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【歴史】上杉謙信が武田信玄と戦った「川中島の戦い」めぐる新たな書状発見 5回目の戦いの3年後に謙信が出したもの 新潟
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0001ばーど ★
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2019/09/07(土) 20:04:51.30ID:mFynWrf79
戦国武将、上杉謙信がライバルの武田信玄と戦った「川中島の戦い」に関する新たな書状が、このほど新潟県内で見つかりました。「川中島の戦い」は5回あったというのが通説ですが、専門家は、その後も信濃の領土をめぐって合戦があったことがうかがえる「原本」で、貴重な記録だとしています。

見つかった書状は、戦国時代の永禄年間(1558年〜70年)に、上杉謙信が自分の領土だと考えていた、今の長野県北部、北信濃の7人の武将に宛てたもので、新潟大学名誉教授で、郷土史に詳しい冨澤信明さんが、およそ15年前に骨とう品を扱う関係者から購入し、保管したままになっていました。

冨澤さんが上杉謙信研究の第一人者で、上越市公文書センターの福原圭一上席学芸員に調査を依頼したところ、花押と呼ばれる、謙信のサインなどから、原本であると確認されました。

北信濃をめぐって謙信と信玄が戦った「川中島の戦い」は、通説では5回あったとされています。

学芸員の福原さんによりますと、近年の研究で、謙信と信玄の対立がその後も続いていたことは明らかになっていましたが、見つかった書状は、明治時代に残された写しの原本で、5回目の戦いの3年後の永禄10年に、謙信が出したものだということです。

書状では、信濃を北進する信玄の侵略を防ぐため、7人の武将に対し「皆々在陣あり、堅固の仕置専一に候」。つまり、「みんな、陣所のそれぞれの持ち場でしっかり守るように」と指示しているということです。

福原学芸員は、ほかの研究の成果も合わせて考えれば、5回目の合戦のあとも、合戦があったと考えるべきだとしていて「戦国時代の人は、今回が何回目の合戦と思って戦っているわけではないが、江戸時代に軍記物として書かれたときに、5回までをセットにし1冊にして残された。しかし、永禄10年にも戦っているということを念頭に見直したほうがよいのではないか」と話しています。

書状の持ち主の冨澤さんは「本物だと思って購入したわけですが、謙信の書状で間違いないということが確認できてうれしいです」と話していました。

2019年9月7日 4時25分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190907/k10012067361000.html
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190907/K10012067361_1909062241_1909062244_01_02.jpg
0579名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 05:18:39.86ID:MXrYoqTu0
謙信ってカルト教祖っぽい
大川隆法みたいなイメージだからあまり好きじゃないわ
0580名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 05:26:04.85ID:IzJGKnhG0
>>567
北条が勝頼にやられすぎて
「やばいこのままじゃ滅亡するよ
北条はお前らに良くしてやったじゃん
今こそ御国に恩返ししようよ;;」
と、小田原征伐に先立って最初の総動員令を出したのが対勝頼戦
まあ勝頼は北条が弱すぎて戦線伸び切ったせいで高天神を失うんだが
0581名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 05:36:38.67ID:IzJGKnhG0
謙信には完全勝利で信玄相手に互角に戦った氏政だけど
勝頼にはビビりすぎて信長に従属同盟に近い立場で助けを求める始末
0582名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 05:37:59.02ID:B40zSMuy0
やはり戦国最強は謙信なんだよな(´-ω-`)
0583名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 05:40:21.34ID:NLdwfUnV0
>>579
おまえの顔はオカルトなんだっけ?
0584名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 05:40:38.69ID:wH83A6kz0
>577
新兵衛、米山峠に陣場を構えたぞ(大沢樹生)

やや演技に拙さは残るものの、原作の軍事的天才であるが人間的には不器用な景虎を好演していて個人的には好きである。
0585名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 05:43:55.19ID:r9hUZNCV0
>>582
最強とかそんなレベルじゃないから

別格すぎるw

神だからw軍神だからw
0589名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 07:22:38.56ID:M8nxRZze0
>>586
雑兵はともかくとして
将はやってられんだろうな
儲けが少な過ぎて

只、これが武田だと、家臣が主君の首の挿げ替えに動きそうだから
やっぱり謙信は従わせるオーラがあったんだろうな
0590名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 07:24:00.62ID:M8nxRZze0
>>571
天下を取るなら運が無いとダメだよ
だからウンを漏らす程に持ってた家康が最終的に天下人に成ったじゃん
0594名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 07:36:32.39ID:C3MR6LUQ0
>>591
秀吉が自らの手で秀次を排除しなければ、家康の天下なんて無かったと思う。
そもそも本能寺が無ければ、信長にいいように使われ最後は難癖つけて徳川家お取り潰しかな…
0595名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 07:41:54.74ID:uVFL1ckA0
武田は全員が強い感じ
上杉は謙信が一人で頑張ってる感じ
0596名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 07:46:53.13ID:zrNv8+lY0
鞭声粛粛 夜河を過る
曉に見る千兵の 大牙を擁するを
遺恨なり十年 一剣を磨き
流星光底 長蛇を逸す
0597名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 07:49:10.30ID:4Nricwjk0
ホモだろこの二人
0598名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 07:51:28.70ID:zCKQprFr0
柿崎景家は分別さえあれば越後七群で彼に敵う者無しと謙信に評されるくらいの猛将やけどな
0599名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 08:51:49.59ID:NMYVjOh60
信長にしてみりゃ信玄だの謙信だの大して邪魔になってないしな
本願寺と一向宗のが遥かにヤバイ
上杉が勝った勝ったって騒いでる手取川もMVPは一向宗だし
0601名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 09:48:23.93ID:Hn8BpJdK0
>>599
同意。信心に支えられて補給は無尽蔵
大坂湾の制海権取られるまでの石山は絶対不落
信長と10年戦えた大名はいない
0602名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 09:57:44.75ID:18XNmRHb0
>>601
ある意味テロ組織みたいなもんだからね。
0604名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 10:03:50.92ID:M8nxRZze0
戦って死ねば極楽
戦わず逃げたら地獄だっけか
腐ってる指導者層だよな。一向宗
後に自分達だけ逃げるけど
0605名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 12:29:17.27ID:ElEqbaVe0
足利尊氏と徳川家康の生誕地は、直線距離で約1キロしか離れていない


おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた


■上杉氏

太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か


足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷


■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)

鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
0606名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 12:45:36.68ID:eK772eVS0
尊氏は栃木県足利庄に荘園みたいなのがあって、歴代の拠点だったんだろう、
ポッ出で、得宗家の重要な要になるわけがない。
0607名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 12:56:29.04ID:q/vgoY1m0
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇

【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷

【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城

【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城

【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官

【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆

【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)

【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
0608名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 12:59:23.51ID:q/vgoY1m0
源姓足利氏のポジションとは?


三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)

【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)

■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系

■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系

■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)

■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)

■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹

■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
0609名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 16:39:42.23ID:9xLuA06f0
上杉武田の過大評価ぷりは異常
戦績が多少良いだけで実績はしょぼい
0610名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 16:44:07.97ID:M8nxRZze0
家康に勝ったのと
勝った武田と五分だったのが大きいんじゃね?
基本的には徳川万歳の思想だから
家康の祖父を家臣が殺害してんのに
忠義に厚い三河武士とか恥ずかしくもなく言えてしまうんだ
あと、正妻と嫡男を殺害して、それを他人のせいにしたり
0611名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 16:46:49.06ID:qGLZvh250
>>92
毛利元就もやろうと思えば、失敗するかもしれないが、狙えたという自覚はあったはず
そうでなければ、家訓で天下を目指すなと残す理由にならない
0612名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 16:54:35.55ID:ZwHVF+jO0
川中島の戦いは善光寺の経済力を狙ってだが、知らないニワカが多すぎ
0613名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 17:07:08.55ID:vwHo4nFP0
三河武士が忠義とか笑っちまうよなw
清康以前もずっと松平一族同士で争ってるし清康は家臣に殺され広忠は家臣に追放されたり家康はガキの頃に家臣に裏切られて売り飛ばされてるw
家康が大人になったらなったで一向宗徒の家臣に反乱起こされるわ家中が親父と息子で2分されて親父が息子を殺害してようやく治るは武田に寝返る家臣続出だわで一体どの辺が三河武士が忠義の武士なのかとw
0614名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 17:12:01.91ID:Fb4KMSg40
毛利は天下を目指すとしても信長みたいな幕府に代わる政権を目指すのではなくて
大内義興が上洛して管領代になったようなケースしか想定してないと思う
足利に取って代わる発想が元就にあるかな?
0615名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 17:21:58.65ID:cxwNRQbf0
武田信玄がああいう疑り深い性格だったから小国三河は武田の黄金を掴まされたスパイだらけで
家康はうっかり信玄の悪口は言えなかった

奥さんと息子が武田と通じて家康を殺してクーデターしようとしたので処刑したぐらい
織田信長も叔母の裏切りにあう

武田のスパイに殺されないように武田信玄を褒める
そんなゴマすり生活を何十年も家康は耐えていたので武田信玄がすごい男と本気で思うようになった

さらに駿河と甲斐を領土に加えて、今川武田の遺臣をたくさんかかえたので、もう何も言えなくなった
あと信玄のむすめ松姫を強姦して妾あつかいにしたのもある
0616名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 17:39:24.53ID:V93Y2/Sn0
>>609
「戦」国「武」将なんだから、戦績重視は当たり前。かなり評価の比重は大きいw
0617名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 17:54:49.23ID:3zjyXOE+0
>>615
武田に仕えてた者たちが戦で役に立ってくれるんだから信玄を貶すのは損だわな
本心は家康本人にしか分からんよ
0620名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 18:20:50.50ID:zrNv8+lY0
政治家三木武夫は「男は三度勝負する」と言ったというが
信玄・謙信は「男は何度でも勝負する」の精神なんだな
0621名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 18:24:44.04ID:rhCDLpP90
>>3
それはない
0622名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 18:39:48.53ID:q4qztwS+0
>>615
三河が小国とかギャグかよ
足利将軍家本拠、日本最強の軍事大国だ
この軍事大国の経済的基盤は、尾張の荘園だ



室町幕府 三河国の日本支配構造

【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数

・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏

三河国の奉公衆一覧(全52家)

【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和
0623名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 18:41:36.16ID:q4qztwS+0
尾張は、伝統的に三河の植民地
これかわ分かっていないと、見えてこない


何故、名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか? 
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」  

尾張の歴史 

◆平安時代◆ 
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。 
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。 
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。 

藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝 
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼 

◆鎌倉時代◆ 
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。 
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。

◆室町時代◆ 
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国碧海郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国碧海郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。 

◆江戸時代◆ 
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。 
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。 

◆現代◆ 
・トヨタグループのパシリとなる。
0624名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 18:50:25.76ID:Q017fXMg0
q4qztwS+0は狂人
0625名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 18:50:48.90ID:rhCDLpP90
>>123
謙信は実は好きな人がいたんだよ
でも身分違いで結婚が許されなかったんだよ
0626名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 19:44:25.10ID:U6nq/xF40
御旗楯無!
0629名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 19:57:21.95ID:baFxyQZw0
>>613
三河に限らないけどね
特に色濃くはあるが
土地から切り離して、寄る辺を
主君にしないと忠誠心は湧かないんですよ
その意味では、上杉家も移封されて
助かってる、家康もだが
0630名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 20:09:56.69ID:tz919C0m0
勝手に忠義とか思い込んでいるだけだろ
洛中のみならず全国を混乱のズンドコに陥れた観応の擾乱、応仁の乱を見ても、三河武士が忠義なわけ無いだろう



三河政権たる室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)

■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)

【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)

■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)

管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ

■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動
0631名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 20:13:08.45ID:tz919C0m0
ついでに三河人が親王なのも疑わしい
家康が生まれた菅生には、天皇は像に替えて流してしまえ(高師直)と言い放った奴を輩出した



高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→滝口惟忠→大平惟行(三河国滝山寺)

高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→義定(御家人、近江国辺曾村)

高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→南頼基→惟宗→宗継(備中・三河守護、侍所頭人、室は高師兼の妹)→※宗久(遠江守、高師兼猶子)


【師行流】高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→高重氏(御家人、近江国辺曾村)→師行→

師秋(土佐守、家時置文保管者)→師有(関東執事)
師秋(土佐守、家時置文保管者)→三郎(三河国滝山寺)
師冬(播磨守・三河守、武蔵・伊賀守護、関東執事、室は高師泰の娘、高師直猶子)
女(高師直室)

【師氏流】高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→高重氏(御家人、近江国辺曾村)→師氏(三河国菅生郷・比志賀郷)→

師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→※師世(幕府執事)→いち(三河国総持寺住持)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→師秀(尾張守)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→明阿(高師冬妻、三河国総持寺開基)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→師武(国司師武)?
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師夏
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師詮(丹後・但馬守護)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師冬(播磨守・三河守、武蔵・伊賀守護、関東執事、室は高師泰の娘、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→女(渋川直頼(姉妹に足利義詮室)室)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師永(秋里師永)?
師重(三河国菅生郷)→師茂→重茂(駿河守・大和権守、武蔵守護、関東執事)
師重(三河国菅生郷)→師久(豊前守)→※師景
師重(三河国菅生郷)→貞円(三河国滝山寺)
師重(三河国菅生郷)→女(高師春室)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師春→※師兼(三河守護、高師直猶子)→※宗久(高師兼猶子)
師春→女(南宗継妻)
師信→※師幸(備前守)
女(稲荷女房、三河国比志賀郷)



※は武庫川で殺害された8人(師直武蔵守入道・師泰越後守入道・師兼高刑部・師夏武蔵五郎・師世越後大夫将監・高備前(師幸)・豊前五郎(師景)・高南遠江兵庫助(宗久)『園太暦』)
0632名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 20:23:38.02ID:0d0TDI3o0
〜国とか、得意気に貼ってる奴いるけど、それ誰かの創作だからw
0634名無しさん@1周年
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2019/09/10(火) 23:02:21.27ID:HO6LrNAS0
>>503
真田は武田滅亡前から北条と連絡とってて臣従しようとしてたぞ

天正10年(1582年)3月12日付北条安房守氏邦書状 真田昌幸宛

雖未申通候、啓達候、仍八崎長尾入道(憲景)江両度之御状披見、紙上之趣、誠簡要至極存候、
今度甲府御仕合無是非候、然に氏直各御譜代之筋目付而、箕輪之各・和田(信業)先忠被成候、貴所江も自箕輪(内藤昌月)可有意見由候ツル間、如何ニも最之段令返答候、
然処八崎江御状共令披見候間、此度申入候、氏直江御忠信此時相極候、恐々謹言、

三月十二日
安房守

氏邦(花押)

真田殿
御宿所

昌幸は武田氏の滅亡直前、上野八崎城主・長尾入道憲景に2度にわたり書状を送り、北条氏に臣属したい旨を申し入れていた。
それにつき、北条氏邦から昌幸に宛てた返事であり、いわゆる密書である。「(昌幸の)手紙の趣は誠にもっともである。今度の武田家の没落は是非もないことだ。北条氏直に属して忠信を励むのは、この時と極きわまった」と述べたもの。
書状の日付である3月12日は主君武田勝頼が甲州田野に果てた翌日であり、その滅亡前から武田氏を見限って北条氏に臣属を打診していたという昌幸の動きが分かる。
0635名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 00:05:58.79ID:gdIWU5Iq0
>>611
大内も尼子も上洛戦やったからねえ
他にもあの地域は、備前の浦上やら中央の戦によく関わってる
0636名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 00:09:29.56ID:syRNOSqI0
>>634
「滅亡前」って言ったってもうほぼ死に体の状態じゃん。
普通に忠誠心はあってもその辺はシビアよ。
0637名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 13:58:48.31ID:/uqqV6f1O
謙信が主役の大河がほしいね 紹介する媒体がないから信長の野望でも家臣の数がろくに多くない、増えないっていうのに 層が信玄とどんどん離れて行く
0638名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 14:21:33.23ID:h9LijqLq0
謙信の天と地
第2弾大河でやってくれよ
0639名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 14:46:09.81ID:uVP8z6a20
謙信は微妙な戦が多くて、地味やからね。
0640名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 14:48:25.10ID:5tgxnm040
謙信は北条にも武田にも基本負けてるしな
0641名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 14:51:05.54ID:Z1VL9i7P0
>>634
真田氏も小山田氏も武田一族である穴山氏も国人領主だから武田家への忠節より自家生き残りが優先するよな。
0642名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 14:54:53.14ID:8vkTIdfG0
天王山→常用される
桶狭間→たまに使われる

山崎の戦い→見たことない
川中島→使われない
関ヶ原→使われない
長篠の戦い→使われない
0643名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 14:55:29.15ID:R5XTwcFo0
>>9
江戸時代に書かれた書物が初見
当時の資料には全く見あたらない
0644名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 15:05:55.55ID:z1pbgaBO0
とりあえず直江兼続は兜から愛をはずせよな。
0645名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 15:11:36.90ID:/04EASHn0
>>51
お盛んなホモダルマ時代のと
晩年健康を害してやせ細ったのと
2種類の肖像画があると聞いた
0646名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 15:18:04.67ID:uVP8z6a20
まあ、桶狭間がおきず、武田が駿河の海に浮気しなければ
武田と上杉で最終決戦までやりあっただろうが。戦いが中途半端なのが悔やまれる。
0648名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 15:20:53.73ID:dEg+uXPE0
武田信玄の肖像画→めんごめんご信玄じゃなかったわ
足利尊氏の肖像画→めんごめんご尊氏じゃなかったわ
家康脱糞後肖像画→めんごめんご脱糞後じゃなかったわ

適当過ぎだろ
0649名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 15:27:28.36ID:uVP8z6a20
めんごめんご聖徳太子、実はいなかったわ。

これが歴史や
0650名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 15:27:58.69ID:rztiEM/V0
>>9
実際には謙信の寝所に信玄が単騎突入したらしい
0651名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 15:29:13.47ID:Q4PiyUoh0
>>648
肖像画に限らず誰でも知っている歴史的事実は
元をたどれば不確かな資料によるものが結構多い
北条早雲の生年とか
頼朝や尊氏と伝えられる肖像画とか
0652名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 15:39:46.27ID:gTRcL41O0
>>648
真田も割とひどい

真田昌幸の肖像画→実は真田信之でした
真田信繁の肖像画→実は真田信綱でした
0653名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 15:44:18.71ID:lhPw1iqy0
(
>>5
そうだよな。
沖田総司はBカップ くらいありえんよな
0656名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 16:59:27.30ID:uVP8z6a20
戦国時代に騎馬隊が発展しなかったのは不思議やわ。
いくら木曽馬のような小柄な馬でも、徒歩よりは早く移動できるやん。
その移動力を生かして敵の横や裏をつく発想はなかったのかね。
0657名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 17:22:52.62ID:mGAxsJjN0
>>656
・日本国内は地形上、騎馬隊を展開できる広い平原とかない
・足軽が置き盾を並べて弓鉄砲を打ちまくるのが基本戦術。騎馬にとって苦手な相手
これでは一般兵科として騎兵が生まれないのは仕方ない
0658名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 18:03:19.54ID:WCFtv9iq0
>>642
そういや天王山も関が原もどっちも天下分け目の戦いだけど、
慣用句は天王山だな
戦としては関が原の方が圧倒的に有名なのに
0659名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 18:05:29.29ID:7DqT1KnU0
>>3
これを完全否定するに足りる根拠だ何だって、何か存在するの?
0662名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 18:09:52.69ID:mGAxsJjN0
>>658
関ケ原の方は裏切りとかって面倒だから
ここ一番なら天王山の方が言いやすい
0663名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 19:45:46.50ID:uVP8z6a20
>>657
イタリアもスペインも平地なくね?
0665名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 20:08:43.42ID:zgAuOTh90
>>594
だが桶狭間が無ければ
今川幕府のNO2(氏真の補佐)
からの乗っ取りでやっぱり天下が取れた可能性w

信長さん身内や恩人には駄々甘だからなあ
金ヶ崎の戦いで体張ってくれた家康には相当甘くなりそう
0667名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 22:42:07.41ID:LWNrl2Du0
だな
0668名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 23:05:49.89ID:syRNOSqI0
>>657
いや別に騎馬が戦闘行動取るのに「広い平原」なんか不要だろ。
数百メートル程度の平地なら日本だっていくらでも存在する。
0669名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 23:12:26.14ID:MSrCB2Hq0
騎兵だけを集めた部隊がないからな
馬にまたがった主人とそれに付き従う数人の小者で成るのでどうしても騎馬と歩兵の混成部隊にしかならない
0670名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 23:25:50.56ID:0BXPYfa90
>>656
弓の質と量、いわば武器力が我々の想像より良かった、とか?
騎馬隊編成して物見だの横やりだのは動く的にしかならず、置き盾でジリジリ進んでくのが一番効率良かったと
0671名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 23:54:11.05ID:OcQKzz+V0
言うほど欧州でも騎馬隊が活躍した例は少ない
騎馬隊は欠点が多いから使いづらいんだよ
モンゴルとかの騎馬民族くらいだよ騎馬隊を使いこなせたのは
0672名無しさん@1周年
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2019/09/11(水) 23:59:48.24ID:syRNOSqI0
と言うか普通の農耕民族では騎兵はそこまで数がそろわないんだよね
だから戦が大規模化するほど存在が埋没してしまう。
0673名無しさん@1周年
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2019/09/12(木) 00:03:30.97ID:CaMdsnD00
一方、その頃、韓国では
0674名無しさん@1周年
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2019/09/12(木) 00:06:28.60ID:N1QdYqge0
既に誰かが言ってるだろうが
秀吉は信玄と謙信の戦いをなじったんだよな
無駄なしょうもない戦をやったもんやって
0676名無しさん@1周年
垢版 |
2019/09/12(木) 00:08:43.57ID:qixQTsEQ0
結局、豊臣も滅ぼされたわけで無駄と言えば無駄だったよな。上杉家は残ったよw
謙信は室町体制維持が目的で、秀吉とは全く目指すところが違うからな
謙信から見れば秀吉が意味分からんと思うわ。価値観なんて人それぞれだわ
0677名無しさん@1周年
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2019/09/12(木) 00:24:51.76ID:sz/bZrgk0
信玄は善光寺がほしかったんだろうな
最終的に甲府にも善光寺作ってこれでいいやと満足
0678名無しさん@1周年
垢版 |
2019/09/12(木) 00:33:49.99ID:N1QdYqge0
善光寺平が欲しかったんだろう
肥沃でかなりの生産高のある地だったから
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