油紙に包み、軍靴の底に隠して持って帰った佐藤哲雄さんの軍歴書。インパール作戦を指す日本の作戦名「『ウ』号作戦」の文字も見える
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 先の大戦時に多大な犠牲者を出し、最も無謀な作戦といわれた「インパール作戦」から75年。インド北東部のインパールに22日、悲惨な戦闘の記憶を後世に伝える平和資料館が開館する。建設を発案した現地の観光協会から協力要請を受けた日本財団(東京)が、元兵士や遺族らに手記や写真などの提供を呼びかけ、200点近くが寄せられた。作戦に参加した数少ない生還者の元兵士、佐藤哲雄さん(99)=新潟県村上市=は激戦のただ中で携行した双眼鏡を寄贈。産経新聞の取材に応じ、極限の戦闘を振り返った。(大竹直樹)

■深刻な食料不足

 「ウ」号作戦−。第31師団に属する高田歩兵第58連隊の曹長だった佐藤哲雄さん(99)=新潟県村上市=の軍歴書に、インパール作戦を指す作戦名が記されていた。

 戦犯を疑われる記録は焼却を命じられたが、「自分の記録だから」と、油紙に包んで靴の下に隠し日本に持ち帰ったという。

 インパール作戦を含むビルマ(現ミャンマー)戦線は蒋介石の国民党政府への補給路の遮断、つまり米英など連合国軍が軍需品を支援する「援蒋(えんしょう)ルート」を断つことにあった。

 第33師団は昭和19年3月、比較的補給も容易な東側のコースを北上。一方、第58連隊が属する第31師団は補給路を断つため、インパール北方の要衝、コヒマを攻略した。英軍の補給を断ちながらインパールを目指して進軍し、連合国軍の拠点だったインパールを南北から挟み撃ちする作戦だった。しかし第31師団は南下を阻まれ、第15師団とともに孤立。補給もなく深刻な食糧不足に陥った。

 作戦を指揮した牟田口廉也(むたぐちれんや)司令官は、物資輸送と食料を兼ね、牛などの家畜を連れて行軍させたが、この「ジンギスカン作戦」は食料どころか足を引っ張るだけだった。「川では渡河(とか)船に乗った牛が暴れ出し、兵士もろとも川に落ちた」。川を渡った牛や羊はほとんどなく、結局食料として口にすることはなかった。

 上官から「敵のものを取って食え」という指令が下されたが、英軍が撤退した宿舎にたどり着いても、残された食料にはガソリンがかけられていた。佐藤さんは「食料補給はないのが前提。缶詰の牛乳であれ水であれ、飲んだ者はみな腹を下した。現場を知らない人が机の上で考えた作戦だった」と振り返る。

■師団長の「抗命」

 現地では疑似紙幣である軍票で食料を調達することもできたが、戦況の悪化とともに通用しなくなり、熱が出れば、熱冷ましに効果があるキュウリと、万年筆などを交換した。

 「眠れば自分の食料も盗られてしまい、翌日から食べるものがなくなる。草の根をかじっても栄養があるわけでもなく、衰弱している人は、マラリアにかかり亡くなっていった」

 連合国軍の戦闘機が上空をかすめ、弾は四方八方から飛んでくる。銃撃音で弾が来る方向が分かるようになったが、ビルマ・インド国境を越えた高地で砲弾が爆発し、破片が左ひざに食い込んだ。

 野戦病院では止血されただけで破片を取り除くことはできず、切った木を松葉づえ代わりに2カ月かけて前線から離れた病院まで歩いた。治療を終え、コヒマ付近にいた原隊に復帰する前、少尉から「もう少し休んで行け」と言われた。復帰するはずだった部隊は直前に集中砲火を浴び、ほぼ全滅となったと聞かされた。「すぐに原隊に復帰していたら命はなかった」

 物資補給を無視した無謀な作戦だった。佐藤幸徳第31師団長は「弾一発、米一粒モナシ」と電報を打ち、独断で撤退を決断。この陸軍史上初の「抗命」を機に6月、撤退が始まった。

■「生死は紙一重」

 ビルマを流れる大河・チンドウィン川沿いの敗走路は軍服姿の遺体で埋め尽くされ、「白骨街道」と呼ばれた。「日中は草木に身を潜め、夜に歩く。日本兵の遺体が2人、3人ずつ折り重なるように倒れていて、そこにハゲタカが舞い降りてついばむ。遺体はすぐに白骨になった」

 生死は紙一重。「人のことを構っていれば自分も死んでしまう。負けるか勝つかではなく、誰が生きて帰れるかという戦いだった」

 作戦では約3万人が「戦病死」したが、その多くは餓死だったとされる。自らの命をつなぐことで必死だった。(続きはソース)

6/21(金) 16:57配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190621-00000576-san-cul

★1:2019/06/22(土) 16:25:20.83
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