大西瀧治郎(C)共同通信社
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 先に述べたように、2大汚点のひとつである「特攻は全員が志願した」との言い方は、特攻を生み出した責任が隊員個人に転嫁されることを意味する。同時に隊員は「救国の英雄」呼ばわりされていく。国を挙げてのこの称賛は戦時下の日本社会がいかに歪んでいたかを我々に教えてくれる。

 昭和20年4月以後、沖縄を目ざす特攻は比島決戦のときに比べると著しく命中率が落ちた。学徒出身の搭乗員の技術が大幅にダウンしてしまったからだ。沖縄戦は天一号作戦といわれたが、4月、5月は「まるで特攻隊員の屍を積む」といわれるほど出撃が相次いだ。

 なぜ命を粗末にする作戦が続いたのであろうか。私はあえて2点を指摘しておきたい。特攻作戦は本土決戦を意識していたというのが第1。第2は国民を戦争による死に慣れさせるためだった。

 本土決戦、そして一億総特攻に慣れさせるには、連日のように特攻隊の死を国民に伝える必要があったのだ。大西瀧治郎(写真)が第1航空艦隊司令長官のポストから東京に戻り、軍令部の次長に就任したのも本土決戦に備えてのことだっただろう。その大西にある新聞記者が、「このような血染めの作戦を進めて、戦争にめどはあるのか」と尋ねている。大西はこう答えた。

「本土決戦で日本人の5分の1が戦死する。そうするとアメリカも講和を言い出すであろう。そのときまで続けるんだ」

 つまり日本列島を血染めにしてしまうわけだ。当時の日本の人口は7000万人とされていたから、1400万人が特攻死することになる。そうなったらアメリカも講和を求めてくるだろうというのであった。

 大西は、講和になれば日本が勝ったことにはならないが、負けたことにもならないと豪語したという。実は大西に限らず、本土決戦派はいずれもこのような妄想にとりつかれていた。アメリカ軍の上陸地点に穴を掘って火薬を詰めたリュックを背負って隠れ、戦車が上陸してくるとリュックに火をつけて戦車にぶつかっていく。少年たちがそうして死んでいく。想像するだに身の毛がよだつ「一億総特攻」であった。

2019/06/27 17:00
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★1:2019/06/28(金) 16:49:02.45
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