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【福岡】伊都国と奴国テーマに論議、邪馬台国の謎に迫る 飯塚で古代史講座 「伊都国の平原遺跡の被葬者が卑弥呼ではないか」
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0001樽悶 ★
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2019/08/05(月) 23:30:20.66ID:/gAVnMcC9
伊都国や奴国がどんな国だったか討論する高島忠平氏(左から2人目)ら
https://www.nishinippon.co.jp/uploads/image/192565/large_IP190803JAA010821000.jpg

 考古学者の高島忠平氏が監修する古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く〜遠賀川の古代文化と邪馬台国」の第2回講演会が3日、飯塚市のイイヅカコミュニティセンターであった。中国の史書「魏志倭人伝」に記述がある北部九州のクニ「伊都国」と「奴国」に関する近年の研究について2人の研究者が講演し、邪馬台国の謎に迫るヒントを探った。

 伊都国について糸島市教育委員会文化課の岡部裕俊課長は、北部九州の軍事掌握や、中国に発送する文書検閲などを担った「一大率」が所在していたという説を紹介。遺跡から中国製の土器や貨幣が出てきたことから、大陸と直接交易をしていた可能性があり「政治的な重要地点だった」と指摘した。

 福岡市埋蔵文化財課の常松幹雄主任文化財主事が、福岡平野を中心とした奴国について紹介。「漢委奴国王」と刻まれた金印が作られたのは57年で、魏志倭人伝に登場する奴国は3世紀ごろだとみられる。2世紀ほどの隔たりがあることから、魏志倭人伝に記された奴国の首長が金印を下賜されたとする解釈は「ふに落ちない」と強調した。

 講演後、2人と高島氏が公開討論。伊都国の平原遺跡の被葬者が卑弥呼ではないかとする高島氏の説に対し、岡部氏は「祭祀(さいし)に関わった特殊な力を持った女性を想定する」、常松氏は「被葬者が男性とする根拠はなく、女性と考える」と応じた。

西日本新聞 2019/8/4 6:00
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/532555/
0002名無しさん@1周年
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2019/08/05(月) 23:38:46.88ID:A4DWnBP90
このスレは伸びる
0004名無しさん@1周年
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2019/08/05(月) 23:44:57.04ID:JsFO0vUV0
九大の新キャンパスが古代都市として甦る超展開に期待
0005名無しさん@1周年
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2019/08/05(月) 23:46:17.30ID:l/Xja/eb0
言った者勝ち
0007名無しさん@1周年
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2019/08/05(月) 23:47:49.81ID:CEVH3zue0
邪馬台国は纒向遺跡でほぼ決着じゃねーの?
今更九州はないわ。
0008名無しさん@1周年
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2019/08/05(月) 23:50:20.83ID:++Ao4HXi0
飯塚といえば、幸三
0009名無しさん@1周年
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2019/08/05(月) 23:52:00.78ID:DcqEyGvQ0
邪馬大国は大宰府でいいよね。政庁跡も地層が複数層あり、水城も想定より地層が複数で古いんだよね。 現在の水城の反対側の小郡あたりにも水城跡があるんだよね。中央政庁の地方の出張所の割にはそれ以上の物が中央から発見されないよね。
0010名無しさん@1周年
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2019/08/05(月) 23:52:31.68ID:pS2sHVpF0
日数と距離から換算して南海の孤島にあったよ
ララ・クロフトも行ってたし間違いないよ
0012名無しさん@1周年
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2019/08/05(月) 23:56:10.07ID:3AJ35il50
伊都国 → 伊都国
奴国 → 奴国
これらは伊都国であり奴国なので邪馬台国にはなりません
0013名無しさん@1周年
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2019/08/05(月) 23:58:44.76ID:lls3+0BP0
こいつらいつも講演してるな
0014名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:00:00.70ID:GGY01BW80
伊都国には2回別々の使者が来てる
すり合わせて中国の史記に間違いがあるとは考えにくいし
直ぐ隣で水行陸行1ヶ月もかからない
みんな大好き魏志倭人伝により
伊都国(糸島市)と奴国(福岡市)は邪馬台国ではない
0015名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:00:58.28ID:R7+6mUC20
だけど、大宰府は日本の政庁ではなかったかもしれないよね。なかったことにしたほうがいいかもね。
0016名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:04:07.08ID:uV0KQdnV0
元々九州王朝と大和王朝が別物ってのには同意するけどね。
筑紫国造磐井はそもそも大和じゃない。
0017名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:04:32.29ID:CK4c/EvL0
博多に一大卒、遠賀川流域一帯が奴国かな
0018名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:10:02.06ID:GGY01BW80
魏志倭人伝
>伊都国に到る。(略)世、王有り。
伊都国には代々王あったよ

新唐書日本伝
>其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、
>至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號
>居筑紫城。
>彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、
>徙治大和州。

其の王、姓は「阿毎」氏、自ら言うところの初主は「天御中主」と号し、
「彦瀲」に至るおよそ三十二世、みな「尊」を以て号と為す。
筑紫城に居れり。
彦瀲の子・神武立ちて、更に「天皇」を以て号と為す。
大和州に徙(うつ)り治む。

筑紫城の王
初代 天御中主 筑紫城
?代 金印もらった漢委奴国王 筑紫城 ←
32代 彦瀲 筑紫城 神武パパ
33代 神武 大和州 初代天皇

これは遣唐使が唐に倭国の成り立ちを説明したものと考えられる
7世紀中ごろの倭人は自らの歴史をそう考えていた
0019名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:12:32.10ID:ykZRzVP80
山ト国=ヤマト国=邪馬台国
山国川流域が邪馬台国で女王の都は東側に海
つまり宇佐
0020名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:14:19.51ID:5cXA0Kop0
孫権が目指した亶州は九州の王朝だという話があるけどどうだろう?
0021名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:17:33.91ID:GGY01BW80
当時の中国人が考えてた東側の海の地図
 ○
○ 対馬

  ○壱岐

     ○奴国(倭国の極南の界 後漢書)



   ○○
   ○○亶州(ときどき漂流者がたどり着く 呉書)



   ○○
   ○○
   ○○
   ○○夷州(衛温と諸葛直が数千人連れ帰る 呉書)
0022名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:17:39.94ID:AceavmH50
ここから出た鏡の多くが二世紀末から三世紀始めの中国鏡と分かってからは
畿内説の研究者ですら邪馬台国は畿内のままにして
この遺跡が卑弥呼の墓だとかいい始めてる。
0023名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:18:27.68ID:W3CR24tf0
>>1

> 常松氏は「被葬者が男性とする根拠はなく、女性と考える」

こいつらのぶっ飛び感覚が酷すぎる
被葬者が男性とする根拠がなければ女性なんだってさw

頭おかC
0024名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:22:39.48ID:mPA62gi10
鏡とか古墳とか物質的なモノが出土する時点で、歴史が浅いんだよ。
ほんまもんは、全く何もない地域に存在した、と考えられる。
0025名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:26:21.22ID:GGY01BW80
遣唐使は魏志倭人伝の時代から
ずっと中国は東の海について勘違いしていたことを説明する

新唐書日本伝 冒頭から途中まで
>日本、古倭奴也。
>去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、
>東西五月行、南北三月行。
>國無城郛、聯木為柵落、以草茨屋。
>左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。
>置本率一人、檢察諸部。

日本は、古(いにし)えの「倭奴」である。
京師を去ること萬四千里、新羅の東南に直(あた)り、海中に在る。
島にして居る。
東西五月行、南北三月行(の広さ)である。
国に城郭無く、木をつらねて柵落と為す。
草を以て屋を茨(おお)えり。
左右の小島五十余、みな自ら国と名付け、これを臣付す。
本率一人を置き、諸部を検察せり。

(略)

彦瀲の子・神武立ちて、更に「天皇」を以て号と為す。
大和州に徙(うつ)り治む。
0026名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:33:52.38ID:3laS+AC70
なんで日向の卑弥呼が糸島で埋葬されんだよ?馬鹿チョンか?
0027名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:34:20.19ID:tr+5g0kh0
邪馬台国本国は宇佐で卑弥呼の墓の上に宇佐神宮が建ってる説あるけど
宇佐で大規模な遺跡が見つかったことあったっけ?
0028名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:37:03.10ID:EyLQ77ic0
ほらほら平原遺跡だと俺は何度も言ってるだろーが
0029名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:38:03.22ID:49+ht53B0
プリウスに跳ねられる系のイベント?
0030名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:42:37.45ID:HGJicEzh0
>>27
宇佐神宮って欽明天皇32年(571年?)に分社して現在の場所になった。
本宮は福岡県飯塚市の大分八幡宮だそうです。
福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現金富神社)の分社としいう説もあり。
なのでどちらの説でも本体は筑豊周辺でそこから分社して作られた神宮。
この時代の神社は兵の駐屯地の意味も有るから。筑豊方面面から豊後地区を
侵略する拠点として作られた可能性が有る。
0031名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:51:26.52ID:W3CR24tf0
>>22
平原の被葬者が卑弥呼と言うのはちょっと早合点だよ。

1.小さすぎる。
卑弥呼の墓は径百余歩だとされており直径130〜150mくらい。
平原遺跡の墓は直径10mくらいしかなくサイズが小さすぎる。

2.殉葬者がいない
卑弥呼の墓には100人の奴婢が殉葬されたとあるが、平原にはそんな形跡がない。

3.大型内行花文鏡の関係性が不明
卑弥呼は百枚の銅鏡を貰ったとあるが
大型内行花文鏡5面については触れられていない。
何が問題なのかと言うと、銅鏡百枚の下りは制詔の中の記述だが
ここは下賜する品物を種類ごとにやたらと正確に書いてある。
大型内行花文鏡5面が下賜されたとすると、他の銅鏡と分けて
明確にわかるように記述しているはずが銅鏡百枚としかない。
同型同サイズの銅鏡百枚が下賜されたと明確にわかる。
大型内行花文鏡を卑弥呼が下賜された鏡とするには、別のソースが要る。
0032名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:56:27.25ID:OyrNLQ+A0
>>31
距離も人数もサイズもだいぶ盛ってて、十分の一にすると正確らしいよ。
村落の戸数は正確。なぜなら潜在的な兵員動員能力に係わるから。
鐘と人を使って資料を編纂するってことは、渡海して制圧する可能性も考慮に入れてるってこと。
0033名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 00:57:51.24ID:tb8GnzE40
発掘調査されてるから結論はででる。
伊都国の平原遺跡の被葬者は卑弥呼ではない。
邪馬台国よりも古い時代の遺跡だよ。
0034名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 01:03:06.73ID:bYA7gV9j0
>>1
伊都国が邪馬台国の都で、奴国は邪馬台国の一部だという珍説の否定だな
当たり前だけど
0035名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 01:06:17.15ID:uV0KQdnV0
その単位の換算を変えたら成立する論なんだけど、なんでその考え方を魏志東夷伝に書かれてる他の国への距離に当てはめて検証してみないんだろ?
0036名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 01:06:19.05ID:jd4bARPo0
>>9
でも太宰府は北(博多湾を上陸してくる外国軍)からの守りはつよいけど、南から攻められると弱いと聞いたことがある。
だから邪馬台国は太宰府の南にあるんじゃね?
0037名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 01:10:22.16ID:bYA7gV9j0
糸島にあった国は伊都国であり、邪馬台国ではない
福岡にあった国は奴国であり、邪馬台国ではない
0038名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 01:15:08.64ID:k5svuF4a0
>>36
その通り。
「やまと(邪馬台)」は、その名の通り、山手のクニが起源。
そこから筑紫平野を支配し、力をつけ、
半島の倭人(弥生人末裔・日本語話者)やら漢の帯方郡と
と話を付け、鉄利権と朝貢利権を手中に収め、
「みなと」勢力から倭国盟主の座を奪う。
(そのお話が、海幸彦・山幸彦)

で、起こりの地を探すと、日田盆地しかないわな。
最盛期は大宰府が政治経済の中心地だったはず。
今の日本に例えると、日田=京都、大宰府=東京
0039名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 01:25:32.49ID:jol/SaLAO
近畿も半島だしこれも半島なんだろ?縄文人もちっと頑張ってくれよ
0040名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 02:06:09.68ID:kjcI5lRY0
俺の推論では卑弥呼は元々は伊都国王だったが狗奴国(熊本県北)との戦争の為に
邪馬台国(筑後地方)に住んで戦争の勝利祈願などをしておりそこで亡くなった
から祇園山古墳に埋められた。跡を継いだ壹與の時代に戦争は終わり壹與は伊都国に
戻り伊都国王になった、平原古墳は大勢の殉葬跡が無いから卑弥呼の墓では無くて
壹與の墓と言う事になる。祇園山古墳も平原古墳も楽浪郡に多く見かける墓と同じ
種類だから卑弥呼は先祖が楽浪郡の漢人かそれとも楽浪郡と交流があったから
向こうの墓を真似たのかどちらかだろう。
0041名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 02:28:03.52ID:GA0jTxno0
祇園山古墳が卑弥呼の墓に妥当なんじゃないの
魏志倭人伝の「棺はあって郭はない」(石室はなく石棺のみ)
「百名余りの殉死者」(祇園山古墳は少なくとも66体)
に該当しそうなのがそれ以外あるんだろうか
だいたい殉死者ある古墳が他にどれだけあるというのか
0042名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 02:33:38.92ID:fLZrPtrC0
卑弥呼なら俺の横で眠ってるよ
0043名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 02:42:21.39ID:3Aa7l2JH0
コレは重要だと思う。
邪馬台国がどことかは結構どうでも良くて、卑弥呼は伊都国にいたと考えることは十分にできる。
0044名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 02:42:44.29ID:GDv4jgT70
>>13
講演というよりプロパガンダ
朝鮮が日本に中国文化を教えたニダ
と同じ
0045名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 02:43:03.21ID:kjcI5lRY0
支那人は1,3,5,7などの奇数を好むし数字を大きくするクセがあるから
例えば邪馬台国は七万戸の家があったと言うのは実数は五〜七までの事
を指している、もしかしたら五万戸よりも少ない可能性もある。
白髪三千丈などの使い方をする国民だからな。
0046名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 02:43:24.59ID:UeBd0Cnk0
飯塚って、宇佐八幡の発祥の地なんだよね
0047名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 03:36:58.30ID:uJ0AiI0i0
細かい話はともかくとして九州北部の地理からするに筑紫平野が居住しやすく奥まった所にあり守りやすく都とするのに適切であったと見るのが自然だろう
0048名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 04:33:33.86ID:ykZRzVP80
>>27
宇佐神宮の本殿が建つ亀山は径百歩
本殿の地下に石棺が埋まっている
宇佐神宮の近くに百人の殉葬者を祀る百体神社がある
宇佐神宮の元宮である大元神社がある身許山の山頂には古神道の太陽を使った祭祀場の磐座がある
卑弥呼の墓である亀山=宇佐神宮は6世紀に秦氏に乗っ取られて八幡宮の総本社となる
宇佐周辺は古墳が300程見つかっている古墳過密地帯で日本最初期の前方後円墳もある
自称神武は秦氏系
道鏡事件のように大和朝廷では宇佐神宮の託宣が最高レベルの威力を持っていたり天皇が即位の度に宇佐神宮に神託したり大和朝廷より権威としては上の立場にあった
他にそのような場所が存在しないということは
つまりそういうことだ
0049名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 05:12:40.80ID:GDv4jgT70
>>48
>自称神武

おいおい、神武は生前「神武」を自称したことは無いんだが
吸収派は頭おかしいのか
0050名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 06:04:22.84ID:NewWQPEj0
平原遺跡から内行花文鏡や珍しい副葬品出てるし卑弥呼と同等の女王がいたに違いない
0051名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 06:41:13.33ID:ykZRzVP80
>>49
東征した神武のモデルになったうちの一人は狗奴国の卑彌弓呼
リアル神武は神武を自称していない
つまりそういうだ
0052名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 06:43:15.68ID:jol/SaLAO
宇佐はあり得なくもないな、垂仁に殺されて鏡を奪われた。
0054名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 07:05:02.45ID:g2bUNxJE0
出雲国などの大国は判明してるんでしょ
倭人伝の言う邪馬台国があったかもすらあやしい
0055名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 07:14:59.69ID:kjcI5lRY0
殉葬者数も百名となっているが、この数字も信用は出来んし、径百歩と言うのも
数字を大きくしていると考えた方が良い。祇園山古墳や平原古墳がちょうど頃合いの
大きさになる。
0056名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 07:17:26.34ID:OksK+m8C0
平原の被葬者は伊都国の歴史のなかでも重要な、後の時代の卑弥呼にも匹敵するきわめて有力な女王でしょうね。その名が記録されていないのは残念です。
倭国大乱、邪馬台国との戦争に伊都国は敗戦し、邪馬台軍がここに進駐してきたのですよ。
千戸と戸数が他の国と比べて一ケタ少ないのは伊都人が大量に殺戮されたか奴国あたりにほとんどが移住させられ
現代の沖縄のように軍事拠点として機能させられていたからでしょう。卑弥呼は肥巫女、肥の国系の女王ですよ。「
0057名無しさん@1周年
垢版 |
2019/08/06(火) 07:46:49.68ID:5nwn4TXr0
邪魔大国は沖縄だよ
こんな島国に大国を築くわけがない
だから沖縄だよ絶対
0058名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 07:52:47.51ID:3Aa7l2JH0
>>22
邪馬台国が近畿の場合は九州から近畿(ささらに関東)までが一つの連合国になるだけ
墓の位置を巻向にする必要なんか最初からそもそもない。

じゃあなぜ卑弥呼の墓と言うかと言うと、国から予算を取るため
0059名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 08:05:21.67ID:tr+5g0kh0
>>56
以前読んだ古代史本では日本神話でいう高天原は北九州で
アマテラスは卑弥呼、狗奴国王の卑弥弓呼はスサノオ。
平原遺跡の女王はイザナミのモデルだ。なんてこと書いてたな。
0060名無しさん@1周年
垢版 |
2019/08/06(火) 08:05:47.57ID:V0hnS/VE0
邪馬台国畿内説で予算を取り
二百回ほど発掘したがめぼしい出土物はなく、
しかし予算を頂いた以上
何らかの結果を出さなければならない。

その結果が桃の種や魚の骨や花粉だ。

流石に結果が出ないまま続けることは
難しくなってくるが、発掘に関わる
人員を切り捨てるのは難しい。

現在は纒向学に名前を変え、これらのあまった人員を
桜井市纒向学研究センターを作って収容している。

ここが僅かに畿内説の名残を残している程度で、
他では畿内説を言及することも無くなり、
基本的に、邪馬台国畿内説は
なかったことになっている。
0061名無しさん@1周年
垢版 |
2019/08/06(火) 08:13:31.95ID:KIq9frOV0
>>1
完全に支離滅裂だな

遺跡から中国製の土器や貨幣が出てきたことから、大陸と直接交易をしていた可能性があり

「漢委奴国王」と刻まれた金印が作られたのは57年


北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ
それから150年間以上、倭の国王として君臨し、大陸との交易を独占してきたんだから

【邪馬台国ではなくても】普通に遺跡から中国製の土器や貨幣が出てきて当然

つまり

北部九州一帯で遺跡から、中国製の土器や貨幣が出てくるのは【邪馬台国の論拠にはならない】
0063名無しさん@1周年
垢版 |
2019/08/06(火) 08:19:06.48ID:NewWQPEj0
>>59
姪っ子のトヨもトヨウケビメのモデルよな
制圧した国の歴史もまるっと頂いてるんだろう
0064名無しさん@1周年
垢版 |
2019/08/06(火) 08:29:08.87ID:KIq9frOV0
九州説は完全に支離滅裂だ

>遺跡から中国製の土器や貨幣が出てきたことから、大陸と直接交易をしていた可能性があり

>「漢委奴国王」と刻まれた金印が作られたのは57年


北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ
それから150年間以上、倭の国王として君臨し、大陸との交易を独占してきたんだから

【邪馬台国ではなくても】普通に遺跡から中国製の土器や貨幣が出てきて当然

つまり

北部九州一帯で遺跡から、中国製の土器や貨幣が出てくるのは【邪馬台国の論拠にはならない】

なのに、それを知っていながら、バカな市民を騙す詐欺師
0065名無しさん@1周年
垢版 |
2019/08/06(火) 08:31:38.56ID:Ywmka4KD0
伊都=糸島
末盧=松浦

という決めつけを考え直す時がそろそろきている。
0066名無しさん@1周年
垢版 |
2019/08/06(火) 08:33:35.31ID:AjB0faIU0
平原遺跡の墳丘墓群は、非常に貴重な墓ゆえに、発掘経験豊富な組織(技師)によって調査されていれば、
様々なことがわかったであろうだけに、かえすがえすも残念
学者や技師などの資格を持たない素人(これはゴッドハンド藤村新一と同じ)が宝探して的な発掘調査を行い
鏡などの副葬品以外にはろくな成果を出せず、まともな報告書も出せなかった
0067名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 08:35:50.68ID:KIq9frOV0
九州説は完全に支離滅裂だ

>遺跡から中国製の土器や貨幣が出てきたことから、大陸と直接交易をしていた可能性があり

>「漢委奴国王」と刻まれた金印が作られたのは57年


北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ
それから150年間以上、倭の国王として君臨し、大陸との交易を独占してきたんだから

【邪馬台国ではなくても】
大陸と直接交易をしていたし、普通に遺跡から中国製の土器や貨幣が出てきて当然
【邪馬台国の論拠にはならない】

なのに

大陸と直接交易をしていた可能性や、遺跡から中国製の土器や貨幣が出てきたことを【邪馬台国の論拠】にし

バカな市民を騙す詐欺師
0068名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 08:40:56.59ID:R4dx9Lcu0
>>60 纒向学研究センターはいろんなとこに協力してもらってる

国立民族博物館がJCal(C14日本版較正曲線)を用いて
桃の種の年代を測定した結果215〜255年

同様に土器を測定して
庄内3式は200〜240年
布留0式は240〜260年
布留1式は260〜330年として
布留0式がでた大型建物は240〜260年とした
魏志倭人伝の卑弥呼の時代と合う
0069名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 08:48:52.05ID:H5XPrknn0
肥前風土記によると、当時は土蜘蛛のうち3割くらいが女酋長の村だったらしい
つまり、どこもかしこも巫女の女王だらけ
0070名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 08:49:31.28ID:AjB0faIU0
>>68
予算が具体的にどういう根拠で誰が誰に出している金かも説明できない(つまり発掘調査がどのような手順で行われるのかの知識もない)
知識が浅いお爺さんにまともなことを言っても無駄だよ(以前に問うたことがあるが彼は何一つ説明できなかった)
どうせ無茶苦茶な難癖をつけてくるだけ
こういうスレでは、もうまともな九州説論者はいない
自説を押しつけることと、罵倒することが最終目的だからね
0071名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 08:50:08.30ID:KIq9frOV0
九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ
それから150年間以上、倭の国王として君臨し、大陸との交易を独占してきたんだから

【邪馬台国ではなくても】

大陸と直接交易をしていたし、
普通に遺跡から中国製の土器や貨幣が出てくるし
吉野ヶ里のような集落があるし
渡来人が来ていた痕跡もバカスカあるのは、当然

【それらは邪馬台国の論拠にはならない】

つまり、九州説には、邪馬台国の論拠がなにもないのだ

だから

国立歴史民俗博物館

Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?

Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c
0072名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 08:51:26.92ID:H5XPrknn0
>>61
少なくとも紀元前後くらいは北部九州に中身があったようだ
その後、銅鏡の分布が九州から畿内中心に遷移するからなぜか中心部が移動したようだが
0073名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 08:52:12.39ID:oBWKdGnN0
異論極論あってもいいと思うが
ただ難癖付けてるだけのコピペ張りまくってるキチガイは両論とも排除すべき
0074名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 08:53:35.20ID:R4dx9Lcu0
たしかに昭和52年の段階では教育委員会を主体にしたものだったが
40年で180回の発掘をやってるぞ
発掘作業については問題ないだろ
それを素人扱いしてるそっちの方が暴論言ってるって
0075名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 08:53:54.81ID:un7RZFnj0
>>37
糸島にあった国は伊都国であり、邪馬台国ではない
福岡にあった国は奴国であり、邪馬台国ではない
邪馬台国は伊都国、奴国(女王国)を中心とした北部九州の小国の連合体である。
0076名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 08:55:22.01ID:un7RZFnj0
>>65
伊都国は糸島市の南東部
末盧国は松浦市及び糸島市西部
である。
0077名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:09:01.92ID:R4dx9Lcu0
国立民族博物館は95%この範囲におさまると言っているから
統計学を使ってだしたと思われる
95%信頼区間て義務教育で習っただろ

つまり間違ってる可能性は5%てことだが
箱根のスギや長野のヒノキで出したJcalだけどまだブレがあって
統計学で補正したんだろう

その程度のものだからまだ信頼できるとはいえないが
間違ってるというのもやはり根拠が足りない
0078名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:10:27.40ID:KIq9frOV0
>>72
たとえばだ

ホワイト国合戦で、日本との貿易が、朝鮮から台湾に移る
それは朝鮮の中心が台湾に移るのか?
だから朝鮮は無くなるか?

つまり

大陸との貿易が
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた九州王権から
240年に「親魏倭王」に任じられた畿内王権に移ったからといって

九州王権の中心が九州から畿内に移るわけでもなく
九州王権が無くなるわけでも無い

神武の東征にしても、神武は九州王権の第4皇子であり【九州王権の王では無い】

神武が大和に移り天皇を名乗り住んでも
九州には、九州王権の王である、山幸彦の息子の彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)「ウガヤフキアエズ」が座しており

九州王権が畿内に移ったわけでは無い
0079名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:28:11.62ID:tb8GnzE40
>>72
北部九州の王都は伊都国だったが
奴国の奴国王が金印を授かったことにより、奴国王の地位が伊都国王よりも偉くなっちゃったわけ。

奴国王は近所の伊都国王と争うよりは
畿内に遷都してそこを首都にすることを選んだ
0080名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:29:15.28ID:KIq9frOV0
アマテラスが、国譲りをさせた出雲にしても

大国主が、最後の出雲の王ではなく、大国主の後も9代、出雲の王は続いている
0081名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:29:53.18ID:un7RZFnj0
>>78
古墳時代に北部九州地域から日本列島全体に現代日本人が広がった事がDNAの研究で判明して来ている
神武東征もこの流れの一つ。
0082名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:30:26.55ID:tb8GnzE40
九州王の年表

(紀元前2世紀) 奴国の吉武高木遺跡
(紀元前2〜1世紀) 奴国の須玖岡本遺跡  
(紀元前1世紀の王・王妃墓) 伊都国の三雲南小路遺跡
(紀元1〜2世紀の王墓)伊都国の井原鑓溝遺跡 ←遺跡調査によってこの頃に漢鏡流通の核としての機能が停止(首都機能の喪失)したことが判明
(紀元2〜3世紀の女王墓)伊都国の平原遺跡 ← 遺跡調査によって平原遺跡の衰退時期であることが判明(魏志倭人伝によると邪馬台国の一大率に支配されていた時期)

※『日本書紀』によると4世紀頃、伊都国の王は仲哀天皇の完全な家来になった。 ←伊都国の九州王家滅亡
0083名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:32:27.63ID:tb8GnzE40
>>81
ウソつくな
科学的な遺伝子解析は終わってる

日本人が朝鮮半島で爆発的に増えた形跡はあるけど
朝鮮人が日本列島で爆発的に増えた形跡はない
0084名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:32:45.26ID:un7RZFnj0
>>79
金印を授かったのは倭奴国
倭奴国⊃伊都国で
倭奴国の王宮がある地区が伊都国、庶民の暮らす地区が奴国。
0085名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:34:10.13ID:ivUmdViO0
まともな頭ならば、邪馬台国は九州だよ。
なんで近畿がしゃしゃり出るんだw
0086名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:35:34.78ID:tb8GnzE40
>>84
根拠は?
奴国は福岡が定説だが
0087名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:35:40.25ID:H5XPrknn0
北部九州の勢力は弥生中期から半島南部に根拠地を持っていた痕跡がある。
弥生末期には戦乱で乱れた中国から逃れた多くの人たちを北部九州経由で手引きしたのだろう
三国から五胡十六国あたりの中国は春秋戦国並みのカオスだったようだし
0088名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:36:55.22ID:KIq9frOV0
神武が大和に移り天皇を名乗り移り住んだあとにも、九州に座していた
山幸彦の息子の彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)「ウガヤフキアエズ」からの九州王権の王



アマテラスが、国譲りをさせたあとにも9代続いた
大国主からの出雲の王も

ヤマトタケルの西征で、討伐されたのだ
0089名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:36:55.81ID:ivUmdViO0
最後の氷河期が終わってから
朝鮮半島は4000年間無人地帯だった。

そして今から6500年前に北の豆満(tomam)江方向から
沿海州の縄文人が無人の朝鮮半島に南下した。
今から6000年前、対馬から東三洞・釜山周辺に
縄文人が無人の朝鮮半島に住み着いた。

北や南からの縄文人の定住は、ほぼ同時期だと思う。
それぞれ海岸沿い、川沿いに定住地を広げて
朝鮮半島全土に広がった。
日本列島も朝鮮半島も縄文人の土地だった。
0090名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:37:54.61ID:ivUmdViO0
>>89 つづき
今から2800年前に、西の中国方向から来た
縄文人とは異なる人種集団が
渤海岸沿いに、朝鮮半島を南下した。
その後500年間で朝鮮半島の縄文人は居なくなった。
人種の交代が起きた。
箕子(きし)朝鮮・衛満(えいまん)朝鮮だ。
0091名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:38:05.94ID:H5XPrknn0
>>79
筑前風土記では伊都と神功皇后が同族ということが示唆されている
前方後円墳の発生が早いことを考えると、北部九州は畿内となんらかの繋がりがあった可能性が高いかな
0092名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:38:35.13ID:ivUmdViO0
>>90 つづき
その後、今から2300年前に、海を渡って
弥生人と呼ばれる集団が、
縄文の九州北部に上陸した…弥生時代の始まりだ。

彼らは九州北部に上陸し瀬戸内海を東進して
近畿地方に侵入した。
当時の大阪は「おおしこうち」と呼ばれる湾で
奈良盆地は「やまと」という湖だった。

当地の地名研究家によると大和の地名は
縄文時代の奈良旧湖の湖岸沿いに、
大字大和、字大和というように
環状に点在しているそうだ。
そりゃそうだ、湖の真ん中に地名はできない。
0093名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:38:43.80ID:un7RZFnj0
>>86
奴国は福岡市周辺だよ
伊都国は糸島市西部。
0094名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:39:35.68ID:KIq9frOV0
>>81
神武が大和に移り天皇を名乗り移り住んだあとにも、九州に座していた
山幸彦の息子の彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)「ウガヤフキアエズ」からの九州王権の王



アマテラスが、国譲りをさせたあとにも9代続いた
大国主からの出雲の王も

ヤマトタケルの西征で、大和王権に討伐されたのだ
0095名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:40:10.16ID:90hSLciF0
平原は腕輪とか耳飾りが出土してるから女性であることは間違いないね。
邪馬台国に埋葬するとは限らないし。
0096名無しさん@1周年
垢版 |
2019/08/06(火) 09:40:32.99ID:H5XPrknn0
伊都は吉備真備が怡土城を築いたように、古来から大陸との玄関口
対馬の金田城などと同様城としてはあまり活用されなかったようだが
0097名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:40:51.18ID:un7RZFnj0
>>91
日向峠付近から神武は東征に出発してるから
天皇家は元々北部九州出身なんだ。
0098名無しさん@1周年
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2019/08/06(火) 09:41:30.44ID:tb8GnzE40
年表

〜57年 伊都国王の時代(平原遺跡)

新王朝スタート
57年 金印「漢委奴国王」を授かったことにより、奴国王の地位が伊都国王よりも上になった。
57年 奴国王が初代天皇(神武天皇)に即位
57年 神武天皇の兄が新羅王に即位
※漢委奴国王(神武天皇)が畿内に遷都
107年 倭国王帥升等(第6代・孝安天皇)が後漢に朝貢
177年 第10代・崇神天皇が即位
181年 ニュージーランドのタウポ大噴火
181年 崇神5年、疾病の流行。『崇神紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ」
181年  『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
181〜184年 倭国大乱
181〜184年 タウポ大噴火による大飢饉や疾病の流行などの影響で崇神天皇の権威消失
184年 黄巾の乱が勃発し、漢が衰退した。漢から授かった金印の権威消失
王朝終了

新王朝スタート
184年頃 祈祷の力で倭国を大飢饉から救った卑弥呼が女王になった。
※銅鐸文化の廃止
0099名無しさん@1周年
垢版 |
2019/08/06(火) 09:46:25.96ID:tb8GnzE40
>>97
神武天皇の兄の脱解尼師今は丹波国(京都)の出身であることを考慮すると
神武天皇も畿内出身だと思うよ。
神武天皇は福岡で即位したけど、出自は畿内。

証拠
・日本で編纂された『新撰姓氏録』には神武天皇の兄は、新羅王の祖であると書かれている。
・『新羅本記』によると西暦57年、倭人の脱解尼師今が新羅王に即位した。
・『後漢書』によると西暦57年、倭奴国王が金印を授かった。
※西暦57年、金印を授かった神武が初代天皇になり、金印の威光によって神武の兄が新羅王に即位したと考えられる。

『新羅本紀』によれば、
新羅には朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がある。
昔氏の始祖が、西暦57年に新羅王に即位した倭人の脱解尼師今である。

脱解尼師今は丹波国(京都)の出身だが
神武天皇は丹波国(京都)に近い奈良県橿原市に都を造った。
0100名無しさん@1周年
垢版 |
2019/08/06(火) 09:48:21.89ID:KIq9frOV0
>>98
すまんな

伊都国は糸島なんてちっさいところではなく

出雲だ

古の
東出雲王国(松江市)が末廬国で
西出雲王国(出雲市)が伊都国だ
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