【歴史】日本列島は紀元前から文字使用か。「すずり」と判断される石の発掘が九州北部を中心に相次ぐ
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https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190810/k10012031231000.html
日本列島で文字が使われ始めた時期が大きくさかのぼるかもしれません。弥生時代や古墳時代の遺跡から発掘された石が調査の結果、
「すずり」と判断される事例が九州北部を中心に相次ぎ、調査に当たった専門家は、紀元前100年ごろから文字が使われていた可能性があると指摘しています。
調査は、弥生時代や古墳時代の遺跡で過去に発掘された石などを対象に、福岡県内の複数の考古学研究者が進めています。
刃物などを研ぐ「砥石(といし)」と判断されていた石などを詳しく調べ直した結果、これまでにおよそ130点が「すずり」と判断されました。
ほぼ同じ時代の中国や朝鮮半島の遺跡から見つかったすずりと形が似ていることに加え、石のすり減り方が砥石と異なるほか、
一部には墨とみられる黒い付着物が付いていたことなどから、「すずり」と判断したということです。
調査に当たっている弥生時代の専門家で、國學院大学の柳田康雄客員教授によりますと、「すずり」と判断した石は、
九州北部を中心に西日本の各地に分布し、このうちの5点は弥生時代中期の紀元前100年ごろまでさかのぼるということです。
日本列島では古墳時代中期の5世紀ごろには、確実に文字が使われ始め、それより前は土器に書かれた墨書など、
文字の可能性を示す資料が見つかっているものの、普及の実態はよく分かっていません。
柳田さんは九州北部では紀元前からすずりを使って文字を書いていた可能性があるとして、「弥生時代は原始時代ではなく、
文字を持った高度な文化や文明があったと言ってもいい」と指摘しています。
なぜ「すずり」と判断?
研究者たちが参考にしたのは、中国の漢の時代に使われていた板状の「すずり」です。
このうち、朝鮮半島で見つかったすずりの復元模型は、漆塗りの豪華な台の上に平たい石が置かれ、この上で水を含ませながら粒状の墨を
すりつぶしたと考えられています。
研究者たちは、こうした形状のすずりが北部九州などにもあるのではないかと考え、発掘調査の報告書に「砥石」と記されている平らで
細長い形をした石の再調査を進めてきました。
細かい観察や実測を行って、形のほかにも砥石とは異なり、表面の中央部分だけがくぼんでいることや、表面から垂れたと思われる
墨のようなものが側面に付着していることなど、すずりと判断できる特徴を見つけてきたということです。
確実な文字の使用は5世紀
日本列島では飛鳥時代以降、官僚機構や法律が整備され、行政に文書が欠かせなくなったことなどから文字の普及が進みました。
文字が確実に使用されていたことを示す資料は、これより前の古墳時代にさかのぼります。
例えば埼玉県の稲荷山古墳で見つかった古墳時代中期、5世紀のものとみられる鉄剣には115文字が刻まれ、この時期には文章として
文字が使われていたことが分かります。
それ以前にも外交の際などに文字が使われていたと考えられていますが、出土した資料が文字かどうかを判断することは難しくなります。
三重県で出土した4世紀の土器の「田」と読める墨書や、長野県で出土した3世紀の土器に刻まれた「大」と読める文字資料などがありますが、
1文字だけの場合が多く、何が書かれているのか、何のために書かれたのか、明確になっていないのが現状です。
また、福岡市の志賀島で見つかったとされる国宝の金印には、「漢委奴国王」という5つの文字が彫り込まれていますが、
西暦57年に中国の「後漢」から与えられたする考えが有力です。
外交や交易に利用か
日本列島でも弥生時代からすずりが普及し、文字が書かれていたとすれば、何のために使われていたのか。
調査を進める1人、福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは、外交のほか交易に使われていたと想定しています。
久住さんは古墳時代の石の破片6点をすずりと判断した福岡市の「西新町遺跡」に注目しています。
この遺跡は古墳時代には多くの渡来人が訪れ、朝鮮半島や日本列島の各地と行き来する交易の拠点と考えられています。
また、すずりと判断された石が出土した遺跡の多くは海や川に面し、港の機能があったと考えられることから、久住さんはこうした場所では
交易のために文字が使われていたと見ています。
久住さんは「長距離を結ぶ交易のネットワークに関わる人たちが、交易の記録や品物の名前や数などを書き留めて記録することに
文字を使っていたと考えられる」と話していました。 >>556
みんなグルで、マスコミが介入しないと自浄作用が働かない腐った業界だよ。
自然にできた貝層を貝塚と言ったり、だだの地滑りを採掘ズリと言ったり。一般市民を喜ばせて、お金が動いて自分が目立てればそれでいいんだよ。 >>564
食えないから過剰宣伝される
世界遺産なんかも過剰宣伝が成功したものから認定されてよいものなのか >>561
太安万侶には読めない書物もあったと思われるけど、稗田阿礼には読めるけど
それはどんなもじなんだろうか? 硯だと判断した石は墨すれないだろうね
墨をする面が不均衡で墨がこぼれてしまう >>566
現代の人間が古文書みても大半の人間は、読めない
一部の人間が読めるか読めないかと文字が別系統かはあまり関係ない
漢字のあてかたにも一貫性があったわけではないし
一貫性があったわけでないのだから史書を書くために文字が輸入されたのでなく交易などで使われた考える方が適当じゃないの 鏡が大量に創れたのに硯が造れないとは思えない
問題は、目的通り使えたか
交易は、間違いなくしてるだろうしな >>549
無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字 (隋書倭国伝)
文字はなく、ただ木を刻んだり、縄を結んで文字代わりにしていた。仏法を敬い、百済に仏典を求めて手に入れ、
始めて文字を有した
百済から仏教の経典を入手するまで文字を知らなかったとある
九州では>>1の通りもっと前から文字に触れ使用しているので、畿内と九州は別勢力だったと分かる わざわざ硯を作らなくても煤とか木炭で書けたのでは? >>570
問題は、隋がどんだけ倭を知って書いたのかよくわからないってこと
それを完全な答えと思いこむのは極端 >>568
もし稗田阿礼が読めたのが漢字の古体字だったとして、それなら太安万侶の存在意義はなくなる。
古体字の漢字が読めるけどその時点の漢字は書けないという事は考えにくいので 渡来人は行き来してるんだから
硯くらいはあるやろうな
むしろ全然普及しなかったんだなって >>574
国家プロジェクトなんだから学者と官僚の差でしょ >>3
だって漢字じゃない文字なんてダッサーい!と廃れていたのを日本人が復活させてやったんだぜw >>574
記号的にもの書くのと文書残すって全然意味が違うからね
言語表せるようになるのに相当時間かかると思うよ >>531
ギリシャの記録じゃないとわからないインドっちゅう国があってな >>565
文化財行政予算でそこそこ喰えてるでしょう。それにほら吹いてるのは大学や行政の人で喰うに困らない連中だから。
村社会で批判精神がないからホラを吹いた者勝ちになってしまう風土がいけないと思うよ。予算消化しなきゃいけない文化庁が不正を後押ししている所があるよね。 >>578
普通は現代文書くのと古文書読むのでは後者の方が難易度高いと考えるけどなあ >>571
最低限ならそうだろうけど大陸から便利アイテムあるよ〜って最新スマホ見せつけられりみたいに売りつけられたとりあえず何個か買うだろ >>571
硯は直接的には字を使った事でなく、固形の墨がすでに使われた事を意味してますよね。墨が輸入品だったか、すでに日本で作っていたのかですけど。 それほど史料価値は認められてないが面白い発見とかあるんじゃないのかね
学生時代稲作伝来についてかじったことあったけど当時はまだ稲作伝来は弥生の頃て意見が強かった
今や縄文時代からやってたという認識になってるみたいだし歴史は上書きされる >>581
そうかね
例えば文字を持たないアイヌやポリネシアの人間なんかが、交易に関わる人間が、他国の文字を習得しても自国の言葉を文書かしようとはなかなか思わないんじゃないか そもそも春秋戦国で大陸叩き出された楚や呉や越の人らが大量に日本に来てるんだからそうなるわ >>526
その説面白いな
入墨しまくってたからな >>585
いやだから古事記の元になった古文書はどんな文字で書かれてたのかって話
万葉仮名に直すのがものすごい苦労してるから、大和言葉で書いてたと思うけど ●「日本人とユダヤ人の先祖は同じである」という説を日ユ同祖論という。これを最初に言い出したのは、日本人でもユダヤ人でもなく、スコットランド人のノーマン・マクラウドという人物が言い出した説である。
このノーマン・マクラウドなる人物のことはよくわからない。一説にはイギリスでは売買を商っており、日本や韓国では宣教師として活動ながら「イスラエルの失われた十支族」を探していたという。
マクラウドが日ユ同祖論を展開したのは、イギリスに元々あった「イギリス・ユダヤ人同祖論」を日本とユダヤに当てはめたものであるらしい。
内容は、日本の天皇、宮家、公家の儀式とユダヤ教の儀式が似ているからというものであった。
ちなみにアメリカの黒人は「イスラエルの失われた十支族」である説 。
ネイティブアメリカンは「イスラエルの失われた十支族」である説。
韓国人は「イスラエルの失われた十支族」などなど世界中にあるらしく、特にめずらしいものではないようだ。
日本の場合、ノーマン・マクラウドの講演を聞いた日本のキリスト教指導者数人が、明治から昭和初期にマクラウドの説をさらに解釈を加えて日ユ同祖論を作っていったらしい。
なぜか?
明治〜戦前の日本はまだまだ二等国だと思っており、なんとか一等国に欧米のキリスト教国に思ってほしかったのである。そして日本は偉大な国であり、神の国であると日ユ同祖論者は口をそろえる。
例えば、「日本は神の国である。ゆえに蒙古襲来の神風から日清日露戦争にいたるまで負け知らずであったのは、我々日本人がユダヤ人と同じく神に選ばれた民だからだ」
とか、「旧約聖書に数か所「日の出る所から、その沈む所まで」という聖句があるが、この中の「日の出る所」とは地球の中央であるエルサレムから一番東にある「日いずる国」である日本のことだ」
とか、『日本は神に選ばれた国であり、日本民族は神に選ばれた民族である』といういわゆる神国ニッポンの皇国イデオロギーと同じなのである。 ●ユダヤ人は日本人のことをどう見ているのか?
ユダア人研究でも有名な神戸女子学院大学の内田樹教授によると『エンサイクロペディア・ジュダイカ』という、全26巻におよぶ英語で書かれた百科事典がある。
『エンサイクロペディア・ジュダイカ』は文字通り『ユダヤ人の百科事典』という意味で、その厖大な百科事典に、日本についてのことがどれくらい記されているかというと、0.009%、ページ数にしてわずかに2ページ程度であるという。
日ユ同祖論に熱心な日本人には申し訳ないが、イスラエルを含む英語圏のユダヤ人は、日本や日本人にほとんど、あるいは実質この程度しか関心がない。
Wikipediaによると、一時滞在も含めて日本に住んでいるイスラエル国籍者は802名(2005年末)であるそうな。
ユダヤ系アメリカ人など他国のユダヤ人を含めると2000人ほどいるらしいが、極めて少ないといっていいだろう 。
よって日本にユダヤ教のシナゴーグ(集会所)もほんの数か所しかなく、そして開国してからあまりユダヤ人は日本に住みつかず、
もっといえば第二次世界大戦前に日本に横浜や神戸、長崎にあったユダヤ人コミュニティーも、戦後になるとみんなアメリカに移住しちゃってなくなってしまうありさま。
どうやらほとんどのユダヤ人にとって、日本については関心もなく、また世界のあらゆるところに移り住んだユダヤ人だけど日本はあまり魅力的ではないのかも知れない。 ◎日ユ同祖論の年代矛盾。
ダビデの星がユダヤの象徴になったのは十七世紀から(イエズス会製)。
伊勢神宮のダビデの星がある石灯籠の設置は戦後。
ユダヤ・カバラで生命の樹理論の元型ができたのは12世紀(盲人イサク)から。
クリスチャン・カバラ(生命の木中心)は15世紀にピコが創始。
◎日ユ同祖論の方位矛盾。
メルカトル図法は方位が不正確。
方位が正確な正距方位図法ではイスラエルの東北の果てが日本であり、東の果てならニューギニア島あたり。
聖書が根拠の失われた十支族に考古学的証拠なし。
イスラエル中心の正距方位図↓
http://ronbarak.tumblr.com/post/39738833512/online-map-creation-using-azimuthal-equidistant
◎日ユ同祖論は縦書きの漢字とヘブライ語(横書き)の子音表記を無視。
公にしない支配者層の文章ですら漢字と漢字の変形(仮名)。
漢字否定の為に神代文字を捏造。
ヘブライ語は子音表記で母音記号(ニクダー)がないと正しい読みは不明。
都合よく読めばどんな言語とでも同祖論を作れる。
◎日ユ同祖論は仏教と道教を無視。
本地垂迹説(神の正体は仏)で神の実体を否定する仏教が国教(寺が神社を管理)。
天皇も側近も仏教徒。
日本語に仏教用語は多いが神道用語は少数。祇園は仏教用語 。
昔の神道=和風道教。神道・神器・天皇は道教用語。
天皇は道教最高神・天皇大帝(北極星)の略。
◎日ユ同祖論はユダヤ教の最重要教義を無視。
神道は多神教で安息日がなく(十戒=最重要事項違反)、
バルミツバ(13歳でする成人式)もない。
祇園は仏教用語。シオン祭というユダヤ教の祭りは存在しない。 RiekoPiano@RiekoPiano • 7月23日
ユダヤ教徒の妻ですがシオン祭などというのは見た事も聞いた事もないですね。日本独自の都市伝説です。そもそも7月1日がロシュハシュナでシオン祭の初日という記事もありましたが今年のロシュハシュナは9月24日から26日です。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月23日
ネタとしては青森のキリストの墓と同じで面白いなあとは思うのですが(笑)、世界のどこにいても伝統行事を大切にしているユダヤ教徒に話したら「なんじゃそりゃ」と笑ってました。ユダヤ教の行事カレンダーも7月は空白です。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
何度も言いますがシオン祭と言うもの自体が存在しないのです。ユダヤ人は古代の行事伝統をすべて大事に今でも行っている民族ですがそのユダヤ人たちの間でこのような祭りが存在しないのです。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
シオン祭で検索してみてください。祇園祭に関連する記事以外何も出てきません。本当に存在する、あるいは存在したものなら、たとえユダヤ教やユダヤ人の文化の記事として必ず英語か日本語でみつかります。それが何もないのです。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
ユダヤ人たちは、世界のどこにいても、その多くが子供の時からヘブライ語を学び、自分たちの民族の歴史や伝統をしっかりと教え込まれます。そのための学校も必ずあります。その彼らが「シオン祭?何それ?そんなもんないよ」と言っているのです。
RiekoPiano@RiekoPiano • 9月5日
それで、伝統をこの上なく大事にして何千年も多くの行事を続けているユダヤ人たちが知らないシオンの祭典って何ですか?
ユダヤ人の祭り
http://www5f.biglobe.ne.jp/~jesus/NT-intro_festivals.htm
ユダヤ教 ━ ユダヤのお祭り
http://myrtos.co.jp/info/judaism03.php 文字刻んだ弥生式土器でも発掘されない限り、
硯とおぼしき石片だけじゃ文字の使用は推測でしかない >>588
古事記のもとになった古文書なんてあるの?
口伝を纏めたって聞いてたけど >>596
主力は、口伝でもメモ書きなどは、あったと思われるけどね >>596
音読したと書いてあるみたいだよ
要するに読んだってことだろうと思う。
日本書紀には一書に曰くというのが何種類もでてくる。
少なくとも古文書が多数存在してたと思われる。 >>598
古文書が漢字なら太安万侶でも読めそうなもんだから、漢字じゃなかったんじゃないかなと思うのだが >>599
漢字でも古い言葉づかいや方言は、誰でも読み取れるとは思えないけど 日本書紀:日本武尊(やまとたけるのみこと)
古事記 :倭建命(やまとたけるのみこと) >>602
ヤマトタケルて日本語(大和言葉)に漢字当てただけだから、
どちらでもいい 日本語表記が定まっていない時代、またはそんなものが無い時代に神話伝承に適当に漢字音を当てはめた、とか漢文に仕立ててみたとして、それらの文章はもとの日本語神話伝承を知っている人にしか読めない。 >>47
>倭人伝には文字がなかったと書かれてある
三国志・魏書・第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条 には、そう書いてあるが、
旧唐書には、縄を結んで、字としたと書いてある。『刻木結縄』 まあ倭人伝で倭国全体の調査をしているはずがないから硯かどうかまで深く考えても仕方ないと思うが
入墨では?って意見もあるし画材の可能性ちか文字に拘るとずれると思うよ
別にしるしや模様に使ってもおかしくないから
硯=文字、文書ってのが極端じゃないか >>604
>とか漢文に仕立ててみたとして、それらの文章はもとの日本語神話伝承を知っている人にしか読めない。
物部氏が、神話の口頭伝承をしていると言うことは、大和地方の豪族の中で、神武東遷で、唯一の生き
残りであって、大和の豪族の連合を裏切って神武と密通して、手引していたのだから、行き晒した別部族
が、各々の口頭伝承をしており、中には、戦争捕虜として、焚書坑儒的な扱いを受けたと考えられる。が、
各神社が、白村江の戦い後の8年目に日本列島に3000名の兵士を従えて、捕虜になった倭軍総大将
の筑紫の君サチヤマ薩野馬
>對馬國司、遣使於筑紫大宰府、言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、
>從唐來曰『唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻、倶泊於
>比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意。』」
が、進駐して来た為に、大きな変革が起こった。
この際に、倭の神社は、すべてが、新羅系の神社と置き換わった。つまり、明治神宮等のイギリスの東
インド会社の極東支店であった ジャージー・マセソングループが創作したと言われるが、長州系神社とは
別に、元来は、大変に古い宇佐神宮、伊勢神宮、出雲がすべて、倭人から新羅系の神官を置くことになった。
GHQ 進駐後に、松平という、江戸時代の徳川型の神官が長州系の靖国神社の神官として、神社本庁
から出向しているが、これと同じことが、白村江の戦いの後に起こった。 日本人らしい史観主義台頭が出てきているという事が本当に怖い
まず文明の最果てとも言える土地に何が起きますか?
起きません。
これはスズリと言うより催事の部品と認識しなさい。
まずは日本の文化を知りなさい。
全てを憶測で行わず史観を持たずに生きなさい。
どこの僻地で文明が花咲ます?
ありえない事を夢で追うのは恥です。
日本人らしく生きていくのが全てです。
日本人は周りから知恵をもらった事を忘れた民族だからかりささにた
全ての時間を考え当たり前の生き方をしっかり行う事を本当に希望します。日本は死ねば全てを解決しますが私は慈悲があります。
なので本当に怖い。
日本人は無知なので >>608よ
それは本当の事を日本人に言うのは酷い事である。
なぜなら日本人とは1900年まで戦争しかできない野蛮民族なのだから
私のおじいさんのおじいさんは刀を自慢していたしおばあさんの家は男を産む事だけが人生である。
そして1900年後はアメリカに負けた国である事を私は知っている。
日本人は教えられ教えられ敵を求めるといのは私が生きてきた中で知る事だ
日本人は本当に大変です
私も本当に大変でした。
日本人とはそのように猿である事で本当に有名ですから。
日本人ですみませんと言葉がよく聞かれます。 上のコメントはよく理解できます。
私は日本人の67歳です。
私は東北ですが、私が幼い頃に字を読める人は極少ない数でした。
私の周りが字を知ったのは1970年代と認識しています。
東北はそれでも知識人がいましたが九州とかは、言葉がなかなか通じないのが1980年代まであったとよく聞きます。
沖縄はまだ通じないとよく聞きます。 >>605
魏志倭人伝には「傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯」とあり倭人が文字を使用していたとある。 魏志倭人伝には「傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯」とあり倭人が文字を使用していたとある。
この文を見せる事が素直な話である
紛い物か >>1
世界のどの文明より古い海底ゴジラ神殿にも「ゴジラ」とカタカナで書いてあったからな スズリもゴジラもあるわけないだろ
どんだけ日本がすごければゴジラとあるのか
どんだけ日本がすごければスズリがあるのか
嘘つきだな
非を認めないのが私たちかな
ゴジラの字もスズリもあるわけない よくよく考えて発言をお願いします。
これから先は
日本人は過去にゴジラの字があったとかスズリがあったとか言う人間なのだから
カタカナはいつからですか?過去にゴジラ書いてありますか?
頭おかしい事を示さないでください。
日本の過去にスズリがありますか?日本に字がありましたか?
頭おかしい事を示さないでください。
日本人の歴史には遥か昔にゴジラの字があったという
ならば世界には航空機が飛んでました。
わかれ
ボケ
言葉の会話もできない、ロボット達よ いくら焚書しても痕跡も残らないなんてあり得ないから
日本独自の文字なんてあるわけねえ 中華から文字が来たとかあるけど日本から中華へだからな 漢字は
?
できもしない詭弁は嘘でなく障害ではないか 馬鹿には付き合えないとはこの事
春が近いと山には猿が湧く
幸いに私達には日本猿が島をいかないといない
幸いだ
馬鹿は寝ておきなさい
これこそが幸せなら事だから 交易するには、独自文字より共通文字のがいいからな
ヒエログリフだってメインはアッカド語だったろ >>628
古墳とかから文字の遺跡が出てこないのは不可思議だよな
銅鐸にも書いてないし
普通書かれててもよさそうなもんだが 日本では、卑弥呼の時代の三〇〇年は、竹簡、木簡、石簡、パピルス、といった Media が、発見
されていない。硯というわけではなくて、鉱物を入れて、砕いて、顔料にした後に、膠で保存して、
ペースト状の絵の具ではなくて、こすって混ぜる、パレットではなかったのかと思う。
旧唐書に刻木結縄の時代が書かれていて、それが、卑弥呼の時代の三世紀だから、獣句奴
国(熊本、鹿児島)卑弥弓呼という野蛮人と戦闘状態であっては、硯は、義呉蜀との外交文書
にしか、用いられてなかったので、漢文が書ける外国人を雇っていたらしい。 >>605
縄で字としたって興味深いな
インカは、縄で字にしてたんだよね
縄文系と弥生系は、おいかけっこしながらアメリカ大陸に至るのだが、縄で字にする文化の起源が同一だったりして 中国では紀元前には紙が発明されているので
日本に文字が入るときはすでに使い分けがされていた
戸籍などの記録保管用には紙
輸送タグには木簡や竹簡
文字練習用には木簡を薄く削って使った。 >>637
こんなところにも共通点があるのは面白いね
共通のルーツを持つ可能性は高いでしょ
案外向こうの文明を調べたら古代日本を探るヒントが得られるのかもしれない >>598
それが本当ならなんで歴史学者は古事記以前の書物の存在を黙殺するのか不思議
まあ焚書された可能性が高いんだろけど、何処か古い神社とかに残ってないかねえ >>504
>>511
仏教の偉大さを強調する為に、仏教のお陰で文字が広まったて作り話だろうな
縄を結んで文字代わりにしていたって出土品も無いし、伝承もないしな
魏志倭人伝にある様に相当以前から文字が使われていたみたいだな。 >>640
あったことはたぶん皆間違いないと思ってるけど、発見されてないからどうしようもないんだとおもうけどね 隋書は、只の書き写しが多いため、時代の考察が無茶苦茶であり、信用されていない。
以下の最初の行から、阿毎字多利思北孤が、隋の煬帝宛てに、書いた文を見て、
激怒したと書いてあるが、
二〇行目には、文字がなくて、木に刻印をしたり、縄を結んで記録としたということを、
とうてい支離滅裂なことを記載してあり、齟齬が多い。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E9%9A%8B%E6%9B%B8%E5%80%AD%E5%9B%BD%E4%BC%9D
>二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣
闕上令所司訪其風俗使者言俀王以天爲兄以日爲弟
天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟祖
曰此大無義理於是訓令改之王妻號雞彌後宮有女六
七百人名太子爲利歌彌多弗利無城郭内官有十二等
一曰大徳次小徳次大仁次小仁次大義次小義次大禮
次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數有軍尼
一百二十人猶中國牧宰八十戸置一伊尼翼如今里長
也十伊尼翼屬一軍尼其服飾男子衣裠襦其袖微小履
如屨形漆其上繋之於脚人庶多跣足不得用金銀爲
飾故時衣横幅結束相連而無縫頭亦無冠但垂髮於兩
耳上至隋其王始制冠以綿綵爲之以金銀鏤花爲飾婦
人束髮於後亦衣裠襦裳皆有襈攕竹爲梳編草爲薦雜
皮爲表縁以文皮有弓矢刀矟弩𥎞斧漆皮爲甲骨爲矢
鏑雖有兵無征戰其王朝會必陳設儀杖奏其國樂戸可
十萬其俗殺人強盗及姦皆死盗者計贓酬物無財者没
身爲奴自餘輕重或流或杖毎訊究獄訟不承引者以木
壓膝或張強弓以弦鋸其項或置小石於沸湯中令所競
者探之云理曲者即手爛或置蛇瓮中令取之云曲者即
螫手矣人頗恬静罕争訟少盗賊樂有五絃琴笛男女多
黥臂點面文身没水捕魚無文字唯刻木結繩敬佛法於
百濟求得佛經始有文字知卜筮尤信巫覡毎至正月一
日必射戲飮酒其餘節畧與華同好其博握塑檽浦之戲
氣候温暖草木冬青土地膏腴水多陸少以小環挂鸕鷀
項令入水捕魚日得百餘頭俗無盤俎藉以檞葉食用手
餔之性質直有雅風女多男少婚嫁不取同姓男女相恱
者即爲婚婦入夫家必先跨犬乃與夫相見婦人不淫妬
死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服貴 当たり前田のクラッカー
殷の次の周王朝(BC11C-BC3C)の時代に、既に倭人が朝貢してたらしい。
ということは、当然、そのころから文字は使っていた。
文字使えないと朝貢無理だからw >>596
蘇我氏の邸宅にあったじゃん。
焼けてなくなったけど。 >>644
それは庶民と支配者そうの違いじゃないの? 海幸彦・山幸彦:
兄・海幸彦からもらった釣針(=鉄)をなくした弟・山幸彦は、
海を渡って、釣針と玉(=朝貢)を手に入れ、兄・海幸彦を懲らしめた。
これは、やまと(邪馬台)勢力が半島倭人(弥生人)やら漢の出先と通じ、
みなと勢力から、列島倭人内の覇権を奪った史実だな。その再掲が
日本書紀にある天照(=やまと邪馬台)とスサノオ(宗像)の誓約だな。
恐らく、宗像の元の名は「みなかた」=「みなと(博多)の横」の意で、
最初のみなとの支配者だったはず。 >>649
土器、漆器、玉、アスファルトも下手すると >>651
コンクリートなら卑弥呼よりも遥か以前にローマ人が実用化してたよ >>603
しかし「日本」をあてるか「倭」をあてるかでスタンスというか執筆時期や執筆姿勢に違いがあるような
「武尊」と「建命」も同様に >>652
アスファルトは縄文人だからローマより前だよ wikiがソースってのも批判されるかもしれんが、縄で情報交換するってインカが有名だけど世界的に結構あるみたいよ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E7%B8%84 >>628
何故言葉と言うかってーと、木の葉に書いたからなんだよね。
言葉を記録として利用するという概念が日本にはなかったんだよね。
だからだよ。 >>657
文書の記録性が問われるのは、王朝の正統性の主張に歴史が重要とされたからで国家成立以前に文書が必要とされた国などなくないか 弥生文化が大陸から来たのであればむしろ字も伝わってきてるのが普通だろ >>658
細かく言えば、日本語資料が8世紀。
文書資料が5世紀。語句資料が3世紀。
文字資料は>>1に書いてあるんじゃないかな? 縄文人のヒスイや黒曜石の交易ルートを考えれば、少なくとも
文字に当たる物が無いと無理だって馬鹿にでも分かるだろ。
と言うか馬鹿にしてるのか? >>584
弥生時代の開始年代はさかのぼった
それまでは稲作が伝わってから短期間で日本中に広まったとされていたが
北九州のごく一部で早い時期に伝わり、普及までに時間がかかった
地域差がすごくあったという事
ただ基本的にやはり縄文の遺跡から農具は出ないし
80年代以降にあるとされた陸稲はずっと確かな証拠が見つからないので
基本的にはやはり弥生時代から稲作は始まったというのは変ってない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています