【古代】異口同音「邪馬台国は畿内」 大阪・弥生文化博物館の新旧館長、講演会★2
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国家の成立過程などについて語り合う大阪府立弥生文化博物館の黒崎直・名誉館長(中央)と禰宜田佳男館長(右)=大阪府和泉市で、花澤茂人撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2019/07/07/20190707oog00m010006000p/9.jpg
大阪府立弥生文化博物館(大阪府和泉市)の館長を3月まで務めた黒崎直名誉館長と、新たに就任した禰宜田(ねぎた)佳男館長が語り合う講演会が先月22日、同館であった。「時代の変革と国家論」をテーマに、弥生時代から律令国家へと移り変わっていく過程について意見を交わした。
禰宜田さんは弥生時代の遺跡から分かる「国家」の成立過程について話した。墳墓ではその規模、副葬品や着装品の有無などから人々に格差が生まれていることが分かり、集落には大型建物など首長の空間が現れることを紹介。終末期の3世紀には、階級社会、多くの人口、中央政府など「初期国家」と呼べる要素がそろい始めることを説明した。
黒崎さんは、7〜8世紀にかけ中央集権的な官僚制や地方支配組織などが整い、古代国家が完成した状況を解説。一方で、3世紀の状況を「未熟国家」と表現し「前方後円墳が各地で造られるなど中央権力があったことは間違いないが、各地の豪族がバラバラに制度を持つような体制だったとすると、初期国家とまでは言えないのでは」と指摘した。
邪馬台国の所在地について問われると、2人は「畿内」と声をそろえた。禰宜田さんは「纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)は重要」と指摘し、「その成立過程に当たる弥生時代中期から後期にかけて畿内の社会がどうだったのか、博物館でも調査研究していかないといけない」と話した。
黒崎さんは2012年からの任期を振り返り、印象的だったこととして3年前の「弥生時代の鉄」をテーマにした展覧会を挙げ「詳しくなかったがその機会に勉強し、非常に面白かった」と笑顔を見せた。同館開館時の学芸員で文化庁でも勤務した禰宜田さんは「弥生時代はこの10年ほどで次々と新しいことが分かっている。この流れの中、新しい切り口で研究を進め、ワクワクするような情報を発信していきたい」と意気込みを語った。【花澤茂人】
毎日新聞 2019年7月6日
https://mainichi.jp/articles/20190706/ddf/012/040/010000c?inb=ra
★1:2019/07/06(土) 22:37:50.10
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1562420270/ いまだに畿内説を信じる人っているんだね
呆れるわw 畿内と思いたいだけなんだろうな。
平安京以前はなんにも無い辺鄙な場所だったのに。 お前ら、まず前スレをよく読んでから書き込めよw
しょうもない煽りで永久ループさせんな馬鹿どもがw 結局魏に行ったのは九州治めてた連中で
本州に一番でかい国あったって話だろ 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳。
法律エッセイとして異例のベストセールスを続けた名著を
手軽に読みやすく。短編×100話なので気軽に読めます。
法窓夜話 私家版
続法窓夜話 私家版
https://twitter.com/0Idm3vd9TYmFDaQ/status/1144182365134061568
(直リンNGのためtwitterが開きます)nrp
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、
卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、
魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、
纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。 もしも邪馬台国が
後漢(25年 - 220年)時代から九州にあった、
魏(220年 - 265年)時代に九州に出来たのならば
それ以降、九州と大陸との交易を担ってきた
晋(265年 - 420年)時代
南北朝時代(439年 - 589年)時代
隋(581年 - 618年)時代の
大陸側の中国・朝鮮の役人や民間人と
九州側の中国・朝鮮からの渡来人にとっては
「邪馬台国は九州にあった」ということは
今のお前たち以上に常識、あたりまえの事だったはずだ
608年に、帰国する大和政権の遣隋使に同行した文林郎裴清に聖徳太子が「ここが魏志の邪馬臺である」っつったって
文林郎裴清は「我々の400年間に及ぶ伝承では、邪馬台国は九州にあると聞かされており、ここでは無い」っつって信じない
なのに「隋」が奈良のことを
【「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である】
と書いているということは
邪馬台国が九州だなんて言っているのは、九州説の変態日本人だけ
ということだ ディベートの訓練で攻守逆にするというのを聞くが一度九州の学者と近畿の学者でやってみてはどうか 三国志の時代にジャップはなにやってたん?
貝とかドングリ拾い食いしてたんやろwwwww >>6
平安京以前とか言ってる時点でお里が知れる(笑) 北九州から近畿に遷都したとすれば両方丸く収まるのに 伊都、那の津、不弥国(恐らく綿津見神社あたり)の領域は古来安曇族の領域。倭人伝は安曇族からの聞き取り資料だから北部九州の情報がやたら詳しく、領域外の投馬国以降はかなり大雑把なんだろうな
九州の先が大雑把なのは隋書も同じ そもそもその時代はまだ日本は統一された国家ではなかった
という前提が意図的に抜け落ちてるってのが答えだな こいつらは邪馬台国を利権にしたとんでもな奴等だ。
歯黒国というのが一番人気。歯を真っ黒にするのは
近畿の習俗だ。
第一、近畿を「倭」に含める記述がどこにあるか? 中国の考古学者は九州説が根強い。
この頃の中国では、距離はあてにならないそうだ。
出典は中国だから、こちらの方が正しいかも。 色々と証拠を見ると畿内でしかあり得ないんだが
日本人のDNAが九州だと叫んでるんだよなあ 畿内説はスカスカやでw
3世紀時代から統一政権だったと主張しとるが、反政府の狗奴国はもちろん、隋書では「秦王国」という海外政権の国が出来とるしw >>10
北九州は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ
大陸に頻繁に使いを送り、また大陸からも使いや軍人が渡ってくるなど、【150年間以上、半島や大陸と活発に交流していた】
が、
邪馬台国が「親魏倭王」に任じられたのは240年であり
邪馬台国が魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していた期間は、
魏が滅亡する265年までのたった40年しか無い
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していない
のは【当然だ】
一緒にすんじゃねぇ >>11
聖徳太子が東遷説を信じていて
九州の邪馬台国が畿内に遷都してきたのだから、ここ畿内は当然邪馬台国であると言ったんだよ
そういわれたら中国人も、そうなんだろうなって納得するわな >>15
もし遷都があったとすると、鏡の分布年代からして卑弥呼より前の時代だという感じ >>20
白髪三千丈の中国だもんな
数字を誇大表示してるだろうと考えるのは当然だと思うわ 箸墓古墳の遺物を放射性炭素測定したら邪馬台国の時代と一致した。 >>27
あぶみが出てきたのでもっと新しい古墳であるという事が確定しているよ 箸墓古墳に埋納されている土器は邪馬台国の時代の庄内式土器だった。 >>10
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ
大陸に頻繁に使いを送り、また大陸からも使いや軍人が渡ってくるなど
【北九州は150年間以上、半島や大陸と活発に交流していた】
が、
奈良の邪馬台国が「親魏倭王」に任じられたのは240年であり
魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど
奈良の邪馬台国が半島や大陸と活発に交流していた期間は、
魏が滅亡する265年までのたった40年
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していない
のは【当然だ】
一緒にすんじゃねぇ 箸墓古墳に隣接する黒塚古墳から魏が邪馬台国に贈った黄幢が出土した。 箸墓古墳に隣接する下池山古墳から邪馬台国が魏に贈った絹製品の倭文が出土した。 >>24
ならば
「邪靡堆」を都としているが、魏志の邪馬臺ではない
と書かれている >>36
そうはならない
ヤマトという国号を使って遷都してるだけだから
魏志の邪馬台であると書いててもおかしくないよ >>12
九州説学者「邪馬台国は畿内にあった」
畿内説学者「せやな」
九州説学者「!?」 2ちゃんでは昔から九州説が根強い
学術的に論じるよりも主流派を批判したいからかねえ
逆張りとでもいうのか 邪馬壹は大和「ヤマト」を聞いた中国人が漢字で書いたもの。ヤマトの国が中心でヤマトが治めていた地域を大ヤマトと言い漢字で大倭と表した。崇神天皇時代まで豪族連合体で揉めた時は天皇の上に祭祀を祀る卑弥呼、トヨが象徴として担がれた。 >>38
それは畿内説学者にディベートの経験がないという恥ずかしい話になるだけだなw 魏志倭人伝の行程を正確にたどると南大東島沖の太平洋にドボン!である。 不思議なメッセージ
や (やおよろず)八百万 出雲
ま (まきむく) 纏向
と (とうかい) 東海
従って九州説は虚構 この流れで間違いないでしょう
倭国大乱
↓
奈良の三輪山ふもとを拠点とした出雲族を中心に西日本統一
↓
中部・西日本の三十か国に卑弥呼が共立され出雲が奈良を差し出し剣などの武器を回収し
荒神谷遺跡へ埋め出雲へ引っ込む。
↓
三輪山のふもとのマキムクに卑弥呼の墓の箸墓古墳が作られる。前方後円墳を邪馬台国の
傘下の印とし三角縁神獣鏡など魏の鏡を傘下国へ配る。
↓
3世紀後半〜4世紀中期に傘下国であった宮崎の西都原古墳群の天皇家が東遷を画策。
大阪を押さえ物部氏が守護をしていた奈良を侵略する。
↓
4世紀に邪馬台国の王の座をゆずり受けた天皇家は東国や朝鮮半島へ進出。埼玉や東北などを傘下に
納め、大阪の堺に巨大古墳を続々築く。
↓
畿内の天皇家の子孫が断絶し福井から継体天皇を迎え枚方に宮が築かれる。
↓
大和(奈良)の中へ再び入り、飛鳥が都となり唐へ遣使し律令制国家へ。 >>42
それは昔の道を、今のアスファルト舗装された道路と同じように考えてるから犯す間違いだよ
魏志倭人伝の行程をたどるとせいぜい西都のあたりだろう 卑弥呼の時代あたりに出現する前方後円墳は九州の円墳と出雲系勢力の方墳の折衷とは昔から言われてるな
畿内に古くからいた物部は大物主を祀る出雲系 魏志倭人伝によると伊都国から奴国までの距離は100里、測定したら短里説が嘘だとバレてしまった。 >>48
短里を信じてる奴は無視しなさい
長里でも九州に収まるのだから >>48
短里説はそのそも倭人伝以外の例がないからね
そこだけなんで使われたのかの根拠もないし >>50
中国人の歴史学者が読むとだいたい九州説になる 邪馬台国の勢力圏は戸数20万戸・人口100万人。九州北部には納まらない。 邪馬台国は場所が特定できないから浪漫があるんで
場所が特定されたら、一気に関心を持たれなくなるぞ
奴国が日本の歴史の始まりで、すでに特定されているんだから
邪馬台国の歴史的な重要度はそれに劣る
古墳から文献でも見つかれば別だけど 前方後円墳はトヨの使者が洛陽で見たとされる、
円丘方丘を合わせた、夏至と冬至の祭りを行う祭壇であり、
司馬炎が266年11月に行った儀式を、
日本で再現したのが始まりである。
トヨが作った祭壇が石塚山古墳、
奴国王が作ったのが那珂八幡古墳である。
前方後円墳が邪馬台国を示し、
初期の前方後円墳で最も大きな箸墓古墳が卑弥呼の墓である
というキンキーのストーリーは完全な戦略ミス。
箸墓古墳は4世紀前期〜中期の祭壇で間違いないだろう。 >>29
それだと記紀との整合性が全く合わない。
邪馬台国畿内説も、邪馬台国東遷説も機器との整合性という点で不可能。
北九州の集団が、魏に挨拶に行って泊を付けただけ。
神武東征の起点である九州南部勢に蹂躙されて消えた泡沫連合。 >>37
いーや
もしも邪馬台国が九州にあったならば
それ以降、九州と大陸との交易を担ってきた
晋(265年 - 420年)時代
南北朝時代(439年 - 589年)時代
隋(581年 - 618年)時代の
大陸側の中国・朝鮮の役人や民間人と
九州側の中国・朝鮮からの渡来人にとっては
「魏志の邪馬臺」はあくまでも九州で奈良では無い
608年に、帰国する大和政権の遣隋使に同行した文林郎裴清に聖徳太子が「ここが魏志の邪馬臺である」っつったって
んな倭人の言うことなど文林郎裴清は
「我々の400年間に及ぶ伝承では、邪馬台国は九州にあると聞かされており、ここでは無い」っつって信じねーよ 奈良県の人に 「高天原はどこですか?」 と尋ねると、「葛城山です」 と答える。 纒向の墓は槨有り墓であり、
北方系の出雲や槨有り墓の吉備の影響が強いものであり、
槨なし棺有りの倭国形式の墓とは様式が異なる。
また、箸墓の堀から建造間もない時期に捨てられたと考えられる発掘状況で馬具が見つかっており、
少なくとも4世紀半ばの建造だと考えられる。 >>60
それはありえない
東遷したのなら、そのことを中国人も知ってるんだよ
九州にあったのが畿内に遷都したんだね
邪馬台国が畿内に移っただけだ
という事を知ってる
聖徳太子が東遷説を知ってて
ここが邪馬台だと言っても、中国人は不思議に思わない >>51
根拠は九州説論者の意地でしょう。歴史的事実ではなく九州であるという意地を通すために
短里説を発案した。 前方後円墳が邪馬台国の影響を示し、
その最古級のもので最も大きな古墳が卑弥呼の墓であるという、
畿内説のストーリーは馬具の出土や槨の出土で完全崩壊している。
まさに墓穴を掘ったのである。 >>59
整合性って
その時代のことは記紀ではほぼわからない状態だし
日本書紀では無理やり一系に系譜つないでしかも引き延ばしたから
神功皇后の時代になってますみたいな適当さだろ 葛城が高天原というのは昔からある説だよ。欠史八代の都が葛城に多く指定されてるから。 古墳には 「槨」 と言うが、九州の埋葬方法は 「甕棺」 である。 畿内は3世紀の倭国には含まれていなかった。
倭国100か国が倭国大乱で北部九州の30か国とそれ以外の70か国に分裂。
魏に朝貢していた北部九州側が魏志倭人伝に記載された。
単純にそーゆーことやろw
■魏志韓伝より
國出鐵韓濊倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡
(国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。
諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は市で通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を使えるほど潤っていた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓鉄の出土状況
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png
■推測されること
・畿内政権は鉄を取りに行っていない
・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
・一大率は畿内への鉄の供給を行わなかった
■結論
・3世紀の北部九州と畿内の関係は希薄だった
・一大率は畿内政権とは無関係だった
・畿内は倭国ではなかった(縄文人?)
■裏付け
纏向遺跡では九州産や半島産の土器は出土していない。
もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」(開き直り)
↑ これおもろいなw よく知らんけど歴史の授業を受けるときに
大抵の子は畿内をイメージしてるわな。
家康が江戸に幕府を作るようなことを
古代の人間がする理由がないべ。 古墳には 「水銀朱」 と言うが、九州で使用されていたのは 「ベンガラ」 である。 >>77
魏志倭人伝では水銀とは書かずに丹と書かれているんだよ 九州の吉野ケ里遺跡は邪馬台国の時代には衰退していた。 >>77
九州の古墳で使われていたのは中国産の水銀朱だぞ。 >>1
奈良は色々あるんだから何もない佐賀に譲ってやれよ 鉄器で武装した九州は、青銅器で武装した畿内に敗北した。 こうやって自分の願望にすがりつく馬鹿たちが進歩の邪魔をするんだよなあ
論争の必要がないほど九州で決まりなのに、あまりにも恥知らずでかわいそうになる >>82
お前の1行レスって、ことごとく論破されてないか? @外交交易の要所伊都国から殆ど大和の土器は見つからない。
A纒向かの外来土器には北部九州の土器は殆ど無い。
B北部九州の弥生は甕棺墓全盛。
C纒向は槨墓の文化圏
D祇園山古墳からは100人規模の殉死が認められる。
E纒向に殉死の例は皆無
F帯方郡から7000里が狗耶韓国ならば、12000里は山門八女
G6世紀に北部九州を支配していたのは山門八女の勢力であり、
福岡の糟屋に屯倉を持っていた構図が一大卒を置いて北部九州を支配していた邪馬台国と重なる。
HE狗奴国の狗古智碑狗はククチ彦=菊池彦であり、
菊池に隣接する山門八女が邪馬台国として狗奴国と争っていた事が地図上に再現できる。
I当時の鉄器の発掘状況から、山門八女vs熊本び戦いが再現できる。
J女王国から1000里海を渡ると倭種の国
K箸墓古墳は出土物から見て4世紀前期〜中期の築造時期。
これらの考古学的発掘成果と
魏志倭人伝の記述から、
邪馬台国は山門八女の範囲である事は覆し難い事実となっている。
跡はそれを認められる脳を有するか否かの問題でしかない。 >>84
畿内説にも頭の固い老害がいるんだよ。
九州説の方はそれが皆亡くなって静かになったけどね。 三角縁神獣鏡を光加速器SPring 8で測定したら中国製だった。 もしも邪馬台国が
後漢(25年 - 220年)時代から九州にあった、
魏(220年 - 265年)時代に九州に出来たのならば
後漢(25年 - 220年)時代の57年に九州が「漢委奴国王」に任じられてから200年以上、九州と大陸の交易を担ってきた
大陸側の中国・朝鮮の役人や民間人と九州側の中国・朝鮮からの渡来人にとっては
それまでの「漢委奴国王」に代わって九州の邪馬台国が、240年に「親魏倭王」になったことは、晴天のヘキレキであり、ビックニュースだ
これまでどおり大陸との九州との交易を続けるために
【新しく「親魏倭王」になった邪馬台国は、九州のここにある】と
邪馬台国までの九州内陸の方位・距離・行程時間は、正確に記述できたはずだ
なのに、全くあてはまらない記述となっているということは
邪馬台国は
後漢(25年 - 220年)時代の57年に九州が「漢委奴国王」に任じられてから200年以上、九州と大陸の交易を担ってきた
大陸側の中国・朝鮮の役人や民間人と九州側の中国・朝鮮からの渡来人が詳しく説明できる九州内陸には存在しなかったということだ >>87
嘘のオンパレード
それにチェリーピッキング 古墳と言えば、怡土の近辺はかなり早い時期に前方後円墳が出現している
畿内との関係が深かったんだろう >>90
ただし年代測定の結果は4世紀だった。
まで書かなきゃね。 国宝の 「海部氏勘注系図」 に卑弥呼の名前が明記されている。 >>67
>>24
ならば
「邪靡堆」を都としているが、魏志の邪馬臺ではない
と書かれている 磐井の乱で明らかなように、
古代の北部九州は、山門八女の支配者が、
北部九州を支配する事ができたのは間違いの無い事実。
何がそれを可能にしたのかが、考古学的に明らかでないので、
それをきちんと明らかにする事が今後の日本の古代史の課題となっている。
邪馬台国論争など、構っているヒマは無いのである。 有名な歴史学者の磯田道史先生に 「邪馬台国の都する処は纏向遺跡ですね」 と言われた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています