【徳島】邪馬壹国(邪馬台国)の阿波説主張 徳島県内研究者ら「邪馬壹国は阿波から始まる」出版
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邪馬壹国が阿波にあったと紹介する書籍を出版した永井会長=北島町中村
https://amd.c.yimg.jp/amd/20191004-03266078-tokushimav-000-2-view.jpg
県内の古代史研究者らでつくる「やまと研究会」(北島町)が「邪馬壹国は阿波から始まる」(A5判、270ページ)を1200冊出版した。邪馬台国は邪馬壹国であるとし、歴史資料や阿南市の国史跡・若杉山辰砂採掘遺跡での調査結果を根拠に「邪馬壹国阿波説」を展開している。
研究会の三村隆範さん(72)=阿南市宝田町、土佐野治茂さん(64)=同市上中町、永井英彰さん(82)=北島町中村=の3人が執筆した。
中国の歴史書「魏志倭人伝」には「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と記され、読み方も当時の日本列島にあった倭国と同じ「やまとこく」であると説明。記述内容から位置を検証し、邪馬壹国は阿波にあったと主張する。
その上で、邪馬壹国の記述箇所に「其山有丹(朱を産出する山あり)」の一文があると紹介。卑弥呼が中国王朝に朱を献上していたほか、赤色顔料「水銀朱」の原料である辰砂を採掘する弥生時代後期の坑道が昨年、若杉山辰砂採掘遺跡で見つかった点を「阿波説」の根拠に挙げた。
県内の書店やインターネット通販大手アマゾンで販売している。
10/4(金) 11:30配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191004-03266078-tokushimav-l36 阿波説は日本人が納得しない。
やはり大和朝廷の本拠であり、伊弉諾降臨の地橿原がある畿内説が大和民族的には一番しっくりくる。 九州説のキチガイが調子にのりすぎてるせいで
どんどんほかのキチガイが調子にのってる >>5
昔はもっと酷かったぞ
ハワイ説とか出てきた これだけ議論になっても遺物が出てこない
現在は存在しない土地が大和だというのが妥当
おそらく、かつて大和というのは大韓民国にあったが、巨大地震によって沈没したというのが筋だろうよ >>6
支那から距離がありすぎじゃないですかね
その内アメリカ説も出てきそうやん
天空の城ラピュタかな 島根とか岡山あたりも場所的には可能性ありそうなのに
あまり主張する人いないよな 「其山有丹(朱を産出する山あり)」
奈良県飛鳥村のそばの桜井市に、歴史的にずっと採掘されてた巨大産地があるんで
それは論拠にならん 水銀朱を弥生時代に採っていた場所は
奈良時代になっても同じ場所で採られてたから
弥生時代の遺構として残ってないだけ
そもそも若杉山遺跡は弥生時代の終わりから古墳時代の初めが最盛期で
遺構として残ってるってことは出る量が少なくて後の時代には放置されたってこと
若杉山遺跡は他の中央構造線の遺跡と比べて圧倒的に効率が悪い それでは、 大分にも朱のとっていたところがございます。
大分市丹生というところでございます、ハイ 四国にも本州にも行かないよね魏志倭人伝の書き方じゃ。
あっても関西か九州。
膏薬はどこにでもくっつくだっけ?その類いの歴史物はうんざりだ。 >>1
まあ、やはり
大局から考えると、
古代日本列島において、巨大な「富」の集積ができる場所となると、近畿しかないだろう。
国家というものは、大きな富が集積されねば建設は不可能ということは、現在の歴史学では常識。
近畿は、北陸の港を通して直接日本海を横切り、中国大陸と交流することが可能であったのである。
それに使用した大型船(当時、中国ですでに建設されていた)で、当時の世界では有り得ないほどの
大量の交易品をしかも速やかに快適に運ぶことができた。
北九州から朝鮮半島経由では、まだ日本には荷馬車も無い状況で、
荷を人の背に負ってテクテクと歩いてしかも野盗が徘徊する地域を通って細々と交易してもタカが知れてる。
北陸経由で、中国とホボ独占的に交易できた近畿地方は、
その繁栄が日本全土に響きわたっていたろう。
だからこそ、神武が南九州の片田舎から、ガムシャラに近畿を目指したワケだ。 三重の丹生鉱山や熊本の阿蘇山は
徳島県の若杉山と違ってわざわざ12mの穴を掘らなくても採れる
あと奈良県大和水銀鉱山がある宇陀
ここは神武東征で橿原市に行くには遠回りになるのに
わざわざ神武が立ち寄ってる
水銀朱が採れるので奈良時代の政権にとって重要な土地だったと思われる
若杉山の発掘跡といってもたったの12mな
現地に行って見ればわかるがこの近くに倭国の首都があったとは
絶対に思えないクソみたいな場所
実際当時の遺構でたいしたものはない >>17
九州を拠点に機内と半島に進出してたら半島で負けたので機内に逃げたんじゃね
でずるずると都が東へ東へ 徳島ねえ…
・阿波おどり
・金ちゃんヌードル
あと知らんわ 小学生の時、欽ちゃんヌードル焼き豚ラーメン買ったら
焼き豚入って無かった。一生忘れない。 >>1
なんだろうなあこのあったらいいなのゴリ押し 九州民でも大半は畿内だと思ってる
九州説は無理がある
四国に至っては論外 >>23
畿内は4世紀後半まで無人の原野
纒向も鉄が出ない変な遺跡 >>1
場所的にはあながち嘘ではないんだけど、やっぱり遺物や遺跡が少ないから違うよね >>25
朝鮮半島は寒いし土地が痩せてるからロクな米が獲れない
昔から絶望的に貧しい 四国は平地が少なくて徳島市は海だし
中央構造線が通るあたりも海か湿地で
四国山地の影響で水害が多くて定住には向いてない
そのためが四国説は山上に都市があったとしてるところが突っ込みどころ
山の上でちょっと平地があるとここに邪馬台国があったというが
なにも残ってない
素人考古学レベルの話はやめてちゃんと学術として成立させるべきだが
四国は無理 >>26
青色発光LEDで一時有名になってなかった? >>24
天皇家は水銀の鉱脈を追って九州から東に移った小豪族という説がある >>1 >>2
日本人の血税を使って、
しばき隊メンバーなど在日朝鮮人を大量採用し、
朝鮮電通と結託して「韓流スター」の人気偽装をやりまくる超絶反日NHK。
>NHK( 特殊法人日本放送協会) の平均年収が1606万円(40.9歳平均・日本人平均の4倍)だということをみなさんはご存じですか。
【NHKのスクランブル化を実現させよう】
http://www.ystseo.net/ngnhk/
. 崩壊後の逃げ先が徳島ってのが有力なだけで
徳島は違うことね? とっくに畿内説で決着してるのにまだやろうってのか
阿波説にしろ、九州説にしろ、郷土史家みたいなド素人が言い張ってるだけ
魏志倭人伝を珍解釈して、強引に阿波や九州のどっかにこじつけてる
とくに九州説なんか、物証がまったくと言っていいほど何もない ぶっちゃけどこでも良いんだよ
ただまぁ九州や四国だとしたら日本を代表出来るような国にはなれてないと思うけど やはり阿波だったか
神話に出てくる物が全て阿波で見つかるはずだ このスレもいつものように、九州説の珍説発表会の場になるんだろうな
魏志倭人伝の曲芸読みオンパレードと予想 縄文時代の人口の大半は関東東北に集中
弥生時代の先進地域は九州
畿内は4世紀後半以降に作られた新興都市
纒向からは鉄が出ない
謎は多い 古代の辰砂産地といったら圧倒的に三重県の丹生鉱山なわけで、むしろ畿内説が補強されてしまう 四国は山林しかないからアウト!
グーグルアース見てみ、真緑だからw 魏志倭人伝は星新一先生のような空想小説家がかいたんだよ >「邪馬壹国」と記され、読み方も当時の日本列島にあった倭国と同じ「やまとこく」
↑何言ってるのか自分には全くわからんのだが、・・・
「邪馬壱国」なら、読みは「やまいちこく」だろ?意味わからんな
「邪馬台国」で読み「やまとこく」ならわかる、っていうか
そもそも「やまたいこく」じゃなくて「やまとこく」だろうと普通に思うが。 関西は街中をどんどん掘り起こして遺跡発掘すればいいのに
そうじゃないと証拠の遺跡が出ないぞ 高知の唐人駄馬、淡路の五斗長垣内、そしてその間の徳島、と
ちょっと別系統の文明が通った可能性もあるな。
で、九州からの流れと近畿で合流して大和政権が生まれた、みたいな。 もっと決定的な証拠が出てこない限りもう議論する意味は無いわ
てか飽きた 愛媛はあるかな 広大な遺跡を安倍ちょん友が獣医学部の下に埋めたからな 近畿も九州もこれという物証はないよ。
こじつけばっかりだよ。
移動可能な物は物証ではない。 まぁでも邪馬台国は十中八九、巻向だろうね
ババアの時代はどうだったか怪しいけど壱与ちゃんの時代は間違いなく巻向でしょ だろうな。誰もが四国が本命であることは知ってるんだよ 移動可能なら金印とか内行花文鏡も畿内や阿波から出してみせろバーカwwww 無駄無駄、
他所の国より、ウチの皇帝の方がビッグなんだぜ
その証拠に、対馬知ってるだろ?あの遠いトコ
そのずっーとずっーと、遠い所から朝貢に来るんだぜ?
という、ホラ話が魏誌倭人伝だから
壱岐から先がいい加減なのは当たり前
嘘なんだもの
朝貢に来た者がいたとしても、邪馬台国や卑弥呼は、尤もらしさを脚色するための創作
因って、そもそも存在しない >>65
金印?
九州で見つかったのは漢委奴国王の金印
邪馬台国の200年前のもの
内行花文鏡も漢鏡5期だろ
これも邪馬台国の時代と100年以上ズレてる
トンチンカン過ぎる 邪馬台国に固執するのは司馬遼太郎世代ぐらいでしょ
もう休んでいいよおじいちゃん 淡路の海人族が大和朝廷に出仕した折り淡路の伝承を国産み伝説として取り入れてもらったように
九州の邪馬台国に縁のある海人族が出仕した際に東征だの天照だの取り入れてもらったんだろ 出土品や神話遺跡など物証ベースでは明らかに九州
邪馬台とヤマトは別のもの
原盤とパクリの関係 >>73
神話遺跡って何だよ?www
意味不明過ぎる
出土品やら物証ベースで九州とか言ってる専門家なんていないけど、
どこの誰がそんな寝ぼけたこと言ってる? アメリカにたとえると九州がロサンゼルス畿内がニューヨーク。で、ワシントンがあるわけよ。
つまり、真の邪馬台国は徳島。 槨埋葬圏が邪馬台国とか、
コイツラマジで詐欺であり泥棒。 学問の体裁とっているのにバカ丸出しとかダメだろ
学者は怒れよ
日本の学者はカスばっかか? ヤマタイコク
ヤマトコク
ヤマトシ
大和市
神奈川説も根強い。 遷都を繰り返す
防衛その他の都合で山門・山戸と呼ばれうる地形の場所に都を構えた
とすれば、西日本各地にヤマト国はあったかもしれん >>1
> その上で、邪馬壹国の記述箇所に「其山有丹(朱を産出する山あり)」の一文があると紹介。
>卑弥呼が中国王朝に朱を献上していたほか、赤色顔料「水銀朱」の原料である辰砂を採掘する弥生時代後期の坑道が昨年、
>若杉山辰砂採掘遺跡で見つかった点を「阿波説」の根拠に挙げた。
桃の種レベルだな。 いまだに邪馬壹国とか言ってるあほがいるのか。
三郡志と一緒に絶滅したかと思ったのに。 >>67
九州説者は
「漢委奴国王」の遺跡や出土品を
「親魏倭王」の遺跡や出土品だと
【なんの根拠もなく】
【勝手に言い張っているだけ】
なかだよね
今の朝鮮人そっくり 2世紀の筑紫は「漢委奴国王」の全盛期
後漢の地方官だった公孫度が遼東地方に樹立した半独立政権「帯方郡」の指揮下に入り
倭国でブイブイ言わせておりました
その遺跡が
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や
佐賀の吉野ヶ里遺跡であり
九州の鉄器や硯、鏡などの出土品
であり「親魏倭王」のモノでは無い
なので
国立歴史民俗博物館
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c >>1
邪馬台国とか大和朝廷の話は要するに、天皇が大陸・半島から渡ってきた朝鮮人の末裔で、原日本人を如何に殲滅していったかということの論証だから。うちがルーツだみたいな楽しい話じゃねえのよ。神話の虚構を暴く作業。 >>83
秦野は秦氏が住んでるよるらしいよ
縄文から続く古い神社があるとか >>92
涙拭けよ近畿では鉄が溶け易い近畿パーwww 青春教師「邪馬台国はどこかって? 皆の心の中にあるんじゃないか」 >>92
こうやって平気でウソをつくのが近畿パーw
人間じゃ無い >>2
台与(トヨ)ね。
古事記に登場する天照大神を補佐した豊受大神のこと。
君、もしかして勉強出来なかった子^_^? 剣山に聖櫃とやらがが隠されてるらしいがすごい物なんけ? >>10
島根は出雲
岡山は吉備
いずれも大和朝廷に服従した地域なの。
大和朝廷は邪馬台国の事。
だからあり得ない。 >>101
邪馬台(ヤマト)=倭=大和
台与(トヨ)=豊=豊受大神 カムヤマトイワレヒコ(神武)
カムは神。井沢の説で良い。王朝の始祖と言う意味。
ヤマトは邪馬台(山門)。
イワレは謂れ。
ヒコは王。
神武は近畿がヤマトと呼ばれる謂れとなった王であり、王朝の始祖である、
と言う意味。
言い換えると、神武以前は近畿はヤマトでは無かった。 邪馬台は九州だよ。
水銀珠の古墳なんて何処にでもあるし
顔に塗る珠は阿蘇のベンガラだよ。
銀なんて顔に塗ってたら死ぬだろアホの近畿が
そもそも隋書読めば裴清が九州から出てないと書いてるし記紀の年代史も人物も全て隋書に合わない。
記紀編纂以前の記録を焚書して消した理由は白村江に敗戦した九州倭王朝を切り捨てて賊が日本と言い出しただけのこと。 じゃあそろそろ畿内説の物的な証拠や魏志倭人伝との整合性を語ってもらおうか
水銀とか人口とかどうでもいい記載の話はもういいわ
お前らそればっかじゃんなんの考察も出てこないし単純にツマランわ >>111
質問をしたら近畿パーがハッと我に返ってまともなこと言い出すと思うのは大きな間違い
そういうこと近畿パーに言ったら「新たな捏造を求められてる」と連中は受け取るよ
近畿パーはウソをつくことが大前提なんだから >>110
>そもそも隋書読めば裴清が九州から出てないと書いてるし
そんなことは書いて無い。
秦王国が近畿日本のこと。秦王とは秦河勝のこと。
近畿日本の天皇は秦氏のことを親しみを込めて秦王と呼んでいた。
秦王国とは九州倭国から見た近畿日本の呼称。 >>1
文献の書き方と順序から、その解釈は無いだろ
北九州 -> 大阪湾 への経路の後に
中間地点から邪馬台国への距離が書かれている
順当に航海したのでれば
北九州 -> 邪馬台国 -> 大阪湾 の順番になる
つまり、邪馬台国=出雲
山岳地帯を越えられないので、方角と日数だけ記載したと
解釈する方が無理なく説明がつく 山門なにもないじゃん 伊都国から歩いていけて水行の必要ないし
はい論破 >>111
>水銀とか人口とかどうでもいい記載の話はもういいわ
何で?
九州説に致命的だから重要な記載もどうでもいいってことにしたいだけだろ?
魏志倭人伝を無視しまくって、九州だと言い張ってればいいんじゃね? 九州論者が指摘する畿内説の矛盾点とやら
早い話、畿内邪馬台国の出先機関が北九州の奴国や伊都国や末盧国だったわけで
それらの習俗を記録したのだから、当然矛盾はあって当たり前の話なんですよ。
例えれば、江戸を知らない欧米人が長崎の習俗を日本すべての習俗と捉えて記録したようなもんです。 ヤマトの語源がわかったよ
現代のアイヌ語では海のことをアツイ、湖のことをトーと呼ぶが、
これは比較的最近のことらしく、大昔の日本人は海のことをトーと読んでいた。
そして、ツーとトーはほとんど同じ音だった。
つまり、ヤマト国というのは山津国の意味で、読み方もヤマト国ではなくヤマトー国が正しい。
海のすぐ近くに山があったので、山と海の国という意味でそう名づけたのだろう。
もちろんこれは乙類のトにあたる。その後、日本語は甲乙の区別を無くしたので
山門や山戸といった甲類のトをあてた、それが真相だ。
狗奴国の語源もわかったよ。
国後島のクナがアイヌ語で黒か草の意味なので、狗奴国の場合は黒の意味だろう。
阿蘇山の火山灰で土地が黒く見えたので、そう名づけたのだ。
つまり狗奴国とは黒国の意味だったのだ。 邪馬台国はエジプトにあったんだよ
偉い学者の先生も言っている 神武がいたとして、ヤマトに入る前にヤマトはすでにたくさんの人がいた。
古くは弥生中期の遺跡水田があり、記紀にも先住者が書かれている。
ニギハヤヒ伝承は、アマテラスの子孫が先にヤマトにいたってことだ。 候補となる王にふさわしい遺跡がないと妄想なんだよ九州
奈良は纏向があるから妄想とは違う 可能性
妄想を語る九州と可能性を語る奈良 この差は大きい >>127
ありすぎて困ってるだよ。畿内は箸墓だけでいいね >>128
それじゃ、九州の候補を3つ挙げてみよう 400年以上住んで九州の土地を熟知していたと考えられる
王の住居なので水害があるところは却下な
筑後平野の中央部は全部だめだな
海に近い山門も
おまえら部下になったっつもりで考えてみ?
水害の危険のあるところを王の住居にはできるか? >>131
それよりうんこ食べる時間じゃね?
お腹すいたでしょ >>133 ちゃんと論理的だよ 伊都国の立地考えてみなよ
洪水を回避するために選ばれた場所だろ
九州なのに現地の地形を知らないの? 吉野ヶ里とかもそうだよね あれは台地
九州って弥生人を馬鹿にしすぎじゃね?
彼らはものすごく考えてるよ >>124
神武が居を構えたとされる奈良県橿原市の畝傍山麓には、実際に橿原遺跡と呼ばれる遺跡もあるよ。
しかも縄文晩期から使われてた事を示す遺物も出てる。
神武が大和に入る時に争ったとされる長髄彦の本拠地とされるのが、奈良県奈良市の富雄地域。
長髄彦は古事記では登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)と呼ばれるが、この名前から奈良市の富雄地域の名前になったとされる。
またこの地域に杵築神社と言う神社がある。
この名前にピンとくる人もいるだろうが、今の出雲大社は明治になってから出雲大社と改名しているが、元々の名前は杵築大社。
奈良県桜井市の大神神社に大物主が、島根県出雲市の杵築大社には大国主がそれぞれ祀られていた。
大物主が三輪山に居を構える際の記述も、大和の地で大国主と話し合っているようにも読み取れる。
神武前の勢力が大和にいた痕跡は、キチンと探っていけばそれなりに見つかるよ。 徳島なぁ・・
南海電車の南海全線+徳島フェリーセットが、たったの2千円なんだよ。
こりゃ、ヒマな時に乗りたいよね。船ってめっちゃ気分晴れるから。
ところが行先の徳島になーんも無いw
散々探したがマジで無い。
せめてガンタンクぐらい置いてくれれば行くんだが。 ヤマトの歌にすでに歌われている
みんなその気でいればいい 九州説が成り立つための前提条件が日本古代史の否定だから、もうそれだけでトンデモ説と同じなんだよ
日本史の教科書はデタラメで、学校では嘘を教えている、オレ様が作った古代史こそが正しい歴史
そのオレ様古代史に基づいた九州説が正しいんだ!
こんな言い分が現実の世の中で通るわけがない
ネットの中、とくに5ちゃんねるの中で声が大きいだけの与太話 ・南至邪馬壹國、女王之所都
・自女王國以北、其戸數道里可略載
・女王國以北、特置一大率
何度読んでも邪馬台国は伊都国の南にしかないけどなw
もう一つ
・到其北岸狗邪韓國
狗邪韓國が倭国なのか争いがあるだろうけど、少なくとも倭国がここから南方向に展開していくことがこの文で分かる
邪馬台国時代に一番近い史料が畿内説を否定している
前科持ちの考古学会より信憑性があるw >>102
聖櫃は淡路島じゃないのかな
ロックフェラーも来てるしロスチャイルドもいるらしいとかなんかのスレで見た >>146
小学校か中学校で、魏志倭人伝は方角が間違ってるか、日数が間違ってるかわからないから
行程記事からは邪馬台国の位置はわからない、と習わなかったのか?
九州説に都合の悪い記述を無視して、南は正しいと言い張ったところで全く無意味
ただのゴリ押し
そもそも、魏志倭人伝には、邪馬台国は伊都国から遠くにある大きな国と書かれている
方角と日数のどちらが矛盾が少ないか?
日数が正しいとみなした方が矛盾が少ない
・水行十日陸行一月
・可七萬餘戸
・於國中有如刺史
・計其道里 當在會稽東治之東
それに卑弥呼は大きな国の王であったことを示す記述もある
・以婢千人自侍
・卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩
九州説では、日数以外にも、邪馬台国について書かれた記述をことごとく不一致になる 日本の副王・三好長慶の本拠地であり、始皇帝の子孫・長宗我部氏の本拠地の近所 >>145
九州説が成り立つための前提条件は
対馬から渡った末廬国は九州だ
だから、もうそれだけでトンデモ説と同じなんだよ
末廬国は九州【じゃなかった】らどうすんだか(笑) 「魏志倭人伝」がラノベでフィクション作品だったらどうすんのw 日数と方角、どっちが怪しいかね?
まず里数は5、6倍に過大
七万戸は大和にも収まらない
となれば倭人伝の数字は怪しい、必然日数も、となるのが普通じゃないかな
朝貢してきた国を強大に見せたいとする魏か晋の意図も、可能性として納得するのにそれほど抵抗はない
朝鮮半島との位置関係、倭国全体の俯瞰、統治機構についてなど、行程以外の部分でも示された方角が、
陽が真東に登らない時期に山間部の曲がりくねった道を数日移動して方角認識を違えたことを根拠に、否定されうるのか
意図的に東を南に置き換える動機ももちろん伺えない
方角は概ね正しく、日数は間違ってるとするのが妥当じゃないか
また、倭人伝の数字自体が怪しいのだから数字を根拠に九州説は否定されない >>145
近年の教科書に何が書かれてるんかは知らんが、
僕が持ってる高校教科書と九州説に矛盾は何一つないけどな。
畿内説:大和政権の勢力範囲が九州に届いていた
九州説:大和政権の勢力範囲が九州に届いていなかった
となるようなことが書かれてるだけ。 定説の紀年論なら纏向は紀元前後1世紀辺りで、
それなら記紀の内容から大和政権の勢力範囲が九州まで届いていたと考えてもいいが、
近年の発見で纏向が3世紀頃と考古学的に証明されたなら、
大和政権の勢力範囲は九州まで届いてなかった可能性が高まったわけで、
むしろ以前からそれを仮定していた2王朝説の九州説が有利になったはずなんだが。 >>10
プロの研究者で吉備説いるよ。
大和が狗奴国だと主張している。 大和説もくるしい。
大和に当時女王はいないから。
伊勢なら分かる。 ああいう古代で力持ってたところは山賊みたいな武装集団のはず
良識的に暮らしてた奴らの遺跡なんて年貢納めてた証拠ぐらいにしかならん >>140
そもそも杵築というのは今の出雲地方の古名で、名前の相似だけで言うと
大分に杵築市ていうのもあったりする。
あと杵築神社も奈良県内だけでもいろいろな場所にある。 >>113
たまにこう言うこと言い出すのいるけど
隋書に書かれてる倭の地域呼称が大陸の当字なのに
秦王国だけが何でそのまま秦氏に結びつくんだよ
普通に考えりゃ親王国だろ ギシアンワニワニパニック伝みたいな古いいち記述を真実だと思い込んだうえで
ほんで何処やねん議論で他人と喧嘩できるくらいヒマを持て余す人生は楽しそうだな 出雲と吉備について考えると、どちらも海沿いで九州と近畿のほぼ中間、
つまり九州と近畿の両勢力から適度に離れて影響力が及びにくい地域
なんだよね。もっと言えば交易の中間点としても最適な土地であったわけ。
出雲と吉備が古代に栄えていたのはそんな理由のような気がするけど
どうだろう? まあ裴清の見聞録によれば600年初頭国内に条坊型都市が最初に置かれたのは太宰府辺りの様だしな。
隋書によれば近畿開発は天多利思比孤の仏教統治から始まるのもの。
煬帝のアドバイス的返書により国分寺令の前身になる最初の拠点が大阪の難波宮建設になる >>8
遺物が出てこないのは大宰府の下に埋まってるから説 近畿に残る3世紀以前の大規模祭祀場は市場であり
纒向もそもそもが大市と呼ばれる産物の集積所だったのが分かる。
しかも海域に繋がる船舶輸送の拠点でも有り
魏志によれば地方各地に大倭を派遣し市を監視させたとも書かれ当時邪馬台の管轄下にあった地方の様相がそのまま近畿に当てはまる。 >>54
壹予 → トヨ なら
邪馬壹国 → ヤマト国 じゃないの? >>177
太宰府の下に埋まってるなら発掘したら分かるんじゃね?
今の世の中、建物を何か建てるには地下の調査が義務付けられてるわけで
太宰府市が学校や工場、マンション、大型スーパー、鉄道等が何もない戦前の暮らしのままな訳もなく
普通はそう言う基礎の調査で遺跡が見つかり、大きな調査に発展する。
何も出てないってことは、やっぱりそういうことなんだよ。
纒向も給食センター?を作ろうとして見つかったぐらいだぜ?
国道の拡張工事やらがやたらと遅れたりするのは、遺跡が見つかって調査せにゃならなくなるから。 >>110
>そもそも隋書読めば裴清が九州から出てないと書いてるし
そんなことは書いて無い。
秦王国が近畿日本のこと。秦王とは秦河勝のこと。
近畿日本の天皇は秦氏のことを親しみを込めて秦王と呼んでいた。
秦王国とは九州倭国から見た近畿日本の呼称。 >>173
お前のウソだらけの人生全然楽しそうじゃ無いよな近畿パーwww >>177
太宰府は最後だな
所謂倭京ね
邪馬台国は移動している。
吸収で確定という結論が出たじゃないか
また蒸し返すのか?
やれやれだぜ?? >>185
そこは確率がとても高いってだけ
確定したのは近畿と近畿以東じゃ無いってこと
邪馬台国は移動している。
山門(邪馬台国発祥の地。邪馬台国とは山門国のこと。)
↓
御井(卑弥呼の時代。御井の祇園山古墳が卑弥呼の墓。)
↓
甘木・朝倉(安本美典の言う邪馬台国。卑弥呼の後。)
↓
太宰府政庁(倭京。ここら辺では多分奴国と融合している。)
>>159
卑弥呼-真説・邪馬台国伝がソコソコ面白い >>161
九州説のトンデモ主張にもいろいろだが、主なトンデモを挙げるとこういうのがある
・ヤマト王権など存在しなかった
・ヤマト王権と九州王朝は7世紀頃まで並立していた
・九州王朝が初期ヤマト王権を支配していた
・ヤマト王権と前方後円墳は無関係
・古墳時代は4世紀に始まった
こいつらみんな日本古代史の通説を完全否定
そういうトンデモ古代史を前提にしてるのが、5ちゃんねるの九州説 >>192
それらを否定しなくても九州説は成立するだろ
それらを否定する九州説もあるという事でしかない >>162
>定説の紀年論なら纏向は紀元前後1世紀辺りで
そんな定説はない
>近年の発見で纏向が3世紀頃と考古学的に証明されたなら、
>大和政権の勢力範囲は九州まで届いてなかった可能性が高まったわけで、
考古学的事実を否定してそんなデタラメ言ってるのは知識のない九州説のド素人だけ
>むしろ以前からそれを仮定していた2王朝説の九州説が有利になったはずなんだが。
九州王朝なんかが存在した証拠はない
ただの空想 >>193
古代史の通説に矛盾しない九州説を立証すればいいだけだよ >>194
豊後国風土記では水銀がかつて産出されたという記録もあるしね
卑弥呼の時代に未発見だったという証拠はない
なので、九州で水銀があってもおかしくないが
それ以前に、
魏志倭人伝での水銀の話は、「倭人の国」で産出するという事だから
邪馬台国という一国ですべてが算出してると考えるのが間違い
倭人の国の和歌山あたりで算出してたのなら倭人伝の記述通りでおかしくない
そして九州説を否定することにもならない >>196
その古代史の通説は皇紀2600年っていうアレですか? >>196
畿内に大和王権のもととなる勢力が存在した
九州にはそれとは別の勢力が存在した
ほら、立証終わり >>196
古代史の通説に矛盾しない畿内説を立証すればいいだけだよ まあとか言うと捏造始めるだけなのが近畿パーなわけだがね
邪馬台国は移動している。
山門(邪馬台国発祥の地。邪馬台国とは山門国のこと。)
↓
御井(卑弥呼の時代。御井の祇園山古墳が卑弥呼の墓。)
↓
甘木・朝倉(安本美典の言う邪馬台国。卑弥呼の後。)
↓
太宰府政庁(倭京。ここら辺では多分奴国と融合している。)
>>201
お前は否定できてないので無意味な言い訳だな >>211
なんでもいい
どうせ読み方は変遷してるだろうから >>210
古代史の通説に矛盾しない九州説の立証をすればいいとレスしたが、おまえは空想を書いただけだった
だから空想を書いてるだけだと指摘した
そうしたら、こんな無意味な糞レスを返してきやがった
こんなやつどうでもいい >>198
紀元前660年に神倭伊波礼毘古命が大和で王位に付いたってやつかな。
実際に有ったか無かったか?
有ったとする確証もなければ、無かったとする確証もないんで捉え方は人それぞれ。 倭国大乱はつまり奴国側と筑紫平野の勢力とが争ったわけだが、
きっかけは巫女の誣告だった。
ゴーン事件と同じ。
やらかしてるのは西川のほうだが、西川がゴーンを訴えてる。
こんなことを筑紫平野側の巫女がやらかした。
それを怒った奴国側が怒りにまかせて巫女を暗殺して倭国大乱が始まったわけな。
ウケモチが口から食べ物を吐き出してツクヨミを迎えたら
ツクヨミが汚らわしいと怒ってウケモチを切り殺し、
アマテラスが「汝悪しき神なり」と怒って両者が仲違いする。
またオオゲツヒメも似たような話しがある。
こっちはツクヨミでは無くスサノオで、口だけでは無く鼻や尻からも出すわけだが。
これらは
巫女が誣告したという事実が
巫女が口から糞を吐いたと言う話しになり、
さらにそれが神話用に変化した結果出来た説話だろう。
>>213
九州に畿内からの支配が及ばない勢力が存在したという
普通に考えて可能性がある事を、空想と言ってる時点でお前に歴史を語る資格はない 倭国大乱の原因は
誣告した巫女の巫女殺しが恐らく原因。
少女の巫女とかを斬殺した。
それで戦争が止まらなくなった。
また戦争を止められたのは巫女である卑弥呼(日巫女)だけだった。
みんな戦いに倦んでいたが、少女の巫女殺しが原因だから収まりがつかなかった。
卑弥呼は鬼道(降霊術)を事とし、能く衆を惑わすとあるが、
みんな分かってて卑弥呼にあえて騙されたというのが恐らく真相だろうと思う。
そうでもしないと恨みの応酬の連鎖を止める方法が無いことがみんな分かっていたのだろう。
>>192
その日本史の通説って何よ?
2王朝が白村江の戦まで続いたという可能性は十分考慮に値すると思うが。
何をもって九州が併合されたと考えるか次第だろうからな。 >>216
単に可能性があると言うだけ=空想そのもの
一人で空想の物語作って、邪馬台国は九州だと言い張ってろ 古代が暴かれるほどチョンコロ発狂
朝鮮半島の小粒民族どもが大和の統一民族より圧倒的に遅れていたことが発覚します >>54
そこはほら、漢字を書き間違えたってのが唯一の根拠だから
だからイヨも無理やりトヨに変換しなきゃいけなくなってるわけで 魏志倭人伝をそのまま読むと卑弥呼が上手いことみんなをだまくらかして、
上手いこと持って行ったというような話しにしか読めないが、
もちろんそんなおバカなことでは無いはず。
みんな分かっていて、あえて卑弥呼に騙されたのだ。
>>218
教科書レベルのことは通説
むしろ定説に近い 誣告で始まった争いが、日本ではいかにこじれるかは
ゴーン事件を見たら良く分かるだろ?
これが更に、単なるオッサンどうしの誣告ではなくて
少女で、巫女で、それが殺されたとしたら?
>>219
畿内説も空想だぞ
畿内に邪馬台国があったとする確たる証拠は一つもないんだが
そんなことも知らないのか? >>213
古代史の通説に矛盾しない畿内説の立証をすればいいとレスしたが、おまえは空想を書いただけだった
だから空想を書いてるだけだと指摘した
そうしたら、こんな無意味な糞レスを返してきやがった
こんなやつどうでもいい >>225
畿内説は物証も揃っており、邪馬台国とみなす状況証拠が十分にあるから
学問の世界で通説になってるんだよ むしろ、こういう社会的に強烈な、無言の圧力があったからこそ
少女の巫女の口添えで政治を行うと言うある種馬鹿げていると見える方法が
現実性を持ち得たわけだ。
>>228
しかし確たる証拠はない
それが事実
状況証拠とは、空想だぞ
その程度も分からないのか?
だから畿内説は馬鹿にされるんだぞwww これな
吉野ヶ里の復元
https://wine-montrachet.blog.ss-blog.jp/2013-11-27
巫女が最上階
その下の階にオサを含むお歴々が居る。
これで、巫女殺しやったらどうなる??
わかるな。 古墳時代の神官って、大麻吸ってラリった状態で仕事してたんでしょ?
現代だったら解雇されるな つまり倭国大乱は巫女殺しと言う核攻撃を実行してしまって戦争が止まらなくなったわけだ。
核は抑止力であって、使ってはならない兵器のはずなのに。 >>230
どれだけ確実になっているか、意味もわからずケチつけてるだけだな
現実世界ではもう教科書も書き換わってきている
今後は九州説カルトは世の中から取り残されることになるが、そんなやつどうでもいい
ネットの中で吠えてなさい 海を渡る また倭種なり・・・
渡ったのはどの海なのか?
元寇当時、元が高麗に命じて作らせた地図によると
日本列島が時計回りに90度相違して描かれている。
元寇当時でさえそうであれ、いわんや邪馬台国時代は・・
太平洋の大海の中と言われておるのじゃから
四国かもしれんし、奈良かもしれんし
諏訪かもしれんし 富士宮かもしれんなぁ
こげな あほくさい 文献に惑わされて
しゃあない論争を繰り広げるなんぞ
北京ではお笑いの極みなんじぁないか
もうやめにしぇんかい >>234
どれだけお前が言い訳しても
確たる証拠は何一つないのが事実なんだぞ
本気で知らないのか?
マジで? >>26
つ「仙谷 由人」
最近聞かないと思ったらお亡くなりになってたんだな >>31
無人の原野なのに古墳があるとかおかしいだろw
奈良盆地は、昔は湖でだんだん狭くなっていくとともに、
周辺部からだんだんと開発が進んでいったようだが、
弥生時代後半は山の辺の道辺りまでが居住に適した環境だったと推測される。 古事記の国作りのとおりやろ
ヤマト=邪馬台国、卑弥呼=アマテラス
淡路島→四国→九州→機内で勢力を拡大
ちなみに魏志倭人伝の邪馬台国は四国が一番矛盾ない
天孫降臨が高千穂なこと、九州は渡来人が多いことから、軍事拠点化していたことがうかがえる
政治拠点は畿内
国譲りの項のとおり、卑弥呼の弟、スサノオの直系の大国主が出雲で反乱起こして独立するが卑弥呼直系のニニギに制圧される
これによりいわゆるヤマト王朝誕生→天皇一族の歴史がはじまる >>196
九州説は、そもそも神の国である皇室の祖先が中国に朝貢してたのは都合が悪かろうという忖度から発生した説。
親魏倭王の金印をもらった王朝は、
大和朝廷によって滅ぼされた別の王朝なんですよ、大和朝廷の先祖じゃありません、
っていうのがそもそもの始まり。 >>242
そうじゃない九州説もあるんだよ
一方的な決めつけはやめてください
ずっと前のスレから何度も言ってるのだから知ってるだろうにな
倭国大乱は
奴国側と筑紫平野側との戦乱。
戦争の原因は誣告した巫女の巫女殺し。
収めたのは日巫女の降霊術を使った「ウソ」。
戦争に倦んでいたので、みんなこのウソを受け入れた。
それが
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆
の意味。 理詰めで解釈していくと九州説にならざるを得ない
畿内説はヤマト王権がこの時代から日本の統一王朝であったという先入観というか思い込みの上に歪んだ解釈を積み重ねている、というのが俺の印象
邪馬台国とヤマト王権を同一視しなくたっていいし、別々の勢力が割拠していたと考えてもいいのにそれは頑なに拒否しているんだよね
これは学者の取る態度ではない 大和朝廷があったから、
魏志倭人伝の邪馬台国は畿内なんだろう
という決めつけで始まるのが畿内説
畿内に邪馬台国を持ってこさせるために
魏志倭人伝の方角を無理矢理捻じ曲げ
里程は直線距離と決めつける
それが畿内説 >>223
で、その通説って具体的に何よ?
一昔前の教科書なら、 >>161 の通りで、近年の発見で >>162 の通りのはず。
近年の教科書はいったいどのように改悪されてしまったんよ? >>245
淡路島は阿波路島、つまり、阿波に行く道。
阿波路を最初に整備する必要があったということの暗喩。 >>247
近畿パーは研究する側では無く、研究される側。
医者では無く、病人。
>>251
違う。国産み神話は欽明以降の捏造。
狗邪韓国が無い。 >>251
阿波に向かう道という事は
自分が立っている場所は阿波じゃないという事だぞ >>254
言い直す、阿波と行き来するための道である。 >>242
現在の考古学知見に矛盾しないように九州説を唱えると、関裕二の僭称説みたいになるんだろう
作家が作った物語だから、もちろん物証とかはない
単なるフィクション小説だけど >>255
阿波と行き来するのに四国より先に出来たの?
時系列としておかしくないか?
阿波を中心にしたいのならまず初めに四国を作るだろ 近畿パーは、カレとコレとをただひっくり返して言ってるだけ。
猿。
>>260
古事記が成立した時代の一般常識が神話の中に紛れている。
淡路や阿波が重要な拠点で有ったことの名残であろう。 これで誣告した巫女を怒りに任せて殺したらどうなるか?
想像してみろ。
それが倭国大乱な。
想像するんだぜ。
妄想するんじゃ無くて。
分かってるか猿?
>>247
ただ記紀の編纂者が同一視した事実は結構大きいと思うけどね
今と違って漢文も万葉仮名もリアルタイムで知ってた時代の人たちだから 記紀の編纂者は奈良の事を大倭と記述してるんだからね 神武東征を捏造するために記紀は書かれた。
だから編纂前に焚書が行われている。 でもね、ほんと蛭子神社て阿南とかに集中してるんよね >>269
そのような無理な推定をしなければなかなか記紀が倭の中心が奈良と記述したことを覆せない。 あと、ウソがどれだけ自分の生活に有害か
良く考えたほうがいいな。
ただし報復はしてはならない。
倭国大乱みたいになる。 纒向には西日本全域から土器が集まっているが
九州のものは僅かしか無い。
近畿の征服者としての九州勢の面影は全く見ることが出来ない。
東征も東遷も無い。
纒向遺跡が考古学的に否定した。
教訓
一、ウソがどれだけ自分の生活に有害か、
深刻な反省をすべき。
二、ただし報復はしてはならない。
倭国大乱みたいになる。
三、邪馬台国論争は、今の生活に役に立つ。
記紀は空想で書かれた物じゃなくて、当時現存してた古文書多数読んで書いてるんだよ。
もし蘇我氏に焼かれたって言ったってその内容の記憶はまだ残っている時代だ。
そのような人たちが奈良の事だと考えたんだよ。 蘇我蝦夷は、名前を観るとおり、虫編に暇の作りであり、夷狄つまり、異民族であることが
分かる。これは、淡海三船が、歴代の天皇陛下の名を、漢字の弐文字を使って、恭しく中国名に
した。つまり、ダグラス・マッカーサ将軍が遣って来て、歴代の天皇陛下の名前を、西洋風にする
ために、神武天皇陛下の名前をジグラス・メーカーサーとか、仁徳天皇陛下のお名前をズグラ
ス・モーコーッサーとか、名前が無くなったら、トム、ボブとか、色々考えるだろうけど、…。
蘇我蝦夷の場合は最悪の名前として、姓はソガで、名(諱)は・えびゾウのガイジとしたのだ。
おそらくは、熊襲(熊本県人)であったと思われる。 >>278
勉強が足りないのはこの先生だよ
なんで稲作がBC1000に始まってるのに、伝えたのがBC200の秦の難民なんだよ
時代が違いすぎるし 邪馬臺国とは、邪教である鬼道(五斗米道等の巫のお告げによるいかがわしい、神憑り的な、癲癇
持ちの女性祈祷師で、嘘八百を言うとお告げに信頼がなくなるので、最新の情報は忍び以前の間諜
・エスピオナージによって早耳だったに違いないが、お告げが、神憑り的な奇妙な儀式になる。妄想・
妄言をお告げとする指導原理。)を以って仕たので、魏・呉・蜀が最新の漢字翻訳仏教が国教となっ
ていたころですから、魏(西魏・東魏に別れる前の北魏)は、漢字の邪を充てて、読みの ija とした。
馬賊の扶餘族(馬韓)の風習に似ており、漢字の馬を当てて、読みは mo とした。臺は、古墳などで、
埋めてある高貴な人物を言うので、日本人である倭は、秦代の徐福が5000ペアーの男女の子供を
倭に送っており、そのために倭は、只の夷狄ではなくて、中国人の末裔、漢族の可能性が高いために、
漢字の臺を当てて、よみは te を示した。 村主を『すぐり』と読んだりするように、漢字も読みは、目的があり、時代、地方、官職・身分と
色々な意味・背景がある。
邪馬台国は、鬼道の巫職の卑弥呼がいて、男のシャーマン(祈祷師・巫・お告げ掛かり)
である卑弥弓呼がいた狗奴国は、獣編に『句』の野蛮人という言う意味で読み方は「fu」
と奴隷を示す「奴」を漢字で名前付けて、柵法下での貢物も無くて、卑弥呼が
「暢草:不良長寿の妙薬」
を献上したのと比較して、贈り物が少なかったことを指しています。 邪馬台国の軍部(ナガスネヒコ)。部下で裏切った物部氏(ニギハヤヒ)。
物部氏と天皇家が結託し、邪馬台国を倒した。物部氏は邪馬台国の中の側なので天皇家は
邪馬台国の王の座につき祭祀を受け継ぐことができた。 邪馬台国=畿内とすると南の狗奴国が何なのかってのも疑問になるよね
これを熊襲とすると既にヤマト王権の勢力が畿内から九州まで及んでいたにもかかわらず
争いを調停して下さいとわざわざ魏に使いを出していることになって辻褄が合わない >>285
普通に尾張とか静岡あたりなんじゃない? >>285
狗奴国は毛野国。北関東の国。実際に大和政権ができてからすごい勢いで北関東に前方後円墳が増える。
おそらく、ヤマトタケルの頃以降であろう。 >>195
近年の考古学的発見により現在どのように紀年論の定説が変わってしまったかは知らないが、
教科書で >>161 のように書かれていた頃まで定説扱いされていた紀年論は
神武天皇即位が紀元前660年であり、
記紀等の記述から纏向に皇居があったのは紀元前後1世紀と推測される。
他の人がどう考えてるのかは知らないが、
記紀に邪馬台国の事を大和政権の歴史として記録してないことが不可解なことから、
中国王朝と外交する大和政権に服従しない勢力が古墳時代に存在し、
それが中央集権の弊害と考え編纂されたのが記紀であると説明することで
発生したのが2王朝説の九州説のはずである。
少なくとも一昔前定説扱いされてた紀年論の場合、
魏に使いを送った年代は神功皇后摂政時代になり、
それ以前に何回か九州に派兵してる記述があるため大和政権勢力範囲が
九州に届いていた可能性は5分5分といったところだったが、
100歳を超える天皇がいること等から、1年→2年と数えていた時代があると仮定し、
畿内周辺地域まで及ぶ大和政権の誕生は3世紀頃の崇神の御代で、
九州まで届いていなかっただろうというのが2王朝説の九州説がとっていた立場のはずで、
近年の纏向における考古学的発見は本説を裏付ける形になっている。 3世紀の纏向:桃はかじらず蛙をかじる宗教に没頭
4世紀の纏向:東海政権の指示のもと、箸墓古墳築造に没頭
4世紀半ばの纏向:箸墓が完成したので木製仮面を付けて仮面舞踏会を開催し解散
4世紀末の奈良:奈良盆地で渡来豪族による統治が始まる
↓
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
↓
仮説)渡来豪族の協力のもと、東海・近畿政権がヤマト政権を構築。
↓
中国を知らない世間知らずだったので初朝貢で隋に説教される。 >>288
九州説では神武天皇の実在が定説になってるとは驚き
戦前の記憶が残ってる爺さんか >>290
それは宮内庁に言えよ。
そして橿原の神武陵墓は誰の墓なのか解明してこい。
文献に残されている且つ墓は比定済み。
だから定説と言うしかないだろ?
否定説の方が俗説扱いになるのが現状だ。 >>276
蘇我氏は焼いた側でなくたぶん焼かれた側だろう。
それから、磐井の乱鎮圧時に筑紫で焚書が行われた可能性も十分考えられる。 >>291
神武実在が定説と言ってる学者って誰?
定説なんだから簡単に名前出せるだろ? 九州説はそのうち神話も定説、神さまも実在って言いそうだな >>293
お前日本人か?
例え信じられなくとも記紀は日本国の正史なんだよ。
神武が架空の人物である事を証明すれば、神武陵も再調査できるだろう。 九州説は歴史学や考古学とは無縁のやつらだと思ってたが、
ここまで酷いとはビックリだ >>290
よく読め。あくまで記念論の話だ。
それに、神武東征を空想扱いしてたのは昔の話で、
戦後大阪平野の地質調査で空想扱いの根拠も否定されてる。 >>298
紀年論が歴史とどう関係がある?
纒向が紀年論でどうこうなんて聞いたこともない
でっち上げだろ? 最新の調査ではどちらかというと神武実在論を補強する方が多いんじゃなかった? 九州説って嘘をでっち上げて、定説とまで言ってしまうんだから
常識が通用しない人たち >>299
要するに、畿内説は紀年論の概念すらない半端な物もしくは記紀ガン無視説ということでいいな。 定説の意味を取り違えて反論が反論にならずファビョってるだけの人が約1名いますね。 畿内説の信者は、定説と通説の区別がつかない半島人なのでは、ないのかな。。。 ウソつきがどんなウソをどういう風につくか。
どれだけしつこくしつこくウソをつくか。
これも貴重な情報。 >>302
神話と歴史を区別してるのが畿内説
考古学的に裏付けできない記紀の神話は史実でないとみなすのが畿内説
一方、神話を盲信して史実とみなしてるのが九州説 定説、通説、仮説の区別がつかないあたり、文系未満の無学者かもしれないね。
人権は認めるが意見はご遠慮ください。
近畿パーは研究する側では無く、研究される側。
医者では無く、病人。
>>307
記紀の神話を編纂時の空想と考えてるのが畿内説で、
いろんな伝承・説話を都合も考慮しながら記紀の神話を編纂したと考えるのが九州説ってことやな。 >>302
もう一度聞くが、紀年論で纏向は紀元前後1世紀と書いてたソースはあるのか?
出せないなら嘘を書いたと認めろ >>315
纏向のような古墳造営基地局の話は記事ならんからな。 >>314
論点すりかえてるが、神話を史実だとみなしてるんだよな 畿内教信者による火病演舞を、生暖かく見守れば、良いのでは、ないのかな。。。 九州説はもう我が道を行けばいいだろ
物証無視
考古学無視
神話は史実
年代はこじつけで勝手に決める >>307
ちょっと吹き出したw
考古学会てそんなに横暴なんだ
考古学的に裏付けがとれなければ考古学的に「分からない」とするのがまともな知性だと思うけどな 。。。
これ日本史板を荒らしまくってる連続句読点ってやつだろ? >>320
神さまは実在する、天皇は神さまの子孫、古代の天皇は100歳以上の長寿と思ってろよ >>317
史実を紐解く手掛かりになると考えてるのが九州説ってことになるんやろな。 まず史書に目を通しましょう。
そして現実を直視しましょう。
九州説の物証
・邪馬台国の前身でる倭奴国の金印
・鉄製の武器
・絹製品
畿内説の物証
・かじり跡のない桃の種
・かじり跡のある蛙の骨
・馬具(木製輪鐙) >>323
で、纏向が紀元前後1世紀とはどこの世界で定説なんだ?
纒向という遺跡の話だ エゴと欲望がせめぎ合う畿内説九州説より、よほど夢とロマンがある >>285
>これを熊襲とすると既にヤマト王権の勢力が畿内から九州まで及んでいたにもかかわらず
>争いを調停して下さいとわざわざ魏に使いを出していることになって辻褄が合わない
仮に、辻褄が合わないとすれば、大和が邪馬台国であるという前提が、崩れる。記紀では、
東遷していると書いており、土蜘蛛を征伐したと書いているではないか。
逆に、「邪馬台国が、記紀の東遷(大和)前の居場所であった。」と歴史を証明する為に記紀
を記載した立場だったとして、苦労して三国志魏書東夷伝の倭條の項、隋書、旧唐書、唐書
を掻き集めて、記紀との矛盾が無きように詳らかに書いた点がママあることの方が奇妙に見
える。
倭の異種として、日本が邪馬台国とは別に、倭では雅ではないので、国名を改名したと
旧唐書には書いてあるではないか。そこの説明は、記紀にはないのが当然おかしい。
イギリスの、七王国 Heptachy ()
https://en.wikipedia.org/wiki/Heptarchy
等からの推測では、この点の綻びが意図的に改竄されているように感じるという研究者は居
ないのだろうか。
それとも、日本は、特殊なのだろうか。特殊なのだろう。
万世一系として、シュメール弐拾数万年間を八名の人類以外の異星人のエイリアン(外人)
の王が、統治していたという阿呆らしい方物語の方が、その時代にとっても、馬鹿らしい事位に
、明明白白だから、羽根が生えた奇妙な動物が壁画に書いてあり、超越しているという神性を
シューメルの文字では、主張しているのであった。
仮に、名も無き勢力から出てきたイギリスのHeptrchy の王室の場合は、簡単明瞭であるが。 >>326
もう一回アンカ遡って、文章を確認してこい。
畿内説者って自分で勝手に文章を曲解して語ることがいくつかのレスで証明されてるな。 >>329
>>162で、「定説の紀年論なら纏向は紀元前後1世紀辺りで」と書いてるのは自分だろ?
これがどこの世界で定説なのかを聞いている >>330
アンカ遡って全部読んで来い。
結局、あの手この手で議論から逃げるだけなんやな。
以後キナイコシの特徴を示すようなら無視する。 もう一回書くが、九州説は独自路線を歩んでください
学問とは無縁な人たち
物証無視
考古学無視
神話は史実
年代はこじつけで勝手に決める >>331
嘘がバレて、答えられなくなったか
そんな定説はないと認めろって >>332
現時点で僕は蘇我氏が親百済派の筑紫勢力をバックに大和で権力をふるってたと思ってるので、
乙巳の変で焼かれた史書には九州北部勢力のことや邪馬台国の事も載ってた可能性があり、
中央集権の弊害になると考え省かれたんじゃないだろうかと思ってるから。 >>335
だからまず史書に目を通せと。
呉越の末裔だ。 >>232
いや、まあそのあとの皇室から大麻でラリってた可能性大なんでなんとも言えんな >>336
当時の雰囲気で中国と北九州の交流を省く必要性が感じられないというのは
九州が天皇家の故郷であることは記紀は明記している。
魏鏡を神宝にして豪族に配っている。
飛鳥京などもろに大陸の影響を受けている。
斎王は卑弥呼その物であるが、そのまま書いている。
つまり隠蔽の必要性が感じられないし神功皇后がそうじゃないだろうかみたいなすっとぼけたことを言って隠蔽しようともしてない。
素で知らなかったんで四苦八苦したんじゃないだろうか? >>214
そのためには古代の天皇が100才を越える長寿命だったことを
信じないといけないわけで、それを人それぞれと言われても。 >>339
記紀に記載のある天皇の数と大型古墳の数が合わないんだから、
記紀には漏れてる天皇がいたということだろう
記紀は天皇でさえ漏れてるんだから、外国との交流が漏れて当たり前 >>339
神武出身地はあくまで日向であり、東征途中で筑紫は立ち寄ったにすぎず、
ニニギの祖先が高天原に住んでいたとすることで筑紫との関係性は全く述べられていないはず。
神功皇后摂政時代に中国の史書の参考として書かれており、古事記には書かれていないことから、
海外向けとして神功皇后=卑弥呼を連想させ、国内向けとしては全く伏せていると考えられ、
それを説明する方法として2王朝説の九州説が考えられたはず。 郷土愛が強すぎると歴史の真実も嘘で塗り替えると言う事だ、本まで出して
ご苦労な事だ >>342
3世紀はまだ2王朝どころか多王朝の時代かと。
出雲や阿波や東海にも王が居たっておかしくない。 >>341
大和政権は外交の事をあまり詳しく知ってない傾向が垣間見られる。
例えば神功皇后の時に朝鮮と交易した志摩宿禰と言う人物がいるが、この人の姓は不明だと書いてある。
つまり当時大和政権は政権の外部にいる海洋系豪族に外交をかなり自由に任せてたんじゃないだろうか?
従って詳しい事まで把握してない場合もあったんじゃないだろうか? >>342
三貴神の出身が筑紫の日向のあわぎがはらとしてる。 >>344
僕は、九州が小国分立だった可能性は高いとは思うが、
それでも筑紫勢力は頭一つ抜けた存在だったと思ってる。
四道将軍や忌部を配置した地域は基本大和に服属してたと思ってるかな。
出雲だけは別格で対等に近かったのかもしれないとは思ってるが。
吉野-熊野勢力は大和の後見人的存在で、2世紀までは強力な同盟関係にあったのかなと。
残るは蝦夷で詳細は現時点でわからないといったところかな。 >>346
その記述は覚えがないな。
その辺は数十年前に古事記の訳本を読んだっきりなので、また機会があったら確認しとくよ。 >>347
そういう意味で言えば伊勢もかなり別格と言うか
神宝も差出し、内親王も差出しまでして、天皇でさえ宮川より奥に入る事を許されなかったという。
持統天皇と元明天皇、つまり女性天皇しか入れてもらえてない。
これはかなり異様というか
今の日本で言えば米軍基地のような存在と言うか しかも上下関係が伊勢と大和では全く逆というか
大和政権は20年ごとにおびただしい宝物を伊勢に納めさせられ、しかももったいない事に全部20年ごとに捨てられる。
藤原京からは伊勢の斎宮に奴婢を送ったという木簡まで出てきている。 >>349
僕も伊勢の事はまだあまり勉強してないから、よくは知らないけど、
現時点では、出雲、熊野より天皇家に近い関係で、
ひょっとすると神武兄弟に同行した日向の原住民勢力(母方/祖母方の家系)に
与えられた土地なのかなと推測してるかな。 天皇はアマテラスの神託の言いなりである。
アマテラスの神託があれば朝鮮にさえ攻め込まなければならない。女性天皇であってもである。
でなければ殺される。
どう考えても異様な勢力である。 >>352
仲哀天皇の記述では天皇が知らなかった新羅の事を伊勢は知っていたことになる。 正確には審神者をした竹内宿禰か中臣伊賀都臣が知っていたというのが正確だが >>353
仲哀が知らなかったのは東シナ海の西にある非常に裕福な土地のことだったと記憶してるが。
天皇が任那周辺の朝鮮半島情勢に疎いなんてことはありえないと思うが。
伊勢は知っていたというのはちょっと興味があるんだけど、何が根拠になってるの? 徳島は、ソロモンの秘宝とか、キャプテンキッドの秘宝もあるそうな。 >>355
伊勢と言うより審神者が知っていた。
命令を下した神は伊勢のムカツヒメ、志摩の稚姫、難波の住吉三神、出雲の事代主
つまり海神である。 太宰府は下層からどんどん出てきてるでしょ
倭京は近畿に藤原京ができる以前の首都だから
邪馬台が九州だったと証明してる様なもの >>357
外交はこの辺の豪族がやってたんじゃないかなあ 記紀は邪馬台国を無視してるので大和朝廷と繋がりはないはず >>357
ちょっと確認してきたけど、そういや、日本書紀では伊勢関係らしき神も出て来てたんやったな。 >>356
徳島にはある意味何でもあり過ぎて、逆にいろいろと怪しい。 記紀は神話として読むのが本筋やろ
なにがしかの真実を反映しているのは疑い無いが記述をそのまま資料として読むことは出来ない
大和朝廷の目論見の裏に隠された本当の意味を探るのが醍醐味なのに
だから神武東征もその原型となったなんらかの動きがあると見るべきだよ
主客や因果関係が逆になってたり年代などはデタラメだとしても
日本の中心勢力が九州→畿内と移動して大和朝廷の成立に至ったという「流れ」はあったと見るべき 証拠物件が発掘されてる神功皇后とワカタケル王くらいは教えてもいいと思うが 徳島には失われたアークが存在すると言われる剣山があり、この霊力を四国内に封印するために空海が八十八箇所を巡るルートを切り開いた。
邪馬台国四国山地説も全てが繋がっている。何故卑弥呼が四国山地の高い場所にいなければならなかったのか、これもノアの洪水の伝説に繋がる。 >>365
ちょっとまてw
神功皇后の実在の証拠物件ってなんだよw
どさくさに紛れてトンデモないこと既成事実にしようとするなよw 邪馬台国の阿波説が妥当かどうかは知らないが
邪馬台国所在論争とならぶ歴史ミステリーであるらしい
謎の浮世絵師、東洲斎写楽の正体説は、これはまあ明らかだよね
これは昔から言われている通り阿波お抱えの能役者、斎藤十郎兵衛だよねwww
このことについては阿波説で疑いないと思うよ。
もっとも写楽の正体については偉大なる大韓人説も根強くあって
この両説を止揚、アウフヘーベンすると偉大なる大韓人の能役者が
阿波蜂須賀家お抱えになって、そこからさらに傑作浮世絵師になったといえようwww
たぶんそうだろうねw スレで暴れるネトウヨくんたちもスベカラク歴史を勉強しるwww >>298
>それに、神武東征を空想扱いしてたのは昔の話で、
>戦後大阪平野の地質調査で空想扱いの根拠も否定されてる。
こいつまた大ウソ書いてやがる
紀元前の大阪平野の地形が8世紀まで伝承されてたから、神武東征は史実だと言い張ってたが真っ赤なウソ
日本書紀の記述に合うのは、5世紀に難波の堀江が掘削された後の状況だ
紀元前では、難波碕まで行ってしまったら河内湖には入れない
5世紀以降いつまで同じ地形だったか不明だが、奈良時代にも難波の堀江から大和川を遡って
奈良まで行っていたこと、平安時代にも白肩の津の付近に大きな池が残っていたことを考えると、
日本書紀が書かれた8世紀でさえ同じような地形だったかもしれない
少なくとも、8世紀の人間が紀元前の大阪平野の地形を知っていたという妄想は通用しない
8世紀の人間が知っていたのは、5世紀以降の地形、あるいは8世紀の地形だ 畿内は異国の人で溢れかえっていました。
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
大壁建物は、方形状の溝の中に多くの柱を立て、土などを塗って壁をつくり建築した住居。
同町では、朝鮮半島式の床暖房装置「オンドル」を持つものを含めて約40棟見つかっている。」
ttps://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 世界の常識
3世紀までは九州、出雲、四国における弥生時代。
畿内の歴史は4世紀の古墳時代から始まる。
https://youtu.be/3S734SZ4bcc?t=674 >>372
紀元前でも碕の先端部にある外海ー内海の開口部から出入りすりゃいいだけ。
また、わけのわからんいちゃもん付けてくるやつ湧いて出てきたな。 >>3
納得するかどうかとかどうでもいい
事実の検証だけが全て 畿内説とか、およそ学問でないものを学問の世界に持ち込んだから、
結果が、このザマ。
畿内説の学者どもは、責任取って、学問の世界から去るべき。
観光業にでも携わるべき。
神武は実在。
なんで捏造して九州から持って来る必要がある?
何度も言わせるなバカの猿。
神武は実在。
東征が捏造。
記紀は神武東征を捏造するために書かれたもの。
すっとぼけてたら勝ちとかいい加減やめろよ猿
進歩が無いなお前らは本当に
>>376
事績が一致してるからその事績を指示した王がいたことは確かで
部下の葛城熊津彦や尚古王と言う名前は一致してるので神功皇后の名前も特に否定するような根拠もないので本当であった可能性は高い。 だな。
事績がウソなだけですな。
産みから宇美が出たとか大嘘もいいとこw 神功皇后は実在だし、武内宿禰も実在。
事績とか寿命とかがウソなだけ。
そしてこの両者が応神の親。
つまりここで男系は切れている。 >>387
事績は複数の海外の文献や碑文などと一致してるよ。 ヤマトタケルも事績で正しいのは恐らく兄殺しだけ。
あとは恐らく全部赤の他人の事績のパクリ。
神功皇后もまあそんな感じだろう。 神武は東征したのではなく、近畿日本に雇われて頭に据えられた雇われ店長。
頭を他所から借りてくると言うウルトラCは、それなりに効果はあった。
中国はウソだと気づきながらも、結局は近畿日本の言い分に渋々乗っかった訳だから。(新唐書)
しかしそのかわり深刻な副作用も起こした。
1. 正史である記紀が捏造だらけになったこと。
2. 焚書をせざるを得なかったこと。
3. 神武のように、王族でありながら敵国へ寝返る人間などクズでしか無かったこと。
近畿日本は神武のタネのカスぶりに苦しめられることになる。
その端的な例が欠史八代。
4. 天皇暗殺。仲哀が暗殺されたのは実に仲哀が神武系のバカだったから。
「せっかく崇神で持ち直したのに、ヤマトタケルと言い仲哀と言い、またバカのタネに戻るのか?
もういい加減にしてくれ。」
実に、これが仲哀暗殺の理由。みんなこれを分かっており、仲哀は暗黙の了解のもと暗殺された。
5. 近畿パーのような病的なウソつきを多量に作り出したこと。
(因みに、ヤマトタケルの事績はほとんどただのウソ。恐らくは赤の他人からのただの借り物。
ヤマトタケルの事績の内、事実なのは多分兄殺しだけ。)
10年前の歴史ミステリーで邪馬台国の四国説言ってたじゃん。俺もそう思う。九州にも大きな豪族あっただろうけど、
四国にあった邪馬台国が奈良に来ただけ。邪馬台国はヤマト国の聞き間違い&蔑称なんだろ? ヤマトタケルは実際はただのゴミ
ヤマトタケルの事績のうち
本当なのは多分兄殺しだけ。
他は多分全部赤の他人からの借り物。
ヤマトタケルは実際はゴミクズだった。
仲哀は無能故に暗殺された。怨霊封じのため
父親のヤマトタケルをウルトラスーパー有能にでっち上げただけ。
ただのウソ。
また、この時代神功皇后だの武内宿禰だのやたらスーパーマンが多いのは
全部仲哀が無能だったことが暗殺の理由であることからくる。
仲哀暗殺は、無能の極みの神武系の血を絶って、有能な崇神の母方系の血筋へすげ替えることが目的であり、
多分周辺の人間は皆分かっていて、黙認していた。
だから暗殺であるにも関わらず古事記は顛末を詳しく記載して、事実上黙認している。
応神の父親はもちろん武内宿禰で、神功皇后も武内宿禰も崇神の母方系の血筋の人間。
無能なのが仲哀暗殺の理由なのだから、暗殺側は有能でなければならない。
実際有能だったのだろうが、やたら滅多らスーパーマンなのは仲哀暗殺を正当化するため。
また崇神の母方系にシコオ(醜男)だのシコメ(醜女)だのやたらと変な名前が多いのは
ヤマトタケルの逆パターン。
宇佐神宮に、比売大神(まあ実際はトヨのこと)を真ん中にして応神と神功皇后が祀ってあるのも
暗殺者側は身にやましいから権威付けが欲しかったせい。
また欠史八代も仲哀暗殺を正当化するため。
実際無能ばかりで事績が本当に無かったのだろうが、
粉飾ならいくらでも出来たはずなのにやってないのはそれが理由。
>>392
記紀全部を否定するならまだ分からんでもないが、これは正しい、これは嘘て自分の都合に合わせて勝手に決めてるだけじゃねーか 邪馬台国九州説以外を唱える奴はキチガイばかりだから相手にするだけ損
時間の無駄、バカは死ななきゃ治らないとは良く言ったものだ テレ東の歴史ミステリーで放送してた古代の埼玉にあった日本王国の方が興味あるわ。あれの続きやってくれねーかなー 応神周りでやたらとスーパーヒーローが安売りされるのは
仲哀暗殺の理由が仲哀が神武系の無能だったことによる。
応神朝は、バカの神武系から崇神の母方系へ血筋を替えるためのクーデター。
神武は所詮他所から借りて来たただのバカ。
近畿日本としては神武に拘る理由が無い。
欠史八代を我慢した。もう勘弁。
これが仲哀暗殺の理由。 >>407
スーパーヒーローって言ったって、外国の文献や碑文と一致してるんだから事績が
空想科学小説ではないよ お前らトボけたバカの猿が今まで思いつかなかったと言うことは
間違いである根拠には全くならない。
(むしろ正しい根拠ww) >>413
赤の他人の事績。
ヤマトタケルもそう。 神功皇后の事績は産みが宇美だの残りが能古だの地名の事績ばかりで
しかもウソばかり。
戦闘の具体的なものが無い。
恐らく実際に戦ったのは近畿日本ではなく九州倭国だろう。 >>415
じゃあなんで七支刀は大和にあんだよ
外国の文献にもしるされてる葛城襲津彦はなんで葛城出身なんだよ >>373
>同町では、朝鮮半島式の床暖房装置「オンドル」を持つものを含めて約40棟見つかっている。」
フランス製の家電メーカの TIFAL 、イタリア製の家具のカッシーニのソファーを持ていたら、
外国(西ヨーロッパ)からの難民・移民になるのか。 近畿がごり押しするからほかのところも行けると思って阿波まで大きくなっちゃった
そのうち沖縄や群馬も大声で主張し始めるぞ 南九州地方の在野の歴史家から、
「邪馬臺国は、熊本県だった。狗奴国は鹿児島だった。」
みたいな本は出ないのか。 >>416
神功皇后が三韓征伐をやった根拠には別にならんだろ。 ニニギ降臨とか三貴神誕生とかそういう都合のいいところだけは信じて、神武以降は嘘だっていわれても自分勝手すぎるよ。 「おらが町を盛り上げるために」って目的が入ってくるから
こういう研究は第三国の日本歴史家の方が信用できる
研究とかじゃなくて「うちがうちが」って感じになってるもの >>420
複数の国の文献に書いてあり考古学物証まで出てきてる物を根拠と言えないのなら、もうすべても歴史的研究は空想としか言えない。 非科学的空想から破滅的妄想への自己主張の考古学文献主義。
津田左右吉先生の「古事記及び日本書紀の研究 新書版」を四〇年振りに読み返してみて、
の記紀の危機的編集改竄が分かった。
やはり、イギリスのノルマン・コンケストが日本にはなかったのだなーと悲しくなるなー。
万世壱系。ウガヤフキアエズノミコトは何処? お前らのポエムとかどうでもいいんだよ
事実の検証が全て >>375
ほんとおまえ頭悪いな
元々は、「紀元前に河内湖があったことは、8世紀の人間では知りえない」のに
それが伝承されてたことこそ神武東征が史実である証拠だ、とおまえはドヤってたはずだ
ところがこれが大間違いで、8世紀の人間は普通に知っていたことだった
8世紀の地形そのもの、あるいは古くても5世紀まで遡ればいいだけの情報
そんなのが神武東征の証拠になるわけがない
仮に神武東征が史実だとしても、白肩の津まで船で行ったとか、超どうでもいい情報が
1000年も1500年も伝承されてたと考えること自体、まともな判断能力がない証 >>427
現代の小説家でもなかなか300年前の地形を頭に入れながら小説書けって言われてもかけないと思うよ まず史書に目を通しましょう。
そして現実を直視しましょう。
九州説の物証
・邪馬台国の前身でる倭奴国の金印
・鉄製の武器
・絹製品
・警備厳重な吉野ヶ里遺跡
・戦乱の痕跡
畿内説の物証
・かじり跡のない桃の種
・かじり跡のある蛙の骨
・イノシシ避けの柵
・縄文文化に通ずる木製仮面
・馬具(木製輪鐙)
畿内は騎馬民族に乗っ取られた縄文系じゃね?
GHQがそう判断するのもうなづける。 >>428
現代の小説家は、現代の学術調査の結果や当時の文献で調べたり、取材旅行に行ったりしてなるべく当時の情景に合わせようとする。
7世紀の人間は
・地質調査の情報が無い
・過去の文献もないし、そもそも庶民は文字も扱えないので記録を残してない。
・現地調査は旅程的にも厳しい。
難波の崎から草香邑の白肩津の行程が成立するのは、河内湾から河内湖に移行する間の河内潟の時期であり現代の調査では、縄文末期から弥生前期の出来事。
土砂の体積で河内湖になった後だとすると、草香邑まで船が陸を走った事になる。
白肩津のあった草香邑が生駒山の麓ギリギリの位置だったと言うことを理解してないと、白肩津の場所を読み誤る。 >>430
ウィキによると河内湖になったのは弥生後期になってるけど
つまり神武東征はその前だとすると紀元前後くらい >>429
後漢書倭伝によると、後漢に朝貢した倭奴国は倭国の南端にあったとされる。
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
邪馬台国を九州に置いたとしても、倭国の極南のはずの倭奴国の金印が九州北限の志賀島にあった矛盾。
邪馬台国は倭奴国の後継者ではなく、倭国大乱で分離した集団であったったと見たほうが筋は良いと思う。
金印は奪ったのか、もともと倭奴国が九州全域を支配下に置いていて、志賀島に通関的な意味を持たせて置いていたのか。
倭奴国の後継者は邪馬台国ではなく、邪馬台国と戦争していた狗奴国だったと考えれば辻褄は合う。 >>431
河内湖ではなくその前の河内潟の時代でないと白肩津まで船で行けない これ、邪馬台国が近畿にあったけど事情により四国や九州に首都移動していたらどうすんの?
朝鮮征伐とか >>432
それも矛盾するな。
<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
■倭國条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭國者,古倭奴國也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (ヤマト政権時代)
「日本國者,倭國之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
※日本の使者に、倭国と日本は別国という認識がある事がわかる そもそも、この話、なんで海戦が苦手な魏が日本なんぞに船で援軍を送れるのよという疑問が
倭国が朝鮮半島にもないと援軍なんぞ送れなくね? そもそも畿内説の纏向出土品が異文化圏であったことを示している。
邪馬台国と並行して存在していたのは分かるが、あまりにも様相が違いすぎる。
■纏向出土の木製の仮面について
『これまで日本列島における木製仮面の最古の事例としては、7世紀初頭頃の神戸市宅原遺跡出土例が知られていたが、今回の事例はそれを大きく遡る時期に位置付けられるものである。
考古資料に見られる仮面としては、縄文時代では土製仮面が知られており、このほか鼻・口・耳などの土製品の存在から、木製・皮製などの仮面が存在したと推定されている。
また奈良時代以降では、大陸より伝わった舞楽で使用されたと考えられる仮面が複数知られている。(←関係無い話なのに関連付けようとする印象操作w)
弥生時代においては、東日本を中心に存在する土偶形容器に仮面状の表現が見られ、土器絵画にも仮面を装着していると見られる人物が描かれる例が存在する。
(←やはり東日本勢力傘下だった痕跡かw)
しかし弥生時代の仮面の実例はほとんど知られておらず、古墳時代においても確認されていなかった。』
纏向は東日本に居た縄文系文化の名残りであり、大陸系弥生時代とは関係ない。 >>433
だから紀元前後までは東征できるでしょ
河内湖になったのが期限100年以降なんだから >>436
何をいまさら。
韓国は東と西は海に面し、南は倭と接すると書いてあったじゃないか。
半島南部は倭国だったんだよ。 崇神が本当の神武だと考えられてきたが、崇神では古墳時代に入ってしまうので河内湖になってしまい東征むり
となると欠史八代も実在してもらわないと東征できないことになった。
記紀の信憑性が上がって行ってる。 >>439
ということは、畿内にあった首都を反乱かなにかの鎮圧で一時的に西に移したというのもありえるだろう。
明治政府が日清戦争中かなにかで一時的に呉に議会移したような感じで
そうなると、邪馬台国が畿内にも九州にもあることになる。 他にも大国主とぬなかわ姫の結婚により出雲と越が同盟国になったが
遺跡も出雲と越は四隅突出型方墳だよ
記紀はそうとう正しい事書いてると思う。 >>430
>難波の崎から草香邑の白肩津の行程が成立するのは、河内湾から河内湖に移行する間の河内潟の時期であり
>現代の調査では、縄文末期から弥生前期の出来事。
真っ赤なウソ
4世紀以前だと、上町台地から北方へ砂州が伸びていたので、
難波崎の場所からは河内湖に入れず、わざわざ戻らないといけない
日本書紀の記述に合うのは、難波の堀江が掘削された5世紀以降
難波の堀江→草香江→白肩津
http://kouwan.pa.kkr.mlit.go.jp/kankyo-db/intro/detail/rekishi/detail_p07.aspx そういや記紀では卑弥呼=ヒメミコであり、それは神功皇后のことだという話があったな(江戸時代)
ちょうど神功皇后は西に行っているから、意外と合ってるかもしれん。
そもそもあの当時、首都の制度なんてものはある国もあるし、ない国もある。
チンギスハン時代のモンゴル帝国の首都がどこかといわれてもよくわからんように
(強いて言えばチンギスハンのいるところが首都だとしか言いようがない)
そうなるといくら探しても見つからないかもしれんぞ >>427
どうやって調べたのか知らないが、ずいぶん昔に書いたこと言ってるのだとは思うが、
もう一回書いた内容を確認してこい。
ほとんど川のようになった状態では流れを遡るため一生懸命漕いでる所を
弓で狙われたらひとたまりもないが、河内湾・河内湖なら峡部がないので問題ないし、
河内潟の時でも外海から内海に流れる時間帯があるはずだから
峡部を素早く通過することができるだろうといったことや、
河内湾・河内湖・河内潟の状況を編纂者が知らなかった可能性について
言及したことがあるだけだ。
キナイコシって他人の文章曲解して文句付けてくる奴ばかりだな。
当スレにレスが存在しな以上再度書き込んだが、基本キナイコシのレスは今後無視する。 後、僕が現時点で想像してるのは、
大和は建国神話だけを国民全員で語り継いだんだろうから、基本ニニギ以後だけが大和の伝承であり、
天照大神等何人かの有名な先祖の名前を知ってたくらいだったんじゃないかと想像してるかな。
崇神の御代に出雲と連合し文字による記録が始まり、
神話部の多くはすでに文字があった他の地域の伝承を取り入れたんじゃないかと推測してるかな。 >>445
>ほとんど川のようになった状態では流れを遡るため一生懸命漕いでる所を
>弓で狙われたらひとたまりもないが、河内湾・河内湖なら峡部がないので問題ないし、
>河内潟の時でも外海から内海に流れる時間帯があるはずだから
>峡部を素早く通過することができるだろうといったことや、
ただの作り話
作り話は根拠にならん >>445
おまえの議論の仕方はいつも同じ
・何の根拠もない空想話を創作して史実だと言い張る
・自分の「作り話」を根拠だということにする
・矛盾する考古学事実や物証はガン無視
今回のこともそうだし、畿内で出土してる中国鏡のときもそうだし、弥生後期の集落再編成のときも同じ
考古学的事実や物証をガン無視して、空想妄想をゴリ押し >>447
河内湾があったことを知ってないければ話を造れないよ。 >>450
河内湾のことなど記紀には書かれてないが >>451
河内湾がなきゃ生駒まで船でいけないんだから間接的に書いてあるってことだよ キナイコシの議論の仕方はいつも同じ
・銅鐸を作る技術を銅鏡に応用できる可能性←妄想と断定
・淡水湖化してない潟湖の時代なら狭い峡部に(関門海峡や鳴門海峡と同じような原理で)
流れが存在←空想と断定
・究極の言い訳は学者が言ってるから
論理的な議論から逃げ回り、「妄想・空想・学者が言ってるから」ばかり。 河内方面には住吉大社(スミノエ)があり、船なら多分通れるな >>455
海から湖に船で上がるのはちょっと不可能に近い。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE
大阪市南部、上町台地基部西端において大阪湾の方角に西面して鎮座する。海の神である筒男三神と神功皇后を祭神とし、
古くは古墳時代から外交上の要港の住吉津・難波津と関係して、航海の神・港の神として祀られた神社である。古代には
遣唐使船にも祀られる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族・・・
古墳時代より住吉大社周辺は一応海路の拠点ではあるがどうかしたのか?
まあ記紀には書いてないが 古代史を議論するにも、
少なくとも理科・数学を優秀な成績で高校卒業したくらいの頭を持ち、
調べて科学的な知識にもついてこれるくらいのやつじゃないと話にならんな。 >>457
何の根拠もなく、認めないと言い張ってるだけ なんか自演レスで埋めてごまかそうともしてるみたいだし。 よくわからないが河内湖とやらじゃないとダメな理由があるのか?
住吉津でよくね? >>453
>・銅鐸を作る技術を銅鏡に応用できる可能性←妄想と断定
鏡はオリジナルがなければ作ることさえ不可能
おまえは、そのオリジナルの存在を真っ向から否定して、後世に銅鐸技術を応用して作ったと妄想した
鏡が「3世紀中頃の古墳から出土」してる事実を絶対に認めない
>・淡水湖化してない潟湖の時代なら狭い峡部に(関門海峡や鳴門海峡と同じような原理で)
>流れが存在←空想と断定
5世紀以降の地形が日本書紀に合うことを認めず、矛盾点を作り話で正当化した1000年前の伝承が残されていたと言い張る
>・究極の言い訳は学者が言ってるから
畿内説はとっくに通説になってるんだから自分で調べろ
高校生の参考書にも載ってる基礎知識だ >>463
× 鏡はオリジナルがなければ作ることさえ不可能
〇 鏡はオリジナルがなければコピー鏡を作ることさえ不可能 >>463
銅鐸も銅鏡も同じ。
オリジナルがあればコピーもできるし、一から作ることもできる。
中空の分銅鐸の方が完全コピーが少し難しいだけ。
話にならない。
元々、古事記に出てくる浪速の渡が潟湖の時代にこそふさわしいという話があったはずだが、
要するに、自分が理数系の知識が欠如してるため他人の意見を理解できず、
兵法的にも潟湖の時代の方が適してそうなことすら闇雲に否定してるだけ。
>>161 >>162 でも読んどけ。
キナイコシの言う事が事実なら、近年の考古学者の劣化が暗示されてることになるだけかな。 >>466
>近年の考古学者の劣化が暗示されてることになるだけかな。
劣化するほどの中身が無いやつらだろ。
旧石器時代捏造事件の共犯者しか残ってないし。 銅鐸はともかく銅鏡の反射を当時の日本の技術でどう作るのよ
銅鐸の方がまだ簡単だわ 調べたがやはり無理だな
どうやっても当時では日本で研磨剤が確保できない >>468
魔鏡の話?
詳しい原理を完全に理解してるわけではないが、
裏面に深い凹凸がある薄い銅板を鏡面にしたらできるってだけで製作上難しい技術ではないよ。
鏡面を磨くのも知識と時間さえあればできることだろうし。
そういう知識を持った人間が渡来人として日本列島に来ただけでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E9%8F%A1#%E5%8E%9F%E7%90%86 >>466
ほら見ろ、こうやって物証を否定し、トンチンカンな言い訳だらけ
鏡が「3世紀中頃の古墳から出土」した事実を認めたくないから、銅鐸の技術どうたらと論点ずらし
浪速の渡が河内潟の切れ目(今の新大阪駅付近)にあったとは、まったく根拠なし
日本書紀にはこう書かれている
「難波之碕に到着すると、潮が速いところがあった。それでこの場所を浪速国といいます。また浪花といいます。
今、難波と呼ばれるのはこれらが訛ったものです。」
浪速の渡は、難波の堀江あたりと解釈する方がはるかに妥当性がある >>469
砥石、木炭、泥粒での水研ぎで造れるんじゃないの? >>470
渡来人が仮にきたとしても、とても大量生産できる代物ではないなあ・・・w
そもそもかなりの技術者だから中華王朝が手放すか?w 国や世間のせいにしたり過去や歴史にすがり出したら人てしてお終い >>443
考古学ではなく地質学の分野をなぜ否定できるんだい?
難波の崎を越えて草香邑の白肩津まで船で行くには、生駒山麓が土砂で埋まる前じゃないと無理だよ。
草香邑の位置を考えなよ。 >>471
銅鏡に関してはもはや返答不要。
"潮"が速いという表現なら川が流れてる状態じゃなく、潟湖の開口部を表現してるんじゃね?
5世紀の内海(?)が淡水湖でなく塩湖だったことを証明する必要があんじゃね? >>472
銅鏡再現をしてるのはいるが、そのやり方で成功しているやつがいない
砥石というか、現代のサンドペーパーでやってるくらいだし
中国が銅鏡を作ったとするならな、酸か別の方法じゃないのか? >>473
4世紀末頃にすでに渡来人が来ていたのは確からしい。
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。 >>475
>難波の崎を越えて草香邑の白肩津まで船で行くには、生駒山麓が土砂で埋まる前じゃないと無理だよ。
それをどうやって調べた?
根拠は?
国土交通省のサイトにある図では白肩津付近まで草香江が存在してることになってるんだが? >>477
サンドペーパーでできるなら、同じような表面性状の砥石を見つけるとか
同じような機能を持つ物を作るとかできそうな気がするけどな。
弥生人は何百年という蓄積で見つけ出したんだろうからそう簡単には見つからんだけでは?
1年くらいひたすら研磨し続けてたんかもしれんし。
酸は経年による腐食を洗い流すとかに使うんじゃないの? 銅鐸は型をはめれば作れるが、鏡ってのは大きければ大きいほどその国の工業力を示すもので
そこまで光り輝かせるほどの砥石の確保ができるかどうかも当時の日本では微妙
中国だったらありえるかもしれないが、才を重んじ芸術を嗜む曹操曹丕がそんな奴らを手放さないわな
そこまで細かい砥石をどうやって確保するか…それとも、当時では最も使える始皇帝の時からある酢酸か水銀か…
当時の技術で作れる自信がないな。
そういえば馬のムチを昔中国の王に献上したが、太陽に照らすと模様が出るというムチを献上したという話があったが
あれもロストテクノロジーだ >>476
>銅鏡に関してはもはや返答不要。
鏡が「3世紀中頃の古墳から出土」した事実を認めたくないから逃げてるだけだな
おまえはもう、「物証はどんなことがあっても絶対に認めない」と開き直ってろ
>"潮"が速いという表現なら川が流れてる状態じゃなく、潟湖の開口部を表現してるんじゃね?
>5世紀の内海(?)が淡水湖でなく塩湖だったことを証明する必要があんじゃね?
場所が違うという指摘に対して意味不明なレス >>473
王朝が滅んだ後落ち伸びて来たと現時点では推測してるかな。 翡翠は翡翠かそれ以上の強い粉でぶつければ古代でも切れるとか
ダイヤモンドなりルビーなり
手間はかかるが。
だが作るのはわずかな傷も許さない鏡だろ?渡来人がいたとしてもどっから国産材料を… >>483
返答不要。
潟湖の時代、海と湖の開口部を浪速と呼ばれてなかったと確定する根拠は何?
理屈が合わないにもかかわらず住民が昔の名残で
海と湖の連絡部を浪速と呼んでただけと考えるのが自然だと思うがな。 何故古事記に出ている神功皇后の三韓征伐を無いことにしてるのかわからんが
古墳時代から住吉津があったのは神社由来などから確かなようだし、使うとすれば住吉津なんじゃないの? >>487
>返答不要。
鏡が「3世紀中頃の古墳から出土」した事実を認めたくないから返答不要とレスwww
「物証はどんなことがあっても絶対に認めない」と宣言しとけ
>潟湖の時代、海と湖の開口部を浪速と呼ばれてなかったと確定する根拠は何?
ただの妄想だからだ
妄想は根拠にならん
それに難波という地名が実際にある 阿呆は阿波おどりでも踊ってろと思ったが何十年も決着つかなくても問題ないからもう何処でもいいんじゃないかな 弥生土器の硬さや粒径がどの程度かにもよるが、
銅鏡の研磨に弥生土器で水研ぎするとか試してみたことあるんかな? >>491
日本古来の鬼道(神道)には鏡が御神体として使われてはいるが、
銅鏡は円形であり、それを均一に研磨する技術がどれくらいのことか考えた事があるかね
というかんなことできたら伊勢神宮とかで古式に則りやっとるわい >>493
僕ならまずレンガのような物で水研ぎしようとするかなと思ったので、
弥生土器を挙げてみただけだけどな。
その結果を見て粗い凹凸にはどうすればいいか、
鏡面までもってくにはどうすればいいかを判断するだろうなと思っただけ。 翡翠や黒曜石の武器加工とか程度ならともかく鏡面加工となると途端にレベルが跳ね上がるからな
始皇帝時代のように中国全土から献上品が届いて水銀や酸を使えるならまだしも
でも邪馬台国とは関係ないんじゃねえの?
鏡は神道では御神体としてよく使うものではあるが(だから神権=王権の象徴なわけだし)
そうバカスカ作れる代物ではない。
銅鐸とか銅矛や青銅器・鉄器程度なら表面荒くてもいいからまだいけるけどさ とりあえずさ、
ID赤くして連投で自説垂れ流してる奴のレスは誰も読んでないからw >>495
水銀は弥生時代既にあったろうし、水銀をアマルガムとして使うという話なら、
別にその方法を使わなくても、鏡面に仕上げるには細かい泥粒を用いて
時間をかけて水研ぎすれば可能だと思うけどな。
黒ずんだ十円玉を酸で新品同様にするということは子供の頃やったことはあるが、
それで鏡面に仕上がるの? >>498
まあ、普通にそこらへんだろうなw
卑弥呼がなにかで移動してればそこが邪馬台国の臨時首都なんだろうし
そういうことまで学者ども考えてないんだよ。国王なら遠征だってするわな
どうせ都とかいうけど、鬼道とかいうが神道で、つまり今と同じで神籬と伊勢神宮みたいな建物だけでしょ?
伊勢神宮の神道の形式はうん百年前と基本は変わってないし、あんな感じの都というか宮殿だけなら簡単といえば簡単ですわな
>>497
そういう細かい砂や砥石が日本国内の三国時代で使ってたとする証拠が出てきたら大発見じゃないか? >>499
青銅技術を日本列島に持ち込んでから500年以上たってるんだから、
3世紀に見つかってないようなら西日本には存在しないという結論になるだろうな。 奈良説とか阿波説とか絶対にあり得ん妄想説を唱えている低能がいる限り
日本の古代史は発展は無いな。中韓などの近隣諸国からも馬鹿にされるだけ。 >>501
日中の学者が南京事変を細かく調査して「無かった」と結論付けたのに
「旧石器時代捏造事件」ですべて水の泡。
日本の考古学なんぞ信用できるわけがないと。 僕は、日本列島で取引された中国鏡はほとんどが中古品だと思ってるから、
酸で汚れや軽い腐食を落としたり、腐食や細かい傷等で映らなくなった鏡面を
再研磨したりする職人がいたはずだと思うけどな。 鉄製の包丁や剣などを研いでぐらいだから砥石でほぼ鏡面まで仕上げてたんじゃないかな。
しかし墓の副葬専用の銅鏡というものがあって、それらは磨いた痕も無いそうだ。 >>502
ネットで嘘と捏造ばっかり書いてる九州説の素人は信用できると思ってるのか
Wikipediaなんか酷いもんだ あー
ゴッドハンドを祭り上げてたやつらの事か
あいつら畿内説だったもんな
そして歴博の元館長www
その程度って事だわな 高知>徳島>淡路>近畿 だろ。
淡路の国産み伝承ともよく整合する。 >>505
お前も素人だろw
「俺の言う事は信じろ、素人の言う事は信じるな」という
いつものド素人畿内教信者の布教活動かw 九州説のソースって、嘘捏造だらけのWikipedia、インチキだらけの安本や古田、デタラメだらけの個人ブログ
他にある? ID:HgV0Ypmm0は奥山という畿内説信者で、定期的に自らトリップを公開してしまう、認知症のようですw おれはエジプト説を指示する。あれが一番矛盾がない。 十円玉レンガで水研ぎしてみたけど、
光を反射できる程度までは磨けたが、顔を映すとこまでは程遠いな。
次はレンガをとんかちで潰しまくってそれを水に混ぜて研ぐか、
それとも水溶性の粘土でも買ってくるかかな。 気になるのは、仮に十円玉の片面を鏡面仕上げしたとしても、まだ使えるんかな? ネットでちょっとみてみると市販陶芸用粘土でもシルト30%、砂分10%くらい含んでるのか。
粘土分だけをろ過するろ紙とかあったらいいんだけどな。 加工は知らんが、酢漿草で磨くんだろ。家紋にも使われとるし。 日本の技術で銅鏡は当時(そもそも銅の安定供給すら難しい)出来ないだろうが
中国でもどうやったか想像しにくい。 >>518
銅鐸を作ってたんだし、十円玉をレンガで研いでもまぶしい程度には光を反射するんだから、
弥生土器とかを使って研げば祭器用としての銅鏡くらいは簡単に作れるだろう。
実用的な銅鏡となると粘土を使って研ぐか、アマルガムを用いた錫メッキが考えられると思うが、
粘土を使って研ぐ方は明日にでも市販陶芸用粘土でも買って来て試してみるかな。
錫メッキの方は錫と水銀をどうやって手に入れるか現時点ではわかってないかな。
気が向いたらネットで調べてみるかな。 >>503
この妄想バカは畿内説を認めたくないから、こうやって何の根拠もなく、中国鏡が中古品だということにする
入手した時期より墓への副葬が前になるという、時系列の逆転も平気で無視する
時計の針が逆回転したと本気で思ってるんだろう
日本で楽浪土器が出土する時期には中国鏡を入手せず、楽浪郡が滅亡し日本で楽浪土器が出土しなくなり
文献からも交流記録が途絶えた、空白の4世紀と呼ばれる時期に大量に入手したことにする
矛盾という概念さえない
紀年銘鏡も230年代と240年代の鏡ばかりが、後世になってから取り引きされたことにする
なぜそんな偏りが起きたか説明が不可能 畿内説はフェイクニュースです。
■小型丸底土器出土
石野博信氏はホケノ山古墳について安本先生と
討論を行った際、ホケノ山古墳から4世紀後半の
小型丸底土器が出土したことを述べている。
小型丸底土器は庄内式土器末期から出現し、
布留式土器の重要構成要素となっている器種である。
ホケノ山古墳からは庄内式土器も出ているが、
それよりも新しい布留T式土器が出土したことに
なるので、考古学の常識で判断すれば、古墳の年代は
布留T式の時代と言うことになる。
石野博信氏は「ショックだった」と感想を述べている。
報告書を記述した橿原考古学研究所の研究部長は、
小型丸底土器は、発掘時に墓の上の方から落ちて
きたのではないかと、苦し紛れに書いている。 畿内説を支持する教科書はこんな教科書です。
山川出版社は「詳説日本史」「新日本史」「高校日本史」で各々、
「数十万人の朝鮮人や占領地域の中国人を日本本土などに強制連行し、
鉱山や土木工事現場などで働かせた」、「多数の朝鮮人や占領地域の中国人を、
日本に強制連行して鉱山などで働かせた」、「朝鮮人や占領下の中国人も
日本に連行されて労働を強制された」としている。 とある研究者の見解
『ようやく安定した銅鉱石を入手して安定した銅鋳造が可能になったのは、西暦263年以降280年代に入ってからである。
そうなると、景初2年(西暦238年)に卑弥呼に下賜した100枚に銅鏡は、魏の時代というより漢時代に作られた漢王朝の「漢鏡」を提供したと考えるのが普通であろう。
黒塚古墳出土33枚銅鏡が中国のどこで生産されたか未だに公開されてないのは、おそらくは華中(揚子江周辺)製の銅・錫・鉛鉱石を使ったからであろうか、畿内説の論客にとっては益々不利になる結果となるからであろうか。
2世紀〜3世紀初の「漢鏡」が畿内から出ない限り、「漢鏡」や「西晋鏡」など多くが出土する北九州に取って代わることはない。』
やはり畿内説の主張する銅鏡は、卑弥呼の時代とは無関係という、多くの学者の見解と一致していますねw 畿内説5ch宣伝係が宣伝している畿内説はフェイク説です。
本物はコレ
↓
奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝
によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも
使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流して
いたが、纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に
少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や
刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、
魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されて
おらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。 >>524
画文帯神獣鏡という年号入りで中国でも日本でも出土してくる鏡があるよ。
近畿で出土している。 >>526
>画文帯神獣鏡
これは熊本の5世紀の墓からも出土してるメジャーな鏡だ。 >>522
それ安本が石野さんの評価を落とすために作った悪意のある作文だろ
そもそも、小型丸底土器なんて庄内式の最初からある
何十年前の知識で文句つけてんだよ
爺さんは大昔の情報のままで、知識をアップデートできないってことだな 錫はアマゾンでも売ってるが水銀は見当たらんな。
辰砂を買って蒸留精錬するしかないんかな。
400–600 °C まで加熱する蒸留装置作ろと思たらめっちゃ金かかりそうやな。 ぱっと思いつく蒸留装置はこんなところかな。
2万円の出費くらいだろうか。
>>531
体温計にどのくらいの水銀があるのか知らんけど、ひょっとするとその方が安上がりかもしれんな。 >>526
中国で出動する画文帯神獣鏡と日本で出動する画文帯神獣鏡は名前が同じだが違うものだよ。 >>527
日本で出土する画文帯神獣鏡は5世紀頃に日本で製作されたものだね。 >>534>>535
嘘で騙そうとしても無駄
5世紀頃のは同型鏡と呼ばれるコピー鏡
一方、前期古墳から出土するのは後漢鏡
2世紀後半に出現し、後漢から魏の時代にかけて作られていた >>539
じゃあ4世紀以降の古墳しか無い畿内は論外だね。 >>541
そんなデタラメ誰が言ってるの?
知識ゼロ同然の九州説信者のド素人が、何の根拠もなく言い張ってるだけだろ? 徳島の山林には何故あれほどの宮内庁直轄地が多いのか、何故源平合戦で何故幼帝が入り込んだのか、何故天皇家三種の神器の剣の伝説があるのか、何故弘法大師は聖地を作ったのか。不思議なことは多々あるが、確実に言えるのはブスが多いと言う事だ。 >>542
近畿と九州では古墳の定義が違うんだよ。
九州でよく卑弥呼の墓に比定される祇園山や平原を九州では古墳と呼んでしまうが
あの規模は近畿だと古墳ではなく塚と呼んでしまう。
実際にはどちらも古墳という分類ではあり、それこそ九州や近畿だけでなく日本全国にあるんだがね。 万万が一徳島が邪馬台国であったとしても徳島に行く観光客など殆どいない
行くのは相当な偏屈者、俺も四国旅行は二回したが徳島だけは行っていないが
別に行こうとは思っていなかったから今でも残念とは思っていない。 >>544
魏志倭人伝の時代だと古墳とは呼ばないんだが 徳島の伝説は剣山に集中してるから、剣山を掘ってみたら解決すると思う
学術的な為として掘らしてもらえないもんかね? >>547
論点がズレてるが
それを現代では祇園山「古墳」と呼んでしまう。 >>544
そだね。
それと、わざわざ畿内の前方後円墳を古墳時代の始まりと定義したがるのも、
あたかも畿内起源かのように思わせる印象操作の一つ。
https://i.imgur.com/49UBvoP.png よくわかったね!正解だよ!
って答えてくれる絶対的存在なんていないんだから
結局の話ロマンの世界だよね >>549
いや
当時の人は、大きさはどうであれ「墓」と呼んでたんじゃないの?
現代の九州と畿内で呼び方が違ってても、それに意味があるのか?
と言ってるんだよ まず墓なんてはるか大昔から作られて来たんだから、古墳時代(=墓時代)なんて名称がナンセンス。
仮に祭祀時代なんてつけたらそれこそ縄文時代との境が付かなくなる。 >>553
大和政権中心の考え方になるが、銅鐸文化消滅からが古墳時代、
それ以前が弥生時代でいいような気がするけどな。 九州・畿内における弥生時代の状況が違いすぎる件
■魏が見た弥生時代の倭国
<魏志韓伝>
・「國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡」
国には鉄が出て、韓、?(ワイ)、倭がみな、従ってこれを取っている。
諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。
<魏志倭人伝>
・「兵用矛楯木弓、木弓短下長上、竹箭或鐵鏃、或骨鏃」
倭の兵士の武器は、矛・楯・木弓、木弓は上が長く下は短い、
箭には竹を用いる。鏃 (やじり) には、鉄や骨を使用している。
■九州の弥生時代
・吉野ヶ里出土の鉄器
http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/yosinogariiseki/ibutu_tetu_isi/tekki/IPA-yos600.htm
・富の原遺跡/長崎県大村市
(弥生中期初頭〜後期前半)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1
特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、
錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、刃部には真鍮を
削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は
0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている。
すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる
「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された
■奈良の弥生時代(纏向) ← とても同じ倭国とは思えない遺物続出
・木製の土木用具
・古墳建造時のドカタ専用ホテル跡(畿内説は宮殿と呼ぶ)
・かじり痕の無い桃の種
・かじり痕のある蛙の骨
・東海・伊勢産の土器 ← 畿内説曰く東海は狗奴国だったはずだが??? 一口に弥生時代と呼ぶが、日本列島の文化は均一じゃなかったということだな。 >>557
北関東〜東北は弥生時代に相当する時代が無い地域も多い。 日本は最終的に「前方後円墳体制」で統一された
だから、定型化された前方後円墳の出現をもって弥生時代と古墳時代にわける現在の定義が最も合理的だろう
それまでも各地域で固有の墳墓が出ては消えていったが、そういうのは大局的に見ればノイズのようなもの
ちなみに、定型化された前方後円墳の前段階である纒向型前方後円墳の出現を画期と考える研究者もいる
それまでは各地域で小国乱立の状態だったが、日本の歴史上初めて全国規模の広域連合が誕生したんだから
理にかなった考え方だと思う >>559
そこの部分だけど
纏向型古墳は、
全国規模の広域連合が出来てからなのか
それとも纏向型を作ってる集団がその時点に出現して、それから広域連合のトップになったのか
そこらへんはどうなってるの? >>559
その後も色んな古墳が出現してるんだから、統一されたと考えるのは早合点。 >>560
順序としては、各地域に畿内系土器の浸透があって、その直後に纒向型前方後円墳ができている
だから同じ祭祀を行う取り決めがあった連合とみなされている
よく九州説のやつらがヤマトによる支配・被支配と勘違いしてるがそれは間違い
少なくとも古墳時代前期までは同じ祭祀を行ってる仲間みたいなもの
もちろん序列はあったけどね
古墳の大きさも鏡の配布にも地域ごとに差があった >>562
なるほど
それは西暦で言うと何年頃になるの?
>少なくとも古墳時代前期までは同じ祭祀を行ってる仲間みたいなもの
緩やかな広域連合で、議長は持ち回りとかそんな感じかな? >>562
纏向が発見された頃の仮説だが、今は誰もそんな事は考えていないよ。
最新の畿内説なら鉄が政権をつくるのは確かだ。
しかし鉄の乏しい畿内ヤマト政権がなぜ巨大化できたのか?
そして纏向の東海色の強さは何をいみするのか?
だね。 こんな掲示板に畿内説が来るとは思えないが、居たら進捗を聞きたいね。 >>564
纒向型前方後円墳は3世紀初頭の纒向石塚古墳が最古、定型化された前方後円墳は3世紀中頃から後半の箸墓古墳が最古
これが標準的編年だけど、C14年代測定だともう少し古く出てしまう
>緩やかな広域連合で、議長は持ち回りとかそんな感じかな?
大型古墳の場所が、奈良盆地南東部→北部→河内と移動してるから
これをヤマト王権内部での盟主の交代とみなす研究者もいるね
この辺は推測でしかないから何とも言えないと思うけどな >>567
その大型古墳はその周辺の部族の長の墓だろう
広域連合の議長の墓を大規模にする必要はないしな >>567
それは270〜300年頃のだから、せいぜい台与の墓だろうと言われている。 >>565
この考え方を否定してる研究者って具体的に誰? 邪馬台国エジプト説というのがあったが
紀元239年頃のエジプトはすでに
落ちぶれてた >>568
それぞれの年代で最大規模だからだよ
4世紀中頃までは最大規模の古墳は奈良盆地南東部、4世紀後半は盆地北部、5世紀は河内
>広域連合の議長の墓を大規模にする必要はないしな
何を言ってるんだかさっぱりわからん 5ch畿内脳内説を繰り広げているのは自称畿内説宣伝係の日本史板の奥山君です。
>>ID:y/I7LuUT0
奥山君はまともな職に就く気が無いのかな?w >>572
ん?
広域連合で、議長はその連合の中で持ち回ってるんだろ?
違うの?
違うのなら>>567の時点で違うと言っておくべきだぞ >>569
箸墓のことか?
コンサバに見てる研究者は台与の墓と考えてるかもしれんが、
270〜300年頃という年代観を唱えてる研究者はほとんどいないだろ? >>574
広域連合の議長=大王だからだよ
大王の墓が一番でかい >>577
持ち回り
この言葉の意味わかる?
奈良県の部族が議長してたり
福岡県の部族が議長をしてたりするのが
持ち回りというんだよ 前方後「円」墳で全国統一された形跡などは見られません。
https://i.imgur.com/DeSj4Lv.png
奈良でも箸墓の後に造られた前方後「方」墳が多数存在します。
畿内説ありきで作られたフィクションの纏向物語とごっちゃにしちゃいけません。 >>579
持ち回り
一つの物事を関係者の間で順次わたしていくこと。
例えば西日本一帯での広域連合があったとして
その連合の議長を持ち回りでやるという事だと
3年に任期だと仮定して
最初の3年は奈良県の部族
次の3年は福岡県の部族
さらに次の3年は島根県の部族
順に徳島、山口、愛媛
と順番に議長をやっていくという事
町内会や区長を持ち回りでやるとか
知らない?
やらない? 箸墓古墳の年代は人それぞれですが、卑弥呼の時代では無いという見解は共通しているようです。
『白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの
可能性は低い、というよりは証明しがたい。」と述べる』
『石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、
箸墓を寿陵と考える寺沢薫は壹与の墓説やミマキイリヒコ
(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。』
『奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を
280〜300年(±10〜20年)と推定しており、
卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。
またC14炭素年代測定法による推定は100年程度古く
出ることがわかっており、この墓が卑弥呼の墓で
ある可能性は低くなっている。』 >>582
町内会の議長を持ち回りでやるのは、全員が平等で、序列も同じであるのが前提
現代と古代社会では状況が全然違う
一番大きな古墳=序列が一番上=大王
極めて単純な話 >>584
では、
持ち回りではないと>>567の時点で言うべきだったね
俺は持ち回りを否定されなかったから持ち回りを前提にレスをしていたんだよ
それじゃ話が合わなくて当たり前
すべての責任は君にある >>585
大型古墳の場所が、奈良盆地南東部→北部→河内と移動してるから
これをヤマト王権内部での盟主の交代とみなす研究者もいるね
↑
最初からこう書いてるが、理解できんかったか?w >>586
緩やかな広域連合で議長は持ち回り
を前提にしてるから、
それはおかしいんじゃないかと
>>568を書いたんだよ >>587
>緩やかな広域連合で議長は持ち回り
>を前提にしてるから、
そんな前提をどこの誰が作ったのか知らんが、一人でそう思ってればいいんじゃね? >>589
奥山君はいつもIDを3つ持ってるよねw だとすると変だな
仁徳天皇陵、大仙古墳が一番でかいわけじゃん?
それは広域連合の議長じゃないのか?
568 名無しさん@1周年[] 2019/10/09(水) 12:46:17.60 ID:eIyQ+yfx0
>>567
その大型古墳はその周辺の部族の長の墓だろう
広域連合の議長の墓を大規模にする必要はないしな >>590
ヤマト王権の話でしょ?
列島各地の首長は、ヤマトの王の宗教的な権威を認め、
前方後円墳という、王と同じ型式の古墳造営と首長位の継承儀礼をおこなってヤマト政権連合に参画し、
対外的に倭を代表し、貿易等の利権を占有するヤマト王から素材鉄などの供給をうけ、
貢物など物的・人的見返りを提供したものと考えられる。
ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、
特に重視されたのが上述の吉備のほか北関東の地域であった。
毛野地域とくに上野には大規模な古墳が営まれ、重要な位置をしめていた。
また九州南部の日向や陸奥の仙台平野なども重視された地域であったが、
白石太一郎はそれは両地方がヤマト政権連合にとってフロンティア的な役割をになった地域だったからとしている[17]。 >>590
>そんな前提をどこの誰が作ったのか知らんが
>>564で君に聞いている
君へのレスだし、564へアンカー着けてるのだから君は読んでいるはずだ
そして否定していない
だから
緩やかな広域連合で議長は持ち回り
を前提にしたんだよ 畿内地域が日本の頂点になったのはいつ頃なんだ
巨大古墳を造営出来るようになった4世紀くらい? >>583
ヤマトトトトトトトトトトトトトトトトトトロヒモモソヒメだっけ >>594
なんか面倒くさいやつだな
持ち回りという考え方に対して、レスしてるだろ?
>緩やかな広域連合で、議長は持ち回りとかそんな感じかな?
大型古墳の場所が、奈良盆地南東部→北部→河内と移動してるから
これをヤマト王権内部での盟主の交代とみなす研究者もいるね >>596
モモソヒメだと独身じゃないから卑弥呼じゃないよね。
ということは宮内庁は箸墓卑弥呼説を全く度外視してるということか。 >>597
それ、
応えになってなくないか?
それが質問に対する応えなら、
>>574や
>>585で
応えてないと言ってるんだから気付けよ
今さらかよ
結局他人のレスはまともに読まず
都合のいい部分だけ目に入ってくる人なんだろうな >>599
大型古墳が奈良盆地南東部→北部→河内と最初から場所を書いてるにもかかわらず
それを無視して、愛媛だの山口だのと言い出しても、こっちの知ったことではない
勝手に誤解しておけばいいよ
そもそもヤマト王権のトップが愛媛だの山口の部族だと考えること自体がおかしい
日本で義務教育を受けた人間ではありえない考え方だ >>600
持ち回りという言葉の意味を知らないようだから
例え話として山口や愛媛と書いてるのに
そんなことも理解できないの? 持ち回りではないと初めに言っておけば
こんなに何レスも無駄な書き込みをせずに済んだんだがな
そして
>大型古墳が奈良盆地南東部→北部→河内と最初から場所を書いてるにもかかわらず
これはその周辺の部族が、その地域でのトップ争いをした結果だろ
広域連合だったとする根拠にはならない
と君のレスを瞬殺してるんだよ >>602
>広域連合だったとする根拠にはならない
>>562で最初から書いてる 市販陶芸用粘土、モームセンターに売ってなかった。
ネット通販で買うしかないが、何か他の物と抱き合わせで買わないと送料が発生しそう。
錫と辰砂も飼っておくか? >>603
だからさぁ
君は理解力が無いんだよ
広域連合はあったと俺も思ってるんだよ
君が言ってる畿内での古墳の場所の変遷は
広域連合の権力争いではなくではなく
その連合に加盟している畿内の部族内でのローカルな権力争いの結果だろうと言ってるんだよ ID:y/I7LuUT0 は、5ch畿内脳内説を宣伝して畿内説を崩壊させようと試みる工作員の奥山です。
まともな対話が出来ませんのでご注意。 >>607
どういう事?
>>603
奥山なのか? >>606
奥山どうこう言いだしたし、これ以上無駄だな
愛媛や山口は例に過ぎないのはどうでもいいが、ヤマト王権のトップが地方の豪族だった
と考えてるやつの発想を理解できなかったで結構 錫も辰砂も3千円くらいすんのか。
なんか千円ちょっとくらいで買えるもんの方がいいな。 >>610
奥山というのが何者なのか知らんが
君は奥山なのか?
>愛媛や山口は例に過ぎないのはどうでもいいが、
例にすぎないことを理解できなかった己の理解力の無さを恥じろ
>ヤマト王権のトップが地方の豪族だった
>と考えてるやつの発想を理解できなかった
ヤマト王権が誕生した途端に、いきなり日本全国を支配できるわけないんだし
自分で墓はただの祭祀と言ってるんだし
>>562
>少なくとも古墳時代前期までは同じ祭祀を行ってる仲間みたいなもの >>613
ほんと悪質なやつだな
「もちろん序列はあったけどね
古墳の大きさも鏡の配布にも地域ごとに差があった」
こう書いてるのをわざと無視して難癖つけてきやがった
おまえに必要なのは義務教育を受け直すことだ
ヤマト王権のトップが地方の豪族だった、など中学生以下のレベルだ 倭国での争い事とは、各地に点在した豪族集団間の権威争いの事。
倭国の国民はみんな仲良くやってたんだよ。
それをまるで国境の概念を持った現代感覚で考えるから変になるんだよ。 邪馬壹国とわざわざ使うということは、古田武彦信者か
まだいるんだな >>615
>こう書いてるのをわざと無視して難癖つけてきやがった
その部分にあまり意味を見出せなかったからだよ
序列はあったとしても同じ祭祀を行ってる仲間みたいなものなんだろ?
主従関係ほどではないわけだ
だったらその序列に何の意味がある?
町内会や区長の持ち回りと同じ程度の平等感はあったんじゃないか?
>ヤマト王権のトップが地方の豪族だった、など中学生以下のレベルだ
全国トップになって支配下におさめるのはもうちょっと後の話じゃないの? >>618
義務教育からやり直しな
その辺、全部教わるから
以上 >>619
義務教育だと
畿内に邪馬台国があったとする証拠は出ていないと習うんだが >>618
>>607で言ったろ?
そいつ10年ぐらい引きこもって妄想説を唱えてる精神が病んだ奴だから。 >>621
だな
持ち回りという言葉を知らなかったようだし
自分に都合のいい部分しか読めないようだし
なんか変な奴が畿内説にいるんだな >>622
>持ち回りという言葉を知らなかったようだし
こいつの悪質さはこういうところにも出てるな
議論の中での意図が不明というのは明らかなのに、日本語の意味を理解できないとわざと曲解して罵倒だからな
まあ、とにかくおまえは義務教育からやり直せ 僕は銅鐸文化消失後大和をトップにすることはほぼ決定事項であり、
移行期を経て崇神の御代に図のような大和政権がほぼ構築されたと考えてるかな。
大和政権のかじ取りは大和と出雲で決定していたのでないかと推測してる。
下の6地域は建前上大和に従うが、実質は出雲に従ってる感じかな。
西道は吉備辺りまで、北陸は能登辺りまで、東海は駿河辺りまでと現時点では思ってるかな。
奈良説を信じるバカは倭人伝の方角間違いを末攞国から伊都国までの方角だけを抜き出して
方角が間違っていると騒いでいるが、伊都国から奴国、奴国から不弥国の方角は正しい
そなれば方角を素直に考えて不弥国から南に投馬国(五万戸)更に南に邪馬台国(七万戸)
となるから九州の平野で1番広い久留米〜大牟田が邪馬台国、
その次に広い平野部が朝倉〜鳥栖が投馬国(五万戸)と言う事になる
魏使は当然首都の洛陽とも何回も行き来したはずだから広い中国の大平原を
方角間違いをしたら絶対に洛陽に行けない、魏使の方向感覚は非常に正確だった。 紀元前1世紀ぐらいに大量にユダヤ人が渡来した、それらが祖国と同じような四国剣山に集い邪馬台国になった
平家の武将は皆イケメンだったという伝承があるが、ユダヤ人系だったのかな
剣山には山上集落が点在していて、そこに邪馬台国があったと思わせる祭りがある、また現天皇との繋がりがある
習俗がある 女性を家畜扱いしてる大和政権と邪馬台国が同じなわけないだろ >>626
魏志倭人伝は対馬と壱岐の位置関係を南北として記述されているので、こう読む。
https://i.imgur.com/t1La2wr.png
だいたい合ってるよね。 古事記信者であれば島産みではじめにまともに産まれたとされるのが
淡路島で次が四国って点を考慮すると阿波が起源はあり得るんやけどなw >>630
対海国から一大国は南に千里なので良いが、次の一大国から末盧国までは方角指定なしの千里。
南に明らかに短い距離を直線で進むその図は合ってないね。 >>633
その畿内説の適当な話しに乗っかってどうすんのさ
壱岐島から千里は西に振れば平戸辺り。東に振れば志賀島辺り。
糸島着地に固執して捻じ曲げてるだけで、畿内説の捻じ曲げと変わらんぞ。 >>634
しかし伝統的に呼子あたりに接岸してるんだよ。
https://i.imgur.com/WRATyrS.png
俺はそこまで距離の精度は追求してないからw >>626
九州説を信じるバカは魏使が日数も数えられなかったと思ってるのか?
おまえらのようなバカと一緒にするな >>636
畿内説を信じるバカは魏使が東を南と勘違いしたとでも思ってるのか?
おまえらのようなバカと一緒にするな >>637
アンタもバカだ
「物凄く遠い所にあるんだ」というでっち上げ信じてるんだもん
阿弥陀如来が57億年後だかに、世界をどうにかする
っていうのと同じレベルのホラ話だぞ >>99
伊予には豊受大神を祭祀する霊峰豊受山がある 俺はアジアの古代史に明るいんだが
ヤバイ発見をしてしまったwww
多分日本の古代史がすべてひっくり返るよ
お前らマジでヤバイから絶対誰にも言うなよ?
ヒミコとはなにか、と言う事、つまりこれがすべての謎を解明する鍵なんだよ
ヒミコは現代の日本人が古代史を改竄してる
マジでヤベーから覚悟しろよ
ヒミコは奴婢弥呼が本当の名前なんだよ、つまり奴婢管理する役職の女なんだよ
だから邪馬台国は日本を開拓するために上陸した奴婢の集団であり奴婢弥呼が朝鮮半島から開拓の使命を帯びた女が管理してた
この文献を翻訳した時、マジで震えたわ
古代日本の歴史は朝鮮半島から渡来した奴婢が作った国だったんだよ 前方後円墳に先立ってあった前方後方墳の扱いはどうなるんだ?
あれは墳丘墓扱いになるのか? >>637
実際間違えてる地図があるくらいだからなあ
間違えてても不思議じゃない >>640
実際、57億年後にゃ世界中がどうにかなると思うぞ。
人類関係ない話だが。 >>644
あれ、たぶん日本侵略に失敗するように中国人が元に流したウソ情報をもとに
描かれたもんの可能性が高いだろうな。
平安時代に中国船が青森まで来てたて話もあるくらいだから、
本当は知らないはずないはずだもんな。 >>648
僕の推測では、本来一般中国商人は博多で取引しなければならないが、
中国王朝内で日本に便宜を図る人に対し直接東北まで来ることを
内密で許可してたんじゃなかろうかと。 >>10
島根も岡山も有力な豪族がいたことは確かだな
大国主命の神話とか岡山の豪族から大王が妃を娶るのが多かったとか
ただ大王の出所ではないかも
卑弥呼が大和政権とどの程度関係があるかが焦点でしょうから永遠に分からないだろうな 古事記の信憑性は分からんが神話や魏志倭人伝の方角からすると宮崎説(九州説)
魏志倭人伝の掛かった日数や古墳などからすると畿内説 1800年前からある大規模な田んぼやその跡、あるいは環壕集落の跡や祭祀場の跡なんかが徳島にあったのか・・・
そういうことだろ?違うのか?? >>651
邪馬台国日向説は流石にロマンの世界だなぁ
ヤマト王権のルーツである隼人と対立してた側だろう。 弥生の北部九州の習俗は、広く全国の古墳に影響を与えているが
古墳の内部装飾等は、瀬戸内・畿内は飛ばして関東と共通性が見られる。
一方、日向は弥生の早い段階で瀬戸内と活発な交易を行っている。
日向・畿内を含めた環・瀬戸内地帯の古墳にも共通性がある。
この2つの古墳グループを神話に絡めるなら、最後発の神武(日向)が吉備の縁故を
利用して畿内に乗り込み、先に畿内入りしていた北部九州の勢力を東に押し出したと
一応の解釈はできる >>634
海上の距離は実測出来ないから
3海峡ともに千里と書いただけ。 >>655
晴れた日に微かに見える対馬釜山間、対馬壱岐島間と、明らかにはっきり見え距離が半分もないことの分かる壱岐島呼子間
距離が測れないにしろ、全部千で統一したってのは、現代人からしても暴論だし
当時の人間からしても失礼にも程がある噴飯もの。
まぁ千里統一にはなんの根拠もないって、そもそも論の欠点もあるがね。 >>640
正しくは56億7千万年後。567と覚えておきましょう。 >>656
それこそ暴論
国同士の距離の500里や700里というのも、
ある程度丸めた数字だろ
500里ちょうどなわけないし
そもそもどうやって測ったんだ?
メジャーでいちいち計ってる?
それとも歩数?
その時点でその程度の精度でいいという事だろ? 少なくとも畿内説九州説阿波説の3つの中では説得力では阿波説が群を抜いている。 >>656
距離を測ったとは到底思えず、日数から距離を割出したと考えるのが自然だと思う。
渡海は基本日出少し前から日没少し後までの間で渡りきらないといけないはずので、
資料作成担当の官僚が同じような距離と判断しただけだと思うけどな。
一支ー末廬間は入国許可がおりるまで手前の島で滞在した可能性も十分考えられるし。 畿内説九州説は全く説得力が無い。後から無理やりこじつけようとしている意図が見え見えなんだよな。
研究者の利権なのか、観光地化したい意図からなのか分からないが魑魅魍魎がウヨウヨしてるな。 >>659
海上で遮蔽物がないからこそ、直線距離が目測で如実に違いの分かる。
現地の海見たことあるかい?
幼稚園児ですら分かるほど、壱岐島と呼子の間の距離と、他の距離は違うんだよ? 海の上で測れないものは、一律千里ルールが前提なら九州だろうと畿内だろうとどっちも否定できんわ >>667
だから?
違うとして
何里違うの?
測れる? 邪馬台国は九州瀬戸内海諸国の連合国で、その範囲で国王は都を変えていた。
海洋民族で、今の日本人よりオーストロネシアの民族的な特徴が強かった。
言語学的には今の日本人とは直接的なつながりはない可能性が高い。
同じ時期に、日本には北陸を中心とした文明圏と関東東北にまたがる文明圏があり、それぞれ朝鮮半島や大陸からの渡来人を中心とした国家が生まれていた。
特に関東は馬が中心の古墳文化圏で起源はバイカル湖からヨーロッパにまたがる古墳文化的にまで遡る。
邪馬台国に混乱が起きた後、関東を中心とした連合国が関ヶ原を越えて瀬戸内海連合国を吸収した。
流血が少ないことを考えると、恐らくは婚姻により縁戚関係を作ることによって、数世紀かけて穏やかに統一していったと思われる。
九州と関東の中間の畿内にやがて中心が写り、言葉が統一し、今の日本語に近いものが生まれた。 水行は、通常は人一人運ぶのに1人もしくは2人の漕ぎ手がいた程度だろうが、
対馬海流横断には非常に長い丸木舟を用意し4人もしくは6人で漕ぐようなことを
してたんじゃないだろうかと推測する。
その状況は報告されてたため、資料作成担当の中央役人は通常より1日の移動距離が
長いと判断していたとも推測できる。
基本1日で島の間を渡りきらないといけないという条件は同じなため、
資料作成担当の中央役人は報告された日数から
同程度の距離と判断したと考えるのが自然だろう。 邪馬台国が瀬戸内海沿岸を押さえた
豪族の王朝って可能性はあるとは思うが
だとしても阿波に都は置くまいとも思う >>670
1800年前というピンポイントの話をしてるのに、
数千年もの長期間に起きたであろう推測を語って何をしたいの? 邪馬台国阿波説は別名では邪馬台国阿呆説と呼ばれているが俺は
邪馬台国キチガイ説と呼んでいる 邪馬台国を観光事業にしたいのはわかるがそういう突飛な説を打ち立てるのは如何なものかと >>675
僕は邪馬台国がさほど重要な案件とは思ってないので、別にいいと思うけどな。
ただ、大和政権の歴史に非常に興味があり、 >>625 のような自説を持ってるので、
この範囲内に邪馬台国があるのは困るなと思ってるだけだけどな。 さすがに無理だろ。
っていうか、邪馬台国の存在ってこんな大騒ぎするほど重要じゃないよね? うん
魏志倭人伝にしか記述のない国だからそれほど重要ではない
なぜか畿内大和と結びつけようとする人がいるんだよな >>677
よく分からないからどうとでも言えるし、どうとでも言えるから話のネタになるってことだろうねえ。 >>676 の続き
ただ、九州の南北戦争をきっかけに朝鮮半島に大和領を設けることができたという自説でもあるため、
九州北部に邪馬台国ないと困るんだけどね。 >>678
記紀が大和を大倭と書いて倭の首都と記してるから 若杉山遺跡 近い辰砂の採掘場所遺跡を見たが
縄文時代後期や弥生時代
中国からのか分からんが綺麗なつるつるピカピカの陶器茶碗やあった
当時西日本最大の辰砂発掘製造集落遺跡
那賀川の氾濫で水没したのか綺麗なままのかなり広い遺跡
徳島には古墳も銅鐸も出てきている
剣山周辺に邪馬台国はあったのか
歌舞伎の先祖も池田にあったような >>682
大和にとっての阿波は日本にとってのアステカやインカのような存在だったと思う。 >>684 の続き
それから、学問にあまり口出しせず、専門の芸能に専念するようにね。 縄文時代やその前い、中国韓国から人が渡って来たなら九州山陽山陰四国にまず人が移動する
畿内はその後に人が行く
山陰の出雲やは冬は積雪で寒かったから住みにくかった
四国は穏やかで住みやすかったので四国に邪馬台国があっても不思議では無い
雪国は無理だろう生活に 観光の目玉を作りたい徳島の気持ちはよく分かるが、無理筋ゴリ押しはよくない。 >>687
別に邪馬台国くらいならいいよ。ソロモンの秘宝とかも許容できる。
ただ、阿波には許容できないローカル説が他にもいくつかあるからな。 >>677
現実にはもうとっくに畿内で決着してるけどね
学問以外のところで、ド素人の爺さんが阿波だの九州だの空想の物語を作ってるだけ
もちろん、物証ガン無視、考古学ガン無視
知識がないから物証に矛盾してることを知らなかったり、悪意を持って意図的に無視してるやつもいる
大量にカキコミしてる九州説はほとんど後者だけど >>690
むしろ物証ガン無視してるのは畿内説のような気がするが。 北九州連合が本州連合を征服したとするより、
本州連合が北九州連合を征服したと考える方が納得がいく
なぜなら、本州側にとって北九州は大陸との交易、交流、
特に鉄の利権は垂涎の的だから何としても落とす必要があった。
それに対して、北九州側は本州を征服することに対してあまり魅力はない。
また、仮に北九州連合が本州連合を征服したとしても、
当時の東アジアでは中国が圧倒的な覇権国であり、
首都を500kmも遠い田舎である奈良に遷すわけがない。
もし北九州連合が本州を征服したなら首都は北九州に置き、一大卒を本州に置いたはずだ。 まあ畿内に限らず、西日本原住民勢力の事を狗奴国と呼んでいたとすれば、辻褄が合うんだけどな。
その狗奴国にも属さない国は倭種の国と呼ばれてたって話で。 >>674
>邪馬台国阿波説は別名では邪馬台国阿呆説と呼ばれているが俺は
>邪馬台国キチガイ説と呼んでいる
と、気狂いが申しております。www >>654
古墳で民族を判断するのは間違いの元じゃないかな >>696
民族イコール古墳型式なら日本はむちゃくちゃ他民族国家になるな >>697
だれがそう言ってるの?
魏志倭人伝では
倭人の国には、魏と交流のある国が30か国ほどある
と書かれている
邪馬台国の卑弥呼は
それら倭人の国々が(30か国すべてとも言ってないし、倭人の国が30か国しかないとも言ってない)
「共立」したと書いているだけ
共立という事は
邪馬台国が周辺の国々を支配してるとはならない
EU連合の大統領はポーランド人だが
ポーランドがEUの首都という事ではないのと同じことだよ 九州説なんてネットの中でしか居場所がないんだから好きにやらせてやれ >>696
ルーツとは関係ない。政治的・経済的なはなし。
前方後円墳体制、特に一元的なそれには懐疑的だが、築造時点で他の様式の地域より
人の交流が密な地域同士であった可能性が高いというだけのこと 今も昔も墓の形式は故人の出身地や宗派に応じて変わるもの。
前方後円墳統一でゆるい連合政権だのというのは畿内にこじつける為の印象操作だよ。
政権が発足するような状況とは、経済活動の統制が必要な状況。
当時で言えば海外との交易権の争い=半島の鉄の奪い合いぐらいしか考えられない。
魏志韓伝に書いてあるように。鉄で物資が買える時代だったんだから。 福岡市南区と春日市、那珂川市あたりが奴国と推測されているがこの広さで
人家が二万戸、徳島市は奴国よりも遙かに狭い平野なのでここに七万戸とかキチガイの
考える事は判らん、そうなれば五万戸の人家があった投馬国はどこになるんだ?
徳島よりも広い平野部があって五万戸しかないとかはありえんな
たとえば松山市や岡山市は徳島よりも広いから七万戸以上の人家があったはず。
邪馬台国阿波説は邪馬台国阿呆説になってしまった。 人家が二万戸の奴国よりも広い平野部があるのは西日本では筑紫平野だけ、
筑後川を挟んで北側の平野部が人家が五万戸の投馬国で南側の平野部が
人家が七万戸の邪馬台国と言う事になる。徳島などは問題外 四国というのは瀬戸内海に面して、大陸からの船便に適していて、地名も地形も邪馬台国に適語するし
日本最上位最古の神社も存在する、それらは徳島県剣山に有る、10月22日の新天皇即位行事で用いる麻の衣もこれらの神社が作る
剣山には山上集落が点在し、天皇(あるいは邪馬台国)と関わりが有ると思わせる祭りがある、剣山は紀元前1世紀に渡来したユダヤが
聖地にしたとの説がある、また剣山は平家ゆかりの地で、かの武将はユダヤだったとの説がある
邪馬台国とは山台国のことで剣山に有って、その後吉野から奈良に進出した >>705
北部九州に100万人の邪馬台国連合を全部詰め込む珍説wwwww
糞ワロ
3世紀の日本列島には1000万人いたとでも思ってんの? 中国人の記述する数字が正しいとでも思ってるのか?
白髪三千丈の国だぞ 阿波説を擁護するわけではないが、邪馬台国の都が阿波で
邪馬台国の版図を四国全体と仮定し、投馬国や他の連合国を中国地方に比定すれば、
戸数に関してはギリギリ可能
ただしあくまで可能性があると言うだけで、仮説の裏付けが必要
戸数面で最も矛盾が多いのが、邪馬台国を北部九州に比定する説 邪馬台国時代は産業と言えば農業が殆どだったから平野部が広いところが
人口(人家)が多いのは当然の事、そうなれば奴国(福岡市南区、春日市、那珂川市)
は場所が確定しているからそれに比例して平野部が広いところを捜せば良いだけ。
従って邪馬台国は筑後川の南側の平野部となる。 九州は意外と広いぞ。
可住地面積(人が住むことが可能な土地)
奈良県 853(km2)
福岡県 2773(km2)
佐賀県 1332(km2)
熊本県 2732(km2)
当時耕作可能だったと考えられる土地の面積
[畿内]
奈良盆地:450km2
河内平野:200km2
[九州]
福岡平野:250km2
筑紫平野:950km2
中津平野:180km2
宮崎平野:800km2
30万人が生活すると仮定すれば最低でも700km2は必要。 グーグルマップの航空写真で福岡市、筑紫平野、松山市、岡山市、徳島市、
奈良盆地などを見て平野部の比較をしてみたら邪馬台国阿波説は阿呆説と
言う事が簡単に分かる まあ太宰府が倭国最初の条坊都市だから600年初頭
天氏多利思比孤王権までは九州が国政の中心であり
隋書による魏志の邪馬台であると書かれているから
議論の余地なく九州が邪馬台だよ。
近畿最初の条坊都市は新益京であり文字通り地方統治に造られた副都心。
これが煬帝からの天氏への指示で仏教布教と共に都市整理を行い民度を上げろとの内容だったんだよ。
日本書紀には神格化した天皇職で人心掌握を行う天智藤原勢力に不都合なため紛失されたという言い訳が書かれているが まあ魏志倭人伝の戸数が正確とは言えないが、相対比較で目安にはなる
韓伝にある三韓の戸数を合計すると15万戸
魏志倭人伝には15万戸プラス旁国21ヶ国
北部九州にこれらを全部詰め込んでざっくり計算すると、
北部九州の人口密度は、三韓の10倍だったことにしなければならない
絶対にありえねー
こんな不可能な説を平気でごり押ししてるんだから、
いかに九州説信者が異常なやつらかを証明してるようなもの そもそも、筑紫平野には大して遺跡がない
現在は陸地化してる下流域は当時は海
さらに筑後川本流は両側とも数キロは沼地ばっかりで遺跡がほとんどない
遺跡があるのは筑後川の支流に沿ったとこで、山に近いところばっかり
吉野ヶ里が典型例
筑紫平野は三角形の形をしてるが、遺跡があるのは縁の部分だけだからV字型に分布してる
この傾向は古墳時代も同じで、古墳があるのは山に近いところのみ >>718
筑紫平野は弥生遺跡が至る所にある、何も知らん低能が偉そうな事を書くんじゃ無い 邪馬台国時代の徳島市の人家の数は大目に見ても奴国の1/3の七千戸が良い所だから
邪馬台国の1/10の人口しか無かったと言う事だ。嘘をつくにしてももっとマシな
所を捜して邪馬台国と言え、徳島ではショボすぎる。 はるか昔にムーで邪馬台国=阿波説があった記憶があるので
邪馬台国は阿波ではありません >>720
言い張るだけなら、バカでも九州説信者でもできるw >>720
あの辺の稲作地って、普通に千年とかそれ以上前からあるみたいなのザラなんだよな
耕地整理とかで木器具とか土器とかわらわら出てくるんだろ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています