振内鉄道記念館に残る富内線の軌道。蒸気機関車は富内線を走っていたものではなく、戦後間もない1949年に製造され、サハリンで活躍した=北海道平取町振 内で8月11日13時11分、山下智恵撮影
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 平取町を国道237号沿いに沙流川をさかのぼると、二風谷ダムが見えてくる。同町には文化を伝承するアイヌが多く住み、二風谷アイヌ文化博物館や民芸品店が建ち並ぶ。ダムはそうしたアイヌの聖地をのみ込み建設された。民族の苦難と復興の歴史を刻むこの町にも、戦時中の悲劇の痕跡がある。

 二風谷から沙流川をさらに約20分さかのぼった同町振内(ふれない)地区に振内鉄道記念館があり、1986年に廃止された旧国鉄富内線の資料が展示されている。振内地区には国内屈指のクロム鉱山があり、戦時中の41年、クロム輸送のため、富内線の延線建設が着工された。公式の記録はないが、導線の敷設やトンネル工事で、朝鮮人労働者・徴用工に多数の死者が出たとの証言がある。

 戦時中、道内各地の炭鉱や建設現場には朝鮮人が動員され、道内では14万〜15万人に上ると推計されている。中でも平取町は、朝鮮人労働者とアイヌ民族に深いつながりがあったことが近年の研究で明らかになっている。

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 国道237号をそれ、むかわ町側に向かう町道をポロケシオマップ川沿いに行くと、朝鮮人労働者の宿舎が広がっていた幌毛志地区がある。「幌毛志のトンネルを掘ったのはほとんど朝鮮人。死んだり死にそうになったりした人は穴を掘って埋められた時代。父親は逃げてきた朝鮮の人をかくまって炭焼きをさせていた」−−

 平取町を中心としたアイヌなど約200人近くに証言を聞き取り、論考を重ねた苫小牧駒沢大の石純姫(ソクスニ)教授の著作「朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり」(2017年、寿郎社)には、建設現場のすぐそばに住んでいたアイヌの証言が記されている。

 さらに「逃がしきれなかった朝鮮人を自分の妹と結婚させることもあった。親戚、友人、知人にも紹介し、命を助けることになると説得し、一緒にさせたんです」−−。かくまった朝鮮人とアイヌが血縁を結んだケースも多数あったとの証言もある。

 戦時中では命がけの行為だ。ただ、それは「美談」では終わらない。アイヌによる、朝鮮をルーツに持つアイヌへの差別の証言もある。石教授は「戦後、アイヌであることを明らかにしても、さらなる差別を恐れ、朝鮮のルーツがあることを今も明言できない人もおり、差別が今に続くことを示している」と話す。

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 戦後、墓地が整備された60年代、富内線工事現場に近い平取町振内地区やむかわ町穂別地区などでは多くの身元不明の遺骨が発掘された。

 穂別地区の共同墓地には74年に無縁碑が建てられ、工事の犠牲者として92柱が安置された。

 一方、平取町の振内共同墓地については「墓地造成の際に多数の遺骨が出たがそのまま埋めた」との証言があるが、同町が無縁碑を建立したのは10年。無縁者が何者なのか明記はなく、町史にも記載はない。

 また、石教授はこの地区の墓地整備は、先住民であるアイヌの伝統的な墓地を近代化してきたと指摘。「日本人の死だけが記憶に刻まれる」として、アイヌや朝鮮人の死の痕跡が消されてきた歴史を重ねてみる。

 アイヌからの土地の奪取、朝鮮人労働者の犠牲は、はるか戦前・戦中の話だが、その記憶を時に隠蔽(いんぺい)し、忘却する「二度目の死」を引き起こしたのは戦後のことだ。記憶の忘却という戦後の悲劇も、伝えるべき教訓と感じながら、山道を走った。【山下智恵】

■「1万年祭」毎年開催

 平取町には、かつてアイヌが他の地域から強制移住させられた土地も残る。同町旭地区の上貫気別(かみぬきべつ)には、軍用馬を生産する御料牧場拡大のため、1915年に姉去(あねさる)コタン(新冠町)から強制移住させられたアイヌの慰霊碑が建つ。この土地では毎年8月中旬、「抑圧された全ての民族のため」として、「アイヌモシリ1万年祭」が1週間にわたり開催されている。参加者がテントを持参して寝泊まりしながら、アイヌの先祖供養の儀式を執り行うほか、薪の炎を囲んで歌い、踊り、語るなど思い思いに過ごす。31回目の今年は17日が最終日。

毎日新聞 2019年8月16日
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