【歴史】邪馬台国の卑弥呼がもらった?曹操墓出土と同型の鏡 「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に? ★2
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
“華麗さでは随一”と多くの考古学者が太鼓判をおす古(いにしえ)の鏡がある。「金銀錯嵌珠龍文(さくがんしゅりゅうもん)鉄鏡」。
大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、装飾の巧みさから1964年に重要文化財に指定された。
由来を含め多くの謎が残るこの鏡が、三国志の英雄・曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式である可能性が高まっている。
「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。(続きはソース)
朝日新聞デジタル 2019年9月8日08時00分
https://www.asahi.com/articles/ASM9443XDM94UCLV009.html
★1:2019/09/11(水) 22:54:59.87
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1568210099/ 盗んだんだろwwwwwwwwwww
そういうの得意じゃんwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww そりゃ向こうの資料にも日本が贈り物贈ってきたから返礼品送り返したぜって有るんだから当たり前だろ だから公孫燕氏を打ったあと、半島南部の諸部族打つのは金がかかる
人送って帰従要請するのだって金と労力がかかる。ただじゃない
表面平穏でも帰従迫っておかないと、中原から部族や遊牧が流れ混んだら反乱が起きる
三国志の最中に無駄に外国東征に金もリソースもかけられないからめんどくさいってタイミングで大和が帰従したから包囲の形となって
その他部族は従うしかなくなった
この倭の服従が機転きかせた行動となって東夷、東征問題を解決させられたから
無駄な東方反乱抱え込むところだった曹魏は非常に高く功績と評価して金印、鏡を授与する異例の破格こうげいで迎えた
バカ息子と言われるが、魏曹は一個の優れた合理的な判断をもった統治者であった
こういうこったろ 九州に朝貢してる王朝があったからだろ
不思議なことがどこにあるんだよw 何故って?
九州を含め現在の日本は大韓帝国だったからじゃよ 三国志の時代は、
日本へは孫権の呉から、大量に人・文化が入って来たけど
曹操の魏からはどういうルートで入って来たのか
証明が難しいんだよねえ 卑弥呼が貰ったのは銅鏡100枚だけどこれは鉄鏡なんだね。
おまけに1枚つけてくれたんじゃないの。 魏ってユラーシア大陸の1番奥だろ
どうやってあんなとこから日本に来るんだよ
チャハーンが頭から離れん 邪馬台国論争は畿内で決着済みです
九州説や徳島説などは学術的根拠のない俗説に過ぎません
国立歴史民俗博物館
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c 「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」を朝貢してきた国に渡すもんなの?
個人的には1段2段下のもの渡す気がするが 九州の蛮族が、大和にあった邪馬台国から、コソ泥を働いた。
最後まで言わせんなよ、恥ずかしい。 代々の皇帝に受け継がれる玉璽とか
天皇しか持てない三種の神器みたいに
王の象徴というわけではないからこの鏡
ただの宝物 なんでもいいけど
ゴットハンドのような捏造はなしな、バカ朝日新聞 集団ストーカー(Gang Stalking)は精神病の妄想ではない - Togetterまとめ
https://togetter.com/li/796999
2015年3月19日 ...
A◇矢野絢也元公明党委員長は、 集団ストーカー行為等につき裁判を起こし、
2009年に勝訴した。
矢野絢也氏とその家族に対して、日常生活が困難になる程の監視、尾行、 恫喝に
よって 、警察が矢野宅の隣に常駐するに至った集団ストーカー事件である。裁判
の結果、敗訴して、集団ストーカー問題が広く知られる原因となった 事件
山本弘氏の集団ストーカーに関するまとめが偏っており、
集団ストーカー被害者=統合 失調症であるという印象操作の意図が感じられた ...
http://www.cyzo.com/2011/09/post_8463.html m
都内の大手コンサルティング会社から労働法の専門弁護士として依頼を受任し、
不都合な社員や退職させたい社員がいる際には、まず集団ストーカーと呼ばれる
手口で、その社員の 周辺に複数の人間が常につきまとい、その社員に精神的苦痛
を与え続け、その社員がたまらなくなって、 怒鳴ったり暴力を振るったりしやすい
ようにする、もしくは精神的苦痛で自殺しやすい状況にする行為を続ける
☆このような集団ストーカー行為、もしくは産業医の制度を悪用する手口を使って
、被害を訴える個人に対し、 統合失調症等の精神病として診断書を作成して被害者
の発言の信憑性を低下させ、その上で産業医が治療と称し 措置入院等を行う事で、
報道、捜査機関、裁判所等を欺いて対応が出来ないようにし、さらに一般市民を
自殺や泣き寝入りに追い込むhgんfgfg >>15
こらこらひっくり返して言うな盗っ人近畿パーww >>22
畿内説の歴博の人に聞けばそう答えるのは当然だろ
お前頭悪いなぁ
それにその佐原真はゴッドハンドの仲間だぞ
あんな奴の言う事を信用するのか? おそらく曹丕が隠居して別府温泉で老後の生活をしたからだな >>15
近畿パーのチョン体質がどうしても出てしまうよね >>23
だよね
漢の時代に皇族を北方遊牧民に贈った事例見ても、
同格もしくは争いたくない所により高価なもん贈るのが当時の中国外交だよね >>5
そりゃだって邪馬台国があったのは九州の御井だもん。 邪馬台国の場所なぞ、
関西弁の卑弥呼と博多弁の卑弥呼を想像し、
どちらに魅力を感じるかで決めれば良い 同型が存在する量産型ゲルググクラスなので重要文化財どまり
国宝曜変天目茶碗はネオジオング 日本武尊 が 九州の蛮族 を退治したのは、古事記に載っている史実
いい加減、邪馬台国、九州説は 某推理作家のたわごとと気付けよ うきはに有ったヤツを戦乱とかで避けて疎開させてたとかな。 >>37
日本は東の大国だからな
同じもん送るんだろう >>51
曹操は人間の体はただの器って
仙人から聞いて知ってる >>25
大和には粗悪な珍獣鏡くらいしかありませんw
残念! 「なぜ、九州に?」という研究者が大バカ
漢文を勉強して、中国の古書と魏志倭人伝を読め >>1 卑弥呼がもらった鏡が九州に
?研究者らは首をかしげる?
歴史学者がどう言いつくろうと厳然たる事実 >>56
ゴッドハンドを忘れたい人、無かったことにしたい人、知らない人が畿内説なんだろう
なにしろ歴博はゴッドハンドの共犯者だから ●金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)
復元
http://i.imgur.com/cWaweIN.jpg
大分県日田市日高町にあったダンワラ古墳から出土したと伝えられる弥生時代中期の鉄鏡。
銀を象眼した鉄鏡は、日本国内ではこれしか出土していない。
また、中国の三国時代に書かれた『曹操集訳注』には、
魏の曹操が金錯鉄鏡を持っていたと記されており、
この種の鉄鏡は高位の支配層の所持物であったと考えられる。
1933年(昭和8年)、国鉄久大本線豊後三芳駅付近で、線路の盛土を採集している際に
出土した石棺の中から発見されたとされる。
しかし、この鉄鏡は注目を集めることなく、行方も分からなくなった。
1960年(昭和35年)に京都大学の梅原末治が奈良の古物商からこの鉄鏡を買い取り
天理大学附属天理参考館に依頼して研ぎ上げると、
1962年(昭和37年)に金銀玉による模様が施されていることが明らかになった。
そこで、梅原は、発見者の渡辺音吉の案内のもとで現地調査を実施。
その結果、日田市日高町の通称ダンワラと呼ばれる場所から出土したものと判断され、
その場所がダンワラ古墳と呼ばれるようになった。
ただし、発見から調査までの間に約30年が経過しており、
出土地点は前述の線路工事によって発見当時に破壊されていたため、
ダンワラ古墳が実際の出土地であったかどうかは確かではない。 >>26
大陸的には鏡って 権威づけとしては意味なかったんだろうね >>45
古事記の大嘘物語を令和になっても信じている、大バカ >>45
古事記や日本書紀の記述を「史実」というなら東遷も史実という事になる
九州から東遷してヤマトになったと見るのが自然だと思うけど 佐原真か。黒岩重吾とテレビで討論してたのを思い出す。あれ以来権威なんだ、ふーん
黒岩は小説家だが説得力があった ん?発見者がいたならそこで見つかったんだろう。しかも現地まで行ってるし確定なんだな。
やっぱり邪馬台国は九州だったんだね ゴ ッ ド ハ ン ド
日本各地にそれっぽいのを埋めまくって荒らしたんだろ奴が 曹操は魏王で、こちらは親魏倭王だから、だいたい同列ってことでいいんじゃないの?
彼は帝位にはつかなかったんだから。 この金銀錯嵌珠龍文鉄鏡がでてきたダンワラ古墳の解説
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は1世紀〜3世紀に作られたものですが、
鉄鏡が納められていたダンワラ古墳の竪穴式石室は、
出土した辻金物の細工から、
5世紀〜6世紀に作られたものだということです。
(梅原末治氏の論文より)
3世紀じゃないので卑弥呼ではありません 卑弥呼が文通してたのは曹操の孫だっけ
曹操がカエサルの260年後生まれ
なんだかなー ところで卑弥呼の鏡は、長宜子孫銘内行花紋鏡なんだろ? 日田って豊臣氏も江戸幕府もそこを直轄地にした要地なんだけど、日田盆地そのものは
七万戸もかかえるキャパはなさそうだよね。
ここが邪馬台国の一部としたら大きな人口を養える後背地があると思うんだけど、宇佐のある
中津平野ではないかな。東が海だし。
日田〜宇佐を基軸にした大分県一帯が邪馬台国とか、考えるとおもしろいな。 >>69
あの鉄鏡が日田で出土したことはほぼ確定だと思うよ
発見者がいるのだから当然
ただ、
卑弥呼がもらったという証拠はない 卑弥呼は朝鮮半島からの渡来系で在日コリアンてことが確定してんだよな
ってことは・・・・ >>4
大和へ向かう魏の使節から強奪したんだろうな >>79
数字はあまり参考にしなくていいと思うよ
そもそも7万とか誰が数えたのか?という話から始めないといけない
単にそのくらいたくさんの家があるという程度で、深い意味はないだろう
戸数なんて6万5千でも7万5千でもよかったと思うよ >>82
歴博の元館長だろ?
>>22みたいなwww >>61
そんなの常識です。
<箸墓古墳で馬具出土>
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
<参考>
・発見場所は周濠の底で、4世紀の土器の破片の下に埋もれていた。
・半島・日本ともにこれまで出土してきた馬具は5世紀のものが最古である。
<馬具研究史より>
樋口隆康「鐙の発生について」は、中央アジアの騎馬民族に
鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に
足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、
中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。
奈良は中国よりも先に馬を導入していた事にしてしまう纏向学はもはや宗教w キチガイの畿内説論者が最大の拠り所とする畿内出土の鏡が中国では一枚も出土せず、
日田で見つかった鏡と同型が曹操の墓から出土。
もう結論出てるだろ。
九州上陸から140kmのところに邪馬壱国があると魏誌から読み取れるしな。 >>71
どちらかというと朝鮮人が嫉妬して沸いてるようなw BC770年 春秋戦国時代
│
BC221年 秦(キングダム)
│
BC206年 漢(項羽と劉邦)
│
184年 三国時代(三国志)
│ ←────────────卑弥呼
265年 晋
│
439年 南北朝(蘭陵王)
│
589年 隋
│
618年 唐 テクマクマヤコン、テクマクマヤコン、ぬるぽにな〜れ〜 実はその当時から九州と畿内がライバル関係にあったのかもしれない。 >>87
邪馬壱国はなかった
畿内説に止めを刺すために、古田説とは縁を切るべし 九州は今の沖縄みたいな状況だったってことじゃないの。
中国の半ば属国。それを追い払ったのが畿内勢。 >「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」
曹操はあくまで自称皇帝だろ。
中国全土を統一できたわけじゃない。
蜀の劉備も皇帝を自称したわけだからな。 鉄鏡が日田で出土したと思ってるやつがこんなに多いとは唖然とする
そりゃ、九州説みたいな俗説を信じるわな >>85
いや、「ゴット」と「ゴッド」の違いの話だよ。
年と取ると濁点が見えにくくてね。 種子島でポルトガル人が持っていた鉄砲を見て、すぐ国産化したように、
曹操が持っている鏡を見て、同じものを作ってしまったんだろう。 考古学者は捏造ばっかりやるから信用できない
古美術商は由来、謂れを調べてるから信用できる
九州説を信じてるのは、こういう思考回路の人間だけ 20年前のゲームである三国志5ですら卑弥呼からの使者が来て進物を貰ったりの歴史イベントあんのに何を今更?
まさかコーエーの開発者のが学者さんより詳しいなんて有り得ないだろうし 畿内ゆうたら、あおり運転の宮崎や、あおり運転の坊さんのいるところ。 >>45
邪馬台国が九州なのか畿内なのかは別にどっちがどうでもいいんだけど、
もしも九州説が正しいなら、なんで巫女の治める聖なる地が後世『熊襲と蝦夷』って北方と同様に蛮族のくくりにされてるのかが、自分の中ではわりと謎 正直邪馬台国は畿内周辺のどこかで決まりだと思うが、
九州は前邪馬台国時代がどうだったか調べるのに最適な場所。
色々見つかるといいね。 鉄砲は国産化できたけど、大砲は幕末まで作れなかった
鏡も精巧な物は全て中国製とされてる >>111
熊襲は九州南部だろ
九州全域ではない
球磨と曽於でクマソな 卑弥呼は朝鮮とか無視して帯方郡楽浪郡 中国の 領土であった ところに船だして講演してるから なぜ九州に?とか寝言は寝て言えと思うよ、卑弥呼は九州にいたから九州から
出土するのは当たり前田のクラッカー、 >>111
畿内勢力もまた、その後百済の亡命政権に乗っ取られたから
九州勢力 → 畿内勢力(九州勢力から東征) → 百済勢力(半島から亡命)
と権力の座が移り変わっていったと考えればいい あれ、日本の鏡は呉の魯粛が日本の勢力と友誼を結ぶために持ち込んだんじゃなかった? 三角縁神獣鏡
・詩壇を形成し文学を重んじた魏の皇帝が贈ったとは
思えないひどい銘文
・中国鏡で径20cmを超える鏡は稀なのに、三角縁は20cmオーバー
ばっかり
・皇帝の名の下に贈ったら皇帝の面子丸つぶれの粗悪な鏡ばかり
・中国本土で発掘された三角縁神獣鏡はゼロ
中国で作ったなら一個くらい見つかってもいいだろ
・そもそも神獣鏡は呉があった江南地方の鏡
敵国の鏡を贈るかバカ 卑弥呼が福岡で、台与が豊の国(大分)で、その流れが日向にくだって
日向から畿内に移動したん(東征)じゃない?
台与が日田に鏡を忘れただけ。 歴博の元館長佐原真はゴッドハンドの後援者
その佐原は畿内説
つまりそういう事だ 天外魔境V NAMIDA という作品があってだな…(以下略 >>124
三角縁はもう500枚ほど出てるしなあwww >>124
魏志倭人伝に書かれてるのは「鏡」であって「三角縁神獣鏡」とは書いてないもんな
三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から貰ったものだと言うのは,実はあまり根拠がないんだよね 考古学者は捏造ばっかりやるから信用できない
古美術商は由来、謂れを調べてるから信用できる
まったく理解できんのだけど、どうしたらこういう判断基準になるのか誰か説明して 日本一の高校文化祭と言われる都立国立高校の「国高祭」が美しすぎて美術館気分が味わえた
http://nvoie.proheroeyewear.com/z3xn/989378.html dfsfsafewafdsa >>133
ゴッドハンドな考古学と
偽物つかまされたら生活に直結する商人の意識の違いじゃないかな? >>116
熊襲とヤマト民族は人種が違う
琉球人と南九州人の生体観察 一アイヌおよび韓国人との比較一
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/87/4/87_4_393/_pdf
現代日本人の多くの血液型で海外人種と一番近いタイプは中国南部の「湖南型」で、中国東北部の「満州型」や「朝鮮型」とはかなり違うとされる。
一方で、指紋型は朝鮮南部に近いとされる。
そして九州南部地域は現在でも血液指数、指紋指数が特殊な数値を示す。 >>137
それは俺が>>111にレスしたことと関係があるのかね?
それとも熊襲というキーワードに反応しただけなのか? >>121
たまたまだが、4世紀末に半島政権が入植してきた形跡がある。
<奈良の歴史>
〜2世紀末 唐古・鍵最盛期
3世紀後半〜4世紀半ば 纏向最盛期
4世紀末〜↓ヤマト政権の種ご到着↓
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。 金印は出てるし次は鏡かよ
近畿説は柱の穴だけだから掘りまくって何か出さんと不味いな 卑弥呼は巻向で桃ばっか食って下痢ばかりしてましたから、それちゃいます by 畿内説学者 >>139
秦氏や東漢氏が国を治めたことなどないw 九州説に追い風。卑弥呼死後の倭国内乱は神武東征の舞台 >>135
考古学をゴッドハンドと決めつけか
もうカルトだな
考古学者は九州にとって憎い敵ってことだな >>147
何しろ畿内説の佐原はゴッドハンドの後援者だもの
言い逃れ出来ないぞ
畿内説なんてその程度だ 九州説信じてるのは、 神津恭介 ぐらいだろ
だから、人気で 明智小五郎や金田一耕助はまだしも、古畑任三郎にすら負けるんだよ。 >>143
直接ではなく間接的にだろ。
大和は小国だったが、半島豪族の知恵を授かり、九州含め日本統一を推進することが出来たということだ。
旧唐書の遣隋使の説明「日本舊小國,併倭國之地」の意味がわかる。
日本使者が正確に説明できなかったのは、中国と反目の半島豪族だったから。
となればどこの豪族が渡来したのか見当もつくだろう。 はい、畿内説派はジャンピング土下座の用意をお願いします♪ 他の出土品は6世紀くらいの馬具みたいだし、日田治めてるやつに中古品をくれてやったんだろう >>154
吉野ヶ里は邪馬台国ではない。
邪馬台国は移動しているから。 >>24
大分の日田福岡の久留米と佐賀は隣どうしだからね 佐原はゴッドハンドがねつ造してることを薄々ながら、あるいははっきりと認識してたはずだよ
そういう学者として、人間として最低な奴が畿内説なんだよ
だから畿内説はありえない >>158
畿内説学者の頭の中にあるのは、確かです。 なんせ地面からは穴と種しか出てこないから。 日田市は隋書の言う邪靡堆の都だと思うね。
つまり邪馬台国ということ。
関東人だからわからないが、阿蘇山も見える? 邪馬台国の使節団に対して友好の証として授けたんでしょ >>162
鉄鏡の出土は日田で間違いないとは思うけど
その出土した古墳があまりパッとしないものだったみたいだから
邪馬台国がそこに存在したとは思えない
鉄鏡がそこに副葬されるまでのストーリーに興味があるわ 畿内派は絶対に言いたくないから代わりに言ってあげましょう。
つまり卑弥呼の一族の末裔の墓から見つかったわけですね♪ ただ、
そもそも
この鉄鏡と邪馬台国に何の関連があるんだ? >>160
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い
って感じですげーなw
佐原はゴッドハンドを知ってたと決めつけ
佐原が館長やってた歴博の他の学者も捏造やってると決めつけ
他の考古学者も同じ考古学の世界にいるから、全員グルで捏造やってると決めつけ
考え方が終末思想のカルト信者と一緒だな
関わってはいかんやつだと理解した >>168
当時の鉄類は金持ちの象徴だったからね 畿内は貧乏人の象徴と言われる物しか発掘されていない 邪馬台国はエジプト
邪馬台国の南の狗奴国はスーダン
スーダンの意味は黒い人
黒い人→日に焼けた人
狗→旬→日に焼けた
馬韓は「馬が多い倭人の国」
弁韓は「鉄が出る倭人の国」
辰韓は「貝が多い倭人の国」
韓=朝とは違う=未熟では無い
朝=未熟
鮮=不毛
李成桂は朝鮮王代理 >>139
渡来人じゃなくて神武一派じゃないの?
古事記とかの最初の時空の歪みをその辺スタートにすると大体いいんじゃね
そもそも700年代に紀元前からの歴史物書き上げるって無理が有りすぎる こういう凝り固まった思考だから、鉄鏡は日田で出土したものと思い込むんだろう >>168
金印は後漢、鉄鏡は曹操との縁があった事を示している。
他の地域ではそうしたニアピンと言える出土品が無いからねえ。 >>169
違うな
まともな考古学者も存在してたよ
文春に殺された賀川教授とかな
佐原はゴッドハンドを知ってたから無茶苦茶な理屈でゴッドハンドを擁護してた
歴博の佐原の下の学者は、サハラの意向に逆らえば生活できないのだから仕方なく畿内説に賛同する
というのは社会を知っていれば分かる事だ
それにだ
歴博の学者でも邪馬台国を専門に扱うものなど一握りだ
ほとんどの学者は邪馬台国の研究などしていない
だから上が畿内説と言うのならそれに従うだけだ
本人に不都合など何もないのだから
専門外の学者まで畿内説だと言い張るお前はただの詭弁の大ウソツキという事でしかない 卑弥呼ははんこの文字読めたんだろうか
少なくとも側近のインテリは読めただろうな
魏の使者としても相手が理解してないと有難味が分かってもらえないしな >>171
>>176
はっきりと書かれてないし、そのものずばりな文献も根拠もないんだよなぁ
中国の皇帝が持つくらい豪華な鏡
金印が出た
曹操
何となく雰囲気的にそうかなってだけなんだよね
まぁ、畿内説よりはるかに信憑性はあるというのは確実だけどねw 邪馬台国ってはるばる洛陽まで使者を送ってるんだよな
昔の人は偉いわ
なんか申し訳なくなってくる 桃の種が出たぐらいでマスコミを使って大々的に邪馬台国をアピールする畿内派からしたら
曹操の鉄鏡なんてその辺に落ちてるゴミ程度なんでしょう♪
世界に数枚しかない皇帝級の鉄鏡なんてゴミ、そうだよゴミなんだよね(笑) >>173
半島式のオンドルが多数出土してるんだよ。
纏向遺跡から少し南の地域で。
明日香では他にも同様の遺構が発見されてる。 250年後の遣隋使で挑発したタシリヒコが九州人か聖徳太子かどちらだろうか。 福岡の採銅所は当時国内最大の銅の産地だった
銅鐸たくさん発掘されてるし何を今更な
関東の学者はバカばかりなのか? ヒント 1933/01/01
1933/01/03
日本軍が山海関を占領する 佐原と言えば・・・
魏の時代の倭人は半島で鉄を調達していた。
■魏志韓伝より
「國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡」
(国には鉄が出て、韓、?(ワイ)、倭がみな、従ってこれを取っている。
諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は市で通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を使えるほど潤っていた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓鉄の出土状況
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png
■推測されること
・畿内政権は鉄を取りに行っていない
・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
・一大率は畿内への鉄の供給を行わなかった
■結論
・3世紀の北部九州と畿内の関係は希薄だった
・一大率は畿内政権とは無関係だった
・畿内は倭国ではなかった(倭種の国?)
■裏付け
纏向遺跡では九州産や半島産の土器は出土していない。
もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」(開き直り) ほとんど中国人だったんだろうよ。
日本人の意識が出てくるにしたがって東に住処を変えていった。 >>154
吉野ヶ里は殷の末裔が建てたって誰かが言ってた >>187
晋の武帝紀に、289年に疎遠の東夷30国が見舞いに来たと記録されているが、倭国伝の方にはその記述が無い。
それ以降の史書にも「女王、女王国」という文言は無い。
おそらく3世紀末頃にはもう邪馬台国は存在しなかったと思われる。 九州説は学問を真っ向から否定してるけど、この先どうしたいんだろうな
余計なお世話だけど >>192
そんな人はいないと思うぞ
畿内説は上司の顔色を見てるだけだろうがな >>24
イト(伊都)→ヒタ(日田)
ちょっと苦しいか >>191
男が統治してたら、そりゃ女王国とは呼べんだろ?
記述がないから邪馬台国は滅亡した、って早漏すぎるだろ? 近畿説の権力を総動員して真実をもみ消す姿勢は学問に対する許しがたい陵辱として許すことはできない。 奈良県が強引に主張してたんだろ
奈良出身の芸能人ってワガママな奴しかいないし >>1
運ぶ途中だったんだろ
金印だって畑に放置だったし不要になったのかもしれんし
卑弥呼の時代だかに祭祀用銅鐸を廃止したとかなんとかいろいろあったみたいだし 畿内説の学者に踊らされ、市税を食い物にされ、捨てられてゆく桜井市
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。 >>186 もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
> 「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」(開き直り) >>202
遺跡もなにもないじゃん、あるのは穴っぽこにおいた発砲スチロール柱だけじゃん。
それ見て卑弥呼の宮殿を妄想させようとしても、誰もついてこないわ。 旧唐書に書かれた、怪しい遣唐使はどこのものだろうか。 >>202>>204
全然ダメやん。こんなの邪馬台国でも何でもないやん
上にも書いてあるけど日田で鉄鏡のレプリカを売った方が全然いいやんw >>180
正確には、帯方郡の劉夏って太守にお願いして
兵をつけて護衛してもらって、黄河を遡って洛陽に朝貢に行きました 晋書には卑弥呼は公孫氏の出身って書いてあるそうだぞ。
たぶん実家から持って来たんだろう。 日田市が丁度九州の真ん中で隋書の記述と合うんだよな。 >>203
学者連中の発言がイチイチ軽率すぎるんだよな、この分野は。
旧石器時代捏造が発覚したことでかなり厳しく指導を受けたはずなんだが、いまだに何も変わってないという事だ。 殷(商)が日本に行って周が華北で象徴やってたんだろ >>5
>>1
邪馬台国との位置関係
【もっと北】 (朝鮮半島)狗邪韓国
【北】 (九州北部) 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国
【女王国】 邪馬台国
【南】 狗奴国 >>177
佐原さんが亡くなって20年近く経つのに
歴博の学者がいまだに佐原さんの指示に従ってるとかありえない また奈良県民が激怒して、大人しい九州人の悪口を言うスレ >>215
>佐原さんの指示に従ってる
そういう時代の考古学会の体質がそのまま改善されず、今も繰り返されているという事だ。 >>211
日田は谷だから人が住むには向いてない
でも川沿いで木や水は豊富だから補給基地の可能性はある 東大だって、考古学でこの時代を専門にしてる設楽さんは畿内説だし
文献史学の大津さんも畿内説寄り
九州説は間違いだと分かったから自分の意思で畿内説を唱えてるんだろうよ >>168
文献的には無いよ。
ただ桃のタネが言うなよ。 >>224
俺は九州説だ
桃の種みたいなアホの畿内説とは違う >>223
東大生って暗記するのが得意なだけやろ
なんの役にも立たないから東大生がどんどん日本を衰退させてるんだろ >>223
また間違ったのかよ。学者としてセンスがないかもしれんな
本人もそう感じてるだろうよ >>225
世界に数枚しか存在しないものが出土したのに
九州と中国との関係考えて何が悪い? >>223
涙拭けよ間違いだと証明された畿内説www 大和の主体の、蘇我氏、物部氏、紀氏
みんなD系統ですよw >>1
日本人の祖先は韓国から渡来してきた。卑弥呼も韓国の出身で、地理的、潮流の理由から、卑弥呼は九州にたどり着いた。卑弥呼が韓国により近い九州にいたのは当然の話。 国内産レプリカ鏡にも景初三年と銘が入るわけだから、邪馬台国が朝貢したのは大事件なんたろうな。 >>230
実際、卑弥呼が渡来してきた韓国との位置関係を見ると、畿内説はあり得ない。
様々な証拠から、韓国人の日本人祖先説は最有力の説となっている。 >>235
史書では「倭人は呉越の末裔だと称している」と記述されている。
今で言えば華東あたりの出身という意味だ。
しかし公孫子の親戚だという説も有る。
いずれにせよツングース系では無いな。 埼玉県民だけど
転勤経験がある男女へのアンケートで住みやすい1位は福岡らしいな
来年から楽しみや >>235
イミフだキチガイ
例えば神武は隼人出身だ
半島と何の関係も無い >>237
当時確立してたルートは
山東半島→遼東半島→朝鮮南部→日本
もしくは山東半島→朝鮮南部→日本
だからまぁ両方いたんだろう あの時代って魏は
中央が治まったから
知識人は戻ってきてー蜀や呉も諦めようよって融和政策してて
大月氏に朝貢させたり
魏は偉大でおおらかな国ですよってのを触れ回ってたのよ
国としても新しい国だしね
そんな中、倭国は光武帝が朝貢してから長らく親交は途絶えていた
当時の中華で光武帝は偉人中の偉人だから
「あの光武帝が朝貢させてから途絶えていた倭国が朝貢にきた
これは曹叡様が光武帝クラスの徳の持ち主だから」
こんな形に喧伝させていただろう
結果として邪馬台国は国力に見合わぬ厚遇を受けた
金印紫綬自体が身に余る厚遇だろう >>223
戦前とかならともかく、東大に九州説なんて久しくいないけど…
多くの物証やら論文検討したら普通はそうなるから当たり前といえば当たり前 >>237
遺伝子検査してみたら
分かるんだよね。 >>53
魏としては邪馬台国を大国にみせたかったんだろう。 >>165
そうかな?
ダンワラとか漢字表記されず、
由来もわからないし、
更に西へと行けば、近い緯度に、
トンカラリンという
時代も漢字表記もない遺跡がある。
しかも、近くに、頭部変形したシャーマンの
ような女性も発掘されてる。
漢字表記ないだけでも、パッとしてるけどね。 これ分からんが多分戦乱避けて疎開させてた説が一番あり得ると思う。
ワザワザ疎開させるくらいの価値はある鏡だ。
卑弥呼の鏡である可能性があるが、だからと言って日田が邪馬台国だと言うことにはならないと思う。 <<九州はいいがなぜ日田なのかだな。
いわゆる邪馬台国は 山門郡筑紫にあった女王国
日田付近にいた大神姓の一族が 日向に移り 後に東征した
近畿ヤマト国は 後に 筑紫の女王国を土蜘蛛として滅ぼしてる >>214
誰が公孫氏を滅ぼしたか知ってて言ってるのか? >>3
東京で野菜炒めを頼んだら、肉の入ってない野菜炒めが出てきた苦い思い出 この前、狗奴国を熊本に比定して、九州説の立場に立った人くらいじゃないかな
松田さんだっけ?
どういう研究者なのか知らないけど >>15>>32>>35
インターネット掲示板2ch等での日本人の分断工作(日本人同士を対立、分断に仕向ける)
と思われるスレを発見した場合、その工作スレを報告するスレです。
「ネトウヨ」「トンキン(東京)」という言葉は2chでよく見かけるだろう
あれは在日朝鮮人の工作員の書き込み
松井のスレでイチローを叩き、イチローのスレで松井を叩く
野球のスレでサッカーを叩き、サッカーのスレで野球を叩く「焼き豚」
東京のスレで関西を叩き、関西のスレで東京を叩く「トンキン(東京)」
東京−大阪 の対立を煽るだけでなく、中間地点の名古屋を叩く
これは組織的におこなわれてる「日本人分断工作」です。 2 :おさかなくわえた名無しさん:2013/09/22(日) 21:51:24.15 ID:zztj/Fdo.net3
おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2011/11/18 01:36:33 ID:MTw7G8Z4(6)
自分は在曰(帰化申請中です…)ですが、
みなさんの言うホロン部(笑)というようなものの活動は確かにあります。
その中で教官から渡されるものに色んなネットでの工作活動の
マニュアルがあるのですが、少しだけ御紹介すると
分断演習というマニュアルには日本人同士の様々な対立を煽るというもので
2chの一部における野球ファンとサッカーファンの露骨な対立関係も
我々が色々と装った成果ですし、イチローファンや松井ファンの
対立も我々が煽ってます。マニュアルには
「一つのIDでどちらかのファンを装い片方を徹底的に叩き
国籍や祖国に関する指摘・煽りは徹底無視」と言うような感じで
なるべくばれないようこのマニュアルに従い努力しております 三国志展行ったら
公孫氏の使ってた他に類をみない
盃が日本各地で見つかってるそうで
光武帝に朝貢→後漢が荒廃して朝貢で技術や学べなくなるので
新興の公孫氏に朝貢って形だろうな
いつものとおり公孫氏に朝貢しにいったら
滅んでで魏に連行
こんな感じだろうな >>259
卑弥呼が魏に送ったもの
男生口(奴隷)四人・女生口六人・班布二匹二丈
魏から卑弥呼に贈られたのもの
紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧
・真珠・鉛丹各々五十斤皆装
故に鄭重に汝に好物を賜うなり。 邪馬台国爺は邪馬台国以外に興味ないのかもしれないけど
年表的には
239年:公孫氏滅亡(討伐は魏配下の司馬懿)
244年:侵攻を巡り魏皇帝と司馬氏による対立激化
249年:司馬氏によるクーデター
265年:司馬氏による王朝交代(初代が女色に耽り乱を誘発)
316年:晋は中国北部を喪失。中国北部は特に戦国状態で酷い状態になる
隋に成るまで戦国状態と思って可
又、首都は大概中国南部と思って可
中国がそれなりに安定した長期統一政権になるのは唐までかかる。618年から
ちなみに隋も統一するけど短命王朝(約40年間)
おそらく、日本の事なぞ気にしてないし
気にする余裕もない
まぁ中国南部だと交流もしにくいし 邪馬台国がどうのとかいう話にはまったく関心がないが、日本語は、どうみても
中国語をピジン語として流用して形成されている。中国語の流用が話し言葉に
おいても大々的に流用されて日本語の中核を形成していて、その流用を取り除い
たなら「日本語」として何も残らないだろうと思えるほど大きく影響を受けて
いるのだから、日本語は、むしろ、その基本が中国大陸の側で形成されて
列島に渡ってきたと見るのが自然であるようにも思える。 中国語の流用が話し言葉においても ×
中国語の表現が話し言葉においても ○ 畿内説論者「なぜ九州に?」
畿内説論者「なぜ九州に?」
畿内説論者「なぜ九州に?」
畿内説論者「なぜ九州に?」 曹操と関係が深いとなると
卑弥呼=張魯の一派って考えてしまう 隋の2代目の日没する処の天子煬帝ようだいは
国が傾くほどの運河事業を行って中国の北と南をつなげる
この運河は中国を大いに発展させるが
作るときに金使いすぎで弱体化して隋は滅ぶ いろいろな説があるけど
全部邪馬台国なのよね
何で小さな国だと思ったのか 前方後円墳も初期は九州の筑前が一番多いんだよな
二位は播磨で、大和は三位
つまり弥生後期までが九州時代じゃなくて、古墳時代の初期まで九州が優勢 >>1
出土状況が怪しいのレベルを超えて、状況証拠としては真っ黒
これで鏡が日田出土だと信じてしまうって、相当おめでたいやつ >>273
紛失して30年後だから
間に戦争もあったし
どうも、邪馬台国爺は時間の概念が無い だいたいわかってきた
五胡十六国時代に盗掘されたモノが朝鮮半島まで流れてきて「チョーナウイ装飾品ニダ」とか言われてそのガラクタを九州の古代人が摑まされた
そんで、それを発見した現代人が魏の頃は価値があるものだとびっくりしているでOK? 畿内説の学者に騙されている人は、
南京大虐殺も従軍慰安婦も教科書に書いてあるから全部真実、ゴッドハンドなしと思ってるの? >>276
カビの生えた九州説信じてる奴にも、同じことゆーてあげて >>24
もらった当時は最高の物でも、何世代か後になればそれほどありがたがらんかもしれんしな。
日田に行く子孫に形見分けされただけかもしれんし。 >>317
曹操の墓が河南省で確定なら
所謂、317年東晋以降の時代なら盗掘はいくらでも可能だろうな
北部は晋の統治エリアじゃない上に、戦国時代で特に酷いから
当然317年以前に負け続けるから、東晋に成る訳だし
邪馬台国爺は中国はずっと平和な時代が続いてると思ってるのか
バカ故に何も考えてないのか 古美術商が入手したときの錆びの状態がどのくらいだったんかな
曹操の墓から出た方は、錆びた円盤にしか見えないけど、もう少しましだったのだろう
曹操のは、現代の技術でも錆び落としができないってことか >>277
涙拭けよ否定証明完了済みの近畿パーwww 邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
>>283
もともと、説の主流が九州説→畿内説、に移行したからな
古い人ほど九州説信じてる
今40代くらいだと、九州説が事実だと思ってる人も多いんだとさ >>277
>>285←こんなもん一つ反論出来ないくせにほざくな近畿パーwwww >>177
酷い話だ。畿内派はサイコパスかよ全く>>202これも
>>215
門脇貞二が死の直前に似たようなことを書いてる。現役の時は本当のことが言えないって
従軍慰安婦や南京大虐殺だってもう検証すら出来なくなってるだろ
古墳時代に入ってもなお初期は福岡の筑前が1位。大和は3位
なのに纏向に絞ってサイコサイコ宣伝する。一つ嘘ついても、他の全体で不自然なのがバレる 畿内も出たらいいね、皇帝級の鉄鏡。
お得のゴッドハンドはダメよwwwwww >>287
九州説には何ひとつ物証がありません
はい。論破^^ 古美術商が入手したときは、それが鏡であることは分かるくらいの錆びだったのかも 奈良の関係者なのに偉いな、騙しもせずに日田で見つかりました。なんて正直に言うなんてさ
これが、新一なら俺が見つけた、巻向で見つけた!って言ってるよw
間違いなく言ってるわなwww そもそも、時代がズレてるよな。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は漢の王族が所持していた、と言われているけど
後漢が滅びたのは220年
卑弥呼が朝貢したのは238年(239年?)だしな 畿内説の学者どもが週刊誌使って九州説の学者を自殺に追いこんでからは
表面上は畿内説の学者しかいないという悲しい現状がある
地方の学者は畿内の学者どもは地獄に堕ちろと本気で思ってる >>237
ツングース系と縄文人の混血が進んでる所へ呉越の人が若干後から入って来たと現時点では推測するかな。 >>125
ちなみに旧国名の「日向」以外には「日向」という地名は日田市付近に
多いらしい。旧国名の「日向」は景行天皇が名付けたということになって
いるけど、日田市付近のほうは定かではない。
つまり仮設として日田市周辺の「日向」は実は「ヒムカ」で卑弥呼の勢力
範囲を示しているという説もあるわけ。そうしてちょうど日田市から英彦山
の裾野を抜けて「(葦原の)中津(国)」に移動して「豊(トヨ)の国」ができ
たわけだ。 邪馬台国の北っかわを糸島の人に任せてるという記述だけでも近畿説を論破出来るのに学者ってすげーや 2位の播磨が3位の大和より上なんだよ
畿内説を唱えてもいいよ? ただし播磨の方が大和より上だから >>250
人口的には中国周辺国の中では文句なしの大国だったが、
面積的には小さかっただっただろうな。
それを大きく見せたいという思惑は働いた可能性高いだろうな。 朝鮮人が盗み出して倭人に売りつけたんじゃないの?
まあ邪馬台国とは何の関係もなさそう >>254
中央に報告した人がって話じゃね?
当時の中央もその方が都合がいいから、そういった資料を作成し、
編纂時に参照されたんだろうし。 >>286
2015年時点
邪馬台国はどこ?
1位:九州説 54.4%
2位:近畿説 35.7%
その他 9.9%
https://i.imgur.com/UNP7rJ5.jpg >>303
画像だけじゃなく、その画像の元記事読もうぜ
ttps://j-town.net/tokyo/research/results/218148.html?p=all
>今回の投票では、多くの日本人が「邪馬台国は九州にあった」と考えていることがわかった。
>だが実は――、卑弥呼の墓という説もある「纏向遺跡」(奈良県)が2009年に発見されて以来、
>現代の学説では「畿内説」が比較的優勢となっているらしい。
>
>いったいなぜ、学会の風潮とは真逆の結果が出たのだろうか。
>おそらくそれは、学校で「邪馬台国論争」を習った時期が関係していると思われる。 結局邪馬台国は九州にあった、て事だろ
それから邪馬台国が、皇室に継っているかもわかっていないんだろ
邪馬台国は、数ある都市国家のひとつ、そう云う事だな >>304
纒向邪馬台国説捏造計画開始から10年経過したところで行われたアンケート結果だ。 >>306
陰謀論とか好きなんだね。
糖質傾向強いから、きをつけてね。 >>111
戦争ばっかりしている邪馬台国とその周辺国が、
カリスマある卑弥呼が亡くなったあとは
また戦乱だろ。台与もいつまで持ったか。
大陸からのお土産ももらえなくなった。(魏の滅亡)
邪馬台国は滅んだとみなすべきだろ >>255
その松田さんについての詳しい情報があるなら、ちょっと興味あるよね。 まだ畿内説(笑)なんか盲信しているヤツがいるけど
嫌儲で生息しているチョンモメンとかいうキチガイなのかな?? 魏志倭人伝に記述のある植生を見るとクスノキ科の木が多数記載されています。
■卑弥呼の時代に確実に存在していたクスノキをピックアップすると
樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市木宮木の來宮神社
樹齢1800年あたり
・確認できず
やはり九州など温暖な地域が浮かび上がります。 ダンワラ遺跡?だっけ、鏡は隠すように横穴から出て来たそうだ。
その他はたいしたことない5、6世紀?の物ばかり、卑弥呼一族もしくは邪馬台国の末裔が衰退していく様子がよくわかるね。
邪馬台国は滅びたんだね。4、5世紀ぐらいから日田にも新しい風(大和?)が入ってきたんだろう。
末裔も亡くなったことだし家宝の鏡は共に葬られたんだろう。 >>202
邪馬台国じゃなく大和の首都にすればいいだけなのにな。 >>290
イミフだよキチガイ。
物証が何一つ出てこないのは畿内説だろキチガイ。
桃の種が邪馬台国の物証かキチガイ? 邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
>>277
>>285←こんなもん一つ反論出来ないくせにほざくな近畿パーwwww >>299
土木技術関係は元銅鐸県内の播磨の方が上だったんだろうが、
果たして富んでたのはどっちだったんだろうか。
僕は大和の方が富んでたんじゃないかと思ってるけどな。 当時はきれいなわき水が飲める上流に位の高い人たちが住んでたんだろね
伊都国とか奴国に住んでたのは下級国民だろ。
福岡市の吉武高木遺跡って
最古の王墓かも知れないっつって
最古の三種の神器が一箇所から出土した超ド級の遺跡なのに
それ全部認めた上で、掘り返して埋めて、
真上にただの糞みたいにどーでもいいド田舎の農道通してんだぜ?
九州の王朝と、近畿の王朝と
まるで無関係なの行動でまるっきりゲロってるだろが。
隠してるつもりか?
ただなんでもトボけてりゃいいってか?
猿だろw
>>304
>1960年代から2000年代半ばまで、学界では長らく「九州説」が有力視されていた。
これどうなんだろうなぁ?
俺結構オッサンだけど、俺が学生のころにはすでに
学説では近畿説が有力ってなってた気がするんだよなぁ
1990年に入るくらい当たりじゃないか >>111
九州南部説ならそうかもしれんが、
九州北部は日本に併合されてから近代直前まではずっと日本の主要地域の一つだったと思うよ。 30国の邪馬台国が大国ならその前の百国は超大国だろ、朝貢もショボいし台与のほうが大きくなってるだろ、百が争いあい分裂しまた台与で纏まったとすべきか? >>303
それ数年でひっくり返るよ
2、3年前に改訂になった日本史の教科書には、邪馬台国は畿内が有力と書かれるようになった
教科書はいきなりガラッと変わるもんではなく、改訂の度に少しずつ記述を強めていくもの
九州説は今後もどんどん劣勢になって行って、最後はこのスレにいる狂信的な信者しか残らんだろうな >>322
僕も九州説に乗り換えたの90年代前半だったような気がする。 明治維新で薩摩土人どもが畿内から奪ったんだろ
さっさと皇室に返せよ >>322
5chの九州説は息をするように嘘をつく&罵倒連呼しかしない人たちだから相手しないほうがいい
まともな九州論者が気の毒なレベル >>325
高校生くらいまでは畿内説信じてても、自分でいろんな資料見て考えてみると、
結局九州北部説に行きつくんだよ。 九州説というか九州の邪馬台国町おこしが一時的に元気でたのは吉野ヶ里ブームの時期だけど、邪馬台国よりはるかに古い時期の遺跡だとはっきりわかってからは元気がなくなった。九州人ですら昭和後期には九州説に懐疑的だったな >>304
そもそも学会は、邪馬台国論争なんていう学問成果の出せる見込みがない問題は相手にしてない、というのが正しい 普通の人は、教科書に書かれていることを信用する
このスレの九州説のやつらが異常なだけ
日本史の教科書には、考古学者が捏造した嘘デタラメが書かれてると九州説信者の全員が思ってるんだろ?
世の中にはごく稀に頭のネジがはずれて、こんな陰謀論みたいなこと言うやつがいるが、
そんな1000人に1人か、10000人に1人だろうよ
その異常者だけがこのスレに来て、九州説をしつこくごり押ししてるわけだ >>330
吉野ヶ里ブームって平成初期じゃなかったっけ? >>111
九州倭国と近畿日本は別の王朝だから。
はい、論破w
神武は東征したのでは無く
近畿日本に招かれて頭に据えて貰った雇われ店長。
ヤマト王権なんか存在しなかった
前方後円墳は単なる流行
前方後円墳は九州発祥
古墳時代になってから渡来人がやってきて、ヤマト王権をつくった
7世紀まで、倭国と日本に分かれていた
5ちゃんねるの九州説信者は、こういうトンデモを主張するやつばっかり
九州説前提のオレ様古代史を作ってしまう
理解不能なやつらしかいない >>332
教科書に邪馬台国の所在地なんて書いてないだろ 神武雇われ店長の副作用
頭を他所から借りてくると言うウルトラCは、それなりに効果はあった。
中国はウソだと気づきながらも、結局は近畿日本の言い分に渋々乗っかった訳だから。(新唐書)
しかしそのかわり深刻な副作用も起こした。
1. 正史である記紀が捏造だらけになったこと。
2. 焚書をせざるを得なかったこと。
3. 王族でありながら敵国へ寝返る人間などクズでしか無かったこと。
近畿日本は神武のタネのカスぶりに苦しめられることになる。
その端的な例が欠史八代。
4. 天皇暗殺。仲哀が暗殺されたのは実に仲哀が神武系のバカだったから。
「せっかく崇神で持ち直したのに、ヤマトタケルと言い仲哀と言い、またバカのタネに戻るのか?
もういい加減にしてくれ。」
実に、これが仲哀暗殺の理由。
5. 近畿パーのような病的なウソつきを多量に作り出したこと。
(因みに、ヤマトタケルの事績はほとんどただのウソ。恐らくは他人からの借り物。
ヤマトタケルの事績の内、事実なのは多分兄殺しだけ。) 畿内説有力と書かれる時代の教科書はこれ。
山川出版社は「詳説日本史」「新日本史」「高校日本史」で各々、
「数十万人の朝鮮人や占領地域の中国人を日本本土などに強制連行し、
鉱山や土木工事現場などで働かせた」、「多数の朝鮮人や占領地域の中国人を、
日本に強制連行して鉱山などで働かせた」、「朝鮮人や占領下の中国人も
日本に連行されて労働を強制された」としている。
畿内説による謝罪を要求するニダー!
さあ、謝罪してきてくださいねw 因みに日本独特のキチガイ無罪の文化は
多分神武が由来。
神武は近畿では志村のバカ殿みたいな存在だった。 >>339
弥生末期から古墳時代の教科書の記述を認めてる九州説信者は
現実に1人もいないだろ? >>338
7世紀まで、倭国と日本に分かれていたってやつ以外は
全然思ったこともないやつばかりだが。
ヤマト王権と記載するかどうかは別にして。 >>345
今日、前方後円墳体制を否定したおまえが言うな >>349
ないよ
だが、現在の教科書の記述を認めると、九州説が成り立つ余地はほとんどない
だから、古墳時代の記述を認めてる九州説信者は、実際に1人もいない >>350
書いてないならそれが全て
ウダウダと御託はいらない >>351
好きにすればいい
根拠ゼロどころか、歴史の流れで古墳時代と矛盾する九州説を言い張ってればいい
そんな珍説が世の中で認められることは絶対にない ヤマトタケルの事績のうち
本当なのは多分兄殺しだけ。
他は多分全部赤の他人からの借り物。
ヤマトタケルは実際はゴミクズだった。
仲哀は無能だから暗殺された。仲哀の怨霊封じで父親のヤマトタケルをウルトラスーパー有能にでっち上げただけ。
ただのウソ。
また、この時代神功皇后だの武内宿禰だのやたらスーパーマンが多いのは
全部仲哀が無能だったことが暗殺の理由であることからくる。
仲哀暗殺は、無能の極みの神武系の血を絶って、有能な崇神の母方系の血筋へすげ替えることが目的で
多分周辺の人間は皆分かっていて、同意していた。
だから暗殺であるにも関わらず古事記は事実上黙認している。
応神の父親はもちろん武内宿禰で、神功皇后も武内宿禰も崇神の母方系の血筋の人間。
無能なのが仲哀暗殺の理由なのだから、暗殺側は有能でなければならない。
実際有能だったのだろうが、やたら滅多らスーパーマンなのは仲哀暗殺を正当化するため。
また欠史八代も仲哀暗殺を正当化するため。
実際無能ばかりで事績が本当に無かったのだろうが、
粉飾ならいくらでも出来たはずなのにやってないのはそれが理由。
>>348
前方後円墳は単なる流行とか、前方後円墳は九州発祥とかは思ったことないけど、
じゃあ、逆に聞くが前方後円墳が作られてない地域は大和の勢力下じゃなかったのか?
それから気になるのは、いつからヤマト政権とカタカナで書かれるようになったんや?
高校の教科書見直したけど、大和政権って書かれてたぞ。
宇佐神宮に、比売大神(まあ実際はトヨのこと)を真ん中にして応神と神功皇后が祀ってあるのも
暗殺側は身にやましいから、権威付けが欲しかったせい。
>>354
古代史通説を一方的に否定しておいて、なんで逆質問? 大和政権からヤマト王権に表記が変わった謎が知りたい。 被葬者が骨董品収集家だったのかもね。
8世紀に作られた仏像の宝冠に1世紀に作られたガラス玉が飾られてたという話もあるから。 狗奴国スレでは畿内説の人はこれに手も足も出ず逃げ惑うだけだったけど、ここでもそうなるんだろうなw
> 86 :名無しさん@1周年 :2019/09/06(金) 23:46:57.90 ID:953HWZUu0
> >>1
> 最近日本史板で見た内容とおおむね一致してるな
>
> 309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
> >>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
> 総合的に考えた結果こうなった
> https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
> https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg >>360の続き
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ >>360,361の続き
> 308 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 07:29:57.35 ID:nfEZxMc70
> 伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
> 海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
> http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif
>
> また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
> http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
>
> 有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
> 製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>86の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
> 狗奴国との国境は菊池川だろう
>
> 鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの >>362関連
https://special.sankei.com/a/life/article/20190902/0001.html
免田式土器の分布イメージ図。作成した松田度氏は、邪馬台国と抗争した狗奴国の勢力を反映していると推察する(松田氏提供)
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
畿内説が優勢とされる邪馬台国の所在地論争で、九州説の立場を取る大和(奈良県)ゆかりの考古学者ら3人が8月、
謎の王国「狗奴国(くなこく)」の実態に迫る学会発表を行った。
魏志倭人伝によると、狗奴国は女王・卑弥呼が君臨した国々の南に位置し、卑弥呼とは抗争状態にあったとされる。
考古学者らはその勢力圏の中心が熊本県内にあったとし、狗奴国の位置から卑弥呼の邪馬台国は福岡県域にあったと主張している。 >>341
>>353
>>356
これであってるハズだぞ。
邪馬台国=御井も合ってただろ?
まあ私を信じなさい。
>>360関連
重要と思われるポイント
> 806 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:37:57.84 ID:PRbsOSjX0
> >>793
> >畿内説ってのは中国語読めない人たちが漢文を曲解してるだけのつまらないお話
> それな
> 畿内のアホどもが散々縋りついていた水行十日、陸行一月の記述も暴かれちゃったしw
> もう畿内説は詰んでる
>
> > 73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
> > 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
> > 水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
> > これを押さえておかないと正解には辿り着かない
> >
> > 【用例】
> > 通鑑釋文辯誤卷六
> > https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
> > >沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
> > 江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
> > 江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
> >
> > 【嘉興府志】
> > https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
> > >{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
> > 嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
> > やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
> > また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし 中国の三国時代に書かれた『曹操集訳注』(そうそうしゅうやくちゅう)には、
「皇帝は金をあしらった鉄鏡、皇后と皇太子は銀をあしらった鉄鏡、以下の貴人たちは、金銀を用いない鉄鏡を持った」
とある。
すなわち、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は漢の王族が所持したお宝だったということだ 福岡はなぜ地中を掘らずに土地開発しまくったんだ
絶対何か重要なもんが埋まってるだろw >>1
いや、だからぁ〜
昔から九州には卑弥呼伝説があるのよ。
天皇の始まりとなった人々も九州から旅立ったと言われているし。
もろもろ、不思議な神社とかも九州にはあり、ジジババから昔話を聞かされてきた
九州人は、卑弥呼伝説を信じている人も多い。 >>366
もう少しつけ加えるならば、
皇后(女性)は、純銀
皇太子は、純度の低い銀と分けられている。
しかも、いまだ、鉄鏡において、
金銀錯嵌の混合は、中国では発掘されてないような。
つまり、
金錯が、最高位の皇帝クラス
銀錯(純銀レベル)皇后または、最高位の女性
ダンワラの鉄鏡は、金錯と銀錯で
できているからね。
最高位は、女性の意味やないかな。
銀錯が、純度たかい銀かどうかで、
より価値がわかるんやない。
心ここに在らざれば、
視れども見えず
聴けども聞こえず
食らえどもその味を知らず。
大学
雇われ店長のコテ付けてるところ初めて見た
すぐわかるのでコテ付けてる意味ないと思うけどw w w >>370
「御物有尺二寸金銀鉄鏡一枚」
曹操のは金と銀じゃないか?
ネットの拾い物だからこれが正しいとは断言できないが 大川隆法総裁サマ
お得意イタコで卑弥呼を降ろして
どうか「親魏倭王」の金印のありかを教えてもらってください
それで、日本国の争いのひとつが無くなりますww 水行というのは船で筑後川を遡って日田に入るということなのだろうか。
川は遡上できないって言う人もいるけど、考えてみれば下りにも川を使わなかったってのはありえないと思うし、
だったら船を使い捨てにしない限り、船を川上に戻す方法はあったはずだよね。 「急設の人が言ってるよ」
↓
「それ誰だよ?学会にはいねーぞ」
↓
うっかり名前を出してしまう
↓
「あああの馬鹿かwww」
嘲笑する一方マスゴミの手下に命じて潰す
こんな陰湿な手段で「無かった」ことにされてきた九州説
「その話は古い」
「それは年代の間違い」
「方位の間違い」
「文献の間違い」
「中国史の間違い」
↓
「だから九州説はキチガイ」
まさに悪鬼の所業
日本を栄えさせたのは理系、滅ぼすのは文系
(東条英機やアホ参謀共、京大&橿原研、東電勝俣 etc) 日本を作ったのは神武では無く
大王崇神と、崇神の母方系の一族。
今の天皇は応神朝なわけで、父親は武内宿禰、母親は神功皇后、どちらも崇神の母方系の人間。
また崇神の母方系はシコメだのシコオだのやたら変な名前が多いのは暗殺された仲哀とバランスを取るため。
また道鏡事件のとき宇佐神宮へ伺いを立てたのも今の天皇は応神朝だから。 >>374
曹操《上雑物疏》
御物有尺二寸金錯鉄鏡一枚,
皇后雑物用の純銀銀錯七寸鉄鏡四枚,
皇太子雑純銀錯七寸鉄鏡四枚”
これには、皇帝は、金錯とあるけど。
皇太子は、雑純とあるから、純度の低い
銀錯になるかな。 >>362-363
免田式土器は狗奴国側か
菊池川が境界線でほぼ一致してるね >>373
これかなり前から付けてるよ。
ただコテ付けるとそれだけでムシャぶりついてくる変なのが必ず居るから余り付けなかったけどね。
めんど臭いから。 曹操のは大きいんだってね
冊封国に姉妹品をあげたんかな 卑弥呼の宮殿か?! 弥生時代最大級の大集落!
The 纏向遺跡
https://i.imgur.com/r77m4yx.png でまた面白いのは、
宇佐神宮に伺いたてたら「道教を天皇にしろ」つったんだよなwww
んでそれを救ったのが和気清麻呂なんだが、
道鏡を天皇に就けたがっていたと言われる称徳天皇は報告を聞いて怒り、
清麻呂を因幡員外介に左遷したのち、さらに「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて大隅国へ配流し、
姉の広虫も「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させられて(狭虫(さむし せまむし)と改名させられたという説もある)処罰された。
これなwwww
日本がどういう国か良く分かる。
日本を滅ぼすのは、権力者側なんだよ。
そして臣下が正しくて、自殺しそうな権力側を特攻で救う。
で、自身は汚麻呂呼ばわりwwwwwwwww
こんな国wwwwwwwwwwwwwwwww
orz >>1
古道具屋で買ったってとこがいかにも九州説らしくていいよなあw
死ねばいいのに >>382
日田のは後漢尺だとおよそ九寸だな
皇后以上皇帝未満か 道教事件ってのは本当に面白い。
悪は権力側なんだよな日本の場合。
それを特攻で救うのが一兵卒。
いつもコレ。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
orz >>381
そうなの?
よろしくな、鴉。
邪馬台国は相変わらず久留米の御井なのね >>392
もう四、五年前から付けてるよ。
たまにだけど。
相変わらずつったって卑弥呼の墓が御井の祇園山古墳なのは確定事項だぜ。 日田の由来はヒサツ姫らしいな。
豊後風土記に景行天皇が熊襲征伐の帰りに豊後国日田郡に立ち寄った際に「ヒサツヒメ」と名乗る神が人に姿を変えて出迎えたらしい。
一説には、邪馬台国の卑弥呼の事ってあるな、すげえ 憲法九条なんて悪法に決まってるんだからさっさと改憲すべきなのに
いつまでも残してる。
自衛官なんて口には出さないけどいざって時は法律を無視して特攻するつもりのやつ実はゴマンと居る。
そうじゃ無くて、憲法改正しろよ。
カタワかよお前ら揃ってwwwwwwwwwwwwwwww
orz 調べてみると日田盆地の標高は100〜150メートルくらいのようだ。
そんなに高くない感じがするから、筑後川を水行で日田に入るのはできるんじゃないか?
問題はそこがゴール(邪馬台国)なのか、そこから陸行してどこかに行くのか。 >>312
クスノキ樹林の自生北限は福岡県なんだよな
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/163881
>天然紀念物調査報告(植物之部)第八輯 六六頁 参照
>樟 Cinnamomum Camphora Nees. et Ebrm. ハ立花山麓ヨリ山腹ニ亘リ大ナル純林ヲ成シ巨樹多シ、
>樟原始林トシテ代表的ナルノミナラズ同樹林ノ北限地帶トシテ最モ著シキモノナリ
>立花山々麓から山腹に亘るクスノキの純林でその原始林として代表的であるばかりでなく、自生北限に属するものとして最も価値の高いものである。
>・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市木宮木の來宮神社
熱海の地名の由来は安曇だと言われているから二千年前に安曇族が植えたのかな
クスノキは虫除けの樟脳が採れるくらいだから虫食いに強く、穴が空いてはならない船の材料に向いてるんだよな 日本の歴史をキッチリと反省することは
現在の生き方に関係してくるだろ?
だからオレは書き込みをやめないんだよ。
ウソつきが舌を出して甘い汁吸って、表は正義漢ヅラして生きてる。
もういい加減こんなの卒業すべきね。
やっていけるわけが無いだろバカども。
>>393
七万戸なら筑後川あたりってのはなんとなくわかる。
俺は菊池山鹿あたりだけどw
鵜さんよろしく〜 どこの国の国史も時の権力者に都合のいいように書かれていると思う。 >>396
水行後に陸行は無いよ
日本史板で他の中国史書での水行、陸行の用例が確認された
水行を選んだなら水行十日だけでゴール
>>365の通り そもそも邪馬台国と大和朝廷が同じ流れをくむかどうか全くわからんしな
別の国だった可能性も高いだろ
邪馬台国は滅んだとか >>332
教科書は信用するな
ってノーベル賞学者も言ってた >>399
菊池山鹿だけだと7万戸はきつい
>>360でいいと思う >>401 三国志正史を全文読めばアホなこと言ってるのがわかるよ
小学生の作文じゃないんだ 中国国家正史なめんな >>401
放射説の俺大勝利じゃん
やっぱり伊都国から水行十日or陸行一月でいいんだな 諸説ありで九州説と近畿説並べてるけど素人が聞くとまず九州説に傾くね
近畿説推しの解説者がなんで近畿かって聞かれてとちってるのはおもしろい >>401
その確認された用例って、何に具体的に何と書かれてたの? >>332
教科書も間違える事多いだろw
鎌倉幕府の成立だって1192じゃないんだろ?
それに頼朝の肖像画とか違うらしいし >>400
いや日本の場合は特殊だな。
みんなで口裏合わせていっせのせでウソをつくから。 >>409
まあ近畿に巨大な国家があったのは間違いない
だがそれが邪馬台国かどうかはわからん
邪馬台国以外にも多くの国があったと中国の書物には書かれてるしな >>401
日本史板は知らないが
逆の用例がないということまでは確認されてないだろう >>403
禿同
大和王権は狗奴国だよな。
邪馬台国はバラバラになり九州の南に追いやられていったんだろう 贈り物じゃないの?
中国「に、にほんちゃん、これあげる!!」 今日、国立博物館の三国志展行ってきたが、なかなか良かった 空気読めよってヤツな。
みんなでウソつくから口裏合わせしろよって意味だろあれ。 >>408 放射説もないよ
陳寿はいろんな解釈ができるようにはしないよ
仮に放射ならそのように陳寿は解説をいれる
陳寿のひととなりは全体を読めばわかるよ
魏志倭人伝だけでいいから全部読んでみなよ
陳寿が誤解されないように注釈を入れるこまやかな配慮がわかるよ >>419
間違いはわかるけど、言い伝えがあるってのと今回の鏡は繋がる。いや、これは来たんじゃない >>378
現天皇は継体朝。まあその後天武朝という不明な系統があるがw
まあ一応天智系に戻ったんで。
つまり天智からわずか六代前が始祖になる。万世一系など噴飯物もいいところ。
各地の貴種に後継を依頼したが皆が断り、ようやく手を挙げたのが越前のをほど
の命。
応神の五代孫という系図だが、古来中国では五代は系図捏造の際の「嘘」の数で、
要するに嘘でも本当でもいいから来て貰ったと言われてもしょうがない代数。
征服か招聘かはともかく、晩年まで大和に常在しなかったらしい、墓も摂津、
即位も樟葉らしい、諡号もよりによって「継体」w
当時既に相当の生産力を持つ大和を相手に最終的に勝利できるだけの優勢な軍事力を
有していた「をほどのおおきみ」でも、筑紫相手にはだまし討ち?で激戦の末磐井を
取り逃がし、子の葛子も処刑できず、糟谷の屯倉を得たのみ。
そもそも継体の没年もまだ確定しておらず、その死後の話かも知れないが、軍団とし
ては継承されているはずで、同じ事である。つまり、当時まだ畿内勢力が北部九州を
圧倒は出来なかったという事。 >>405
菊鹿盆地はいいぞー
ウテナ遺跡とか面白い遺跡あるし >>404
教科書レベルの知識もないやつと
教科書の何万倍もの知識を持ってる人を一緒にするな >>409
素人学者関係無い。
近畿パーはただのウソつき。 だから、
近畿説→道教を天皇にしろと言った宇佐神宮や和気清麻呂を汚麻呂と呼んで侮辱した天皇
九州説→和気清麻呂
と思えば当たり。
歴史は繰り返すwwwwwwwwwwwwwwwwww
orz 曹操は簡葬を指示した
墓なんてどうせ暴かれるものだからという現実思考
その墓に入っていたものが大した高級品ではなかった、ということでしょ >>419
ヒサツ姫は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・景行天皇とかと一緒に祀られてる神社があるらしいぞ久津媛神として。
なんかすごくね? 旧唐書に倭国と日本が出てくる理由考えればわかるだろ
九州にあって中国に朝貢してたのが邪馬台国(倭国)で
近畿にあって朝貢してないのが大和朝廷(日本)なんだよ
邪馬台国近畿説は大和朝廷が中国に朝貢してたことにしたい奴らが捻じ曲げてるだけ だから、
近畿説→道教を天皇にしろと言った宇佐神宮や和気清麻呂を汚麻呂と呼んで侮辱した天皇
九州説→和気清麻呂
と思えば当たり。
歴史は繰り返すwwwwwwwwwwwwwwwwww
orz 同じ法家でも、始皇帝は自身の墓を20代の頃から作り始め
何万人もの奴隷とハーレムの美女を道連れに栄華を自身の死後に持ち込もうとした
一方、曹操は死後の世界を信ぜず、墓に余計なものは入れるなと言い
生きている者に対する自分の形見分けを、細々と指示した
まあロマンチストとリアリストの違いとは言える
曹操は詩人でもあったけど、その唄ったところの根本は現世利益主義 畿内説ってもう頭の固いジジイしか信じてない。
普通に読めば九州の事。
卑弥呼が天皇と関係あるかどうかも定かでは無い。 またまた、
「学問の世界ではすでに(近畿に)決着がついている」とかいう、上から目線の、
「文学部」しか入れなかった、三流専門バカ学者が出てきそうだなw つかまあやっぱコテは外すわ。
バカが早速湧いて出たし。 >>445
男系で無いだけで血は本当に繋がってると思われ。 倭寇が盗んだに決まってるだろ。2000年前から戦犯猿民族。それがチョッパリ。 >>444
全長60m程度の魏王曹操の墓よりも遥かに巨大な箸墓古墳が冊封国女王卑弥呼の墓とするのが
畿内説 倭人伝はこう
不盜竊、少諍訟 (窃盗をせず、訴訟は少ない)
古代から綿々とつづく日本人の民族性を見事に表しているな ついでに魏志高句麗伝
其人性凶急喜寇鈔(人々の性格は凶悪、短気で、略奪を好む)
うーむ見事だ 真実が広まること自体がオレにとっての利益。
それを使ってどうしようとも思わない。
ウソつき野郎が甘い汁を吸って、裏で舌を出して、表では正義漢ヅラ、そう言う社会が嫌なだけ。
時代は変わるぞ。
乗り遅れるなよ。
今はオレが時代の最先端。
気に入らなくても諦めろ。
正義は必ず勝つ。
>>448
普通は野菜炒めといえば肉も入ってる
東京はなぜか「肉野菜炒め」と頼まないと肉が入ってない
野菜だけの野菜炒めなんて食えるかよ 三国志って200年代だろ。
畿内の歴史って500年代くらいからじゃない?
300年の間に九州から移動しただけ。
オレが正義。
オレが勝つ。
一人でもやる。真実を喋るのに特別助けは必要ない。
どうせ正しいのはオレだけで、勝つのもオレだけだ。
お前らは負けが好きなんだから、望みどおり負ける。
オレは勝つのが好きだから、望みどおり勝つ。
みんな良かったじゃん望みどおりでwwwww
>>1
> 梅原は出土地の地名から、この遺跡を「ダンワラ古墳」と名づけたものの、埋葬施設の詳細は不明。さらに、一緒に
> 出土したとされる馬具は6世紀以降のごく一般的なもので、超一級の鉄鏡の持ち主にはそぐわない。
さらに、出土に立ち会った人の記録に 鏡は須恵器に入っていた てのがあるそうで、
大きさも合わない と否定的な学者も多いそうだ このような希少な鉄鏡がなぜ日田で出土したのかは不明であり、様々な仮説が唱えられている。
九州国立博物館の河野一隆・文化財課長は、伊都国との争いに敗れた奴国の王族が、
王権を象徴する物品が伊都国の手に渡らないように、漢委奴国王印を志賀島に埋納する一方、
この鉄鏡や同じく日田市で発見された金錯鉄帯鉤を日田に持ち込み埋納したとする仮説を提唱している[7][8]。
また、邪馬台国九州説の根拠ともされ[9]、一般には受け入れられている説ではないが、
邪馬台国の卑弥呼または台与の所持品であるとする説や、この鏡が八咫鏡であるとする説もある。 ユーチューブのURLがはれないにので検証動画タイトル。
【邪馬台国】大分県日田ダンワラ古墳で発掘された金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
大分県日田出土 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(国重要) 曹操の鏡?・卑弥呼の鏡?・天照大神の鏡? >>1
古美術商が日田で出たものと言っただけじゃ、胡散臭さしかない 近畿には兄が降臨し、九州には弟が降臨した。
そして、兄の子孫は弟の子孫に国を譲った。 日本人は金が神様で、金が絡む場合だけは正気に戻って正直になる。
他は生活のほとんど全般でウソをついて生きている、病的なウソつきだ。
ウソをついて騙すのは、自分自身に対してもね。
日本人はそれくらい病的なウソつきだ。
この事実に気づくだけでも生活変わるよ。
無論いい意味でね。
嘘松さんとか外国であれやったらリンチにあって殺されるんじゃ無いかとか思うがね。
日本の場合はむしろあれがデフォwwwwww >>424
まず最初に、工程を記述したのは帯方郡から倭に行った人間であって陳寿じゃないことに気付こうな
しかも、記述者は放射読みにする箇所はちゃんと他とは書き方を変えている
お前が気付かなかっただけだ
わざわざ記述法を書き分けてあるということはそこは他とは違う読み方をしなければならないということだ
連続読みの行程部分は全て動詞が至や到よりも前に書かれているが、
放射読みの箇所は動詞が至より後ろにあるか動詞そのものが無い
・從郡至倭 循海岸水【行】 歴韓国 乍南乍東 七千餘里┃到 其北岸 狗邪韓國 ・・・・・・・・・・【動詞は前】
・始【度】一海 千餘里┃至 對海國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又南【渡】一海 千餘里・瀚海┃至 一大國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又【渡】一海 千餘里┃至 末盧國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南 陸【行】五百里┃到 伊都國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南┃至 奴國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞なし】
・東【行】┃至 不彌國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・南┃至 投馬國 水【行】二十日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞は後ろ】
・南┃至 邪馬壹國 女王之所都 水【行】十日陸【行】一月 ・・・・・・【★動詞は後ろ】
動詞が後ろまたは無い三箇所は距離と方位の起点が前段から移動しない
つまり並列の箇条書き文章であり、地図上では前段から放射読みとなる
上の行程文に照らすと放射読みの起点は全て伊都国である
まとめると
帯方郡 → 狗邪韓國 → 對海國 → 一大國 → 末盧國 → 伊都國
. . . . . . . . . . . . . . . . . . ┃
ルート分岐@ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┣→ 奴國 → 不彌國
ルート分岐A ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┣→ 投馬國
ルート分岐B ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┗→ 邪馬壹國
という構造 少なくともインドとかイスラム教国とかで嘘松さんやったら殺されるよ多分。
欧米でも殺される無いかも知らないがかなり深刻な酷い嫌がらせをされる。
ネット上じゃ無くてリアルの生活でね。 >>458
「野菜炒め」と「肉野菜炒め」が両方ある店なら、「野菜炒め」に肉は入っていないのが当たり前 >>121
畿内勢の正史六国史を継承したのか?
百済チョンコが列島支配者としての正史がないのは力がなかったんだよ。倭の持ち上げに百済三書だけ利用された雑魚w >>75
卑弥呼がもらった鏡を何者かが持ってて、時間が経ってから埋められたのなら矛盾はしないよね。 卑弥呼の銅鏡は存在しないの?
レプリカ縁三角の原盤なんでしょ。
年号入れてるから。 発見場所のすぐ近くにいたとされる謎の人物のヒサツ媛、天ヶ瀬の方にもイツマ媛 日田には2人の媛がいた >>121
その通り
最終的に乗っ取ったのが百済勢力 >>440
大和朝廷は九州の邪馬台国がその後畿内を侵略して大和朝廷を作った >>469
おおスゲー、本当にちゃんと書き分けされてんじゃん
これはもう決まりだな 鳥取の荒神谷で大量の銅鐸が見つかったときも
クビを傾げていた考古学者www それにしても、倭人伝の邪馬台国までの行程って現代日本人が読めば「いくらなんでも遠すぎね?」
となるわけだが、陳寿や関係者が特段違和感を持たなかったということは、
当時の中国人は日本列島のサイズをかなり過大に認識してたんだろうか? >>445
畿内のヤマト王権と九州の倭国連合の邪馬台国は別物だからな 邪馬台(やまと)は、日田盆地が起こりの地。
そこから筑紫平野、ついで博多(奴国)の港を隷下に組み入れ、
漢の時代、列島の覇権国に。この頃、大宰府が中心地。
※漢には自ら朝貢せず、隷下の奴国(博多)に朝貢させてた。
自らは、漢の臣下にならずに、朝貢の権威と利権を手に入れた。 都合が悪いものが出ると全く公平に扱えない旧来の学者のクズたる所以やな なぜ?じゃないが・・・記事が意味不明すぎる
邪馬台国は九州って歴史書にそう書いてあるだろ? >>492
ああ唐会要には事実上邪馬台国は九州だと書いてあるね。 >>484
不弥国は宇美だが今の位置では無い。
海の中道(宇美の中道)周辺。
魏志倭人伝では能古島(淤能碁呂島)のこと。 >>494
畿内説は無理があるんだよ
畿内説を推してる奴は古代の天皇家より威信のある王国と王家が日本にあった事が気にくわないんだろ 邪馬台国が卑弥呼で
熊襲狗奴国が卑弥弓呼だよな?
親族だろ >>485>>491
学者が首を傾げてるのは、日田で鉄鏡が出土したからではないぞ
古物商が日田出土と言っただけで誰も確認しておらず
古墳の実際の出土品と不整合だから、おかしいって話になってる それから産みから宇美になったとか大嘘だからな。
不弥国のほうが神功皇后より古いのに何をほざくかとww >>500
記紀神話ってわざと九州の古代王国には触れないようにしてるよな だって、関西人は朝鮮人やろ。
九州人は、中国人やからな。
中国と関係あるのは、九州やで。 わざわざ三重に社建てて卑弥呼や壹與を祀ったのは神武が邪馬台国関係者だからなの? こういうのな。
ヤクザ者の親分衆の習性知ってりゃなんの不思議じゃないね。
一家の代紋入の特注灰皿あるだろ
挨拶に来た親分に渡すだろ
ただそれだけよ。
数枚貰って帰るだろ
で、同じ一門や兄弟分が訪問してきた時に
「おー兄弟、お前も一枚持って帰れ、ワシャ要らんけど」
こんなもんよ。
実際に国の君主同士の会話もこんなもん 魏志倭人伝は伊都国基点の放射読みな。
理由はそう書いてあるから。
至がどうの到がどうの無関係。ただのネタ。
不弥国は伊都国から東へピッタリ百里。だから能古島だな。
恐らく能古島南部の港の辺りだろう。 よく見ると>>360って>>469の通りになってるんだな
これも日本史板では常識なのかね? もうすぐ60になる自分が小さな頃には議論されてた「邪馬台国は奈良か九州か」に未だに決着が付いてないのはどうなのよ 畿内説にはほんとに無理がある
学者も派閥とかで畿内説の方が優遇されるんだろう 末盧国は多分呼子だろう。
少なくとも唐津平野で無いことだけは確か。魏志倭人伝の末盧国の描写と唐津平野では全然合わない。
また唐津平野だと伊都国が南東にならない。
また伊都国は三雲遺跡では無い。あれは王墓。
伊都国は港湾都市だから志登支石墓群のあたり。
また奴国も須玖岡本遺跡ではなく、野方遺跡。
須玖岡本だと距離が合わないし、魏志倭人伝は基本着いた位置で記述している。
野方遺跡は奴国の入り口にあたる場所。
不弥国は旧糟屋郡+能古島(淤能碁呂島)。因みに旧糟屋郡の最南端が現在の宇美町。
魏志倭人伝の不弥国は恐らく能古島の南部の港のことだろう。
以上で考えると、
末盧国〜伊都国が約50キロ
伊都国〜奴国が約10キロ
伊都国〜不弥国が約10キロ
また方角も合う。(ただし真夏の太陽が昇る位置を東として。)
これら全て「余」が無いピッタリの五百里、百里、百里だから
短里で一里は約100メートル。
以上は逆に一支国〜末盧国が合わなくなるのだが、
海路は他もかなりいい加減だからこんなもんだろう。
>>509
ザックリとはいいけど細かいところ間違いだらけ。 >>512
無理があるどころか否定証明完了済み。
まるでただのネタ。 邪馬台国が当時の日本の覇者クラスの存在で、大和王朝の前身だとしたら確実に畿内だろう
邪馬台国が日本の中の小さな勢力で、中国行って日本の巨大勢力ですとかフカしてた存在だとしたら九州のほうがありえそう 旧糟屋郡≒不弥国だからカスヤとウミに何か関係があるはず。
誰か見つけてちょ
↓ >>512
その通り
畿内説は皇国史観と関わってくるからね
古代天皇家とは別の王国や王室が日本にあって中国と国交を結んでたなんて、皇国史観では有ってはならない事だから >>515
ところが皇国史観に汚染された考古学会では畿内説ばっかりになってる >>516
九州と畿内に別々の王朝があったというだけだろ? このスレでは沢山書き込んでる奴はモテモテのイケメン >>519
これ?
末盧国は多分呼子だろう。
少なくとも唐津平野で無いことだけは確か。魏志倭人伝の末盧国の描写と唐津平野では全然合わない。
また唐津平野だと伊都国が南東にならない。
また伊都国は三雲遺跡では無い。あれは王墓。
伊都国は港湾都市だから志登支石墓群のあたり。
また奴国も須玖岡本遺跡ではなく、野方遺跡。
須玖岡本だと距離が合わないし、魏志倭人伝は基本着いた位置で記述している。
野方遺跡は奴国の入り口にあたる場所。
不弥国は旧糟屋郡+能古島(淤能碁呂島)。因みに旧糟屋郡の最南端が現在の宇美町。
魏志倭人伝の不弥国は恐らく能古島の南部の港のことだろう。
以上で考えると、
末盧国〜伊都国が約50キロ
伊都国〜奴国が約10キロ
伊都国〜不弥国が約10キロ
また方角も合う。(ただし真夏の太陽が昇る位置を東として。)
これら全て「余」が無いピッタリの五百里、百里、百里だから
短里で一里は約100メートル。
以上は逆に一支国〜末盧国が合わなくなるのだが、
海路は他もかなりいい加減だからこんなもんだろう。
>>519
つかこれ?
旧糟屋郡≒不弥国だからカスヤとウミに何か関係があるはず。
誰か見つけてちょ
↓ 卑弥呼の時代の邪馬台国は狗奴国(球磨国)以外の西日本の西半分を影響下に置く大帝国。
だから邪馬台国は大月氏と同等の扱いを受けた。
邪馬台国は御井で、女王の領域は筑紫平野+山陰。
北部九州は伊都国に治めさせていた。
九州南部には大国投馬国(妻国)が同盟国で、
高知西部には侏儒国(幡多地方)を同盟国にしていた。
(侏儒国は元々は奴国の同盟国。)
この当時では画期的な大帝国。 >>445
関係あるだろ
鏡も祭祀もまんま斎宮だよ。 冠位十二階も九州のヤツをそっくりパクってるんだよな近畿日本が。 日本には「始皇帝俑」という胡散臭い物がある。
始皇帝俑 文化遺産オンライン
ttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/435900 ウリたちの史書に最高級の鏡が倭寇から盗まれたと書かれているニダ 因みにイタコはイチキ(斎)が語源。
宗方三女神のイチキシマヒメ(多分トヨ)のイチキな。 畿内日本が九州倭国を滅ぼしたのに、それを隠して伝統と格式ある九州倭国に成り済ましたんだろうな
いわゆる国家の背乗り いやオレは九州倭国が事実上近畿日本に禅譲したと見るな。
隋書にはそう受け取れる記述がある。 >>538
どちらにせよ、禅譲(降伏)するように圧力を掛けたのでは? >>1 >>2 >>100
パンスト 朝鮮顔を整形しまくったネトエラ(ネット工作の在日朝鮮人)がわきまくってるしな。
日本に密入国してきて図々しく居つき、
生活保護を受給しながら凶悪レイプ性犯罪を繰り返し
日本人になりすましネット工作を続ける在日朝鮮人。
チョンポップの人気偽装を繰り返してるのもこいつら在日朝鮮人・帰化人。
在日朝鮮人はスパイそのもの。
帰化人を含めて朝鮮人全員をいったん強制送還するしかない。
●●● ネトウヨ連呼厨(ネトエラ)の正体 ●●●
http://karutosouka2.tripod.com/uyokusyoutai.htm
. >>539
いやガチの禅譲だと思う。
だからこそ近畿日本側も磐井を筑紫の君呼ばわりしてるわけでね。太宰府を遠の朝廷と呼んだりね。
対立して力づくで奪った権力なら、近畿日本から見たら九州倭国は明確に賊、敵の扱いを歴史書ではするはず。
実際、田油津媛は土蜘蛛扱いだし。 >>540
斎宮と斎が関係ないってのがお前の勝手な妄想だろがアホ 言っとくけどオレは九州出身だとは言わないからな。
どこの人間か言うつもりは無い。 ひょっとして、九州の人は中国の属州になりたいのかな? 神武は九州の弱小豪族出身で近畿に流れてきたけど何かのタイミングで奈良の大王と入れ替わって
その後勢力を拡大してのちに九州の元上司まで飲み込んだのでは
紀記は正しいのかも そもそも魏から送られた金印が大分県の畑から発見された時点で議論の余地なんかないだろ
現実を認められないキチガイはどんな証拠を見せても盲目的にゴネ続けるだけ 本当に中国皇帝の鏡なら早いうちに返還した方がいいと思う。 禅譲かどうか今のところ分からない、が真相じゃね?
・磐井の君の戦争は、もし熊曽=火の国との戦争なら、継体は同盟もしくは部下の
援軍として戦い、糟屋の屯倉はご褒美。(長戸以東のその後の支配権は実際は不明)
「突然敵が現れ」は、相手が火国か継体かに関わらず、奇襲もしくはだまし討ちで
あることが窺える。特に火が御井まで容易に侵入できたならよほどの策謀としか考
えにくい。
・筑紫の君薩夜麻の虜囚と帰国
長期抑留され、その間に筑紫は唐・新羅連合に駐屯・蹂躙された。中の大兄の
策略に乗せられて百済支援軍を組織し、偽情報で唐・新羅軍の厚い地域に進撃して
壊滅した説。北部九州の要塞網が機能せず容易に侵入し得たのも、中大兄が寝首を
掻いたからに他ならない。磐井の死亡時や、光秀が容易に二条城や本能寺に接近し
得たのと同じ。
いずれにしても、「禅譲」したという記載は日本側にも中国側にもなく、それがない
なら略奪と呼ばれてもしょうがない。観世音寺を法隆寺にしたのも、何の記述も社伝
も無い限り盗品扱いとされてもやむを得ない。九州王国の神器などはどうなったので
あろうか。斉明をわざわざ古墳の上に祀って冥福を祈ったなどは、相当暴力的に現地
感情を逆撫でして大和の権威を見せつける行為であり、かつての盟主に感情むき出し
という感じがするw 観世音寺の設立も斉明の菩提寺のような設立の趣旨で、これも
筑紫の中心地に大和のおおきみを強引になすりつける所業。そう言う名目で伽藍を斑
鳩に移築し粗末な物を新築したのだろう。仏教文化後進国の大和の技術では、それま
では作れない高度な建築物や仏像だったからね。 >>557
いや分かる。隋書には事実上九州倭国が近畿日本に禅譲しようとしたことが書いてある。
それに>>542 大体が、簒奪するつもりだったのなら磐井の乱で許したりしない。
あそこでハッキリと滅ぼしたはず。
待つ意味がどこにある?
>>559
隋は近畿日本の使者言い分をそのまま記録しただけでは?
禅譲なんて同じ国の中では起こりうるけど、九州倭国と近畿日本みたいな全く別の国同士では本来、成り立たないはず >>560
恭順の意思を示したなら滅ぼさない事もあるよ 魏の使者が九州のような小島の情勢だけを報告して本州などをガン無視するわけないだろ >>563
歴史的に中国と古くから付き合いのあったのが九州倭国だったということ >>562
九州倭国は白村江で自滅したんだよ。
近畿日本が積極的に滅ぼしたんじゃ無い。 >>516
畿内人から見たら大和王朝の前身の邪馬台国が九州にあったとしたなら畿内人は侵略されて滅ぼされた事になるから必死だよね? >>561
違う。九州倭国が言ってんの。
隋書ではまだ中国から見て近畿日本は認知してない。
近畿日本側の言い分など載せない。 九州には巨大な全国支配の痕跡が全くない
都も作られなかった
これはただの盗掘品 大体、煬帝が激怒したのは九州倭国が禅譲しようとしたからだ。
「近畿日本なんぞ認めん、小野妹子に認めんと書いて訓令書渡しただろが。
誰だこいつらは、二度と取り次ぐな。」
そして九州倭国が心配になって翌年裴世清を使わして、ついでに近畿日本(秦王国のこと)の探検もさせたわけな。 空海が3〜4年も筑紫に留め置かれた事実がある。
帰国の経緯、修めた学問の広さと深さ、唐での扱い、それらから考えれば、
異常としか言いようがない措置だが、これも、元々の仏教先進地域でかつ
大和に先行する大国の後裔でいまだ「まつろわぬ」筑紫中心部を布教させる
任務を与えられたのだとかんがえれば良い。そういうよほどの大事業でないと
和製戒壇院を設置でき、真言宗の一子相伝を授けられ、更に宗教以外の様々な
学問や技術を習得した大聖人を僻遠に放置する理由などかけらも無い。
博多入り後最初に詣ったのは宗像神社、また鎮国寺、東頂寺を建立。東の頂は、
青龍寺に対する日本の密教の聖地の意だろう。もう一つの「鎮国」。
これは何を鎮めようというのか。
第一には、いまだ服するを得ない旧筑紫王家の威光対策だろう。
太宰府の官僚機構は旧政権のそれをそのまま使役したという説もあるが、征服地で
良く行われる手法である。旧の組織も優秀だったのであれば、簡単にはすげ替え
られない。藤原広嗣も太宰府に流されたが、その反乱時には短期間に九州全土から
の挙兵を得ている。また、「宋書」には筑紫独自の派遣使のことが記録されている。
実に11世紀まで、日本国の印もなしに営々続いたという。もの凄い話であるw
また、君称号は公称号へ変更になり、筑紫の君も筑紫公となった。
もしかすると、九州王家への凄惨な虐殺劇は無かったのかも知れない。
また、仏教の先進地域でかつ神仏混交が当たり前なので、それを遙かに超える最先端
知識で密教を付置しておこうというという意図もあったと思われる。仏教の中心という
主導権を完全に大和に持ってくるに足る至高の人材の出現によってのみなし得る業で
あった。 3世紀に中国と蜜に交流してた痕跡があるのは北九州だな
巨大な遺構があるから近畿に邪馬台国があったとか言っちゃダメだ >>165
鏡は曹操つまり卑弥呼時代のものだけど、ダンワラ古墳は5-6世紀なんだとな。
元々は卑弥呼に贈られた 鏡だったが邪馬台国連合崩壊後も
元それに関連する豪族が長年保管してたんちゃうんか?
大和朝廷に見つかったら親魏倭王の鏡なんて取り上げられるぞ。 >>570
卑弥呼って九州北部の僅か30の国邑代表者なだけだぜ? 最高級の鏡?
素材が鉄なら最高級じゃねえよw
曹操は合理的な人間だったから、副葬品に、より価値のある銅は使わなかったんだろ?
秦の始皇帝が、兵を殉死させないように兵馬俑をという模型を作ったのと同じだよ。 日田って凄いんだな
これからの我が家の水は日田天領水にするわ >>574
日向から東征したって、大和朝廷の公式記録にすら書いてるからなぁ 隋書
>開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。
これは九州倭国の奴国王のこと。天垂らし彦。
天は邪馬台国、垂らすは天が任命して地上界へ為政者として降臨させたと言う意味。彦は王。
>上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。
>使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、
日は近畿日本のこと。
>天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、
>日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。
ここ。これは近畿日本へ実権を渡していることを言っている。
>高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
「そんな二重国家三十国家のようなバカな統治があるか。近畿日本は認めんと書いた訓令書を小野妹子に渡したから統治体制を改めろ。」
と煬帝は言った。
曹操の墓から出土した鏡と同じような鏡があり、金印を贈られた当時の日本っていったい・・・ 隋書
>大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。
これは騙り。奴国王では無く、近畿日本の王。
>使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
>その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。
>帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。
これは従来の説は全部間違い。煬帝は使者が近畿日本からの者であることを見抜き
「お前らは認めんと言っただろが」
と言って激怒したのが真相。
隋書
>翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。
ちょっと考えれば直ぐ分かる。「二度と取り次ぐな」と激怒した国に翌年使いを送るか?
当然これは九州倭国への使いだ。
>百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。
>また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。
>そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。
>竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。
この秦王国が近畿日本のこと。もうすでに大国になっていた。ところが九州倭国の連中は田舎者の国だと言う。
はて意味が分からない、と言うこと。
秦王とは秦河勝のことで、近畿日本の天皇は秦氏のことを親しみを込めて秦王と呼んでいた。
もう既に落ちぶれ貴族になっていた九州倭国は背伸びして「あれは秦王の金で作った秦王国だ」と言ったわけね。
筑紫は神武天皇の父方の実家で本家というか、親戚だろう。
ササン朝ペルシアの王族がトカラ列島から日向に着いたとき、
一旦、筑紫に送られた後に、朝廷から迎えが来て大和に行っている。 隋書
>倭王は小徳の阿輩臺を遣わし、従者数百人、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来迎した。
>十日後にまた、大禮の哥多毗を遣わし、二百余騎を従えて郊外で慰労した。
>既に彼の都に至り、その王、裴世清と相見え、大いに悦び、曰く
>「我、海西に大隋、礼儀の国ありと聞く故に遣わして朝貢した。
>我は夷人にして、海隅の辺境では礼儀を聞くことがない。
>これを以て境内に留まり、すぐに相見えなかった。
>今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待ち、願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい」。
ここが実に面白い。なんと倭王は居留守を使ったと言っているのだ。
裴世清をまず先に秦王国へ行かせたわけな。
これは禅譲の意思があることを示している。
http://michi01.com/magosaki/233kgy26660801.html
日本書紀
六五四年(孝徳天皇の白雉五年)夏四月、吐火羅國の男二人女二人、舎衛の女一人、風に被ひて日向に流れ来たりき。
六五七年(斉明天皇の三年)秋七月、都貨邏國の男二人、女四人、筑紫に漂ひ泊てき。言さく、「臣等、はじめ海見の嶋に漂ひ泊れり」とまをしき。すなはちはゆまを以ちて召しき。
辛丑の日、須彌山の像を飛鳥の寺の西に作り、また盂蘭盆の會を設けき。暮、覩貨邏人を饗へたまひき。或る本にいはく、堕羅人なりといへり。
六五九年(斉明五年)三月、丁亥の日、吐火羅人、妻の舎衛婦人と共に来り。
六六〇年(斉明六年)七月、また覩貨邏の人乾豆波斯達阿、本土に帰らむとし、送使を求ひ請して、「願はくは後に大国に、朝らむ。所以に妻を留めて表とす」と曰ひき。すなはち数十人と西の海つ路に入りき。
六七六年(天武天皇の四年)春正月、丙午の朔、大學寮の諸學生、陰陽寮、外藥寮、及び舎衛の女、堕羅の女、百済の王善光、新羅の仕丁等、藥と珍異等物を捧げて進りき。
大夏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%8F 自身の副葬品に青銅ではない鉄の鏡、いわば偽物(レプリカ)を入れるのは、ある意味曹操らしい。
銅は当時も高価で重要な戦略物資だったから、
合理性を重んずる曹操は、
死んだ人間と一緒に貴重な資源が死蔵されるのが嫌だったのだろう。 隋書
>裴世清が答えて曰く「皇帝の徳は併せて二儀、
>恩恵は四海に流れ、王を慕うを以て化し、故に使者を来たらしめ、ここに諭を宣す」。
徳とは統治のこと。一つは煬帝の統治が直接四方に行き渡ること。
もう一つは倭王を民衆が慕うことによって間接的に煬帝の統治が行くこと。
この二儀。
>既に裴世清は引き上げて館に就く。
>その後、裴世清が人を遣わして、その王に曰く「朝命は既に伝達したので、すぐに道を戒めることを請う」。
つまり倭王のお前がしっかりしてないと煬帝の倭人の国に対する統治がうまく行かないだろ?
近畿日本への禅譲なんてやめとけよ。
と言う意味。
>ここ於いて宴を設け、裴世清を遣わして享受させ、再び使者を裴世清に随伴させて方物を貢献させに来た。
>この後、遂に途絶えた。
この最後は意味が分からない。このあとまだ何回か行き来してるはず。
ここは保留。
簡単だよ
九州の邪馬台国が卑弥呼の死で大荒れになって権力争いになった
九州から逃げて畿内にやってきた人の中には祭事や製鉄や貿易に精通した人が沢山いた
畿内に大きな国家レベルの人が集結したことと邪馬台国の政治体制が無くなったことで
その人達を中心に新たに大和政権が出来た
いきなり巨大勢力になれたのは当時先進技術をもっていた人達と技術は乏しかったけど大集団だった人達の融合で可能になった
技術力の乏しかった(わざと伝わらないように独占されていた)畿内が一気に発展したのはそのため
製鉄技術は独占されていたと思う
もし俺が支配者なら許可無しに作ってる村があったら皆殺しにしてると思う >>501
その辺を曲解して天皇を中心とした集中政権の維持に障害になるようなことを言うやつもいたんで、
どうせならなかったことにしようとして史書を編纂したんかもしれんな。 筑紫王家を皆殺しにしなかった理由は、
・白村江の時に後軍が裏切って乗っ取った事への後ろめたさと現地の反発
捕虜の名前などから、筑紫の近衛兵団が派兵されており、筑紫の君も直々に
出陣していた。百済の地や王族との関係がよくよく深かったと言うこと。
ずっと南朝への忠義を持ち続けていたのか、新羅からの圧迫が脅威だったのか。
中大兄と斉明は筑紫にとどまっており、筑紫王家のフル動員に比べれば後詰め
と考えられる。そして敗戦時にかなり色々やったと言うことだろう。
ただ、裏で通じていたとは言え、畿内天皇家も唐の進撃を受ける可能性は普通に
あるので、対戦当事国で倭国の代表でもある筑紫を直ちに支配するのはこれから
進駐して戦後処理を進める唐が激怒する可能性が高いので、表面上は支援程度で
放置したのだろう。
・筑紫は本貫の地
天皇家はじめ多くの天下り豪族にとっての出身地であり、筑紫における百済や
任那と同じ扱いをしただろう。そのご先祖の祖霊を焼き滅ぼすなどは当時まだ
とてもじゃないが出来なかった。
これらの事が、筑紫と太宰府がその後も「遠の朝廷」などと呼ばれて重要な政治
都市であり得た理由だろう。天神と評のネットワークもまだ白村江敗戦時には生
きており、701年にようやく「郡」ネットワークが確定したと考えられる。現代
国家と違い、施行や運用には相当の時間差があったあろうが。
菅公が何故天神に合祀されたのかと考えると、道真は単なる左遷では無く、むし
ろ進んで九州の残存勢力の一掃のために赴任したのではないだろうか。遣唐使を
やめるのは、大陸政策の変更であり、それは同時に旧倭国の外交の積み上げも、
太宰府の対中国のネームバリューも不要となる。
天神が筑紫勢力の残党であれば、自らがその祭神となって衣替えを図れば良い。 >>549
例え中国の属国だったとしても、そういった時期があったという事実だけは認めて欲しいんでしょ。 >>549
今は近畿こそ属国だったが学会の主流らしいからな >>469 途中まではいいんだけど結論がおかしくね
その理屈でこうなるなら
ルート分岐@ 伊都国 → 奴國 → 不彌國
ルート分岐A 伊都国 → 投馬國
ルート分岐B 伊都国 → 邪馬壹國
こうではなく
ルート分岐A 伊都国 → 投馬國 → 邪馬壹國
こうならないとおかしい >>552
いろいろと技術は持ってたんだろうけど腹の足しにならん物で王になるのは当時難しかったんじゃないかな。
せいぜい王や地方豪族に重用され、特権を与えられるくらいだったと思うが。 >>557
磐井の乱の鎮圧時に物部氏が当地で何をしてまわったのかが気になるところやな。
無理やり禅譲しか選択肢がないように仕向けた可能性は否定できんな。 >>462
邪馬台国九州説はこの鏡の存在関係なく有力なのにマイナー説にするなよ。
魏の王族クラスしかもってない鏡が日本で出土するなんて明らかに周辺国の王への贈り物、
かつ中国正史で(鉄鏡とは触れてないが)魏は邪馬台国へ贈り物をしたと書かれている。
これで大騒ぎしない方がおかしい。
金印発見に匹敵する大スクープだぞ。 >>590
いきなり巨大にはならない。奈良湖の干拓が相当進むのは、5世紀。
それなら、越前や近江の方が先に巨大国家になっているだろう。
人口の多寡ではなく、鉄器が重要だが、それも越前は圧倒的。直接半島から
移住できる地だから。水退も数世紀早かった。
奈良盆地は伸びしろはあっても、弥生末にはまだ今後の期待値でしか無い。
いきなり筑紫、豊、肥などの生産力を抜くなど不可能。 >>465
仮に中国製の鉄鏡を古事記では国産と偽ったとしたとしても
鉄鏡そのものの出土例がコレしかないんだよな。
八咫の鏡がこの鉄鏡だとしたらなんで大和朝廷はその存在を知ってるんだ? 陵墓参考地みたいに参考遺物として取り上げられそう
宮内庁って狂人の集団だよな 最初の帯方郡使、梯儁の報告書と
二度目の帯方郡使、張政の報告書があって
それぞれ文体が違ってる
>(伊都国は)文書や授けられた贈り物を伝送して
>女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。
と書いてとっとと帰った事務的でやる気のない梯儁
夏王朝の少康の子が会稽に領地を与えられて
髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けたことを
報告書に書いて知識アピールする出世欲の強い張政
夏王朝の少康の子のことまで残して
陳寿は基本報告書を丸写しだろう
つまり放射説論者は張政の出世欲に惑わされただけの可能性がある >>604
倭人伝は卑弥呼死去後に国が分裂して犠牲者多数、トヨが王位について治ったで終わるよね。
チョウセイが帰ってからも中国人は邪馬台国にいて続報を送ってたんだろうか? 対海国 → 一大国 → 末盧国 → 伊都国
ここは梯儁が書いた部分
末盧国で>草木茂盛し、行くに前人を見ず。と書いて
梯儁は道じゃないところを歩かされて愚痴ってるが
事務的に書いた
伊都国 → 奴国 → 不弥国 → 投馬国 → 邪馬台国
ここは張政が書いた部分
出世欲が強いので動詞を使ったり文体を変えてかっこつけた >>599
曹操の鉄の鏡は副葬用に作られたいわゆる「明器」だと思う。
それを下賜する意味を考えると、青銅製の本物はもらえなかったということ。 >>573
四国出身の空海は当時の朝廷では誰それ?の状態だったからじゃないか? 陳寿は大先輩の梯儁、張政の意向をくんで丸写しだけど
放射になるならそう書く
陳寿ってそういうひと
だから陳寿はこういうつもりで書いたと考えていい連続説
対海国 → 一大国 → 末盧国 → 伊都国
→ 奴国 → 不弥国 → 投馬国 → 邪馬台国
魏志倭人伝てちゃんと読むと書いた人の性格がでてるよ >>473
横だしスレチだが
ラーメンとチャーシューメンの両方がある店でも、ラーメンにチャーシューが入ってないなんてことは滅多にない https://www.google.com/search?q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%8F%A4%E3%81%84%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9C%B0%E5%9B%B3&tbm=isch&source=univ&sa=X&ved=2ahUKEwiBofmm9s7kAhVjyosBHeJRAgoQ4216BAgJECM&biw=853&bih=386#imgrc=41zww_XszKYr1M:
この地図は
元寇のころに元の手下だった李氏朝鮮で
作成された古地図で、日本列島は
90℃右回転してあらわされている。
古代中国では、このような認識だったらしい。
もしも魏志倭人伝を記した魏の人もこの地図認識だった
とすると、魏志倭人伝の不思議な点
つまり、記されたとおりに行くと
なにもない南海の海上に卑弥呼がいる
ことになるという不思議が解決される。
みごとに解決される。
そうなると、邪馬台国はヤマト国
つまり近畿にあったという事にりそうなのだが
では一体、この鉄の鏡はなんでこんな日田なんていなか
から出てくるのじゃろうということになる。
よこの古地図をみればみるほど訳が分からなくなる。 さっきの地図間違えてた
こっちの地図のこと
https://www.google.com/search?q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%8F%A4%E3%81%84%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9C%B0%E5%9B%B3&tbm=isch&source=univ&sa=X&ved=2ahUKEwiBofmm9s7kAhVjyosBHeJRAgoQ4216BAgJECM&biw=853&bih=386#imgrc=41zww_XszKYr1M: 金象嵌の鉄鏡は皇帝しか持ち得ない鏡であって、
皇太子や皇后ですら銀象嵌なのに、
金象嵌の鉄鏡を邪馬台国に贈るはずが無い訳で、
これは一族郎党を連れて日本に帰化した曹丕の安貴公が、
曹家の正統だった事を意味する。 >>596
伊都国を拠点としてることが読み手に分かりやすいように
文体を変えたってことを言いたいんじゃね? >>611
元寇の頃でも地図の書き方に今ほどの規則性は無かったという事でしかない
インドシナやマレー半島の位置関係はあれでいいのか?
シンガポールは南じゃなくて西にあるぞ
日本の事ばかり考えるからつじつまの合わない屁理屈を唱えるようになる
紙のスペースの都合で位置も方向も、縮尺も変えてるんだろ >>600
その奈良湖の干拓が相当進むのは、5世紀っていうの、何を根拠にしてるの? 魏史倭人伝の論証を重ねても時間の無駄。記述のような争った形跡すらないとなれば 当時は地図の書き方のルールがまだ定まってなかったわけで
自分たちが小学生の時に
自宅周辺の地図を手書きした経験とかないのかな?
自宅周辺で自分が知ってる部分はかなり細かく描き、それから離れるほどに簡素になり
中心部だけは情報量多めの大縮尺で書き、周辺は小縮尺になる
そういう経験をしていれば、
この地図もそんな感じで書かれたんだろうと予測できるんだがなぁ >>609
陳寿が丸写ししたのは倭国に赴いた役人の報告書じゃなく、
たぶん当時の中央の役人が倭国の報告をまとめ作成した資料の方だろう。 >>622
おそらく、何年も何十年も前の複数の文献も参考にしてるはずだよ 話題になる行程の件でも伊都郡まで里表記だが、
先の投馬国や邪馬台国までは倭人から聞いたらしい日表記。
ところが邪馬台国より先の和種の国や侏儒国は再び里表記、
その先の裸国や黒歯国まではまた日表記。
邪馬台国を越えて侏儒国まで行った中国人がいてそこで倭人からさらに遠くの国についても聞いてるわけで。 >>623
たかが倭人伝みたいなおまけにそんなことするかね? >>626
たかが倭人伝だから古い文献からのコピペをするんだよ
辺境の未開土人だから100年位前の情報でもそんなに変わらんだろうって考えるんじゃないかな? >>627
いや、コピペするのに目の前にすでにまとめがあるのに、元スレを見に行く?
って話じゃないの? >>620
そういや会社に入った時に通勤経路を図示しなきゃいけなくて、
けっこうすごい地図になってしまった覚えがある。 >>628
君の言ってることはよくわからん
魏志倭人伝を作るにあたって
最近の情報があり行程の記録もある
それだけじゃ足りなくてページも余るから昔の記述も紛れさせる
何か問題が? >>600
弥生時代に広大な奈良湖なんて存在していないよ。
地質学者が必死で探しても見つからないものを。君は見つけたのかい?
学会に論文を出せばどうだ? >>630
>>622
>陳寿が丸写ししたのは倭国に赴いた役人の報告書じゃなく、
>たぶん当時の中央の役人が倭国の報告をまとめ作成した資料の方だろう。
>>623
>おそらく、何年も何十年も前の複数の文献も参考にしてるはずだよ
で、「それだけじゃ足りなくてページが余る」とかどこにもないもので。 日本のものを持って行ったらごっそりお宝がもらえるという商売があったんだってね >>632
君の場合>>622の内容だけで完結してると思い込んでるんじゃないの?
俺は、「まとめ作成した資料」だけではないと言ってるんだが?
記述の繋がりがおかしい部分とかがある原因は何かと考えれば分かる事なんだがな
「まとめ作成した資料」だったら
距離と日数を混在させたりしない
邪馬台国なのか女王国なのか不明瞭な記述はしない >>428
いや黒猫邪馬台という駕籠かきが運んできた 陳寿はまとめただけじゃなくて
読み手に分かりやすいように注釈を入れてたり
省略したところと本文をつなげたりしている
魏志倭人伝には梯儁、張政の報告書から省かれたところもあるけど
陳寿はその省かれたとこも含めて全部読んでる
その上でまとめて陳寿はこう解釈したってことね
>郡使往来常所駐
(伊都国は帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
>自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳
女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、
その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
>次有奴国 此女王境界所盡
次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。
>計其道里 當在会稽東治之東
その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。
>所有無與?耳朱崖同
有無する所は?耳、朱崖と同じ。
>参問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千余里
倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。
或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。 >>469
使者が実際に行った場合(自ら行動した場合)には動詞が先にあり、現地の人から聴いた場合には動詞無し又は水行○○とか陸行○○と表現しただけのように思える >>454
民族は総入れ替えとかネトウヨが言ってたかな 陳寿は梯儁、張政の報告書を
矛盾やおかしなところが無いようにまとめただけ
その陳寿は
>その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。
こう考えた
以下張政が書いたところ
>倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆、徒跣。
倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。
>夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
>今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、
>文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
夏后(王朝)の少康(五代目の王)の子は、会稽に領地を与えられると、
髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。
今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、
入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであった
伊都国から邪馬台国までの行程
伊都国 (南東百里) 奴国 (東百里) 不弥国
(水行二十日) 投馬国 (水行十日陸行一月) 邪馬台国
これを読んだら陳寿じゃなくても
邪馬台国は沖縄南部や台湾あたりににあると思ってしまう
陳寿は悪くなくて張政が悪いと考えてる 「支那=枝の国」
天皇 = スメラミコト 「スメラミコト」は、地球上の枝国(えだくに)を巡幸し、
子らを各国に赴かせた
支那史書から
T)『十八史略』巻一 太古
「天皇氏、以木コ王。歳起摂提。無為而化。兄弟十二人、各一万八千歳。」すなわち
「天皇氏は太古の昔から 王である」と記されている。
U)前漢代、袁康の『越絶書』には、
「夫れ、越王勾践は、東僻と雖もなお、天皇の位に繋がる」すなわち、
「東方僻地の(日本に近い)王は、天皇たり得る」とある。
V)唐代の補筆された『史記』の冒頭に、
「最初に天地のうちに現れた君主が、天皇である」と記されている。
W)四世紀の道士 葛洪は 著書『枕中書』のうちで、扶桑大帝東王公は天皇なりとし、
「扶桑大帝は東王公であり、元陽父と号し、碧中に住す。…上に太真宮有り、天皇と為り…云々」と、説いた。すなわち
「天皇は、大陸東方海上の島に住み、そこを治める日神なる君主神」ということである。
共産党歴代のトップは 就任前後 天への挨拶として 日本の天皇陛下へ報告に来る
これを 支那では 封禅(ほうぜん)の義と言う
日本列島は 日出国であり 形は龍の形をしている
支那の皇帝の証しが龍であるのは 日本の天皇を祖としていた証しであろう 邪馬台国の場所はどこか知らんが九州人が近畿を制圧したことは間違いないやろ 軍事顧問として倭国に狗奴国対策を教えに来た張政は
軍事寄りの魏の官であったと考えられる
建業(呉の都)を攻める作戦の立案者になりたかったんじゃないかな 某国の人が盗んで持って帰ろうとしたけど見つかったから隠しといたんじゃね?www >>634
卑弥呼が死んだ辺りからは後から付け足したもんだろうが、
それ以前は呉が滅ぶまで中央で何の検討もしないなんてありえないだろう。
陳寿がその検討に参加したかどうかはわからないが、
倭国に赴いた役人の報告以外にもいろんな中央役人の意見を参考にしながら
資料作成が行われたと考えるのが常識だと思うよ。
そうした検討の結果完成した文が魏志倭人伝に残ったと考えるのが自然だと思うけどな。 >>647
30年前に吉野ヶ里遺跡が見つかって決定的になっちゃったからね >>638
> >>469
> 使者が実際に行った場合(自ら行動した場合)には動詞が先にあり、現地の人から聴いた場合には動詞無し又は水行○○とか陸行○○と表現しただけのように思える
つまり、使者は帯方郡から海を渡り伊都国まで行った。そこで現地の人から南東百里行くと奴国があると聴いた。
そして東に百里行くと不弥国に着いた。
そこで倭人から、船で南へ20日行くと投馬国に着き、さらに船で10日行き陸路を1カ月行くと邪馬台国にたどり着くと、聴いたってことだわ
倭人は日数しかわからないから >>544
斎ってイチキシマヒメからきてるって説か?
それも自説にすぎない。 直径21.1cm、厚さ2.5mmの鉄鏡で、反りはなく平面である。装飾は、腐蝕のために剥落した部分が多いが、
約3分の1が残存しており、原状をうかがうことができる。背面全面に金で竜文が象嵌されており、角や爪は銀で象嵌されている。
また、眼や体の所々には赤や緑の玉が嵌められている。中心のつまみ付近には漢代の書体で「長宜子孫」(子は欠落)の4文字が金で刻まれている。
この鉄鏡は漢代のものと考えられているが、前漢か後漢かについては両論がある[2]。
金銀を象眼した鉄鏡は、日本国内ではこの金銀錯嵌珠龍文鉄鏡しか出土していない また、中国の三国時代に書かれた『曹操集訳注』には、魏の曹操が金錯鉄鏡を持っていたと記されており、この種の鉄鏡は高位の支配層の所持物であったと考えられる。
2019年には中国の研究者が、曹操の陵墓(西高穴2号墓)から出土した鉄鏡をX線を用いて調査した結果、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とほぼ同型式である可能性が高いと発表している[3][4]。 >>206
大国だよ
金印もらったのは東西で各一国だけだったはず
ちなみに半島の国は陶器の印な 戦前、戦中に中国からこの手の骨董品が大量に持ち込まれた
箔付けに○○から出土なんてのもはやった
その大量の骨董品のうちの一個というだけ >>647
九州が地方税使って地元大学とかが中心になってもっと掘りまくらなあかんかな。
筑紫平野の古代水田跡調査のためとかそれを兼ねて地質調査するみたいなことできんのかな。
ついでに未発見の遺跡とかまだまだ出てくるかもしれんし。 >>656
箔付けで日田かよw
アホらしいw
畿内説涙目www >>657
までじゃなくて室町で一回だけ
好きな奴がいてな 田んぼから金印がでるくらいだからな
そうとう裕福であったと思われる >>1
だから邪馬台国は九州だって言ってるだろ
九州から近畿に遷都したんだよ また今日も学会ガーが来てるねw
>>626
おまけってw
三国とも数学と色んな分野で競いあったが、
一番は勿論領土。
呉が琉球から倭に触手を延ばしつつある当時
なんか向こうからやって来たそれなりの大国、
それも公孫滅ぼした成果で半島まで視界が開けた結果、当然ながら一大慶事。
それが鬼道使う女王で風俗も珍しいとなれば、
特筆ものなのは必定。 小学館日本の歴史で卑弥呼が他の豪族に配ったとあったような気がする >>665
呉が滅んだ後でも重要かって聞いてんじゃね? 大和政権も鏡を豪族に配るというまったく同じことをやっているんだが、九州の真似をしたのか? 今の鏡を持っていって
製法を秘密にすれば王に準ずる位
傑作鏡作りのミコト哲郎とか
そういうの貰えるかね >政等は檄を以って壱与に告諭す。
>壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わし、
>政等の還るを送る。
張政は台与に手紙を送って台与はそれを読んで
掖邪拘ら二十人を派遣して張政が帰るのを送った
伊都国から邪馬台国の往復は(20日+10日+1月)×2
この往復をする間張政は伊都国で4ヶ月は待ったと考えられるし
張政の帯方郡の出国日や帰国日が帯方郡で記録されていて
それを陳寿はみていてこの日数に矛盾はないと考えられる
つまり邪馬台国まで片道2ヶ月かかる
九州北部は無い >>666
中国王朝に認められた王という資格で戦の正当性を示し味方を募集しただろうが、
戦への支援に対しそれ相応の見返りもしたって考えるのが普通だろうな。
その後の変化を見る限り天皇家が関わらない範囲で
大和や出雲もしれっといろいろ援助した可能性高いだろうな。 >>636
だろうね 古事記は邪馬台国や卑弥呼を避けてるような感じがする >>569
そういう視点もあるなあ。
魏志倭人伝の頃から交流してんのに、
私は外交を知らない物知らずと自称してんもんな。 まあ、超古代東アジアは九州が支配する地域だったからな 出土の経緯が怪しすぎる
古美術商の話なんて信用できない 連続性ない割に九州の地名やら人名やら色々パクってるの笑う
コンプレックスあったのかな? >>672
邪馬台国だけじゃないよ
饒速日や東国も避けてるよ。こちらは明らかに大彦やヤマトタケルの遠征で支配下に入れているにもかかわらず >>674
経済力では中国南部、戦闘力では中国北部で
両者でアジア東部を牛耳ってたらしいことは認めざるを得んやろな。 >>676
神武と随行者の一部が九州出身だったからじゃね? >>677
東国に関しては地下資源を求めて勢力を拡大してった連中が、
鉱脈を秘密にしたいとかあっただろうからな。
始めは勝手に掘って持って帰っていいよみたいな感じだったのが、
途中からちゃんと金払えよみたいなことをジモティが言いだしたら、
天皇の勅命で征服するみたいなことを繰り返してたんちゃかなと推測するかな。 >>672
天照大御神=卑弥呼説、高天原=邪馬台国説、邪馬台国東遷説で全て説明できる
記紀に邪馬台国の記述はあり、神武東征はその後の出来事である
更に古代は末子相続であり、天孫は長子の系譜、すなわち傍流なので、「背宍の胸国(背中の肉のように痩せた土地)」に天下った説明もつく >>672
つーか、中国の史書をみて卑弥呼を知ったんだろうね。 本筋とは関係ないけど
>>560
ヤマト王権は糟屋の屯倉が欲しかったのよ。
タタラ川が流れる鉄の土地。 >>683
九州勢力と交流が全くなかったわけじゃないから、調べればわかることだったとは思うけどな。 >>677
ヤマトタケル自体がモヤッとしてるからなあ
クマソタケル イズモタケル等から推察するとタケルってのは軍隊の名前なんじゃないかな
ニギハヤヒは物部氏の系統で古事記が編纂された時期では大友皇子側に従って負けたから避けられるのも分かる >>684
僕は継体が新羅とのパイプを持ってたと思ってるから、
朝鮮遠征自体が茶番で初めから九州制圧が目的だったと思ってるけどな。 >>685
日本書紀の神功皇后の条に魏志云ってもろに書いてあるからなあ。
大和王権は卑弥呼を知らない 近畿説を主張する学者や関西の連中が腐って極悪なんだよ。 >>689
知らなかったかどうかは、九州側でも知識が途絶えてかどうかによるだろうと思う。
一般的知識ではなかった可能性は高いとは思うが、
一部が知ってたとして、あまり一般には知られたくない事柄だったんじゃないかな。 中国史における卑弥呼の扱いはちょっと面白い
邪馬台国は大和と明記してるけど、卑弥呼とその後の皇室の系譜については関係を全く書いてない
日本側の記載に従ったと言いたいところだが、用明天皇については日本の記事をガン無視して隋書の王だと書き続けてるのと対照的
卑弥呼は大王の系譜に存在してない扱いになってる >>692
神功皇后が卑弥呼ならばそれでわかる。
そうじゃないなら大和王権は卑弥呼を知らない。 >>685
日本史の空白の時代 古墳時代の勢力図が不明すぎる
もしかしたら大和政権は卑弥呼の存在を知らなかったかもしれん >>689
知らないのではなく、皇祖天照大御神として伝わってる 239年
倭国の朝貢品
男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈
↓
魏の返礼品
卑弥呼に親魏倭王金印
難升米、牛利に銀印
絳地交龍錦五匹、絳地?粟?十張、?絳五十匹、紺青五十匹
又、特に
紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤
これは魏の中央の公文書にあったもので信憑性が高い
しょぼしょぼの朝貢品がものすごいものになって返ってくる >>696
神話でならいいかもしれない。
しかし文献学や考古学とは整合性が難しい >>698
神話でも難しいぞ 我が国の神様は中国に頭下げて王と名乗っていいよと言われたんだぜ 中国史の書き方はこうなってる
神代(筑紫城)
↓
神武東征
↓
邪馬台国(大和)
↓
↓ 卑弥呼の遣使→男性王→台与(中国史はこれを大王の中に入れない)
↓
台与の後の男性王(梁書、北史)
↓
用明天皇(アメノタリシヒコ)
↓
平安時代以降にまで継続
と言う形
卑弥呼、台与の魏の時代の使節の存在と、邪馬台国が大和にあった事は認めているが、日本の大王系譜に存在してない扱いなってる
共立、子供なし、と言う事から飯豊青姫のような大王ではない臨時と言う事なのか、
単によく分からないからスルーなのか、それとも完全別系統の女王のなのか興味深いところ 中国は卑弥呼の遣使については度々触れてるけど大王系譜には全く入れる気配がない
神功皇后の所でも特に記載する様子が無い(他よりもボリュームはあるが卑弥呼と無関係の記事)
卑弥呼は大王としての扱いではなく祭祀の主催者、臨時の執政者と言う扱いなのだろうか?
同時に政治を補助する弟がいるとあるがこちらこそが大王としての存在なのかもしれない >>700
旧唐書以降は日本書紀あたりを逆に参考にしてるからちょっと。 >>699
その辺は説明が必要で、天照大御神自体は卑弥呼が仕えた太陽神で、皇祖神としての天照大御神は、太陽神と巫女である卑弥呼の合体
つまり神話に仮択して邪馬台国の消息を伝えたもの
天孫降臨以降は、関係ないから知りませんよと 243年
倭国の献上品
生口(人数記載なし)、倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、
丹、木の握りの付いた短い弓、矢
247年
倭国が帯方郡に使者を派遣して
狗奴国と戦争状態であることを報告
※献上品の記載なし
帯方郡から張政らを倭国に派遣
到着すると卑弥呼は死んで台与が新女王になったと聞かされる
張政は台与に手紙を書く
台与は張政を送らせる20人を派遣
張政を帯方郡へ送ってさらに魏の中央に行き献上
男女の生口三十人、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なる雑錦二十匹
真珠5000個なんだろうか
張政派遣のお礼としてはかなり豪華
新女王としてのあいさつか
張政のアドバイスにより狗奴国との戦いを終わらせた可能性もある 九州説の滅茶苦茶な言い分
・記紀に卑弥呼や魏への朝貢が書かれてないのは、邪馬台国とヤマト王権が無関係だからだ
・魏の年号が入った銅鏡が畿内や本州から出土してるのは、ヤマト王権の前身が邪馬台国であると偽装するために、後世に銅鏡を偽造して配ったからである
矛盾してるんですけどwww >>698
九州由来の神だったので、元々男神だったの女神に変更し、
卑弥呼をモチーフにした可能性は若干考えるかな。 >>706
ヤマト王権の前身が邪馬台国であると偽装するんではなく、
少し前まで九州に別政権が存在してたことを一般には隠したかったからと考えてるんだけど。 >>702
日本側の意図はあるかも知れない
ただ用明天皇については日本の記事を全く無視している
なので別に丸写しと言うわけではない
中国は自分の記録に基づいて記事を修正している
だから中国は以下の形で日本史を理解していることになる
・奴国の遣使
・九州から大和への政権の移行(どんな形かは不明)がある
・邪馬台国は大和
・卑弥呼の遣使
・日本の大王系譜は神武天皇に繋がるもので卑弥呼はそこにない
・用明天皇が使節を送って来た
これが中国の日本の歴史 >>708
じゃあ、何のために魏の年号が入った銅鏡を各地に配ったことにするの? >>613
その地図15世紀に描かれたと書いてないか。
邪馬台国から千年以上後じゃん。
その地図の日本部分も奈良時代に日本で描かれたものらしく、それをそのまま中国人が世界地図に使ったらしい。
90度逆になったのは中国人が邪馬台国=大和と誤解して、魏史を参考にして
大和が九州の南にくるように貼り付けたからではないかな。 中国は決まり文句のように「日本は古の倭奴国なり」と冒頭に書いてるのも面白い
多分こんな理解なんだろう
奴国の遣使(神代、筑紫城)
↓
神武東征(実態不明)
↓
邪馬台国の成立(大和)
↓
↓卑弥呼の遣使→男性王→台与(大王や天皇ではない。臨時の扱い?別系統の王?)
↓
台与の後の男性王(梁書、北史)
↓
用明天皇遣使(アメノタリシヒコ)
↓
奈良、平安以降の天皇
↓
王も家臣も全て上古より続いている(宋史)
大体こんなイメージで考えてるのが見えてくる >>709
旧唐書の神武天皇以降の天皇を羅列してるところを見ると読んでるよ、日本側の文献 >>672
古事記は避けてるってより時代背景がおかしいからその当時の資料不足なんじゃないの?
邪馬台時代の500年前の事を書き起こすなんて当時の人には無理だと思う >>714
いや、だから
「然からもらった日本の記事を読みつつも、それを丸写しじゃなくて取捨選択を中国は行ってると言う事
その上で卑弥呼と台与を大王系譜に載せてない
この部分が興味深いと言う話 倭の五王の記述も、雄略天皇でそれっぽいのがあるだけで、他はないからな
文字があった時期でさえ、200年も経てば忘れ去られるってことだろう >>706
神功皇后のところに倭女王ってあるよ。
なぜか難升米が難斗米になってるけどw >>650
イチキシマが斎から来てるんだよキチガイ >>577
全然違う。
西日本の狗奴国以外の西部を影響下に置いた。 >>691
思ってねえよ。
いちいち地域対立にもっていくなよ糞チョン >>718
なぜかじゃねー
升と斗の誤記はありきたりな良くある誤記。 >>718
九州説側の言い分としては、それは自分たちの伝承に基づいて書いたのではなく、
魏志倭人伝に書かれてるから神功皇后に無理矢理当てはめただけだ、だろ? 倭の五王については南朝への遣使だからな
北朝系の隋以降は取り上げない
卑弥呼も北朝の祖的な魏に遣使してるから書いてる
日本としても滅んでしまったうえに北朝系の政権にはばかりがある南朝の記録は載せる意味がないんだろう >>716
確かにそこは変だよね。
旧唐書にも新唐書にも邪馬台国も卑弥呼もトヨも出てこない。
隋書には出てくるのに。 >>724
だって日本書紀の記述だって断定してないだろ。 卑弥呼は政治的指導者ではない、という認識なんだろ
鬼道、つまり非儒教の宗教的指導者であり
各国連合体の代表に収まっているが、
王権の執行者ではないので、王の系譜には載らない >>710
大和が配ったってこと?
畿内に出土するのは、 >>671 にも書いたことで説明可能範囲だと思ってるけど。 >>706
そんなこと言ったつもりは無いが、
それ別に矛盾してないだろwwww 隋から唐の間に近畿が九州併合したらしいけど争って勝てるような気がしないし平和的に融合したのかね これ今まで気づいてなかったわ。
日本側の言い分を嫌々飲んだ新唐書に邪馬台国や卑弥呼が出てこないのは分かるが
旧唐書にも邪馬台国も卑弥呼も出てこないのな。
これ変だな。奴国しか無いことになってる。 >>732
九州が自滅した。ただ自滅つっても白村江まで近畿日本は待ったわけだがね。
良く辛抱したよ。 >>728
隋書まで散々載っててハッキリと女王呼ばわりなのにか?
ww 曹操は帝位についてないし
確認されてるのは魏公までかな >>727
ヤマト側に魏との外交の伝承が残ってたというならそれでOK 純日本人の国家だった九州の国々を滅ぼしたのが挑戦由来の大和王権なんだよなあ
で、記紀で自分に都合のよい歴史を捏造した >>734
内紛の末吸収されちゃったか
白村江の戦いにはちゃんと意味あったんだな だから最後まで残って宗家化したところはやけに駄洒落好きだとか 旧唐書はまだ近畿日本と九州倭国を併記してるんだから
卑弥呼や邪馬台国の記載を避ける理由が全く無い。
なのに避けてる。
もうこの時には既に邪馬台国はほぼ消滅状態で奴国だけしか残ってなかったと言うことかな。 >>739
だから神武は南九州だっつってるだろがキチガイ 邪馬台国と同じ場所にある政権が今も続いてる
↓
この政権は上古から絶えずに系譜を伝えてる
↓
だが邪馬台国の時に使節を送ってきた卑弥呼はこの系譜に入らない
ちょっと不思議な矛盾が起こってるな
卑弥呼は国の主催者ではなく祭祀の長、もしくは摂政的な存在として理解してるのだろうか >>724
神功皇后を卑弥呼にしてるのは大和王権側だから >>745
不思議じゃ無い。
邪馬台国は筑紫平野。
そもそも帥升だって恐らく奴国王のはず。
また、アメノミナカヌシとかタカミムスビとかも全部本来は奴国王。
倭国大乱を納めた卑弥呼に敬意を示して途中から自分たちの上に置いたわけ。 >>747
だから日本書紀の記述は断定してないだろ。 日本の歴史は騙りの歴史。
アメノミナカヌシだのタカミムスビだのは全部奴国王。
また徐福伝説は狗奴国のもの。
近畿日本が九州邪馬台国を騙り、
九州邪馬台国が奴国を騙り、
奴国が狗奴国の徐福伝説を騙り、、、、
一番正直なのが、なんか悪者みたいな扱いの狗奴国。
チャンコロが実は一番正直wwwwwwwwwwwwwwwwwww
orz >>753
他のヤツの書き込みは読まなくていいよ。
正しいのはオレだけだから。 九州説には魏の年号の入った銅鏡は致命的な証拠だもんな
荒唐無稽な空想の話を作って、証拠にならないと言い張るしかない >>745
日本側の都合によって変えられた主張で、
自国の史書との矛盾を抱えながらも妥協点を模索したんだろうな。 >>726
そこらへんは、隋書と新旧唐書で成立年代が300〜400年違ってることの
反映として、解釈することもできるでしょ。 日本人って歴史の根幹にウソを置いてるからね。
巫女が国を操るわけで。
奴国と筑紫平野の邪馬台国側との戦乱である倭国大乱も
発端は多分巫女の誣告だから。
巫女の殺し合いをした。
だから戦争が止まらなくなった。 >>755
おまえのだけとかねえよ
ここにいる精鋭たちは一人一説だから
やっぱ邪馬台国は面白い 青銅器製造技術は九州ではおそらくロストテクノロジーだったろうが、
機内では現役の技術だったろうしな。 畿内王権は九州邪馬台国が衰退した頃に合併吸収したんだよ
それで対中華に向けてヤマトの名を拝借(背乗り)したわけよ
なんせ邪馬台国は中華に朝貢して繋がりあったからな
現代の会社でもあるだろう >>761
巫女って所詮芸能人みたいなもんだと思うけどな。 >>520
九州説を唱えると学会から冷遇され窓際になるんだろうな 邪馬台国が御井であることを立証し、
神武が雇われ店長なのを立証し、
古代日本史を統一的に説明することに成功したのはオレだけ。
オレだけが正しい。
>>773
マジ!?なんだろう、やっぱり邪馬台国がここに? 邪馬台国が御井であることを立証し、
神武が雇われ店長なのを立証し、
おかしな陰謀論を振り回したり、
無理のある妄想に逃げたりせずに
古代日本史を自然な説明だけで統一的に説明することに成功したのはオレだけ。
オレだけが正しい。
当然だ。お前らに何の文句がある?
衰退邪馬台国の上層部が畿内王権と婚姻して合併吸収だろ
狗奴国なんかも邪馬台国と敵対してたというが元々は邪馬台国の卑弥呼親族によるお家騒動だろう >>726
唐の高祖母は妹の隋皇后、独古伽藍を憎んでいたから隋と交流のあった日本も憎んでいたんじゃね? >>775
弥生後期後半の畿内ー日向の関係は説明できてる?
むしろお前らは
オレが出て来るまで何をやってたんだ?
元明、元正、推古らの女帝や、即位せずに執政した飯豊青皇女等のような存在がいるのだから、
結婚してないとか子が無いとか、一時的な執政とかでも関係なく書いてもおかしくない
だが卑弥呼については系譜にいないとして扱ってる
やはり別系統の王なのだろうか
それとも大王は別にいて、ヤマトトトヒモモソヒメや豊鍬入姫のような皇族の重要人物と言う存在なのだろうか
後者は政権を担う弟の存在を記載しているので可能性がある 国の上層部なんて上層部としか婚姻せんのだから
他国の上層部から嫁を頂くとか普通にあったろう
古代上級国民だろから国と国で合併話とか譲渡話は進む
出雲なんかもそうだろう 九州って中国系が流れ着いて国を作ってたんだろうな
これは、身分の高いものが鏡をもって日本に流れ着いて国を作ったんじゃね >>785
というか学会の説は考古学フリークは誰も信じてない状況が笑う 今は考古学的事情昔と変わったかもしれんけど、
奈良県における銅鐸出土の激減、畿内ー日向の関係から、
弥生後期以後に遷都する仮説は僕的には却下やな。 中国は日本側の記録を全くお構いなしに用明天皇の遣使を記載してる
実際問題、中国は日本に遠慮する必要なんて何もない
好きなように自分達の記録の通り書けばいいだけ
日本人がどんな事を言おうが忖度してやる理由がない
実際、日本人の言う事は大言壮語で信用できないと書いてるくらい
鵜呑みにして書いていないだろう 九州説で書いた倭国大乱から奈良に王権が移ったあたりまでの歴史年表みたいなのある? 九州説って東大の学者が唱えてるんだろ?
東大文系の学者はくそ。 九州の日田から世界で数枚しかない皇帝級の鏡が出てきたことを無かったことにしたい畿内派、気持ちはわかるけど残念。
これ確実に王手だ! >>682
そんな後付けの論理なんか当時の人間だって考える >>789
古田武彦のでも読んだら
年表があったかどうかは知らん >>789
九州側にあった史書かそれに準ずるものはほぼ焼かれてしまっただろうから、
中国の史書、日本の史書から類推するしかないからな。
中国の史書、日本の史書すべてが頭に入ってるわけじゃないから、
新事実を知るごとに変わる歴史年表しか示せんやろな。 >>781
それに対する一つの仮説が、田中良之氏とかが唱えてる双系制社会から男系への転換かな
古墳の人骨や歯の形から、古墳時代の前期は女系継承もかなりあったが、
中期後半からは男系に変わっていったという説
男系に変わったあたりに女王の伝承も消えてしまったのかも >>791
東大が九州説だったのは何十年も前のこと
今は畿内説だよ >>42
大阪の女性と付き合ったことがあるが
九州は分かりません
関西にしときます >>3
たった一つのコンロを捨てて
生まれ変わった中華の五徳
鉄の鍋を熱して炒め
チャハーンを食べねば何を食う! 楽浪海中に和人あり、分かれて百余国となる
これが奴国印の頃
魏志倭人伝で三十国が云々言ってる
統一されていない時代に、倭人の国が個別交易していても不思議じゃない(何カ国が海を渡れたかはわからないけど)
どの倭の国も我が国が一番だ、言ってたろうし、良い物贈ったら良い物貰える物々交換時代だろ? >>804
「九州」っていつ誰が呼び出したの、自称? 曹操は「王」にしかなってないぞ
漢の臣として死んだ
三国志すらしらないやつが語るんじゃねーぞ恥ずかしくないのか? >>803
楽浪郡や帯方郡から来た役人が、伊都国に滞在してた痕跡がある
倭国の産物や風習をあれだけ詳しく調べたんだから、かなり長期間だろう
葬式の様子や持衰のことなどは、短期滞在ではわからないこと
伊都国の支配階級に倭国の情勢も聞いてるはず 天帝は卑弥呼の足コキ奴隷だったんだよ
足でぴゅっぴゅっさせてもらう為に何でもやった
鏡、剣、勾玉 高価で貴重なものを何でも卑弥呼に贈った
やがて卑弥呼が死に、男の王が国を収めたが天帝との関係はうまく行かなかった そらは足コキができなかったから
国は大きく乱れたが、壱与が女王になるとまた国はうまくいった それは彼女が、 >>809
有力な国が数カ国はあって、その一つだったんでしょ
窓口は一つじゃない時代だった
だから、ある程度有力とみられるとぽつぽつ良い物贈られているはずだと思うよ 「日田の鏡が曹操の鏡と酷似していた」
畿内派顔面蒼白 >>813
卑弥呼が使いを送った後、魏は梯儁を倭国に派遣してるから
もし偽者が倭国王を名乗ってたらそんな嘘はバレるよ >>469
なんだもう完全に結論出ちゃってるじゃん
邪馬台国は九州です、畿内とか言ってたマヌケの皆さん乙でしたw 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
魏書第三十巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう? >>821
>神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
それは>>360を見れば分かるよ 通訳との間で齟齬があったんじゃね
張政「邪馬台国どこ?」
通訳「知らない」
そこで張政は考える
東に島があるとは聞いたことがないが
南に島があるのは聞いたことがあるぞ
呉の衛温と諸葛直が亶州、夷州に行き
夷州から数千人連れ帰ったんだ(230年呉書)
きっと邪馬台国は夷州(台湾?)だ
張政「南はどうなってんの?」
通訳「温暖ではだしで生野菜でもぐって魚をとるよ」
張政「ああ会稽みたいなもんか」 魏の人たちは台湾に邪馬台国があると考えた
住人がたくさんいて10万人を超える大部隊が編成できるかのように
数字をいじった張政
張政「魏の兵は使わず倭人による建業強襲作戦を提案します おれ指揮官」
魏の偉い人「却下」 元来倭は姫氏国であり、倭人の終着駅とも言える宋史新唐書において秦氏ちょう然の王年代紀を採用し、それまで中国人には聞いたこともない仲哀死を明記することで卑弥呼を暗示しているように卑弥呼=神功は動かし難く、神功が選んだ場所が都である、よって姫の国紀の国である。 古代からモリカケの如く公文書の改竄廃棄じゃ真実が見えない
そら邪馬台国もワケワカメだね 曹操は皇帝にはならなかった
皇帝が曹操に授けたのと、邪馬台国に授けたのとに
どれほどの違いがあるというのだろうか 230年呉が衛温と諸葛直を亶州、夷州に派遣
↓
亶州、夷州は邪馬台国かもしれない
↓
呉と倭人が仲良くなる前に取り込んだ方がよくね
↓
卑弥呼を親魏倭王に任命だ
親魏倭王になったのは魏の戦略的意向かもしれん 後漢の丞相のまま死んだはずだけどなあ
皇帝を名乗ったのは曹丕からだろうに 最初に魏の中央が邪馬台国は亶州、夷州にあると考えていたかもしれない
張政はその考えに乗っかった 魏と倭人の初の接近遭遇で親魏倭王
できすぎだわ 裏があるわ
呉に倭人を取られないようにだわ >>797
そうそう、とにかく卑弥呼以前の出来ごととかを時系列で端的に知りたい
九州説論者が個別に思う年表なんかでも見てみたい 近畿でも弥生時代のすずり? 大阪・泉南、滑瀬遺跡の石片
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190619-00000034-kyodonews-cul
大阪府泉南市の弥生時代の滑瀬遺跡で出土した板石の破片は、
弥生時代後期(1世紀)のすずりの可能性が高いと
福岡市埋蔵文化財課の主事が指摘していることが19日分かった。
弥生時代から古墳時代前期のすずりは、
これまでに北部九州を中心に50例以上確認されているが、
大阪府で見つかるのは初めてで現状では東限という。
弥生時代の文字使用が西日本で広がっていた可能性を
示す発見として注目されそうだ。
九州北部は1世紀までには大阪に着いてるよ 邪馬台国は九州
神武天皇は狗奴国(卑弥呼と対立していた男王の国)
邪馬台国を倒してから、機内に進出
機内では箔をつけるために、倒したヤマタイの後継を名乗っていた。
それがヤマトの名の由来
八咫鏡は卑弥呼から奪った戦利品
だから崇神天皇はこの鏡を恐れ、宮中から追い出した。
厄災を卑弥呼の祟りと思ったのだろう。 日田で出たことを無かったことに出来ないなら、曹操の鏡なんてたいした物じゃないでいく予定 >>797
>九州側にあった史書かそれに準ずるものはほぼ焼かれてしまっただろうから
こんな陰謀論を考えてるやつって普通の社会生活できてるの?
他人とコミュニケーションが円滑にできるとは思えない 最近九州説唱える人多いんだよな
出口治明さんも九州説だし
中公新書の「日本史の論点-邪馬台国から象徴天皇制まで 」でも九州説だった 上の方?に纒向遺跡の画像を見たらわかるよ。笑いながら、これ邪馬台国じゃねーだろう!と突っ込みたくなる 九州といえばチョンだらけのイメージしかないから
嫌だなあ >>685
部下の安曇氏とかがなぜ文句の一つも言わなかったのか? >>686
同じ饒速日だといわれてるアメノホアカリ系の尾張氏は天武側と思われるが、複雑だな >>839
チョンで確立した大和王権に失礼じゃないか(怒) >>839
ヤマトと邪馬●国は別物で、当時のヤマトは九州以外の地域にあった説 >>691
本当その通り(笑)ヨーロッパで受けてるラーメンは九州だけなのは豚骨ラーメンが原因っだって大坂人や東京人は思い込んでるからね?基本的にヨーロッパ人は醤油は嫌いだけど九州の甘い醤油だけはヨーロッパ人に受け入れられてるって事実を知らない(笑) >>706
鏡の祭祀などは完全に継承してるか真似してるかしてるので、記紀は知ってて知らないふりをしていることになるけどな >>846
まず麺が不味いんだよ
なんだよストレートの細麺って
ソーメンでも喰ってろよ >>719
神の名前が似てるからと言って九州に斎宮があった証拠にはならない。 >>850
特に餃子のタレや焼肉のタレを甘い九州醤油で作ったらヨーロッパ人もビックリする位絶品 記紀の東遷がヨタ話しなら邪馬臺国と関連させる必要無し
記紀の東遷が事実なら紀元前660年で邪馬臺国と関係無し
東遷は事実だが年代は間違いってのはどうなんだろ >>829
曹操は皇帝にはなってないけど追諡はされたから死後
墓に入れられた可能性もなくはない >>832
年代はもう一度ちゃんと調べんと自信ないけど、卑弥呼以前の出来ごとなら
現時点でなんとなく思ってんのは大雑把でこんな感じかな。
〜BC1000:縄文時代:縄文人が住んでて、中には農耕っぽいことをして集団生活してたやつらもいたかも
BC1000:朝鮮半島を経由してやってきた北方民族もしくは縄文人との混血(古い出雲族)が九州北部に水稲を持ち込んだ
BC1000〜:縄文人と混血が進んでいき(古い出雲族)、水田稲作が広まる→中国地方等に拡大してく
弥生時代早期か前期:出雲に弥生土器が伝わるか開発され九州北部にも伝わる
BC5世紀頃:呉越から渡来人が来て彼らが持って来た水稲による水田稲作開始
BC5世紀頃〜:縄文人や古い出雲族との混血(天照族)が進んでく
混血(天照族)が九州の東方・南方に向かって徐々に広がってき、
古い出雲族は九州での覇権を徐々に失っていき、九州から追い出される形になってく
BC3世紀:燕から百済地域に落ち延びて来た漢人と交易開始。米を金属器などと交換
BC2世紀:秦から新羅地域に落ち延びて来た漢人が出雲に渡来した後、九州で青銅器の生産などで出稼ぎに来始める
朝鮮で米を鉄器等と交換する量が増えてく
BC2〜1世紀:ニニギが高千穂を超える
BC1世紀〜AD1世紀:出雲の国譲り&神武東征
AD1世紀:奴国が漢に朝貢
AD2世紀末〜AD3世紀初め:倭国大乱
AD3世紀中頃:邪馬台国が魏に朝貢、狗奴国と戦 >>855
砂糖の入った味覚オンチに支持される醤油だろ >>849
だからヨーロッパ人は豚骨ラーメンが好きなんじゃないんだよ?甘い九州醤油のスープが好きなんだよ?ヨーロッパ人はベトナムの中国醤油のフォーや日本の甘い醤油で作られた九州のラーメンをスープ料理として見ている >>858
いやいや年代は明らかに間違ってるよ
神功皇后だけでも120年ずれてる。
遡ればさかのぼるほどそのずれは拡大していくと思われる。 >>861
それはお前の勘違い!関東人も九州の餃子のタレと比べたら苦くて不味いって事を自覚してて酢だけ浸けて餃子を食べる若い男性が最近凄く増えてる >>858
そういうこと
東遷は史実で年代が間違い >>864
そりゃ、酢コショーが最高だわな
クソ不味い砂糖いりの醤油につけて餃子食うとか、どんな罰ゲームだよw >>866
九州醤油は世界中の人が認める位甘くて美味しいけど砂糖はいっさい入ってない!世界中の人から受け入れられてる九州醤油をお前はもっと勉強しろ! 尚々、切々以愚札成共可申入候へ共、何かと取紛無音所存之外候、其許御苦労之至、奉察候、何も開陣之刻、可得貴意候、以上、
御注進申上候ニ付而申入候、仍拙者請取之国へ王子被落行候之由、口郡にて承候ニ付而、
分手、野山をさかし、無昼夜之境、追懸候処、おらんかいの堺目ほいれくと申城へ国王之嫡子・同弟、其外大官之衆、下々共四、五十人逃入候を則押詰候処、
城中之者降参仕、逃入者之事ハ不及申、城中之雑兵まて命之儀、種々懇望仕ニ付、則城を請取、右之王子并雑兵共ニ相助、召置候、
国王之儀、方々尋ニ遣候、定有所可相聞候間、右之ことく可申付候、次此国之儀、御法度御置目等堅申付、隙明候間、おらんかいへ可相働と存事候、
此上御諚次第、彼王子達召連可罷上候、其節以面拝可申承候、御次之刻、御取合奉頼候、恐惶謹言、
加藤主計頭
七月廿三日 清正(花押)
奥佐渡様 >>867
甘いのは砂糖が入ってるからやで
ttp://www.higuchi-shouyu.com/kyusyu_shouyu.html
>九州醤油が甘いということは分かりましたが、その甘さは何から作られていると思いますか?
>答えはとっても簡単で、砂糖と天然甘味料(甘草・ステビア)で甘味を加えます。
>メーカーごとに細かい製法は違いますが、基本は糖類で甘味を付けているのが九州醤油の特徴です。 >>866
ID:2DyYjIpr0はラーメンスレで有名なガイジだ
そっとしておいてくれ >>858
年代はうそでしょ、100年以上生きて息子が即位して又100年天皇とかありえない >>870
お前はステビアと砂糖は同じだって思い込んでるの?
だから九州人以外はまだまだ世界の料理に勝てないんだよ(笑)九州の甘い醤油は伊万里焼と一緒にルイ14世の頃から伊万里焼と一緒にヨーロッパに輸出してた だけど九州以外の苦い醤油は中国醤油よりもヨーロッパ人に不人気だった(笑) >>873
>砂糖と天然甘味料(甘草・ステビア)で甘味を加えます
> 砂 糖 と 天 然 甘 味 料 ( 甘 草 ・ ス テ ビ ア ) で甘味を加えます
日本語読めないの?? >>875
今の九州醤油は砂糖はいっさい入ってない!もっと勉強しろ >>876
九州の醤油には砂糖が入っている
ttps://backnumber.dailyportalz.jp/2007/06/21/b/
ttp://takeshige-shoyu.com/blogs/757
甘い=美味しい、という味覚オンチが「美味しい」と感じる醤油が、九州醤油 ブレイクタイム
ID:2DyYjIpr0とは
博多出身横浜在住のガイジ
博多で生を受けるが、あまりのガイジぶりに
ガイジ抹消のスペシャリスト"植松"擁する神奈川県に追放される。
当然関東での生活にも全く適応できずに社会の端に追いやられる。
過去を美化するあまり博多原理主義の基地ガイジへと進化をとげる
神奈川県仕事しろ >>878
確かに大昔の九州醤油には砂糖が入ってたけど今ではステビアだけ ちなみにID:2DyYjIpr0はこれでも40過ぎらしい(絶望) >>881
確かに俺自分の事頭がいいとは思ってないけど年収20億だからね?いずれは会社作るつもり >>882
お前年収20億なのにラーメンとかばっかり食ってるのかw
ガイジの上に嘘つきw >>883
いや俺年収20億だよ!もしかして嫉妬してるの? まあでもID:2DyYjIpr0のおかげで
障碍者は心が美しいという偏見は無くなったな >>877
書いてある事はある程度本当ポイ。
大彦命が5世紀くらいの古墳から碑文が見つかるし
出雲大社も実際に記紀通り高層建築だったポイ
七支刀も三韓征伐も120年ずれてるが海外の碑文や文献と一致している。 >>885
まあキミ達貧乏人も俺みたいに頑張って将来年収20億以上稼げるようになって下さい(笑) ただ記紀の人物像にかなり脚色が加えられている可能性は大いにある。 >>889
ダウトな
半島の男のyハプロにc2は少数 >>50
なぜ九州でヤマトという地名は残ってないの? ただFXで年収20億以上稼ぐ方法は誰にも教えないけどね?自分で努力して欲しい >>877
古伝承にいちいち年代が記されていたと考える方が間違ってる >>863
で神武東征は何年頃なん?
日向(熊襲のひと?)出身の神武天皇と言われる人がなんやかんやで奈良に入ったのはいつごろ? >>895
それは分からんが一説によると、寿命が100歳超えてる天皇は全部干支一回り分60年寿命を差っ引いて考えると合うという話がある。
この方法で神功皇后はちょうど120年ずれてピッタリ合う。 >>896
この方法でいくと卑弥呼の時代はだいたい崇神天皇あたりになるんじゃないかな >>886
記紀が本当ならじゃあ神武東征は紀元前660年で邪馬臺国と関係なく
たぶん神功皇后のことを魏志が卑弥呼臺与と言ってるってことか
なるほど >>891
磐井の乱鎮圧後に何かあったんちゃうかな? >>897
狗奴国は南九州だから神武天皇が狗奴国から奈良に移動してヤマト王権を作ったのか
なるほど >>831
史書にあるとおり公孫氏を滅ぼして倭が入朝したという魏にとっては慶事だった
倭は朝鮮を征伐するうえで戦略上重要なうえに中華に逆らっていないので扱いが悪いわけがない >>903
残念ながら九州人は心が美しいから関西人見たいにゴットハンドを平気でやる人はいない >>900
ちがうって年代を補正すると
神武東征はたぶん紀元前後くらいだよ。
卑弥呼の時代は崇神くらい
それで神功皇后は4世紀中から後半になるので卑弥呼ではありえない。 >>905
もし皇族が九州人なら古事記は嘘ばかりやん。 >>896
昔から一世代30年と言われており、また、古代の1年は後の半年だとする、一年二歳説がある
神武天皇から、年代がほぼ特定できる雄略天皇まで、年数を世代数で割ると、大体一世代60年で、一年二歳説で30年となる
更に、古代の継承は全て父子継承になっているが、これは系譜の単純化で、実際は兄弟もいたと考えると、世代数はもっと減る
勿論、一世代30年自体も最大限の数字であって、実際はもっと短いだろう >>891
九州で大和って地名はあるけど関西人が知らないだけ! >>908
いやそれだと寿命が短すぎる天皇が出てきてしまうんだよ。 九州にヤマトまたはヤマタイという地名が無かった時点で九州説は却下 >>902
狗奴国は熊襲で熊本
神武一族は日向で、熊襲を抑えるために痩せた土地に追いやられた傍流の一族
農業で食えないので漁や狩猟で糊口をしのいでいた(海幸山幸)が、新天地を求めて旅立った >>913
九州に大和って地名はある!だけど九州人から見たら関西に大和って地名があるって事は知らなかった!よって関西人は頭がおかしい >>912
それは古代の父子継承をそのまま信じた場合だろ
それに後世でも人間50年と言われるように、古代人の寿命は短い >>910
ヤマトとヒミコについて書いてないじゃん。九州にあったと書けなかった理由は何? >>904 魏と倭国で三韓を包囲したくて親魏倭王 あるな
244年に魏の?丘倹が高句麗を攻めて
高句麗の都を蹂躙するが王には逃げられる
?丘倹は都を返還するが高句麗が服属しなかったので
245年に今度は南北から高句麗を侵攻する
高句麗王はまた逃げるが高句麗国内は多大な損害を受ける
おそらくこの245年の戦いで南から攻めた
帯方郡の太守の弓遵が戦死したから
正始八年(247)に王?が太守として着任したんだろう
>其八年太守王?到官(魏志倭人伝)
帯方郡の太守が1〜2年くらい空席だったことで
倭国は使者をださなかったが王?の太守着任して
まもなく使者を派遣して狗奴国と戦争状態であることを告げる
狗奴国と高句麗が繋がってて高句麗と魏の戦いに呼応して
狗奴国が九州北部を激しく攻めた可能性を考えてみる >>906
「記紀の神武東征が史実」の意味は分からないが、まあ、
日本列島に住む人々はおそらく多くは西から東へ移動したと考えられる
それが縄文時代か弥生時代かはともかく
奈良でヤマト王権を作った人達の神話に、先祖が西から来たという伝承があっても何も不思議は無いね >>913
ヤマトなんて、日本中にあるありふれた地名だからなんの証拠にもならんぞ 関西人がよく言うのは長浜ラーメンって滋賀だと思ってた?だけど九州人から見たら長浜って地名は福岡以外にも沢山ある!大和も同じ >>917
卑弥呼の記憶は天照大御神として、神話の一部に記されている >>910
九州倭国の事が詳しく書かれてないのは不自然だわな、単なる天孫降臨の地扱いになってるだけ 記紀の謎は
大和政権は明らかに魏の鏡や前漢鏡あるいはそれのコピー品を豪族に配っているのに魏や前漢と交流を知らなかった体で書いている。
なぜだどうしてもわからん。
ただ記録を紛失したためにほんとにわからなかったのか?
それにしては国内の事績自体は結構詳しく書かれている。
どうしても腑に落ちない。 >>916
とくに3代4代5代天皇を寿命半分にしたら、皇太子が育つ時間がないんだよ。
10歳くらいで即位してすぐセックスして皇太子産んだみたいな話になってしまう。 >>831,904
>>11の理屈がなかなかいい線いってると思う >>925
記紀神話は九州倭国の功績を消してるんだよ、九州倭国は存在してはいけない国だったんだろ >>922
ヒミコという名前が中国まで名前が通ってたのに、なんで歴史書にアマテラスなんて偽名使う必要があったの? >>929
という事は狗奴国も前漢や魏と交流してて邪馬台国と同じ祭祀をしていたってことか? >>927
うん、だからその辺は、実は兄弟だったのが、系譜を単純化して父子になったって説があるのよ 関西人が勘違いしてるのは長浜ラーメンって福岡じゃなく滋賀だと思ってた?だけど九州人から見れば長浜って地名は福岡以外にも九州に沢山ある!大和も九州に沢山ある ヤマトと言う地名は大和では無くて山門が正しい。山門が付く地名は
現在の福岡県みやま市瀬高町山門だけしか無い、みやま市になる前は
山門郡と呼んでいた。 >>932
ヒミコがヒメミコだとすると、普通名詞だから歴史には残らんし、書紀にはオホヒルメという名が出てくる >>935
それにしては干支は結構しっかり書かれてるから、そんなとこ偽造するとつじつま合わなくなりそうだけどなあ
60年削除説のほうがいいんでない。
実際神功皇后はそれでピッタリあうんだから >>932
記紀を書いた人達やその参考文献には天照大神という名前は残ってたが、
卑弥呼という名前は残って無かった
魏志に書いてる卑弥呼って何だろうというのは記紀を書いた人達の中で普通に謎だったんだろう
陰謀論でも何でもなく、文字が無い時代の450年前のことなんか普通に分からない >>934
卑弥呼死後すぐに狗奴国が邪馬台国を制圧したんだろう。
記紀で言えば景行天皇から仲哀天皇のあたりか
そのあと狗奴国の倭の五王になっていく >>925
三角縁神獣鏡
・詩壇を形成し文学を重んじた魏の皇帝が贈ったとは
思えないひどい銘文
・中国鏡で径20cmを超える鏡は稀なのに、三角縁は20cmオーバー
ばっかり
・皇帝の名の下に贈ったら皇帝の面子丸つぶれの粗悪な鏡ばかり
・中国本土で発掘された三角縁神獣鏡はゼロ
中国で作ったなら一個くらい見つかってもいいだろ
・そもそも神獣鏡は呉があった江南地方の鏡
敵国の鏡を贈るかバカ >>939
2年→1年説も考慮して、紀年論は根本的に見直す必要あるかもな。 >>937
山都町(熊本県)、八女(もともとの呼び名は八女津「やめつ」) >>915
>九州に大和って地名はある!だけど九州人から見たら関西に大和って地名があるって事は知らなかった!よって関西人は頭がおかしい
これが年収20億をたたき出す男のロジックかw >>933
え、魏鏡のコピーじゃないの
ヤマト王権は魏鏡のコピーを配って配られた方はそれを前方後円墳に埋めた
ヤマト王権が魏と無関係ならなんで魏の年号を書いた鏡を配ったん? >>942
だから自分らが邪馬台国の後裔を詐称したくて鏡をくばったのなら記紀にもなにか魏や前漢と交易した風なエピソードをでっち上げる必要があるわな
でないと詐称にならないし 245年の魏と高句麗の戦いは倭人も参加して
難升米が功績をあげたと考えてる
同年難升米に黄色い軍旗が贈られて
帯方郡に預けられる。
>其の六年(正始六年245年)、詔して倭、難升米に黄幢を賜い、
>郡に付して仮授す。(魏志倭人伝)
この黄幢(黄色の軍旗)は張政が倭国に派遣されたときに
難升米に渡される
>塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を齎し、
>難升米に拝仮し、檄を為(つく)りて之を告諭す。(魏志倭人伝)
黒塚古墳から絹繊維が付着したU字形鉄製品が出土したけど
ここが難升米の墓で出てきたのが黄幢ということになると
畿内説で決着する 名前かいてないかな >>948
交易をアピールするなら九州倭国を出さざるを得ないから近畿日本にそれは無理だったんだよ >>946
お前も年収20億以上稼げるようになったらいいね? >>951
倭国と言う名前は完全に詐称してるから
大和を大倭とか倭京とか買いて
だから詐称したのならもっとどうどうと詐称しないとおかしいと思うんだよ。
倭国名や斎宮は詐称やパクリして、中国との交流だけは隠したみたいなへんな話になる >>948
三角縁神獣鏡は4世紀
記紀は8世紀
畿内政権の中の人も入れ替わっとるし、
記紀編者がわざわざ4世紀の政権の忖度とかせんわな >>946
ようは九州人から見たら関西に大和って地名はないだろう?関西人から見たら九州に大和って地名はないだろう?って思い込んでると思うんだけど関西人だけが大和は九州にはないって書き込みが
あまりにも多いから関西人は頭が悪いんだろうな?って思っただけです <絹の出土例>(弥生〜古墳前期)
福岡 15
島根 4
京都 3
奈良 2
富山 1
石川 1
絹の出土自体希少なので、この差はでかい。 >>955
えー私は奈良県民なんで宜しく。(九州説) >>955
「やまと」の有力候補地域に無いから、なんかあったんちゃうかと思ってるだけなんやけどな。 >>953
それは中国に記録が残ってる事を恐れたんだろ?
日本では焚書できても外国はコントロール出来ないからな [三角縁神獣鏡とは]
・呉の領域で作られていた画文帯神獣鏡などをコピーして
4世紀以降につくられた鏡
・大量生産する必要があったため、設計段階から砂型の修正が少なくて済むように
三角縁で作られた 歴史板の住人がニュー速+板まで出て来ているってことは、あっちは過疎っているんだね。(´・ω・`) >>847
鏡文化は伊都国や奴国からでしょ
畿内は2世紀からそのあたりの地域と交流あるし、3世紀には連携を組んでる ついでに
<鉄刀・鉄剣・鉄矛>(弥生)
九州 199(内福岡102=1位)
近畿 69(内奈良1=28位)
<鉄鏃>(弥生)
福岡 398(1位)
熊本 339
大分 241
・・・
奈良 4(27位)
<刀子>(小刀)
福岡 210(1位)
奈良 0(33位=最下位)
<魏晋鏡>
福岡 37(1位)
奈良 2(15位) 記紀を書いた人は魏志倭人伝を読んでるんだから、中国との交易を記紀のエピソードにでっち上げようとおもったらいくらでもできる。
なのにでっちあげてない。
しかも神功皇后が卑弥呼なんじゃないかみたいな全く中途半端な正直っぽい事を書いてる。
しかも堂々と年代は偽造している。
倭国の存在が邪魔なら、自分らの倭国的要素を全部削除するべきなのに、都を大倭や倭京としるし鏡祭祀みたいな邪馬台国的な事を包み隠さず書いている。
すべての事がちぐはぐというか
なかなかレスを読んでても納得いく説明が見当たらない。 >>963
すべての中心が九州ならヤマト王権も九州にあったはずだなw >>939
干支にしても、干支が大陸から伝わってからの話で、特に古代は、元からあったと考えない方がいいかも たしかに弥生人は重要だけど朝鮮や沖縄から日本に渡る前の時代
石器時代の氷河期に北経由で入って縄文人になった人達が日本人の元だからね
まったく南ルートが無かったわけでは無いと思うけど
日本の歴史は北からだよ 記年鏡は、10枚に1枚もないが
その殆どが三世紀前半をさしている
後年、ハクを付けるために適当に書いたのだろう
”景初4年”とか中国に存在しない年号まであるし >>964
年代は創作だろうけど、偽造ということではなく、元々無かったものを苦労して当てはめた感じ >>937
奈良県奈良市都祁小山戸町
昔の日本語の母音には甲類と乙類の2種類の発音があって、
夜麻登とか文献に出てくるヤマトのトは乙の音なんだな
門も戸も甲類の発音なんだが、
倭面土の土は甲類だったりする
甲乙の発音はあまり気にしなくていいんだろうか
(参考)http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/do_oturui.htm
いずれにせよ、古代人は土地の特徴で地名をつけたので、
山本(山の麓にあった)
山門(2つの山が門のように位置していた)
山戸(山が扉のように位置していた)
のいずれかだと思うしそのような地形が邪馬台国所在地のヒントになると思う >>963
後漢書倭伝では、「其兵有矛楯木弓矢或以骨為鏃」
骨鏃とされているのだから、鉄鏃の多さは逆に否定的証拠じゃね
毒矢として使える骨鏃の方が、鉄鏃よりも威力高いから
武力としての比較も難しいし これだけ出土に差があるのに、昔も今も畿内説の自称学者やうんこ学会は
「九州には何も無い」
文献で負けると「出てくるモノが第一」と言う。
なのに出土数はこの通り。
学会と言うより学芸会の間違いだろう。 >>965
弥生時代には大和の統一王権がなかったという話だろ
因みに青銅器鋳型の8割が北部九州から、銅鏡の7割が
福岡県で見つかっとる
当時東アジア文化圏では王都と工業地域はワンセットだったんだよな >>964
あまり不思議は無い
神武天皇即位は観念的な即位年を無理矢理日本建国の年と設定しあてはめたから逆算で歴代天皇の年齢がおかしくなった
分からないことは書かずに、分かってる伝承されてることだけを書いた
そしたら分からないが中国の史書に書いてることがあり、正直に分からないが多分こうかなあってこじつけ注釈した
それだけ 大分県の日田から出た鏡で結構有名
にもかかわらず、出土した遺跡の発掘調査は
何故かあまり進んでいない。 >>964
記紀以外にも文献・伝承があるので露骨なでっち上げはできない。
日本書紀は中国王朝が読むことを意識してると思うので、
神功皇后=卑弥呼思うように可能性残しておこうとした。
雄略が呉に使いを送るまで大陸の暦を知らなかった。
等々じゃないかな。 >>963
ソースは邪馬台国の怪w
つまり、ド素人の同好会です
紀元前まで遡って合計して、邪馬台国とは関係ない時代の数字であったり
魏晋鏡の数字など考古学者とまったく違う独自カウントの数字であることに注意 >>968
彼らは日本の歴史のメインストリームにならなかったんだ
文字も無いし
北から日本列島に来た人達の歴史書もあったらよかったのにね >>968
千島・樺太が今でも日本領だったら発掘調査も進むのになぁ 大量にもらってあちこちに配ったという説はどうなったのか? ド素人の同好会がホームページで何を書こうが自由だけど
そんなのチラ裏と同じ
個人ブログと同じ
それを公的機関が出してる情報と同じくらいの信頼性があると考えるのは痛すぎる 日本人は 中国の男と 古代から なかよしだったからね
ネンゴロだった この鏡って240年に梯雋が卑弥呼に献上したやつかもしれんね >>976
日田って面積が広すぎて人口3万人だけど久留米と隣どうしなのにお互いの県庁所在地が50キロ以上も離れてるからね >>981
あまり期待せん方がいいと思うけどな。
東シナ海がまだ陸地だった頃、南方から来た人間が日本地域に入って来たのが主流だと思うよ。
悠久の時を経て少しずつ暖かくなり、東北まで達した可能性の方が高そうかな。 >>23
「倭人は、太伯(呉の始祖)の末裔」であると中国でも信じられてたようだから
倭王は、中国皇帝と同じくらい身分が高かったのかもしれないね >>977
ただ向こうの文献と照らし合わされたら一番すぐばれる嘘である年代をごまかしてる。
一番バカにされそうな嘘だけどなあ >>989
中国王朝は日本の歴史なんてほとんど知らないし、
魏志に載ってる部分は正確な年代使ってるし。 委奴国王印のように史書と物理的証拠が一致するなんて
なかなかある事じゃない。一つの奇跡 >>989
新旧唐書のどちらかに、日本政府は対外と対内で
言うことが違うと書いてたような気がする >>989
旧唐書でかなり怪しまれてるよな
日本ってなに?
邪馬台国があった倭は何処アル? >>987
DNA鑑定で縄文人はほとんどが北方から入った人で構成されてるらしいよ
弥生人は主に大陸と南方みたいだけど
最初に日本を支配した縄文人は北方系 >>989
誤魔化したのではなく、元々年代の無い古伝承に苦労して年代をあてはめた >>996
年代の当てはめ方は自分らが邪馬台国で神功皇后が卑弥呼だといいたげな当てはめ方だけど >>997
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