【奈良】大和の地こそ邪馬台国に相応しい 箸墓古墳と纒向遺跡、大神神社★2
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(前略)奈良県大和盆地南部の巻向地区にある箸墓古墳を中心に近くにある纏向(まきむく)遺跡と大神(おおみわ)神社の探訪記です。季節は5月末のことです。
この古墳は全長280mと大きく堂々とした風格ある森の姿で国道169号線のすぐ脇にありました。日本最古の前方後円墳のひとつで3世紀中頃から後半の築造と推定されています。正式名称は「倭迹迹日百襲媛命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)」という名前で、この倭迹迹日百襲媛命は、すぐ近く数km南にある日本最古の神社である大神(おおみわ)神社に神として祀られている大物主命(おおものぬしのみこと 大国主神のこと)の妻となっています。神々の時代の話なのですが、古墳そのものは実在し築造年代もほぼ科学的に推定されていますので、この古墳は一体誰の陵墓なのか、最古の古墳の被葬者は誰なのかが昔から論じられて来ました。そこで3世紀半ばに没したと魏志倭人伝に記述のある邪馬台国の卑弥呼の墓であると古くから見られて来ました。卑弥呼の墓であるなら、邪馬台国は箸墓古墳のある巻向の地に王都があることになり、邪馬台国九州説は完全に否定されてしまいます。従って、現在でも大和説と九州説との論争は果てしなく続いていますので、この箸墓古墳の被葬者もまた学術的には確定していません。
ただ私は、この箸墓古墳からすぐ近くJR桜井線の巻向駅周辺に広がっている纏向遺跡こそ邪馬台国の王都だったと思っていますので、やはり陵墓は卑弥呼のものであるはずです。
巻向駅のそば、辻地区で掘立柱建物の柱列跡が発掘されて、ここに纏向遺跡の居館群があったと分っています。建物群は3世紀前半に建てられたとみられています。中心的な大型の掘立柱建物は約19m×約12mの規模があり、当時としては国内最大の規模と推定されていますので、これら建物群の復元が出来るだけ早く進むことを願っています。話は変わりますが、一時期、邪馬台国九州説が相当な勢いを持ったのは、佐賀県の吉野ヶ里遺跡の発掘と復元が急速に進んで、弥生時代の大規模な環濠集落や墳丘墓が目に見えるようになったことからだと思っています。吉野ヶ里遺跡にも行ったことがありますが、復元された集落の大きさや楼閣の高さなどを実際に見ると圧倒されて、ここが邪馬台国の王都と思い込んでしまいそうになるほどでした。でも、やはり、大和の地こそ、邪馬台国に相応しいし、すぐ後の時代に実在した大王(おおきみ、天皇)である崇神天皇の陵墓とされる行燈山古墳もほんの2km北にあり、初期の大和王権の所在地磯城(しき)とも近いので、纏向遺跡が邪馬台国の王都で、初期大和王権は何らかの形でそれを実質的に引き継いだ(乗っ取った)のではないかと私は考えています。事実、纏向遺跡も箸墓古墳の完成の後、建物群が廃絶されていますので、何らかの権力の移行があったのではないかと想像しています。
この箸墓古墳もまた天皇家に連なる人物の陵墓ということで宮内庁の管理下にあり、一切の調査はなく立入りは厳禁されていますので、本当に卑弥呼の墓なのかどうかは判定できないままです。卑弥呼が魏の皇帝から与えられた「親魏倭王」の印綬が副葬品として出てきたら、これは決定となるのでしょうが、当分は古墳の調査がなされない以上、結着はつきそうにありません。残念です。私には、ここ纏向遺跡をAR・VRで復元して邪馬台国の王都の姿を見て感動したいという夢があります。一日も早く実現してほしいのですが、遺跡の発掘が1971年以降継続して実施されているものの、現在までのところ南北約1.5km、東西約2kmにおよぶ対象地域のうちの5%程度しか調査できておらず、今後数十年はかかるとの予想ですので、AR・VRで邪馬台国の復元王都を見るという私の夢は果されることはなく終わりそうです。宮内庁には一日も早く古墳の調査を専門家に認めてもらいたいものです。宮内庁管理の陵墓こそ、日本の歴史上の貴重な文化財であり、第一級の世界文化遺産に相当すると思っています。日本人の誇りなので、もっと多くのことを知って理解したいのです。
最後に箸墓古墳の近くにある日本最古の神社、大神神社について触れておきます。この大神神社は山(三輪山)そのものを御神体とし、本殿を持たず拝殿だけという古い形を残している神社で、祭神は大物主命、即ち、国造りの神です。つまり、大和盆地南部は国造りの地であり、邪馬台国や卑弥呼との関係、初期の大和王権との関係、祭司を勤めた豪族大三輪氏との関係など国造り、国譲りの出雲神話とも重なり興味が尽きません。(続きはソース)
2019年7月1日掲載
http://www.icr.co.jp/newsletter/kaza20190701-hirata.html
★1:2019/07/01(月) 22:52:11.21
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1561989131/ 邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
相応しいってなんだよ?
相応しさで考古学の学説が決まるの? 九州倭国と近畿日本の二つの国があって、
後者が強大化して前者を併呑し
名前(邪馬台=ヤマト=山門)も騙った。
旧唐書にある通り。
はい、終了。
邪をやと読むのは不自然。伊邪那岐命はいざなぎのみことと読むだろ 倭国とヤマトは別の国
もしくは北部九州から機内へ遷都
どっちがでええやん
平和やん 旧唐書以降の中国書を見る限りでは
畿内大和朝廷は倭国の後継とは認められず
日本という別の国として記録されている。 >>1
川崎、神戸(尼崎)、北九州は在日朝鮮人の巣窟
凶悪犯罪を繰り返す在日朝鮮人・帰化人がわきまくってるし
パンスト朝鮮顔を整形しまくったネトエラ(ネット工作の在日朝鮮人)がものすごい勢いで暴れまくってるからな。
日本に密入国してきて図々しく居つき
生活保護を受給しながら性犯罪を繰り返し
日本人になりすましネット工作を続ける在日朝鮮人。
在日朝鮮人はスパイそのもの。
帰化人を含めて 朝鮮人全員をいったん強制送還するしかない。
●●● ネトウヨ連呼厨( ネトエラ)の正体 ●●●
http://karutosouka2.tripod.com/uyokusyoutai.htm
. 神武の感想で九州から大和までは逆らう奴は潰してきてるからな
ただ九州は神武の国の日向以外筑紫一か国潰して終了
瀬戸内は二か国だが、畿内が難波、熊野、大和と三か国
しかも畿内はいずれも大苦戦している
九州にあった大勢力って神武? 巻向駅の周りは昔の王都かも知れないが現在では低所得の市営団地が広がる残念な地域だわな >>1
まあ、これまでは、
古代日本は、朝鮮半島経由で中国大陸との交流・交易をやっていたと
思い込んでいたから、
中国大陸に近い北九州に、古代日本の首府が存在したと思いがちだが、
しかし、ネットが登場して歴史通が新たな可能性をブチ上げてしまった。
それは、中国大陸との交流は、北陸から直接日本海を横切って船で行われた可能性が非常に高いということだ。
それにより、日本の中央部は中国との交易で空前の繁栄をしたと思われる。
南九州の地から、神武天皇が北九州地方など見向きもせず、一路、全力を挙げて近畿を目指した(「東征」)のも、
当時の近畿の繁栄は、日本全国に鳴り響いていたからだろう。 長里説だと、韓国から対海国まで500キロ、また一大国まで500キロ、更に末盧国まで500キロくらい離れてるんだろ
九州説も畿内説も成り立たないよね >>18
まあ、船で日本海を横断すれば半日の距離だな。
当時、すでにオール付きの大型船が中国で使われていた。
中国側から提供されたその船を日本も使っただろう。
アトは、その船に関する遺物が日本で発見されれば完了なのだが。 >>17
>>20
お昔の能登半島では渤海と貿易してたらしい やまたいこく=やまとこく=やまとこく=大和国=奈良
これを認めないアホは朝鮮人www 正式には大和大国(ヤマトタイコク)だからな
シナの役人が聞き間違えて勝手に邪馬台国と記載されただけの話
まあワザとだろうけど
なんでヨコシマなんだよっていう程にそこまでナメられていたのさ
卑弥呼もイヤシイの漢字をワザと当てやがって
本当は日が昇る国の巫女だから日巫女が正しい 中国の又聞き文章でさらに邪馬台国なんて
ちょっと馬鹿にされた当て字さえたのをありがたがるのはなあ
日本に少しは文献残っていないのかね? 奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、
魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。 「槨が無い」「100人余りの殉死者」という魏志倭人伝の記述からすると福岡県久留米市の祇園山古墳が卑弥呼の墓の可能性が高い
石室はあっても郭はなく確認されるだけで66人もの殉死体が発見されている
畿内でそんな大量の殉死者のある古墳はないだろう >27
>石室はあっても郭はなく
訂正
石棺はあっても郭はなく
ね >>25
蘇我蝦夷が自宅に火を着けたときに燃えたらしいんだよね、その辺の記録
俺は中大兄皇子がてきとうに攻め込んでうっかり火を着けてしまい全焼、書物も丸焼け
慌てて日本書紀で蘇我蝦夷が自殺して火を着けた事にしたと思ってる
入鹿殺されたぐらいで死ぬ奴なら聖徳太子の息子一家はじめ皇族殺しまくってないでしょ 当時の日本列島の大部分は殷文化の影響が強かったんだろう
獣の肩甲骨を使った卜占、動物や人の生贄、殉葬、酒を使ったトランス状態で神託をきく、太陽神の末裔、
邪馬台国の記述や纒向遺跡の祭祀遺構に合致する
殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事であった
桃の種は大量の酒を作った跡だろう
卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線
纒向遺跡は、対狗奴国の前線基地
河内、和泉の狗奴国と争っていたんだろう 穢れを嫌う文化から見たら、生贄、殉葬は鬼の所業に見えたに違いない
中国大陸で殷が滅びたのと同じ理由で、日本列島でもその残酷さ故、奈良時代迄に殷の影響は排除されていったんだろうね
天平時代
令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
蘭はイチイ、アララギのことかな
中部地方以北の寒い地域に多い植物
珮は殷、周の時代に流行った飾り
立派な月は風と手を組み、梅が鏡についた白い粉を払った。東国では殷の末裔の影響が残っていた 卑弥呼は白山ヒメと関係あるかもな
亀と瓜
胡瓜が大好物なのは河童
蜻蛉日記にはアマテラスは河辺に住む河伯とある
河伯は黄河の神、黄河文明の流れを引くのかな
崇神の代に創建されたと言われている白山比め神社
その神紋は三子持亀甲瓜花
亀甲が三重になっているが
三子持が気になる
崇神の前は、卑弥呼、男王、台与 崇神の代に建てられた廣瀬大社
【若宇加能売命】が祀られている
かなり重要な存在と思われる。一説によると稲荷神と関係あるとか
若、【ワカ】
インカ帝国では、【ワカ】は川や泉などと結びついた聖なる存在
アイヌ語で【ワッカ】は清らかな水
インカ帝国はy染色体ハプロタイプはQ系
殷もQ系だったらしい
日本にもQ系は1%弱いる
インティはインカ帝国の太陽神
殷の王族は太陽の末裔
殷の王はシャーマンであり鬼神を崇拝していた
稲荷はイネカ→インカ
廣瀬大忌神、稲荷は殷系の渡来人と関係あるのだろうか? 日本の歴史は汚鮮されてきた
その最後の残党が九州チョン >>26
ただまあ、
卑弥呼が生存していたのは、神武東征から900年後のことだからな。
神武以後、奈良を中心として大和王朝を築いた天皇家は、
卑弥呼時代には、有名な「ヤマトタケル」によって九州征伐をやっている。
もちろん、奈良から九州に遠征したのだ。
当時、北九州は、近畿に次いで繁栄しつつあったろうが、とても近畿の朝廷に匹敵できるものではなかったろう。
なぜなら、それほどの大きな勢力が当時、北九州にあったなら、はるばる九州熊襲を近畿から遠征して征伐することもなかったろうからだ。
北九州から南九州に軍を送ればいいからだ。
また、近畿から中国渡来の「剣、鏡、勾玉」が出土していないのは、
それが「天皇家の三種の神器」になってることでも分かるように、そこら中で大量に使用されて、後年、ザクザクと発掘されるようには扱われていなかったのだろう。
つまり、外国渡来のモノを、保守的な天皇家がホイホイとスグに利用したとは考えにくい。
輸入戸口の北九州に集積されていた可能性が大きい。 纏向は明らかに邪馬台国ちゃうわな。
土器からして纏向は東国勢力の遺跡らしいのだが
記紀神話にはヤマトタケルの東国遠征以外ろくに東の話が出てこない。
ヤマトタケルは4世紀でなく3世紀に東国主体の初期大和朝廷を建てたが消された悲劇のヒーロー? ヒミコ→日向
トヨ→豊前豊後
邪馬台国7万戸というのは、今でいう日向全域、或いは日向・豊全域の戸数 神武は邪馬台の敵対国(狗奴か投馬)で新天地求めて近畿に来たら気候的に住み心地良かったから定住しただけのような気がするな ●「日本人とユダヤ人の先祖は同じである」という説を日ユ同祖論という。これを最初に言い出したのは、日本人でもユダヤ人でもなく、スコットランド人のノーマン・マクラウドという人物が言い出した説である。
このノーマン・マクラウドなる人物のことはよくわからない。一説にはイギリスでは売買を商っており、日本や韓国では宣教師として活動ながら「イスラエルの失われた十支族」を探していたという。
マクラウドが日ユ同祖論を展開したのは、イギリスに元々あった「イギリス・ユダヤ人同祖論」を日本とユダヤに当てはめたものであるらしい。
内容は、日本の天皇、宮家、公家の儀式とユダヤ教の儀式が似ているからというものであった。
ちなみにアメリカの黒人は「イスラエルの失われた十支族」である説。
ネイティブアメリカンは「イスラエルの失われた十支族」である説。
韓国人は「イスラエルの失われた十支族」などなど世界中にあるらしく、特にめずらしいものではないようだ。
日本の場合、ノーマン・マクラウドの講演を聞いた日本のキリスト教指導者数人が、明治から昭和初期にマクラウドの説をさらに解釈を加えて日ユ同祖論を作っていったらしい。
なぜか?
明治〜戦前の日本はまだまだ二等国だと思っており、なんとか一等国に欧米のキリスト教国に思ってほしかったのである。そして日本は偉大な国であり、神の国であると日ユ同祖論者は口をそろえる。
例えば、「日本は神の国である。ゆえに蒙古襲来の神風から日清日露戦争にいたるまで負け知らずであったのは、我々日本人がユダヤ人と同じく神に選ばれた民だからだ」
とか、「旧約聖書に数か所「日の出る所から、その沈む所まで」という聖句があるが、この中の「日の出る所」とは地球の中央であるエルサレムから一番東にある「日いずる国」である日本のことだ」
とか、『日本は神に選ばれた国であり、日本民族は神に選ばれた民族である』といういわゆる神国ニッポンの皇国イデオロギーと同じなのである。 ●ユダヤ人は日本人のことをどう見ているのか?
ユダア人研究でも有名な神戸女子学院大学の内田樹教授によると『エンサイクロペディア・ジュダイカ』という、全26巻におよぶ英語で書かれた百科事典がある。
『エンサイクロペディア・ジュダイカ』は文字通り『ユダヤ人の百科事典』という意味で、その厖大な百科事典に、日本についてのことがどれくらい記されているかというと、0.009%、ページ数にしてわずかに2ページ程度であるという。
日ユ同祖論に熱心な日本人には申し訳ないが、イスラエルを含む英語圏のユダヤ人は、日本や日本人にほとんど、あるいは実質この程度しか関心がない。
Wikipediaによると、一時滞在も含めて日本に住んでいるイスラエル国籍者は802名(2005年末)であるそうな。
ユダヤ系アメリカ人など他国のユダヤ人を含めると2000人ほどいるらしいが、極めて少ないといっていいだろう。
よって日本にユダヤ教のシナゴーグ(集会所)もほんの数か所しかなく、そして開国してからあまりユダヤ人は日本に住みつかず、
もっといえば第二次世界大戦前に日本に横浜や神戸、長崎にあったユダヤ人コミュニティーも、戦後になるとみんなアメリカに移住しちゃってなくなってしまうありさま。
どうやらほとんどのユダヤ人にとって、日本については関心もなく、また世界のあらゆるところに移り住んだユダヤ人だけど日本はあまり魅力的ではないのかも知れない。 ◎日ユ同祖論の年代矛盾。
ダビデの星がユダヤの象徴になったのは十七世紀から(イエズス会製)。
伊勢神宮のダビデの星がある石灯籠の設置は戦後。
ユダヤ・カバラで生命の樹理論の元型ができたのは12世紀(盲人イサク)から。
クリスチャン・カバラ(生命の木中心)は15世紀にピコが創始。
◎日ユ同祖論の方位矛盾。
メルカトル図法は方位が不正確。
方位が正確な正距方位図法ではイスラエルの東北の果てが日本であり、東の果てならニューギニア島あたり。
聖書が根拠の失われた十支族に考古学的証拠なし。
イスラエル中心の正距方位図↓
http://ronbarak.tumblr.com/post/39738833512/online-map-creation-using-azimuthal-equidistant
◎日ユ同祖論は縦書きの漢字とヘブライ語(横書き)の子音表記を無視。
公にしない支配者層の文章ですら漢字と漢字の変形(仮名)。
漢字否定の為に神代文字を捏造。
ヘブライ語は子音表記で母音記号(ニクダー)がないと正しい読みは不明。
都合よく読めばどんな言語とでも同祖論を作れる。
◎日ユ同祖論は仏教と道教を無視。
本地垂迹説(神の正体は仏)で神の実体を否定する仏教が国教(寺が神社を管理)。
天皇も側近も仏教徒。
日本語に仏教用語は多いが神道用語は少数。祇園は仏教用語。
昔の神道=和風道教。神道・神器・天皇は道教用語。
天皇は道教最高神・天皇大帝(北極星)の略。
◎日ユ同祖論はユダヤ教の最重要教義を無視。
神道は多神教で安息日がなく(十戒=最重要事項違反)、
バルミツバ(13歳でする成人式)もない。
祇園は仏教用語。シオン祭というユダヤ教の祭りは存在しない。 RiekoPiano@RiekoPiano • 7月23日
ユダヤ教徒の妻ですがシオン祭などというのは見た事も聞いた事もないですね。日本独自の都市伝説です。そもそも7月1日がロシュハシュナでシオン祭の初日という記事もありましたが今年のロシュハシュナは9月24日から26日です。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月23日
ネタとしては青森のキリストの墓と同じで面白いなあとは思うのですが(笑)、世界のどこにいても伝統行事を大切にしているユダヤ教徒に話したら「なんじゃそりゃ」と笑ってました。ユダヤ教の行事カレンダーも7月は空白です。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
何度も言いますがシオン祭と言うもの自体が存在しないのです。ユダヤ人は古代の行事伝統をすべて大事に今でも行っている民族ですがそのユダヤ人たちの間でこのような祭りが存在しないのです
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
シオン祭で検索してみてください。祇園祭に関連する記事以外何も出てきません。本当に存在する、あるいは存在したものなら、たとえユダヤ教やユダヤ人の文化の記事として必ず英語か日本語でみつかります。それが何もないのです。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
ユダヤ人たちは、世界のどこにいても、その多くが子供の時からヘブライ語を学び、自分たちの民族の歴史や伝統をしっかりと教え込まれます。そのための学校も必ずあります。その彼らが「シオン祭?何それ?そんなもんないよ」と言っているのです。
RiekoPiano@RiekoPiano • 9月5日
それで、伝統をこの上なく大事にして何千年も多くの行事を続けているユダヤ人たちが知らないシオンの祭典って何ですか?
ユダヤ人の祭り
http://www5f.biglobe.ne.jp/~jesus/NT-intro_festivals.htm
ユダヤ教 ━ ユダヤのお祭り
http://myrtos.co.jp/info/judaism03.php もう朝鮮人の妄想はいいから
遺構のひとつでも出せカス 日帝ジャップは馬鹿だから
「ジャップは太古の昔から天皇に統一的に支配されていた」
という妄想を維持したい。
しかし『魏史』倭人伝の卑弥呼の記述は、
明らかにそれに都合が悪い。
卑弥呼は「倭女王」だ、とはっきり書かれてるからな。
だから、ジャップは「邪馬台国は近畿にあった」
という妄説を主張して、自分たちの妄想を守ろうと悪あがきをする。
邪馬台国ネタは、
ジャップの支配層の本質的な幼稚さを暴露する
格好のネタw
だからネットでもどこでも
繰り返し話題にされる。 「邪馬台国」を「ヤマタイコク」と読むヤツはいろいろと馬鹿。
まず原資料の表記は、邪馬「台」国じゃなくて 邪馬「壹」国。「一」の難しい漢字。
で、これは中国の史書に出てきた用語。当時の中国語で読むのが当然。
だから例の国の名前が「ヤマタイコク」である可能性はほぼゼロ。ゼロ。
こんな基本事実をいつまで無視してたジャップのバカぶりは無限大w
だから「邪馬台国」という名前を勝手にジャップ語で
「ヤマタイコク」と呼んで、
ヤマトに似てるから「邪馬台国」は畿内に違いない!
とか言ってる奴は白痴オブ白痴の大馬鹿野郎。
「ヤマタイコク」(笑)よりまともな推測音はこんなかんじ。
邪
・z-a, ia, ua (1) ザ、ズィア、ズア のどれか
・j-a, ia, ua (1) ジャ、ジア、ジュア のどれか
馬
・m-a, ia, ua (2) マ、ミア、ムア のどれか
壹
・?-in, it(4)イン、イト のどれか
いっとくが j-a, ia, ua は、ヤ、イア、ユア とは読めないからな。 永遠に馬鹿なジャップは例によって、
「卑弥呼」を勝手に「ひみこ」と読んで知らん顔。
しかし言うまでもなく「卑弥呼」は中国の史書に出てきた単語。
当然当時の中国語を基準とした読み方をすべき。
幾つかの可能性があるんだが、その中の一つは、
「ぴみは」 ないし 「ぴみか」
になる。
いずれにせよ「ひみこ」なんて読み方はありえない。
勝手に「ひみこ」を正当な読み方みたいにしてんじゃねーぞ、糞ジャップ 象牙が皇帝の印で、そこから金、銀、銅の印にクラスが下がっていくけど
面積5.78 kmの小島(志賀島)にそんな大きな領地の国があったのですか?
(答え) ない
金印にふさわしい遺跡もない
遺跡がないのに遺物だけがある
そこにあったこと自体がおかしい
つまり偽物 岸本直文准教授(大阪市大)によると、
おおむね5世紀に在位した
天皇の「お墓」11基のうち、
9基は、別人か、古墳ではない、と考えられる。
http://i.imgur.cOm/tat3PNs.jpg
ちなみに、15代応神から25代武烈まで。
仁徳は16代
古墳ではない???
ジャァァーーーーーーーーーーッッププ w >>45
ほらすぐ正体晒すだろ
反日朝鮮人が日本の歴史を捏造してるんだよ >>51
「ヤマタイ国はどこですか」
「ハア?」
「ヤマト国?」
「何のこと?」
「あの後世、魏志倭人伝にこう書いてあるんですが」
「漢字読めん」
「女王様いらっしゃるでしょ、ヒミコ?ピミウォ?」
「知らん」 >>49
すでに「金印」は、外国使節の帰国時の土産物用のレプリカと指摘されてるな。
大きさが小さ過ぎる。
現在の中国でも、外国使節に手土産に中国の「国璽」のレプリカを渡す慣習があるようだ。(もちろん、最重要な使節だけだが) >>18
238年2月に魏の明帝は、司馬懿に公孫淵征伐の【詔(みことのり)】を下す。
魏の京師( jīng shīケイシ=みやこ=京都)の洛陽から、公孫氏の居城である襄平までは四千餘里=100日の行程であった。
現代の地図上で直線距離1500km余り。
この尺度を(帯方)郡から邪馬台国までの距離万二千余里に適用すると4万5千km以上。
インドネシアのJavaジャワ島で名前もよく似てるから
「邪馬台国はインドネシアにあった」でいいじゃん。 >>57
間違った
4万5千km以上なら地球一周する距離
4千五00km以上だ >>1
奈良は色々とあるんだから佐賀に譲ってやれよ 大和・磯城・伊勢路方面域を邪馬台国として、
箸墓が卑弥呼の古墳だとは、いまひとつピンと来ないな。
内乱、死、男王、反乱の流れですぐに大きな墓を作ったとは思えない。
男王が気を利かして作らせたとか、親族の台与が作らせたとか色々解釈は出来るけどね。 >>60
だから孫は文武天皇や聖武天皇のことですよ 馬具が4世紀以降の土器の下に埋もれて発見された箸墓は5世紀だと全ての矛盾が解決する。
3世紀だと世界史から書き換える必要がある。 >>64
その馬具(鐙)は四世紀以前に存在したオーパーツなんですか? これは本当に同意する
大神神社とその周りは他と違うもの もう決着してます
5ちゃんねるでは九州説が人気のようですが、俗説です
国立歴史民俗博物館FAQ
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c 勝手に変なババアの墓扱いされて、倭迹迹日百襲媛命も草葉の陰で嘆いてる事だろう。
当時他の遺跡と一線を画す日本最大の都市であった巻向の王である孝霊天皇の娘であり、霊能的な能力を持ち予言を行った人物。
纏向遺跡から出土している桃や蛙は、倭迹迹日百襲媛命が儀式で使ったものだ。
畿内だけでなく、北は東山道から西は山陽道まで広く交易が行われ出雲の一族とも外戚関係を持ち
阿曇氏や和邇氏、尾張氏といった海洋系一族も広く交易に参加し、大和にも居を構えていた。
それを事もあろうに九州片田舎の占いババアだとか、失礼にも程がある。 >>70
まあそれこそが出雲族でしょうね
朝鮮半島(特に新羅)や大陸とも
非常に関係が深かった >>68
出鱈目というわけではないが、北九州邪馬台国は明らかに他の地域とは別系統。
朝鮮半島から移住してきた一団が住んでおり、周りとは交流してなかったと伺える。
海洋系一族は阿曇氏だけではないが、当時日本中を活発に行き来していたのは、日本各地の遺物で証明されている。
にも関わらず、何故か九州の北部からだけは大陸のものしか出てこない不思議地方。
南九州ではちゃんと日本各地との交易の痕跡が出てくる。
実際には当時北九州よりも南九州の方が、遺跡も多く人口も多かった事が証明されている。
北九州に住み着いた朝鮮人が倭人を勝手に名乗って魏と交流したんだろう。
ウザがられて南九州から攻撃されて滅んだようだしな。 >>Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
>>Answer 大多数の考古学者は大和説です
Q.神様っているの?
Ansewr 存在します
で信じる人きたな・・・ >>72
倭迹迹日百襲媛命は出雲族の大物主と結婚する事で、外戚関係を結んだと思う。 邪馬台国に幻想持ちすぎなんやろ
福岡市程度しか支配してなかった奴国にも金印くれたくらいだし
邪馬台国も戸数やらの数字盛り盛りの可能性だってある >>77
そりゃ元が朝鮮人だから嘘しか言わない
北九州説も魏志倭人伝を捻じ曲げまくってるのは、朝鮮人気質の現れ。 幻想持ちすぎっていうか
何の根拠もないムーな話なのよ
大学に考古学って置くのやめようや >>76
その時期の大和地方の原住民=出雲族
という話@記紀捏造マジック 邪馬台国は中国の朝廷とやり取りしてる
それが日本側の記録に残ってないんだから
大和朝廷とは無関係なのは明らか >>80
そりゃヤマト王権の前は出雲族が日本を〆てたんだし当たり前。
ヤマト王権の前進は南方海洋系一族だろう。
南九州から東に進出していったわけだ。
それが大和で大物主との結婚に暗喩されるように、融和したんだと思うよ。 近畿説は女王に従っていた30ヶ国を書いてくれる
従っていなかった70ヶ国も書いてね >>83
つまり邪馬台国は南九州にあったんですね
分かります >>85
いや邪馬台国は南九州ではなく北九州北岸に住み着いた朝鮮人
神武東征が豊予海峡を船で北上し宇佐で上陸している。
明らかに南九州の海洋系ルート >>81
大和朝廷は記紀書いた時に中国文献読んでて魏志倭人伝も読んでるけど、
邪馬台国や卑弥呼のことを中国文献に名が出ている、程度の認識なのか?
それとも自分たちの伝承でハッキリ分かった上で意図的に記紀に載せてないのか? >>86
邪馬台国は記述から明らかに海洋系ですよ
いわゆる「朝鮮人」ではないでしょう >>83
大和国の勢力は纏向作った東海勢力→出雲や吉備→九州からきた天皇家?
もしかしてナガスネヒコが東海、ニギハヤヒが出雲や吉備系? >>88
邪馬台国が海洋系ならもっと移動範囲は広い。
魏志倭人伝に船で一年とか、大法螺吹いてるのは朝鮮人気質の現れ。
>>87
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守ケ夏、遣吏將送詣京都也。」
明らかに他所の話として載せてるだけ。 >>90
私は邪馬台国=伊勢説なので
まったく矛盾は感じないです 伊勢か・・・奈良よりはるかにありそうだな
四国もちょっと気になるが >>89
大和の勢力をいつ作ったと考えるかにもよるんじゃないか?
国津神大国主命が出雲を起点に本州の広範囲での交流交易関係を築いた時点で
海洋系の少彦名命や大物主も協力している。
少彦名命は途中で仲違いして離脱したようだが。
広域ネットワークが完成した時点で、大物主の一族は大和の三輪山に居を構えているので
日本書紀に出てくるタイミングとしては、これが大和の起点かな。 >>74
残念ながら、科学の世界は多数決ちゃうんやなwwww >>91
いやそういう話でなくて、魏志倭人伝では東の倭種をよくわからないと言ってる。
海洋系なら交流してなきゃおかしいでしょ。 祇園山古墳の主体部がなんも残って無いのがな
何か残ってれば、あるいは、、て気がするんだが >>94
多数決で史実が決まるって、文系脳ヤバイよなw >>95
それは海洋系の定義による
私は刺青や体に朱を塗るという点で
南方海洋系の民俗風習と考えています 3世紀の日本は結構開けてたと思うのでそのうち古墳から証拠出ると思うけどなあ
九州説の方が有力だと思うが奈良も捨てがたい >>90
数字を誇大表現するのは朝鮮人ではなく中国人だよ
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