大阪市立大学元教授・じんけんSCHOLA共同代表の上杉聰さん(2019年6月12日)
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被差別部落への差別を助長する発言をしたとして、元フジテレビアナウンサーの長谷川豊氏が、この夏予定されている参院選への出馬をとりやめた。その後、長谷川氏は、公式ブログで「教科書から、その差別の歴史の記述自体が無くなっているのです」と記した。つまり部落差別の記述が教科書から消えたというのだ。この言説はほんとうに正しいのだろうか。現在、被差別部落の歴史は学校でどう教えられているのだろうか。(ライター・黒部麻子)

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●教科書から消えた「士農工商」

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――被差別部落は江戸幕府がつくったのでしょうか?

「江戸時代のはじめにつくられた」という説明も、ほとんどされなくなりました。教科書の記述も、かつては「(幕府や藩が)えた・ひにん身分を置いた」という表現でしたが、上述のように「いた」という表現に変わり、江戸時代以前にもこうした人々がいたことが表されるようになりました。そして、中世に「河原者」や「ひにん」が差別されていたことを記載する教科書が増えています。

また、河原者/善阿弥などの庭造りや、幕末に岡山で起きた「渋染一揆」について、ほとんどの教科書が積極的に取り上げています。そのほか、『解体新書』を著して、オランダ医学を日本に紹介した杉田玄白の説明とともに、当時の解剖は被差別身分の人々が担ったことも教科書に書かれるようになりました。

このように、教科書の記述は大きく変わりましたが、長谷川氏が言うように「差別の歴史の記述自体がなくなった」というのは大きな誤りです。研究の成果を受け、部落の歴史や差別の実態がより正確に描かれるようになったということなのです。

●「残酷」「穢れ」意識と差別

――部落はいつからあったのでしょうか?

穢多や非人という言葉が登場する最古の史料は、鎌倉時代中期、1280年ごろの『塵袋(ちりぶくろ)』という、大変古い書物です。私自身は、穢多と同じ意味で使われた「河原者」や「屠者」という呼び方が見られる平安時代中期ごろにまでさかのぼると考えていますが、いずれにしても現在はこうした中世起源説が主流です(歴史学で中世とは平安時代中期から)。ただし、中世においては法整備まではされず、権力者による慣行的なものとして差別が行われました。

それが制度化されるのが江戸時代です。宗門人別改帳に身分が記載され、部落の人たちの衣服や立ち居ふるまいまで規制するようになっていきます。また、部落の側だけでなく百姓や町人に対しても、差別しなければ罰せられる、つまり法的に差別が強制されるようになっていくのです。

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――そうした人々はなぜ差別されたのでしょうか?

一つには、外来の仏教によって、動物を処理することを「残酷」とみなし、仏の戒(いましめ)を破る「悪行」(あくぎょう)とする観念が広がったことが背景にあります。また、日本には、伝統的に「穢(けが)れ」という概念が神道の中にあります。これは、物理的な「汚(よご)れ」を社会領域にまで拡げた概念です。古くから、死や病、犯罪など、人間社会の秩序に変化をもたらすものを「穢れ」と呼び、忌避してきました。

こうした宗教的な背景のなか、古代の律令制が崩れ、中世の荘園制度が始まると、貴族や寺社、武士などがそれぞれの荘園を独立して支配することになります。すると荘園同士のあいだに必ず隙間が生じます。河原や荒れ地などに住み、どこにも属さない人たちが生まれてきたのです。それらの土地は無税地でもありましたので、荘園支配の体制から外れた「異質な人たち」と見なされました。また、米作をせず動物を殺して食べることから、宗教的に「残酷」や「穢れ」のレッテルが貼り付けられるようになりました。

そうした人々が楽しく元気に暮らしていたら、荘園の秩序は外から壊されてしまいます。そこで、彼らに対し、人や動物の死体の処理、清掃、警察といった仕事をすることを、無税地に住む代償として、懲罰的な意味を込めて義務づけました。こうした穢れを取り払う仕事は「キヨメ」と呼ばれ、部落の始まりとなりました。「穢多」や「非人」の言葉はそこから(分業で)分かれて生まれてきました。

しかし、「キヨメ」の人々が担った仕事は、社会にとって必要不可欠な仕事です。ですから、排除されたといっても、一般社会から完全に切り離され、独立していたというわけではありません。ある程度支配には組み込みながら、しかし仲間には加えない。こうした矛盾した行為が部落差別なのです。(続きはソース)

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