【歴史】「白村江の戦い」大敗が残した教訓から… 最高の国防体制を構築、敵の侵攻に備え
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福岡県八女市にある「大伴部博麻呂碑」。玉垣に「尊朝愛國」「賣身顕忠」と刻まれている
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前稿までの日朝関係と日中関係がクロスする、古代東アジア史のクライマックスの1つが「白村江の戦い」(663年)であろう。
隋に代わって中国を統一した唐が高句麗(こうくり=朝鮮半島北部を支配した国家)を圧迫するのを見て、百済(くだら=同南西部にあった国家)と抗争中の新羅(しらぎ=同南東部にあった国家)は唐に臣従した。
やがて唐は新羅とともに百済にも侵攻し、西暦660年に百済は滅亡、百済の遺臣たちが日本に救援を求めた。
これに先立ち、第37代斉明天皇の重祚(ちょうそ=譲位後の再即位)翌年(656年)、高句麗・百済・新羅がそろって日本に朝貢してきたことも『日本書紀』に記されているので、半島情勢はいよいよ“複雑怪奇”である。
さて、日本は百済再興を支援することを決め、斉明天皇の遺志を継いだ中大兄皇子(のちの第38代天智天皇)が即位せぬまま政務を継いで2年目(663年)大軍を朝鮮半島に派遣した。
しかし、日本・百済連合軍は白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗した。西暦668年に高句麗も唐に滅ぼされ、675年には新羅が唐の冊封(さくほう)を受けたまま朝鮮半島を統一した。
百田尚樹氏の著書『日本国紀』(幻冬舎)などで広く知られるようになった大伴部博麻(おおともべの・はかま)が唐軍の捕虜となったのは、この白村江の戦いでのことである。博麻は同じく捕虜となった同僚を、自分を奴隷として売らせた金で帰国させ、唐の日本侵攻計画を知らせた。
博麻が帰国できたのは、第41代持統天皇の即位から4年目(690年)であった。持統天皇は「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠(=朕は、朝廷を尊び、国を愛し、おのれを売ってまで忠を顕したことを感謝する)」と詔し、褒美を与えた。このくだりは「愛国」の語源である。
幕末には博麻の故郷とされる現在の福岡県八女市に、日清戦争直前には久留米市の篠山神社境内に、顕彰碑が建立されている。昭和戦前期の少年向け読本にも博麻は取り上げられており、戦前日本において戦って死ぬことばかりが美徳とされたわけではないことがうかがえる。
そして、白村江で大敗を喫した7世紀の日本は“戦後”どうしたか。
『日本書紀』には、中大兄皇子が白村江の戦いの翌年、対馬(現・長崎県)・壱岐(同)・筑紫(現・福岡県)などに守備兵と烽火(のろし)台を置き、筑紫に大きな水堀を擁する(=遺構が一部現存)を築かせたことが記されている。
都のある東へは高安城(たかやすのき=現・奈良県平群町)まで、南へは鞠智城(くくちのき=熊本県菊池市)まで「山城リレー体制」を構築した。すなわち、大陸からの敵がどこへ進攻しても、そこから烽火のリレーで、都や大宰府(現・福岡県)へすぐに報告が届く。一大公共事業で、当時考えうる最高の国防システムを構築し、敵の侵攻に備えたのである。
大東亜戦争終結直後には、昭和天皇が白村江以来となる敗戦の奉告と復興祈願のため、天智天皇を祀る近江神宮に勅使を差遣したことが知られている。しかし、1300年後の日本人には、白村江の教訓はまだ届いていないのかもしれない。
■久野潤(くの・じゅん) 歴史学者、大阪観光大学専任講師。1980年、大阪府生まれ。慶應義塾大学卒、京都大学大学院修了。これまで、複数の大学で、歴史や政治、外交関係の授業を担当するほか、戦争経験者や神社の取材・調査を行う。著書・共著に『新島八重』(晋遊舎新書)、『帝国海軍と艦内神社』(祥伝社)、『決定版 日本書紀入門−2000年以上続いてきた国家の秘密に迫る』(ビジネス社)など多数。
10/3(木) 16:56配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191003-00000000-ykf-soci はくすきのえ と言ったり はくそんこう と言ったり、どっちがいいの。 青山里戦闘(せいざんり(チョンサンリ)せんとう)は、間島出兵中の1920年10月21日から26日にかけ、満州の間島和竜県(現・中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州和竜市)の青山里付近で、日本軍と朝鮮人の独立運動武装組織及び中国人の馬賊との間で行われた戦闘。
日本軍の損害
韓国系の文献は、青山里戦闘を「青山里大捷」と呼び、独立軍の大勝利であったとしている。
「青山里大捷」は韓国が言うところの「韓民族の独立運動」の中で重要な部分を占めており、大韓民国の「建国神話」の中核をなす。韓国とは対照的に、北朝鮮版の「独立運動史」は青山里戦闘に言及していない。
韓国側の日本軍の損害についての見解は、朴殷植の『朝鮮独立運動之血史』(1920)は「加納連隊長以下900余〜1,600余人」、
韓国中央選挙管理委員会編刊『大韓民国政党史』(1964)は「千余人」、
韓国国防部戦史編纂委員会『韓国戦争史』(1967)は「死傷3,300人」、
趙芝薫『韓国民族運動史』(1975)は「加納連隊長以下3,300人」としている。
年を経るごとに日本軍の損害は誇張されていっている。同時に、日本軍の兵力、独立軍の兵力も膨れ上がり、戦闘の主役が金佐鎮から李範奭に移っている。
日本側の史料によれば[3]、青山里戦闘で受けた日本軍の損害は、戦死11、負傷24のみで将校の死傷は見当たらない。
この報告は靖国神社の合祀名簿によって裏付けられている。また、間島出兵後の第19師団の備蓄兵器調査においても、日本軍の戦闘損耗はきわめて軽微だったことが確認されている。
韓国側の文献に唯一実名が挙げられているのが「加納連隊長」である。
『朝鮮独立運動之血史』は、日本領事の秘密報告書が加納連隊長の戦死を報告していると主張している。
しかし、そのような領事報告は確認されていない。「加納連隊長」に該当する人物として考えられるのは、
騎兵第27連隊長の加納信暉大佐であるが、加納信暉の名前が戦死者名簿にないだけでなく、間島出兵後の1922年(大正11年)まで連隊長を務めていたことが判明している。
抗日運動にも参加していた金学鉄は、市民団体の機関紙の取材に対し「鳳梧洞戦闘や青山里戦闘の戦果は少なくとも300倍は誇張されたもの」と答えている[4]。 >>7
俺はしらすきのえとも言うときいたな
個人的にははくそんこう推し むしろ、半端に強かったら、警戒されて討伐対象にされてたかもしれない 人は記憶型と思考型に大別できる
統一中華を相手にしては半島を守りきれない
これを認識したんじゃね
これにより日本は防衛ラインを海にしたんじゃ >>7
日本書紀の大和言葉では「はくすきのえ」
今の教科書は大和言葉ではなく、漢字はストレートに読むので「はくそんこう」
まあ「はくすきのえ」でいんじゃね?
正しくオシャレなのは「ペクサンチェ」ニダ Japan seaを経路として用いる補給は
チョウセンを経路として用いる補給より遥かに貧弱で、とても部隊を維持できない 韓国は当時の新羅のようなもの
ちゃんと国防を考えましょうね その後700年間攻められることはなかったので
無駄な軍備に終わった >>17
備えなければ憂いなしやで
安心して生活できるし抑止力にもなる この時代に大軍を送り込めるもんなの?
秀吉の時代ですら結構苦労してるのに >>13
おれはボケ損なったのか
どう見ても「はくすきのえ」だよなぁ 半島の領土が無くなって日本としての統一ができました。 >>12 の続き
なのに半島に出兵する輩が後に出現する
秀吉の朝鮮出兵、豊臣政権はやがて滅ぶ
明治に大陸へ出た日本帝国、これも滅んだ >>20
そういうこと
はくそんこうも昔からあった >>19
倭は元々朝鮮海峡を跨いだ海峡国家だったんだよ。 >>4
合ってるやん
はくすきのえって読んだりもするけど 今月買った羅騎士専門雑誌で百済をひゃくさいとルビ振ってるんだが
今はひゃくさいになったの?学会的に >>17
だってそれ以降は朝貢して支那国家の属国になったんだもん。 日本で鉄が取れなかったらあ何回でも朝鮮に攻め込んでたけどな これ、黙殺してたら日本にも侵攻して来てたんだろうな >>25
ちなみに豊臣軍は連戦連勝して女真族の国にも攻め込んで城を陥落されてるけどな
現在の満州だぞ >>1
チンケな距離を必死こいて移動して遷都して
水城とかいうチンケな溝に囲まれたチンケな掘っ建て小屋を大量に作ったんだっけか >>17
何度も来てただろ義務教育だと伏せられているけど >>17
無防備だったら攻められた
竹島だって戦後で無防備になったとたん侵略されたじゃないか >>37
一時的な勝利はできるんだ
だが長期になると必ず負ける 歴史から学ばないとな。盲目的に、戦争反対、隣国と友好、
みたいに、敵のスパイの使い走りやってる連中がいちばんタチが悪い。 >>37
ジャップ伝統芸の卑劣な襲撃ぐ決まったからな
なお2回目は不意打ちが決まらずに便器にこびりついたうんこの様に半島の最南端にこびりついていただけだったという >>37
おい!
脳筋清正のせいで撤退の際に女真族の騎兵に追い回されてとんでもない目に遭ったんだぞ!!! 釜山攻防戦ラクトウコウでは、キタ朝鮮軍が敗退したね >>45
女真は明の敵だからありえない。
女真の酋長は朝鮮に援軍を打診したが、断られている。 つうか、倭人系だろ?
百済って
現代の韓国政府が証拠隠滅しちゃうよな 前NHKの番組でやってたな
「日本書記」で唯一無名の人とか 【元寇】元寇による日本脅威論の形成
元寇では、日本刀は戦場で大きな力を発揮した。南朝遺臣の鄭思肖は日本刀を評して「倭刀はきわめて鋭い」と指摘し日本征服が難しい理由の一つに
日本刀の存在を挙げ、クビライに仕えた王ツもまた元寇を受けて「刀は長くて極めて犀なるものを製り…」と評すなど日本刀の鋭さに言及している。
浙江大学教授・王勇は弘安の役での敗戦とその後の日本武装商船の活動によって中国における対日本観は大きく変化し、凶暴で勇猛な日本人像および日本脅威論が形成されていったと指摘している。
例えば、南宋遺臣の鄭思肖は「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。
倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。倭刀はきわめて鋭い。
地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」と述べ、また元朝の文人・呉莱は「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の倭奴とは同じではない。
昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。
さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。
士気を喪い国体を弱めるのは、これより大きなことはない。しかし、その地を取っても国に益することはなく、またその人を掠しても兵を強めることはない」と述べ、日本征服は無益としている。
また、明の時代の鄭舜功が著した日本研究書である『日本一鑑』では、元寇について「兵を喪い、以って恥を為すに足る」と評すなど、後の時代にも元寇の記憶は批判的に受け止められていたことが窺える。
元寇の敗戦を通してのこういった日本軍将兵の勇猛果敢さや渡海侵攻の困難性の記憶は、後の王朝による日本征討論を抑える抑止力ともなった。
元の後に興った明による日本征討論が、初代皇帝・朱元璋(洪武帝)、第3代皇帝・永楽帝、第12代皇帝・嘉靖帝の時の計3回に渡って議論された。
そのうち、朱元璋は軍事恫喝を含んで、明への朝貢と倭寇の鎮圧を日本の懐良親王に要求した。
ところが懐良親王は、もし明軍が日本に侵攻すれば対抗する旨の返書を送って朱元璋の要求を受け付けなかった。
この返書に激怒した朱元璋であったが、クビライの日本侵攻の敗北を鑑みて日本征討を思い止まったという。 日本が誕生したのは明治維新以降
それ以前は存在しないんだけど、国防って何だ?
これでは1945年に日本に勝ったと喜ぶ韓国を笑えない >>51
隣国からお前のところの賊なんとかしろよと言われてる無視するとか流石はジャップ >>29
つしまは朝鮮のハングルを発明した大王にせめられたことがあった。
ちょうど主力が倭寇として中国沿岸にでかけていたから、奇襲に成功したんだが
対馬の守備軍はゲリラ戦で対抗した。
上陸した朝鮮軍は、その1/3が奇襲で全滅し以降上陸を諦めて海岸線の戦いに終止した。
朝鮮軍は海上生活で疲れ破損し、 何よりも中国から日本倭寇が帰還するという情報に
おののいて引き上げた。
韓国では大勝利となっているが、事実上の韓国水軍の破損消滅という結果に終わった。 山城を作ったり水城の堤防を作ったりしたがそれを設計指揮したのは百済人の技術者だった
要するに当時の日本人よりも百済人の方が頭が良かった事になる。 >>55
『学ぶ』の語源が『真似る』のナマモノですから
真似する相手がいなけりゃそんなもん まとめ
チョンと中国とロシアが攻めてくるから備えろ >>37
白村江でも先行上陸して戦ってた陸戦隊は健闘してた
朝鮮出兵でも同じで、李舜臣率いる朝鮮水軍に惨敗して
撤退せざるを得なくなった >>56
ジャップが押し掛けて行って皆殺しにされただけなのに 【白頭山大噴火の兆し】黙示録的大噴火が朝鮮人に伝承がない。文書も伝説も昔語りもない。当時半島にいなかった傍証【朝鮮半島災害】 2ch.net
2014
“黙示録的な大噴火だったのに朝鮮人には何の伝承も伝わってない。文書も口伝も存在してない。伝説も歌謡も昔語りもない。これけっこう重要なこと。
当時朝鮮人が半島に生息していなかったことの傍証”白頭山に大噴火の兆し
RT ああ、十世紀の大噴火で以前までいた朝鮮先住民は絶滅した。その後に素姓の解らない漂泊民がシベリアからやってきて住み着いた。それが現在の朝鮮人の原型
RT エベンキ族というやつだな
RT 新羅、百済、高句麗など古代半島民族が滅亡し、シベリアから南下してきた石器狩猟民族の朝鮮人と置き換わった
白頭山が10世紀に巨大な噴火をしていることは明白な事実です。
これは有史以降最大級の噴火で、古代都市ポンペイを滅ぼしたとして知られるヴェスビオ火山の噴火と比べても同じかそれ以上の噴火規模と見積もられています。
しかし、10世紀といえば中国は五代中国期、朝鮮は高麗が国家としてあり、史実を記録する文化があったにも関わらず、噴火の時期や推移についての記述を一切見つけることができないのです。
この10世紀の中国では,唐(618−907)末を経て、五代十国の変動期、すなわち、後唐(923−936)や南唐(937−975)と呼ばれる地方政権乱立の混乱期にありました。
また、東北アジアでは、渤海(698−926)が滅び契丹(遼)(916−1125)が興り、東丹国が成立するという変動期にあったと考えられてます。
この時期、白頭山に最も近い地域を領域支配していた国家は、契丹族が建国した遼です。しかし、契丹文字で記録された資料は少ない上に、未解読文字も多いのです。
しかも、一部の漢文資料は正史の形で残されているものの、その後の女真族による金やモンゴル族による元の支配によって、10世紀当時の資料は隠滅され、あまり残されていません。
この時期、この地域で比較的安定した国家としては、新羅王国末期の後三国時代の混乱を制して朝鮮半島の中部地方を中心に成立した高麗(935−1392)ですが、
10世紀初めのこの時期には東北アジアとの国境線はあいまいで、現在の中国・朝鮮の国境線よりもさらに南が高麗の支配地域でした。
それゆえにこそ、先の高麗成宗10(991)年の記事では、前後の脈絡もなく女真族支配に関する一行のみが記載されています。
言葉を変えて言えば、この時期、白頭山への関心は存在するものの、実効的な支配は行われていなかったと考えられます。10世紀の白頭山が大爆発を起こしたとされるこの時期には、
「正史」に記録を残せるような安定した王国や政権が中国側には存在せず、仮にそのような記録が残されたとしても、文献資料としては残りにくい環境にあったようです。
いわば文献資料的には東北アジアの10世紀は、ある種の資料的な空白期となっています。
白頭山は917年に過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火を起こし、その火山灰は偏西風に乗って日本の東北地方 にも降り注いだ
また最近9世紀 にもかなりの規模の噴火があったことが明らかになりつつあり、この噴火と渤海 滅亡との因果関係が指摘されている。
滅亡の原因に農民の反乱が基因していることは火山灰による農業被害が長期に渡り、農地としても適さない不作の地として残るので、契丹はこの地を手放したのだろう。
当時は高麗もこの地方にあったが高麗の領土は白頭山のある威鏡道地方に及んでなく,火山灰の分布軸からも外れている.
このため,鳴動の原因を知るには至らなかったようだ.なお,『高麗史』と『朝鮮史』をみる限り,10世紀前半に他の鳴動・降灰事件の記録は見られない. >>17
授業中、居眠りしてたの?
白村江の戦い(660年):唐と新羅の軍が百済に侵攻
新羅の入寇(812年〜):新羅人が九州や対馬に侵攻
>811年・12月:新羅の賊船が対馬近海に出没
>813年・2月:新羅人百人余、肥前小近島に来て島民を殺傷
貞観の入寇(869年):新羅の海賊が博多〜豊前まで侵攻
寛平の入寇(893年):新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡
>894年・4月:新羅の賊来る。大宰府に討たせる。
長徳の入寇(997年):高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う
刀伊の入寇(1019年)高麗人と女真族による壱岐・対馬、筑前に侵攻
元寇(1274年、1281年):高麗人、南宋人とともに尖兵として日本に侵攻
応永の外寇(1419年):朝鮮国王の世宗の軍が対馬に侵攻 >>15
壬辰倭乱を無かったことにするんじゃない倭猿 >>60
それに謝罪と賠償を要求するのがお前らの国の流儀だろ >>53
壱岐対馬五島の海賊に滅ぼされそうになる程弱い国があるとは思わないじゃないですかー。 百済って今の日本人のことだ。
百済と今の朝鮮人の関係は皆無。 【歴史捏造】「古代朝鮮人からその歴史の強奪することに他ならない」
■朝鮮の歴史は、
百済・新羅・高句麗・任那等の古代朝鮮がその祖ということになっている。(これも捏造)
しかし実際には、
元寇のあった時期に、
朝鮮在住人のDNAが激変したという歴史的事実がある。
(埋葬された死者のDNA鑑定・分析結果)
これは、
半島で古代朝鮮人が絶滅し、
エベンキ族と推定される他民族が成り替わったことを意味する。
つまり、
「古代朝鮮」人と現在のいわゆる朝鮮民族はDNA的にほぼ他人である。
それをあたかも継続しているが如く語るのは、
「古代朝鮮人からその歴史の強奪することに他ならない」。 古事記や日本書紀が記された年代からしてもぶっちゃけ百済のが本国だった可能性が高いような・・・ 日本史でも世界史でもさらっとしかやらないよね
朝鮮出兵も元寇も。 だから、日本書紀の記述を根拠にするのは
檀君紀元を流行らせようとするのと同じレベルなんだって気が付けよ
分かっててやってるのか? >>64
現代の真新しい紙の古文書に書かれてるんだね(笑) 白村江の戦い敗北 → 豪族多数死亡 → 中央集権 → 日本誕生 そもそも当時の唐は日本列島の存在を知らない
魏志倭人伝の記述を本当だと信じてたから
中国が日本列島や奈良の存在を知るのは新唐書(1060)の普及後
>その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。
その道のりを計算すると、まさに会稽、東冶の東にある。
>有無する所は?耳、朱崖と同じ。
持っている物、いない物は?耳、朱崖(海南島)と同じである。
>倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆、徒跣。
倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。
>倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。
>或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。
倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、
離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。
唐に日本を攻める計画あって仮に実行していたとすると
全然別の場所を攻めた可能性が高い >>5
日本には百済人の子孫が大勢住んでいるということ 実際日本は何度か外敵に攻められるが
対馬、壱岐、九州北部で略奪してすぐ帰る
日本列島の存在を知らないから 白村江の戦いでは海陸ともに惨敗したが陸戦で負けた1番の原因は日本軍は馬が無かったし
馬に乗れなかったと言う事で、これを反省した大和朝廷は敵国の新羅から軍馬の飼育
調教の為に新羅人を群馬県に招待した訳だ。当然彼らは日本に帰化している。 3世紀半ばから1060年まで中国人が考えてた日本地図こんなの
半島
○
○ 対馬
○壱岐
○奴国(倭国の極南の界 後漢書)
○○
○○亶州(沖縄?漂流者がたどり着く 呉書)
○○夷州(台湾?衛温と諸葛直が数千人連れ帰る 呉書)
○○首都ヤマト国はここにある 魏志倭人伝
○○
○○ >>81
当時百済は日本の属国だぞw
まぁ逃げてきた王子の声に中大兄がほだされるような良好な関係ではあったにせよ。 >>78
日本が朝鮮利権を手放したことによって朝鮮半島は陸の孤島になった
その後明治の時代が来るまで朝鮮半島は中国諸王朝の尻尾 >>81
1000人単位でいたみたいやな
推古天皇9年(601年)、対馬に到った新羅の間諜迦摩多を捕えて貢上し、上野に流す。
斉明天皇6年(660年)、百済が唐俘100余人を献上する。今の美濃国不破郡・片縣郡の唐人等である。
天智天皇5年(666年)、百済人の男女2000人以上を東国に移住させる。凡そ緇素(出家者と非出家者)を択ばず。癸亥年より3年間、同様に官食を給賜する。
天武天皇13年(684年)、百済人の僧尼及び俗人の男女23人を武蔵国へ移す。 倭はそれなりに大軍だったが、軍制が唐軍に比べてて圧倒的に遅れていた
それと百済が軍と王との間で連携が悪く、険阻な地での防衛を放棄して自滅的に滅んでしまった まあ半島人の歯軋りはウザいだけだが
大国を唆して攻めて来る時は十分注意しないとならないと言う事だ 問題は百済は朝鮮だから
韓国、北朝鮮と同一視しようとする人がいること
別の民族ですから 仮に唐が倭国の都だと思って攻めても
そこは沖縄か台湾だったってことね
支配しても得るものがなく兵を出す価値がない
ただ日本側は唐が正確に日本列島を知っていると考えて
九州北部や瀬戸内海周辺に防御施設を作る
その多くが当時日本にはなかった朝鮮式山城であることから
滅亡した百済の亡命者たちを倭国がコキ使ったことを示してる 元寇ではやすやすと敵の上陸を許してるジャップwwww
太平洋戦争と一緒で下痢等で嫌がらせするしか能が無い 白村江の戦なんて、記述があるのは日本書紀だけで、中国の歴史書にも韓国の歴史書にも記載がない。
仮にそのような戦争が本当にあったとしても、唐帝国におっては記録する価値もない小競り合い程度のものだったのだろう。 日本史でも「応永の外寇」は教科書に載せていないのか?
李氏朝鮮の世宗が、対馬侵攻を計画。倭寇を退治するという名目で
2万の軍勢を対馬に差し向けたが、宗貞盛の率いろ660人の守備軍に
大敗北。朝鮮軍は将軍4人、兵員1300人近くを失い、漁村を焼いて
遁走。世宗は糞も漏らして逃げ帰ったという。でも、古文書には
ウソの記述をして「勝ったニダ」と記す。今も昔も「負けたくせに勝ったニダ」w
WTOの敗訴でも負けたくせに勝ったニダは今も昔も同じ。
それが、後に秀吉の朝鮮出兵に遠因になる。
朝鮮は弱いの何のって、敵前逃亡をし捲り、朝鮮王は首都「漢城」の民を
見捨てて遁走。秀吉軍は朝鮮軍があまりに弱すぎて兵站が大変になった。
韓国で有名な「李舜臣」も日本統治下で朝鮮に英雄がいないので
無理やり英雄に仕立て上げられた卑怯者w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています