【歴史】中臣鎌足の正体、百済の王子か 親百済派の中臣氏の系譜に潜り込み、中臣鎌足を名乗った★4
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新羅が任那(伽耶諸国)を攻撃すると、任那は新羅に靡(なび)いた。そこで天皇は新羅を討とうと考えたが、蘇我系の重臣は、「まず視察して状況を確かめるべきだ」と、慎重論を展開し、新羅の肩をもった。これに対し中臣氏は「軍備を整え、新羅を討ち任那を奪い返し、百済に帰属させたい」と主張した。中臣氏の献策は退けられ、新羅に使者が向かった。ところが、このあと中臣氏らは新羅に遠征を始めてしまい、蘇我系重臣たち慎重派の面目は潰されてしまった。ここに、豪族間の意識の差が表れているし、外交の混乱が表出している。またこの時、蘇我系重臣は、「百済はよく嘘をつき信用できない」と酷評している。ヤマト政権は、狡猾な百済に、何度も煮え湯を飲まされていたようだ。
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百済は、ヤマトの外交方針を変えるために禁じ手を使ったようだ。それが乙巳の変(645)で、百済に冷淡な蘇我入鹿を殺したのだ。
証拠はある。乙巳の変のあと成立した親蘇我派の孝徳政権は、突然同盟国だった百済を「スルー」しはじめる。中国に使者を送るなら百済の西海岸を経由するのがもっとも便利なのだが、新羅から陸路を通り、百済の北側の海岸に出るようになった。これは国交断絶であり、その理由は蘇我入鹿暗殺の黒幕が百済だったから、と推理すれば、辻褄が合ってくる。
『日本書紀』に、怪しい記事がある。蘇我入鹿暗殺を目撃した親蘇我派の古人大兄皇子は自宅に駆け戻り、「韓人(からひと)が入鹿を殺した。胸が張り裂けそうだ」と絶叫している。「韓人」を直訳すると、「外国人」となる。しかも、朝鮮半島の人間をさしている可能性が高い。ただし『日本書紀』は、「韓人」を「韓政(からのまつりごと)のこと」と説明している。
こういうことだろう。「蘇我入鹿は半島人に殺された」と巷間では噂され、『日本書紀』編者はそれを「外交問題が原因で蘇我入鹿は殺された」と説明し、お茶を濁したにちがいない。韓人が入鹿を殺したことは、秘密にしたかったのだろう。『日本書紀』は親百済派の歴史書なのだ。
■百済王子・豊璋
入鹿暗殺の主犯中大兄皇子と中臣鎌足は、孝徳天皇が亡くなり実権を握ると、外交政策を転換し、一度滅亡した百済に救援軍を送りこんでいる。民衆が「負けるに決まっている」と非難を浴びせる中での、遠征強行だった。当然大敗北を喫した。いわゆる白村江の戦い(663)だ。
それにしても、なぜ中大兄皇子と中臣鎌足は百済救援に固執したのだろう。連載中述べてきたように、人質として来日していた百済王子・豊璋(ほうしょう)が親百済派の中臣氏の系譜に潜り込み、中臣鎌足を名乗ったのだと筆者は考えている。豊璋が衰退していく百済を救うために、邪魔になった蘇我氏を、滅ぼそうと考えたのだろう。
豊璋が中臣鎌足だった証拠は、いくつも掲げることができる。
1.豊璋の来日は舒明3年(631)、かたや中臣鎌足登場は皇極3年(644)のことで、ふたりは同時代人だ。
2.白村江の戦いの間、豊璋は百済にもどっていたが、中臣鎌足は歴史から消えてしまう。中大兄皇子の人生最大のピンチに、中臣鎌足はなにをしていたのだろう。豊璋となって百済に帰っていたのではなかったか。豊璋はこの戦いで行方不明になるが、中臣鎌足はそのあと何食わぬ顔で、『日本書紀』に再登場している。
3.中臣鎌足の墓・阿武山(あぶやま)古墳(大阪府高槻市)から「織冠」が出土したが、歴史上織冠を下賜されたのは、豊璋と中臣鎌足だけだ。問題は、阿武山古墳が百済の王墓と同じ様式だったことで、日本では他に例がない。なぜ日本の神を祀る家に生まれた中臣鎌足が、百済式の墓を選択したのだろう。
中臣鎌足は豊璋と断定してよいと思う。
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それにしてもなぜ、中大兄皇子は中臣鎌足(豊璋)と手を組んだのだろう。蘇我氏が弟の大海人皇子を将来の皇位継承候補と期待していたからだろう。「蘇我入鹿を殺せば即位できます」という中臣鎌足のそそのかしに、中大兄皇子は乗ったのだろう。玉座に目が眩んで、蘇我氏の築き上げた東アジアの絶妙なパワーバランスと精密なネットワークを破壊してしまった。
こうして、ヤマト政権は、7世紀の外交戦も失敗してしまったのだ。原因は、政権内部の主導権争いであり、そこを海外の工作員たちに、つけ込まれた形になった。これは、古代だけの話ではない。現代でもわれわれの知らない間に、さまざまな国のロビー活動や「工作」が行われているはずだ。日本人は島国のお人好し(世間知らず)だから、用心に越したことはない。(関裕二)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190808-00545721-fsight-pol
★1:2019/08/09(金) 18:34:37.02
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1565415197/ 日本と朝鮮半島の関係史関連のスレになると、右や左のだんな様、四方八方の電波か集まるいつものパターン。
スマホ普及以前は、「学問 文系スレの良心」と呼ばれた世界史板も、いまや左右の電波、バラノイア患者が立てたスレだらけ… それだけパヨチョンが捏造論を押し付けてきてるってことだろ >>838
そんなこと言ってないよ
桓武天皇の母親の実家の和氏という下級貴族の
(二百年前の)先祖が百済王子だという記録があることに言及しただけ
当然だが桓武天皇は初代でもなければ実在確定の初代でもないし
>>1の時代より百年以上後の人
これを天皇が朝鮮からきたという話にするのは、
ダイアナ妃の実家の遠い先祖にインド人がいるから
イギリス王はインドから来たというくらい無理矢理なこじつけ >>759
渡来人の中に技術者はいただろうけど、
百済の皇子が日本にいるのは技術者としてじゃなく人質しとしてだよ この説は割と有力なんじゃないか。けど藤原氏のキーマンは藤原不比等だし、
その系譜で藤原四兄弟が天然痘で一気に死亡で奈良時代中期にブレてる
少なくとも奈良時代から平安に至る流れをきちんと押さえとかないと。圧倒的にオモロイド
輸入したであろう律令制度は50年も経たず形骸化して、荘園の萌芽あるし
平安の藤原道長時代では、中央集権が崩れてたっぽい。それであの栄華は何なんだという >>841
時系列での年表あるんだから、丹念に追えばいいのにな。
奈良時代はほんと面白い。戦後の解釈で、持統-天武、不比等をベースに日本が形作られたという説で見るのがいい >>833
そういうのは戦後の陰謀論チックに使われるようになったのがでかい
西欧の王室なんか、中世でもぐっちゃぐちゃだ。 この説は電波
大体、弟の善光が百済系の長に収まってるのにさ
韓国人と樽悶 ★はウンコを食べる >>3
ちなみに今現在、朝鮮半島に生息しているツングースのエベンキ族(女真族)とは
DNA的に全く関わりはありません。 こういった全くエビデンスのない話がまかり通るって一体どういう事なんだろうね >>847
「右や左のだんなさま」「四方八方のデムパ」ではない、「ちゃんとした歴史愛好家」に会えて嬉しい。
俺は趣味で株取引やるので、人間、特に権力者階層の動きや権力闘争に注視しがちな「ドラマとしての歴史」ーこれが一番おもしろいけどーより、経済産業史寄りな見方、人間ドラマや権力闘争、あるいは政治思想大好きな人々から「唯物史観か!」と批判されたりするんだけど
やっぱり中央集権の崩れの主要原因は、「地方経済の発展・伸長」だと思う。
室町時代がああなってしまったのも、人間ドラマ的には「足利尊氏の性格」に根本原因を求めるのが一番楽しいけど、やはり「地方経済の発展・伸長」かなと。
まあこれ、ありとあらゆる「中央集権崩壊現象」に対して使えるマジックワードだから、注意して使うべきなんだけれども。 こういうスレで湧いてくる「チョンガー!」、あるいは逆の「ジャップハー!」な書き込みって
本気でやってるならキ○ガイ、煽り遊びレス欲しさでやってるのなら、なにが楽しいのか、サッパリわからん。 >>855
「ジャップハー!」ってなんかカッコイイ 大和朝廷がみんな渡来人だし
土着のアイヌや蝦夷と戦争して
侵略して奪った土地だから、蘇我も天皇一族も
みんな渡来人 蘇我馬子、蘇我入鹿で馬鹿って何か蘇我氏を徹底的にバカにしたんじゃないか?豊章は。 >>23
義経=成吉思汗説って、その真偽はさておいても良く時代考証がなされた俗説だなあと思うけど。 >>862
「成吉思汗の秘密」(高木彬光)は面白いぞ。あとついでに
「邪馬台国の秘密」
「古代天皇の秘密」
も合わせてどうぞ。 >>1
個人の空想を根拠に日本史をコリエイトしたくてたまらない人間が
一部にいるみたいだな(笑)
お里が知れる
>>855
ずいぶん前から5ちゃんにいるみたいだけど
キミがここを卒業すれば済む話では? 樽悶 ★
↑
こいつが立てたスレ、全部変だから
こいつ一人の自演 >>838
つうかその話に出てた桓武天皇って百済が滅亡して半世紀は経ってから生まれてるんだから
母方の遠い先祖はともかく桓武天皇が百済から来れるわけがない なんで渡来系ってイシス に付け替えようと必死なの? イシス大好きなのは分かるけど
令和に印をいれたりして あれじゃまるでイシスの和で
イシスの日本て意味じゃないですか まー、現代朝鮮人の血筋である高句麗と、大陸系南部水耕地帯であった百済人は無関係なんだよ。
倭国に百済人が訪れて文化を伝える代わりに政治の中枢に座り、百済と大和の立場が逆転する程の
繁栄を見た訳だ。セブン−イレブン・ジャパンが、本家のセブンイレブンを買収したのと一緒だな。
百済は半島で劣勢に立たされつつあり、倭国の力を使って再興を期したものの唐主体の連合軍には
歯が立たず、本来の任務であったはずの百済救済は果たせなかった、と。その代わりに大化の改新を
完結させ律令国家とした。法に基づく統治の完成により、奈良を経て平安時代に繋がっていく。 まあもうこれ以上新しい文献も出てこないだろうから、確かめようもないんだよね
こういう妄想も言った者勝ちになる 豊璋は唐の捕虜になったと記録されてる罠
>>1と樽悶 ★は、ただのキチガイ >>859
ここは在日韓チョン人のトンスル妄想症の病室じゃありませんのでw よく日本独特の遺伝子がある(朝鮮、中国にはない)から特亜とは違う民族と言ってるが
あきらかに知能的には渡来系>縄文だよな。知能指数では東アジア間は(日本。中国、朝鮮、台湾)
比べれてほとんど差がないが東,南アジアと比べれば歴然としてる(それが経済的にでてる)
何が言いたいかというと、この知の集団(つまりは統治機構をつかさどる者)はどこから来たのかということ、
わるいけど縄文系ではなく、渡来系の集団じゃないのと俺はおもってる。
ないよな >>838
二百年前の先祖が外国から来たことと本人が外国から来たこととが違うのは当たり前として
家のルーツとしても、そもそも父系で継承する家系において母方のルーツは家のルーツに関係はない
天皇家のルーツだったら桓武天皇の父親の父親の父親の父親の父親の…
と父方のルーツを辿るべきもの
そこに母方の家系持ち込んだら、例えば二十代目の君主は母方の先祖が東南アジアの出だから皇家は東南アジア系、
三十代目の君主の母方の先祖はヨーロッパ系だからヨーロッパ系、四十代目の君主は母方の先祖が…
みたいに母親によって家のルーツがコロコロ変わってしまうということになってしまうだろうが 百済から舟で越前国(福井)にたどり着く。
海流の関係で、九州ではなく越前国である。
鮮人は、越前国から京都に入る。
継体天皇も越前国である。
そういえば、韓国語と福井弁はイントネーションが似ている(語尾を伸ばす)。 >>760
https://ja.wikipedia.org/wiki/談山神社
>鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、
>長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、
>十三重塔を造立したのが発祥である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/定恵
>定恵(じょうえ/じょうけい、皇極天皇2年(643年)- 天智天皇4年12月23日(666年2月2日))は、
>飛鳥時代の学僧。定慧、貞恵とも書かれる。
これを、まず説明してもらおうか。つまり、上記は創作。 背景は以下。
>鎌倉時代には曹洞宗本山永平寺の二世、孤雲懐奘(大和尚)が参学した。一方、平安時代に天台僧・増賀を迎えたことから、
>同じ大和国の藤原氏縁の寺院でありながら宗派の違う興福寺とは争いが絶えず、平安時代後期から室町時代にかけて度々領地など
>を巡り争論を繰り広げた。多武峯妙楽寺側の十市氏や越智氏は、興福寺側の楢原氏、布施氏、北隅氏らの軍勢と小競り合いを繰り返していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/興福寺
>興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の仏教寺院である。
>南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、
>古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。
>藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階
>(現・京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、
>山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
天智天皇陵があり、氏寺があり、近江で施政がとられていた時に他の場所に墓を作る理由がない。
藤原家伝(760年に成立)はそのままのことをいっているだけ。多武峰略記(1197に成立)どちらを信じますか?という話。 ID:ROcddvo/0
ウンコは、百済の場所もわかってない 関の日本史は古田武彦や小林よしのりと比べるのも失礼なアレだろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています