大仙市南外にある塞の神。右端が縄文時代に製作されたと思われる石棒
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 道祖神は日本の境界を守る神である「塞(さえ)の神」に中国の道の神「道神」が習合した神様とされている。塞の神は陽物(男根)の形で表現されていることが多く、こうした性器崇拝は人形道祖神にも見られる。これは男性器の持つ呪力で悪霊を追い払うことと、子孫が増えて村が繁栄するようにという願いが込められているからだとされる。

■古代都城の祭祀と道祖神

 縄文時代に盛んに作られていた石棒も男性器をかたどった祭祀道具だが、大仙市南外ではこうした縄文の石棒が塞の神として祭られている集落がある。おそらく、遺跡から掘り出された石棒を再利用したのだと思われるが、縄文人が崇拝した陽物が現在でも信仰対象となっているのは面白い。

 こうした塞の神がどのように中国の道の神と混合したのか。

 歴史学者の平川南は『道祖神信仰の源流』(国立歴史民俗博物館研究報告、2006)の中で、朝鮮半島南部、6世紀の百済の都城遺跡で東門の付近から「道縁立立立」と墨書された木製の陽物が出土していることに着目。日本においても7世紀の難波宮跡(大阪府大阪市)や8世紀の多賀城跡(宮城県多賀城市)の周縁部から陽物が発掘されていることから、百済の道に関わる祭祀を朝廷が導入したと捉えた。また、平安京の四隅で行われていた道饗祭(みちあえのまつり)は疫病などの邪悪なものが都城へ入り込まないように夏と冬に行われ、獣の皮を使うなど外来的要素の強い呪術的祭祀であった。

 福岡市の元原遺跡群では8世紀頃の官衙(かんが、役所・官庁のこと)施設に付属した池から人形や陽物の木製品と共に「道塞」と墨書された木簡が出土している。「道塞」とは道祖神と塞の神を合わせた名称と思われ、平川は道祖神の祭祀に使われた呪符木簡(じゅふもっかん)であると推測している。

 こうした古代の都城や官衙で行われた道の祭祀は、儀礼の多様化ともに10世紀以降行われなくなった。そして、その祭りは国家から民衆の手へと移り、京の街や各地の辻などに男女一対の道祖神が作られるようになったとする。

 金関恕によれば3世紀の馬韓や倭国(日本)で行われていた蘇塗の祭りはその後、強力な国家体制に丸め込まれて消滅したという。これに平川の説を加えて解釈するならば、一度は消えかかった蘇塗の祭りは7世紀以降、律令国家が外来の呪術的な祭祀を取り入れる過程で、再び道祖神として蘇ったのではないだろうか。

■平安時代に生まれた秋田のムラ

 律令国家によって都城の周縁部や水辺で行われた祭祀儀礼は秋田県内の奈良、平安時代(8〜10世紀)の遺跡においても確認できる。その解説の前に、紀元前から平安時代までの本県の歴史の流れについて簡単に説明させていただきたい。

 1万年以上続いた縄文時代は今から約2300年前に終焉し、水稲耕作を軸とした弥生時代へと移行する。本県でも地蔵田遺跡などから弥生時代の初め頃から米作りを行っていたことを実証する資料が出土している。古墳時代には北海道から南下した縄文人の子孫(続縄文人)と倭人(古墳文化人)との緩衝地帯になるが、遺跡の数は減少する。それは北東北全般に言えることで、弥生後期から古墳時代の2〜6世紀は極端な過疎地域であったと思われる。

 7世紀から北東北の太平洋岸で古墳文化人の移住が顕著になる。日本海岸では8世紀から一挙に開発が進むことになる。

 天平5(733)年、現在の秋田市寺内に出羽柵という役所兼軍事施設が律令国家によって設置され、後に秋田城と言われた。秋田城は本州北辺から北海道に住む縄文の末裔(蝦夷)や東北アジアの人々(渤海、靺鞨)など、異民族との交易の拠点でもあった。こうした奈良、平安時代に律令国家によって建設された東北支配の拠点は城柵官衙(じょうさくかんが)と呼ばれる。東北では秋田城の他に、多賀城(宮城県多賀城市)、志波城(岩手県盛岡市)、胆沢城(同、奥州市)、払田柵(秋田県大仙市、美郷町)などが知られている。

 城柵官衙が建設されたことにより、東国や北陸など全国各地から大量の開拓民が人口空白地帯の北東北に押し寄せた。9世紀から10世紀にかけては急増し、かつて縄文人が住んでいた場所に平安時代の農耕民が集落を構えた。彼らは鉄生産も行い、農耕具や刃物を製作した。「秋田県遺跡地図情報」のウェブサイトによれば秋田県内で確認されている平安時代の遺跡は1396件で縄文時代の2601件に次いで多い。平安京に男女の避疫神が祭られた頃、秋田では現在の地域社会の原点ともいうべき「村」が生まれていたのだ。(以下ソース)

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