【邪馬台国】被葬者は卑弥呼率いるヤマト王権の対抗勢力の首長? 高尾山古墳保存を議論 文化財協議会、静岡・沼津で全国大会
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シンポジウムには4人が登壇した文化財保存全国協議会=静岡県沼津市で
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2019/06/18/20190618ddlk22040172000p/9.jpg
文化財保存の全国的市民団体「文化財保存全国協議会」の全国大会が16日、「駿河・伊豆の初期古墳の保存と活用」をテーマに沼津市立図書館で開かれた。約120人が参加し、高尾山古墳(同市東熊堂)の保存・活用を巡って議論した。
高尾山古墳は全長62メートルの前方後方墳。230〜250年ごろの築造とされ、この時代の古墳としては弘法山古墳(長野県松本市)と並び東日本最大級。被葬者は卑弥呼率いるヤマト王権の対抗勢力の首長と考える専門家もいる。2015年5月、日本考古学協会が保存を求める会長声明を出す中、沼津市が道路建設を理由に取り壊しを発表。市民運動の盛り上がりで、市が同年8月、取り壊しを白紙撤回した経緯がある。
大会のシンポジウムで、渡辺康弘・元静岡市教委学芸員が「立派な古墳を造るだけの経済的・政治的なバックボーンがあったことが重要」と指摘。橋本博文・新潟大名誉教授は「『ヤマト文化圏』の西日本に多い上方作(しょうほうさく)系の鏡が『狗奴国(くなこく)文化圏』の高尾山古墳に副葬されている点が非常に気になる。古代国家形成過程を知るうえで非常に重要」と評価した。
保存を巡っては、笹原芳郎・田方農高教諭が「かつて城と言えば石垣のある城が人気だったが、今は土の城がブーム。百舌鳥(もず)・古市古墳群が世界遺産登録を勧告される中、古墳を巡る旅がブームになるかもしれない」と発言。小笠原好彦・滋賀大名誉教授が「高尾山古墳の発掘調査でこの地域の夜明けが解明されてきた。歴史的意味は大きい」とまとめた。【石川宏】
毎日新聞:2019年6月18日
https://mainichi.jp/articles/20190618/ddl/k22/040/104000c?inb=ra
午後は、記念講演「『卑弥呼の時代』は何時代か」(橋本博文・新潟大名誉教授)▽報告「沼津市高尾山古墳発掘調査の成果」▽報告「高尾山古墳の保存運動と課題」がある。
毎日新聞:2019年6月13日
https://mainichi.jp/articles/20190613/ddl/k22/040/183000c?inb=ra
関連動画:
19/06/16 江藤幹夫基調報告録音動画「高尾山古墳の保存と課題」
https://www.youtube.com/watch?v=Bxm38sLWeRI 奈良でも前方後方墳が見つかっているけど
3世紀の纒向遺跡の外来系土器は東海系
卑弥呼を共立した国の一つやろ >>6
1500年以上も前の前後関係が
50年単位で分かるわけないだろバカw >>6
じゃあ聞くけどその精度の高い年代特定(笑)で学者に有無を言わせず賛否両論の隙も与えない飛鳥以前の定説挙げてみて? 人は記憶型と思考型に大別できる
倭人伝に倭国の東南に船で1年ほど行くと黒歯国があると書かれてる
たぶん黒歯国が大和政権だ
邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
滋賀の愛知川の南岸にある神郷亀塚古墳
日本最古の前方後方墳
近くの斗西遺跡
吉備など纒向遺跡と同じ傾向の外来系土器が多い集落
前方後方墳勢力も卑弥呼を共立した勢力だろう
ヤマト政権の一員 国道246の西端を延長して、国道1号に合流させる地点の
100mほど手前になるので、三島の上石田のインター周囲の渋滞を解消するのに
丁度いい工事で、すでに手前1.5kmほどは完成しちゃってるのもあって
みんな困ってるとこです。
道路も古墳も好きな私には、両方なんとかしたいところ。
古墳を史跡公園として残して、その上空を道路をオーバーパスで
作れないかなぁと思うのですが。 東海は火の国
火関係の神様ばかり
焼津
火vs火の戦いになったのは、どういう意味だろうか? オカルト歴史学
オカルト考古学
その実態は、朝鮮文化庁 隣りの熊野神社を破壊しろ
熊澤天皇なんぞイランから 大体ヤマト政権に対抗していたのは征伐された畿内の人々や伊吹山の人々、九州北部の人々、関東の人々 もしも短里はないと言い張るなら、すなわち長里ということになり
郡より万二千里は奈良を素通りして新潟、長野、静岡あたりになります >>17三島の上石田のインター周囲
三島じゃないよ。土地勘のない人がわんさかいるから
もう少し丁寧に書いて欲しい。 長里やと12000里は約5000キロだからな
日本の倍近くの長さやねん 教えて!いつから卑弥呼がヤマトを率いるようになったの >>30
邪馬台国を「やまたいこく」って読んだのは本居宣長なんだって 大和国の最初の王であるニギハヤヒは三河県豊橋市出身の可能性が高い
ニギハヤヒの天孫降臨時期
2世紀後半(倭国大乱)
ニギハヤヒの天孫降臨経路
三河→伊勢→熊野→河内(天孫降臨)→大和(纒向)
三河県豊橋市の石巻山は三輪山の奥の院であると大神神社の社伝に書いてある
大神神社の拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥の院、三河県豊橋市の石巻山(神山(ミワヤマ))に向いているわけだな 倭人伝には狗奴国は邪馬台国の南にあるって書かれてるのに
て事は邪馬台国は甲斐国かw 核DNAで3世紀には北部九州地域くらいにしか倭人は住んでいなかった事が判明したから
本州に邪馬台国はないな。 >卑弥呼率いるヤマト王権
ヤマト王権=邪馬台国なのか? 三河県には、クナ国的な強さはあるよな
邪馬台国の目の上のたんこぶだったわけだが
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 尾張三河など東海勢は何度も畿内を征伐している
倭国大乱の覇者でヤマト政権を打ち立てたのは東海勢だろう
壬申の乱の勝者も東海
戦国時代、畿内をボコボコにした信長も東海
関ヶ原の戦いの勝者も東海
常に勝ち組なのが東海勢 >>39
違うよ。神武以前は近畿はヤマトでは無いからね。 邪馬台国はヤマト国で山門国のこと。
山門が発祥の地。 >>今は土の城がブーム
見張所やのろし台みたいな小さなものも含めたら土の城ってそこらじゅうの山にあって、誰が作ったかよくわからないものもたくさんある
堀切とか竪堀とか技巧を凝らしたものも多くて城ヲタには土の城の方が好きって人も多かったりするらしいな >>42
古墳時代に九州地域から現代日本人は日本列島全体に広がったんだよ。 卑弥呼没後の倭国騒乱時に九州の勢力が近畿に遠征したのが神武東征神話のモデル こいつらアホなのか
いやアホだろ
どんどん北上してのに
どんだけ魏志の記述無視したストーリー作ってんだよ 卑弥呼はヤマト王権側なのか対抗勢力側なのかはっきりしない記事ですねえ >>47
魏志倭人伝
女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。 >>34
だから卑弥呼が「ヤマト王権の対抗勢力」を率いているんですよ、きっと。 前方後円墳はヤマト王権の象徴なので対抗勢力はありえないでしょう 魏志と隋書に書かれる邪馬台の所在地記述は九州島内に帰結している。
東西南北も分からんで列島に大陸人がこれるかよ
近畿とか関東とか臺与以降、吉備へ拡張し4世紀以降の開拓の話だろ 近畿パーがとにかく必死だけど九州倭国と近畿日本は別の国ww 4世紀も王権が近畿にあったかも怪しのに
どんだけ乖離していくんだ 近畿パー連呼の九州説が荒らしてると予想して来たが、案の定荒らしてるわw ヤマト政権に抗ったのは、どう考えても征伐された近畿の人々ですよ
記紀にもヤマト征伐によってヤマト政権が始まるとリアルな描写を伴って描かれているからね
更にヤマト政権に最後まで抗った伊吹山の神
四道将軍の派遣先の関東
この辺の人々がヤマト政権に抗ったんです
倭国大乱から600年、多くの犠牲があって倭国大乱前のありようを取り戻した、やっと平安が訪れたんだよ 当時、伊勢湾は岐阜の大垣まであり、奈良から名古屋へ行くには船で渡るのが主流だった。
もちろん、邪馬台国の東にある国というのは、名古屋や三河、静岡、関東にある国。
静岡までは邪馬台国の範囲であったようだ。だから、伊勢という奈良の外港が重要だった。 近畿パーの近畿内説が荒らしてると予想して来たが、案の定荒らしてるわw >>61
それは全然怪しくない。
邪馬台国では無いと言うだけ。
近畿日本のことだから。 近畿パーの畿内説が荒らしてると予想して来たが、案の定荒らしてるわw >沼津市が道路建設を理由に取り壊しを発表
沼津市、頭おかしいwwwwww
てか、道路屋の頭の構造は異常w 前方後方墳だから、前方後円墳と微妙に違うんよな
前方後方墳は九州やらにもあるけど、前方後円墳にしなかったのはなんでやろか いつから邪馬台国とヤマト王権が一緒くたになったんだ??? ┏( .-. ┏ ) ┓
【任天堂は、フジテレビに乗っ取られてます】
*昨年末には、完全に乗っ取られました
フジテレビの集金会社に成り果てて
アメリカ側にも、税金を支払って無い様です
--
*任天堂本社はここ一年近く
私に対して、超伝導素粒子の石(針)礫を飛ばす様に
フジテレビ&日本政府(Google Android陣営)に依頼しっ放しでした
(蜂🐝に刺されるより痛みが凄い)
多い時は、一晩で数千億円依頼料💴を使ったとか
本日も、数億単位で受け付けたとか聞いて居ります
(仮想通貨経由) pv
https://mobile.twitter.com/prettypumpkin71
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 九州倭国と近畿日本の二つの国があって、小国だった後者が強大化して九州倭国を併呑し、
名前(ヤマト)も騙った。
それだけのこと。
旧唐書にある通り。
>>63
元々、奈良に住んでいたのは出雲族の鴨族や葛城族。そこへ、天皇家が攻めてきた。
鴨族は全国へ広がり、京都の下鴨神社や上賀茂神社が有名。 1.被葬者は「卑弥呼率いるヤマト王権」の対抗勢力の首長
2.被葬者は卑弥呼率いる「ヤマト王権の対抗勢力」の首長
どっちともとれるんだよなあ >>64
こういうのを待っていた。
三河がどうのだの九州がどうのだの、
郷土愛で歴史を語るのは厳に謹んでいただきたい。 狗奴国を愛知だの群馬だのに適当に当てはめるのゲキ萎えですわぁ
今度は静岡かよ 馬がいなきゃ其処まで行きません。邪馬台は九州、敵対するにも遠すぎて疲れて淀川で流されます。 四道将軍は九州から派遣されてる
邪馬台は九州の行橋であり
九州討伐などされていない。 カムヤマトイワレヒコ(神武)
カム=神は井沢の説で良い。王朝の始祖と言う意味。
ヤマトは邪馬台(山門)
イワレは謂れ
ヒコは王
神武は近畿がヤマトと呼ばれる謂れとなった王であり、王朝の始祖である、という意味。
(言い換えると、神武以前は近畿はヤマトでは無かった。)
記紀なんて偽書信じる奴まだいるのかよ。
天武が偽装した過去にいつまで振り回されてんだ >>64
証拠ねーやん
ヤマトタケルは伊勢から尾張周りで東に向かってるし >>87
いろいろ偽装はしてるけどまるきりの嘘はそれほど多くないと思っている。 >>90
7世紀までは嘘だよ。
隋書と記述が合わない時点で終わってる >>89
わたしは昔からなんで関ヶ原(つまり昔の関の一つ)が奈良からあんなに遠回りなところにある
のか不思議に思ってたんだけど、ある時に伊勢湾が大垣近くまで入り込んでたって話を聞いて
腑に落ちたところはある。 >>91
だから完全な嘘は少なくて、いろいろな豪族の伝承を組み合わせて
捻り出したものだと思うんだよね。 千葉というところは阿波や和歌山から漁民が集団移住しているので関西の文化に近い 九州倭国と近畿日本の二つの国があって、小国だった後者が強大化して九州倭国を併呑し、
名前(ヤマト)も騙った。
それだけのこと。
旧唐書にある通り。
カムヤマトイワレヒコ(神武)
カム=神は井沢の説で良い。王朝の始祖と言う意味。
ヤマトは邪馬台(山門)
イワレは謂れ
ヒコは王
神武は近畿がヤマトと呼ばれる謂れとなった王であり、王朝の始祖である、という意味。
(言い換えると、神武以前は近畿はヤマトでは無かった。)
水行で逃げてきた連中だろ、俺の本籍沼津の院だが、九州まで行かんよ、魚取ってみかん食っとるよ。 >>94
それも根拠に乏しい
風土記ですら後代の記述
恐山のイタコの口伝が信用できるか?
文字のない時代の伝承などそもそもあてにならんし
天武以降焚書による徹底した証拠隠滅が嘘だと言ってる様なもの もう決着してますよ
九州説みたいな学術的根拠のない俗説はどうでもいいです
九州説は所詮エンタメコンテンツに過ぎないと自覚してください
国立歴史民俗博物館FAQ
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c 「狗奴国」静岡(沼津)説か。
東海地方は「狗奴国」を主張するのが好きだな。 ヤクザの喧嘩でも、ある場所で抗争が始まれば、それ以外の場所でもそのスキをついて色々な変化が起きる
つまり倭国大乱で九州と出雲で抗争が始まると、いち早く太平洋沿いに移動し東海地方に居着いていた一派が大和に移動し国を建てた
一つにまとまらんと、次にやられるかも知れんからな
コレがニギハヤヒの天孫降臨だ
その天孫降臨に吉備だとかから、仲間が馳せ参じてきた
何故、大和かと言うと、仲間が集まり易いからだ
飲み会でも、集まり易い場所にセッティングするだろ >>99
また歴博かよ。
お前ワザとやってるだろw 神武は東征したのでは無く、
近畿日本に雇われて頭に据えてもらった雇われ店長。
東海から大和に移動しても、全てが移動するわけではない
現地を今まで通り、自分の領地のままにしとかなあかんからな
その古墳の主は、残って統治していた奴もしくは、その子だろう 中国に朝貢しとるし使者を送っとるんだから、文字も言葉もあるさ、民は基本、教育されとらんから読み書きは出来ないし、支配側は教えないよな。古史古伝も残っとるが、全部偽書扱いが日本、内容は知らん。卑弥呼は鬼道だから、甲羅や骨に字を書いたかもしれん、今日は炒飯とか そして神武かなんか知らんが、4世紀後半にやって来て、国を譲ったわけだが
譲って、そのままいるのも居づらいだろ
だから故地の東海地方に、また根を張った
そして、そいつらが中世に牙を向くわけだ、三河の王たる源頼朝を旗頭にしてよ
難しく考えるな
三河の源頼朝は、実は東海地方の物部氏族の力を借りて東国に武家政権を樹立した
物部氏族国造
参河国造
遠淡海国造
久努国造
珠流河国造
伊豆国造
久自国造
三野後国造
小市国造
風速国造
松津国造
末羅国造
熊野国造
源頼朝、関東御分国
三河国 (異説あり)
遠江国
駿河国
伊豆国
武蔵国
相模国
上総国
信濃国
越後国
伊予国
豊後国
下総国 記紀はまるで作り話しでは無い。
記紀は根も葉もあるウソ。(根も葉もあるが幹が無い)
神武は東征したのでは無く、近畿に招かれた。
その旅行譚を東征劇に脚色、捏造して載せたのが記紀の神武東征。
神武は隼人(投馬国=妻国=囎唹=ハヤ)出身。
天孫降臨は、血筋は良いがあくまで傍系に過ぎない神武の血を飾るために
神武の周辺に居ただれかが妻国の神話を元にデッチ上げて
神武に土産話しとして持たせたもの。
(もしかしたら土産話しと言う言葉自体がこれが由来かも知れない。)
まーたゴッドハンドで歴史捏造合戦か?
バカなんじゃねーの? しかし日本の正史である記紀が歴史捏造してるわけでね。 天武のクーデター王権にとって
九州倭国は忌まわしき過去 >>111
正史とは王朝が交代した時に次の王朝が前の王朝の歴史を編纂するもの
8世紀初頭に王朝交代があったんですね。 神武東征をどうして国内と限定すんのかには疑問があるな。倭王武だって鎮東大将軍なんだよ。記紀の神武は、この武か高句麗の神話大武神から引っ張ってきて話作ったと思ってんの。 中国や朝鮮の歴史書に、そんな事は一切書いていないからだろ
難しく考えるな 何れにしろ九州の拠点には邪馬台国があった、その後が倭の5王、それから難波、奈良。邪馬台を近畿が統一したとするなら攅が近畿の王だったということかな?近畿派わ >>114
本来は前の王朝歴史書編纂だったんだが
前王朝の歴史を自分達の歴史として記紀は完成したんだ。 日本書紀に載っている「倭皇」への国書も、
元々は九州の倭王への国書。
それを王を皇へ改竄して近畿日本の天皇へ送られたことにして日本書紀に載せている。
記紀は根も葉もあるウソ。
>>120
いや建前としては近畿日本は九州倭国に征服されたんだから王朝交代して無いことになってるよ。
少なくとも記紀を編纂した近畿日本は公的にはそういう立場ね。
ウソだけどね。 では、近畿派は元々邪馬台も近畿で三韓征伐をした倭の5王、そして鎮東大将軍になった武の鎮東が東征としてはとらえてないけど、近畿からで良いのかな? >>14 の続き
黒歯国が近畿の大和で間違いないとするなら九州から1年と書かれてるので魏志倭人伝の日数距離はこの程度の精度ってことだな
よって投馬国の水行二十曰や邪馬台国の水行十日、陸行一月などは2,3日から1週間程度に縮められる しかしみんなだいぶオレの言うこと真面目に聞くようになったね。
数年前とは様変わりしたな。
やっぱ卑弥呼がホトを射らせて死んだ話しと、
裸国、黒歯国はハワイだって話しがこたえたんだろ?w
その内まとめて全部書くよ。
もうどれも一度は書いてるんだけだどね。
みんな真実は面白いんだってことを知るべき。
でなきゃ腐るぞこの国は。
何故?
国津神と天津神に別れているのか?
ここで大きな隔たりがあったのは間違いない
もちろん天津神は新しい神であり、ヤマト朝廷に繋がったことにして
歴史書を編纂したのだろう
船で来たことになっているが、明確に出立地を書いて残していないのが何故か?
例えば外国であれば国名を書くことで残すことが出来る
船で来たのだから、元々の土着民ではない、のに書けない
同じ倭人であれば外国という認識が無いだろう
では船でどこから来たのか?
本州ヤマト朝廷に日本のどこからやって来たのだろうか? >>126
そんな与太続け無くていい。
中止しろ。 ┏( .-. ┏ ) ┓
【八咫烏と、Apple Inc.】
*Appleとは【Google Android 半導体チップ】を搭載している
当初、日本政府がAppleを乗っ取って居たが
最近、フジテレビが乗っ取って居る
そしてとっくに基地外企業🔪🔪に成り果ていた
--
*現在のAppleには、安田クローン体と思われる人物と
Appleの量子サーバー(主要サーバ)群を扱う、安田電子体が存在している
*安田ネット電子体とは、半導体チップ内の意識ある素粒子に働き掛けたりもする
ティム・クック(CEO)は、その動きを迎合している
--
* 八咫烏とは、8チャンネル鴉(カラス)の意味であり
初めは陰陽師好きの、安倍の清明では無く、安倍首相が愛用していたが
本来は、8チャンネルのカラスの意味も含んでいる zq
--
*フジテレビがAppleを重要視するのは
海外の要人や富裕層がMacやiPhoneを多用している為
個人情報を抜いたり、Wifi網に捉えて置きたいからである
https://mobile.twitter.com/prettypumpkin71/status/1140976996328960000
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>126
12日を12月と誤写し、それを1年と書き改められたんだ。 >>115
おまえは今まで通り高麗神社ホルホルお百度参りしとけ糞チョンw あと、オレは日本を動かしてるだろ。
たかが書き込みで国を動かすことが出来るんだぜ。
驚くべきことだとは思わないか?
これが真実の力だ。
真実は、良くも悪くも核兵器みたいなもんだ。
それを学ぶべき。
そして、
お 前 も 使 え 。
カタワで一生終わるつもりか?
>>6
年輪測定法を考えた奴は頭おかしいし、実践した奴は輪をかけておかしいと思うね >>34
同感
卑弥呼はヤマト王権には関わってないと思われ
る
そもそも卑弥呼が率いてた国は大袈裟に中国から金印もらったよって伝えたはずだ
ヤマト王権に卑弥呼の金印がない時点でヤマト王権の敵対勢力の王だったと考えるのが自然 まあ恐れる気持ちは分から無いことは無いがね
いつまでもそれでいいってのは、カタワだなカタワ 大化の改新、壬申の乱、記紀編纂
ここから我々の知る日本の歴史が始まる
逆に言えば、神武天皇やヤマトタケルどころか、聖徳太子や蘇我入鹿でさえ神話の登場人物のようなあやふやなものなのだ
言わんや邪馬台国をや >>91
同感
中国でも殷とかなら伝説とかもわかるけど、三國志の時代の遥かに後の隋だからね
聖徳太子の時代
こんな中国からしてみれば新しい時代では文書もかなり正確になっていたと思われる
反対にそれまでの日本の古い文献は全て焚書して残してない
たまたま日の目をみれた古事記もかなりあいまいなものになってるしな
日本書記なんて嘘っぱちと考えた方が無難だろう
そもそも卑弥呼の国と繋がっていたら焚書する必要もなかった
古事記より古い文献ものこしていたはず >>140
その通り
実態は天智天皇から始まったヤマト王権と考えた方が無難
それ以前の話はかなり改竄されて天智天智にいいように描かれてる
天武天皇の子孫の時代もそれほど長くなく、結局天智天皇の子孫が天皇になるわけだしさ 他のひとも言っていたけど、結論が嘘っぱちなだけでそんときのエピソードを脚色してんのよ、その参考文献を燃やしちゃったの 毎回同じやつらが同じことを言い合っている邪馬台国スレ 道理だよ、辻褄を合わせていってるだけ、こう信じなさいじゃないだけ。 ヤマトタケルは確かに怪しい。
神武系は無能ばかりだからああいう創作入れたくなったってことなのかもね。 卑弥呼は何度も出て来る。
中国側にそんな何代もの王朝に渡って作り話しする理由が無い。
デタラメなのは記紀であって中国の歴史書じゃ無い。
近畿パーはとにかくパーばかり。 お前ら全員、日本史板に帰れ!
ここはニュー速+。場をわきまえろ! ただここで面白いのは、日本列島には、元々人は居無かったという点。北海道から流れるか、半島か中国直接か沖縄方面か、これの争いなんですよ。 奴国が大和朝廷の前身、奈良に移動だよ。166年以降に、津波だな。
漢印が発見された場所まで流された。
魏、晋印等も、海かもしれん。記紀以前の木簡等も出てくるだろうな。 私は邪馬台国は九州だと思っています、不思議なのはこの原始中国とも言える邪馬台をどうして近畿に取り込もうとするのか?というところです、完全な流れ者達を何故っ?て。 >>147
これも三河だな
ヤマトタケルのモデルと言われる奴の墓は三河にある
三河県西尾市の正法寺古墳だ
何故、三河にあるのか ID:TE5c/Zgj0(5/6)
ID:TACm6CFu0(35/35)
160の時点で1人で41投稿ww 九州にいた神道(ユダヤ)預言者一族は、
九州の戦乱に島根県や紀伊半島に移住した
ユダヤが日本に来たのは、預言者が東の日の出る国に行くべしとインスピレーションを受けたから 邪馬台国奈良説を真剣に信じている者達の顔を見たい、
テレーっとして相当世間離れした顔だちだろうなwww 九州説は知能も知識も足りないが、倫理観はもっと足りない
スレを荒らすことや捏造することが悪いことだという倫理観を持っていない >>15
卑弥呼は若い頃から鬼道を事として衆を惑わした。
人気抜群でカリスマ性絶大。
そのため日本各地の豪族が琵琶湖湖畔の伊勢遺跡に集まって
年已に長大となった卑弥呼を邪馬台国女王に共立したというのが
NHK歴史秘話ヒストリアの見解。
伊勢遺跡は
>「直径およそ220mの綺麗な円周上に、30余の、まさに伊勢神宮と同じ『神明造』ふうの建造物が、見事に等間隔に建造され、
>その中央からは『楼閣』(タワーふう建造物)、近くからは『二棟連立式の祭殿』と想像される大型建造物も存在した。」
>この事実は、先の「魏志・倭人伝」の記載と、見事に辻褄が合います。
「30余の・・・『神明造』風の建造物」は魏志倭人伝の
「今使譯所通三十國」と合致する。
この建造物は天理市の天理教本部周辺に日本各地の大教会単位で詰所(つめしょ)
が分布するのと同じ考え方だ。
『神明造』は高床式で高温多湿の日本の夏と年中常夏のマレーシア、インドネシアなど
東南アジアの熱帯雨林気候と共通する特徴。
伊勢遺跡は卑弥呼と年代が合わないとされるが周辺には卑弥呼と同時代の遺跡もある。
神武より先に河内、大和に天下り=渡来した饒速日、物部氏の先祖一行が乗ってきたのが
天の磐舟という宇宙船じゃなくて大型カヌー。その絵がうきは市の珍敷塚古墳の壁画に描かれている。
天理市(旧称丹波市町、黒塚古墳で有名な柳本村、櫟本(いちのもと)村と合併)櫟本の東大寺山古墳から
「中平」という倭国大乱時代の後漢の年号の入った時代に作られた鉄製大刀が出土している。
卑弥呼が後漢から権力の象徴として贈られ、その後、東大寺山古墳の被葬者の手に入ったものだ。
天理教教祖中(おやさま)山みきは卑弥呼の再来とも呼ばれ
>「月日のやしろ」として、親神様(おやがみさま)の思召(おぼしめし)を私たち人間にお伝えくだされた
天理市の夏は暑い。 >>140
大化の改新、壬申の乱
この時期に北部九州から関西への権力が移った
大化元年は695年であり701年終わる、この年に大和朝廷が成立している
同時に評から郡に行政区分も改められた。 >>22
「徑/径」が【直径】だと「早とちり」するのは中卒レベル未満w
つまり小学生並みwww
杜牧 … 803〜853。晩唐の詩人
遠上寒山石徑斜
遠く寒山に上(のぼ)れば
石径(せっけい)斜(なな)めなり
【石径】とは石ころだらけの小道
【箱根八里】
作詞:鳥居 忱(まこと)
作曲:滝廉太郎
箱根の山は天下の険(けん)
・・・・・
羊腸の(よぅちょうの=羊の腸のように曲がりくねった)
【小徑】は(しょうけいは=小道は)
苔滑か(こけなめらか=(一面に)苔むして滑り易い) >>167
奥山くん、病気は治ったのか?
まだ通院が必要だねえw >>140 大和朝廷は壬申の乱、南北朝と万世一系じゃなかったから
明治憲法が「万世一系ノ天皇之(これ)ヲ統治ス」と宣言したのは願望、目標なのだ。 >>172
径の元々の意味は小道だな
円を横切る小道から転じて直径の意味となる
径100歩は小道か円の直径の意味
円墳の直径か参道が100歩で前方後円墳とは無関係。 >>171
阿呆か
じゃあなんで世界最古の木造建築・法隆寺が大和にあるんだよ
四天王寺も建て替えられているものの飛鳥時代からあの場所にある
九州説はトンデモすぎるからなあ >>15
>有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
NHKの大河と株式会社光栄の「信長の野望シリーズ」に洗脳されすぎたアホのひとつ覚えw
昔は呪術が人の脳や行動を支配した時代
平安時代に流行した庚申待ちは道教由来、天皇は道教の仙人の最高位「天皇大帝」由来
神棚に鏡を飾るのも三種の神器に八咫鏡(やたのかがみ)がはいっているのも
卑弥呼の三角縁神獣青銅鏡以来の道教の影響 >>178
>卑弥呼の三角縁神獣青銅鏡以来の道教の影響
三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡じゃないし、卑弥呼がやっていたのは道教ではなく、鬼道。 >>175
>円墳の直径か参道が100歩で前方後円墳とは無関係
それが小学校の算数で刷り込まれた小学校教育の後遺症。
日本人の英語の発音が通じないのも
小学校のローマ字教育の後遺症。 >>175
それを言い出すやつも時々いるけれど、要するに径十歩に満たない平原1号墓をなんとか
卑弥呼の墓にしようっていう悪あがきなんだよなw
小道(参道)だとして、例えば平原1号墓周辺のどこからどこまでが径百歩なんだ?
145メートルくらいの距離では、平原1号墓からどこにも行けないだろ?
平原1号墓周りに道らしい遺構は一切ないぞ?
https://i.imgur.com/2USE18b.gif >>171
また古墳だけ河内に作った的な?w
大化の改新はこれまでの豪族支配を律令国家に変えるための事件
壬申の乱は天智天皇が国内制度を中国式に変えていこうとするのに反対する戦で、いわば日本式、和風の原点となった戦い >>181
原点に帰ってちゃんと時代考証して考えよう。
径=直径は徳川時代の蘭学を通じてはいってきた概念
説文解字にいわく
径は步道也。
彳に従う。「巠」が聲=発音を表わす。
居正切(居の頭子音kと正の頭子音以外の母音+末子音)を切り貼りして
〖注〗徐鍇曰:“道不容車,故曰步道。
五代十国時代の学者徐 鍇(じょ かい)いわく
道は車を容(い)れず、故に「径=歩道」と。
北魏が華北を統一し隋が再度統一するまでの南北朝時代の
字書【玉篇】には「径は小路」なりと書いてる。
魏志倭人伝執筆の時代に「径=円の直径の省略形」という考え方は全く無い。
「径=円の直径」は韓流王朝ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」にカセットガスコンロが
出てきたりする【時代錯誤】の考え方なのだ。
>145メートルくらいの距離では、平原1号墓からどこにも行けないだろ
↑
意味不明wオマエは日本人か
小学校中退か こういうスレで勉強していくと、大化の改新が日本の歴史の転換点だったのだなと実感する
学生時代は聖徳太子のオマケぐらいにしか覚えてなかったのに 正味日本列島一国という認識を持ったのが壬申の乱の後であり、それが正味実現したのは明治維新以降だな。 >>175円墳の直径か参道が100歩で前方後円墳とは無関係。
円形の部分が墓であって
方形の部分は墓の付帯施設である
ということで墓は円形なので径で大きさを表現する で、何が出て来れば確定するの?
出土品も移動されると、わからん。
裏付けの書簡がないとな。 駢儷文の〈駢〉とは2頭だての馬のこと、〈儷〉はつれあいの意味で、
駢儷文は二つセット、対句表現を含む表現技法の文を言う
魏志倭人伝の地誌・旅程の部分は
始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。
所居絕島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戶、無良田食海物自活、乖船南北巿糴。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。
方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
又渡一海千餘里、至末盧國。有四千餘戶、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戶。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戶。
と、国二つ分ずつ、対になるように書かれているから、駢儷文の構成を取っていると言える
最後の部分は
「方角」「至国名」「道里」「官名」「戸数」ときちんと対応付けて書かれている
「道里」の部分は投馬国の「水行二十日」と邪馬台国の「水行十日陸行一月」が対応関係にある
「駢儷文だから、二十日、十日と来て、一月はありえない」というのは、
駢儷文が分かっていないバカの戯言 >>189
親魏倭王の金印か殉葬100人の円墳かな >>184
三國志卷十八/魏書十八/二李臧文呂許典二龐閻傳第十八
太祖行酒、韋持大斧立後、「刃徑尺」
斧の刃が径尺と書いてあるんだけど、どこに小道があるのかな?
説文解字は、語義というより漢字の成り立ちを説明しているから、
意味としてはその一部しか示していないんだよ
「意味不明wオマエは日本人か
小学校中退か」
意味不明とか言っている時点で>>184の方に、日本語の読み取り能力に
障碍があるとしか思えないんだが?
徑百餘步の径が、小道の意味だと主張するなら、徑百餘步をどう解釈するのが正しいと考えるんだ?
百歩は145メートルだぞ?
大作冢、徑百餘步を訳してみてくれよ
「大いに冢を作る、小道は百餘步」とでも言うつもりかい? >>189
魏からの贈り物を封じていた「封泥」だね。
魏武王の印が押されたやつね。 日本の歴史を歪めてるのが記紀だからな。
記紀に邪馬台の記述などないし、万世一系もありえない。大陸史にも残る倭王、天多利思比孤の存在を消し去った罪は大きい。 >>194
邪馬台=ヤマトだろ
ヤマタイと読むからないように見える
あと古代の天皇がどんな名前を名乗ってたのかわからない >>195
ヤマトと邪馬台国は無縁。
大和王権の正史は記紀のみ。
そして邪馬台国畿内説の言うことはすべて記録なき想像である。
前方後円墳など記紀にも魏志倭人伝にも書かれていない。 筑紫様式の副葬品
瀬戸内と出雲の要素を取り入れた墳墓
前方後円墳はむしろ東征の証のように感じるけどね
愛車に負かしたチームのステッカーを貼るみたいなノリなのか
葬儀に地場の要素を取り入れて懐柔するためか サヨクなジーさんは何故か記紀は貶して魏志倭人伝は賞賛するね
間違いない資料ならとうの昔に邪馬台国なる物に辿りついてるだろうに
資料って解釈の余地が生まれたら何も意味無いよ 歴史に残ってないんだから卑弥呼の邪馬台国なんざ滅ぼされた一国の一つでしかねーよ
ヤマト王権に滅ぼされたかすら怪しい
その前に狗奴国に滅ぼされてる可能性が高い
女王の占い統治なんか長く続かんよ
実際女王国なんて無くなってるじゃん >>197
吉備の東征ね
北部九州(筑紫)はまったくあり得ない 吉備の東征言い出して、東海の西征を無視するとは如何に?
纒向遺跡の外来系土器の半数は東海系
ヤマト征伐の主体は東海だろう 万葉集に歌われている通りだろ
炎立つ
東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ 結局、邪馬台国よりも栄えている文明が
他にもゴロゴロあったってことじゃね? >>199
266年までは、記録がある。
その後、150年どこの国も交流記録がない。地震、火山で、ほとんどの国がやられた? 卑弥呼って古事記では完全に黒歴史なのかぞんざいな扱いされててワロタ 蛙の骨、桃の種、木製の鞘
これだけの物的証拠が出たので、邪馬台国は奈良だと断言できる
考古学は物的証拠が全てなのだよ
勝負あり(´・ω・`)
悔しいなら、九州説の学者たちよ、柿の種を探すんだ! (`・ω・´) 邪馬台国は近場の北九州にあったとして
記録に残ってない それ以上の集落が奈良や静岡にあってもおかしくないわな
そもそも邪馬台国も中国にあった記録だし 邪馬台国自体、南の狗奴国と戦争やってて、あまり旗色が良くなさそうなんだよな
卑弥呼が死んだのも、フレイザー云うところの王殺しみたいなとこもあるし
三十国を傘下に置いといたにしては余りに情けない感じ >>209
北部九州最大で、魏志倭人伝に二万余戸と書かれている奴国が福岡平野のクニであるというのは
定説になっている
その奴国の3世紀の中心と考えられているのが比恵那珂遺跡群
その比恵那珂遺跡群では、畿内様式土器を模倣製作しており、比恵那珂遺跡群の
首長の墓と考えられる那珂八幡古墳が、畿内発祥の前方後円墳として造営されている
北部九州が畿内と無縁で独立したクニとして存在した、というのは考古学的な発掘状況と
完全に矛盾するんだよ >>188
平面図で前方後円墳と思っているとあまり考えないのだけれど、側面図で見ると
前方部と後円部のつなぎ目はかなり低くなっている
これで、後円部が墓だと言われれば、広円部だけの大きさを記すのは特に不思議はないな
明治九年撮影の箸墓古墳(宮内庁所蔵)
https://i.imgur.com/yYNv3Ht.jpg こうにしか思えない
旧ライブドア(九州北部) =併合= オン・ザ・エッジ(後の大和朝廷) 王都は九州京都郡にあったが属領半島南部の直轄領は朝鮮人金官伽耶族に統治を任せており度々九州王権へ遣使は訪れていた。
新羅戦で功績を残した者には近畿に領地が与えられそのルートは広島の高地性集落、日本海沿岸より丹後、吉備が最初の開拓領。
列島内に勢力を拡張することで半島増援の軍拡を図っていたが、高句麗の攻勢に退却を余儀なくされ伽耶及び百済中枢の豪族は一路近畿へと亡命する。
その後近畿で独自の発展を遂げる半島人は蘇我氏や臣氏、平群、物部の様な主要豪族へと整理され倭王血縁を巡る権力闘争の末、大化の改新にて天皇一系が制度化され統一集権国家体制へ移行する >>213
狗奴国は新羅にそそのかされて邪馬台国に反乱を起こしたと朝鮮の記録にある
有明の倭人=熊本のことだよ >>212
繋がっているようには見えないにせよ、かなり近接した場所に二つのマウンドが形成されるわけだから、魏の役人が観察者としてみたら二つの盛り上がりがあるという特徴を何らかの表現として報告しそうなものだが、、 川勝静岡県知事「ヨーシ、邪馬台国は富士の麓にあった!これで行こう」 >>209
根拠は無いが俺の妄想が事実だってw
>>211
伊都国と奴国が女王卑弥呼を共立して北部九州地域の国々を統合して出来たのが邪馬台国
北部九州が畿内と無縁で独立したクニとして存在したんだよ。 >>201
壱与までは続いてるから4世紀初頭までは存続している。 九州説な人は墓は墓地だと思うだろうし
畿内説な人は墓は墓石だと思うだろうし
当時の人の考えでどっちもありえる
それだけの話だよ >>192
>斧の刃が径尺と書いてあるんだけど
オマエの解釈で斧のどの部分を指して「直径」というんだ。
その根拠となる中国の先秦〜隋唐の文献を提示しろ。
この「刃徑尺」は「刃渡りが一尺」という意味だろ。
「径」には他に「直接」、「みずから」という意味もある
資治通鑑に「粛径迎之」という句(フレーズ)の「径」が「直接」、「みずから」を表わしている。
また《礼·檀弓》「直情而径行」の「径」は「まっすぐ」という意味である。
大作冢 大いに冢(=坟墓)を作った。
「大喫一驚」は「大いに=非常にびっくりした」という意味。出典は明代の「警世通言」卷二八の白娘子永鎮雷鋒塔。
徑百餘步 「仮に小道=細道を作って歩いて見れば百歩の距離だ」という意味。
中国語の現代文でも「従=より」、「在=どこそこで」などの中国語の助動詞的文字=漢字は
記事の見出しとして最小限の字数で伝えるためにしばしば省略する。
例えば
ttps://www.zaobao.com.sg/realtime/singapore/story20190619-965800
見出し「果子狸疑遭虐待 重傷棄垃圾中心」は記事本文の冒頭で
「果子狸疑遭虐待,(在)垃圾中心(被発現時)(身受)重傷」
という具合に見出しでは(在)、(被発現時)、(身受)が省略されている。
果子狸はハクビシンの事。 >>102
本を読んだことがないのか?
ほとんどの学者が近畿だ。九州の学者も含めてなw >>219
根拠は無いが俺の妄想が事実だってw
ブーメランだぞ >>104
そう。
記紀に描かれる神武は、東征したのではなくて、九州からやってきた移民の棟梁。
奈良盆地の南部の片隅に土地を分けてもらって住み着いた。
土地の有力者の娘婿になって。
それが4〜5代続き、卑弥呼共立時にもまだ大王ではなかった。 卑弥呼=縄文系の女王
ヤマト=背のりを企んだ天皇家の先祖 >>223
学者の最先端が一般に降りてくるのに時間がかかるからね
数年前から畿内説は終了状態だよ
日本史板を見たほうがいい >>228
畿内説は核DNAの研究で息の根が止まるな。 >>214
日本はもと小国だったのが倭国の血を併せたっていうのがあるからな
国際連盟ジュネーブ → 国際連合ニューヨーク みたいなもんかもね 天皇家はスクナヒコナの系譜じゃないか?
国作りした側 >>228,229
邪馬台国は国号ではなく地名だけどな
どんな人種が支配しようが動かないよ >>171
すごいねw
じゃあ、飛鳥板葺きの宮も藤原京も法隆寺も飛鳥寺もど田舎の首長のただの館なわけかw
奈良と大阪の大古墳は、ただのど田舎の豪族の墓なわけかw >>194
あまたりしひこはいるよ。
天足彦国押人命が。
弟が大倭帯日子国押人命(孝昭天皇)だ。
母は、尾張の祖の奥津余曽の妹、余曽多本毘売命
この頃に、談合連立政権が出来上がり、卑弥呼は母の一族の誰かだろうな。
母自身かもしれんが。
開化、崇神の時代に権力争いがあり、宗女を女王にした。
彼らの妻は丹波の天火明命の子孫の一族だ。
尾張氏も同族であり、この時代はまだ別れていなかった。
垂仁もその一族から嫁を取り。3人まとめてw
だから、その時代としては奈良に次ぐ巨大前方後円墳が丹後にだけ存在する。
アマテラスが伊勢に落ち着いた後、一人ではご飯が食べられないからと、丹後から
豊受大御神を呼んでくる。
天足彦国押人命は和珥氏のと言われているが、その領地には東大寺山古墳があり、
記銘鉄剣が出ている。中平の銘の入った鉄剣で、中平とは霊帝の時代の184〜189年だ。
丹後の籠神社には古い鏡が伝わっている。(前漢、後漢)
また、丹後からは200年頃と言われる赤坂今井古墳が出ている。
当時としては最大級クラスの墓であり、大量の朱と大量のガラス玉が出ている。 九州説って学者は信用しないけど、得体の知れない個人サイトとか安本のHPは信用してるんだろ
理解不能だわ そもそも邪馬台国って
中国共産党による日本支配の正当化
のための議論だからな
中国共産党が日本侵攻を本格的に言いだして
まもなく金印が突然畑から発見された 俺理系だから厳しい口調になるけど、歴史学はサイエンスじゃないということ
邪馬台国の謎は“数学者”に解かせたらいい
(1)畿内に邪馬台国があった。卑弥呼がいた。これだと隋書、旧唐書などを含めた連立方程式が成り立たない。数学的にはこれで十分
(2)弥生時代にも畿内に人は住んでるから遺跡は出る(なぜこんな当たり前のことをいちいち言わなければいけないのか)。仮に畿内から金印が出ても併合しているから移動したという解になる>>233
しかし文系の歴史学者は金印が出たからここが邪馬台国と言うはず
もちろん九州から出た場合は(1)と矛盾しない
(3) 卑弥呼の時代は没落期(卑弥呼の時代が最盛期と勘違いしている人が多い)。
最盛期は卑弥呼以前。統一され、平和で、生口の数も多い
卑弥呼の時代は狗奴国が反乱するし、それ以外もバラバラ。統一が崩壊している。生口の数も減っている
纒向が邪馬台国なら“没落”していなければいけない。逆だろう? 数学的に考えたらいい
>>236
それは歴史学者が全員文系だからでは。→1行目に戻る >>238
狗奴国が反乱したとか何処にも書いてないよ
卑弥呼と元々不和とはあるが
なんで嘘をつくんだ? これも重要事項な。
可住地面積
(人が住むことの出来る土地)
奈良県 853(km2)
福岡県 2773(km2)
佐賀県 1332(km2)
熊本県 2732(km2)
耕作可能な土地の面積
[畿内]
奈良盆地:450km2
河内平野:200km2
[九州]
福岡平野:250km2
筑紫平野:950km2
中津平野:180km2
宮崎平野:800km2
30万人が生活すると仮定すれば
最低でも700km2は必要。 >>240
おいおいw
「説相攻撃状」
互いに攻撃しあっている状態だぞw >>194
天多利思比孤はアマテラスの男版のアマテラシヒコかもしれないね >>238
これ読んでない奴は知らないんだよ。
「旧唐書」
■倭國条 〜631年の記事
倭國者,古倭奴國也。
(倭国はいにしえの倭奴国である)
※倭奴国=漢から金印を貰った国で、
倭国より古い時代の国名=北部九州
去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。
(新羅の東南海に在り、郡から一万四千里)
※九州〜山陰あたりか?
■日本条 701年〜の記事(大和朝廷時代)
日本國者,倭國之別種也。
(日本国は倭国の別種である)
※畿内政権は倭国とは別物だと言い切ってる
以下、日本使者の言い訳が続く
以其國在日邊,故以日本爲名。
(日出る国だから改名した)
或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。
(字が嫌いだから改名した)
或云:日本舊小國,併倭國之地。
(小国だった日本が倭を併合した)
※唐突に日本を名乗り唐に乗り込んだ畿内政権が
倭国との関係を問い正され適当にはぐらかす有様。
其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。
(日本人は不誠実なので中国はこれを信用しない)
>>228
どんな見方をしてるんだ?
日本史板は九州説が荒らしまくってるだろが
以前は九州説のスレもあったが、みんなギブアップして消えていった
九州説で残った数人が荒らしと捏造をやってる
よほどねじ曲がった見方をしないと、そんな結論にはならないぞ 当時の日本列島の大部分は殷文化の影響が強かったんだろう
獣の肩甲骨を使った卜占、動物や人の生贄、殉葬、酒を使ったトランス状態で神託をきく、太陽神の末裔、
邪馬台国の記述や纒向遺跡の祭祀遺構に合致する
殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事であった
桃の種は大量の酒を作った跡だろう
卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線
纒向遺跡は、対狗奴国の前線基地だったのかもしれない >>241
熊本平野775km2
八代平野230km2 畿内説終了のお知らせ。
読売新聞YOL(21.11.2018)
■邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される
纒向(まきむく)遺跡で、2020年度中の完成を目指し
ていた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、
遺跡見学の拠点として期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
■参考
・〜2世紀 : 唐古鍵遺跡
・〜4世紀半ば:纏向遺跡(3世紀末邪馬台国消滅)
・4世紀末〜:↓奈良・高取
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
「遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html >>228
2chが根拠ってw
キミおもしろいね
まともな本を読んだことがないんだね。 >>238
これなんか典型的な九州説だよな
薄っぺらい知識しかないくせに、学者をバカ扱いして、自分が正しいと自惚れる
自分がやってることは文献の珍解釈と曲解で、妄想ストーリーを作ってるだけ >>225
畿内説には根拠が無いが北部九州説にはちゃんとした根拠がある。 文献の珍解釈の例
魏史に書かれた方角は嘘で南と書いてあるのは実は東だった
魏史に書かれた里数は嘘で実は長里でも短里でもなかった
遣隋使の時代の裴世清の倍の速度で移動した
投馬国には立ち寄ったけど木簡がもったいないから記載しなかった
末盧国は記載があるけど立ち寄ってない >>249
畿内説は2ch対策員が居て、日本史板で畿内説の宣伝やってる。
時給は聞いてないw >>238
理系なら何でも信仰するのは無理だな。
確かに、理系や数学的数値を出してくるやつが凄く見えたときもあったな。
最近いるじゃん。
「現代の日本人は縄文人の遺伝子を10%しか受け継いでいない」ってやつw
彼らには9割が朝鮮半島からかの渡来人らしいからな。
具体的なものを示さずに、「母系はすべて渡来系」とかさ。
2500年か2900年以降に渡来したことが確定したmtDNAって何さw
安本の「古代の王の10年説」とかあったよな。 九州北部も奈良も卑弥呼を共立した国々に征伐された側というのが面白い
一方は一大卒が置かれ、他方は都が置かれた
古墳時代になると九州の神、住吉さんが畿内の守り神になるのが興味深い
鹿島の鹿さんも奈良で神の使いとなるしね
九州北部畿内関東は仲がよかったのか、敵の敵は味方で手を組んだのか 矛盾だらけの畿内説w
[畿内説]
箸墓古墳は3世紀のもので、卑弥呼の墓で間違いない。
[現実]
馬は居ないと記述されているのだが、箸墓の周濠の底に馬具(木製輪鐙)が埋まっていた。
水に浮くはずの4世紀以降の木製品が埋まっていた。
[畿内説]
女王国の東の海の先にある倭種の国は伊豆であり、千余里という距離は1日と解釈する。
[現実]
この距離は博多湾〜出雲(投馬国)の距離に匹敵するので、水行20日と矛盾する。 卑弥呼は白山ヒメと関係あるかもな
亀と瓜
胡瓜が大好物なのは河童
蜻蛉日記にはアマテラスは河辺に住む河伯とある
河伯は黄河の神、黄河文明の流れを引くのかな
崇神の代に創建されたと言われている白山比め神社
その神紋は三子持亀甲瓜花
亀甲が三重になっているが
三子持が気になる
崇神の前は、卑弥呼、男王、台与
河伯は河童、河童は胡瓜が大好物で亀の甲羅を背負っている
河童の天敵は、河童より泳ぎの上手い猿、鉄、鹿の角
鉄といえばヤマタノオロチを連想する 3世紀時点で鉄が流通していなかった奈良は倭国圏外です。
■魏志韓伝より
國出鐵韓穢倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡
(国には鉄が出て、韓、穢、倭がみな、従って
これを取っている。 諸の市買ではみな、中国が
銭を用いるように、鉄を用いる。 また、楽浪、
帯方の二郡にも供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を利用されていた。
・この時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓分布図
http://imgur.com/OK8GwzA.jpg
■推測されること
・畿内は取りに行ってない
・畿内は九州に鉄を分けてもらえなかった
・畿内説によると北部九州に一大率を置いて
収税まで行っていたと言うが、鉄は畿内まで
流通していなかった。←矛盾
■結論
・北部九州と畿内の関係は希薄だった。
・一大率や大倭は畿内政権とは無関係だった。
・畿内は鉄が不足していたので海外と交易できなかった。
■関連
纏向遺跡では九州や半島産の土器が出土していない。
>>256
>九州北部畿内関東は仲がよかったのか、敵の敵は味方で手を組んだのか<
北部九州と纏向は無縁ですね。 >>260
■纏向遺跡出土土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1% なんで、150年の空白に
交流がなかったのか?
倭の5王の時点では、まだ大和はない >>260
日本が韓国を併合して韓国の物が日本国内に溢れたか?
その理屈は九州は畿内を支配していない
畿内が九州を支配したとなるが >被葬者は卑弥呼率いるヤマト王権の対抗勢力の首長と考える専門家もいる。
まあ突飛子もない説を唱えれば、一応どういう話かを聞いて貰えるからなw >>266
そんな歴史は無いけど
一つ言えるのは、三河の王が三河に拠点を置き続けながら、自らが関東関西に出向いて君臨しただ
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧膿郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平 >>263
畿内が九州を支配していたのなら、普通に考えろて九州が採ってきた鉄を畿内がガメるだろ。
高級素材なんだから。
そもそも纒向では魏志倭人伝に書かれている物が何も出土しないんだよ。
だから学者も既に諦めてるよ。 >>265
×突飛子 ○突拍子
それにしてもこの「突拍子もない説」がどう卑弥呼と関係するのかか知りたい。
どうせこれまた突拍子もない邪馬台国畿内説がその前提だろうけど 土器編年は50〜200年ずれてるから
てか年輪年代法か 三河に拠点を置き続けるとは?
足利将軍家の本拠は、室町期も三河だったわけだな
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和 白村江の戦いまで筑紫の君
承久の乱まで天皇
大政奉還まで征夷大将軍
が支配者 >>270
史書に書いてある事をことごとく無視した畿内説がまかり通るのなら、
関東説や他の説でもまかり通るよな。 神武東征は4世紀。
大和王権の前身は狗奴国。
ざっとこんな感じかな。
@邪馬台国と対立していた狗奴国の王が東征を企てる。
A神武はさっそく、出雲を攻めていた邪馬台国(ヤマタノオロチ)を退治した。
B神武は瀬戸内航路を使って東征を再開。
Cしかし失敗に終わる。
D紀伊半島の南から回り込み、熊野から奈良へ侵入。
E神武東征成功。
しかし元狗奴国としては中国へ朝貢しづらい事情が。。。
う〜んもう一度よく考えてみると魏史倭人伝は出来すぎた話でもあるし、どうしても水行20日、10日、と徒歩1ヶ月ってのは、そんな歩くとこ無いよな。どう考えてもわざと解らなくしてるよな、ここをどう考えるかだな、フィクションも捨てきれないし、其処までやるかね。 >>276
もしかすると、魏志倭人伝の著者である陳寿の手元にあった
報告書の日付から計算した日数かもしれないよ。
本当にその日数を移動に費やしたかは分からない。 近畿自慢の前方後円墳は手もつけられず封印されてはいるが、関東で発掘される前方後円墳からは朝鮮人が出てくるという大和朝鮮人説を裏付ける物証ばかり
唐書では倭の別種と看破されているし
近畿大和は朝鮮人王権だと思う。 >>276
裴世清は筑紫から難波まで二ヶ月、難波から飛鳥まで一ヶ月かかってる
この日数にはもちろん風待ち雨待ち休憩日や接待の日数が含まれてる >>278
>関東で発掘される前方後円墳からは朝鮮人が出てくる
これ本当ならガッカリだなw
奈良ではオンドルが多数見つかってるしw 里数も日数も誇張されてると思うけどね
もう一つ捨てがたい説があって、日数は距離を表していないというやつ
「エーゲ海 クルーズ 10日の旅」のような表現だった
投馬国も邪馬台国もその戸数から推測される領域はかなり大きい
域内の移動にも時間は費やされただろう
日数は域内での視察期間を表している
域と域の間の距離が示されてないのは隣接しているから
わりと説得力あると思う >>276
誤解している様だが魏志に書かれる陳寿の記述は
陳寿死後にその文才が評価され正式に書き起こされた複製版
そもそも陳寿は生前この膨大な史書を四年と言う短時間で書き上げられたと言われ、これは楷書や隷書体では不可能であり当時大陸の風潮として草書体が一般に定着しすぎた背景がある。
そのことから陳寿原本は草書体で書かれたと言われ
草書体での年、月、日の文字は判別しにくい癖によっては全く同じの見える文字になる。
そのため魏志の再版記述は誤記である可能性が高い。 相変わらず今日も敗残畿内が負け犬の遠吠えを続けてるな >>281
じゃあ北九州内部で全部納めてしまっても問題なくなるな 陸行は一月ではなく一日だよ。
これで女王国が行橋南下の豊津か宇佐で整合が取れる。
全く陳寿の記述は嘘偽りのない九州島内のこととして書いている 北九州と奈良は遠いから古墳時代初期には交流なんか無く魏も九州しか知らないという説
違うと思うけどなあ
地図で北九州〜帯方郡〜洛陽を見たら、北九州と奈良なんかすぐ近く
邪馬臺国がどこかは置いといて3世紀に九州と奈良がそんなに隔絶した地域だったとはとても思えない
倭国内でお互いにかなりの情報は行き来してたはずだし九州に来た魏人も然り 日数里数の問題が解決してしまうと
方角を無理に南→東なんていうアクロバット解釈せずに済むようになるな >>286
弥生時代となれば河内平野は無くなるぞw >>275
これがコピペ野郎の持論なのかw
こんな妄想のために、嘘だらけのコピペ作って粘着してたんか そもそも記紀において景行や小碓神話は全く具体性のない妖を用いた奇譚で書かれ、その時点で編簿筆者の行き詰りを隠せ得ない心理が見え隠れする。
そんな出来事は無かったんだと暗喩した筆者の苦肉の抵抗だと思わないか。 >>290
持論というほどでも無いだろw
頭カチンカチンの畿内説は畿内説以外にはカチンとくるんだよなw 卑弥呼の鬼道とは
■魏志倭人伝、晋書倭人条
「骨を焼いて占う」
■隋書倭国伝
「筮竹を使って占う」
■畿内説
桃をお供え物として穴に埋め、
カエルをかじって占います。
■考古学者
「カエルは祭祀の供物で、祭りが終わった後に
出席者が食べ、骨を穴に捨てた可能性がある。
ttps://www.sankei.com/life/news/190425/lif1904250019-n1.html
↑
畿内説名物? 学者とは思えない妄想コメントw 畿内か九州かは置いておいても、それを大和朝廷と結びつけようとするのがおかしい >>6
かなりの誤差があり、今はそれを利用するゴッドハンドが主流 >>294
邪馬台=ヤマト
卑弥呼=日巫女=斎王の原型
違和感はないけど >>260
魏志倭人伝をちゃんと読んでないなw
「邪馬台国の王が倭国を統一した」なんてどこにも書いてないよ。
ヤマトに強大な国がある必要はないんだよ。
各地の有力豪族が談合して連立政権を作って、都をヤマトにたてたのさ。
纏向にそれまで何もなくても問題ない。
何もなかったから宮を作ったとも言える。 邪馬台国と大和朝廷は別ものだろう。
DNAで証明されてたはずだけどw >>248
それが邪馬台国と何の関係が?
まさか、5世紀まで誰も住んでいなかったとか思ってるわけ?
渡来人が来るまでは無人だ!と?
「渡来人」の意味がわかってないみたいだね。
日本のお人ではないのかねえ。 高尾山古墳は240年頃だよな。
畿内説は現時点280年頃と言われている箸墓古墳を
古墳時代の始まりのように語っているぞw
4世紀の土器や馬具が発見されているにも関わらずw >>297
>邪馬台国の王が倭国を統一した
いやこれが5chの畿内説が必死で主張しているんだよ。
なんとかしろよあの害基地w >>299
隋書に出てくる「邪靡堆」は渡来人の国なのか?w
その時代には纏向は存在しないぞ。 日が沈む熊本の王と日が昇る宇佐行橋対岸の王か
邪馬台と狗奴の対立は相当因縁めいてる。
何方も阿蘇という山を挟み対峙する形になるし
立地からして勢力が分かれた理由もわからんでもない >>298
そうそう。
科学的根拠は大切だよホント。 >>303
それだと南北ではなくて東西対決にならないか?w 畿内てのは天日槍の伝承があるように
九州の倭王にお伺い立てて朝鮮人が往き来出来た場所だったんだろ。 >>301
日本史板のスレをどう読んだらそんな解釈になるんだ?w >>305
政務を執る伊都からしたら南だから
南北対立で合ってるよ。
ただ王を前線に置くわけはないから対岸で正解じゃないかな 天照を卑弥呼 とするなら、天文学的にも邪馬台国は北部九州で決まりなんだけどね。 >>308
>王を前線に置くわけはない
なるほどね。
同感。 >>307
スレじゃなくてテンプレだろ?
ご本人ならわかってるはずだが?w >>245
日本史板はつまらんねえ。
九州説が意味不明な書き込みをするから。それも大量に。
九州説というか、三世紀の日本がそれなりの統一国家が出来上がっていたことを否定
したい人がわけわからん書き込みをしてるんだろうなあ。
いろんな根拠を出されても全く無視だし、今の学者が何を言ってるかも無視。
挙句の果てに、明日香からオンドルが出てくるから大和政権は朝鮮人だと。 >>310
九州内に国々は集中して王権が変わる度
九州内で回してたんじゃないかな。
5世紀位まで九州各地で出土する特殊銅鏡や王冠見ると王都とする場所も一定では無かったんじゃないか >>312
箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは、さすがに学者自身も否定してるんだけどな。
毎日新聞と5chの畿内説はゴリ押ししてるんだよなw
「この木製鐙は4世紀半ば以降とする方が妥当である。
さらにこれが日本に伝わった時期を考慮すると
箸墓古墳の木製輪鐙は早くても4世紀後半ないし
5世紀以降とする方が望ましく、その特徴が後世的
であることもこれを裏付けるものとなっている。
研究者の年代観によって造営年代は若干の異同がある。
広瀬和雄はその時期を3世紀中期ないし後期としているが、
「魏志倭人伝にしたがうかぎり、箸墓古墳が卑弥呼の
墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい」
と述べている
白石太一郎は3世紀中葉過ぎとしているが、
「3世紀半ばすぎというのは、卑弥呼は亡くなっているが、
その後継者である台与の時代である。」とも言っている >>311
FAQ26、FAQ77
架空の畿内説をでっち上げてただけだな >>314
だよな。
「王」に相応しい豪華な副葬品が出土するのは決まって九州。
畿内で出土するのは。。。ちょっとがっかりするぐらい地味だよね。 まあ卑弥呼がいても
国々は王を置いていたから
それを統一王権国家と言えるのか疑問だが >>316
でさ、熱くなったら「大和政権が九州を制圧し〜」なんて言い出すんだよなw
それが爺さんの老後の楽しみかw 卑弥呼は鬼道に通じていたみたいだからな
邪馬台国、初期のヤマト政権は鬼の王朝かもしれない
鬼の仲間
酒呑童子
茨木童子
星熊童子、熊童子、寅熊童子、金童子
名前に意味があると思うんだけどな
酒呑は朱天、蛛天?
星熊は干隈?
寅熊はイン熊?邪馬台国の官、伊支馬に似ている。
金は新羅の金さん?
牛鬼も元々は邪馬台国、初期のヤマト政権の仲間
仲間割れして牛鬼を乗っ取り、更に鬼度を高めていったんだろう
鳥取県の上石見に伝わる伝承
孝霊天皇が上の岩を見よと言って石で牛鬼を倒す話が残っている
最後は牛頭天王になったのかもな
春日大社、興福寺、東大寺
その向こうの若草山の山頂に牛塚
未だに盛大に鎮魂されている 若草山の牛塚が作られた時代
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と共に、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話が残っている
日本書紀には飛騨の頭が二つ胴が一つの怪物を討つ話がある
二つの頭は、アマテラスとスサノオだろう
出雲風土記には、生馬神(邪馬台国の官、伊支馬にそっくりな名前)の子はもう荒ぶらないと言った話が載っている
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり幹に藁が巻き付けられている
纒向遺跡の外来系土器の主体
東海、吉備、山陰の怪物が討たれる話が5世紀前後に集中している
ヤマト政権に虐げられていた九州近畿関東の在地の勢力が立ち上がったんだろう 孝霊
鳥取県の上石見に伝わる伝承
上の岩を見よと言って石で牛鬼を倒す話が残っている
その後各地で残る牛鬼伝説では、牛鬼は海や水辺に現れる、 牛鬼は磯女と一緒に現れる、牛鬼の子供は石であるという特徴がある
石が牛鬼を乗っ取ったんだろう
卑弥呼、ヒルメ日霊、霊は鬼 >>321
卑弥呼は鬼道だけど、纒向は道教だと言われてるが?
蛙を食う鬼道なんてあんのか? >>319
一つもないよ
嘘だから相手にしちゃダメ 246はできねえ沼津駅高架化はできねえ
沼津のアホ共は一体何ならできるんだ? オオナムチや新羅は初期のヤマト政権に与した勢力だろうな
気多大社の謂れは興味深い。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが【化鳥、大蛇】を退治して【海路が開けた】とある
倭国大乱の余波で日本海航路は安全が担保できない状況だったんだろう
四隅突出墳丘墓の分布
広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山
舞鶴マイヅル、敦賀ツルガに無いのは興味深い
更に気多大菩薩は、孝元天皇の時代、従者を引き連れて渡来した異国の王子とある。 新羅の王子だろう。
オオナムチは異国の勢力の浸入を手引きしてまで、在地の勢力を討とうとした。 敦賀湾〜伊吹山の勢力は義に厚く最後までヤマト政権に抗ったんだろう。日本書紀にある伊吹山の荒ぶる神。
伊吹山は和歌に於いて一途な思いの代名詞
伊吹山にはヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている。
伊吹山の麓の稲部遺跡、貴重な鉄が放置されている。
風の宮の神、級長津彦命 級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子のことだろう。鉄。ヤマタノオロチ。 三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側にいた勢力が、ヤマトを征伐し邪馬台国、ヤマト政権を作ったんだろう。
斎宮歴史博物館のホームページに面白い話が載っている。
神鳳寺縁起帳によれば、
天照大御神は蛇で、夜な夜な斎王の元に通っているらしい
その度に鱗を一つ落としていくんだとか
その鱗を櫃に収めているのだが、櫃が鱗で一杯になるとこの世の終わりが訪れるのだとか
この話は蛇で有名な三輪の神さんに通じる
当時の庶民の歴史認識が垣間見れて、面白い
なぜ明治維新以降、天照大御神が皇祖神になったのか?
歴史を書き換えたのは、どういう理由があったんだろう? >>317
北九州の遺跡の遺物はほとんど後漢時代のもので魏の時代じゃないんだよね 息長も胡散臭いしな。
古墳なんて寺作るのに掘り起こされて
埋葬品移設されたらしいが
出てきたのは王冠と剣だし
渡来人だろ >>330
北九州?北部九州の事だろ?
平原遺跡は後漢時代と言われてる。
それは史書の記述「伊都国に代々王が居た」に合致する。
そうやって史書の記述と出土品を照らし合わせていくのが
普通なんだが、畿内説は全く記録の無い土器がどうたら、
祭祀がどうたら、などと言ってるから嫌われるんだよ。
検証の使用の無い悪魔の証明ってやつな。 滋賀の伊勢遺跡も纏向のような祭祀集落。
そういうのが各地に点在する時代だったんだよ。
邪馬台国はそのうちの一つ、もしくは北部九州連合の呼び名かといったところ。 魏志倭人伝書いた者アル!
ヒミコはヒメ御子で、狗奴国の男王はヒミココじゃなくてヒコミコ(彦御子)だったアル!
失礼!噛んだアルヨ!
他にも方向を書き間違えたアルよ! 伊勢遺跡は纒向遺跡より前の時代だよ
大体1世紀後半〜倭国大乱まで >>336
後漢時代の倭国は100国→魏で30国に減ってる。
減ったのが畿内だろうという人もいる。
だから纏向は東海はじめ国内との交流しか確認できていない。 卑弥呼を共立した国が30というだけだよ
傍国は女王国の外にある境界を成す国々
女王国より北の対馬〜奴国は女王国ではないし
狗奴国ももちろん女王国ではない
当時女王国に属さない国は沢山あったと思われる
元々100なら、卑弥呼に与しない国の方が多かった可能性もある >>338
>卑弥呼に与しない国の方が多かった可能性もある
それが狗奴国や東の倭種の国である畿内など70国だと思う。
4世紀に入ると形成が逆転し新羅と連携したそれらの政権が半島まで押しかけてる。
しかしその頃もまだ大和政権が中心だったとは思えない。
メインは山陰地方じゃないかなと。 九州説って荒らししかいないんだね
前は本気で九州と思ってた人もいたみたいだけど
もう、そんな人いなくなったんだね この動画だと邪馬台国は北九州になってるね
まあ、戦国時代がメインだとは思うが歴史好きは楽しめるね
https://www.youtube.com/watch?v=6Z0avSjgtHo AD57〜AD700年ごろまで存在した
奴国の方が邪馬台国より凄いんだけどね >>342
見たことあるw
台湾人の知り合いも北部九州一帯が邪馬台国だと言ってた。 もしも、奴国の筑紫王朝が存在してたら
皇国史観の人達には都合が悪いだろうな 日本史板でいたぶられるのが生きがいの奥山くんw
Mやなw >>345
東征神話があるくらいだから都合は悪くないだろ >>333
>それは史書の記述「伊都国に代々王が居た」に合致する。
糞ワロタ
伊都国の記述が合うから邪馬台国は九州だ!!!
論理的思考力ゼロ
さすが九州説w >>350
奥山くん、畿内説の宣伝バイトは今日から夜勤になったのかな? >>205
それって中国史料で邪馬台国からの使い、と明言されてたっけ?
ただ倭国からの使いとしか書いてなかったような記憶。 >>226
それ東征は1世紀ぐらいの話で欠史8代は実在する説だね。
崇神天皇の頃に強国になって各地に侵攻をはじめたと。 >>244
大和朝廷側は倭の五王以降に久し振りに訪問したのだが
中国側は倭の五王以前のことも歴史書読んで過去の倭国の使いが来た事を知ってて
「後漢の洪武帝が金印送った奴国、魏が親魏倭王の印を送った邪馬台国はどうなったの?
お前らが滅ぼしたんちゃうんか?」だろうね。 >>260
邪馬台国時代の大陸側の認識は倭国は九州周辺プラスαだよね。
九州が島であることは知ってても南九州のことはよく分からない。
関門海峡の向こうや大分から東に海越えたら島がありそこにも倭人の国があるけどよく分からない程度。 >>1
> 狗奴国(くなこく)文化圏
へぇー、そんなのあるんだ。 >>309
卑弥呼がアマテラス、はウソじゃないと思う。
記紀神話は各地方の様々話を都合よくつなぎ合わせた可能性があるとはいえ、
完全に無関係な人物を皇祖神とみなすか疑問なんだよな。
また東征も実態はどうであれ天皇家は九州からきた後発組だと言ってる以上、その時に九州から持ち込まれたと思う。
トヨの死後に再び分裂した九州の国にとって卑弥呼は伝説の女王。
神武は俺は卑弥呼の遠い親戚の子孫で正当な女王国の後継者だなんて言ってたらしてね。 >>357
倭人伝を読む限り狗奴国は邪馬台国とは別文化圏とは一言も書いてない。
狗奴国の男の子王、卑弥弓呼は卑弥呼とは日頃から仲が悪い、との記述から
個人的に仲が悪い。つまり邪馬台国王位や資源領土など政治的な問題で対立している印象を受ける。 伊都国にある北を統率する一大率、あれは完全に対馬海峡から北九州ルートの防衛ライン。
投馬国は宮崎説が多いけどある邪馬台国宇佐説の人は山口県沿岸と推定していた。
伊都国から南の邪馬台国まで陸路一月オア海路10日と豊前沿岸を進むと対岸の山口県が見えたから
投馬国まで南に海路20日は >>360
続き、邪馬台国へ南下する時に対岸に山口県が見えたから「南に海路20日で投馬国」と書かれた理由とのこと。
で投馬国は人口五万戸と二万の奴国を凌ぎ七万の邪馬台国本国に次ぐ数字、かつ行政長官の名も倭人伝に出ている。
思うに周防灘あたりも防衛ラインじゃなかったのかと。 >>345
だから古事記日本書紀ではおもいっきり九州をスルーした 隋の歴史書には近畿と九州からの使者がやってきて
「こっちが本当の日本の使者だ」と皇帝の前で喧嘩したとあるw 面白い事に12、000里をKm、そのまま現代の、
12000km取ると、マヤ文明に当たる。馬邪台国?
2世紀ごろから始まるらしい。
北米・中米のネイティブ
狗(イヌイット)
明日香・飛鳥(アステカ) 近畿説、さらに学術的根拠ないよ。
金印・銀印、封泥、記紀以前の書簡等が出土があっても
移動されたら確定できない。
もっとも、書簡に場所を特定できる記禄があればいいけど。 >>346
奥山よ、奈良も大概に田舎だぞ。いや、奈良の方が田舎かもなw日本人なら日本を知れよ。
知らない人が学者が云々の理由で畿内説なんだよなw >>222
斧の刃の径と言えば、刃の大きさだろ
つまり、径という文字は円形物以外にも使うんだよ
徑百餘歩だから円墳というのは早とちり
>徑百餘步 「仮に小道=細道を作って歩いて見れば百歩の距離だ」という意味。
その「仮の小径」は、「どこからどこまで」なんだ?wwwww
あんまり適当なことを書くなよwww
平原遺跡の大きさは端から端までをとっても百歩もないぞ
逆に伊都国中心の三雲遺跡群からだと1.3キロくらい離れているから千歩だな
で、その「仮の小径」はどこからどこまでなんだ?
具体的に答えてみそ? >>228
>数年前から畿内説は終了状態だよ
>日本史板を見たほうがいい
おいおい、現実は一切見ない主義なのか?ww
九州説は学説としては30年くらい前には終了している
安本美典氏系の「邪馬台国の会」(東遷説)と古田武彦氏系の「古田史学の会」(九州王朝説)の
二つが商売として、素人相手にがんばっているだけ
日本史板では現実の発掘調査による発見や研究成果を一切「見ない聞こえない」で
脳内妄想を書き続ける人が数名、大量投稿してるだけ
要するに九州説はもれなくスレ荒らししかしていない
見れば分かる嘘を吐いて何が楽しいんだ? >>369
近畿説も九州説も、
現実の発掘調査による発見や研究成果とは関係なく
初めに答えありきだよ。
両説とも
金印・銀印、封泥、記紀以前の書簡等
発見すべき。 邪馬台国って国なんか無いよ
あったとするならば魏の前線基地 >>250
これなんか典型的な畿内説だな
内容に反論するんじゃなくて、人格攻撃してるだけ >>370
そんなもん見つかるわけないし、見つかったとしても
金印自体はいくらでも移動できるんで証拠にもならん。 例えば「漢委奴国王」印は志賀島で見つかったけど、奴国が志賀島にあったわけじゃないでしょ 呼称的には、筑紫国という呼称が現れるのが隋書からで、それまでの歴史書には出てこないため
福岡あたりを筑紫国と呼ぶのは比較的新しいのでは?という気はする
それまでは奴国のはずだが、奴国という呼称が無くなってる
間接的にだが、ヤマト政権の占領後に呼称が変わったんでは?なんて思えるな >>341
読めない
「邪馬壹國」と印刷してるのは平清盛と貿易した宋代の印刷。
宋朝体といって右肩上がりの教科書体のような綺麗な字体で印刷した本
ttp://www.21ccs.jp/soso/gyakujun/gyakujijunji_14.html 近畿説の隋書こじつけは酷いからな。
隋書見れば600年代まで九州が外交してたことが分かる。
近畿は倭国別種のクーデター王権だから古代から続く王政に関与していなかったし古代資料が欠落して情報がないのは明らか。
苦し紛れの言い訳が口伝による伝承。
文字もない土人が外交などできるわけがない 邪 馬 台 国 へ よ う こ そ
■廣志逸文の記述
廣志曰く、倭國東南陸行五百里、
到る伊都國、又南、至る邪馬嘉(臺)国。
https://imgur.com/bmslFbs
■アクセス
伊都国の南 徒歩すぐ 倭人が住んでる国全体を倭国
倭国の中で卑弥呼の支配エリアは女王国
都があった地名が邪馬台国
支配者は誰であれ邪馬台国は動かない >>368
藤堂明保主編改訂新版「漢字源」の「径」の説明の中で「人名用の読み方」として
「みち」と「わたる」が書いてあるぞ。
オマエは漢和辞典すら引かないでホラ吹いてるのかw
>平原遺跡の大きさは端から端までをとっても百歩もないぞ
「仮の小径」の意味をよく理解してるじゃんw
>逆に伊都国中心の三雲遺跡群からだと1.3キロくらい離れているから千歩だな
それが的外れwwwwwwwwwwwwwwwww 倭国は邪馬台時代から兄弟で王政が執られてたんだよ
卑弥呼にしても姿を隠し弟に指示を出していたし
天多利思比孤時代も日中は弟が政務ををこなすとある
これが倭国の太陽神信仰から派生した王統の証
記紀にそんな記述などかけらもなく、全く本質を理解していないつまりは倭人ではない朝鮮人 奈良にも卑弥呼の庭?があったけど何アレ?パチモン? マスコミが揃って箸墓や纏向を邪馬台国認定するのが気持ち悪い。 マスコミは畿内を邪馬台国って認定してないよ。むしろ九州より
そもそも倭国って九州の事じゃないのw ストリートビューで近くを見た後、ちょっと東海道を散歩してみようかと思って進んで行ったら、
薩?峠のあたりでどうやっても下のバイパスに出てしまう
ゼンリン地図時代はちゃんと行けたはずなのに
バグってやがんなグーグルマップ >>389
文が否定したじゃん、朝鮮はいまだかって侵略などやった事がないって 半島に近く大陸と交信しやすいという地理的な好条件を背景に北部九州が優位に立ったなら、その条件を覆すほどの力を畿内がつけるのはなかなか難易度高いと思う
畿内ヤマトの王権に北部九州がひれ伏す状況なんて、その王権が九州由来でなけりゃ想定し難い
それに卑弥呼段階ではそこまで行ってないと思う >>381
600年代まで九州が外交をやってた証拠がどこにあるんだ? 畿内説はヤマト王権が日本を支配していたっていう所によってるだろ
当時の日本は小さなグループが各地に点在していたに過ぎないんじゃないのヤマト王権は畿内にあったグループで邪馬台国が九州にあったグループに過ぎない魏志倭人伝に名前が出て来たのは大陸と交易しやすい場所にあり交易が盛んだったからじゃね? 畿内派の決め手は学者が畿内って言ってるから♪
ても本場の中国と台湾の学者は九州って言ってるだよね♪ 邪馬台国がある!として、陳寿は嘘を書いた、何故?嘘をかいたのか?善良な解釈、この素朴な古より律儀な民を守る為。水行陸行の方角をあえてでたらめにした、これ近畿側。実際は伊都国が都であり、架空の投馬や耶馬壱を大きく見せ、軍勢があるようにみせかけた、これ九州側。 >>395
魏志倭人伝にはこう書いてある
>今使譯所通三十國
つまり邪馬台国の目を盗んで(?)使者を送ってる国が30国あるわけだ
近畿から九州までを統治してる強大な近畿ヤマトが支配してたらそんなことは起こりえない気はするね 畿内説は一部信者による脳内説です。
[畿内脳内説の主張]
・3世紀時点で大和王朝が存在していた。
・卑弥呼による祭祀統一連合として西日本一帯を傘下に治めていた。
・畿内式と思われる祭祀用土器が広く分布しているのがその根拠である。
[現実]
畿内の墓から出土する副葬品は、北部九州のそれらと比べ非常に質素である。
また被葬者が女性とみられる事例も無い。
3世紀は鉄が貴重品であり、市場では通貨のように使用されていた。(魏志韓伝に記述有り)
この時代の九州一帯では鉄器の出土例が大変多くみられるが、同時期の畿内での出土例は無いに等しい。
また纏向遺跡から出土する土器のほとんどが東海・伊勢地方のものであり、九州や大陸のものはほとんど無い。
そもそも祭祀というものは倭人共通の文化であり、使用する土器が全国で共通するのは不自然ではないし、
政権勢力と連動すると考える根拠も無い。
[結論]
3世紀当時の畿内と北部九州との交流はほとんどなく、3世紀の大和朝廷による西日本連合説を裏付ける根拠は皆無である。
>>360
魏志倭人伝の記述では一大率は女王国以北に置かれ、伊都国で諸国を治めていた
とあり、伊都国に一大率がいたとか無いんだよ。
>>362
畿内説の拠り所としてるのは記紀で肝心の魏志倭人伝の記述は完全無視してるな。 邪馬台国とは北部九州地域の国邑が卑弥呼を共立して結束した国邑の連合体
中心国は伊都国と奴国
その他のメンバーは対馬国、一大国、末盧国、不弥国並びに傍国20か国の計26か国
この26か国が邪馬台国
これに狗邪韓国、侏儒國、裸國、黒齒國を加えた30か国が今使譯所通三十國
投馬国と狗奴国は国邑ではなく国邑の連合体なので30か国には入らない。 >>238
>これだと隋書、旧唐書などを含めた連立方程式が成り立たない。数学的にはこれで十分
お前、理系じゃないだろww
理系は「隋書、旧唐書などを含めた連立方程式」みたいな雑なことは言わないww
>>244
>「旧唐書」
■倭國条
倭國者,古倭奴國也。
でも「新唐書」
■倭國条
日本,古倭奴也。
と明記してあるのは無視するんだよなww >>377
そう、場所を特定し
裏付けできる書簡が必要。
なんせ、
記紀を編纂した物部氏等が焚書令 大和の皇国史観にも卑弥呼に当てはめなければいけない人物がいる以上、邪馬台国は無視できない。 >>244
>■日本条 701年〜の記事(大和朝廷時代)
> 日本國者,倭國之別種也。
> (日本国は倭国の別種である)
ここまではいい
> ※畿内政権は倭国とは別物だと言い切ってる
これが大間違い
ここで言う別種は、倭国の「別種の呼び方・国号」という意味で
倭国をここからは日本と呼ぶという注記 「卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まった」
「崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、
夢に大物主が現れ、「こは我が心ぞ。意富多多泥古(太田田根子)をもちて、
我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げた。天皇は早速、活玉依毘売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、
天変地異も疫病も収まったという。これが現在の大神神社である」
卑弥呼の時代と崇神天皇(事実上の初代天皇?)の時代って被るよね。
卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命
男王=崇神天皇
壹與=大田田根子(実は女性)
だったりしないかな?
百襲姫=卑弥呼亡き後、ヒメヒコ制のヒコである崇神天皇のみで統治しようとしたが収まらず、
百襲姫の霊wに相談してふさわしい巫女を探し出した、って話なんじゃあるまいか?
大田田根子は女王じゃないけどまあ魏志倭人伝なんていい加減なところもあるだろうし
「卑弥呼の後継者なのだから多分女王」って思ったのでは。 >>251
>北部九州説にはちゃんとした根拠がある。
でも決して根拠は示さないのが九州説のデフォww >>403
お前は「新唐書」は記紀を参照して書きなおされたという事実は無視するのか?w
だから「新唐書」は何の参考にもならないから学者もスルーしてるわけでw 何一つ記録と合致しない畿内脳内説w
■魏志倭人伝、晋書倭人条
「骨を焼いて占う」
■隋書倭国伝
「筮竹を使って占う」
■畿内脳内説
桃をお供え物として穴に埋め、
カエルをかじって占います。
■考古学者
「カエルは祭祀の供物で、祭りが終わった後に
出席者が食べ、骨を穴に捨てた可能性がある。
ttps://www.sankei.com/life/news/190425/lif1904250019-n1.html
↑
畿内説名物? 学者とは思えない妄想コメントw >>269
それは九州説がかたくなに古墳時代開始の編年を認めないと言い張っているだけ
3世紀半ばのホケノ山古墳一つで、鉄鏃60本出てるし、
ほぼ同時期の椿井大塚山古墳と合わせると弥生時代全期間で北部九州で出た鉄を
超える数の鉄製品が出てる
九州説は「古墳時代のことだからノーカン」だけにすがってごまかしているのが現状 何から何まで記録と合致しない畿内脳内説w
■魏志
・韓伝,夫余伝:「槨あって棺なし」
・高句麗伝:「石を積みて封となす」
・東沃沮伝:「大木の槨を作る、長さ十余丈」
・倭人伝:「棺あって槨なし」←卑弥呼の墓
■畿内脳内説が卑弥呼の墓と言い張る
箸墓古墳(前方後円墳)の形式は
「棺あって槨あり」
※ちなみにホケノ山古墳は
「木槨あり木棺あり」
畿内の学者が箸墓は卑弥呼の墓でないない
と言っているのにゴリ押しかよw >>276
この経路で矛盾はないよ
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
水行は、人が歩く速度より少し速いかなくらいの時速5キロで
午前2時間、午後2時間進んで、1日20キロ程度
陸行は、行く先々で饗応を受けながら、2日に一度10キロちょい進むペース >>278
これがコークリ君かな?
篤い半島推しww >>413
>3世紀半ばのホケノ山古墳一つで、鉄鏃60本
3世紀半ばが疑われている墓の「副葬品」事例が一件しか無いんだよなw
錆に染まった堆積層すら見られないのにこんな事いう学者が居たりw
もと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
とマジで答え、・・・
日本語に翻訳すると「畿内説は脳内説」ってことだw >>285
>陸行は一月ではなく一日だよ。
方々で書いているんだが、そもそも1日だったら書く必要がないから書かれない
十日も水行してきて、港に上がってその日のうちに着くのにわざわざ陸行って書かないだろ?
末盧国だって渡海して港に町があったわけでもないだろうし、投馬国も陸行などは書いていない
陸行1日の距離なら、港もその国の土地だし、わざわざ書かないよ >>405
魏志倭人伝の時点で邪馬台国に服属しない狗奴国をはじめとした
勝手に使訳を通じる三十国があるわけだし、なにも唯一の統一王朝に拘らなくてもいいのにな >>289
なくならないよ
なくなるのは縄文海進の最盛期
弥生時代には、今の大阪平野の南半分は稲作適地の低平な土地が広がっていた
イザナギイザナミが最初に作ったオノコロ島は、その小さくなりつつある河内潟、
河内湖の中の島だったというのは、ありうると思う >>302
「邪靡堆」は「邪摩堆」の文字化け
摩の下の「手」が、筆先が割れるかなにかで「非」に化けたんだよ
隋書の時代もヤマトの国はあるだろ? >>313
>原発事故で学んだ。御用学者は利益優先www
原発事故のときも学者はどの時点でメルトダウンになったかを
ほぼ正確に把握できていたんだよ
それをきちんと報道に載せさせなかったのが、民主党政権 >>420
その耕作可能な土地は弥生時代の河内湖を想定しているそうだ。
コピペ用原本は俺が作ったものだから覚えてるw
現在の可住地面積
(人が住むことの出来る土地)
奈良県 853(km2)
福岡県 2773(km2)
佐賀県 1332(km2)
熊本県 2732(km2)
弥生時代の耕作可能な土地の面積
[畿内]
奈良盆地:450km2
河内平野:200km2
[九州]
福岡平野:250km2
筑紫平野:950km2
中津平野:180km2
宮崎平野:800km2
30万人が生活すると仮定すれば
最低でも700km2は必要。 >>421
それだと3世紀から7世紀まで邪馬台国が継続して存在していた
と主張する事になるが、そんな事は学者も言ってないよなw
時代からして纏向は「邪靡堆」の時代にはもう存在していないんだからw 梁書
復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王,並受中國爵命>>402
旧唐書の二カ所
倭國
倭國者,古倭奴國也
日本國者、
日本國者,倭國之別種也
とある。
「新唐書」
倭,日本
日本,古倭奴也。去京師萬四千里 >>317
>「王」に相応しい豪華な副葬品が出土するのは決まって九州。
それ、全部古くて時代が合わない
平原1号墓は、一見豪華そうだけれど大量の鏡のほとんど(40枚中38枚)は仿製鏡で
魏晋鏡は1枚もない
つまり卑弥呼のもらった鏡は一切存在しないのが確実
>畿内で出土するのは。。。ちょっとがっかりするぐらい地味だよね。
畿内では王の墓と想定できるものはすべて宮内庁管理で発掘できないからね
それより古い纏向石塚古墳とかは削平されて、埋葬主体が残ってないし >>426
>宮内庁管理で発掘できない
だから畿内説は物証無き想像説でしかないんだよ。 >>337
>減ったのが畿内だろうという人もいる。
減ったというか、統合されたんだよ
畿内では、弥生後期に入る畿内第V様式土器の時代に
「大和+河内〜環大阪湾の範囲」が一つの文化圏になり
畿内第V様式土器という共通様式の土器を使うようになっている
でも、九州でも吉武高木遺跡のあった早良国(仮称)が奴国の一部になるなど
国の統合は進んでいるよ
>だから纏向は東海はじめ国内との交流しか確認できていない。
結局、畿内では王墓宮の遺跡は発掘ができず、生活遺跡はその後の歴史で
上書きされてなかなか発掘されないんだよな
それでも纏向遺跡から韓式土器と判定された土器は出ている
国内との交流しかないというのは、九州説の思い込み >>428
奥山氏、それは君の妄想癖によるものですw 鉄製の武器を使って争いをやっていたはずなのに畿内からはあまり鉄製の武器が出てこないのは何故だろう >>341
現存最古の三国志の伝世本のテキストでは確かに邪馬壹國になっているけれど、
それが12世紀のもの
それ以前に成立した史書に軒並み魏志曰邪馬臺のように書かれているから、
本来は邪馬臺國、新字体で書いて邪馬台国だったのだろうとされている >>422
願望と妄想と現実が混ざって嘘が当たり前みたいになってるやん
刃物は持つなよ、今すぐカウンセリングを受けてこいwww >>415
・紀貫之や裴世清の倍の速度で移動
・遠回りしてまで日本海ルートを選択した設定なのに出雲()の記述無し >>425
「新唐書」
続き、九州説の短里を取って
魏書では、一万二千里、
二千里伸びると奈良が入る。
古倭奴也、昔の倭の奴国となる。
記紀がやっと出てくる。
奈は奴が由来?元々、あったのか?
それとも、移動したきたのか定かではない >>364
隋書の俀國傳は全部読んでいるつもりだけれど、該当箇所に思い当たる部分がない
どこのことなのか、原文で示してもらえるとありがたいんだが
>近畿と九州からの使者がやってきて
>「こっちが本当の日本の使者だ」と皇帝の前で喧嘩した >>377
だから、移動する価値のない魏皇帝詔書の封泥が見つかれば、ほぼ確定
まあ、見つからないだろうけれど >>385
卑弥呼の墓(冢)の話をしていて、いきなり小道がどうとか言い出したらそれを
書いたやつは頭がおかしいだろ?
径に小道という意味が「ある」からといって、径百余歩の径が小道の意味であることにはならない
その可能性を考えてみることは「多少は」意味があるが、考え始めた瞬間に
「そんなはずはないな」とすぐに分かること
結局、その「仮の小道」がどこからどこまでと想定されるのか、それが実際に百余歩なのかという問いには
一切答えずに逃げ回っている
要するに、ID:bww0pusW0はバカ >>435
新唐書は日本の自己申告を取り入れて編纂されてるから、読むなとは言わないが、あまり参考には出来ないよ。 >>394
白村江の戦いで敗れた倭国軍が九州王朝の軍隊なんて珍説、ネット上で初めてみた。
なんじゃそりゃ? >>393
>畿内ヤマトの王権に北部九州がひれ伏す状況なんて、その王権が九州由来でなけりゃ想定し難い
卑弥呼の共立のときに、卑弥呼の先祖に九州から来た人がいるっていう話が出たのかもしれない
それが、神武の東征のもとネタ
>それに卑弥呼段階ではそこまで行ってないと思う
北部九州最大国の奴国の中心、比恵那珂遺跡で畿内様式の庄内式土器を
3世紀前半から作っていて、その比恵那珂遺跡の首長墓が前方後円墳の那珂八幡古墳
卑弥呼の時代=3世紀前半の時点で、北部九州最大国は畿内と協調関係にあるというのが
考古学的な事実 最近硯が出土して1世紀頃から文字を使えていただろうに、天皇家に邪馬台国が伝承されていないのはおかしいねえ。
大和には独自の歴史があるのでは? >>396
>ても本場の中国と台湾の学者は九州って言ってるだよね♪
何の本場だ?
中国と台湾に、古代日本史の研究者なんてほぼいないぞ
つい先日のBS-TBSの諸説ありに出ていた人も、専門は中国の古代文字史と
南朝(東晋〜宋、斉、梁、陳)の研究者w >>400
>伊都国で諸国を治めていた
これが間違い
常治伊都國の治は、治所、一大率の役所の意味 >>443
専門の考古学者がいるのは日本だけだよ。
海外では様々な学者が集まって考古学チームを形成し、共同で調査するのが標準。
考古学者が居て、その人が結論を出す訳じゃないんだよ。
そんな怪しい事やってるのは間違いなく日本だけ。 >>443
ちょw これが畿内脳かよwww
怖いわ〜w >>442
何もおかしくない
文字が普及し始めたのは飛鳥時代であるのは疑いようのない考古学的事実
文字が普及したからこそ、記紀、風土記などが作られるようになった
これは畿内も北部九州も同じこと
つまり硯=文字ではない
極く一部の考古学者がただの平たい石を硯であると鑑定して回っているので出土例が急に増えたのが現況 >>410
新唐書をスルーしているのは学者ではなく九州説ww
旧唐書の時点で設官有十二等とあり、日本書紀を参照しているし
大和朝廷を訪問している高表仁も倭国伝に記載されている
又遣新州刺史高表仁持節往撫之。
旧唐書と同時代の唐会要には倭国伝に
「則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。」とあり、
日本国伝にその「則天時・長安三年」の遣唐使が
「長安三年。遣其大臣朝臣真人來朝。貢方物。朝臣真人者。」と書かれており
続日本紀の粟田朝臣真人の遣唐使のときに大和朝廷が倭国から日本国に
国号を改めたことが明記されている
旧唐書の倭国も日本国も同じ国、大和朝廷だよ 最近ニュースでやってたけど、たった800年前の鎌倉幕府の時に作った鎌倉往還でさえ今でも
はっきりと正しい場所がわかってないらしいのに、それよりさらに1000年以上も前のことが簡単に
わかるわけないだろ。 >>412
>■魏志倭人伝、晋書倭人条
>「骨を焼いて占う」
卜骨はむしろ畿内で多く出て、北部九州では少ないんだけど?
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 俺たちが畿内説と呼んでるのは、5ch住人の畿内説宣伝係である奥山の妄想説なんだよ。
畿内説というものをよく調べると全く違った内容になってくる。
本当の畿内説とは、
纒向は邪馬台国ではなく、箸墓はせいぜい台与の墓だろう。
今は候補対象となる物が無い状態。
だそうだ。
>>448
新唐書は九州→奈良への遷都説だぞ? >>414
>・倭人伝:「棺あって槨なし」←卑弥呼の墓
これが嘘
原文はここでの記載
有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。
食飲用籩豆、手食。其死、「有棺無槨」、封土作冢。始死、停喪十餘日。
當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
これは倭人一般の風俗として書かれており、倭王卑弥呼の墓についての記述ではない
卑弥呼の死であれば「始死、停喪十餘日」のように10日では墳丘墓一つ作れない
このように、九州説は都合よく倭人伝の記述をつまみ食い、チェリーピッキングすることで
組み立てられているインチキなんだよ >>417
>>413でも書いてあるように、同時期の椿井大塚山古墳でも大量に鉄器が出ているし
少し遅い(1世代程度)メスリ山古墳でも大量の鉄器が出土している
古墳時代の開始期を遅らせないと、九州説は成り立つ余地すらない
そして、研究者の間では現行の標準編年のコンセンサスが取れているので、
研究者で九州説を支持する人は事実上皆無な状況になっている ID:26TE63r60 = ID:5ySbZiv10
毎日同じ嘘コピペ貼る執念はどこから来るんだ?
いくら捏造しても必ずバレるのにな >>453
奥山君、すごい自閉症らしいね。
薬が切れてきたのか?w
たまには外に出ろよw >>343
当たり前に考えれば邪馬台国と大和朝廷は無関係だし、仮にあったとしても滅ぼした敵対勢力だろうのに、何が何でも邪馬台国が大和朝廷と結びつけようとする風潮がいとおかし >>424
また勝手な脳内説を戦っているなww
>それだと3世紀から7世紀まで邪馬台国が継続して存在していた
>と主張する事になるが、
ヤマトの国は地名だし、7世紀どころが現代まで継続して大和の国と呼び続けられているだろ?
バカですか?
>時代からして纏向は「邪靡堆」の時代にはもう存在していないんだからw
畿内説は纏向説じゃないよww
纏向は王宮所在地であって、国ではない
東京都庁が東京都じゃないだろ?
千代田区丸の内から、新宿に都庁が移転して、丸の内に都庁がなくなったら
東京都が滅びたことになるのか?
ID:5ySbZiv10はバカですか? バカなんだろうなww >>453
最近は、学者ガーじゃなくて研究者ガーに変えたのか?w
もともと邪馬台国に専念してるような学者はいないからな。 >>452
一般人の墓
>其死 有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘曰
卑弥呼の墓
>卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 ?葬者奴碑百餘人
一般人の墓の様子すら描写してるのに卑弥呼の墓の描写がこれだけということは
中国にない特異な形状のしかも巨大な古墳などは別物と考えて良さそうだな >>428
学説としての九州説は30年前に消滅してるからね
安本美典氏と古田武彦氏が商売上手だったから、ここまでもったんだよ >>439
むしろ唐会要を読んで
旧唐書の時点で倭国は大和朝廷なのが確定事項
九州説はでたらめ読み >>442
畿内でも硯が見つかり始めたようだよw
あると思って精査すれば、これからも普通に見つかるんじゃないかな >>461
倭国って日本の方にあった倭人の国を倭国って呼んでたんじゃないの特定の国ではなくて 5ch日本史板で畿内説の宣伝係をやっている奥山氏とは、
纒向センターの時給0円バイトに釣られた極度の自閉症患者で社会を全く知りません。
自説で脳がプラスチック化してしまったので、他人の話は全く受け入れられません。
討論するだけ無駄なのでスルーしてください。
口癖は学者ガー、研究者ガー、教科書ガー、考古学的、です。 >>447
硯=文字に結び付けてるのはメディアじゃないかな?
学者は倭人が文字を使ってた可能性を示唆した程度ではないかと思う
記号を書く、印をつける、絵を描くために硯を使うこともありえる
糸島で出たやつは、帯方郡や楽浪郡から来た役人が使ってただろうから
文字を書くためだった可能性は高いけど >>462
それ纒向と無縁な河内の出土だからw
畿内説だと河内は確か狗奴国だったよな?w >>465
佐賀で見つかったものと全然違ってた。
ただの石片ポイ。 >>445
どの地域での、どのような調査について標準だと断定できているのかはさっぱりわからかないが
日本では考古学者が直接発掘することは最近は極くまれでしかない
何故なら、日本の遺跡は行政が管理し、行政団体と民間(民間はここ20年以内の話)が発掘調査をしているから
彼らによる発掘調査成果は、必要に応じて、古環境学、地学、古生物学、人類学などの様々な学者や
研究機関が鑑定・評価を行ったうえで報告し、周知するので、その蓄積された膨大なデータがあるから、
それを研究する専門職的考古学者が成立するわけだ
伊太利や希臘以外には埋蔵文化財保護という概念がない海外(とくに欧米)とはあまりに事情が異なりすぎる >>468
その「必要に応じて」というのが間違いだな。
バカ学者が必要かどうかを判断してるのを想像してみなよ。 水行20日で投馬国、水行10日と徒歩1ヶ月。これは虚。わざと嘘を書いた、しかも徒歩1ヶ月、嘘ですよとも言ってる。伊都国の後ろに大軍も居りますよ、と脅してあるだけ。倭の別種は、一目瞭然、刺青をしとらんのが現れたから >>448
スルーしていないよ。
旧唐書に倭国と日本国を分けて書いている。
元々は倭国の奴国が日本国となった。
二つの勢力圏があった。
新唐書でやっと大和統一が見いだせる。
二千里伸びて、やっと奈良に入る。
時系列で考えると移動したではないかと思う。 3世紀の邪馬台国からずっと奈良に王朝があっただなんて誰が言ってるんだろう?
そもそも奈良は遺跡自体が少ないんだけどね。
古墳しか無いから墓地専用の土地だったのかもよ?
古墳時代となると墓と朝鮮人が住み着いた痕跡ぐらいしかないから。 >>466
畿内説では、邪馬台国七万戸の範囲を「大和+河内〜環大阪湾」の
畿内第V様式土器を共通に使う範囲としているから何も問題ないよ >>467
畿内の硯を判定した人は、北部九州の専門家で北部九州の硯を40個ほど見ている人だから
北部九州の硯と同じ判定基準だよ >>452
逆に、もしも魏の使者が前方後円墳なんか見たら特筆するだろう。中国には無い埋葬方法だから
魏志倭人伝が全く触れてないって事は、卑弥呼の墓は前方後円墳では無いって事
なんせ、 >>471
このルートで特に矛盾はないよ
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
>倭の別種は、一目瞭然、刺青をしとらんのが現れたから
文身の考古学的証拠とされる、鯨面土器の出土分布は畿内の東西にあり、
九州ではほぼ出ない
考古学的には文身は九州説に不利 >>472
高表仁は、どこを訪問したと思ってるの? >>476
特筆されてるよ?
大作冢、徑百餘步
王が死ぬとバカでかい冢を作る文化だって特記してある 邪馬台国も久那国も朝鮮半島にあった
邪馬台国はたまたま九州北部まで領土としていた 邪馬台国も狗奴国も畿内にあった
女王国はたまたま九州北部も属領としていた >>475
大阪のはすずりかも?とは言われてるが、硯とは断定されていないよ。
形も違うしサイズが小さすぎるからこれは小物を研ぐ砥石だな。 >>477
・紀貫之や裴世清の倍の速度で移動
・出雲に寄るために遠回りしてわざわざ日本海ルートを選択した設定なのに出雲の記述無し
そのルートはないな >>477
あるよ。
唐より前の文献
自郡至女王國萬二千餘里やら
萬二千餘里とある。
唐以降になると
倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里
九州説も?だが、近畿ではない事は確定している。
稲作で食っていける耕作面積や鉱物資源場所、風土で判断するしかない。 >>444
一大率は女王国以北に置かれたと書かれている
伊都国で治しているのは一大率ではないし、一大率の役所の意味でもない
一大率の仕事は諸国の検察であって治することではない
治とは治めること、諸国を一大率が治めて、検察するなら自分で自分を検察する事になる >>481
投馬国は朝鮮半島南部 帯方郡から水行20日
邪馬台国は投馬国から 水行10日 陸行1日 タイホウグンがそもそもどこにあるかあたりからが問題だからなー 福岡で出土した硯
年代:1〜2世紀
サイズ:長さ15・3センチ、幅6・3センチ、厚さ0・9センチ
https://i.imgur.com/k2XPkk7.jpg 投馬国=石を投げると対馬まで届く距離にある国という意味 >>438
>「そんなはずはないな」とすぐに分かること
何を根拠に「そんなはずはないな」と分かるの?
墓の大きさを「径百余歩」みたいな表現した例は他にないだろ。 「径百余歩」は、単なる「立派な」と言う修飾語。
実際に100歩ではない さらに、「径」って事は円墳(塚)であって
前方後円墳ではない >>483
専門家が鑑定して、硯の可能性が高いと判断し公式の場で発表したものであるが、
なぜそれを砥石だと断定できるんだ?
九州説に都合が悪いものは、根拠もないのに全否定か? <<最近硯が出土して1世紀頃から文字を使えていただろうに、
<<天皇家に邪馬台国が伝承されていないのはおかしいねえ
神功皇后が 北九州で 土俗の女王国を滅ぼしたと 出ている
先祖は無関係な 地方豪族と描写されてる
飛鳥ヤマト政権は 東征中は ヤマトを名乗っていないのも、
卑弥呼邪馬台国とは 無関係な国家だったということが分かる
東征中の国名は 高天原 >>483
>形も違うしサイズが小さすぎるから
小さいのは完形じゃないから
形に関しては、九州で出ているやつも全部同じ形という訳でもない
九州で多数の硯を見てきた久住氏の判定
大阪府泉南市の弥生時代の滑瀬遺跡で出土した板石の破片は、
弥生時代後期(1世紀)のすずりの可能性が高いと福岡市埋蔵文化財課の
久住猛雄主事が指摘している 倭人伝の行程は普通に社会生活が営める人間あるいはナビの指示を自然に受け入れられる人間にとって謎でもなんでもない
アレをこねくり廻してあっちこっち引き回せる奴はよほどの方向音痴か引きこもり(帝大敷地含む) >>488
唐書(一万二四千里)を基に
奈良から引く、
唐書より前の文献(一万二千里)
その円線上から一万二千里の範囲にある。
測量方法に画期的な方法は見つからない。
魏から測量方法は変わらない。 >>484
>・紀貫之や裴世清の倍の速度で移動
紀貫之や裴世清の方が見た目上遅いんだよ
彼らのは旅日記と滞在記
逗留している日数まで入れている
魏志倭人伝は地誌表記なので、移動の日数を数えている
想定で、一日20キロの移動だからまったく無理なく移動できる
>・出雲に寄るために遠回りしてわざわざ日本海ルートを選択した設定なのに出雲の記述無し
記述あるだろ?
南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。
>>484の言い分を認めるなら、奴国、不彌国も記述なしってことになるぞww
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戶。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。
この3国分の情報量は同じ >>496
九州で硯とわかったのは>>489のように、微妙に先端の広がった形状が根拠なんだよ。
もっと大きくて墨の跡が残ってるものなら確実。
墨本体より幅広くないと刷れないからねえ。 >>493
径は、斧の刃の大きさにも使うし、運河の幅も径で表現する
「差し渡しの大きさ」くらいの意味だから、円墳に限定するのは間違い
まあ、実際にはこの写真の右側の山の大きさだから結果的には円形なんだけどね
https://i.imgur.com/yYNv3Ht.jpg >>499
通り道にすぎない對馬國や一大國や末廬國すら国の様子が記述されているのに
投馬国はミミしか記載されていない
一体なんの為にわざわざ遠回りして日本海経由にしたのか理由が無くなってしまったな 帯方郡→邪馬台国 12,000里
帯方郡→釜山 7,000里
釜山→対馬 1,000里
対馬→壱岐 1,000里
壱岐→末盧國 1,000里
末盧國→伊都國 500里
伊都國→奴國 100里
奴國→不弥國 100里 >>499
移動に係る日数なので当然、雨待ち風待ち逗留にかかる日数も入る
出発から到着までどのくらいかかるか?が大事な情報なのだから
そこをわざわざ差し引いて記述する理由はない >>176
その五重塔の木も九州
芯材の根太が腐っていて移築濃厚
他の古墳の巨大な石棺も九州の石
こんなことする理由って何? >>498
奈良から引いたら結論ありきになっちゃうからだめやろ
そもそも魏の役人きたらしいが 当時から日本海渡って言ったりきたりできるほど
楽だったとは思えんな 半島なら遼東から地続きだし歩けば何とかたどり着ける
朝鮮は倭だったんだからそこまでならいける
それでも道などなく相当大変だっただろうけど
女王国は海を渡り北部九州まで支配した
近畿地方の鉄漿国の記述もつながる 単に電文でそういう国があると書いてあるところ >>496
>可能性が高いと
未だ断言出来ないレベルなんだ。 尾張がニギハヤ匕ってのも無理
瀬戸内と熊野灘を一緒にするってアホすぎ
航路は江戸時代までかかる難路なのに
ふつーに本貫の筑紫から匕矛の丹後や尾張に広がった
それが自然
物部がな国王 >>508
だから九州説?だけど、近畿はない。
後は戸数にあった耕作面積がある国々。
それとも、連合国家制で流通もあるから
農業地帯としての役割かもしれない。 >>470
きちんと読んでからレスしてもらえるとありがい
発掘調査の経験もないだろうに、何をもってして間違いだと断定できるのか意味不明だが、
そもそも学者が直接必要か否かを判断しているとは書いていない
あくまでも行政団体(外郭団体や国公立大を含む)と、民間団体(私立大学、発掘調査会
社)所属の技師や調査員が必要かどうか判断しているんだよ
あとバカ学者というが、学者は君よりははるかに多くの知識も持ち、君よりも地位も高いことを忘れてはいけない
素人が使ってはいけない言葉だし、使っても何の説得力もなく、自分が無知で無学で愚かであることを
わざわざ周知するようなものでしかない >>512
言っちゃ悪いけど、学者の9割はバカだよ。
一般人は話をする機会も無いし気づかないだろうけどね。 >>491
墓ではないけれど、円丘壇方丘壇の大きさの記述としては径○○歩っていう表現は
たくさんあるね
後漢書/志 凡三十卷/志第七 祭祀上/光武即位告天
上帝壇圓八觚,「徑五丈」,高九尺。
茅營去壇十步,竹宮「徑三百步」,土營「徑五百步」。
卑弥呼の墓の場合は、墓の大きさというより冢の大きさとして書かれているんだから、
この例示で十分だな
径は小道じゃないww ヨットで旅した人の事例を参考にしてみよう。
最大速度:約10km/h
https://i.imgur.com/MTd17wq.png
弥生時代のポンコツ船の場合、水行20日、水行10日でどこまで辿りつけるのか? >>504
逃げ回っているけれど、奴国不彌国にも行っていないと主張するのか?
もともと、自女王國以北、其戶數道里可得略載。という程度の記述しか
魏志倭人伝では書かれていないのを無視しているww
まあ、これもチェリーピッキングの亜種だ
自分の都合に合わせた読み方しか九州説はしない ●「日本人とユダヤ人の先祖は同じである」という説を日ユ同祖論という。これを最初に言い出したのは、日本人でもユダヤ人でもなく、スコットランド人のノーマン・マクラウドという人物が言い出した説である。
このノーマン・マクラウドなる人物のことはよくわからない。一説にはイギリスでは売買を商っており、日本や韓国では宣教師として活動ながら「イスラエルの失われた十支族」を探していたという。
マクラウドが日ユ同祖論を展開したのは、イギリスに元々あった「イギリス・ユダヤ人同祖論」を日本とユダヤに当てはめたものであるらしい。
内容は、日本の天皇、宮家、公家の儀式とユダヤ教の儀式が似ているからというものであった。
ちなみにアメリカの黒人は「イスラエルの失われた十支族」である説。
ネイティブアメリカンは「イスラエルの失われた十支族」である説。
韓国人は「イスラエルの失われた十支族」などなど世界中にあるらしく、特にめずらしいものではないようだ。
日本の場合、ノーマン・マクラウドの講演を聞いた日本のキリスト教指導者数人が、明治から昭和初期にマクラウドの説をさらに解釈を加えて日ユ同祖論を作っていったらしい。
なぜか?
明治〜戦前の日本はまだまだ二等国だと思っており、なんとか一等国に欧米のキリスト教国に思ってほしかったのである。そして日本は偉大な国であり、神の国であると日ユ同祖論者は口をそろえる。
例えば、「日本は神の国である。ゆえに蒙古襲来の神風から日清日露戦争にいたるまで負け知らずであったのは、我々日本人がユダヤ人と同じく神に選ばれた民だからだ」
とか、「旧約聖書に数か所「日の出る所から、その沈む所まで」という聖句があるが、この中の「日の出る所」とは地球の中央であるエルサレムから一番東にある「日いずる国」である日本のことだ」
とか、『日本は神に選ばれた国であり、日本民族は神に選ばれた民族である』といういわゆる神国ニッポンの皇国イデオロギーと同じなのである 。 ●ユダヤ人は日本人のことをどう見ているのか?
ユダア人研究でも有名な神戸女子学院大学の内田樹教授によると『エンサイクロペディア・ジュダイカ』という、全26巻におよぶ英語で書かれた百科事典がある。
『エンサイクロペディア・ジュダイカ』は文字通り『ユダヤ人の百科事典』という意味で、その厖大な百科事典に、日本についてのことがどれくらい記されているかというと、0.009%、ページ数にしてわずかに2ページ程度であるという。
日ユ同祖論に熱心な日本人には申し訳ないが、イスラエルを含む英語圏のユダヤ人は、日本や日本人にほとんど、あるいは実質この程度しか関心がない。
Wikipediaによると、一時滞在も含めて日本に住んでいるイスラエル国籍者は802名(2005年末)であるそうな。
ユダヤ系アメリカ人など他国のユダヤ人を含めると2000人ほどいるらしいが、極めて少ないといっていいだろう 。
よって日本にユダヤ教のシナゴーグ(集会所)もほんの数か所しかなく、そして開国してからあまりユダヤ人は日本に住みつかず、
もっといえば第二次世界大戦前に日本に横浜や神戸、長崎にあったユダヤ人コミュニティーも、戦後になるとみんなアメリカに移住しちゃってなくなってしまうありさま 。
どうやらほとんどのユダヤ人にとって、日本については関心もなく、また世界のあらゆるところに移り住んだユダヤ人だけど日本はあまり魅力的ではないのかも知れない。 ◎日ユ同祖論の年代矛盾。
ダビデの星がユダヤの象徴になったのは十七世紀から(イエズス会製)。
伊勢神宮のダビデの星がある石灯籠の設置は戦後。
ユダヤ・カバラで生命の樹理論の元型ができたのは12世紀(盲人イサク)から。
クリスチャン・カバラ(生命の木中心)は15世紀にピコが創始。
◎日ユ同祖論の方位矛盾。
メルカトル図法は方位が不正確。
方位が正確な正距方位図法ではイスラエルの東北の果てが日本であり、東の果てならニューギニア島あたり。
聖書が根拠の失われた十支族に考古学的証拠なし。
イスラエル中心の正距方位図↓
http://ronbarak.tumblr.com/post/39738833512/online-map-creation-using-azimuthal-equidistant
◎日ユ同祖論は縦書きの漢字とヘブライ語(横書き)の子音表記を無視。
公にしない支配者層の文章ですら漢字と漢字の変形(仮名)。
漢字否定の為に神代文字を捏造。
ヘブライ語は子音表記で母音記号(ニクダー)がないと正しい読みは不明。
都合よく読めばどんな言語とでも同祖論を作れる 。
◎日ユ同祖論は仏教と道教を無視。
本地垂迹説(神の正体は仏)で神の実体を否定する仏教が国教(寺が神社を管理)。
天皇も側近も仏教徒。
日本語に仏教用語は多いが神道用語は少数。祇園は仏教用語。
昔の神道=和風道教。神道・神器・天皇は道教用語。
天皇は道教最高神・天皇大帝(北極星)の略。
◎日ユ同祖論はユダヤ教の最重要教義を無視。
神道は多神教で安息日がなく(十戒=最重要事項違反)、
バルミツバ(13歳でする成人式)もない。
祇園は仏教用語。シオン祭というユダヤ教の祭りは存在しない。 >自分の都合に合わせた読み方しか九州説はしない
こりゃまた特大のブーメランだな
脳髄こぼれてるけどキニスンナ RiekoPiano@RiekoPiano • 7月23日
ユダヤ教徒の妻ですがシオン祭などというのは見た事も聞いた事もないですね。日本独自の都市伝説です。そもそも7月1日がロシュハシュナでシオン祭の初日という記事もありましたが今年のロシュハシュナは9月24日から26日です。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月23日
ネタとしては青森のキリストの墓と同じで面白いなあとは思うのですが(笑)、世界のどこにいても伝統行事を大切にしているユダヤ教徒に話したら「なんじゃそりゃ」と笑ってました。ユダヤ教の行事カレンダーも7月は空白です
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
何度も言いますがシオン祭と言うもの自体が存在しないのです。ユダヤ人は古代の行事伝統をすべて大事に今でも行っている民族ですがそのユダヤ人たちの間でこのような祭りが存在しないのです。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
シオン祭で検索してみてください。祇園祭に関連する記事以外何も出てきません。本当に存在する、あるいは存在したものなら、たとえユダヤ教やユダヤ人の文化の記事として必ず英語か日本語でみつかります。それが何もないのです。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
ユダヤ人たちは、世界のどこにいても、その多くが子供の時からヘブライ語を学び、自分たちの民族の歴史や伝統をしっかりと教え込まれます。そのための学校も必ずあります。その彼らが「シオン祭?何それ?そんなもんないよ」と言っているのです。
RiekoPiano@RiekoPiano • 9月5日
それで、伝統をこの上なく大事にして何千年も多くの行事を続けているユダヤ人たちが知らないシオンの祭典って何ですか?
ユダヤ人の祭り
http://www5f.biglobe.ne.jp/~jesus/NT-intro_festivals.htm
ユダヤ教 ━ ユダヤのお祭り
http://myrtos.co.jp/info/judaism03.php >>516
遠くはわからんと言ってるだけだし略載することが可能なのは隣の国だからじゃね?
わざわざ遠回りの日本海ルートを選んだのに出雲について省略してしまったということは
對馬國や一大國や末廬國よりも重要度が低かったということだなw >>515
>ヨットで旅した人の事例を参考にしてみよう。
>最大速度:約10km/h
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
この経路で、
水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から丹波までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい」
水行一日で20キロ進むとすると、
福岡から出雲平野まで15日、妻木晩田辺りまでだと18.5日
出雲から丹波まで11日、妻木晩田からだと7.5日
10日単位で丸めると、きちんと出雲投馬国まで水行20日
水行の終点丹波まで水行10日になる
1日20キロというのは、現代のヨットの時速10キロの半分
歩くよりちょっと速い程度の時速5キロで午前2時間、
お昼ご飯を食べて午後2時間の合計4時間進めばよいだけだから、
無理なく進める >>517
少なくとも俺が会った学者のほとんどはバカだったよ。
君は学者にバカはいないとでも思ってるわけ? >>521
>>516はちゃんと根拠を示した上での指摘
>>521は根拠なしのオウム返しのミラーリング
九州説には碌なのがいないw >>524
たとえば山手線一周するのに約1時間かかるとする
「山手線は各駅停車で一周するのに1時間かかる」
というのが紀貫之や裴世清の移動にかかる日数の記述の仕方
「山手線でも駅に止まらなければ一周30分で行ける」
と言ってるのが畿内日本海ルート説のひとの主張する日数の記述の仕方
魏志倭人伝でどこそこまで○日と記述するときに
後者で説明する意味はあるのか?(いやない) >>498
>魏から測量方法は変わらない。
測量方法が変わらないんじゃなくて、昔の史書をコピペしてるだけ >>524
纒向ありきで計算しておいてピッタリだと?
頭大丈夫? 水行は一日航海千里の規定を適用
よって水行10日は一万里
陸行1月は2千里、ただし陸行1月は倭暦なので2倍暦 >>531
そういう根拠不明な推測を元に、さらに仮説を立てるともうそこはオカルトの世界なんだけど? >>512
日本人は学者やエリートを尊敬しないよな >>529
それなら隋書の「東西五月行、南北三月行」はどういう意味だ?
これも立ち寄った場所で逗留する日数も含んでると思ってるのか? 水行につづく陸行は、陸路を使った場合を意味するという説が標準なんだけど。。。 歴史家というのは歴史を捏造するのが仕事である
徐福について黙して語らないのは捏造を仕事としているからである 陸行とは末蘆国から伊都国経由、鳥栖あたりから西にいき女王国 >>538
裴世清が筑紫から難波まで移動して二か月だな >>394
隋書に書いてあんだろ
筑紫の横に親王国があって大陸並みの人材を育成していたと。
それどころか近畿には小墾田宮とか言うショボい住居跡しかねえのに外交なんてできるわけねえだろ ほんじゃ陣馬山あたりも卑弥呼が歩いてたんだなぁ・・ >>6
いうほど精度ない
試料汚染も問題とされている
報道があるとみんなすぐ信じるけど 倭國とは九州北部、つまり九州王朝のことである
畿内王朝のことではない 正直卑弥呼、邪馬台国に関して
確定的にしゃべれるものが何もないから
まともな考古学者はほとんど沈黙で答えてるよな >>545
「東西五月行、南北三月行」のことを聞いてるんだけど 女王国とは伊都国と奴国のこと
女王国以北とは末盧国〜狗邪韓国 裴世清は東に移動し海岸に出たと書いてあんのに
水行もねえし5ヶ月も陸行なんかするかよ
行橋に着いて海岸に出たと書いてるんだよ。
600年代近畿には古墳しかねえよ やれやれ
韓伝
韓在帯方之南東西以海為限南與倭接「方可四千里有」
倭人伝
自郡至女王國「萬二千餘里」
著者にとっての極東の距離的広がりは以上から自明 >>547
つまり、九州が外交をやってた証拠は一つもないと言ってるわけだな
単に文献を恣意的解釈してるだけ >>553
「東西五月行、南北三月行」は「東西五日行、南北三日行」の誤記だね
「東西五月行、南北三月行」とかが事実なら巨大な大陸だな。 九州ロマン派。卑弥呼は占星術師である。貝殻と骨で占う、甘徳の教えを得た子孫であろう。長江河口青龍寺で空海も知ったはず、暦を支配し民を治める。一番大事な星は木星。明け方太陽の下に見える。 伝令や神様のお告げ等
連合国の王様達はそんなに
待たされるのか?
それとも、単に卑弥呼の生まれ故郷で
祭祀つかさどる場所や墓は別? 勝手に中国の文献の邪馬台国を皇室にしようとかどういうつもりなんだろうかなぁ
しかも観光目的の金儲けのためときてる >>556
韓在帯方之南東西以海為限南與倭接「方可四千里有
円周でとると韓とほぼ一致する広さ。
距離はほぼ正確と思う。 >>559
神というよくわからないものを関連付けるには、自然災害への畏れや、星空というのは原因がわからないから都合がいいわな
さらに幻覚や幻聴がでてしまう大麻や酒を偶然知ってしまって、神の声を聴くために使用していたという推測も学者はしてる 3世紀の鉄は半島で調達していた
■魏志韓伝より
國出鐵韓濊倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡
(国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。
諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を利用していた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
■推測されること
・畿内は取りに行ってない
・畿内は九州に鉄を分けてもらえなかった
・伊都国に置かれた一大率は地元人
■結論
・北部九州と畿内の関係は希薄だった。
・一大率は畿内政権とは無関係だった。
・畿内は倭国の一部ではなかった。
■関連
・纏向では九州産、半島産の土器が出土していない。
・もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」 >>513
「学者はバカ」は九州説が必ず言う捨て台詞
身の程知らずなだけ >>557
近畿には外交の痕跡はないよ。
小墾田宮が推古朝なら裴世清が会った天多利思比孤とは関係のない別国のことだろ。
全く近畿人はおかしなことを言うが
小墾田宮の建築様式からして奈良にいたのは百済人だろう。 畿内説を主張してるような人は本物の学者ではない
学者擬き、自称学者や自称学会。 >>553
https://i.imgur.com/KSFYhUP.jpg
これが裴世清の水行二ヶ月のルートなので残りの距離が陸行三ヶ月なのかもね >>570
九州が外交をやってた証拠はあるのかと聞いたが、
結局1つも証拠を出せないで、逆に論点をすり替えるのは、ギブアップってことだな >>569
具体的にどう賢いと思う?
学者のバイアスの強さを目の当たりに見たことないんだろ?
俺らは単なるデータベースぐらいにしか思ってないよ。
CPUは不良品だけどデータ保存のメモリーぐらいなら使える。
そんな感じだね。 書き込む前にWIKIぐらい読んでおこうぜ
■纏向遺跡
銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していないなど年代を決定する
決定的な出土物は乏しく、ここに邪馬台国であったと決定的なことは言えない。
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、
古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで
東側に位置する尾張国で造られた物が多い。
また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる
土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる
(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。
また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を
含むものの、九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が
大陸との交易は乏しかったと推定される。 >>565
プリミティブな情報なんで>>556を無視した「説」だの「論」だのは成り立たない
案の定レスはあんただけというわけでここで発狂してる連中はどいつも自「説」に都合のいい曲解を重ねてるだけ >>573
魏志倭人伝では邪馬台国に服さない狗奴国も居たし
三十国が使訳を通じてたんだから畿内以外も外交してたんじゃねーかな
むしろ畿内なんて西日本で一番不利な位置にあると言ってもいいくらいだな >>573
筑紫の横に鴻臚館の跡あるけど
何寝ぼけたこと言ってんだ >>573
自分が妙な事言ってるのに気づかないのか?
北部九州は外交の最前線だったんだが?
天皇も筑紫城に居たんだよ? >>572
これをみても邪馬台国が博多湾沿岸推定地から
陸路一月or海路10日の距離にあるは宇佐が適当だよね。 書き込む前にWIKIぐらい読んでおこうね。
現時点、畿内説の根拠とする物証が存在しない事を知っておこう。
白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい。」
と述べるのに対し、石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、また、箸墓を寿陵と考える寺沢薫
は壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。 巡り巡って結局は宇佐だろ
わざわざ何もない田舎に信託聞きに来ようとはしないもんな 隋書の裴世清の東岸に出る記述を列島にしたら
大阪ではなく東京か千葉辺りになるだろ。
これだから近畿説はダメなんだよ >>578
381のレスにある「隋書見れば600年代まで九州が外交してたことが分かる。」は
「近畿は倭国別種のクーデター王権」と対比させているので
九州という場所を意味してるのではなく、九州勢力が独立して外交をやっていたという意味なのは明らか
鴻臚館が九州勢力がつくったものである証明をしないと無意味 投馬国=富山で、邪馬台国が関東だったらどうするよ?w >>575
いま出ているのって、建設現場の宿舎みたいだなw
奈良の纏向を取り囲む、律令国の名前がついた地区を発掘して欲しいw
出雲、丹波、但馬、三河、石見、吉備、美濃、 >>572
隋書の時代に大和朝廷の版図が中部までだなんて珍説もいいとこ
義務教育レベルの知識を前提にしてもらいたい >>581
壹与なんてのは居なかった。
字形がよく似た臺与の間違い >>586
日本史板では「纒向は古墳造営基地局」という結論で落ち着いてたよw >>533
一日千里なのは渡海であって水行じゃないよ
渡海と水行は区別されている
水行を地理旅程記事で使い始めたのは陳寿
水行という用語を地理旅程記事で使うようにしたのは陳寿の発明
水行と渡海は区別されている >>534
>帯方郡から水行20日で投馬国
水行の起点は帯方郡じゃないと何度言えば
まず、水行と渡海が区別されていることを理解するところから始めてw >>538
その東西5ヶ月は日本アルプスまでだよね。
その向こうは毛人の国の関東地方。 >>587
じゃあ自分が納得できる範囲にしなよw
筑紫から難波までが水行で二ヶ月だから残りの距離が陸行三ヶ月なんじゃねーの >>587
大陸側が日本の地理がよくわかってなかったんだろう。 >>535
つ 根拠
魏志倭人伝
挹婁 土氣寒
倭
「其地無牛馬虎豹羊鵲。」
「倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。」
「以朱丹塗其身體、如中國用粉也。」
「出真珠、青玉。其山有丹。」
「其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香。其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。」
後漢書
挹婁 土氣極寒
倭
「出白珠、青玉。其山有丹土。氣溫腝、冬夏生菜茹。」「無牛馬虎豹羊鵲。」
「並以丹朱坋身、如中國之用粉也。」
通典
挹婁 土氣極寒
倭
「出白珠青玉。其山出銅、有丹。」「土氣溫暖、冬夏生菜茹。」
「無牛、馬、虎、豹、羊。」
「有薑、桂、橘、椒、蘘荷。不知以爲滋味。」
「並以丹朱塗其身、如中國之用粉也。」
明確な対応関係が見て取れるな
コンピュータを使ってコピペしたって言ったらオカルトになるけれど、
先行史書を調べて、そのまま書いてるだけの史書が多いんだよ ■中国外務省ホームページ日本史紹介欄(大和朝廷による朝鮮半島南部の支配)が、韓国政府の抗議によって削除
中国外務省ホームページの日本史紹介欄では、「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期にその勢力が朝鮮半島の南部にまで拡大した」と記述されていたが、韓国政府からの抗議を受け、日本史紹介欄から第二次世界大戦以前の日本史の部分が全て削除された >>537
日本は博士号取得者を最も尊敬しない国w 日本人の6割以上が、九州説を支持していると言う現実www
2007年3月14日(水)の夜、NHKのテレビ番組「その時歴史は動いた」(松平定知、上田早苗司会進行)で、「邪馬台国はどこか−近畿説vs九州説−」を放映していた。
この番組は、「双方向企画・歴史の選択」と題し、番組放映中に視聴者が、近畿説と九州説とのどちらを支持するかを、調査していた。
投票結果
九州説支持 35087票 (62.4%)
近畿説支持 21102票 (37.5%)
合計 56189票 (100%)
結果は九州説の圧勝である。近畿を中心とする考古学者はこれまで、なにか大きな発掘があると、ほとんど邪馬台国と結びつくとは思えないことまで、「邪馬台国近畿説」と結びつけて発表し、新聞をはじめとする報道機関も、それを大報道してきた。
それは、ほとんど近畿説プロパガンダの一種のようにさえ思えた。やや忿懣をおぼえるところであった。
にも関わらず、国民は九州説を支持している。
プロバガンダでは国民は納得しないというところか。
. ■三韓征伐・任那の歴史
▼朝鮮半島の石碑・歴史書
・広開土王碑
『そもそも百済と新羅は高句麗の属民で朝貢していた。しかし、倭が391年に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となした』
『399年 新羅からの使者が「多くの倭人が新羅に侵入し、新羅王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、高句麗王は救援することにした』
『400年 倭が新羅の王都の城中に満ちていた』
『404年 倭は無法にも帯方郡に侵入した』
・三国史記(百済本紀)
『397年 阿辛(あしん)王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支(てんし)を人質として倭に送った』
・三国史記(新羅本紀)
『402年 倭国と通好し、奈勿(なこつ)王の子、未斯欣(みしきん)を人質として倭に送った』
▼中国大陸の歴史書
・宋書
『451年 倭王済を使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍に叙した』
・南斉書
『倭王武を使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍に新に叙し、号を鎮東大将軍と為した』
・梁職貢図
『斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。あるときは韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった』
・梁書
『倭王武を使持節、都督、倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に叙した。502年、梁の高祖(武帝)が即位し、倭王武を征東大将軍に進号した』
・隋書
『新羅・百済は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す』 薄着で裸足で年中生野菜食べて魚とってた国が奈良ねえ
当時は気候今と違ったのかね >>586
卑弥呼を共立した国々があった地名かもな >>601
証拠は1つも出せないということだな
もういいよ ■朝鮮半島の歴史
(紀元前)
108年 前漢(中国)が衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島北部・中部を占領。楽浪郡、帯方郡など漢四郡を設置
(紀元後)
391年 倭(日本)が朝鮮半島南部を占領し、新羅、百済を臣民化。新羅王、百済王の王子が人質として倭に差し出される
451年 任那、新羅等の軍事支配権が倭(日本)にあることを、中国・南北朝時代の歴代3王朝(宋、斉、梁)が認める
660年 唐(中国)が百済を滅ぼし、朝鮮半島中部を占領。668年には高句麗も滅ぼして朝鮮半島北部も占領
1011年 遼(契丹、キタイ族)が朝鮮半島北部・中部を占領。高麗の首都開京が陥落。約30年間で5度にわたって軍事侵攻を受ける
1259年 元(モンゴル族)が朝鮮半島全域を占領。約40年間で6度にわたって軍事侵攻を受け、高麗王の王子が人質として元に差し出される
1592年 日本が占領(秀吉の朝鮮出兵)。李氏朝鮮の首都漢城が陥落。李氏朝鮮王子を捕縛。1598年には2度目の軍事侵攻を受ける
1636年 清(女真族・満州族)が占領。三跪九叩頭の礼で謝罪の上、大清皇帝功徳碑を設置。李氏朝鮮王の王子が人質として清に差し出される
1894年 大日本帝国(日本)が朝鮮半島全域から清を駆逐して占領(日清戦争)。清は朝鮮半島を放棄し、李氏朝鮮の独立を認める
1910年 大日本帝国が併合
1945年 南部をアメリカ、北部をソ連(ロシア)が占領
1950年 朝鮮戦争。中国・北朝鮮が南部に軍事侵攻し一時、釜山手前までの朝鮮半島全域を占領
1951年 南部をアメリカ・韓国が、北部は中国・北朝鮮が占領。現在に至る >>605
証拠とか一体何を言ってるんだ。
近畿には何一つ証拠など無いのに 卑弥呼は朝鮮渡来人である
「邪馬台国」は「呪術国家」であり、「卑弥呼」は「シャーマン(巫女)」
であったという。「卑弥呼」は「シャーマン(巫女)」として祭祀を司り、
政治は男子がとっていたと言われている。これは、「古代朝鮮の各国の王の
筆頭ブレインの中に女性のシャーマンがいた」のと似ている。シャーマンは
「預言者(祈祷師)として政治の中心人物に含まれ極めて重要なポスト」にあった。
古代朝鮮の各国は、シャーマニズムをもつ北方民族(騎馬民族)の覇権争いによって形成され、
シャーマンが政治の場に重く位置していた。
朱蒙王の高句麗建国の際にも、「女性シャーマンが王によりそい、政治の
予言(占い)を行って王へのアドバイス」をしていた。「王はわからぬことがあるとシャーマンを呼び相談していた」のである。
従って、古代朝鮮のシャーマンには相当な勢力をもつ者がおり、配下にはかなりの数の人材がいたと推察される。
* 朝鮮では祈祷が盛んで、その影響があってか、日本でも戦後しばらく
祈祷が盛んであった。小さな田舎町(村)には決まったように祈祷をする老婆がいた。
40〜50年前ごろまで、日本でも霊媒師なる者がおり、
困ったことがあると霊媒師をたずねる者がいた。現在でも、神社、お寺での祈祷によって合格祈願、結婚祈願をし、
災難、病などを逃れようとする人の数は恐るべき量に達する。このような祈祷による暮らしが生活に密着している国は、
先進国では、恐らく韓国・日本において最も顕著であるだろう。
北方種族によって形成された朝鮮文化(シャーマニズム)を、弥生時代以降の倭国へ持ち込んだのは渡来人である。 弥生時代 「邪馬台国」なる「国?」を作り、「卑弥呼」なる女王をもうけたのは、朝鮮からの渡来人であったと推測される。
縄文時代以前から存在した倭人は、弥生時代でもって終焉に等しくなり、奈良時代に新天地として倭国へ渡来した人々は、
倭国を「日本」として独立・建国させたのである。「魏志倭人伝」に記録されている「邪馬台国」の軌跡は、
日本の歴史の流れが朝鮮半島を泉源としていることを明らかにする証明書に等しい。
倭国の原住民から「卑弥呼」なる「預言者(祈祷師)」が生まれたとすれば、彼女を取り巻き支える倭人は
全て渡来人であったということと矛盾する。
第一、縄文人の90%が東北部に在住し、西部には一万人もいなかったであろうと言われているのに、
弥生時代に「邪馬台国」を支える原住民がいたとは考えられない。「卑弥呼」なる「預言者(祈祷師)」が
縄文人の子孫から生まれたとするだけの素地が無いのである。
なぜ「須恵器」が弥生時代に生産され始めたのか、水稲がなぜ弥生時代に盛んになったのか、
古墳時代の古墳はなぜ朝鮮の古墳と「うり二つ」であるのか、「高松塚古墳」とそっくりな古墳がなぜ朝鮮にあるのか。
「荒神谷の銅剣」はなぜ出雲で発掘されたのか、出雲弁はなぜ韓国語に似ているのか。
あげれば数え切れないほどの古代朝鮮の文化の流れがある。このような時代背景の中で、
「邪馬台国」は何を生み出したのか。「邪馬台国」は3世紀に生まれたとされているが、3世紀と言えば、
弥生時代の末期である。稲作が日本中に広がっている時代に、
わけのわからぬ「邪馬台国」がどのような存在のものであったのか、単なるある規模の大きな集落であったかもしれない。 弥生時代末期 朝鮮からの渡来人が増えたので、日本の原住民(縄文人の子孫)は10人の内1人もいなかったという。
「消えた縄文人」なる書籍まで目にするが、縄文人は弥生時代でもって終焉に近い存在となり、
倭国の住民の90%以上が渡来人によって占められたと言える。従って、「邪馬台国」なるものは、朝鮮渡来人によって作られたとしか考えられない。
「邪馬台国」についてわかりやすく言えば、アメリカの原住民のアパッチ族を拡大・高度化したような集落・集団であったかもしれない。
縄文晩期の人口が十万人にもならなかったということは、その人口を全国に散在させれば、
各集落にはスズメの涙ほどしか人が住んでいなかったことになる。殊に、縄文人は東北部に主として暮らしており、
西部には1万人も居なかったという。従って、当時の九州や近畿地方に、日本原住民からなる「○○国」があったなどと言うのは、
「魏志倭人伝」に書かれているということで「邪馬台国」を過大評価し、真実の姿を誤解しているのである。
「邪馬台国」は「呪術国家」であったと言われている。酋長(王)なる人は部下をたずさえて渡来したシャーマンであった可能性がある。
「邪馬台国」は日本国の出発点というようなものではなく、渡来人による大集落であったと推測される。
倭国に当時の文献が一つもないということは、「邪馬台国」が国家などと言われる様相をなしていたかどうか疑問である。
「魏志倭人伝」が書かれてから「記紀」「万葉」が書かれるまでの約400年の間に、倭国に関するまとまった文献が一つもない。
「日本」という国号が作られたのは、奈良時代に渡来した百済の上層階級によるものである。
このことは、現在の日本人が想像しているような国を「邪馬台国」に期待するのは思い過ごしではないだろうか。
日本国の出発点としてではなく、文字を書けない者からなる大集落であり、しいて言えば、
アメリカのアパッチ族に類するものではなかったかと推測される。
まして、酋長なる「卑弥呼」の存在を考えるとき、彼女が「霊媒師」であったことは、
当時の社会風潮からすれば、当然貴重なる存在者として崇められていたと言える。
「霊媒師」としての能力をどこで覚え、配下に部下をもつほどの指導力を携えるようになったかは、
その文化的素地を養ってくれた朝鮮にしかありえないだろう。「卑弥呼」がどのような人であったかを推測するとき、
弥生時代という時代背景を考えなければ、とんでもない推測をしてしまうことになるだろう。「魏志倭人伝」なる漢字で書かれた文献に惑わされて、
何か偉大なものが倭国にあったかのような錯覚に陥っていると言える。「魏志倭人伝」は漢字で書かれているので、
解釈において多面的な意味が生じるので、一層始末が悪く、あれやこれやと色々な解釈をあげつろって混迷に陥り、
わが説こそ正論であるかのような論文が出回っているのである。 畿内説は編年詐欺やりまくってるんだな
■小型丸底土器出土??
石野博信氏はホケノ山古墳について安本先生と討論を行った際、
ホケノ山古墳から4世紀後半の小型丸底土器が出土したことを述べている。??
小型丸底土器は庄内式土器末期から出現し、??布留式土器の重要構成要素
となっている器種である。??
ホケノ山古墳からは庄内式土器も出ているが、??それよりも新しい布留T式土器が出土したことに??
なるので、考古学の常識で判断すれば、古墳の年代は布留T式の時代と言うことになる。??
石野博信氏は「ショックだった」と感想を述べている。??
報告書を記述した橿原考古学研究所の研究部長は、小型丸底土器は、
発掘時に墓の上の方から落ちてきたのではないかと、苦し紛れに書いている。??
ホケノも箸墓も4世紀以降のもので間違いないぞw >>603
当時の大和は氷河期だったと言いたいの?
九州は冬至ビニールハウス内で秋〜冬に野菜栽培してたんだろw
オレは2月にキャベツの種まきして2Lペットボトルの底を切って被せて
4月の初めに収穫したよ >>615
奈良で4世紀のオンドルが発掘されたことは知らないのか?
40箇所以上見つかってる。
寒いんだよ奈良は。 >>609
ちなみに邪馬台と書いてシャーマタイと読む。
当時から巫女の事をシャーマンと呼んでいたとしたらすんごい話になるなw >>613
九州説って邪馬台国のことで頭がいっぱいいっぱいで、日本史も知らないんだな
西暦600年ならとっくに文字を使ってた
机とか硯を持ち出してくるってオモシロすぎ >>618
畿内説は妄想で頭の中いっぱいだよなw
大好きな学者連中が纒向も箸墓も可能性はゼロに近い、と言ってるんだから次のネタ考えろよw
このまま消えるのか?w >>612
西日本に縄文人が少なかったのは
九州の南の海の鬼界カルデラが大墳火して
南イタリアのポンペイのように火山弾、火山灰に埋もれたから。 >>619
九州バカにとって纒向や箸墓は虎馬なんだなw
親の仇のように憎んで必死にこき下ろしてるのが面白い >>618
まあオンドルと漢字が出てくるんだし
百済人が住んでいたとしか言いようがないわな。 >>622
纒向と箸墓は対象外濃厚となったわけだが、さて次はどのアイテムを使う?
葛城か?w たぶん九州説の大半は外国人だから日本史を知らないのは仕方がないけど
わざわざ外国の歴史に首を突っ込んで来るのは、何らかの目的があると勘ぐりたくなる >>539
そんな標準はない
それとも九州説内部での標準なのかな?ww
投馬国行きは、どうして陸行換算してないの?ww
水行十日が陸行一月なら、水行二十日は陸行にしたら二月なのかい?w
それはそうと、投馬国はどこなのさ
投馬国を半島南部だと言い張るバカが出没してるけど、九州説はそれでいいのか?w >>545
>>543によると裴世清は九州から一歩も出てないらしいよ?ww >>624
吉野ケ里の対抗馬は唐古・鍵だな
繰り返し掘削された環濠があるし
通称褐鉄鉱容器に入った勾玉が出土してるし
吉野ケ里には無い「楼閣を描いた土器」も出土してる。
吉野ケ里も早く楼閣を描いた土器をゴッドハンドしろよ >>552
3世紀の王都とみなせる遺跡が纏向遺跡しかなくて、そこで作られる形式の土器を
九州最大国の奴国でも模倣製作してるのは確定
それ以上のことは言わないってだけ >>555
海岸に出たなんて書いてないがなぁ?
違う隋書を読んでるんじゃないのか?
平行世界で書かれたやつとか?ww
又經十餘國達於海岸
瀬戸内海を渡ってきて海から海岸に達するんだよ >>556
それ、淮南子等から萬二千里を拾ってきて、
倭国上陸まで一万里、渡海が一回千里っていう設定に合わせて逆残してあるだけだぞ 魏志倭人伝の記述への整合性
※候補対象に出来る遺跡は、本当はこの2つしかない
・吉野ケ里 90% 規模7万戸のみNG
・唐古鍵 10% 雰囲気のみOK
唐子鍵は消滅理由と引越し先も必要だなw >>570
推古朝のときは、斑鳩宮で対応してるだろ?
https://i.imgur.com/ekCwxnx.jpg
九州説の人は文句ばっかり付けてるけど、九州王朝の宮都遺跡ってどこにあるの?
裴世清はどこに来たんだい?
行橋には都の遺跡なんてなかったと思ったけどなぁ?
これも平行世界にならあるのかな?ww >>575
>書き込む前にWIKIぐらい読んでおこうぜ
WIKIはなぁ、九州説が暴れまわってるからww
韓国や従軍慰安婦関係のページがでたらめなのと双璧 畿内説は魏志倭人伝の方角は嘘、里数は嘘、日数は裴世清や紀貫之の倍の速度で移動するからな
そこまで魏志倭人伝を無視するならもう邪馬台国すら無視でいいのにって思う >>578
福岡の鴻臚館が根拠だというなら、難波鴻臚館も否定しないよな?ww
裴世清が難波まで来ているのは確定 >>633
「ベクレてても計測しなけりゃ大丈夫」と言った知事さんがいたところですな 古代史について深く議論するのを妨害する為に、
九州vs畿内の対立を煽るのは常套手段
常に位置論争迄で議論を止めるのが目的
タチが悪い >>586
頭のおかしいのが言い張ってるだけだよ
まあ、頭のおかしいご本人なんだろうけれどww >>596
>水行は水上航行の省略
いいえ、水行は沿岸航行です
大陸史書で地理旅程記事での水行の初出はこれ
從郡至倭、循海岸水行、歷韓國
これをもって海の字があるときが海の水行、なければ川とか言っている人も
いるけれど、三国志で陳寿は川を移動するときは、遡る方向を「泝流」と表現している
循海岸水行は、水行という用語の定義を示しているんだよ
海岸に循って進むのが水行 >>601
九州説はその誤読だけが頼り
日本という国号は倭国の別種の呼び方であると書いてあるんだよ
日本は倭国と同じ国という注釈 >>603
それ、北部九州でも無理だから
陳寿が倭国を会稽東冶之東の南国だと思ってたから、そういう表記になってる コピペすりゃ早いのに。
旧唐書より
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
■倭國条 〜631年
「倭國者,古倭奴國也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
倭奴国とは、漢委奴国王の金印を貰った国。
「去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。」
(新羅の東南一万四千里)
北部九州から東へと移動している。
郡の位置が変わったので補正された。
■日本条 701年〜
「日本國者,倭國之別種也。」
(日本国は倭国の別種である)
日本は倭国とは別物と言い切っている。
以下、日本人使者の言い訳が続く。
「以其國在日邊,故以日本爲名。」
(日出る国だから改名した)
「或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。」
(字が嫌いだから改名した)
「或云:日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
「其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。」
(日本人は不誠実なので中国はこれを信用しない) >>606
大作冢の大は、作にかかる副詞
作大冢の大は、冢にかかる形容詞 >>646
>(日本国は倭国の別種である)
> 日本は倭国とは別物と言い切っている。
これが大間違いww
間違いを積極的にさらして恥をかき続けるスタイル?ww
マゾなの?w >>649
反論出来ないんで、何とか煙に巻こうするスタイル?www >>650
>>403、>>448で反論してあるよ?
唐会要とか読んだことすらないんだろ?ww 三河弁で読む魏志倭人伝
「邪馬台国にいこまい」←伊支馬 >>617
日本人が「ん」を発音出来るようになったのは10世紀の終わり頃から鎌倉時代
魏志倭人伝の時代に「ん」を発音出来なかったのは鋼板の定説
はい論破 >>6
考古学無視して科学測定した結果、
スフィンクスの建造が紀元前15000年になったんだぞ 考古学者の編年は信じない
巻向は4世紀に決まってる 証拠はないけど心証では確実
学者はバカしかいない ソースはオレ個人の経験
他になんかあったっけ?ww >>656
「ん」を発音できなかったから邪馬「しゃーま」になったんだよ。
まあオカルトはこれぐらいにして、唐子鍵はなぜ消えたんだ? >>643
内陸国の支那では「水」は河川を表わしたというのが
基本概念。 >>658
それ、ソースが学者だろw
纒向の遺構は3世紀終わりから4世紀はじめあたりがピークで、出土品が多くでるのもそのあたり。
纒向の報告書は公開されてるんだからちゃんと読んでおけよ。 >>647
大きな塚を作ったではなく
大いに塚を作っただね。 >>33
こういうの大好きw
>>64
女王国の東の海とは、遠津淡海である浜名湖ではあるまいか。 行程は伊都国まで正しい、其処から先はわざと嘘を書いた。少しでも延命させたい陳寿の思い入れがそうさせたのだ、侵略者に迷わす為だ。陳寿はその後倭人文を指摘され、職を降ろされる。天才宦官陳寿に素朴な原始的な邪馬台が嘘を書かせたのだ。九州ロマン派。 >>483
こいつもすげーな
学者が硯と判定したものを砥石だとなぜか断定する
その理由が、形も違うしサイズが小さすぎるからだとさ
普通の知能があれば、割れて一部だけが見つかったと推測できるだろうに
そんなやつが学者をバカ扱いだもんな 祭祀?歳時記等や軍事、伝達考えると水行20日さらに10日と1か月て相当だな。
本当に卑弥呼が住む所かな?出身地ならわかる。 >>670
三河国一宮の砥鹿神社も、元は本宮山そのものが御神体だったんだろうね。
丹とか出んもんかな。
>>666
琵琶湖じゃい。
そいや、孝霊5年に富士山が隆起したときに琵琶湖が陥没したんだそうな。 >>659
社会変動を考えるか、天変地異を考えるか
同じ時期に畿内周辺の広い地域で環濠集落が消えている
卑弥呼が共立されて、防御施設としての環濠が必要なくなったのか
それとも天変地異で一気に環濠が埋まってしまったのか
ただ、環濠は防御の役割ではないという説も根強い
天変地異は大雨や大地震が想定されている
http://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/49taguchi6.html
まあ、そうそう結論の出ることでもないけれど >>668
その記事に硯と判明した、とは書かれていないわけよ。
再調査はこれからなんだから断定はまだ出来ないんだよ。
奥山って本当にバカなんだなw >>672
環濠が無くなるのは卑弥呼より前の話
2世紀 >>660
陳寿が三国志で水行を地理旅程記事に使うまでは、水行は
夏書:禹堙洪水十三年,過家不入門。陸行載車,「水行乘舟」,泥行乘毳,山行則梮,
禹は洪水を治める(湮(ふさ)ぐ)ために13年間、家の門もくぐらずに通り過ぎた。
陸を行くときは車に載り、「水を行くときは船に乗り」、泥を行くときにはそりに乗り、
山を行くときにはカンジキを使い
のような使い方しかない
それに、先にも書いたが、川の時には「泝流」という用語を使うから
川の水行はない
特定の川の時には「泝漢水」のように使う
三国志にはないが、川を下るときには「順流」を使う
川を遡るときには「泝流」下るときには「順流」と流れの向きまで指定するのが
川の移動の書き方
三国志では水行は川には使われない >>663
>大いに塚を作っただね。
成人男子が10人もいれば一週間で作れるような径十歩に満たない墓を作るのに
「大いに」とは言わないだろ?
実際「径百余歩」とも書いてあるんだから、でかい墓なのは確定 梁書は、面白い
コロンブスよりはるかに昔にアメリカを
発見していたかもしれない。 九州説の人は少し伊勢遺跡について知識を入れて欲しい
伊勢遺跡から纏向遺跡に首長の集会の場としての機能が引き継がれている
九州説は歴史の流れを無視したことしか言わないから、正直嫌い 三河スレで語るこっちゃないが、そこはそれ。
>>675
泝流・順流は、川を遡ったか下ったかを区別したい場合の用語な気がする。
同様に、「渡海」は、海を渡ったことを示す言葉だし、「循海岸水行」は沿岸航海を表す。
という風に、目的や対象を示す言葉はいろいろあるが、「水行」は
それらと同じレレベルの言葉ではなく、より上位の概念じゃなかろうか。
泝流やら順流やら渡海やらは皆「水行」にカテゴライズされるものだと。
同様に歩行も騎行も登山もひっくるめて「陸行」だよね。 >>678
何の記録も照会出来ない事を畿内ありきの妄想で語るだけの簡単なお仕事ですかw
まるでオカルト宗教の伝道師やなw 伊勢遺跡と纒向遺跡の祭祀遺構は全くと言っていいくらい違う
伊勢遺跡は水に囲まれた建物の中で水の祭祀を行っていたと言われている
銅鐸もあるしね
纒向遺跡は、卜骨、生贄、カエル、桃酒
祭祀を行っていた主体が伊勢遺跡と纒向遺跡では別物なんだろう 邪馬台国という矮小な存在よりも
もっと大きな王朝としてのいわゆる富士山麓王朝
これは蓋然性が高いよ
記紀が富士山を大きく扱わないこと(他ヤマトタケルの東国征伐)
これは何かを隠している ヤマトタケルか
火vs火は何やったんやろな
地元の人なら何らかの伝承を知っているかも 伊都之尾羽張という神がいるが
これと伊豆、出雲、尾張、草薙剣の熱田神宮は密接に関係している >>683
駅名で言うと、焼津と草薙が離れているのが気になる。
同じ場所であって欲しいよなあ。 倭五王の時代だろ近畿わ、馬や車が入って来て陸上も行き来がしやすくなってからだよ。鎮東大将軍様が広げたんだろ? 卑弥呼は日巫女でただの太陽神の巫女さんだよ
女王ってのは勘違い >>675
>陳寿が三国志で水行を地理旅程記事に使うまでは、水行は
オマエは九州捏造馬鹿かwwwww
これでも喰らえ
魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)
従帯方至倭循海岸水行歴韓国到拘邪韓国七千里
「帯方より倭に至るには、海岸に沿いて水行し、韓国を歴(=経)て拘邪韓国に到ること七千里。」
オマエも古田武彦並のバカだな
『魏略』は倭国について述べた史書として最も古いものであった。
隋書経籍志では典略八十九巻、魏の朗中、魚豢撰と記され、旧唐書経籍志には魏略三十八巻、典略五十巻が魚豢撰と記されている。
陳寿は先行する資料をコピーしただけ。
こんなことも知らないで知ったかを開陳するなんてw
説破w 名古屋から東京まで船か徒歩しかないなら、早いほう船を選べは、大体前も同じだろ?コピーであっても、仕方ないだろ?行程なんて同じだよ、前任者達との違いを見せる為に風俗が描かれてんだろ。帰り道書いてあったら同じだと思うよ、 三河弁で読む魏志倭人伝シリーズ
「鬼道はおうじょうこく」 ←女王国 九州説の人は、邪馬台国の会のHPやウィキペディアの恣意的編集された記事から情報を得てるけど、
学者が書いた本や論文、公的機関の情報はデタラメだと思ってるんだろ?
そりゃ議論しても噛み合うわけないわな >>675
馬鹿だなぁお前は
三国志で中国本土の記事に順流、泝流が使われているのは陳寿が中国国内の河川の流れの向きを把握していたからに過ぎない
陳寿が行ったことも見たこともない倭国の川は流れの向きが分からないから水行としか書きようがない 川を20日昇るか下るがして投馬
そこから10日川をったってそのあと1月歩くって邪馬台国はアマゾンかよw >>693
学者www
■魏志倭人伝、晋書倭人条
「骨を焼いて占う」
■隋書倭国伝
「筮竹を使って占う」
■畿内説
桃をお供え物として穴に埋め、
カエルをかじって占います。
■考古学者
「カエルは祭祀の供物で、祭りが終わった後に
出席者が食べ、骨を穴に捨てた可能性がある。
ttps://www.sankei.com/life/news/190425/lif1904250019-n1.html
↑
畿内説名物? 学者とは思えない妄想コメントw 九州ロマン派としては、水行の部分は嘘の部分だからどうでもいいとこだけど、20日も水行する日本の川って何処? 現実は厳しいですわw
1位は九州説で54.4%
2位は近畿説で35.7%(≠奈良説)
その他が9.9%
https://imgur.com/UNP7rJ5 >>696
うきは市の珍敷塚古墳古墳の壁画に
カエルの絵が書いてあるのを
無視するのが典型的九州説派の行動パターンwww
九州でもカエルを食ってたのにw >>699
カエルの絵が書いてあるからどうなんだよ。
また妄想の数珠つなぎで関連付けたいのか?
ストーカーかよw >>695
そこなんだよな。情報伝達考えると
バカげた日数。邪馬台国は、政治・祭祀・貿易等の
中心ではなく。たんに卑弥呼が生まれ育った国かも? 箸墓3世紀説は畿内ありきの学者の妄想でした。
こういうことは小声でしか言えない連中w
この木製鐙は4世紀半ば以降とする方が妥当である。
さらにこれが日本に伝わった時期を考慮すると
箸墓古墳の木製輪鐙は早くても4世紀後半ないし
5世紀以降とする方が望ましく、その特徴が後世的
であることもこれを裏付けるものとなっている。
研究者の年代観によって造営年代は若干の異同がある。
広瀬和雄はその時期を3世紀中期ないし後期としているが、
「魏志倭人伝にしたがうかぎり、箸墓古墳が卑弥呼の
墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい」
と述べている
白石太一郎は3世紀中葉過ぎとしているが、
「3世紀半ばすぎというのは、卑弥呼は亡くなっているが、
その後継者である台与の時代である。」とも言っている >>697
里程も人口も誇張されているのだから日程も当然誇張されているんだよ
なにせ畿内ご自慢の唐古・鍵遺跡の人口が九百人だからw
七万戸(笑)
https://www.j-cast.com/bookwatch/2019/06/15009197.html
>集落の範囲は東西350メートル、南北500メートル、そこに約900人が暮らしていたと推定されている。 纏向遺跡の皆さんは半島式住居へ引っ越しましたw
・ 〜2世紀末: 唐古鍵遺跡
・2世紀末〜3世紀半ば:不明(邪馬台国時代)
・3世紀半ば〜4世紀半ば:纏向遺跡
・4世紀末〜:↓奈良・高取
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。 九州ロマン派としては、邪馬台国に巨大なもの作れるそんな財力も権力もないよ。半島半分支配するようになってからの話、中小企業なんだから >>699
このアホは一体何に反論してるつもりなんだ 纏向遺跡は一体何なのか???
日本史板で結論が出ました↓
1、突然現れ、纏向古墳群ともに終焉を迎える
2、わずかであるが、15%が搬入土器であり近隣の出稼ぎ労働者がいたと思われる
3、生活用具が少なく土木具が目立ち、巨大な水路(環濠では無く)が築かれ大 運搬用の水路と畿内説の学者も認知
4、集落跡が未だ未発見・・巫女千人??
5、斎場(死者を敬う祭場でも、神社でもいいだろう)と見られる掘立柱建物がある。・・強固でなく付け焼刃の建物(柱穴跡は細く、石や砂利で固めた 形跡無し)
6、鉄鏃無し・・兵は少ない???
7、近隣に古墳多し
8、番場であろう煮炊きした炭化物の土器出土
9、葬儀や祭事に欠かせなかっただろう桃の形跡在り
よって、纏向古墳造営基地 >>700
じゃあカエルの絵が書いてある経緯(いきさつ)を語れよ
九州は亜熱帯で奈良は氷河期だったという論法を反復するのかよ
大した違いがないのに
奈良が冬寒いときは香港も寒いんだよ。
クアラルンプールやシンガポールへ行けば
冬は寒くないけど。
公孫淵征伐片道四千里を帯方郡から万二千里の邪馬台国に適用すれば
邪馬台国はバリ島かパプアニューギニアで辻褄が合うんだわwww >>709
はいはい妄想を根拠にした妄想がお前の脳内説だぞ読み返せw >>694
お前はバカだ!(断定)
魏使が方角を間違うはずがないと言いながら、川の流れの向きも分からないと主張するバカ
陳寿は魏使ではないから分からないというなら、方角が間違うはずがないというのも通らなくなるww
史記から新唐書までの大陸正史で、川に水行が使われているのはガンジス川とソンホン川だけ
この二つの川は現代でも内陸航路に使われている大陸河川で水行距離が千里を超える大河
三国志に川の水行があると言うやつは100%バカ ひろいもの
近畿は新羅人の巣窟でしたw
[半島系]乾燥耳垢
[縄文系]湿潤耳垢
以下、都道府県別の乾燥耳垢率
北海道:67.4%
宮城:65.6%
東京:67.6%
新潟:75.0%
長野:77.1%
愛知:81.3%
奈良:100%
大阪:94.7%
広島:74.7%
福岡:59.4% >>696
とっくに論破されてるコピペを何でしつこく貼り付けるんだ?
しかも、藁人形論法で学者批判してるし
ついでだから、卜骨のニュース貼ってやるよ
https://www.nara-np.co.jp/news/20150130090908.html カエルがどんなカエルか知らんがカエルは不死になった月。九州ロマン派としては食いもんじゃない。 >>713
「邪馬台国よりやや時代が新しい。」
時代錯誤乙www 蛙と言えば諏訪大社だよな?普通は。
うきはの絵ってwww
畿内説らしく妄想の枝が多い人でつねw >>717
で?
じゃあ今度は唐古鍵が邪馬台国だと言い出すんかな?w
あー言うたりこー言うてみたりwww
アホやろ?学者ってw なぜ3世紀の奈良から鉄が出土しないのか?
↓分布図
http://imgur.com/OK8GwzA.jpg
■考えられること
鉄の潤っていた九州とは交易が無かった。
=一大率や大倭は近畿とは無縁である。
=魏志韓伝に出てくる「倭」に近畿は含まれていない。
■裏付け
実際、同時期の纏向遺跡からは九州産の土器が
出土せず、東海・伊勢地方のものが多数を占める。
■名言
もと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
とマジで答え、・・・
>>718
もう架空のデタラメ畿内説を捏造して、一人で論破ごっこでもやってろって >>717
発言したかったらまず畿内説の根拠を探してこいw
・ 〜2世紀末: 唐古鍵遺跡
・2世紀末〜3世紀半ば:不明(邪馬台国時代)
・3世紀半ば〜4世紀半ば:纏向遺跡
・4世紀末〜:↓奈良・高取
方角が90度ずれた理由もなw ヤマト政権惨状
旧唐書より
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
■倭國条 〜631年
倭國者,古倭奴國也。
(倭奴国=北部九州の旧名)
去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。
(新羅の東南一万四千里=出雲・吉備?)
■日本条 701年〜
日本國者,倭國之別種也。
(ヤマト政権は倭国とは別物だと言い切ってる)
以下、日本使者の言い訳が続く
以其國在日邊,故以日本爲名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。
或云:日本舊小國,併倭國之地。
其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。
(日本人は無礼なので中国は信用しない)
大和朝廷の「東国によき地あり、撃ちて盗るべし」の対象となった
日高見国かもしれんな >>711
>魏使が方角を間違うはずがないと言いながら、川の流れの向きも分からないと主張するバカ
魏使は実際に行ったんだから川の流れの向きは分かるだろう
でも水行としか記さなかったから陳寿もそう書くしか無かった
>陳寿は魏使ではないから分からないというなら、方角が間違うはずがないというのも通らなくなるww
実際に行った魏使が南と記したから陳寿もそう書いたし実際に南だった
勝手に東に読み替えてる敗残畿内がアホなだけ
>史記から新唐書までの大陸正史で、川に水行が使われているのはガンジス川とソンホン川だけ
ん?なにか言ったかいバカくん
荊州に海は無いぜ?
https://zh.wikisource.org/wiki/讀史方輿紀要/卷七十八
> 沈約《志》:「汶陽郡,陸行去荊州四百里,水行去荊州七百里。 古事記が正しい
シュリーマンのトロイ遺跡と同じだろう >>724
神功皇后が三韓征伐をしたあと倭の五王で
438年に「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称し(『宋書』夷蛮伝)
451年に宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号され(『宋書』倭国伝)
477年に「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称し(『宋書』夷蛮伝)
478年に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とされた(『宋書』順帝紀)
仁徳天皇陵や応神天皇陵がこのころ >>727
やっぱり畿内説(笑)は嘘まみれだったな 中国の月探査ロケット嫦娥、カエル=月=天女、女の可能性高いよ。それ 九州信者「学者よりもウィキペディア!ドン!」
ウイキペィアンには敵わんなw Wikipediaでの邪馬台国関連の記事編集も、捏造がバレて記事は削除され、
編集した人物はアク禁食らってたな
九州説信者はその削除された捏造記事をわざわざ自分のPCに保存しておいて、
邪馬台国スレに貼り付けてるんだから、悪意を持ってやってるのが明らか 中国共産党が
魏志倭人伝を根拠に
西暦200年頃には日本列島は中国領土となっており
日本を名乗る人種が1800年ほど不法占拠している
よって1800年分の罪として
彼ら日本人を絶滅し、中国領土として解放しなければならない
としている
中国共産党がこの主張をしはじめて
まもなく、畑から金印が発見された
そして日本で卑弥呼・邪馬台国云々と言う議論が急にはじまった >>704
>集落の範囲は東西350メートル、南北500メートル
唐古鍵遺跡の面積は約42万平方メートルで、甲子園球場10個分が入る広さ
ttps://www.kansai-woman.net/theme540.html
九州派はデマと捏造しかしないんだなw 奈良は山の民で犬、ブタじゃあ、アイヌか半島系、じゃないの?魏史倭人条と繋がらないけど、どう説明すんの? >>730
仁徳や応神は九州倭王
属に仁徳天皇陵や応神天皇陵と呼ばれているものは関西の豪族の墓。 >>693
その学者と称する人の本や論文を読むともっともらしい事が書かれてるが
根拠が示されていない場合が多く殆どが妄想
又は他人の妄想を根拠に妄想を膨らませる愚かな内容。
>>698
畿内説は説得力が皆無だから当然一般人には信用されないな。 >>743
>他人の妄想を根拠に妄想を膨らませる愚かな内容。
まさにそれ。
根拠自体が「〜と考えるのが妥当なので」とかいう個人的意見なんだよな 畿内説なんて奈良を邪馬台国と考えるのが妥当なので南を東にします
みたいなのしかないからな
これを大真面目にやってるわけで >>745
最初の個人的意見くらいは容認できても
その確定もしていない事を根拠に次の論理を組み立てたら妄想でしかないよな
東は南の間違いの可能性があるくらいならまだしも、東は南の間違いであると断定したり、それを根拠にする事は出来ないよな。 >>727
>でも水行としか記さなかったから陳寿もそう書くしか無かった
ただの想像で根拠なしじゃんww
バカ丸出し
>実際に行った魏使が南と記したから陳寿もそう書いたし実際に南だった
最後の陸行が南だから、そこは実際に南だが、実際には北部九州から見て東だ
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
>勝手に東に読み替えてる敗残畿内がアホなだけ
勝手に読み替えてるんじゃなくて、陳寿が
「計其道里、當在會稽東冶之東」
「所有無、與儋耳朱崖同」
「倭地溫暖、冬夏食生菜」
と書いていることから、倭国を南国だと認識しているのが明らかだからだよ
>ん?なにか言ったかいバカくん
>荊州に海は無いぜ?
>https://zh.wikisource.org/wiki/讀史方輿紀要/卷七十八
> 沈約《志》:「汶陽郡,陸行去荊州四百里,水行去荊州七百里。
日本語読めますか?
「史記から新唐書までの大陸正史で」
それ、正史に入れてもらってないだろ?
まあ陳寿の書いた三国志で、川での移動が「泝流」と書いてある時点で
川の水行はない 大和政権とヤマトクニを結びつけるのだと
7世紀の焚書が説明つかんのじゃないの >>736
こういうバカなことばかりやりながら、
きちんと査読付き論文を発表している研究者をバカにするような人しか
九州説には残ってないんだよね
>>743、>>745、>>746
ID:qWpRabFZ0
ID:DbUo71HY0
ID:fJUJx3JZ0 >>751
史書の読解力の無い連中が論文書いて、それを君のような読解力の無い
畿内説信者が偏向解釈して騒いでる状態だから。 考古学者自身がバイアスかかってるし軽率な発言も多すぎる。
そしてそのバイアス発言を更にメディアが増幅してあたかも
史実であるかのうように報じる。
そうして出来たのが邪馬台国=纏向&箸墓という説なんだよ。
しかも考古学ではなく纏向学なんてものが出来てる。 親魏倭王国=女王国=北九州…支那と奈良の交易権を巡って大乱多し、鬼による不安定政権
親呉倭王国=大王(オオキミ)国=奈良…武装解除された集落を束ねた桃による安定政権
邪馬台(ヤマト)国=大和=倭&倭種=日本列島 倭国は遼東の帯方楽浪と国境を接していた可能性がある
女王国の南端まで記録してありあとはすべて伝聞の国
鉄漿の国はおそらく近畿東海地方だし その辺は聞いた話しレベルの地域
ということは邪馬台国は絶対に畿内にはない
朝鮮南部に任那があったのは邪馬台国の名残?
倭国は朝鮮半島と北部九州
日本国はそれ以外の西日本
そんな世界観が俺の中でできつつある >>755
そういえば任那の古墳群もすごい数なんだよな。
副葬品も凄く豪華で。
ただ日本からは調査のしようが無い。 >>751
桃の種が出たら畿内に豪族がいたんだねで終わればいいのに
なぜか魏志倭人伝を片っ端から否定しながら邪馬台国と口にする
アタマおかしいのがいるからw >>746
そうだよな、学問じゃなく結論ありき
根拠が邪馬台国がヤマト国って読めるんじゃね?が出発点www
ヤマト王権を少しでも長く見せかけたいと言う姑息な目的 >>757
桃の種は、長崎が最古であっちこっちに
出土しているのは、無視? やはり記録との整合性が最も高いのは吉野ヶ里だよ。
吉野ヶ里遺跡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1
「後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、
建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。」
卑弥呼の時代は180〜250年。
女王が居た記録は〜266年。 まあ世界最優秀民族である朝鮮系王朝が天孫降臨で九州で起こり、それが古代邪馬台国であったことは間違いないけどな
でそれが東征して今の倭王朝へとつながったと
異論は認めない >>755
おれは、九州の一部、山陰の一部、山陽の一部、四国の一部、大和朝廷の前身が
邪馬台国との連合国だった奴国。166年の、使者は、奴国(その後に馬輸入)だろうな。トヨは、晋に、慎重だった。倭の五王の武は大和タケル。馬を手に入れ東へと向かう。奈良を開墾。 卑弥呼は占星術師、暦を支配し民を治める、卑弥呼を信ずるものは、海の向こう会稽白山を知るもののみ、ちっちゃな連合体、九州ロマン派。 >>763
奴良が奈良に。倭の国々の小連合が近畿、東海と大きくなり、大倭が大和かな? では広範囲を占い師がどう治めたと考えるのか、説明してほしい。 卑弥呼は暦を支配する、各首長を集め、海のものには嵐を、陸のものには、植え付けの時期を伝える。九州ロマン派。 >>752
魏志と隋書で対馬から壱岐への方位が東と南で違うのに隋書を無視して方位がどうしたと
言っている九州説信者に何か言葉は無いの? これでないか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX2-1.htm
武力だけでは、人心は得られない。 >>759
桃の種は単純に食べた残りカスなのかそうでないのかが重要視されているようだよ。
【奈良】邪馬台国の有力候補地「纒向遺跡」の桃の種、かじられた跡なし 「桃が供え物として使われたことを裏付ける重要な成果だ」★4
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1560138953/ >>757
脳内畿内説を勝手につくって、イチャモンつけてるだけだな >>770
種まで食べるのか?
腐たり、虫食いもあるだろう?
文化圏なら供え物どこでもあるじゃないの? >>768
俺は九州説?で近畿はない説。
近畿は、博物館みたいなもん。
古いのから新しいもんまである。
古墳は、開拓ででた土の処理の利用も兼ねていて
近畿に、耕作面積拡張もたらした。 >>773
畿内の遺跡のほとんどは新しい時代のものなんだけどねえ?
ちゃんと調べたことないでしょ?
耕作可能な土地も非常に少ないんだよ
>>241がわかりやすい。 >>768
https://i.imgur.com/z3S2g5x.png
魏志倭人伝は渡海するのに狗邪韓国から出発して末盧国に到着する
隋書倭国伝は渡海するのに竹島から出発して筑紫国に到着する
別のルートなのだから区別するのは当たり前だが
むしろこれを同一視するほうが無茶というものだよ >>772
じゃあ畿内説は卑弥呼の居ない時代の隋書を根拠にするのか?
邪靡堆に該当する遺跡はどれなんだ? レス番おかしくなった。>>779はレス先間違い
>>768
じゃあ畿内説は卑弥呼の居ない時代の隋書を根拠にするのか?
邪靡堆に該当する遺跡はどれなんだ? >>705
ID:26TE63r60
ID:5ySbZiv10
韓国国籍法改正
@兵役検査を受けていない者の韓国国籍離脱は認めない
A兵役検査を受けていない者は韓国へ帰国して裁判所に出頭
B出頭時点で韓国に住民票登録がなされ韓国住在の韓国国民に登録される
C出頭しない場合、犯罪者扱いとなりICPO国際手配、日本で逮捕して強制送還
D兵役義務2年間の無い者には韓国国籍離脱は認めない
E兵役を果たして無い者は遡って韓国籍離脱を無効とする >>758
そもそも、史学という学問において邪馬台国位置論をやっている学者・研究者など、もはや存在していない
いまは素人のお遊びでしかない
ウケ狙いのセンセーショナルな説を展開し、素人のお遊び議論を高めたのが
史学や考古学とはなんら関係のない学者とその信奉者という名の金の亡者たち 政治的要素だな。
根底からひっくり返ると面白い。
権威や利権も絡む。
「今まで奈良って聞いたこと
全部、嘘だったら面白い
そんな気持ちわかるでしょ〜」
こういう歌あったな。ブルーハーツだけ? 国民から信頼されていない学会
予算削られて当然だな。村起こしと紐付きになるわな。 >>776
それじゃ土地の面積をゴッドハンドした結果を書けよ >>781
嘘で固めたコピペを毎日しつこく貼ってたやつ日本人じゃないだろうな 九州説は3タイプ
・中国系
九州は日本と別の民族で独立すべき、という方向にしたい
長い時間かけて工作するので面倒くさい
・韓国系
大和朝廷は百済人が作ったとしたい
日本海を東海と言い続けてるようにしつこい
・左翼系
日本の歴史を貶めるのが目的 >>788←畿内説の正体はネトウヨでしたw
貼って欲しいなら貼って下さいといえば?
■小型丸底土器出土
石野博信氏はホケノ山古墳について安本先生と討論を行った際、
ホケノ山古墳から4世紀後半の小型丸底土器が出土したことを述べている。
小型丸底土器は庄内式土器末期から出現し、布留式土器の重要構成要素となっている器種である。
ホケノ山古墳からは庄内式土器も出ているが、それよりも新しい布留T式土器が出土したことに
なるので、考古学の常識で判断すれば、古墳の年代は布留T式の時代と言うことになる。
石野博信氏は「ショックだった」と感想を述べている。
報告書を記述した橿原考古学研究所の研究部長は、小型丸底土器は、発掘時に墓の上の方から落ちて
きたのではないかと、苦し紛れに書いている。 >>789
ひどいもんだよな。
その報告の後、布留1式土器の年代を
変更して希望の時代に合わせてるんだからな。 >>790
日本の考古学のレベルの低さには驚愕するな
恣意的に年代が操作されてて信用出来るデータが全く無い状態。 九州説は?だけど
近畿説は学問、科学でもないコペルニクス・ガリレオを拒否する宗教だな。 近畿は学問、九州はロマン
近畿は遺跡があるからそれが何か?いつの物か?が研究の主体になる
いわゆる考古学の手法だわな
九州は史料の読み解きや解釈だけで物証がないからロマンがある >>793
編年基準を遺跡の都合に合わせて変更するような考古学なんか「学」じゃないだろ。
物証は吉野ケ里で史実の大部分を占めている。
逆に記録にない出土品を物証と言い張る畿内説こそがロマンだろw
いや、畿内妄想実現サークルだなw >>793
福岡の比恵那珂〜須玖岡本に連なる遺跡より大きな弥生遺跡なんて存在しないんだけどな。
その頃の畿内は小規模な集落が点在するだけの
後進地域。
纏向も中身はスカスカ。 >>795
近畿ははっきり言って近畿だろうが九州だろうが大して影響ない
九州は観光がかかってるから自治体とか必死 >>796
伊都国や奴国の遺跡があっても不思議じゃないよ
そこは邪馬台国ではないし >>795
学会では畿内でほぼ決まってるんだけど
素人がいちゃもんつけてる状態 >>798
奴国の比定地が比恵那珂〜須玖岡本だという根拠は?恐らく漢倭奴国王を"かんのわのなのこくおう"って間違った読み方した人達が、福岡で一番大きな遺跡が奴国に違いないって決めただけじゃないの?
"かんのわのなのこくおう"なんて読まないぞ。
まだ中学はそう教えてるんか? マスメディアの纏向を邪馬台国決めつけ論と
出土物の年代が遡る可能性があるってだけで邪馬台国時代だと
決まったように操作する一部の研究者などウザい。 >>800
史料の読み解きから行っても、行程をどう解釈してもそこは邪馬台国じゃないだろ?
九州説を信じるならそこより数倍デカい遺跡を探せばいい >>799
その学会というのは妄想家学会の事だw
奥山氏の脳内学会だなw キナイコシにレスしてもうた
間違った手法の考古学を盲信する男、キナイコシ >>797
それなんだよな
吉野ヶ里公園なんて笑っちゃうくらい観光地やし
ヒステリーのように九州説擁護し畿内下げする気持ちは分からないでもない >>802
奴国が早良平野あたりで邪馬台国が須玖岡本
じゃないかな。 >>808
邪馬台国は卑弥呼を共立した北部九州地域の国邑の連合体
伊都国と奴国が中心メンバーで魏志倭人伝では女王国と呼ばれている。 魏志倭人伝の記述では伊都国に卑弥呼が居て邪馬台国とは北部九州地域の国邑の連合体
吉野ヶ里や宇佐、御井などは邪馬台国の一部で魏志倭人伝の傍国のどれか。 >>810
伊都国に卑弥呼がいて連合国全体のことを邪馬台国なんてなんだそりゃ?
邪馬台国本国は別にあるぞ。 まあ、九州は火山、戦争、土地開発の歴史が長いから、遺跡は出にくい。
逆に近畿は、古いものから新しいものまで集まるから、特定しにくい。
金印、銀印、封泥等の証拠と場所、年代を裏付ける書簡や文献が出てくればいいのだが?
未だ「九州説?近畿はない説」。 >>811
>邪馬台国本国は別にあるぞ
それが大きな勘違い
魏志倭人伝の内容を理解出来ない原因。 登呂遺跡公園は寂れてる。
歴史公園の末路を見た気分。 書き忘れ。
違った角度で見ると
大和王朝と関係ない近畿説はあるな。 天皇の権威を維持したいためにデタラメ話を作る似非考古学 前世で卑弥呼の婚約者でした。婚約は破棄になりました。
旅の途中に若き卑弥呼とは奈良で会いました
一目惚れでした。邪馬台国は奈良です。 >>816
日食である。死亡時期の日食があることは知っている人は多いけど
生まれの時期にも日食が関係するんではないか?
調べてみると近畿・東海・北陸地方に146年(金環)と158年(皆既)、
九州四国山陰山陽に168年(金環)、
又戸数がだいたい7万戸、食糧考えると
よほど平野と水があるとなると古代奈良では小さい、農作器具より土木機器が多く出土し
その後、拡大したと見る。琵琶湖周辺、淀川。
もっとも、168年とると九州・四国・山陰・山陽になるが、女王之所都
が出身地なのか住む所でこれも違ってくる。 >>794
物証の無い楼観を捏造した吉野ケ里
絵画土器という物証に基づいて楼観を復元した唐古・鍵
この差は歴然 学問であるなら、きちんと倭人伝を説明して、ですから近畿です。と言ってほしいのよ、あぁ辻褄もあうなあと思うような。方角を間違えてるは、九州ロマン派の俺よりひどいぞ、笑っちゃう類い。 >>789
小型丸底土器なんて庄内期の初めからあるけど
九州派は30年前の知識で中傷してるんだよ では、近畿説としよう、伊都国は北九州でよろしいか?投馬国は何処にあたる?水行10日の到着地点わ?唐古鍵は、猪、犬、ブタの骨が出ている、一見して山の民を感じるが倭人伝に乗ってない理由わ? >>820
なるほどね卑弥呼(日巫女)。
鬼道(黄道)で天文や蝕も計算できたとも言う。国際交流が盛んな所で学んだかもしれん。となると九州、近畿から移動もありうる。面白い観点だな >>818
天皇の権威を維持したいなら、大和王権が天皇の権威を維持するために作った東征神話を安易に否定したりはせんだろう
畿内説の根本にあるのは関西人のプライドだけだわ 伊都国も投馬国も邪馬台国も
どこか分からないってのが現時点の答え
証明できない以上、各遺跡の発掘を進めるしかない。
重要なのは遺跡であって○○説
なんて言う予想ではない。 >>824
方角を90度曲げると伊都国から先が海の中になってしまう 沼津はどうだかわからんけど、狗奴国=久努(東海)という説がなくはない >>826
ワイら畿内人が九州モンに日本の歴史で
負けるわけにはいかんのやっ!
っていう矜恃だけだよな。 >>826
その畿内気質って某国の国民性にそっくりだなw >>823
一口に小型丸底土器といっても色々あるからなw
自分で調べてみろ。
隠蔽情報は他にも出てくるからw いつ見ても九州説はトゲトゲしていて他人をバカにしないと生きていけないんだな
よほど余裕がないと見えるw 確かに遺跡を一つ一つ調べあげて行くことは重要だけど遺跡を調べる者は、別に卑弥呼の墓を捜して掘ってる訳じゃないということだろ?じゃあ別に九州だあ、近畿だあ、言われようが関係ないだろ。それはそれで進めればいい話。 >>832
訳の分からないプライド
歴史をファンタジーにするとことかそっくりだな。 >>829
久努ってどこじゃらほいと思って調べたら、今の袋井市か。
まさに>>665で書いた浜名湖の向こう岸だな。
狗奴国=沼津(高尾山)説も捨てがたいが、こっちはこっちで面白い。 蛙の骨、桃の種、木製の鞘
これだけの物的証拠が出たので、邪馬台国は奈良だと断言できる
考古学は物的証拠が全てなのだよ
勝負あり(´・ω・`)
悔しいなら、九州説の学者たちよ、柿の種を探すんだ! (`・ω・´) しかし、女王についた時期は、何歳でいつだろう?少なくても188年以前。
それまで、鬼道修行であっちこっち旅をしたのかな?邪馬台国の他に邪馬国てあるそこが奈良かもしれない。飢饉も多かったに違いない。開墾で豊かな穀倉地帯と見ていたかもしれない。大和朝廷の前身の奴国王が聞いていたかもしれない。 >>838
九州説はまず遺跡を見つけないとね
遺跡の候補すらない時点で問題外
高校野球で、これから野球部作りますって言ってるようなもん
参加資格すらないよw >>840
九州ありすぎだから絞れない。
近畿は奈良しかないけど、新しいものも古いものも出土で絞れないのです。 >>840
畿内説は南が東である証明がまだだろ。
それを先にやらなきゃ参加資格なんて無いんだぞ?
つまり未だに畿内説はファンタジー小説のままなんだよ。 畿内説は南を東にしちゃうと奴国と不彌国が海の中になってしまうのでそこからどうにかしないと >>842
しょうもない難癖
義務教育からやり直した方がいいんじゃないか?
方角が間違ってると仮定すれば畿内になり、日数が間違ってると仮定すれば九州になる、と習ったはずだが
行程記事からは、方角と日数のどっちが正しいかは判断できないから
他の部分の記述や物証で判断するしかないってことだ >>844
習った(笑)
畿内説は短里を否定しているから方角だけじゃなく距離も合わないんだよw
魏志倭人伝に描かれている風俗も鉄も絹も一切合わないのに何故か邪馬台国だと主張するキチガイ
それが畿内説(笑) >>845
九州説の次のネタは度量衡の捏造w
月刊ムーでやってろって >>844
考えられるのは、何度も写本して保存されてきた文献だから、写し間違いだろうと見られている。
南→東、月→日のどちらが間違う可能性が高いか?だな。
当然後者しか考えられないがw >>844
畿内説は日数も間違ってるぞw
裴世清や紀貫之の倍の速度で移動したとか無茶を言い過ぎだ >>837
ヤマト王権の時代も久努国造とかもいて、主に物部系の根拠地やね >>847
現地で魏からの使いが方角を間違えないことと、
その魏使が記録し、記録を持ち帰り、しかるべきところに報告し、公式な記録にまとめられ
それを読んで史書にまとめた人がいて、そうした資料を陳寿が読んで、三国志を撰述するまで間違わないこととは
ほぼまったく関係ない
九州説の人がどうして方角が間違うはずがないというのかが不思議
実際、末盧国から伊都国が東南と書かれている時点で間違っているのに >>850
伊都国から90度方角曲げたら奴国も不彌国も海のなかにいってしまうぞ >>848
>裴世清や紀貫之の倍の速度で移動したとか無茶を言い過ぎだ
裴世清や紀貫之が魏使の半分の速度であって、魏使の移動速度は特に速すぎもせず問題ない
たまに九州説が主張する、帯方郡から九州まで水行十日の方が速すぎて物理的に不可能 >>853
雨待ち、風待ち、逗留もせずに強行軍で三十日とかちょっと無茶を言い過ぎ >>850
九州説の方角変更はきれいな方角変更なんです 畿内教信者の奥山が逃走中です。
ご注意ください。
邪馬台国畿内説のスレッドが作製されない理由
ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1558009941/ 畿内教信者の奥山が逃走中です。
ご注意ください。
邪馬台国纏向説が破綻した理由part4
ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1554779266/ 畿内教信者の奥山が逃走中です。
ご注意ください。
奥山氏の自宅
ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1547752030/ >>847
そんな幼稚なゴリ押し合戦に付き合うつもりもない
会稽東冶の東に位置するはずと書かれているんだから、間違った地理観をもっていたことは明らか
陳寿は一大率を刺史に例えているので、邪馬台国からは伊都国が遠方にあるという認識を持っていたことになる
行程記事が誤写だなど、根拠のない妄想
そして、末盧国から伊都国の方角、伊都国から奴国の方角は実際に間違っている >>849
なるほど、久努国造か。
物部との関係はわからんが、久努(クヌ)とか毛野(ケヌ)とか、
東国はどうも気になる。 >>852
>伊都国から90度方角曲げたら奴国も不彌国も海のなかにいってしまうぞ
地図を回すとかいう話じゃなくて、帯方郡から離れていく方向が南と陳寿に認識されているってこと
魏志倭人伝に書いてある国の順番が、陳寿の頭の中での北から南へという順番 >>859
畿内説のいうように方角を90度捻じ曲げてしまうと奴国も不彌国も海の中だな〜 >>862
伊都国、奴国は東南だし不彌国は東なんだよなあ・・・ >>863
そんな誰も主張してない架空の畿内説を勝手に作って、それに文句をつけたいなら一人でやってればいい >>866
南は東の間違いだから日本海ルートが正解って言ってる畿内説のひと居ないの?w 九州説のイチャモンってパターン化できるな
・魏志倭人伝の解釈は、オレ様の解釈が正しい
オレ様の解釈だと、畿内説はこういう矛盾があるから間違ってる
・畿内説とはこういうもんだとオレ様が決めた
そうすると、畿内説はこんな矛盾があるから間違ってる 韓半島には大きくわけて3国存在した。
そのうち百済の前身「馬韓」は約50国からなる連合国だった。
ttps://i.imgur.com/pb7dF4J.png
倭国は30余国からなる連合国「邪馬台国」
とみるのが妥当である。
ttps://i.imgur.com/XYNqvNb.png
■可住地面積
奈良県 853(km2)
福岡県 2773(km2)
佐賀県 1332(km2)
熊本県 2732(km2)
■耕作可能な土地の面積
奈良盆地:450km2
河内平野:200km2
福岡平野:250km2
筑紫平野:950km2
中津平野:180km2
宮崎平野:800km2 >>868
日本史板には畿内説を名乗った奥山説しか無いぞw
>>869
規模的に合ってるね。
国の数と分布密度からすれば北部九州連合=邪馬台国というわけだ。 >>873
3世紀時点で山陰まで含んでるな。
グローバル視点でも畿内説は論外w >>865
農耕可能な土地は、7万戸を約30万人として
最低700km2は必要とのこと。
奈良盆地:450km2 x
河内平野:200km2 x
福岡平野:250km2 x
筑紫平野:950km2 〇
中津平野:180km2 x
宮崎平野:800km2 〇 九州の住吉さんが大阪の守り神、鹿島の鹿さんも神の使いとして大切にされている
九州北部も畿内も関東も手を繋いでいたということ 馬鹿だな
近畿最古の都とされる難波宮が650年代に完成としてるのに、それ以前に倭国に来てる裴世清が近畿ジャングルなんて行くわけねえだろ近畿パーたりん。
そもそも邪馬台は九州にあって蘇我系が仏教推進してたんだよ。 弥生時代に既に文字が使われていた!?
福岡で出土した硯
年代:1〜2世紀
サイズ:長さ15・3センチ、幅6・3センチ、厚さ0・9センチ
ttps://i.imgur.com/k2XPkk7.jpg
佐賀で発掘された硯
1つは長さ7.8センチ幅5.2センチの「石硯」、
もう1つは長さ3.8センチ幅3.5センチの墨をすりつぶす
ための道具「研石」と見られています。
大阪で発見されたすずりっぽい石片(調査中)
長さ6.5センチ、幅2センチ。ちっさw
ttps://i.imgur.com/JybtjjJ.png 大阪はいわば理系だ、いや商人だったかもしれない
弥生時代前期末〜中期に既に分銅が作られていた
2の累乗の重さの分銅が2セット見つかっている
1.2.4.8.16.32 >>882
文盲は理系にも不向きだぞw
問題文の解釈もできないようじゃ全然違う解答しか出てこないんだぞ?w 明日は夏至
短里厨は洛陽の南北1000里の場所に行って影の長さ測ってこいよw >>869
馬のいない時代の連合の規模の限界だろうな。
他国もだいたい同じだ。 まぁ邪馬台国は奈良県だよ
単なる地名
畿内だ九州だと言い争っているが、どちらでもない
邪馬台国は大和国、奈良県のこと。
京都は邪馬台国ではないし大阪も邪馬台国ではない
九州北部は伊都国であり奴国
奈良県の歴史を欲しがらず、地元の歴史を誇っていこう >>6
じゃあさっさと宇佐神宮地下にある石棺の年代測定を早くしろ 魏、隋、唐等の東夷伝、読めばいいのに。
倭国と日本国を別けて書いている。
倭国には富士山が含まない。
日本には富士山が含む。 >>887
奈良がヤマタイと偽ったという方が圧倒的に可能性大だぞw 思うに、邪馬台国ってヤマト国じゃね?という、子供の頃の凄い閃きへの感動が畿内説の発端だろうな
本当は全国の小学生がみんな思いつくありふれた考えなのに >>887
魏志読むと邪馬壹国(卑弥呼)と別に邪馬国があるそれがなら。俺は近畿説だが奈良ではない。琵琶湖周辺だ。 四道将軍が平定していってヤマトに組み込んだって感じなのかな 邪馬台国は大和国やね
畿内説というのは誤解を招く
京都も大阪も大和国ではないからね
邪馬台国は奈良県。
九州だ畿内だといがみ合わず仲良くしろ
邪馬台国は奈良県です 邪馬台国がどこかなんて誰にもわからない
まずは投馬国がどこかすらわからない >>894
>>895
集落としての国ではなく、連合国とみればいいんだよ?
韓半島には大きくわけて馬韓・辰韓・弁韓の3国が存在していた。
そのうち百済の前身「馬韓」は約50国からなる連合国だった。
https://i.imgur.com/pb7dF4J.png
倭国は30国からなる連合国=北部九州「邪馬台国」である。
https://i.imgur.com/XYNqvNb.png また九州説の奴が連投してんのかw
いつもながらよくやるよ 古墳の大きさ ≒ 余剰労働力 ≒ 兵力 ∝ 人口 ≒ 国力
3世紀の古墳の大きさを比較すれば、
九州 <<< 畿内
2万戸の奴国は博多湾岸で、5万戸の投馬国は出雲+吉備で、7万戸の邪馬台国は大和+河内。 大和政権の始まりは東征ではなく、卑弥呼西征やね
出発地は三河かもしれない >>899
スレタイに「邪馬台国」と入れるからこうなるw 三河や尾張に卑弥呼の痕跡が残っているんじゃないか?
卑弥呼を准えたと考えられる天照大神
天照大神の荒魂、瀬織津姫
熱田神宮や三河の槻神社に祀られている 耶届伊都傍連斯馬〜景初の辰。斜めに伊都国、その傍らに斯馬国、景初238に都あり。 会稽山のように海を背負うようなとこじゃないと都はない。九州ロマン派。 三河は豊がつく地名ばかり
台与とも関係しているのかもな
尾張三河の古代史に注目やな
朝日遺跡とかでかい弥生遺跡もあるからね 正史を書こうちゅう連中が理由も無く方角を間違えるばかは居らぬ。 丹後半島の歴史は興味深い
紀元前後に中心勢力が変わったんじゃないか?
弥生時代中期までは鉄工房が盛んであった
弥生時代後期になると中心集落の位置が変わり、朝鮮半島に類似した墓、朝鮮半島製と思われる鉄刀が出土するようになる
同じような変化が尾張の朝日遺跡でも起きている
朝日遺跡は元々畿内と同じ木棺、銅鐸、勾玉の集落だった
紀元前後勢力の交代があったのか、銅鐸は埋葬され甕棺に墓制が変わり、日本海側と共通点の多い集落に変わってしまう
東海辺りは奈良時代の資料を見たら分かるが新羅と親和性の高い土地柄
丹後半島も豊の地
興味深いわ こんな生産性のない事いつまでもやってるなよ
歴史家は何の役にも立たない 最後にカエルの古墳、あれ間違いなく女と思うよ。よく調べたほうがいいよ >>900
それは、3世紀ではないが、その後の大和朝廷の基盤となる。それだけではなく
東海、関東、北陸と広がる。農業政策だな。 倭国連合国より別倭種の日本連合国が大きくなったんだよ。火山活動も少ない。 >>900
大きな古墳ってただ奴隷が沢山いただけ。
恐らく銅鐸民が奴隷になった。 >>887
九州にとって奈良の歴史が眩しすぎるのだろうね 奈良はないな。文献や出土品で
空白の150年埋まらない。 >>917
銅鐸民というのは吉野ヶ里にいた人たちのことですよね 九州と奈良県に同名地名が多いが、単なる偶然ではないな
九州に有った邪馬壹国を背乗りしたせいで、奈良県に同じ地名を付けざるをえなかった
近畿の地名も九州の地名由来が多いと言うことは、九州の民が強い影響力を持ち、上書きしていったとしか考えられない
福岡のオノコロ島、熊本県のシラヌイ海、天皇が九州出身
地名は覆しようがないものな 高尾山古墳。、沼津市教育委員会は
230年ごろ築造、250年ごろ埋葬との調査結果を昨年公表した。
「古代スルガの王」を埋葬したとみられ、研究者は「古墳時代最初頭の重要遺跡」と指摘している。
今まで知らなかった、沼津市に3世紀初旬の古墳があったのか…
どんな古墳か読んで調べてみます。 >>41
まあ確かに現代も産業は東海の一人勝ちみたいになってるな
なにか特権があるのかもしれない。 >>906
なるほど、豊か。確かに東三河(穂の国)は豊川をはじめとして、豊成分が濃いな。
徐福伝説があって秦氏に縁が深いところも、九州の豊の国と被っている。
関係ないが、石巻山は古代は三輪山で、今も三輪川が流れているそうな。
八名郡(今の豊橋市)には美和郷もあって、そこに住んでた氏族が
奈良の纏向の大神神社の宮司になった、てな話もあるがこれは眉唾w 旧唐書読むといいよ。
倭国と日本分けて書いてある。
これ読むと邪馬台国は、奈良ではない。 これか
■倭國条 〜631年の記事
倭國者,古倭奴國也。
(倭国はいにしえの倭奴国である)
※倭奴国=漢から金印を貰った国で、
倭国より古い時代の国名=北部九州
去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。
(新羅の東南海に在り、郡から一万四千里)
※九州〜山陰あたりか?
■日本条 701年〜の記事(大和朝廷時代)
日本國者,倭國之別種也。
(日本国は倭国の別種である)
※畿内政権は倭国とは別物だと言い切ってる
以下、日本使者の言い訳が続く
以其國在日邊,故以日本爲名。
(日出る国だから改名した)
或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。
(字が嫌いだから改名した)
或云:日本舊小國,併倭國之地。
(小国だった日本が倭を併合した)
其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。
(日本人は不誠実なので中国はこれを信用しない) >>920
たった一つ出土しただけで銅鐸民呼ばわりはないだろ。 >>921
神武が5〜6世紀頃に関西を征服して
8世紀初頭に大和朝廷成立、全国制覇 ジャップこそが民族主義者で、テンノーこそがその象徴だろ。
テンノーこそが極右の象徴だ。
テンノー制度を今すぐ廃止しろ。 >>930
俺は4世紀だと思う。
邪馬台国を滅ぼして狗奴国が東征したんじゃないかと考えてる。 卑弥呼とか邪馬台国を引き合いに出せば予算が付くという A)筑紫城から支配者一族が居なくなったので後継者争いで倭国大乱
B)倭国大乱で敗北したので筑紫城から支配者一族が逃亡
どっちかだと思う
で、卑弥呼死後、九州女王国連盟の再編があって近畿ヤマト連合爆誕 >>932
俺も4世紀だと思うわ
畿内の学者モドキが捏造する前のまともな編年だと前方後円墳は4世紀だし、存在の確かな天皇の在位年数から逆算すると
神武は290年頃の人物らしいから、宮崎の西都原周辺で流行っていた前方後円墳を神武が畿内に持ち込んだんだろう
畿内で大型化したのは田舎で土地が余っていたのと大量の奴婢を手に入れて大きなのが作れるようになったんだな 駿河湾挟んで日本平があったり
この辺りはヤマトの敵対勢力が
あったんだろなとは思う >>230
国際連盟と国際連合は無関係だし、一時期併存していたんだけどな >>837
先代旧事本紀の国造本紀に久努國造があるので、久努國があったのは確実
ただ読みがクドなのがやや弱いかな
もっとも狗奴国も読みはクド国だったのかも知れないけれど >>940
難波の碕から白肩の津まで遡ったとあるから5世紀以後ですね
5世紀以前だと河内湾や河内湖が有り難波の碕の上流には流れがない
神武東征の表現は草香の江が形成され川の流れが出来た5世紀以後のことですね。 わかったぞ。奈良に土器が集まったでなく。東海から移動したんだ。だから東海以北の土器が多いんだ。 >>941
志賀島の金印も「かんのわのなのこくおう」と読むのが定番らしいので、
「努」もナとかヌとか読んでもいい気がするが、どうじゃろう。 >>942
創作されたのが5世紀以後だっただけでそんな事実はなかった
だと思うわ 常識的に考えれば邪馬台国と大和朝廷はまったく無関係だろうし、関係があったとしてもむしろ大和朝廷が邪馬台国を滅ぼした勢力だろうに、それだと都合が悪いんだろうな >>907
間違えたんじゃなくてよく知らなかったんだよ、陳寿は
論衡の百越の流れの倭と同一視していたから実際よりずっと南方だと思っていたし >>947
陳寿は知りもしない土地の方角を報告者の記録から勝手に書き換えるアホだったと?
普通は知らない土地の記述なら報告者の記録をそのまま転記するだろ
敗残畿内ってこんなアホばっか
だから敗残者になっちまったんだよお前らは >>944
地名の読みはそんなに変わらないから久努郷は昔からクドだと思う
逆に奴国の方が中古音ではド国になる
だから漢委奴國王を「イド、イト」と読むという九州説のインチキが湧く原因になってる
通説では、漢代(上古音の時代)にナの国(大和言葉)に「奴」の字を当てて
それが継承されていたと考えられている
となると、クド国のことが中古音の次代に中国に伝えられて「狗奴」の字を当てたというのはあり得る >>945
神武東征を創作ではなく史実だと考えた場合は5世紀以降のことなんだよ。 明治〜昭和の絶対天皇が残ってんだよな九州だとややこしくなるから、多利思比孤までか倭の国、その後が日本。 >>949
邪馬台国は畿内から北部九州まで傘下におさめていた大国だったと主張しながら
たかが久努郷ひとつを相手にするのにも魏の援助が必要だったと言い出す
畿内説って本当にキチガイしかいないんだな >>949
漢委奴國王に付いては発見された当初は日本の学者も
漢の委奴の國王と読んでいたらしいが、それだと倭奴で日本を馬鹿にしてる
鋳潰してしまえ!って話になって、金印を救う為に漢の委の奴の國王と読んで奴の國王を創作したんだよな
それがいつの間にか定説扱いになってしまった
中国の学者も漢の委奴の國王としか読まないと言ってるし
他の用例からも漢の委奴の國王と読むのが正しいのは明白なんだが
日本では未だに漢の委の奴の國王と読む人が多いね。 ちょっと待った!!
卑弥呼と大和朝廷
なんの関係もねえーーー!! >>946
>常識的に考えれば邪馬台国と大和朝廷はまったく無関係だろうし
いつの常識?
3世紀時点で纒向に王都と見なせる大遺跡があって、列島最大の100メートル級の巨大墳丘墓が
累代的に造営されている
そして記紀記載の天皇(大王)で実在だと想定されている崇神天皇から3代の宮処が纒向にあったと
記紀に書かれている
纒向が初期ヤマト王権の都だったと見なしてよい
一方で同じ時期、3世紀前半の卑弥呼の治世(のはず)の時代に、北部九州最大国の奴国の
中心、比恵那珂遺跡群で畿内様式土器を生産しており、その首長が前方後円墳の那珂八幡古墳に
葬られている
この時点で、奴国と畿内は協調関係にあるのが明白で、この枠組みが魏志倭人伝の女王国となる
その枠組みの中心=女王の都するところは最大の墳丘墓のある場所と見るのが妥当であり、
結局纒向の地ということになる それに近畿でもいいけど台与は禅譲だよ。鬼道の後継者。邪馬台国など存在しなかったとするなら解るけど。 >>955
纏向には人が居住していた形跡がない
もちろん王都ではない
確実に人が住んでいた唐古・鍵遺跡は人口900人 >>948
その報告者の記録がどれだけ万全だったと思うんだい?
おそらく木簡などに記録して持ち帰ったのだと思うけれど、木簡はかさばるから
メモ書き程度のことしか持ち帰れないよ
水行の部分は海沿いに行ったとしか書かれてなかったんだろう
そして最後の陸行は南向き
http://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
それと陳寿(に限らず大陸知識人に共通)の認識で、倭は百越の流れの南方人で
会稽東冶之東という観念と合わせれば、水行も南向きじゃないと整合性が取れないんだよ >>955
一大率があったと言われてる伊都国(糸島半島)からは、畿内の庄内式は一点しか出ていない
一大率がヤマト政権の出先機関だったとするなら、余りにも少なすぎる
正直、伊都国をヤマト政権が押さえていたという積極的な証拠はない
比恵・那珂は大本の奴国の中心があったと言われていた岡本遺跡より離れてる
岡本遺跡は卑弥呼の時代よりは古いが、国としての中心は特に変わらんだろうしな
あの辺りは古墳からみても、畿内からの入植組だろな 核DNAの研究で現代日本人が北部九州地域から日本列島全体に拡散したのが古墳時代だって判明したから
もう邪馬台国畿内説はないな。 >>955
想像の歴史ですか乙w
>纒向が初期ヤマト王権の都だったと見なしてよい
そうかヤマト王権は4世紀中頃で消滅したんだなw >>950
5世紀には河內國草香邑雲白肩之津まで船団を率いて入ることはできないから
史実だとすると河内湖・河内潟が広く拡がっていた弥生時代だね >>964
纒向の初期ヤマト王権は縄文系弥生人の国で
古墳時代に西から来た倭人系の神武によって滅ぼされたんだ。 >>959
>おそらく木簡などに記録して持ち帰ったのだと思うけれど、木簡はかさばるからメモ書き程度のことしか持ち帰れないよ
中国の公式記録はふつう竹簡
巻物のように丸められるので長文が書ける
そんな事も知らないアホが訳知り顔w
>水行の部分は海沿いに行ったとしか書かれてなかったんだろう
ザ・妄想w
一つも根拠なしバカ丸出し >>952
>たかが久努郷ひとつを
久努郷は残存地名の一つであり、狗奴国はもっと広いだろ
また倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、
その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。 畿内説「魏使の報告に方角は書いてなかった!陳寿が想像で書き加えた!!」
いくらなんでも陳寿を馬鹿にし過ぎだろう
やっぱりゴッドハンダー畿内という称号が相応しいな >>965
難波の碕からは吃水の浅い川船で草香の江を遡ったんだよ
河内湖・河内潟だと流れが無く遡るとの表現にはならない。 >>970
最近は「敗残畿内」という表現がトレンドらしいよ >>958
>纏向には人が居住していた形跡がない
九州説はこれくらいしかケチの付け所がないのかねぇ?
纒向石塚古墳を皮切りに、3世紀初頭から100メートル級の列島最大の墳丘墓が
累代的に造営されている
これには多大な労働力が必要で、その労働力を支えられるだけの食糧供給基盤があったんだよw
だいたい、纒向編年の基礎となる土器が飯炊き甕でそれが大量に出土しているのに、
居住してないというのが言いがかりもいいところ >>961
須玖岡本遺跡は古いんだよ
3世紀頃には廃れていて、その時期の中心は比恵那珂遺跡になる
3世紀の須玖岡本遺跡の王墓なんてないだろ? 中国の使者は舞鶴から機内に向かい卑弥呼に謁見したんか?
復員兵かよ >>966
>纒向の初期ヤマト王権は縄文系弥生人の国で
それをなぜヤマト王権と呼ぶのか?
単なる倭種の国だろ? >>963
その嘘いくら繰り返しても通用しない
嘘つき野郎はサイエンスZEROの動画を証拠だとたびたび持ち出してくるが、
篠田さんはそんな発言一切してない >>974
倭人伝には奴国に王ありなんて書いてないだろ
そりゃ王墓なんてあるわけないわ
倭国大乱の中で王が居なくなったのかもな 公式ゴッドハンド
卑弥呼時代に合わせるべく、編年基準を変更した理由
<石野さんの説明>
布留1式のはじまりを、安本先生の言われるように
350年とすると、布留式の行われた期間が50年に満た
ない短い期間になってしまう。これはおかしいと思う
ので、布留式は290年頃から始まったと考える。
そして、布留式が始まる前の庄内式の時代のホケノ
山古墳の年代は250年ごろと考えている。
<理由は畿内的都合です>
「布留式の行われた期間が50年に満たない短い期間に
なってしまう。これはおかしいと思う」 >>967
竹簡でも木簡でも体積は変わらないだろう?
私がこの話を最初に書いたときには、竹簡や木簡にって書いてたんだけど
面倒だから木簡などにって書いただけだよ
それに異国に出かけて記録を書くときに公文書の体裁を取る保証なんてどこにもないだろうにw
的外れだよなww
で、その竹簡を巻いて冊にしたものをどれくらい持ち帰れると考えているんだ?
水行20日の記録を日記のように書いて持ち帰れるはずがないだろ?
よく考えてものを言えww >>966
大物主や事代主はもっと神武よりもっと海洋的だけどね
海を照らしながら現れたり、天孫族に攻め込まれてる最中に釣りしてるんだから >>975
舞鶴ではなく、丹後半島の竹野または網野からだよ
竹野には神明山古墳、網野には網野銚子山古墳があり、畿内以外の初期古墳では最大級
四道将軍の派遣先の一つが丹波で、崇神天皇の前代、開化天皇の妃に竹野姫の名前がある
http://livedoor.sp.blogimg.jp/bungchanblog-kodaishi/imgs/4/d/4d3e1010.jpg
この図でも丹波の与謝野町に向かう網掛け部分のラインがあるけれど、
これが陸行一月の経路だと考えられる >>955
考古学も何も知らない素人の発想だよ
常識的に考えれば、弥生時代みたいな大昔に勢力があったのは東に離れた近畿より大陸に近い九州だろう
そして、そんな大昔にあった邪馬台国が常識的に考えて大和朝廷の時代まで存続するはずがない
要は畿内説ってのは邪馬台と大和って発音似てね?というだけの根拠から結論付けられたものと感じる ていうかそもそも古墳時代の人は墓の近くに住んで気持ち悪くないの? >>985
縄文時代も弥生時代も墓のそばに住んでましたが >>949
漢委奴国王の印鑑は西暦57年だぞ
大和とか関係あるか。
自分も書いてるように匈奴がキョウドなら奴国がドコクで倭奴もイドかワドだろ。
カンノイドコクオウ
「かんのわのなのこくおう」とかが未だにまかり通ってるのがすごいよな。
やっぱり白人様が導いてくださらない学問だと
日本人は三流だな。 >>983
>そんな大昔にあった邪馬台国が常識的に考えて大和朝廷の時代まで存続するはずがない
弥生時代を大昔だから原始的っていうのが古い常識というかもの知らずなんだよ
縄文時代ですでに沿岸航路による広域での交易が確立されているし、結構な文明社会なんだよ
三内丸山遺跡ではほぞ組を使った大木造建築が既に作られている
それと、弥生時代は既に鉄器時代
日本には青銅器と鉄器が同時に入っているので、青銅器時代がなく青銅器はもっぱら祭器として
特殊用途に特化していった
そういう背景知識がないと、大陸に近いから九州とかいう幼稚なことを言い続ける羽目になる >>987は三流日本人ではないってことかな?www
三国人なの?w >>989
自虐という言葉を知らないのね
君日本人の感性じゃないね 邪馬台国に対抗出来るなら、独自に大陸との繋がりあった筈だよな
日本海側にも領土があり、高句麗あたりと繋がってた?
南九州なら、呉と繋がってたろうけど 常識的に倭国の物理的規模を考える。
韓半島には大きくわけて馬韓,辰韓,弁韓
の3つの連合国が存在していた。
「馬韓」で約50国とのこと。
https://i.imgur.com/pb7dF4J.png
倭国が30国からなる「邪馬台国」ならば、
ちょうど北部九州ぐらいの規模となる。
https://i.imgur.com/XYNqvNb.png
漢の時代の倭国は約100国だったので
山陰あたりまで含んでいた可能性もある。 >>991
東海地方の土器は北部九州でも出てるから、大陸との交流は北部九州の国を通じて行っていたんだろうな
独自ルートは想定しなくていいだろう
ちなみに、魏志倭人伝に中国と交流があると書かれている30ヶ国とは、
北部九州で土器が出土する列島各地の勢力のことと考えるのが現実的だろう
畿内ヤマトも吉備も出雲も、その30ヶ国に含まれる >>980
大事な出雲の情報が記載されずに、通り道だけの対馬や壱岐が記載されるとかないわー
それなら出雲行ってないという方が説得力ある >>980
それと以前、陸行一月で藪こきしながら進むのに
大勢の随行員がかわるがわる藪こきすれば平気と言い張ってたけど
それならむしろ木簡たくさんあっても随行員が運べばいいだけだよな 九州ロマン派。最後を飾るぞ、陳寿はわざと嘘を書いた、政所伊都国の背後に七万が控えているぞ!と、卑弥呼の国を侵略者から守る為に。邪馬台国は北九州。 >>959
http://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
これじゃ、範囲が広すぎ
卑弥呼からの伝達や情報どうするの?
主要な穀倉地帯や国際都市、祭祀考えると出雲
位まで >>997
むしろざわざわ投馬国(畿内説いわく出雲)に寄るために遠回りまでして
日本海ルートを選択した設定なのに漢人の投馬国のことを書かない理由が知りたいわ 伊都国から水行20日で薩摩
伊都国から水行なら長崎経由で10日、陸を行くなら1日で筑後平野
筑後平野から何か出てきたら面白そうだけどな このスレッドは1000を超えました。
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