
対馬から先の行程時間・方角・周辺国が、「カン」や「たぶん」で記述されているんだよ >>368
>考古学では西進
お前の脳内説を語るなw >>287
天皇家は縄文系だからなあ
所謂倭人ではない >>371
日本列島はヤマト王権によって統一されたというのは、義務教育レベルの知識
その動きが3世紀前半から始まっている
九州説は纒向遺跡が3世紀前半というのも認めてないようだから
内輪だけで勝手にしろとしか言いようがない >>351
基本的なことだが大和朝廷は邪馬台国のことを
知らないのか、どうでもいいから書いてないだけなのか、知ってて意図的に隠してるのか? 当初、箸墓古墳は250年頃築造であり、最古の前方後円墳だとか言ってたな。
以下の指摘を受けて現在では280年頃と訂正されている。
この年代だと既に邪馬台国は滅びていたと思われる。
<箸墓古墳最古説について>
しかし全国的には、徳島県の萩原一号墳や
鳥取県南部町の浅井11号墳、福岡市博多区
那珂1丁目の那珂八幡古墳など3世紀の
前方後円墳が多数ある。
近藤義郎によれば、全国の前方後円墳を
築造された時期別に畿内編年の1期から
10期の10段階に分けて整理すると、最も
古い1期でもっとも多いのは
筑前(福岡県北部)で9基、
第2位が播磨(兵庫県)で8基、
第3位が大和で6基、
以下備前、美作、備中、讃岐となっている。
さらに朝鮮には3世紀に石積みながら
前方後円墳が多数ある。
以上から、奈良が前方後円墳の発祥地とは言えない。 >>374
纒向の遺構は3世紀後半から4世紀中葉だろ。
出土品の大半が4世紀のものだ。
つまり纒向が機能していたのは4世紀という事だ。
そして、近くにある箸墓は崇神天皇とすれば時代はピッタリと合う。 北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている
北部九州一帯は、その長い中国との交流の歴史の過程で、
頻繁に使いを送り、また使いや軍人が渡ってくるなど、半島や大陸と活発に交流していた歴史は200年以上続き
半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土している
つまり北部九州一帯は、いたるところに渡来人が居住し出歩いており、中国は北部九州一帯の、どこにどんな国があるかをわかっている
へたすれば、交易のために渡来人が、玄関口の筑紫から九州の様々な国へ行き来するための地図すら作っていた可能性もある
しかも魏(220年 - 265年)は後漢(25年 - 220年)から、地位を平和裏に禅譲された、後漢の継承国
もしも邪馬台国が九州にあったのならば、対馬から先の行程時間・方角を、間違えるわけがない
200年間の倭との交流により中国に蓄積された、倭国内の方位や行程時間が、まったく通用しない地方・・つまり
これまで中国が、頻繁に交易なんて出来ず、数回しか行っておらず、ほぼ初めて行くにちかい、中国にとって未開の地の近畿に邪馬台国があった
から、対馬から先の行程時間・方角・周辺国が、「カン」や「たぶん」で記述されている 大和朝廷成立の謎は絶対に解いてほしい課題。
宮内庁は天皇家が万世一系じゃないことをバレるの恐れて
意図的に天皇陵指定の古墳を発掘させないでいるとの疑いを持つ。 >>379
その次元の話ならさあ、こないだのTBSでも見てりゃよかったのに。 >>378
コークリ君だな
それ捏造バレて、Wikipediaから削除されたデタラメ記事だ
しかもWikipediaにその嘘記事を書いたやつもアク禁 >>380
まさかとは思うが崇神天皇あたりは東海地方勢力が大和朝廷建ててて
神功皇后と応神天皇あたりで九州勢力がクーデター起こして王家を乗っ取った、は無いか。 >>383
お前の話こそ精神論の域を出ていないんだけど >>384
どこから高句麗が出てくるんだ?
漠然と最古の前方後円墳だと表現したから突っ込まれたのであって、
後に「定型化された中で最古」という表現が適用された。
差し替えられた文章↓
「遺跡内に所在する箸墓古墳は、一般的に、定型化した前方後円墳の始まりとする説がある。
寺沢薫は、纒向石塚古墳など箸墓古墳に先立つ纒向古墳群に属する墳丘墓を「纒向型前方後円墳」の
概念を用いて捉え、これらを出現期古墳に位置づけている。」 北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている
北部九州一帯は、その長い中国との交流の歴史の過程で、
頻繁に使いを送り、また使いや軍人が渡ってくるなど、半島や大陸と活発に交流していた歴史は200年以上続き
半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土している
つまり、邪馬台国が240年に「親魏倭王」に任じられた時にはすでに
北部九州一帯は、いたるところに渡来人が居住し出歩いており、中国は北部九州一帯の、どこにどんな国があるかをわかっている
へたすれば、交易のために渡来人が、玄関口の筑紫から九州の様々な国へ行き来するための地図すら作っていた可能性もある
しかも魏(220年 - 265年)は後漢(25年 - 220年)から、地位を平和裏に禅譲された、後漢の継承国
もしも邪馬台国が九州にあったのならば、対馬から先の行程時間・方角を、間違えるわけがない
対馬から先の行程時間・方角・周辺国が、「カン」や「たぶん」で記述されているということ自体が
200年間の倭との交流により中国に蓄積された、倭国内の方位や行程時間が、まったく通用しない地方・・つまり
これまで中国が、頻繁に交易なんて出来ず、数回しか行っておらず、ほぼ初めて行くにちかい、中国にとって未開の地の近畿に邪馬台国があった
という証明である 邪馬台国と大倭の二個あったでええやないかなんで卑弥呼に拘るん >>1
20点が3世紀後半〜4世紀中ごろの近畿中央部系の「庄内式・布留(ふる)式土器」の破片ということは、庄内式が終了するのは、早くても3世紀後半なのだな、 >>214
宋本魏志倭人伝の邪馬「壱」國は原資料の「臺」を「壹」と見間違い、書き間違って、誤刻したもの。
宋本魏志倭人伝より先に書かれた
『後漢書』倭伝が陳寿没後約150年後魏志倭人伝を最初に引用加筆したもので「邪馬臺国」、
7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、
7世紀の『隋書』では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」
【靡】は「麻」と「非」の合体した漢字で1039年に作られた科挙試験のための正字と正音を定めた【集韻】という勅撰韻書に「莫加切」,音は「麻」と同じと書かれていて
「邪靡堆」はYamatooiと読める。
唐代の『北史』四夷伝には「邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」、魏志に所謂(=いわゆる)邪馬「臺」。
『太平御覧』は10世紀に書かれたもので宋本魏志倭人伝より古く「邪馬臺国」
「邪馬壱國」は妄想歴史推理作家の古田武彦が印刷の美しい宋本魏志倭人伝を見て吹聴したもので誤読と確定してる。 >>376
当時の大和朝廷がどこまで詳しく知ったかなんて知る由もないけど、
分ってるのは神話で日本が始まったとにしたということだけ
大和朝廷の始まりをどのようにすれば権威をもって国をまとめることができるのか考えて作られたのがこの神話だとすれば
普通は、いかに他国の侵略と戦闘に打ち勝って巨大な領土と権力を持ってる英雄でことを強調することが多いのに日本は違う
だとすると、少なくとも激しい領地の奪い合いの末の統一ではなかったんじゃないかと思える。
意図的に隠すとかどうかというよりも、大和朝廷の権威を高め、国を治めるためにそうしている。
意図的に隠していることに変わりはないが、存在を消し去るのが目的ではないと思う。 >>389
だからそういう何のエビデンスも無く主観的意見を
いくら述べても想像論にしかならないぞ、と。 畿内説は>>364のとおり、纏向住人の引っ越し先を提示してくれ >>385
それで天武がクーデター起こしてまた東海が取り返し、最後は関東の中臣にやられた 邪馬台国に紐付たいなら3世紀前半に的を絞るべき。
おおよそだが、倭国大乱〜卑弥呼が女王即位するのは2世紀末までの間と考えられる。
よって女王国としてのピークを迎えるたのは3世紀前半まで。
3世紀後半はまた倭国は乱れ1000人以上の死者が出ている。
台与が女王に即位して一旦は落ち着いたが邪馬台国は既に衰退期、
もしくは消滅していた可能性が高い。
※朝貢の記録から女王の文字が消えている >>396
壬申の乱で天武天皇は東国勢力のバックで皇位継承争いに勝ったよね。
中臣=藤原って関東?新羅系の帰化人の子孫じゃなかったっけ? >>397
邪馬台国が魏と外交をやっていたのは、239年〜247年
晋との交流も含めるなら、239年〜266年 >>397
そういや新羅本記だったかな?
2世紀に卑弥呼女王が訪問してきたと書いてあるよな? >>394
エビデンス?
北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている
北部九州一帯は、その長い中国との交流の歴史の過程で、
頻繁に使いを送り、また使いや軍人が渡ってくるなど、半島や大陸と活発に交流していた歴史は200年以上続き
半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土している
つまり、邪馬台国が240年に「親魏倭王」に任じられた時にはすでに
北部九州一帯は、いたるところに渡来人が居住し出歩いており、中国は北部九州一帯の、どこにどんな国があるかをわかっている
へたすれば、交易のために渡来人が、玄関口の筑紫から九州の様々な国へ行き来するための地図すら作っていた可能性もある
しかも魏(220年 - 265年)は後漢(25年 - 220年)から、地位を平和裏に禅譲された、後漢の継承国
すべて事実だぞ? >>401
想像を省けよw
「北部九州一帯は、いたるところに渡来人が居住し出歩いており、中国は北部九州一帯の、どこにどんな国があるかをわかっている
へたすれば、交易のために渡来人が、玄関口の筑紫から九州の様々な国へ行き来するための地図すら作っていた可能性もある 」 >>400
178年だね。
2世紀時点ですでに女王として何らかの活動をしていた模様。 >>403
この時代なら公孫氏へ朝貢していたんじゃないかなと思われる。
公孫氏を平らげると、その女王は魏に朝貢してきたという記録もあるからね。 纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、
また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが
まったく出土していない
つまり、中国にとって未開の地
魏から使いや軍人が渡ってくるなど交流していたが
対馬からたどり着くまでの、方位や行程時間が
魏からの使者には、まったくわからず
カンで南に行ってるとか、東に行ってるとか、何里あるとか
しか記述できない
一方
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている北部九州一帯は、
その長い中国との交流の歴史の過程で、大陸に頻繁に使いを送り、また大陸から使いや軍人が渡ってくるなど、
半島や大陸と活発に交流していた歴史が200年以上続き
半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土して
活発な半島や朝鮮との交流が証明されている
つまり、中国にとって勝手知ったる倭国の地
邪馬台国が北部九州一帯だったらば、魏からの使者には、
対馬からたどり着くまでの、方位や行程時間は、バッチリわかり、間違えるわけがない 纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、
また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが
まったく出土していない
つまり、中国にとって未開の地
邪馬台国が奈良にあり、魏から使いや軍人が渡ってくるなど交流していても
対馬からたどり着くまでの方位や行程時間が、魏からの使者には、まったくわからず
カンや当てずっぽうで、南に行ってるとか、東に行ってるとか、何里あるとかしか記述できなくて当然
一方
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている北部九州一帯は、
その長い中国との交流の歴史の過程で、大陸に頻繁に使いを送り、また大陸から使いや軍人が渡ってくるなど、
半島や大陸と活発に交流していた歴史が200年以上続き
半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土して
活発な半島や朝鮮との交流が証明されている
つまり、中国にとって勝手知ったる倭国の地
邪馬台国が北部九州一帯だったらば、魏からの使者には、
対馬からたどり着くまでの、方位や行程時間は、バッチリわかり、間違えるわけがない
結論
邪馬台国は奈良 >>406
お前の言いたいことは3行で十分だろw
「北部九州は大陸との付き合いも長く渡来人もいたので、
ココまでの道のりは間違える訳がないが、邪馬台国は
滅多に行かない場所なので、方角を間違えた。」
だからあ、間違えたという根拠を示せよとw >>408
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている北部九州一帯との交易を、
200年間以上も取り締まっていた中国の役人
ならば
なおさら
北部九州一帯には、どこにどんな国があり、どこにどんな大陸からの渡来人の集団がいるのか
は【バッチリわかっていた】だろう >>407
>対馬からたどり着くまでの、方位や行程時間は、バッチリわかり、間違えるわけがない
間違えてないらしいよ。
中国古代の漢文は古代中国の世界観を
知識として持ってないと読めないらしいよ。
高校で習った漢文の知識だけじゃ無理ぽい。 >>407
しかし九州は肝心の後漢後期の鏡が出土せず、近畿から出土するという >>409
?
間違ってるから邪馬台国がどこなのかわからない
んだろ? >>410
いや三国志より後に書かれた後漢書とか
見ても魏志倭人伝のパクリやし、
漢代の記録とかあんまり無かったんやない? >>413
間違えるに至った理由を、君の主観的想像で
語るのではなく、たとえば事例を文献で示すとか、
方角の認識を間違えた地図などを提示しなきゃなw
以前、畿内説は後者を提示したが、それ自体が合成地図
だと判明し、本物は正常な方角で描かれていた、
というオチだった。 >>398
自分らが鹿島だって言ってるからして
春日大社は鹿島から勧請したと言ってるからして 隋の時代でも倭人は里を知らなかった。
「夷人不知里數但計以日」
水行陸行の日数は倭人が「里」の代わりに
「日」を使って説明した記録かもしれん。
中国での発音はどちらも「リ」だからなあ。 >>408
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている北部九州一帯との交易を、
200年間以上も取り締まっていた役人の知識は
後漢(25年 - 220年)から魏(220年 - 265年)に平和裏に禅譲されたことにより、魏にも引き継がれている
北部九州一帯には、どこにどんな国があり、どこにどんな大陸からの渡来人の集団がいるのか
は【バッチリわかっていた】だろう >>415
やれやれ
九州説厨はとうとう
『魏志』倭人伝の方位や距離、時間は間違っていない
なんてトンでも理論を言い出したのか(笑) 後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている北部九州一帯との交易を、
200年間以上も取り締まっていた後漢の役人の知識は
後漢(25年 - 220年)から魏(220年 - 265年)に平和裏に禅譲されたことにより、魏にも引き継がれている
なので魏の役人にも
57年に「漢委奴国王」に任じられている北部九州一帯には、
どこにどんな国があり、
どの方位にどれだけ行けばどんな国にたどり着けるのか
どこにどんな大陸からの渡来人の集団がいるのか
は【バッチリわかっていた】だろう
なのに、『魏志』倭人伝の行程では邪馬台国にたどり着けない
ということは
邪馬台国は、九州にはなかった
ということである >>406
ほーこれは興味深いね
そういえば倭人がいるとされた韓国南部には、南に追い詰められた馬韓の辰王の末裔がいたらしいし、
ということは漢の差す倭人というのはは大陸系の渡来人種で北部九州から韓国南部を支配し邪馬台国を築いて九州に文明をもたらしたというこだな。
というか、古い時代から韓国南部を含む海を支配していた人種なんだから、大陸系の遺伝子は含んでてもおかしくはないな。
あなたは漢の役人の骨だと思い込んでるみたいだが。 >>419
だからその、
「倭人伝の方位や距離、時間は間違っている」
ことを証明しろよw
それが出来ない限り
「倭人伝の方位や距離、時間は間違っていない」
という前提で調べるしか無いだろ?
そもそも当初は転写ミスだと言われていた話だがな。 畿内教信者の知能が予算と連動しているあたり、やはり宣伝係は非正規なのだろうか?w
時給いくら?w >>382
近畿日本が九州倭国から神武を雇い店長として雇って頭に据えた。
そして神武が征服したことにした。
その捏造話しを載せたのが記紀。
こういうこと。 正論おじさん
「畿内説は否定証明完了済み」であることを説明せよ
>その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。
その道のりを計算すると、まさに会稽、東冶の東にある。
>有無する所は?耳、朱崖と同じ。
持っている物、いない物は?耳、朱崖(中国海南島?)と同じである。
>倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。
>倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。
>或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。
倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、
離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。
魏志倭人伝で沖縄、台湾あたりにあると思われてそうなとこ まず博多湾から南と書いてあるのに東の出雲を
投馬国だと言い出したのは誰なんだ?
その根拠が日本を縦に記載した地図だったならば、
それが否定された現在、東を南扱いする理由は
存在しないよな。
改めて、日本を縦に記載した地図のような方角
間違いの根拠を示さなければ、現時点の畿内説は
すべて無効ですよ。 >>430
>会稽、東冶の東
会稽東冶の東と記載されている地域は、
ちょうど九州のあたりです。
「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf 畿内説は完全に死に体だね
もう、毎日変態新聞くらいしか味方はいない
じゃね?w 何でもかんでも邪馬台国を出してくる近畿の考古学者なんて死ねばいいのに >>429
ああ正論だって認めるんだww
何語るに落ちてんのお前wwww
邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
>>278
それは行程記事の戸数そのままに、奈良時代の1戸あたりの人数10人を掛けた数字。
それだと博多湾だけで人口20万人になったり、畿内だけで70万人になったりと、
現代並みの人口密度となり、とても説明がつかない数字になる。
なので10倍程度の戸数盛りを勘案しないと辻褄が合わない。 >>422
邪馬台国が九州だと「倭人伝の方位や距離、時間は間違っている」
「倭人伝の方位や距離、時間は間違っていない」のならば、邪馬台国は九州では無い 後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている北部九州一帯との交易を、
200年間以上も取り締まっていた後漢の役人の知識は
後漢(25年 - 220年)から魏(220年 - 265年)に平和裏に禅譲されたことにより、魏にも引き継がれている
なので魏の役人にも
57年に「漢委奴国王」に任じられている北部九州一帯には、
どこにどんな国があり、
どの方位にどれだけ行けばどんな国にたどり着けるのか
どこにどんな大陸からの渡来人の集団がいるのか
は【バッチリわかっていた】だろう
なのに、
邪馬台国が九州で、『魏志』倭人伝の行程・・では邪馬台国にたどり着けないどころか
行き着く先は海
ということは
邪馬台国は、九州にはなかった
ということである >丗有王 皆統屬女王國
>郡使往來常所駐
代々、王が有り、みな女王国に従属している。
使者が往来し、常に足を止める所である。
>自女王國以北 特置一大率檢察
>諸國畏憚之 常治伊都國
女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し、
諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。
>王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露
>傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行くとき、
及び帯方郡の使者が倭国へやって来たときには、
いつも(大率が)港に出向いて調査、確認する。
文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、
数の違いや間違いは許されない。
伊都国には代々王がいて卑弥呼に忠実であるように感じる
卑弥呼が伊都国出身の王族の巫女で
奈良に引っ越して共立の女王になってた場合は
伊都国がヤマトに従ったのは説明できる >>398
壬申の乱の時、尾張氏は天武天皇に味方している。
天智天皇に草薙剣を取り上げられた恨みがあったのかもしれない。 >>439
本当に日本人か?
5chでは自由に語って構わないが両説の分岐点はこれだぞ?
九州説・・・陸行一月は一日の転写ミス。
畿内説・・・南は東の転写ミス。 >>434
畿内説推進してるのが毎日新聞の元記者だからなw >>442
畿内説は方向が90度違うって主張だけで全部解決みたいな態度とるけど
それでもルートが全然成立してないのがなんとも >>442
単純に
対馬から邪馬台国へ行くために、中国の使者が上陸した、日本の上陸地点は
それまで
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた国へ対馬から行くために利用していた
壱岐や筑紫地方ではなかった
対馬から邪馬台国へ行くために、中国の使者が上陸した、日本の上陸地点は北九州では無い
って話なだけ >>444
しかも、投馬国と邪馬台国の2カ所だけが
「南」→「東」の間違いというのも無理がある。 対馬から邪馬台国へ行くために、中国の使者が上陸した、日本の上陸地点が
それまで
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた国へ対馬から行くために、200年間も利用していた
壱岐や筑紫地方と同じ
ならば、筑紫地方からの道順、方位、時間を、中国の使者が間違えるわけが無い
対馬から邪馬台国へ行くために、中国の使者が上陸した、日本の上陸地点は北九州では無い
って話なだけ >>445
もうちょっと勉強してきなよ。
少なくともここに書き込んでる連中には
相手にして貰えるレベルじゃないぞ。 >>446
何言ってんの?
倭人伝の方角なんて、九州上陸後は全部間違ってんじゃん
対馬から壱岐も文献によってバラバラ 魏志倭人伝の邪馬台国の方角を南としてわざわざ会稽東冶の東にあるとしたのは呉を牽制するため
呉の背後に魏の同盟国があると思わせるためだ >>448
勉強するのはおまえだ(笑)
対馬から邪馬台国へ行くために中国の使者が上陸した、日本の上陸地点が
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた北九州の国へ対馬から行くために、200年間も利用していた壱岐や筑紫地方と同じで
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた国とおなじ北九州に邪馬台国がある
ならば
筑紫地方から邪馬台国への道順、方位、時間を、中国の使者が間違えるわけが無い
対馬から邪馬台国へ行くために中国の使者が上陸した、日本の上陸地点は北九州では無く
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた国とおなじ北九州に邪馬台国は無い >>442
>畿内説・・・南は東の転写ミス。
これも違う
九州説のやつってデタラメ畿内説を捏造して、それを批判するよな
自作自演の論破ごっこで、勝ったと言い張りたいんだろ >>442
九州説・・・陸行一月は一日の転写ミス。
↑
そう考えるに足る十分な理由がある。
畿内説・・・南は東の転写ミス。
↑
理由無し。 >>450
古ネタw
魏志倭人伝が書かれた時代には魏も呉も存在しないんだが?w >>450
中国は57年に、北九州の国を「漢委奴国王」に任命し
それから200年間も、壱岐や筑紫地方に上陸して、使いや軍人を北九州に派遣している
その北九州に邪馬台国があれば、隠すもなにもねーわ >>457
三国志がどういう作り方をされたか知らないんだな 十日だの二十日だの書いておいて、三十日だけ一月と書くことは
駢儷文の観点から言って100%無い。
陸行一月は明確に移し間違い。 >>447
漢や魏から交流してた使者の記録がいくつか残ってて、3世紀末期に一つにまとめられたといわれてる。
そのとき邪馬台国の様子を詳しく描写してあるが行程がおおざっぱなものに、別の時代の行程記録を継ぎ足したと考えられる。
どのような組み合わせなのか、諸説あるだろうけど、行程の記録は最初と最後のほうは一貫していない。 >>442
九州説・・・陸行一月は一日の転写ミス。
↑
そう考えるに足る十分な理由がある。
畿内説・・・南は東の転写ミス。
↑
理由無し。ただの妄想。 またそもそも陸行一月する場所が地理的に存在しない。
三世紀などと言う時代には、川にはロクに橋がかかっていない。
また本居宣長が近畿説を否定した根拠の一つでもある。
この当時は近畿に行くには瀬戸内海を海路で行くのが当然だったから。 >>34
それは根拠のない悪意の吹聴な
昔にもおもえのような人間がいたってこと >>449
>対馬から壱岐も文献によってバラバラ
魏志倭人伝と隋書倭国伝は渡海のルートがだいぶ違ってる
魏志倭人伝では朝鮮半島の南端の狗邪韓国から出航して南に南に航行
隋書倭国伝では朝鮮半島の南西端の竹島から出航して東に東に航行してる 梁書は魏志倭人伝をそっくりパクって倭人条を作っているが、
そこでは陸行一月日となっている。
この当時すでに陸行一月と陸行一日の二つの写本が有ったのだろう。 >>466
つまりだ邪馬台国は
対馬から邪馬台国へ行くために立ち寄る島も、日本列島の上陸地点も
中国が57年に、北九州の国を「漢委奴国王」に任命してから200年間も使用していた、壱岐や筑紫地方では無く
対馬から、壱岐以外の島に立ち寄り、筑紫地方以外に上陸して、使いや軍人を派遣する、九州では無い場所にある国だった
のさ >>470
だから何?
時代が異なろうが、対馬も壱岐も同じ場所にある >>437
だいたい10人家族に1人ぐらいが徴兵の対象だったよね >>474
文献によってバラバラと言うが航路が全然違うんだから記述が違って当たり前という話
https://i.imgur.com/NXe4ecb.png 南に敵国がある事、卑弥呼の死後に内乱が発生して約千人が死んでいる事も忘れるなよw >>468
そんな馬鹿な。
だったら、出雲と畿内(三輪山)はどうやって交流してたんだよ。 つまりだや、大陸から倭国へ使いや軍人が渡る場合
帯方郡 ー 韓国 − 対馬國 ←ここまでは共通で
そのあとの行き先が
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた北九州の国の場合は
対馬國 − 一支国(壱岐)−竹斯国(筑紫)
魏(220年 - 265年)から240年に「親魏倭王」に任じられた奈良の邪馬台国の場合は
対馬國 − 一大国(隠岐か沖ノ島)− 末廬国(松江)− 伊都国(出雲)
っつーこった つまりだや、大陸から倭国へ使いや軍人が渡る場合
帯方郡 ー 韓国 − 対馬國 ←ここまでは共通で
そのあとの行き先が
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた北九州の狗奴国の場合は
対馬國 − 一支国(壱岐)−竹斯国(筑紫)
魏(220年 - 265年)から240年に「親魏倭王」に任じられた奈良の邪馬台国の場合は
対馬國 − 一大国(隠岐か沖ノ島)− 末廬国(松江)− 伊都国(出雲)
っつーこった つまりだや、大陸から倭国へ使いや軍人が渡る場合
帯方郡 ー 韓国 − 対馬國 ←ここまでは共通で
そのあとの行き先が
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた北九州の狗奴国の場合は
対馬國 − 一支国(壱岐)−竹斯国(筑紫)から
魏(220年 - 265年)から240年に「親魏倭王」に任じられた奈良の邪馬台国の場合は
対馬國 − 一大国(隠岐か沖ノ島)− 末廬国(松江)− 伊都国(出雲)から
っつーこった >>411
高校で習った漢文の知識プラス
中国でしか使ってない漢字
日本と中国で意味や使い方の違う漢字を覚えれば読める。
和臭=日本流の漢字の使い方を排除した
全訳漢字海という漢和辞書が役に立つ。
あと魏志倭人伝などは上古音と隋唐音の間の日本の漢字の呉音漢音の知識では
空白部分を穴埋めするのが記紀万葉風土記の万葉仮名(≒当て字)の知識が役に立つ。
ttp://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/1ran.htm
例えば天皇の古い呼び方で「おおきみ」というのが有るが
万葉集では「於保支見」と書いている。
魏志倭人伝に「一大(元々の>丈>大)国>一支>壱岐」「一大(=支)率」
「到伊都國 官曰爾支」なんてのが出てきても
こういう「支」は万葉仮名の知識があれば「支=キ」と読める。
「壱岐」の「岐」は元の「支」が鮮卑、羯・氐・羌など北狄と呼ばれた五胡十六国に
よって中原が蹂躙されると混血によって後漢以来の漢字の発音も変化して
「支」はもはや「キ」とは発音されないので「岐」と書くようになった。
オマイラ新しい年号「令和」が万葉集から採られたのを機会に
漢字原文の入った万葉集を読め。 >>474 航路は時代によって変わるだろうね
この時代の最大の事件は、群雄割拠だった瀬戸内海が平定され、一躍、安全航路になったこと >>476
その航路は立証されてるのか?
方角が正しいと言い張りたいから、創作した航路だろ?
ちなみに、3世紀の壱岐の中心は原の辻遺跡だから島の東側を通る
明らかに間違ってるんだよ >>473
まだ寝言書いてるのか
当時に帆船有ったのかよ 少しは脳みそ使って書け
おまえ何か月も前とまるっきり同じこと書いてるぞ
ワロタわ >>485
べつにこうでもかまわんよw
https://i.imgur.com/wkiechb.png
出航した場所、到着した場所が全然違うんだから記述がバラバラなのは当然という主張に変わりはない >>486
帆船なんかなくても沖ノ島経由で大陸と交易してたの知らないの?
バカだから?
つまりだや、大陸から倭国へ使いや軍人が渡る場合
帯方郡 ー 韓国 − 対馬國 ←ここまでは共通で
そのあとの行き先が
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた北九州の狗奴国の場合は
対馬國 − 一支国(壱岐)−竹斯国(筑紫)から
魏(220年 - 265年)から240年に「親魏倭王」に任じられた奈良の邪馬台国の場合は
対馬國 − 一大国(隠岐か沖ノ島)− 末廬国(松江)− 伊都国(出雲)から
っつーこった >>449
末露国から伊都国は名護屋港から井原だから
東南の方向。
他はそのまま。 >>486
そいつ何ヶ月も前からおるんかい?w
初心者かと思ったw >>488
おおおおおお それはすげぇな是非ソース頼むわ
1975年の野生号でさえ曳航されないと渡れなかったほど
対馬海流は速いんだよ
3世紀でそれを克服してたんだな 頼むぞソース >>490
なんかね議論した記憶あったから過去ログめぐったら
6月最初でもあったし 4月でもあった
たぶん他の日でも同じこと書いてるよ
一字一句同じだからw >>487
倭人伝も含めて古代の文献の方角なんて、当てにならないということだ >>493
きっと畿内説が開発した自動書き込み器だなw >>494
ということにしないと近畿までたどり着けないもんなw
九州北部から奈良までのルートも説明できないのも魏志倭人伝が嘘っぱちだからだろ?
もう近畿説は邪馬台国なんかなかったでいんじゃねーの? つまりどういうことだってばよ!
熊襲がからんでるってことか?! >>492
あれ?おまえ以前は隠岐だったのに沖ノ島に変えたのか?w
沖ノ島ならあったりまえだろ >>14
引きこもりのお前の精子ティッシュが100キロ離れた場所で見つかった、と考えろ
つまり、そういうことだ、やべーだろ? >>491
横レスだが、対馬暖流を航路に、北陸と沖縄の間で交易やってたよ
日本海航路は縄文時代からある古いルートだ
再現実験の詳細をご存じなら、帆船だったかカヌーだったか調べてみて?
縄文時代の、大木をくりぬいたカヌーなら、普通に往来できていた
参考までに、ヤップ島から日本への大型カヌー渡航実験は成功しているね 日本海航路が衰退したのは、
神武東征で瀬戸内海が安全航路となり、需要が移動したからです
それまで、畿内への往来は日本海経由で、瀬戸内海の通行は困難でした
これが神武東征で開通し、畿内の穀倉地帯ヤマトが、覇権国家として台頭するんですね >>417
倭人が里という単位を知らず日で距離を測ってるというけど、
女王国の東を海を越えること1000里に和種の国、
その南かつ女王国から4000里のところに小人の国の侏儒国があるという。
もしかして中国人でここまで行ってる人いるの?
侏儒国からは南東に水行1年の黒歯国や裸国。ここは中国人は行ってないが倭人は行き来があるらしい。 >>488
まず
狗奴国:南→西
邪馬台国:南→南
のご都合主義をなんとかしなよ。
畿内説じゃなくて阿波説にすればまだマシ。 >>502
存じてますよ〜
さっきの奴の論はね隠岐から対馬に渡る航路が
有ったってことになってたんだよ >>498
沖ノ島は時の大和朝廷と朝鮮半島を結んだ海の道「海北道中」の中間地点に位置し、
韓国の釜山までも145キロメートルしかなく、
遣隋使や遣唐使も島を目印として大陸に渡海した記録が残る
その信仰を担い育んだ宗像氏は
出雲6代主王の息子、吾田片隅(アタカタス)を祖とする
サヌカイトより強力な隠岐の黒曜石は広く山陰地方一帯の縄文遺跡に分布し、東は能登半島、西は朝鮮半島にまで及ぶ。 >>502
饒速日一行はミクロネシアかポリネシアからカヌーを漕いで
うまく黒潮に乗って紀伊水道あるいは伊勢湾から大和入りした。
神社建築が高床なのはインドネシアやマレー半島と古代日本が交流があったから。 >>507
だから沖ノ島ならあったりまえだっつうの
今度は世界遺産からコピペか?
ちぃったぁ自分の知識で文かけよな
引用したなら引用元も書け >>506
隠岐から対馬に渡る航路は、もともとは、出雲主王が利用していた航路で
航海を担っていたのは、宗像氏の祖先で
サヌカイトより強力な隠岐の黒曜石は広く山陰地方一帯の縄文遺跡に分布し、東は能登半島、西は朝鮮半島にまで及ぶ
その後、奈良の邪馬台国に国譲りをされ
隠岐から対馬に渡る航路は、邪馬台国が利用することとなり
魏(220年 - 265年)から240年に「親魏倭王」に任じられるきっかけとなった >>509
あのなぁ
沖ノ島は、宗像氏の祖先の出雲王が
隠岐の島から対馬に渡る航路の重要な目印だったの まだ言ってんのか 沖ノ島は対馬に渡る(逆も同じ)目印つうのはかまわんが
隠岐からどうやって沖ノ島までたどり着いたんだよ
まず船と人数と水、食料、それと一番大事な進路は
海の真っただ中なんだがどうやって決めてたんだ? で出土品等の遺物から考えて当時の畿内は邪馬台国や狗奴国や
その他色々な国々が存在出来る規模を有していたのか
それに遺物から考えると当時九州には大勢力があったんだが
シナから倭王に封ぜられるにはシナに認められなければならないので
九州勢力に匹敵しなければならないんだけども
当時の畿内にはそれだけの力があったのか 二郡陥落あたりから半島が荒れて壱岐から沖ノ島ルートに変わったのは
原の辻から判明してるよ。
二郡陥落の時期だと邪馬台国消滅→沖ノ島ルートも納得できる。 隠岐から対馬に渡る航路の何が問題なの
対馬・壱岐は交易で食ってたって書かれていること
それ自体を否定してるのかな 今度もこれか?
193 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2019/06/12(水) 01:47:23.23 ID:bx/rlQ4F0 [15/47]
>>192
おまえが考えている以上に発達していたんだよ 大和朝廷が奈良で成立してから奈良には急激に朝鮮半島からの移民が増えだしたのは
どうしてなんだろうか? >>467
陸行が1月って違和感ある。長すぎる
絶対1ヶ月も歩き続けるって無理だろ
どっかの国に寄るだろ >>517
統治ノウハウを得るため、大陸や半島の役人の天降りを受け入れたんだろう。 >>517
伽耶諸国が北から押し出されて列島に渡って来たとかあったりして >>515
南北の交易で食ってると書いてる
東はない >>521
二郡が陥落した時に、かなりの数の半島人と漢人が
壱岐経由で列島に来た痕跡があるから、多分それ。 >>521
半島から難民が九州にたくさん来たらしいね
多すぎて関東に移住させたけど、それでも来るから追い返したらしい 熊野灘スレなのに、なんで玄界灘のことばっかりなんだw
熊野を語れよ熊野を。 >>435
お前ら糞チョンがさっさと舌噛んで死ねやゴミ >>526
何語るんだよ 那智の滝くらいしか知らんぞw >>528
俺も知らんw
那智の黒飴くらいかなあ。 毎日のバカ記者が毎回邪馬台国の最有力候補地って
書いちゃうからw
狗奴国が熊野って説はこれで消えるんじゃ? >>517
関西に百済郡があったのは大和が百済系だからかな?
高麗郡、新羅郡は関東なのに。 >>530
まぁ邪馬台国ネタで熊野出てくるのは神武のカラスくらいしかないしな
世界遺産で語ればきっといろんなのあるんだろうが、勉強してねぇから
何も知らんからなw 三重県大紀町って地図で見てみたけど、熊野灘関係あるのこれ
熊野灘
約150年の周期で繰り返し発生しているプレート境界地震の
震源域にあたる。過去の災害ではとくに津波の被害が甚大である。
うーん まぁ、倭人伝には鬼国としか書かれてないから
情報が少なすぎるね >>531, >>534
邪馬台国九州説にとっては、熊野とか1mmも関係ないしなw
それを離れたら、>>534の八咫烏とか、あと手前味噌だが>>86のスサノオとか
いろいろ興味深い気もするのだ。 >>535
おお、初めて地図を見たが、海岸線短いなw
いちおう熊野灘ではある。 >>488
忙しいところをすまぬが
>後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた北九州の狗奴国の場合は
対馬國 − 一支国(壱岐)−竹斯国(筑紫)から
この引用元も何なのか頼むわ
一応探してみたけど探しきれんかったわ 熊野で興味深いのは
南海浄土へ 帰らぬ船出(日経新聞)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO30250240Z00C18A5960E00/
中国なら東に仙境だから、東に船出
何百年・何千人の船出があったら、列島にたどり着く人もいたろうかとか >>542
補陀洛渡海で、なぜか琉球列島にたどり着いちゃった人も居るんだよね(日秀上人)。
黒潮を遡行するとは考えにくいから、北太平洋を一周回ったのかも知れない。
ともかく琉球にたどりついて、だから沖縄県の神社は今でも熊野系なんだと。 >>542
平成たぬき合戦で見たな、と思ったら
あれって正にこれだったのね。 >>441
天武天皇自体が大海氏に育てられた海部系の天皇だから
名前も大海人だから たぶん天武は蘇我系の天皇だと思うが
蘇我氏も海洋系の匂いぷんぷんだから
皇子や皇女の名前の付け方が海関係ばかりだから 天武は霧島
飛鳥天皇御世 癸卯年十月十四日 蘇我豊浦毛人大臣児入鹿臣■■林太郎 坐於伊加留加宮 山代大兄及其昆第等 合十五王子等悉滅之也
庚戌春三月 學問尼善信等 自百済還 住櫻井寺 今豊浦寺也【初櫻井寺云 後豊浦寺云】
曾我大臣云 豊浦大臣云云
蘇我氏は豊浦
豊と温羅に関係が深いのかな、ウラだし百済系かな 近畿王朝は伽耶王朝で間違いない。
日本書紀には任那日本府の記述があるが
この日本書記で書かれる日本府という呼称は大陸史書では旧唐書以前の時代に引用されている。
小国が倭を併合した記述も伽耶なら合致する。
そもそも伽耶は小国で半島南部に存在した国
旧唐書の倭人の言い訳記述は伽耶人と置き換えれば自然に解釈できてしまう。 >>519
魏志倭人伝は魚豢の書いた魏略をコピペしたんだから
陳寿の知ったことじゃない
架空の旅行記なんだから
公孫淵を征伐した行軍が四千里百日で
郡から邪馬臺国まで万二千里で
地図で見ると大差ない距離で
出張旅費稼ぎの小細工だから全然どうでもいい。
短里、超里なんて魏書(魏志は俗称)では断り餓鬼など無いから
九州説は騙され易いw
全ては推理小説作家古田武彦の朝鮮人並の妄想による
直木賞狙いの大衆小説が原因wwwww >>528
高校生ほどの常識もないオマエも下感で信恵や >>547
別に豊浦に限らないし
嶋大臣もいるし、尾張皇子もいるし この方向音痴どもが!
邪 馬 台 国 へ よ う こ そ
■廣志逸文の記述
廣志曰く、倭國東南陸行五百里、
到る伊都國、又南、至る邪馬嘉(臺)国。
https://imgur.com/bmslFbs
■アクセス
伊都国の南 徒歩すぐ 纏向こそ西日本を制するヤマト王朝ニダー!
■纏向遺跡出土土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1% >>550
日本語不自由なら無理して書くな、なチョン 閉 店 の お 知 ら せ
■回覧板
ソース:読売新聞YOL 21.11.2018
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。 >>557
まじっすか 徐福と言えば佐賀だと思ってたんだけど
佐賀県怠慢やな せっかくの観光資源を >>552
魏志倭人伝をバラバラにして、欠けらをいくつか集めただけのものを持ち出して、
何をしたいんだか理解不能
魏志倭人伝の劣化版でしかない
専門家が見向きもしないのは、資料価値がないことを知ってるからだ 近畿はね、墓地だよ、倭の五王の。倭は朝鮮半島と北九州。 弥生時代に渡来系弥生人は北部九州地域にしかない
古墳時代に日本列島全体に拡散して縄文系弥生人と混血して現代日本人が誕生 >>519
邪馬台国へは水行10日、陸路30日は絶対オアになるよな。
アンドだとその国の近くの沿岸まで舟で進んでそこから陸路になるけど、
陸から1ヶ月も歩く盆地ってどこね?ってなるよね。 天智天皇って新羅に由来があるって聞いた事あるけど
これって本当なの? >>554
>纏向こそ西日本を制するヤマト王朝ニダー!
その通り
言い方はあれだが、内容は正しい
北部九州、とくに博多湾沿岸地域は、3世紀中頃には初期ヤマト王権の傘下にあった
その後も、北部九州は近畿中央部の影響を「一方的に」受けることになる
https://i.imgur.com/63f11W7.jpg >>565
縄文系弥生人と渡来系弥生人のエリアに跨って同じ文化とかないな
古墳の年代決定間違えてるな
3世紀の縄文系弥生人のエリアは石器文化圏、渡来系弥生人のエリアは鉄器文化圏だからな。 神武は、五王武、東鎮大将軍。一番でっかいのが神武の墓。白村江で逃げてきた奴等が勝手に都造って成り済ましたのがヤマト政権。 畿内には九州土器はないが
九州には畿内を含め各地の土器がある。
北部九州は畿内から一方的に朝貢を
受ける立場だった。 神武は難波の碕から白肩の津まで遡ったとあるから
河内湾や河内湖が消滅して流れのある草香の江が誕生した5世紀以降の出来事。 邪馬台国、ヤマト政権は東海山陰吉備を中心とした征服王朝
4世紀に関東東北九州を平定したのもこれらの勢力だろう >>564
中臣鎌足や神功皇后、応神天皇もそう書いたことがある。
直接新羅人とはいえなくてもそちらの血を引いてる、関係を持ってるようなと言えばイメージ分かるはず。 >>567
3世紀の縄文系弥生人のエリアは、基本的に東北地方になるぞ
そもそも、西日本には縄文人がほとんど住んでいなかった地域だ
弥生時代前期に移住してきて以来、弥生土器を使い、稲作を始め、金属器を使うようになり、典型的な弥生文化だ 関東なんて古代用無し、朝鮮半島の攻防で忙しい、近畿じゃ遠すぎる、単なる墓地。 >>573
鎌足はどちらかというと百済イメージ
神功皇后は新羅
応神は? 宇佐が新羅っぽいから新羅系かもしれんが 姫こそが新羅から来た日本人のアカル媛だと言われてるんでしょ 三韓征伐に行った神功皇后が朝鮮系とかアホやな
神功皇后は息長系、風宮の神さん、ヤマタノオロチ系
応神が生まれて喜んだのはスクナヒコナ
母系が息長系で父系はクナトだろう
大体神功皇后が三韓征伐に出立した伝承が和泉に残っている
近畿の在地の勢力と関係が深いんじゃないか? 九州から来た神武天皇は熊野川から遡上して畿内を攻め落とした
熊野はもともと九州海人の縄張りだったんだよ
畿内を制圧した九州勢が使ったものと同じ土器が出てきても驚くにはあたらない >>574
縄文時代の稲作例から、稲作と金属器ってイメージは古いかな
開墾時は大変だけど、維持するには木製道具で十分
当時は泥田だし、水張りっぱなしだし 3世紀前半から鉄が流通していた地域が倭国である。
■魏志韓伝より
國出鐵韓穢倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡
(国には鉄が出て、韓、穢、倭がみな、従って
これを取っている。 諸の市買ではみな、中国が
銭を用いるように、鉄を用いる。 また、楽浪、
帯方の二郡にも供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は豊富に流通していた。
・九州では武器や農具に鉄を利用していた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
■推測されること
・畿内は取りに行ってない
・畿内は九州に鉄を分けてもらえなかった
・畿内説によると北部九州に一大率を置いて収税まで
行っていたと言うが、鉄は畿内まで流通していなかった。
■結論
・北部九州と畿内の関係は希薄だった。
・一大率は畿内政権とは無関係だった。
・畿内は中国から見た倭国に含まれなかった。
■関連
纏向では九州産、半島産の土器が出土していない >>579
海人と言えば九州というのはもう古いよ
ポリネシア遺伝子も下戸遺伝子も全部東海が一番濃いんだから 5chにいる畿内説(奥山氏)はチョンでほぼ確定ですなw
ネトウヨとチョンの思考パターンがほぼ同じwww
本人はなぜ見抜かれるのか分からないようですが、縄文系日本人
の俺から見るとすぐに分かってしまいますからw 紀国は記紀でも出雲とならんで最も古くから出てくる国だからなんらかの歴史があるんだろうと思う。 Λ
||〜〜〜〜〜〜 彡
|| 天 歳 人 紅 彡
|| 安 在 民 天 彡
|| 門 己 当 已 彡
|| 吉 亥 立 死 彡
||〜〜〜〜〜〜 彡
|| >>584
いやだから安曇は4,5世紀の人たちだろ >>574
3世紀日本列島の大部分は縄文系弥生人のエリアだよ
西日本には縄文人がほとんど住んでいなかったのは縄文時代初期だよ
弥生時代前期には移住は殆ど無く縄文人が稲作を始めて縄文系弥生人となった
紀元前4〜3世紀頃に鉄器を持った渡来系弥生人が北部九州地域に移住してきた。 >>588
縄文系も随分と減ったもんだ。
[半島系]乾燥耳垢
[縄文系]湿潤耳垢
以下、都道府県別の乾燥耳垢率
北海道:67.4%
宮城:65.6%
東京:67.6%
新潟:75.0%
長野:77.1%
愛知:81.3%
奈良:100%
大阪:94.7%
広島:74.7%
福岡:59.4% >>576
隋書に筑紫国の東に秦王国がある
その人華夏(中国人)と同じと書いてるから宇佐は文明を持って渡ってきた中国系渡来人の国があったんだろう
皇室との関係も深いしヤマト王権に少なからず影響を与えてるだろうね >>587
それは無知すぎ
3世紀よりも前に既に内陸の近江まで進出している
東海の海辺はもっと早い
https://biwako-genryu.shiga.jp/?page_id=603
> 安曇川周辺には、このアドやアマに関連する地名が数多く見られる。 安曇川町上古賀の「天川」や中央1丁目の「雨ヶ森」、新旭町安井川の「安曇」や
> 太田の「安曇連(あづみむらじ)」に関する社寺と「阿曇比羅夫(あづみひら ふ)」の墓、今津町南浜の「天川」などである。
> そして、これらに福井県若狭町の「海士坂(あまさか)」や県境の「天増川(あますがわ)」をつなぐと、若狭湾方面から饗庭野を経由して安曇川流域付近に
> 住みついた安曇海人の軌跡を示しているとみられている。
> また、移住の時期は弥生時代から始まって、3世紀以前に安曇川のデルタ一帯に定住したが、6世紀には当地域から姿を消したものと推測されている。
>
> しかし、この軌跡は安曇川の中流域から上流域まで延長できるようである。 朽木地域では荒川に「雨乞いの淵」が、支流の北川には、野尻の上野に「天ノ阪」が、
> 下市に「あまんさか」が川に面してある。 また、京都市左京区百井の集落東方には天ヶ森(標高812m)があり、百井峠の南南東には天ヶ岳(標高788m)が
> 安曇川の源流を見下ろすようにそびえている。 >>532
百済の善光が帰る所が無くなって日本に残ったからだよw
で彼は百済王氏の姓と官位を貰って帰化して亡き百済からの亡命難民達も集まって百済郡に住んだ
それだけの事 >>591
秦さんご一行より先に来てる弓月君たちがw
・〜2世紀 : 唐古鍵遺跡
・(〜3世紀末:邪馬台国消滅)
・〜4世紀半ば:纏向遺跡
・4世紀末〜:↓奈良・高取
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
ttps://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html >>594
字が読めないの?
> また、移住の時期は弥生時代から始まって、3世紀以前に安曇川のデルタ一帯に定住したが、6世紀には当地域から姿を消したものと推測されている。 はっきり言ってあんまり宇佐に中国色を感じないというか
どっちかと言うと新羅っぽいというか
姫大神というのが姫こそだと思うんだが >>595
変わった名前の博物館やなとぐぐったら
近つ飛鳥と遠き飛鳥(明日香村)とかって名前が
古事記に出てくるのか、、勉強になった >>596
根拠が全く明確でないが、何をもってして弥生時代からといってるのか? 邪馬台国、初期のヤマト政権は東海山陰を中心とした征服王朝で間違いないやろな
大きな転換期はヤマトタケルやろな
ヤマトタケルの謎がキーやね
ヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている伊吹山で何が起きたのか?
ヤマトタケル白鳥伝説は何を意味するのか?
ヤマトタケルが死後白鳥になり鳳の地に舞い降りる >>588
西日本には縄文人がほとんど住んでいなかったのは縄文時代初期だよ
縄文晩期でも、西日本の人口は東日本と比べると極めて少ない
>弥生時代前期には移住は殆ど無く縄文人が稲作を始めて縄文系弥生人となった
遠賀川式土器の分布範囲が渡来系が移住してきた地域だ
元からいた縄文系と混血を進めていき、3世紀には弥生文化どっぷりだ >>599
>出典:朽木村史・通史編(平成22年 高島市発行)
ちゃんとソースが明記されてるが?
都合の悪いことは見えないふりかね >>600
裏切ったんだよ
九州の王が
吉備と出雲と東海を
それで伊吹山の不破の関で殺されたんだと思うよ せやから邪馬台国は移動してんねん
九州から瀬戸内海渡り紀伊半島
どちらも正解 飛鳥か
ホツマツタエという真偽不明な言い伝えに鳥の化成の話が載っている
スズ(銅鐸)は暦の源
とか色々な物の化成の話とか色々書かれていて、結構面白い
ウツホ(空)とカゼ(風)、ホ(火)、ミズ(水)の四気が化成して生じたのが鳥類(四化)で、
その中でも
ウツホ(空)が勝っている鳥は良く空を飛び【飛鳥、天、アマタラシ】、
カゼ【風】の勝る鳥は美声で囀り【鶯、オキナガタラシ】、
ホ(火)の勝る鳥は良く水に泳ぎ【鴨、ニニギホアカリ一族】、
特にミズ(水)に勝る鳥の羽は柔らかで上等な羽二重(はぶたえ)の原料となります
【絹、蛾の服を着ていたのは神産巣日の子スクナヒコナ、神魂を迎えた、タマムカエドリ=時鳥】 >>592
その移住というか拡散を思い立った理由が知りたい。
俺は、ライバルの宗像族がヤマト王権とつるんだ4世紀初頭あたりが
画期かなと思うのよ。つまり、魏志倭人伝時代の末廬−壱岐−対馬ルートが
宗像−沖島−対馬ルートに負けちゃったから、商売あがったりで拡散したと。 >>564
時代が少し下って、桓武天皇の聖母が百済系渡来人氏族出身ってのも続日本記に記されている
現在の上皇陛下が会見で記述を引用したこともある位で、そもそも朝廷支配層には渡来人がいた もう一つ
九州海人の中でも身分の高いものが身につけた銅釧というものがある
邪馬台国の時代には東海どころか関東沿岸まで達していて、九州海人が各地の沿岸部を制圧していたことが分かる
https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note/notebook31_1.htm
>南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、
>古墳時代前期前半で終焉に向かいます。
銅釧出土地
https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/sinsou/36/bunnpu.png >>609
縄文時代から北海道から沖縄まで交易が有ったのに、九州が独占してたとは思えない。 近畿の3世紀以前は出雲を中心とした商業ネットワーク。
九州勢は近畿まで出向かなくても出雲で交易ができたはず。
神無月は出雲に近畿各地の産物が集まるからな >>611
九州近辺でも出雲や安芸があるのに筑紫一か国ぐらいしか代表格なしで海上制してたと思えるんでしょうねw >>606
文字記録が無い以上、本当の理由は当時の人間にしか知りえないことだろうが、3世紀以前に近江に進出していたという事実からすると
宗像との関係は少なくとも端緒ではなかっただろう(加速要因としてはあり得るが)
半島の記録に2世紀末頃に倭国で飢饉が起きて半島に食料を求めて倭人が押し寄せたとあるのでそのあたりが発端じゃないかな
もともと南海産の貝交易を行っていたから土地柄は知っていたのだろう
貝輪は銅釧より古い文化なのでこの分布図からすると弥生の中期より前には九州海人は西日本沿岸の大半と交易で付き合いがあったことになる
神武が熊野川を遡上して大和に攻め入ったというのもそうした地理の知識があってのことだろう
https://pbs.twimg.com/media/DsWScScV4AEIsU0.jpg >>607
桓武天皇の生母の父親の和氏は武寧王の末裔と自称してるけど
武寧王なんて当時から200年以上前の人間だぞw
そんな大昔の王の子孫ですって言われてももう年月経ち過ぎて混血も進んで
もう中身日本人だわw こういう系の纒向ネタって
柄が見つかった→武器製作の拠点
土器が見つかった→熊野灘の航行拠点
大規模で大量に見つかったんだったらわかるけども
まぁ伊都国の硯ネタと同じような感じなんですかね 当時は強い潮流に逆らって出雲から半島まで直接渡るのは不可能。逆は簡単だけど。
半島とは対馬壱岐ルートと沖ノ島ルートが存在した。
対馬壱岐は邪馬台国連合やその後の筑紫勢力。沖ノ島ルートは宗像出雲勢力。
畿内は出雲経由。 >>619
対馬壱岐ルートは邪馬台国以前から北部九州系の
交易拠点だった >>618
そんな感じだよなw
正直当時の畿内は邪馬台国始め狗奴国やその他諸々の国があった様な規模だったとは思えないんだよな 「交易重視ネットワーク」ならば国はあまり関係なくなるのだけどな
ほとんどの場合、権力者は保護の名目で管理し税を取る面倒なもの
商人にとっては勢力争いや国同士の政治など、邪魔か道具 >>302
>えっ?箸墓から鐙が出土したのは事実だろ?
箸墓の本体ではなく周濠からだよ
そして周濠の本来の底から数十センチ堆積物が溜まってから周濠に入ったもの
箸墓周辺を流れる纒向川の上流には珠城山古墳群があり、そちらは馬具が普及してからの造営になる
輪鐙は普通に後世の混入で問題ない 読んだ(呼んだ)?
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
<木製倭鐙の出土状況>
濠の底に埋められていました。
つまり箸墓古墳完成時期の物だということですね。
<箸墓古墳の年代>
間違いなく三世紀ですニダ!
<参考1>
半島で見つかった最古の鐙が5世紀のもの。
国内各地で出土した鐙も5世紀のもの。
<参考2>
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290〜300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。 >>624
そんな取り繕うような言い訳は秋田w
論理的に筋の通った話が一つも出来ない畿内説って本当に学者なのか?
はなはだ疑問だw >>547
・日本で編纂された『新撰姓氏録』には神武天皇の兄は、
新羅王の祖であると書かれている。
・西暦57年、『新羅本記』によると
倭人の脱解尼師今が新羅王の祖になった。 正直安曇も数ある天皇家の一家来に過ぎないとしか思えない。 >>557
熊野市の波田須(秦住)だね
この辺りで、遭難したらしい
当時の中国(秦)の貨幣が出てきてる
で、残った一行は、蓬莱島を目指す
蓬莱島とは、熱田神宮のある岬のことだった 正史三国志に記述された三韓及び倭の戸数
馬韓(合計50余国)……10万戸
弁韓+辰韓(合計24カ国)……4〜5万戸
倭(合計8国)……15万戸以上 天皇家は宗像の重要拠点の沖ノ島を禁足地として、近代までお宝保管をしていた。
出雲と宗像と秦氏のチームが大和朝廷を裏で牛耳っていた。 >>624
最初は土器の下に埋まってたと報道されてましたが? >>558
徐福伝説地は修験道や熊野信仰に関係のある土地が多いらしい。
[PDF]徐福関係の文献、遺跡、遺物はいつ、だれが? >>584
渥美半島の「渥美」の由来説は二つある。
一つは、海人族「安曇氏」由来説。
もう一つは、新羅系帰化人「渥美重国」由来説。 >>563
短里の上に2つの行程をorにして
とにかく短くしないと成り立たない九州説w スペイン、ポルトガルがアジアを次々侵略してる時に、
朝鮮、琉球は弱体化して併合目前の明に献上して満足していた駄目王朝
当然秀吉、家康は先に腹心させるわな 九州なんかゴミのような連中だからな
チョンコがワーワー言ってるだけ
学問でも何でもない >>597
宗像って海人の神じゃん
大陸系の新羅は関係ないと思われ >>637
近畿は、さらにひどい。
方角さえ変える。 >>590
縄文人の特徴は湿潤耳垢 「だけじゃない」w
縄文系の他の特徴にはシミが出来やすいというのがある
「日本人のルーツ発見!〜“核DNA解析”が解き明かす縄文人〜
https://www.youtube.com/watch?v=bOxJmtJq9Xc
元の放送時間は約29分なのに↑の再生時間が47:57になっている理由は
番組の途中から繰り返されてるから。
2016年04月03日(日)
午後11:30〜午後11:59
NHK Eテレで放送
9:30 @20m30s本川智紀さん(ポーラ化成工業)は、12年前「16番染色体MC1R部分のシミに関する塩基配列」を発見。
日本人の体質=縄文人の体質は「シミ」になりやすい肌を持つことがわかった。
@23m28s 縄文人の体質の特徴は以下のようになる
1)シミになりやすい
2)耳垢が湿っている
3)くせ毛(弥生系はストレート)
4)二重まぶた(弥生系は一重まぶた)
近畿の某所では「ふたえまぶた」を「ふたかわ目」という
5)ウインクができる(ウインクするときに口が動かない)
このうち「くせ毛」「髪の毛ゴワゴワ」は加齢や食生活の変化による動脈硬化などとともに
頭髪、体毛が細くしなやかになりその特徴が薄れるというのが
我輩の現状。
@27m20s
縄文人のルーツは単一ではない。
縄文人も多様性があり色々なところにルーツを持つと云える。
乾燥耳垢率 だけで判断するのは科学的ではなく
宋版魏志倭人伝だけが唯一至高の文献であると吹聴した古田武彦の二の舞となる。 >>595
唐古・鍵遺跡は弥生初期から古墳時代まで続いた。
遺跡の新発見、発掘によって古墳時代の開始も改訂される可能性が大いにある。
コピペばかりしてないでオマエの脳内データを最新のものにアップデートしろw >>591
一万年以上前より行き来があったらしい彼らを渡来人と呼ぶのが適当かどうかという問題はさておき
越智などという言葉に残滓が見られるように元々、倭と越の読みは同じだった
倭人とは越より発し、ベトナムから中国沿岸、日本と広大な活動範囲を持つ海洋民である
宗像三女神が彼らの航海の神だったとするのなら、それはもう途方もなく古い起源を持つ神と言う事になるね
比売大神は卑弥呼だと言う説もあるが、祭るならこっちでしょ >>598
近つ飛鳥と遠つ飛鳥(明日香村)とかは
関西の考古学ファン、犬養万葉ファンの間では常識。
明日香村の名付け親は「歩く萬葉學者」と異名をとる
大阪大学、甲南女子大学名誉教授。文学博士。文化功労者、
高岡市万葉歴史館名誉館長だった故犬養孝博士(1998年没)だ。
犬養孝氏は台湾の旧制台北高校でも教鞭を執り
教え子が和歌を作り孤蓬万里が『台灣萬葉集』として刊行、
1996年菊池寛賞を受賞した。 >>601
西日本には縄文人がほとんど住んでいなかった
と誤解されてるのは九州の鬼界カルデラ噴火爆発のせいで
多数の縄文人が焼け死んで遺骨さえ灰になったから そもそも吉備、東海の土器が出るのだから
そのへんの豪族の植民地が纒向でしょうね 宇佐神宮は秦氏に乗っ取られて朱に染まった。
宇佐は丹が取れた。
魏志倭人伝にも女王国は丹が取れたと書いてある。 宇佐神宮の本殿がある亀山は径百歩。
本殿の地下には石棺が埋まっている。
魏志倭人伝に書いてある卑弥呼の墓は、径百歩、槨が無く棺のみ、土を盛っただけというスペックと完全に一致する。 >>637
12000里行くのに水行20日+水行10日、陸行1日掛かる
丁寧に説明してるだけですね。
90度も方向を間違えるとかあり得ないからな。 神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。
比売大神様は八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきました。
八幡神が祀られた8年後の733年(天平5年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。
宇佐神宮のHPより
比売大神が卑弥呼。卑弥呼が祀られている本殿の地下に卑弥呼が眠っている。 魏志倭人伝には帯方郡から一万二千里で、
帯方郡から半島南端の狗奴韓国まで7千里、
狗奴韓国と九州北端の末盧国までの対馬と壱岐の間がそれぞれ千里と書いてあるから、九州北端の末盧国から残り2千里で東側が海の場所は宇佐しかない。 魏志倭人伝は帯方郡の役人が書いたから起点は帯方郡。
帯方郡から水行10日で九州北端の末盧国。
当時は馬も道も無く、橋もトンネルも無い。
道は草が生い茂り前も見えないと書いてある。
末盧国から川沿いを遡って日田を経由して宇佐に出るルートだと1ヶ月かかる。
魏志倭人伝に書いてある通りの距離、方角、日数に合致する場所は宇佐しかない。 >>654
壱岐対馬の寸法400里×2、300里×2を加えれば
伊都国、奴国の間が12000里の地点
伊都国、奴国が女王国の中心地
帯方郡から伊都国、奴国までが12000里で水行20日+水行10日、陸行1日掛かる
宇佐は傍国の中の一か国かな。 >>631
馬韓(合計50余国)……10万戸・・・1国平均2000戸
弁韓+辰韓(合計24カ国)……4〜5万戸・・・1国平均約2000戸
対馬、一大、末盧、伊都、不弥……計1万戸・・・1国平均2000戸
傍国20か国・・・1国2000戸とすると40000戸
奴国(2万戸)+対馬、一大、末盧、伊都、不弥(1万戸) 宇佐いなぁー
決めつけ連投は拒否感持たれるだけだぞ >>631
馬韓(合計50余国)……10万戸・・・1国平均2000戸
弁韓+辰韓(合計24カ国)……4〜5万戸・・・1国平均約2000戸
対馬、一大、末盧、伊都、不弥……計1万戸・・・1国平均2000戸
傍国20か国・・・1国2000戸とすると40000戸
奴国(2万戸)+対馬、一大、末盧、伊都、不弥(1万戸)+傍国20か国(4万戸)=7万戸=邪馬台国(7万戸)
邪馬台国は、馬韓、辰韓、弁韓と同じような都市国家の連合体。 道程なんてどうでも良いと思うわ
当時日本の勢力の中心を割り出せば良いだけ
畿内しかない >>654
お前らgoogle mapで洛陽、
公孫淵の本拠地襄平(鞍山市の近く)
福岡、熊本が画面内に収まるようにして比べてみろ
郡から邪馬臺国まで万二千里
洛陽から襄平(鞍山市の近く)まで「四千里」の征伐だ
郡から邪馬臺国「万二千里」より洛陽から襄平(鞍山市の近く)まで「四千里」
の方が遠いぞ。
魏書(通称魏志)にこれは短里、これは長里と註釈が書いてあるのかよ。
有るならその部分の画像をアップしてみろ。 >>660
>道程なんてどうでも良いと思うわ
畿内説だと道程の説明が付かないからな
畿内説だとどうでも良いんじゃなくて説明不可能ですね。 >>656
四万人の兵が四千里移動するのに百日だ。
>12000里で水行20日+水行10日、陸行1日
なんてのはありえないw >>625
><木製倭鐙の出土状況>
>濠の底に埋められていました。
>つまり箸墓古墳完成時期の物だということですね。
濠の底ではないし、古墳完成時期のものでもない
「木製輪鐙は箸墓古墳後円部裾で行われた纒向遺跡第109次調査で出土しました。輪鐙が出土したのは
幅約10mの『箸墓古墳周濠の上層に堆積した、厚さ約20〜25pの植物層の中層』からで、
『古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたもの』と考えられます。」
そして本物の輪鐙と比べると、柄の部分が長く鐙かどうかは確定事項ではない
U字型木製品に繋がる部材かもしれない
(公式見解では輪鐙とされている) >>661
帯方郡(ソウル)から釜山まで、朝鮮半島の東側(約700キロ)の水行を7000里と書いているので短里で間違いない。
はい、論破www >>661
韓は方可四千里と書かれれるからな
洛陽から襄平と比べると明らかに5倍くらい違う
東夷では魏国内で使用されていたのとは違う里が使われていたんだ
公孫氏が独自に制定した里だったんだろう
陳寿は基資料に中実に書いたんだと思うよ
基資料に註釈が書いてなかったから注釈も無し。 >>665
ソウル〜釜山より洛陽〜襄平のほうが遠い
魏志に「これは短里」という註釈は無い。
説破w >>663
4000里・・・1里400mとして1600km(長里)
100日なら1日16km
12000里・・・1里80mとして960km(短里)
31日なら1日31km
四万人の兵にたいして魏使は小人数だし船を利用してる、距離も短いから
12000里で水行20日+水行10日、陸行1日は妥当でしょう。 >>667
陳寿も短里を正確に認識していなかったから「これは短里」という註釈は無いんですよ。 >>655
濱山海居・・・呼子や名護屋浦付近の風景の描写
草木茂盛 行不見前人・・・東松浦半島内の風景の描写
好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之・・・二丈付近の風景の描写。 >>670
方角が全然違うwこれじゃあ魏志倭人伝の記述とは違い説明が付いていない。 >>665
>帯方郡(ソウル)から釜山まで、朝鮮半島の東側(約700キロ)の水行を
>7000里と書いているので短里で間違いない。
>はい、論破www
それ、現実の地理と関係ない数字だからw
魏志倭人伝の距離は実測値じゃないよ
渡海は距離が測れないから一律で千餘里
陸行は近ければ百里、少し遠ければ五百里というざっくりしたもの
全体距離は遠くからの朝貢を示すために漢土の大きさに合わせた数字が使われている
漢委奴國王の時代に、九州上陸までが漢土方萬里に合わせて一万里とされ、それが踏襲されている
魏志倭人伝では、淮南子の東方之極つまり世界の果てまでの距離の萬二千里が
女王國までの距離に援用されてる
で、半島の循海岸水行は九州上陸までの一万里から渡海千里×3を引いて、
数合わせで七千里になってるだけ
で、この七千里に合わせて、南北4千里、東西は東 端まで行かないから3千里という計算で
韓地方四千里もでてくる
魏志倭人伝の距離は実測値ではないし、短里なんてない 宗像はいわば航路のみやけ、倭五王が朝鮮南で君臨しその手下と思う、五王が宗像を使い馬を日本に送り支配が始まる。神武が東鎮大将軍武。近畿は墓地、ヤマト政権は五王の墓守かなんかの出だろ?半島が乱れ、逃げてきた連中と組んで磐井を破り新たに政権を作り始めたんだろ。 細けぇこたぁいいんだよ 邪馬台国なんだから
大和に決まってんだろが(畿内派)
議論の余地20世紀梨 >>671
>陸行1日は妥当でしょう
陸行が1日ならわざわざ書かれない
末盧国や投馬国は陸行距離・日数が書いてないけど海岸ぺりにあるわけじゃないだろ?
海岸についたらそこはもうその国だし、陸行1日なら上陸してその日に着くだろう >>666
>陳寿は基資料に中実に書いたんだと思うよ
馬鹿めw
陳寿が見た基資料は魏略と同じ、それは判っている。
そうじゃなくて
陳寿の死後75年後に生まれた裴松之が考証して書いた三国志魏書の註釈に
ここは短里、ここは長里と書いてあるのかと訊いているんだ。
レベルの低い九州のアホどもは手間がかかる。
あったら出してみろ。
どうせオマイラのいう註釈は古田武彦が書いた推理小説のものだろうw 脳内考察として
倭は任那など朝鮮南部で邪馬台国は九州連合
大陸情勢で倭の人民が邪馬台国の手を借りて落ち延びて畿内に亡命地を構えた
とすると卑弥呼の活躍も理解できるかも 畿内派はどうも邪馬台国までのことしか考えない
倭人伝にはその後にも千里、四千里等東にも東南にも
船で1年とかも出てくる、それらは一切無視で
邪馬台国を到着点のように扱う
陸行1日などは無い 一月は一月
古代漢文の文法知らなきゃ到底分からない
倭人伝はちゃんとその文法通りに書かれてる
(中国人、台湾人の研究家は皆正しく読む)
読めないのは日本の知ったか学者ばかり >>677
末盧国から伊都国が東南と書いてある時点で陳寿が倭国の地理を正確に把握していなくて、
方角があてにならないのは明確
陳寿の認識では、倭国は会稽東冶之東の南国
論衡の倭、中華の南方民族の百越の流れだという認識だから、九州上陸後
ずっと南北に長く続く洲島が倭国と考えていて、それによれば
倭国内の長距離移動は南でなければならない
陳寿がそう考えたってだけで、現実の地理とは合わない まあ新羅自体が秦の末裔がのっとって作った国と言われてるから
秦と新羅はイコールだろ >>684
>倭人伝にはその後にも千里、四千里等東にも東南にも
>船で1年とかも出てくる、それらは一切無視で
それ狗奴国以外は倭国じゃないからね
倭国が出てこない淮南子の時則訓に裸國、黒歯國が出てくるよ
こういう情報の転載
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「黒齒民」、玄股民、毛民、勞民; そもそも短里を使う人も短里を知っている人も3世紀にはどこにもいない
3世紀には世界中に一人もいないんだよ
短里を知っているのは20世紀以降の日本人だけww >>685
倭人伝で陳寿が自分の解説や補足はほんの少しだぞ
行にしたら10行程度
ほとんどは梯儁の報告、張政の報告、公文書の写し
後は裴松之の加えた注
大好きな魏略なんか公文書の写しの中にあるかどうか程度 >>685
末盧國から、伊都国は東南だろ?
とこがおかしいの? >>685
東夷伝は実測値ですよ
測れない海上の渡海は距離が測れないから一律で千餘里なだけ
> で、この七千里に合わせて、南北4千里、東西は東 端まで行かないから3千里という計算で
韓地方四千里もでてくる
そんな馬鹿なことする奴はいないよ
韓地方四千里から七千里は計算してだしたんですよw
じゃあ韓が方とかどこから出たの?
>>681
>陸行が1日ならわざわざ書かれない
陸行1日は末盧国(呼子か名護屋浦)から伊都国、奴国までの600里に掛かる時間だから書かないと説明がおかしくなる。
>>682
裴松之も公孫氏の里を知らなかったんだよ。
>>685
末盧国への上陸場所が呼子か名護屋浦付近なんだよ
この辺は天然の良港だから3世紀には他に中国船の入港できる港がなかったんだ。
濱山海居・・・呼子や名護屋浦付近の風景の描写
草木茂盛 行不見前人・・・東松浦半島内の風景の描写
好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之・・・二丈付近の風景の描写。
描写も的確だね。 >>688
公孫氏が滅亡して短里は忘れられていたんだ
20世紀に再発見だな。 >>670
魏志倭人伝には女王国のその他の国々は遠すぎてわからんと書かれてるけども
そのルート内に女王国の他の国は無かったってこと?
またそのルート内に記述するに値するような数千戸レベルの国すらなかったってこと?
マジで? 纒向遺跡は纒向遺跡として、そこに何かしらの部族勢力が存在した証として研究すりゃいいのに
なんで馬鹿のひとつ覚えのように邪馬台国と結びつけようとするのかね? >>694
そうしないと文化庁が良い顔しなくて予算つかないからですハイ >>694
Q.なんで馬鹿のひとつ覚えのように邪馬台国と結びつけようとするのかね?
A.馬鹿だから >>683
倭人在帶方東南大海之中だから、半島南部が倭っていうのは無理がある 奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。 >>693
そのルートだと瀬戸内海側の構成国の情報が分からないってことだよ。
邪馬台国は宇佐と連投してる人いるけど俺も大分だと思う。
倭人伝で行程が示されるのは松浦に上陸して博多湾まで陸路、関門海峡超えた大分まで海路と推測されるが
そのルート上にない内陸部や筑後佐賀平野、有明海側だと思う。 魏志倭人伝に狗奴韓国が倭国の北端と書かれているから海を渡った先の九州が倭国の中心 庄内式土器がでて200〜250年とも考えられるホケノ山古墳から
鉄剣・鉄鏃・鉄農具などの鉄製品が130点でてる
卑弥呼の時代の纏向で鉄が出てないというのは間違ってる可能性がある >>691
草が繁茂して前を行く人が見えない、は、夏の光景だよね。 近畿は弥生期後半迄は銅鐸圏の倭人のネットワークがかなり広範囲に形成され、中心は鳥取辺りに置かれたが、4世紀に入り一気に半島系集団に占領される。
これは3世紀後半から4世紀にかけて半島進出倭人の高句麗敗戦時期と重なり、半島からの逃亡勢力が山陰伝いに近畿へ入植しそれまでの銅鐸族を傘下にしたのは青谷上寺地遺跡の遺体から明らか。
それら近畿入植勢力は第一派は百済系が中心。
その後新羅、任那伽耶と続き、これらの半島系が近畿大和王権基盤となってる。 >>691
>韓地方四千里から七千里は計算してだしたんですよw
韓地方四千里を実測した、なんていう記録はどこにもないだろ?
倭国上陸まで一万里、女王國まで萬二千里っていう数字が最初に「設定されて」
それに合わせて撰述されてるんだよ
>じゃあ韓が方とかどこから出たの?
国や土地は基本的に「方」で示すんだよ
対馬も壱岐も方じゃないだろ?
天円地方というのが根本にあるし、井田法とかもこの発想法 >>647
なにバカなことかいてんだ
西日本には晩期でも少なかったは
特に吉備も含まれる中国地方は4〜5人の少数で生活してる >>700
日本海側ルートならどう考えても琵琶湖経由した方が楽だと思うけど
内陸の山間部を通るならそこに大きな国でもない限り合理的な山越えの理由がない
大きな国があるなら当然記述されただろうがそんな記述もない >>690
末盧国は唐津(松浦川河口平野)千々賀遺跡など
伊都国は糸島(怡土)三雲遺跡群
北東だろ?
http://i.imgur.com/0eJ45rZ.jpg >>691
>陸行1日は末盧国(呼子か名護屋浦)から伊都国、奴国までの600里に掛かる時間
その距離を1日で踏破するのは無理がある
ついでに言えば、帯方郡から九州上陸までを10日で漕ぎ渡れる高速船は3世紀にはない
水行10日の起点を帯方郡にするのは物理的に不可能だし、地理記事の読み方として滅茶苦茶
伊都国、奴国に「女王之所都」という記述がない時点で、伊都国、奴国を
邪馬台国(邪馬壹國でもいいけどさ)というのはデタラメ >>708
内陸の千々賀に船は接岸できない
末盧の人が集まる場所は千々賀でも
魏の使者が上陸したのは名護屋の辺り >>692
>公孫氏が滅亡して短里は忘れられていたんだ
公孫氏は漢人で漢の官職、左将軍に叛旗を翻す直前まで就いていた
漢の度量衡以外を使う理由がないしその度量衡で生まれ育っているのだから
それ以外の度量衡なんて知らない
デタラメはダメだよ
>20世紀に再発見だな。
二十世紀の「思いつき」でしかない
現物の古尺が出土している以上、短里がなかったのは考古学的にも確定 >>702
ホケノは4世紀だ。
箸墓より新しい時代だぞバカw >帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で北岸の狗邪韓国に到着する。
>帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。
しっかり書かれてるわけだが
女王国の位置がデタラメだと仮定しても、狗邪韓国までもデタラメというのはいかがなものか 大分の女王国より海を渡ること東に1000里に同じく倭人の国、
そこから南へいくと小人の国、侏儒国があって女王国より4000里。
前者は四国西岸の八幡浜で後者は足摺岬を海から回って高知なんだろうか?
ここまで里表記。倭人は里を知らないので距離を日で測るとのこと。
えっ、侏儒国まで行った中国人がいるの? あれ?この間「同じ粘土」から作られてたとニュースにしてたヤツだっけ。
随分細切れにして報道するんだな>毎日
この大嘘宣伝を書きたいだけだったりしてw
>邪馬台国の最有力候補地とされる纒向遺跡 案外道のりの方角が書いてる通りで、唐津の南東にある多久あたりが伊都国で
小城あたりが奴国、吉野ヶ里あたりが不弥国だったりして
吉野ヶ里あたりの南は海だったらしいから、南に水行もおかしくはない
まあ伊都国も奴国も合わないけどさ 邪馬台国は3世紀前半。
このニュースは3世紀後半からの話だな。
卑弥呼が死んだ後の時代であり、邪馬台国とは無関係。
タイトルに邪馬台国と書けば読んでもらえると思ってるんだろう。 >>719
使節がいったかどうかは知らんが、列島各地に華僑のコロニーがあった説があるから
華僑からの伝聞情報なら行った奴がいても不思議はないけどどうだろうな シナ猿に犬畜生以下に扱われてた朝鮮半島と違って
日本は古代から独立を保ってきたことが次々と証明
チョンが嫉妬するはずだわwww >>712
倭人伝と韓伝が長里434mでは辻褄が合わないのは事実
他の魏書の記述が長里なのも事実
ではどう解釈すればいい?
帯方郡から外の夷国の記述を盛って書いた誰かがいるという事。
韓伝までが短里な事から、倭国側が盛って説明した説は消えるし、倭国にやってきた二人の役人でもない。
帯方郡か魏本国が意図的に偽装したと解釈すればよいのではないか?
短里という物自体が、使われてなかった物なのは同意
距離の偽装の痕跡を、便宜上短里と呼んでるだけだからね。 知れてる地名で実際に計算すりゃ
どう見ても短里のほうが現実にちかいわな ちなみに和歌山県に伊都郡がある。つまりそういうことだ。 >>712
>>727
公孫氏は中央からの独立を目指しており独自の里を制定したのであろう
>距離の偽装の痕跡を、便宜上短里と呼んでるだけだからね。
公孫氏は魏の5の1の里を使い、国を大きく見せる意図があったのではないかな。 >>729
なんと!
纏向の「南」に伊都www
話にならんw >>709
600里・・・1里80mで48km
48kmなら1日で踏破するのは十分に可能ですよ
日本陸軍の強行軍が1日46km、完全装備の兵士が46kmですから手ぶらで歩けば楽勝。
時速3〜4kmで12〜16時間歩けば付く。
10日は狗邪馬韓国から末盧国(呼子か名護屋浦付近)までに掛かる時間だよ。
>伊都国、奴国に「女王之所都」という記述がない時点で、伊都国、奴国を
邪馬國というのはデタラメ
「女王之所都」は投馬国に対して邪馬壹國側に女王の都があるとの意味だよ。 >>729
九州出身者が移り住んだ和歌山の地に伊都国に倣って伊都って地名を付けたのでは?
東遷説が捗りますね 古代中国は天は丸いが、地面は平坦という世界観だった(明の時代までそう)
地上測量の方法についても、三角関数的なもので計ったりしてるが
距離が伸びると、(地上が平坦な事が前提なため)実際は丸い地球とは誤差が出てきたのかも
その場合、近場なら計測を繰り返す事である程度正確に測れるが
遠くの土地の場合、南中時の影の角度が基準となる中国とどれくらい違うか
等で測らないといけないが
前述のように、地面が平坦という前提があるので、遠くになればなるほど実際の距離とは誤差が出来たりしたのかも >>710
末盧国を唐津(松浦川河口平野)千々賀遺跡などの当てるのは
魏使は方向も分からないバカ者だとする為の捏造だね。 >>729
近畿以東には無い。
否定証明完了済み。
>>730
その説もアリだとは思うけど、公孫氏の独自の度量衡を、魏がうっかり盲信したというのもおかしな話しではないかな?
魏書を纏めた陳寿233年生まれで297年に亡くなっており
三国志自体も280年以降に成立してるので
仮に公孫氏の偽装があったとしても、陳寿が気付かなかったとも考えにくい。
なので、帯方郡か魏本国説を推してみた >>732
魏の頃の地図で日本列島は90度ずれてたというから
現和歌山の伊都(国)の東に邪馬台国があるのだよ
多分 >>727
魏がようやく公孫子を討って楽浪郡と帯方郡を手中に収めた頃の話。
ほとんどの資料は公孫子の頃のものだよ >>740
738に書いたとおりです。
仮に陳寿が漏らしたとしても、裴松之が注釈を付けていないのも不可解 >>739
未だに生存してたんだなwww
混一彊理図(混一彊理歴代国都之図)
世界地図として1402年に朝鮮で作図された
混一彊理図(こんいっきょうりず)では、日本
列島を南北に配置している。このことから、古
代中国では日本を朝鮮半島の南に南北に連なる
列島と誤認し、結果として邪馬台国は畿内大和
が妥当としてきた。ところが、この混一彊理図
はもともと中国での地図に日本からもたらされ
た行基図を朝鮮で合成したものである。
最近、別の混一彊理図が長崎県で発見され、そ
れでは日本列島は東西に配置されている。従来
の混一彊理図は地図のスペースの関係で日本を
南北に配置したのでは、と推測されているのが
昨今の状況である。このように、混一彊理図は
畿内説の根拠としては影が薄れている。だいた
い、1402年と言えば邪馬台国から1000年以上も新しい。邪馬台国から1000年以上
も後世の合成地図で畿内説の根拠とするのは本
来ナンセンス。 ちなみに対馬から壹岐までの方角が「南」になってるけど、厳密に言えば「南東」なんだよな。
つまり「南」と書いてあっても実際には「南東」から「南西」までの90度くらいの範囲を指している
と考えてもいいと思う。もちろんこれは当時の日本地図が90度ズレていたという説にも当てはまる。 >>738
魏がうっかり盲信したのではなく、魏が公孫氏の資料を持ち帰り、それを陳寿が参考にして三国志を書いたんだよ
陳寿が公孫氏の里に付いて疑問を持ったとしても確認する術はないし、そのまま転記するしかない
日数を合わせて記載したのは東夷の里に疑問を持ったからでしょうね。
>>739
>魏の頃の地図で日本列島は90度ずれてたというから
はじめて聞く話だな、ソースは? >その死には、棺有りて槨無し。土で封じ冢を作る。
これは張政が伊都国にいるときに平原遺跡をみて書いたんだろう
土を盛ってこの頃はまだ周りの柱が残ってたかも 魏志倭人伝記載の方角「南」が「東」で
あることを証明出来ない畿内説は、
既に破綻しています。
会稽東冶の東と記載されている地域は、
ちょうど九州のあたりです。
「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf 議論形態として5ちゃんとは相性悪いがなんども自己主張できるので毎回盛り上がるのが邪馬台国スレですね >>739
邪馬台国は近畿以東には無い。
否定証明完了済み。
>>745
伊都国が邪馬台国なわけが無いだろが。
いい加減死ねよ。 >>741
裴松之も公孫氏の里に付いて知識が無かったんでしょうね。
>>743
>当時の日本地図が90度ズレていたという説にも当てはまる。
根拠が無いね、そんな地図は存在しない。 南は南
九州北部から南へ船で20日で投馬国
宮崎鹿児島やな
邪馬台国は更に南へ船で10日の陸地にある
大隅半島の遥か先
黒潮に乗り約10日で潮岬だろう
串本辺りに上陸して陸路で熊野を通りヤマト入りしたんやね
伊勢回りか熊野川沿いか分からんが >>744
畿内説の人がそう言ってたはずだけど、詳細は忘れた。
>>742かもしれない。 >>751
鹿児島の火山灰層は何メートルあるかわからんので
掘り出すのは困難だな。 >>739
90度傾いてるなら
邪馬台国が九州で畿内は狗奴国でぴったりだな 日本海航路の安全が確保されたのは台与の頃
南河内和泉は狗奴国なので瀬戸内海は論外
気多大社の謂れは興味深い。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが【化鳥、大蛇】を退治して【海路が開けた】とある
倭国大乱の余波で日本海航路は安全が担保できない状況だったんだろう >>750
あ、いやだから南と書いてあっても南東〜南西の範囲と考えていいってことが、
もともと90度ズレてるって説にも当てはまる(つまり北東から南東まで)ってことね。 >>754
>>746が正常な地図。
畿内説が提示したのは日本列島を縦に合成した地図。 九州北部から庄内式土器がたくさん出るから交流はあった
でも奈良からは九州の土器が出ない
近畿からは土器に入れるなにかを運んで
九州北部からは土器に入れなくていい絹を運んだ 以下の配置でも特に矛盾は無いぞ。
女王国:北部九州
狗奴国:熊本
投馬国:出水or日向
邪馬台国:鹿児島or西都原 一寸千里法(古代中国の測量方法)から考察した邪馬台国の位置
http://www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf
>すなわち帯方郡(38.5N 125.7E)から 1.2 万里という斜め距離はその 4/5 である南北距離では 9600 里、狗邪韓国まで
>の 7 千里は 5600 里である.これらの南北距離から日影長差(9.6 寸、5.6 寸)が得られ、したがって現在
>の知識によって緯度を計算できる.「東南 1.2 万里」という測量結果から、邪馬台国は宮崎平野南部(31.9N)に、誤差を考慮しても南九州に、存在していたといえる
古代中国は遠くの地域の距離を測る際は、夏至時の太陽の南中時の影の長さを利用したやり方があったが
地面が平坦という前提があった為に、実際の距離とは(影の長さだけを基準にしたら)
かなり誤差が出たらしい。それを考慮した結果が上のようになるそうな >>741
公孫子が長い間、辺境の独立勢力だったけど資料は残ってない。
あったけど消滅した可能性も高い。
もしはっきりしてたら性格からして陳寿は使ってる筈。
もちろんある程度はわかったが正確なルールが入手できなかったので
資料としてそのまま書く方を選んだんだろう。
魏の使者の記録には距離まで書いてなかったんだろうな 箸墓ででてきた馬具とおもわれるものは周濠にあったもので
墓の中にあったものではないので否定材料として成立してない
九州こぴぺの鉄や土器や槨や馬具について
否定する意見を提示しといた 90度傾くと、奴国(岡本遺跡なら福岡市と春日市の境界あたり)から
東に100里にある、とされてる不弥国が、東→北になってしまう
当時の博多湾はかなり内陸まで来てて、中央区や城南区は海だった
すなわち不弥国は博多湾の中になってしまうのだが >>762
箸墓は卑弥呼の墓w
奈良県桜井市の箸墓古墳は全長280メートル
の初期の巨大前方後円墳で、卑弥呼の墓との説
があった。ところが、箸墓の周濠から木製の
輪鐙(わあぶみ=乗馬の時に使用する足掛け)
が出土した。倭人伝によれば、卑弥呼時代は
日本に馬はいない。鐙自体は中国晋王朝時代に
発明され、邪馬台国より時代が新しい。記紀の
記録でも日本で馬の使用は早くても4世紀後半。畿内説の牙城であった橿原考古学研究所さえ、箸墓は卑弥呼の墓ではないと言い出しており
(台与の墓とか、台与の後の男王の墓と言って
いる)最近は完全にトーンダウンしている。
畿内説は卑弥呼の墓を新たに見つける必要がある
橿原考古学研究所さえ、箸墓は卑弥呼の墓ではないと言い出しており
橿原考古学研究所さえ、箸墓は卑弥呼の墓ではないと言い出しており
www >>762
これかw
箸墓の年代を編年したのも周濠から
出土した土器なんだぞ?w
<箸墓古墳で馬具出土>
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
<参考>
・発見場所は周濠の底で、4世紀の土器の破片の下に埋もれていた。
・半島・日本ともにこれまで出土してきた馬具は5世紀のものが最古である。
<馬具研究史より>
樋口隆康「鐙の発生について」は、中央アジアの騎馬民族に
鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に
足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、
中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。
奈良は中国よりも先に馬を導入していたことにしてしまう纏向学w >>764 桜井市と橿原市は邪馬台国でライバル関係にあるから
橿原市はかならず否定するんよ
九州のひとは知らないか 箸墓の年代を中身で決めたと思ってる畿内説は畿内説じゃないだろw
宮内庁管轄で誰も中に入れないんだぞ?
要するに畿内説の希望的観測結果を発表しただけ。
しかも卑弥呼の時代より後の3世紀末期だ。 箸墓から周濠から布留0式土器がでたことで
3世紀半ばである可能性がある ここまでは問題ない
馬具がでた問題の本質は
馬具と布留1式土器が同時でたことで
馬の導入が早すぎるってこと
九州は目を向ける方向を間違えてる 松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2 >>689
>倭人伝で陳寿が自分の解説や補足はほんの少し
www
註釈といえば原著者以外の人物が書いたもので
原著者の本文は大きな字、後世の人物の考証した註釈は
割り注といって本文の字の半分以下のサイズで
本文一行の下に小さく2行で書くというのが常識。
ttps://www.jfpi.or.jp/webyogo/index.php?term=2530
↓これを見ろ
ttp://toyourday.cocolog-nifty.com/blog/images/2014/08/30/_.jpg
本文「司馬宣王率衆拒之」の次に小さい字で
「干寶晉紀曰吳將全j寇芍陂朱(改行)
然孫倫五萬人圍樊城諸葛瑾步
隲寇柤中」云々
というのが註釈の作法だ。
どうせおまエラこんな原書読まないで単里を捏造した古田武彦の
「邪馬台国はなかった」しか読んでないんだろうw >>768
同じ周濠から新しい土器が出たらそっちで編年するのが基本だろ。
しかも水に浮くはずの木製の輪鐙がどうやって土器の下に
もぐりこむんだ?
物理的に難しい言い訳をするなよ。 短里が、畿内にとって「致命的」に都合が悪いのはわかったwww >>768
布留0式って三世紀半ばまで繰り上がるもんかな。繰り上がっても三世紀後半あたりから、て気がするが 九州説でも短里は無いと思うな。
半島や倭で使ってた独自の距離単位を「里」で記載したんだろうよ。
隋の時代でも倭人は里数を知らないと書かれている。 >>771 早くて4世紀末と言われてる馬の導入が150年早くなる
馬具がでたことで考えるべき問題は箸墓の建設時期ではなく
タイムパラドックスになってるってこと
形はあぶみだが違う何かだった可能性も考慮すべき >>770
解説と補足を勝手に注釈に変える阿呆
いい加減古田から卒業せいや、お前の知ってる短里支持者は一人なんか、古田史学批判したいなら最低でも10年会報出して講演してみろよな、ネットで吠えてるだけの屑野郎くん 里については、当時の天測による方法で測った、て考えるのがベターと思うがな
魏の使者やらが伊能忠敬みたいにひたすら歩測した、なんてのは有り得ないだろうし
特定位置で天測して(当時から測る方法はあった)大体の距離を算出した、と考えるのが近いのでは、と思うが やっぱり畿内説が最有力なのか
九州説はどこの新聞も大学も取り上げてくれなくてただの都市伝説扱いだしorz >>773 研究者の中でも意見がバラバラなのは認める
畿内説、九州説それぞれ信じたい方を信じてるって感じ
ホケノ山の木棺がC14でも200〜250年あたりの可能性があるけど
はい堂々巡り >>775
輪鐙の比較写真を見たことないのか?
昨日、畿内説スレに貼ってあったぞ。
本物の輪鐙
ttp://imgur.com/gHaAJj5
箸墓の輪鐙?
ttp://imgur.com/cAwYHZQ >>759
倭人伝における女王国は文脈によって邪馬台国本国を指す場合と、
邪馬台国連合国全体を指す場合があるんだが。 >>776
古田教から卒業できないのは
邪馬臺国を邪馬壱国と書く奴
古田の発明した短里を盲信してる奴
委奴をイトと読む奴
卑弥呼をヒミカと読む奴
その他大勢 >>779
石野さんによる理由説明があまりにも
非科学的なんだよ。
これでハイハイと素直に認める奴がいるか?
「布留1式のはじまりを、安本先生の言われるように350年とすると、
布留式の行われた期間が50年に満たない短い期間になってしまう。
これはおかしいと思うので、布留式は290年頃から始まったと考える。
そして、布留式が始まる前の庄内式の時代のホケノ山古墳の年代は
250年ごろと考えている。 」 >>779
C14なんぞ使っても、土器自体の焼成年代は判らんけどな。類推しか出来ない
そして、土器自体の焼成年代を調べる方法はある。熱ルミネッセンス計測法やら
しかし、自分が知る限りこの時代のものは、1970年代に奈良大学がやった結果くらいしかない
それによれば、布留遺跡から出た土器の焼成年代は、古くても270年代。大半が四世紀以降
しかし何故かここから発展してないが >>710
唐津平野に用事があるのに、名護屋に上陸する理由がない
松浦川河口に潟湖があり、そこが港として利用されていた
名護屋上陸でも、伊都国は東南にはできない
https://i.imgur.com/POHiSA8.jpg
途中にポイントしてあるのは、ランドマークとなる可也山(伊都富士)
可也山は東松浦半島からでも見えるから伊都国が見えないから方角は分からないというのは通らない
https://i.imgur.com/ilU5axs.jpg >>711
南至投馬國、水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月
水行20日は投馬国行きだ
それとも、投馬国を半島南部にするつもりか? >>782
俺は「女王国」が卑弥呼の治めた範囲(連合国)を示すのだと思う。 >>786
唐津平野に用事はないw
用事があるのは、伊都国
1400年後の秀吉の時代でも、船が集まるのは
名護屋のあたり お遊び考察だけど、
ヤマタノオロチはそのまま邪馬台国な気がしてならん
女をさらうのも卑弥呼の下女のため積極的に各地の女を引っ張っていたのでは
あと蛇の化身がそのまま三輪山に祀られることも草薙の剣が三種の神器であることも繋がりまくる
出雲と畿内の連合勢力に破れた九州の邪馬台国がその権威を畿内に祀られたと考えると筋の通るストーリーができるんだな >>759
投馬国:朝鮮半島南部
邪馬台国:北部九州(女王国)
狗奴国:鹿児、宮崎
>>782
倭人伝では女王国は伊都国と奴国を指し
女王が 邪馬台国連合国全体を指しているね。 >>787
それもアリじゃね?
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。」
その北岸 = 倭国の北岸
つまり、朝鮮半島南部を倭国と認識していた >>793
半島→北部九州は冒頭で「渡海」と書かれている
のに、次に「水行」と書くかなあ?
陳寿がそんなにズボラだとは思えないが? >>716
根拠なしで文字だけ並べても無意味
魏志倭人伝の方角はあてにならない
⇒ 末盧国から伊都国は東南ではない
⇒ 陳寿は倭を会稽東冶の東という南国と考えていた
短里はない
⇒ 司馬懿の公孫氏討伐の結果、倭が朝貢に来たという文脈で
三国志撰述時の王朝、晋の高祖司馬懿の功績を顕彰するために、
倭国を遠い大国に描く動機があった
九州上陸まで一万里、女王国まで萬二千里はその文脈での誇張された距離
それを現代の知識での距離と比較すると誇張分が短く見えるだけ
九州の鉄も絹も2世紀より古いものがほとんど
3世紀の九州には王墓級の大墳丘墓がない
3世紀の九州最大国、奴国の中心遺跡、比恵那珂遺跡群の首長墓である那珂八幡古墳が
纏向型前方後円墳であり、比恵那珂遺跡群で畿内様式の庄内式土器を作っていることから
北部九州と畿内勢力の密接な協調関係が明白
九州説はない
と、これくらいの根拠は示さないと >>795
「渡海」と半周回る「方可○○里」を合わせてるから「水行」なんだよ。 >>721
>まあ伊都国も奴国も合わないけどさ
なら、その想定は無意味だ
唐津から東南陸行五百里は、佐賀の方へ抜けるルートの記録だろうが、
それが伊都国行きと書かれている時点で、陳寿が倭国の地理を十分に把握しないまま
書いていることが分かる
そして、陳寿は倭国を会稽東冶の東という、現実よりもはるか南だと思い込んでいる >>788
卑弥呼の治めた範囲(連合国)を示してるのは女王と書かれてるね。 >>796
3世紀の鉄だとこうなるということだ。
■魏志韓伝より
國出鐵韓濊倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡
(国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従って
これを取っている。 諸の市買ではみな、中国が
銭を用いるように、鉄を用いる。 また、楽浪、
帯方の二郡にも供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を利用していた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
■推測されること
・畿内は取りに行ってない
・畿内は九州に鉄を分けてもらえなかった
・畿内説によると北部九州に一大率を置いて収税まで
行っていたと言うが、鉄は畿内まで流通していなかった。
■結論
・北部九州と畿内の関係は希薄だった。
・一大率は畿内政権とは無関係だった。
・畿内は倭国の一部ではなかった。
■関連
纏向では九州産、半島産の土器が出土していない。
>>786
可也山は伊都国の北西にあるから
呼子か名護屋浦付近に入港する前に見えたとして
伊都国を東南だと誤認する原因になるね
東松浦半島内からは可也山は見えない。 短里に関しては、倭人伝において陳寿が編集したものではなく他の史料をまんま書き写してるので
同じ魏志であれ、里の長さが違ってるというのには筋は通ることは通る
ほんとかどうかはなんとも言えないが まあ、畿内説はどう考えても無理だな
ヤマト王権を少しでも長く見せようとする
皇国史観の亡霊だろ >>730
>公孫氏は中央からの独立を目指しており独自の里を制定したのであろう
それはない
度量衡は、取引、生活、軍略の基礎であり、それをいじれば社会が混乱するだけ
だから、度量衡の公定は皇帝の専権事項になっている
逆に言えば、皇帝権力がなければ変更はできない
>公孫氏は魏の5の1の里を使い、国を大きく見せる意図があったのではないかな。
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
区間によって4倍も伸び縮みするような距離の単位なんてありえないだろ?
現実と関係なく、数字を割り振っただけだよ
九州まで一万里
原典はこのあたり
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
女王国までは萬二千里
原典は淮南子時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,
木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。
渡海は測れないから一律で千余里、九州上陸後は近ければ百里、少し遠ければ五百里
たったこれだけ
短里なんてない >>796
距離については、>>760にあるような一寸千里法による測定の為に
実際の距離とは大きく異なったのでは
那珂八幡や大正寺古墳、北九州にある石塚山古墳、宇佐にある赤塚古墳、宮崎にある生目古墳といった最初期の前方後円墳は
ヤマト政権に九州が呑み込まれた傍証と考えるが、これらの古墳の成立は
どう遡っても三世紀後半としか考えにくい事
九州の様々な地域に、ほぼ似た時期に出現している事もあり
三世紀半ばか後半辺りからヤマト政権が九州を制圧し、その証として前方後円墳を強要した結果では、と思えるが
ちょうど景行天皇の九州征伐に被る箇所も結構あるし
卑弥呼政権は2世紀の終わりには成立しているので、その時点で九州まで畿内勢力が来ているなら
三世紀前半の纏向型の前方後円墳が九州にあってもいいはず
卑弥呼の墓については、宇佐神宮の亀山あたりが比定出来るかもしれない
祇園山古墳は規模が小さいが、殉葬の可能性がある甕棺も出てるし、無くはないかも
あくまでも類推だけども >>733
>「女王之所都」は投馬国に対して邪馬壹國側に女王の都があるとの意味だよ
なんだ、半島南部投馬国の人か
相手して損した
九州説の人でこのトンデモは締めといて >>807
半島南部説は十分あり得る話だぞ?
対馬海峡水行説はちょと難があるが。 >>736
魏使が方角が分からなかったんじゃなくて、陳寿の認識が現実とあってないんだよ
魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い
旅程記事は、中国の研究者の読み方でも、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を
総距離と見るのも、漢文の文法からいって明らかな誤読
北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか >>763
一応さ、福岡平野の海岸線は古代も全然後退してなかったからね
大阪平野がなかったような相当に後退してた
縄文海進の時でも下記の資料みたいに
地下鉄空港線よりちょっと内側に入った程度
https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/fukuokaheiya/fukuoka.html >>779
C14だとホケノ山で使われた木材が199年とか出てて
「これは流石におかしいから、50年くらい繰り上げて249年前後の木だろう」
とかそういうことやってるから
日本じゃC14はまだまだ懐疑的にならざるを得ない
弥生時代の始まりや時代の位置づけも、新井宏や瑞野晋平のようなC14測定の専門家が否定的だから >>800
天理市東大寺山古墳から鉄刀20本、鉄剣9本出土
その中に金象嵌で「中平」の紀年銘を持つ鉄刀があった。
「中平」は後漢の霊帝劉宏の元号西暦184年から189年まで使われた。
倭国大乱の時期に当たる。 >>803
そうですね、記紀が編纂された少し前の701年が大和朝廷の成立した年ですね。 >>810
https://y-ta.net/fukuoka-kamakura/
これが800年前の博多。海岸線は美野島(蓑島)あたりで、住吉神社は岬みたいになってた
伊奴国の時代はこれより更に1000年前
今では竹下駅の近くにある那珂八幡古墳は、入江にあったそうな >>811
まさにそれな。
とにかく編年理由が常に非科学的なんだよな。 水行20日+水行10日陸行一月の書き方は、それ以前の移動距離を残した使者とは全く別の記録との組み合わせであり、出発点は帯方郡。
2−3日くらいなら、移動日数だろうけど、これだけ長期だと日数は移動した時間だけではなく、滞在日数を含んだおおざっぱな平均日程じゃないかな。
つまり天候の不良だったり、接待なんかがあり目的地へいくには全部でそれくらいかかると。
帯方郡から韓国南部の倭国まで水行約20日、渡海は天候に大きく左右されるので平均10日、陸行は途中の国に滞在して回るので、女王国までは約1か月ほどを要する。 あと鏡等に銘記されてる紀年については、などはもう畿内説の人も現在では否定的で
魏との交流の証として後年作製したというのが主流
なので九州説が「日本製じゃないか」と言っても、一応筋は通る >>745
>土を盛ってこの頃はまだ周りの柱が残ってたかも
その柱が、きちんと整列してなくて適当に立てられてるんだよ
https://i.imgur.com/bzIw7Aa.jpg
そんな倭王の墓はない
平原1号墓は銅鏡が大量に出ることで有名だが、
16号鏡 18.8センチ 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡 漢鏡5期
17号鏡 16.5センチ 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡 漢鏡3期
の100年単位で古い伝世鏡2枚以外には、大陸伝来の舶載鏡はない
卑弥呼がもらった銅鏡100枚のうち、一枚たりとも副葬されていないし
公式報告書での編年は2世紀末で卑弥呼の生前に作られている
同じ葬送儀礼を持つ吉野ヶ里の北墳丘墓の40×27メートルという大きさと比べて
平原1号墓は12×8メートルと、面積で見て10分の1以下、径十歩に満たない小さな墓だ
これを卑弥呼の墓の候補にしないといけない時点で、九州説は終わってる 九州説は、短里があっただの、行程パズルを解読すると九州だー、とやってればいいよ
九州説なんて所詮はエンタメコンテンツなんだから
そうやって遊んでるうちに、気づいたら教科書からも九州説が削除されてたってことになるだろうしw >>815
そうそう
ちなみに昔九州説唱えてた東大の上古時代閥はこういったことに弱い(仮名文献バカばっか)
だから2003年の歴博の弥生時代開始とかにもあっさり認めたんだけど
逆に京大出身の先生なんかの方が、歴博の見解をオックスフォード大との協力を経て批判してたりするのが面白い >>817
>魏との交流の証として後年作製したというのが主流
どこで主流なんだ?
九州説のお仲間だけの話だろ? >>818
一応殉葬の痕跡が見られるからセーフだよ。
箸墓が適合するのは大きさのみで、構造も違うし殉葬なども確認できない。
何より年代は既に280年頃と訂正されている。 箸墓を取り敢えず掘って欲しいな
文献にある記述に近いのはここだし
盗掘されてるかもだが、何かは出るだろう >>821
誰もがも何も、春成さんや石川さんなどの畿内説の人がそうだと言ってたんだが
だから日本製だけれど問題はないとなってて、筋は通ってる >>814
南北が逆の地図ですね
800年頃には博多の港が既に整備されてたのが分かりますね
500年前の卑弥呼の時代夷にも博多の街は在ったんでしょうね
大阪と同じ草香の江が住吉の近くにあるのも面白い。 >>733
また古田教信者の邪馬「壹」國
邪馬臺国で確定してるんですよ 抑える(おほえる) 嘔作える(おさえる) 抑える(あろそえる) 押さえる(おしさえる) >>828
魏との交流を記念して作ったもの
てのが三角縁神獣鏡の畿内説のひとらの説明だよ >>824
後年といっても1年後とか2年後だろ?
九州説が言うように100年後や200年後ではない >>825
前円部だけだけどね。取り敢えず主体部を掘りさえすれば
少なくとも被葬者が男性か女性かくらいは副葬品から判るだろうし
副葬品から、いつの時代かもある程度類推出来るかも知れない
とにかく、判らないよりはマシになる、と思う >>819
遺跡の規模や出土品、魏の出発点からの総距離1万2000里、邪馬台国の具体的な描写など総合的な判断で九州だと推測でき
残る行程の方角や距離の解釈については、本拠地がどこであっても謎解きパズルになるのはしょうがない。
そんな恣意的な書き込みするだけでは、畿内説はもう風前の灯だと思われるぞ。 >>831
そこまでのことを彼らは確定的なのを言ってないので不明、直後とも言ってなかったので
というか倭製であることさえあなたは否定的だと見てたんだが、それは違うってことでいいね
正直、あなたは畿内説の意見さえよく知らないみたいな人に思えたんだけど 俺は銅鏡に関しては銅鐸のリサイクル品だと思ってる。
イ方製鏡でも漢鏡に近いデータが出てたりするんだろ?
色んな産地の色んな時代の青銅製品を溶かして鏡に
作り替える商売でもあったんだろうよ。 >>746
お前さん、nn氏かい?
証明はもとより情報量が少ないから不可能だよ
だが、状況証拠として陳寿は現実の倭国よりも南国だと認識している
北部九州でも倭人伝の南国描写には合わないし、会稽東冶の東と南国の地名を出しており
ダメ押しで所有無、與儋耳朱崖同ともしている
つまり、半島の南から何千里も南北に長い洲島だと認識していたということ
そして、魏使の倭国訪問記録が不完全だったのも当然想定できる
記録していなかったはずはないが、記録していたとすれば木簡か竹簡を使ったと想定できる
その木簡、竹簡を何本持ち帰れたか?
また、投馬国までで20日、そこから邪馬台国まで10日+1月の毎日方角を記録していたとも思えないし
竹簡一本に書ける字数も限りがあるから、一本がよそに紛れてしまえば、方角記録は不完全になる
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
この想定経路で、水行の間は海岸沿いだから方角は記録せずあるいは方角記録が失われ、
最後の陸行の南だけが(写しなどで)陳寿の手元まで届いていれば、北部九州以降全体が
南と書かれることは特に不思議ではない >>138
隋書の倭つか東夷については
正直編纂した頃の皇帝の思惑もあって、そこまで信頼できるものでもないけどね
たとえば当時百済・倭連合や高句麗を抑えて絶頂期だった新羅を小国としたりとね >>826
卑弥呼の時代は、この時代より1000年前だからなー
地図で博多の町として整備されてる場所(博多駅のあたり)はまだ海の下だった
御笠川の堆積物で徐々に土地が広がったんだろう。実際博多駅前は、少し前に地面が陥没したほど地盤が弱い
なお、博多駅の南に位置する竹下駅近くに那珂八幡古墳があるが、これは入江に面して作られてた
最古級の稲作遺跡の板付遺跡もそこよりちょい南 >>755
縄文時代から、糸魚川の翡翠が九州まで届いてるよ
日本海経路の丸木舟が一番ありうる経路だろ >>758
>近畿からは土器に入れるなにかを運んで
畿内から北部九州に庄内甕を運んでいるんじゃなくて、比恵那珂遺跡群で
畿内様式土器を作っているんだよ >>804
自分で合わないように起点を勝手に決めてるだけじゃんw >>836
nn氏って誰?
倭国を南国と認識していたのはわかる。
仮に北部九州以降を南と誤解したとしよう。
道中の記録があまりに希薄すぎないか?
日本海沿いの航路だったなら、鳥取砂丘や
琵琶湖が登場してもおかしくないだろ? >>785
まああれが土器に関してはまだベターかなあ
土器付着のC14はとくに年代が古く出やすいので難しい
あと海が近くてもかなりずれてくる(下手すりゃ500年とか) >>834
紀年銘鏡は同笵鏡が存在するから日本でコピーした可能性がある
だからといって、意味を180度歪曲するのは不可
「九州の邪馬台国が魏と外交をやった実績を、ヤマト王権が横取りするつもりで、後年になって作った」
という言い分は、陰謀論としても非現実的すぎるわwww >>840
土器文化はもともと住んでいた先住民族(縄文系)共通の文化だと思ってる。
畿内説はそれを勢力範囲と勘違いしていると思われ。 >>844
俺のレスのどこに大和王権が横取りするつもりでなんて書いてあるんだ?
正直、畿内説の考えを知らなかったあなたが逆切れしてるだけにしかみえないよ >>760
それを信じるなら、北部九州が洛陽とほぼ同じ緯度って分かるから
会稽東冶の東という記述はありえないんだよ
一寸千里の法は地と天が距離八万里の平行平面だと考える蓋天説という
「間違った世界観のモデル」に立脚した机上の計算
蓋天説では、緯度に関わらず、千里離れたところでの影の長さは
夏至でも冬至でも、春分でも午後3時でも、必ず1寸の長さの差になる
https://i.imgur.com/73rgfWR.jpg
それで距離が計測されたことはないし、中国でも古くから成り立たないことは知られていた
そのため蓋天説は早くに廃れ、世界観は渾天説に移っている >>846
畿内説を否定するつもりで書いたんじゃなかったのか?
畿内政権が魏と外交をやってたことを認めてるんなら、それでOK
議論も終了 >>848
双方の考えを提示してるだけだよ
で、あなたのレスからしてあなたは畿内説なのに畿内説の人らの考えさえ知らなかったんだろうなと見てる >>771
>同じ周濠から新しい土器が出たらそっちで編年するのが基本だろ。
周濠の中にも堆積物が厚く積もっていて、周濠の底(地山の土質)から出てきたものと
その上にたまった堆積物の中に浮いた状態のものでは、同じ時期とはできないのが当たり前
纏向編年は、纏向大溝に下から溜っていた堆積物中の一括出土資料を基に作られている
同じ場所から出たものが同じ時期のものだというのはただのもの知らずの暴論 >>847
蓋天説を元にした測定法が載ってる『周碑算経』は後漢の成立で
三国時代も引き続いて使ってたと考えられる。誤差が大きくとも
他に代わるやり方が無いならそうせざるを得ないだろう
それに渾天説も結局地面は平らという考えだから、遠くになればなるほど
誤差が大きくなるのは変わらない
(中国では明の時代まで地は平ら、という世界観だった) >>850
ここの畿内説は古い情報に固執した偏見屋だから。
相手にするだけ無駄。 >>772
逆w
九州説が「短里を前提」にした暗号解読、行程パズルに拠ってしか成り立たないものだってこと
短里が否定されれば、九州説は即死
まあ、その前に古墳時代開始の編年で、否定されつくしているんだけどね あと神武東征とかなんとかに固執するのはやめーや
あれは神話だし、そもそも現存する中で編纂開始が最古だろうと思われる紀は
最初の大王とされる雄略を起源にして始めようとしてた節があるから >>774
>半島や倭で使ってた独自の距離単位を「里」で記載したんだろうよ。
これもない
注釈もなしに、東夷の蛮族の単位を皇帝勅定の度量衡の単位である「里」で書くはずがないし
それを里と書いてしまったのなら、隋書で夷人不知里數,但計以日とは書かれない
つまり、短里などはないんだよ
政治的な忖度で、倭国までの距離が誇張された「設定値」が使われているだけ >>851
堆積層からどうやって年数を推定したのか?
外部からの流入品であれば、他の事例も提示するべきだよな?
すべてあいまいな表現で言い逃れしてきてる現状を何とかしろよ。 近畿は3世紀前半まで出雲系の邪馬台とは別国
交易を通して繋がっていたがそれは鳥取まで
近畿へ記紀伝承の元になる大和系が始まるのは
4世紀半島倭人の入植から。
神武は半島から九州を介し近畿へ流れ込んだ武装集団
邪馬台から続く大陸朝貢倭王は北九州にいた大王で出雲は半島帰化倭人に制圧された。
近畿に部落や極端な権力階級層ができたのは半島帰化人の支配層と出雲の隷属層の二分化が原因なんだよ >>779
>ホケノ山の木棺がC14でも200〜250年あたりの可能性があるけど
それはこれで決着済み
https://i.imgur.com/qOswdpR.jpg
木棺の材だと、伐採年だとか心材だとか考えないといけないファクターが多いけれど
桃核はまちがいなく当年に植物が光合成して固定した炭素試料だから確実 >>788
大体は、卑弥呼を共立した首長連合の範囲が女王国でいいのだけれど、
自女王國以北、其戶數道里可得略載。と
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之 の二ヶ所の女王国は
女王之所都=邪馬台国じゃないと話が合わない >>801
>可也山は伊都国の北西にあるから
>呼子か名護屋浦付近に入港する前に見えたとして
>伊都国を東南だと誤認する原因になるね
ならない
伊都国から可也山はごく近くに見えるし
可也山のところに伊都国があるという認識になる
三雲遺跡から見た可也山
ttp://imgur.com/vOORE36
グーグルアースでの俯瞰図
ttp://imgur.com/cieiYbz >>801
>東松浦半島内からは可也山は見えない。
唐津湾が見えるところからならどこからでも見える
なんなら、呼子に上陸する前の海上からでも見える
詭弁にもなっていない
東松浦半島からの可也山(グーグルストリートビュー)
ttp://imgur.com/ilU5axs
海の上からの可也山(国土地理院地図)
ttp://imgur.com/NDSCnBu >>860
女王國以北は半島側を含むと考えれば問題ないんじゃ?
半島側こそ国境もあるし監視役を置いておかないとね。
諸国は韓国諸国かもしれないし。 新政府の新庁舎の跡(4世紀ごろ)に古代人の小さい旧庁舎の跡(3世紀末)が見つかった
巨大庁舎の跡は3世紀末からあったーー邪馬台国に違いないとか騒いでるのが畿内説なの? >>811
>新井宏や瑞野晋平のようなC14測定の専門家が否定的だから
新井宏氏は、季刊「邪馬台国」という邪馬台国の会(安本美典氏主宰)にたくさん
寄稿している「金属」考古学の人
14C測定の専門家ってことはないよw >>861
>>862
東松浦半島を南下してる間は見えないよ
魏志倭人伝では「草木茂盛,行不見前人」と書かれてる。 >>822
>一応殉葬の痕跡が見られるからセーフだよ。
これが、一番のアウトの理由
原田大六氏が殉葬って言ったのがいまだに一人歩きしているけれど
平原一号墓の周溝が長年の風化で埋まってから、その周溝を埋めた土を掘って土坑墓が作られている
1号墓本体と、周溝の「殉葬墓」に見える墓との間には、周溝が埋まるだけの時間差、
おそらく50年以上の時間差がある
そんな殉葬はない
さらに墳丘内にまで土坑墓が掘られていて、土坑墓が作られた時期には一号墓被葬者への
尊崇の念は既に失われていたようにさえ見える
さらに、土坑墓の副葬品の編年が3世紀前半になり、そこから50年程度前というと
公式報告書どおり、平原1号墓は2世紀末の墓になる
卑弥呼の墓であることを否定する根拠なんだよ、九州説の人が殉層墓だという周溝の土坑墓は >>865
この人が違うってのなら、C14測定での専門家っていないことになるけど
あと邪馬台国に載ってるから無視していい意見てのも可笑しいよ
小畑克己さんとかも載せてるが、普通に考古学で論文載せてるし
春成秀爾さん等にも考古学研究で彼の成果が引用もされてるし
基本、いろんな分野の人らが来てるのが考古学、邪馬台国に寄稿してるから無視しろってのはルイセンコ派みたいだからやめた方がいいかと そもそも公孫氏って司馬懿に殺されちゃったので、
公孫氏の持ってた詳しい記録(卑弥呼は公孫氏に朝貢してたと思われる)
をそのまんま使ったのじゃないかな >>825
これが明治9年の箸墓古墳の写真
https://pds.exblog.jp/pds/1/201405/21/42/a0100742_10144071.png
前方部と後円部の接続部分は低くなっていて、後円部頂部に墓があると聞けば
後円部が墓だと認識されるのがある意味当然
前方後円墳を上から見た平面図を見慣れていると、こういう感覚が分からなくなる >>867
とは言うものの中を確認したわけでもない箸墓よりはマシだ。
副葬品からして被葬者が女性であることも伺える。
奈良の3世紀の古墳で被葬者が女性と確認できた事例は無いだろ?
想像より現物を探すべし。 >>868
それと畿内説の人らも旧石器以前時代の考古学をメインにしてる人もいて
こちらもC14での専攻でないという人になってしまう
細部に拘っての専門の分類にはあまり意味がないよ >>869
あるある。
梁書だって魏志のコピペなんだし。
特に変更点が無ければコピペで完了でしょう。 >>828
>魏から貰った鏡が日本製?www
三角縁神獣鏡の全量が魏からもらった鏡だとは誰も主張していない
三角縁神獣鏡の編年で、最初期の鋳上がりのいい優品の何枚かは魏からの下賜鏡、
いわゆる卑弥呼の鏡の一部だろう
よく九州説は、三角縁神獣鏡は大陸で一枚も出ていないというが、
三角縁神獣鏡と総称される鏡の最初期のものは実は「斜縁」神獣鏡であり、
斜縁神獣鏡は大陸でも出土例がある 日本海側ではなく瀬戸内海のルートだと思うんだよな
日本海側なら伊都国から行けばいいから奴国や不弥国に行く必要がない
大阪湾は昔荒れてたから、兵庫県あたりで降りて徒歩のルートかな
呉羽姫は猪名川の港で降りたと伝承あるし >>837
>正直編纂した頃の皇帝の思惑もあって、そこまで信頼できるものでもないけどね
なのになぜ、陳寿一個人の私撰史書の三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳倭人条を
そんなに信頼するのかねぇ
方角が間違っているはずがないとか、どこから出て来るんだかww
短里で測れば正確、とかww >>875
畿内の立場を採るなら、日本海側ルートの方が有力だよ
秋〜冬以外は穏やかだし、陸行一月というのも説明できる
あと三国史記の新羅本紀に卑弥呼が新羅(秦韓諸国の有力国か)に173年(233年か)に礼物を献じてきたて記事もあって
日本海側だとそれも納得しやすい >>874
三角ではなく、斜縁神獣鏡となれば福岡だろ。 >>841
>自分で合わないように起点を勝手に決めてるだけじゃんw
この話を始めると、九州説の人は起点を思いっきり適当な場所にもって来るんだぞww
以前に九州説が言っていたのは、
末盧国に着いたところが名護屋浦湾
伊都国に着いたところが伊都カントリークラブというゴルフ場のあたり
奴国に着いたところが日向峠だそうだww
https://i.imgur.com/h2ujlEL.jpg
これ、名護屋浦湾と日向峠を直線で結んで、5:1に内分した点なんだぜww
笑えるだろ? 箸墓は槨があるから魏志倭人伝に書いてある卑弥呼の墓では無い
卑弥呼の墓の候補が全く無いのが畿内説 >>842
>日本海沿いの航路だったなら、鳥取砂丘や
投馬国・出雲は、四隅突出墓を作る広い範囲の連合政権だから
鳥取の辺りも東桂身墳丘墓を作る出雲の範囲内
>琵琶湖が登場してもおかしくないだろ?
琵琶湖は通っていない
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg >>876
正史の中でも高評価だから
中世以降の正史は表や私信はともかく、面白いけどやっぱり他の史書同様批判も多くしなきゃいけないよね
という書物
勿論、三国志かて批判する必要もあるけどね とにかく、箸墓は発掘せらるべきである(大カトー風) >>845
>土器文化はもともと住んでいた先住民族(縄文系)共通の文化だと思ってる。
庄内式土器、布留式土器は、精製器種と呼ばれる祭祀用供献土器を含む一括形式
祭政一致の時代に、祭祀用供献土器がただの流行や便利だからという理由で
広い範囲で斉一化すると考えることはできない
畿内では庄内式土器になる前に、畿内第V様式土器による斉一化が全国に先駆けて生じており
この畿内第V様式土器の出る「大和+河内〜環大阪湾」の範囲が、一つの勢力としてまとまった勢力範囲であり
邪馬台国七万戸の範囲と畿内説では考えている >>852
測定法があるのと実際に使ってたのかはまた別の話と言わざる得ない
倭国の位置に限らず後代の中国の史書でも距離方角滅茶苦茶よ
使っててそれならもう・・・ >>880
畿内説はダイレクトに根拠となる物が無いよな。
必ず妄想説明が付属するw >>866
>東松浦半島を南下してる間は見えないよ
だーかーらー、東松浦半島に上陸する前から東に見えているものが、
そこから南下していって南東になるわけがないだろって話
ある条件ではこうなる、という局所で話しても、全体の整合性の取れる話にはならない
なんなら、唐津に出たところからでも可也山は見えてるぞww
https://i.imgur.com/NfjPIhP.jpg >>868
新井宏氏は、14Cに関する論者ではあるけれど、14C計測の手段・設備は持っていないし
彼を専門家というのは無理があるよw >>783
古田古田煩えw
古田に親でも殺されたのかよ
誰が唱えようとも事実は変わらん
権威有る学者さんの説じゃないとダメ?
未だに鏡根拠に畿内説唱えてるような連中やぞw 九州も幾内も、同じ「日出る国処」ではないか。
諸君小難しい議論は止めたまえ >>871
>想像より現物を探すべし。
だから、九州説の人は「径百歩」の墓の現物を探してよ
径十歩に満たない墓を詭弁でこねくり回していないでさ >>893
設備を彼個人が持ってないとかいう頓珍漢な書き込みだけど
じゃあ畿内説の人ら全員もそうなるわな >>879
東松浦半島は海岸沿いじゃなくて内陸を直線的に南下ですね
その図は伊都カントリークラブを通ってなし
日向峠じゃなくて県道56号線を通って、王丸、曲渕です。
>これ、名護屋浦湾と日向峠を直線で結んで、5:1に内分した点なんだぜww
>笑えるだろ?
魏志倭人伝の記述に従っただけですけど。
君は何で自分勝手に起点を決められるのかが分からん
記述通りに進むべきだよ。 >>899
宮内庁的には
卑弥呼?知らんがな。
箸墓古墳は孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命の墓に決まってるだろ。
な、スタンスなんだろうな。 >>899
まあ掘らんことには分からんからな
てかアメリカに大仙古墳のを持ってかれても、だんまりなのに
国内じゃ古墳公開さえ不可にしてるからなあ
謎の万能カビがあるとのうわさだし >>875
>日本海側なら伊都国から行けばいいから奴国や不弥国に行く必要がない
このあたりに誤解があると思う
魏志倭人伝に書いてあるのは、漢代からの古い記録も含む倭国の地理の紹介記事だ
卑弥呼の朝貢への返礼使である魏使の報告をもとにしている「部分もある」から
邪馬台国への旅程記事だと思われているけれど、魏使の旅程に沿って
書かれている訳ではない
狗邪韓国、対馬、壱岐は間違いなく経由しているけれど、
そこから直接伊都国に向かい、そこで一大率の臨津搜露を受けて、
そのまま海路(水行)で奴国、投馬国、丹波に向かったとするのが合理的
末盧国に寄る合理的な理由がないし、末盧国から伊都国に銅鏡百枚他の大荷物を持って
陸行するのは不合理
末盧国の官の記載がないのも、魏使の訪問当時の記録がないからだろう >>899
天皇の正当性云々の話が出てくるけど
GHQ後の日本で未だ禁止する理由ってなんなんだろうね
最早隠す必要のあるものなんて何もないと思うが
いつか発掘許可が出るのかなあ
認知されてない新しい文明とか出てきたらとか思うとワクテカ >>880
>箸墓は槨があるから魏志倭人伝に書いてある卑弥呼の墓では無い
箸墓の内部構造を知っているとか、ひょっとして透視能力のある超能力者さんですか?
こうやって、嘘偽り捏造を繰り返し書くから、九州説は信頼を失うんだよ
まあ、その前に30年前から「エンタメ古代史出版界」以外ではオワコンだけれど 庄内式・布留(ふる)式土器が、3世紀後半〜4世紀中ごろの近畿中央部系というのは、本当なのだろうか >>526
イザナミ大神は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に
「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬されたと日本書記が伝える
それが熊野市有馬町に鎮座する花窟神社
つまり黄泉の国は熊野からつながることを暗示している 重巡洋艦
古鷹加古青葉衣笠
妙高那智足柄羽黒
高雄愛宕摩耶鳥海
最上三隈鈴谷熊野 ←
利根筑摩 このスレッドの、どの意見が、奥山氏の発表した意見なのだろうか >>902
臨津搜露を受けたのは末盧国の呼子か名護屋浦付近だよ
そこから宿泊地の伊都国へ、伊都国で女王卑弥呼と対面
荷物は末盧国で確認して伊都国へ倭人が運び、魏使は目録のみ持参 >>905
唐古鍵は墓が近くに無いから候補から外した。
墓が近くにある纒向を候補に上げた。
その墓が卑弥呼の墓で有るべきなので3世紀後半と編年した。
以上、関係者談w このスレッドでは、同じ建物から発表した意見は、IDという物が同じになるのだったな。 >>855
神武には固執してないよ
大和の古墳に鏡が入り始めたのが3世紀ごろだな
2世紀に銅鐸がなくなったな
東遷が有ったのはその頃だなと思ってるだけで この意見を発表した頭の悪い人物が、奥山氏なのだろうか。
ID:cRLWgUcb0
896名無しさん@1周年2019/06/13(木) 12:17:25.75ID:cRLWgUcb0
>>871
>想像より現物を探すべし。
だから、九州説の人は「径百歩」の墓の現物を探してよ
径十歩に満たない墓を詭弁でこねくり回していないでさ >>904
そりゃ天皇陵の治定がデタラメなのがバレるからだろw
こうなったら古代の陵墓から全部やり直しでもう収拾がつかない
触らぬ神に祟りなし臭いものには蓋をせよ >>891
東松浦半島上陸後は内陸を進むから見えないよ
唐津の海岸に出た場所からは既に二丈の山で遮られてる
東松浦半島の東海岸を回るのは遠回りだし倭人伝の「草木茂盛,行不見前人」からも内陸を進んでる。 この意見は、唯物史観を前提としている、頭の悪い者が思いつく意見ではないのかな、、、
885名無しさん@1周年2019/06/13(木) 12:08:23.27ID:cRLWgUcb0
>>845
>土器文化はもともと住んでいた先住民族(縄文系)共通の文化だと思ってる。
庄内式土器、布留式土器は、精製器種と呼ばれる祭祀用供献土器を含む一括形式
祭政一致の時代に、祭祀用供献土器がただの流行や便利だからという理由で
広い範囲で斉一化すると考えることはできない
畿内では庄内式土器になる前に、畿内第V様式土器による斉一化が全国に先駆けて生じており
この畿内第V様式土器の出る「大和+河内〜環大阪湾」の範囲が、一つの勢力としてまとまった勢力範囲であり
邪馬台国七万戸の範囲と畿内説では考えている 纒向を邪馬台国にするとホケノ山古墳を卑弥呼の墓とするのかな?
ちっさw >>855
神武陵と他の陵墓よりハッキリしてるから
東征は5世紀以後だろ
難波の碕から白肩の津に遡れるようになったのも草香の江が出来た5世紀以後だし。 学部用の専門の掲示板では、邪馬台国畿内説が完全に破綻して、テンプレートが論破されてしまったので、
ID:cRLWgUcb0 奥山氏は、このスレッドで、山遅刻畿内説という嘘の仮説を宣伝している可能性があるな。 >>918
中国製品が世界中に溢れかえってる現代は、中国独裁社会なんだよなw 邪馬台国を山遅刻とタイプミスしてしまった。。。
921名無しさん@1周年2019/06/13(木) 12:46:01.93ID:jV6swXdX0
学部用の専門の掲示板では、邪馬台国畿内説が完全に破綻して、テンプレートが論破されてしまったので、
ID:cRLWgUcb0 奥山氏は、このスレッドで、山遅刻畿内説という嘘の仮説を宣伝している可能性があるな。 >>915
天皇陵の比定は、延喜式と記紀の記述等をベースに行われてるが、決してデタラメ書いてるわけではない。 渡来系弥生人(現代日本人)が北部九州地域から日本列島全体に拡散したのも古墳時代になってからだから
3世紀に関西に邪馬台国とあるはずがない。 スレを一切読んでないけど近畿パー連呼が発狂してる予感 ID:cRLWgUcb0 奥山氏は、IDを次々に変えられる可能性があるな。。。 >>925
そうすると紀元前3世紀に畿内に稲作を伝来させたのは誰なんだ? >>927
ここに畿内説は一人しか居ないから自演は丸わかりだよなw >>928
生駒山信貴山より東は毛人の国だから九州から太平洋側ルートで紀伊半島に渡った縄文人でしょう。 女王国は熊本だな。
丹は阿蘇ベンガラのことだろ。
狗奴との絡みは現代解釈でずれてる。 稲作を始めたのは縄文系弥生人で渡来系弥生人は弥生時代の中期以降に北部九州地域に移住してきて
古墳時代になって全国に広がったんだ。 ID:vafd0fe+0は、75パーのキャラクターなのだろうか >>904
戦後犠牲になった戦友や遺族の天皇に対する思いのことも考えてあげよう
世代交代して、歴史として認識できるようになってからだと思うんだが
皇室に対する思いとか継承問題とかいろんな不都合が邪魔してる気がする >>936
女王国は伊都国と奴国(糸島市と福岡市周辺)
熊本は女王(邪馬台国)の一部。 >>396
東海じゃなく、三河だろ
しかも、以降は三河が勝ちっぱなしなのが、日本の歴史だ
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平 中国は墓の構造を注意深く見ているね。
魏志倭人伝(3世紀)
「棺有槨無」 = 棺有り槨無し
ここに土を盛るので墳丘のことだと思われる。
隋書(6世紀)
「死者歛以棺槨」
死者は棺、槨に収める = 棺有り槨有り
これが前方後円墳を表している。 奥山氏はコンビニにオニギリを買いに行ってるのかな?
いつものようにw >>845
あんた、日本史板でコークリ君と呼ばれてる、日本語をそこそこ話せる外国人だろ?
弥生時代の日本列島で、渡来系がいたのは九州だけで、本州にいたのはほとんど縄文系という言い分だよな
だから、弥生土器を縄文土器だと言い張るわけだ
古墳時代に渡来人が押し寄せてきて、ヤマト政権を作り、
日本列島で民族総入れ替えがあったという珍説を唱えてるやつだろ?
そんなデマを流す動機は何? まあ九州は鉄はあるけど魏の頃の鏡がないのが苦しいわな
畿内は古墳がちょっと新しいかもしれないのが苦しいわな 纏向は九州の邪馬台国とは全く関係ない。
伊勢愛知静岡の勢力をバックに作られた遺跡で崇神天皇はそこの王で
のちに東征してきた九州勢力に王位を簒奪された。これが神功、応神、仁徳あたり?
>>915
継体天皇以降は問題ないにしてもそれ以前の古墳を発掘禁止にするから不信感をもつわけで。 画文帯神獣鏡は洛陽でも出てるが
圧倒的なのは呉の支配地域からのがな
となると三角縁神獣鏡か。枚数と扱いがぞんざいなのが気になるけど
卑弥呼も鏡を貰った時に裏に名前書いとけよ >>897
>設備を彼個人が持ってないとかいう頓珍漢な書き込みだけど
個人が持っていないじゃなくて、それを計測するような分野とは本来関わりのない人だってこと
測定原理を研究していて、実際の測定をやっている人がその分野の専門家だろ?
新井氏は14Cに関しては、批評家だよ >>600
三河県西尾市にヤマタノオロチ伝説がある
ヤマタノオロチの八つの首が流れ着いたのが八ツ面山(三河県西尾市)
八つの尾が流れ着いたのが、福地の八ヶ尻であると言われています。
ヤマタノオロチは氾濫する川を表しているそうで、これは矢作川かもしれんな
久麻久神社
http://www.genbu.net/data/mikawa/kumaku2_title.htm
そこには怪しげな名前の神社があるが、朝鮮人は久麻は高麗ニダ、高麗が来たニダと主張しているらしい >>947
それ誰なんだよ?
さっきもnn氏とか言われたけど?
既存文化と外来文化の区別が必要なのはわかるだろ?
外来のみ且つ政権維持に必要なものを抽出し、その拡散範囲を確認するべきだよな?
そこで価値の高かった鉄の流通経路を探れば良いとなるわけでさ。
そしたら畿内は外れるねというだけ。
土器の分布なんて上で言われてるように流行り廃りのあるものを
勢力範囲とするのは非科学的なんだよ。 邪馬台国が畿内にあったならそれはヤマトで大和王朝になったと言えるが
九州にあったとする場合は後にどうなったかまで考えないとな >>948
間をとって吉備じゃねーか?
12000里も合うし >>947
>古墳時代に渡来人が押し寄せてきて、ヤマト政権を作り、
>日本列島で民族総入れ替えがあったという珍説を唱えてるやつだろ?
最近のDNAの研究ではこれに近い話になってるな。 >>957
纒向は4世紀半ばで消滅してるがどうやって大和朝廷までこじつけるんだよw 3世紀後半にもなってくると大陸情勢の変化から、韓国南部に住む渡来系倭人たちが日本側へ大勢移動する
将来的に、大陸との覇権争いになると確信してる倭人たちは、得意の回航機動力を生かして、日本各地の豪族に、組織的防衛国家の必要性を説明して回る。
当然保守的な国も多数あり、地域的な紛争も起こるが、畿内では多くの周辺国と交流が盛んでなんとか受け入れられる。
九州在住の一部の集落の倭人も、畿内へ移動し、都の創設に駆り出される。
こうして、九州に弥生時代の集落跡が残り、九州北部は韓国への遠征の足場としての機能を強化していった。
このころの日本の情勢ってそんな感じなんでしょうか? 頭の悪い奥山氏が、コンビニから帰ってきて、意見を発表した可能性が高いな。。。
954名無しさん@1周年2019/06/13(木) 13:16:22.05ID:cRLWgUcb0
>>897
>設備を彼個人が持ってないとかいう頓珍漢な書き込みだけど
個人が持っていないじゃなくて、それを計測するような分野とは本来関わりのない人だってこと
測定原理を研究していて、実際の測定をやっている人がその分野の専門家だろ?
新井氏は14Cに関しては、批評家だよ >>903
>掘ってもいない箸墓が根拠かw?
掘る以前に、魏志倭人伝に「大作冢、徑百餘步」と書いてあり、
王の死後に巨大な墳丘墓を作る葬送祭祀の文化だと明記されている
王の墓である以上、その代で「最大の墳丘墓が倭王の墓の第一候補」になる
で、吉野ヶ里の北墳丘墓の10分の1サイズの、成人男子が10人もいれば一週間で
作れるような、墓坑周りの柱列の並びも揃えていない小さな墓がなんだって?ww >>957
景行天皇や神功皇后が九州征伐をやった時に、女性首長が結構出てくる
邪馬台国が仮に九州にあったとして、邪馬台国が女性を長に戴く風習を続けていたなら
ヤマト政権が滅ぼした九州にいた、いわゆる土蜘蛛の一つが
邪馬台国のなれの果てかも知れない >>906
本当じゃないよ
庄内0式は少なくとも3世紀初頭まではさかのぼる 熊本の遺跡には北部九州土器も見つかり
熊本に九州統括国があったのは間違いない。
しかし災害で消滅したんだろう。
恐らく薹与時代に土石流が発生し王都が消滅した。
それが失われた4世紀となる 「大和朝廷」に戻せ
ヤマト王権なんてビックリマンチョコみたいな名称を使ってるうちはどんな研究にも取り合わない
「大和朝廷」に戻せ みんな知りたいのはいとちゃんがあれからどうなったのかだけ >>959
サイエンスZEROで篠田教授が言ってもないことを捏造して作った話だな >>965
女性首長は紀伊にも居たよ
名草とべやにしきとべだよ >>961
渡来人は4世紀末に畿内へ直接流入してるよ。
ソースは>>556
三国史記によると九州は頻繁に半島を攻めてた。
同時期に半島から畿内へと移住した渡来人がいる。
九州勢力が百済で、新羅が畿内政権じゃないかな。 >>910
>臨津搜露を受けたのは末盧国の呼子か名護屋浦付近だよ
誰かが来るたびに一大率は伊都国からえっちらおっちらそんな遠くまで
臨津搜露しにいくのかい?ww
常治伊都國なのに?
通信手段もない時代なんだから、海から誰かが来たらそこから伊都国まで
一大率を呼びに行って、そこから一大率が来るまでボーっと待ってるんだww
無理な想定だろ?
思いつきで適当なことを書いても、意味のある説明にも根拠にもならんよ >>954
スマホとPCを一々使い分けするのはやめてほしいってのと
原理や手法自体は抑えてるから
実際に測定する人だけが意見を言える云々てのも科学の中じゃあ可笑しな話でね
年輪年代法の基となるデータを非公開にされたまんまなのを批判されてる理由もそこにあるんだから >>952
だから継体天皇以前の天皇陵の治定こそ怪しさMAXとしかw
まぁ天皇陵に治定されてないのは普通に発掘すれば良いけどな この意見の発表者の頭のレベルも、頭の悪い奥山氏とそっくりだな。。。
964名無しさん@1周年2019/06/13(木) 13:21:40.11ID:NlHohoJb0
>>903
>掘ってもいない箸墓が根拠かw?
掘る以前に、魏志倭人伝に「大作冢、徑百餘步」と書いてあり、
王の死後に巨大な墳丘墓を作る葬送祭祀の文化だと明記されている
王の墓である以上、その代で「最大の墳丘墓が倭王の墓の第一候補」になる
で、吉野ヶ里の北墳丘墓の10分の1サイズの、成人男子が10人もいれば一週間で
作れるような、墓坑周りの柱列の並びも揃えていない小さな墓がなんだって?ww >>916
>唐津の海岸に出た場所からは既に二丈の山で遮られてる
二丈の山って何のこと?
実際唐津の海岸から可也山見えてるんだけど?
https://i.imgur.com/NfjPIhP.jpg
現実は否定できないよ? >>954
それと実際に測定観測してない人でも
そういうのを基にして批判であれ修正であれ、発展であれ、論文書いてる人がいるのが科学
見識狭すぎる ID:qNe1dpbj0が近畿パー連呼の人なんだww
以前に散々やり込められたから、今回は具体的なことは書かずに
ただ否定するだけにしたんだねww
つまり、既に手詰まりだってことだww >>973
神武に殺された女性かあ
畿内説の場合、東遷が四世紀だとすると
邪馬台国の後裔の可能性もある? >>957
邪馬台国が勢力を失って日本が空白の戦国時代になった時
その残党が大和に移動しここはまほろばじゃーと住み着いて上手く馴染んで
またまた勢力を拡げたという妄想はどうだろうか >>936
>丹は阿蘇ベンガラのことだろ
ベンガラは丹土だよ
酸化鉄は、どこでもあるから国の特産品としては特記されない
其山有丹とわざわざ書いてある以上は、仙薬たる辰砂・水銀朱と見るのが妥当 >>968
いやそれは違う
あれはただの極東(特に百済らへん)を指す用語を
倭の代わりに用いてくださいっていうお願いだから
「え、そんな安易な(俺たち中心の見方の)名称でいいの?」て疑問に思ってる様だよ >>957
ヤマト王権に滅ぼされた
あるいは吸収された
でいいんでない?
邪馬台国=ヤマト王権ってわけではないし >>987
「有」は特に価値が無いものに使う表現
価値の高い特産品は「出」を使う 邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定の奥山氏は、学部の掲示板での討論に完全に敗北し、このニュースの掲示板で宣伝しているが、
人間のレベルが低いので、宣伝が失敗している可能性が高いな。。。 >>977
伝景行や伝崇神は、江戸時代後期からころころ変わってるんだっけ
今城塚古墳もそもそも継体陵とは言われてなかったしね >>987
特産品を記しているわけではない。
丹は中国にとって珍しくも何とも無いんだからね。
その判断根拠が非科学的なんだよ。
畿内説は皆そうなのか? >>993
そう
宮内庁は認めないけど継体天皇陵はあれ今城塚古墳だしな 邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定の奥山氏は、学部の掲示板での討論に完全に敗北し、このニュースの掲示板で宣伝しているが、
やはり、学部の掲示板での討論会で正々堂々と闘った方が、良いのではないのかな。。。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1560272776/l50 九州ー瀬戸内海ー紀州半島
とくれば、これはもう神武東征の道筋まんまじゃなかろうか 畿内説がわざわざ5ch対策担当を設置してるのが異常だよ。
印象操作は犯罪だぞ。 朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、どのような詭弁で、整合性を守りながら説明するのだろうか。。。 このスレッドは1000を超えました。
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