住人が椎葉≠ウんと那須≠ウんばかり、という村が宮崎県にあります。由来は1185年に起きた源平間の「壇ノ浦の戦い」にさかのぼると言われています。各地に伝わる「平家の落人伝説」のひとつなのですが、この村ではその後、源氏側と平家側が共生したと語り継がれています。山道を車で進んでようやくたどり着いた村で、落人伝説の謎を探るうちに「ここならありえるかも」と考えるように……落人伝説の真相にせまりました。(朝日新聞記者・浜田綾)

■平家落人が逃げこんだとされる村

宮崎市中心部から車を走らせること約2 時間半。先の見えないカーブが続く山道を進んだ先に、椎葉村はあります。村の96%を森林が占め、おもな産業は農林業。約2600人が山間に散在する集落で暮らしています。

記者が初めて村を訪れたとき、すぐに気づいたことがありました。それは、「椎葉さん」と「那須さん」が多いこと。

村観光協会で出むかえてくれた椎葉°L史事務局長(44)と職員の椎葉%゙木沙さん(30)は、「村の人の半分くらいは『椎葉』か『那須』じゃないですかね」とさらりと口にしていました。

2人の話に「まさか」と内心思っていました…が、その通りでした。

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村役場で働いていた時に村史の編集にたずさわり、現在は村観光ガイド協会で案内人をつとめる山中重光さん(79)に話を聞きました。

弓の名手として有名な源氏の名将・那須与一。彼は「源平屋島合戦」(高松市)で、平家の船上にかかげられた扇を弓矢で射抜いたエピソードでよく知られています。

山中さんによると、椎葉村に逃げかくれた平家の人たちを追討するのは、この那須与一のはずでしたが、病を患っていたため、彼の兄弟である那須大八郎が代わりに送られました。

そんな大八郎が椎葉村で目にしたのは、かつて栄華を誇った平家の人びとが細々と貧しく暮らす姿。その様子に胸を痛めた大八郎は、「討伐した」と幕府に偽の報告をした上で村に残ります。そして、平家の人たちに農耕の技術を教えたほか、平家ゆかりの広島県廿日市市の宮島にある厳島神社の守護神を勧請して祭るなど、手を尽くしたと言われています。

村に関する記述が残される史料は、17世紀以降のもの。村での生活や歴史に関する話はすべて、親から子へ、そして子から孫へと口承で伝えられてきました。

■敵と味方…悲しい恋の伝説

さて、椎葉村に残った大八郎は、平家の子孫である鶴富姫と恋に落ちました。そして、鶴富姫が大八郎との子供を妊娠している間に、大八郎には幕府から鎌倉へ戻るよう命令が下されます。

敵の子孫である鶴富姫を連れて行くわけにいかず、悲しみに暮れる大八郎。村を去る際、こう言づてしました。

「男児が生まれたら下野(大八郎の出身地である現在の栃木県)へ、女児であればここ(椎葉村)で育てよ」

女の子が生まれたため、鶴富姫とその子孫たちは椎葉村で暮らすことに。そして、大八郎への思いをこめて鶴富姫は那須$ゥを名乗りました。これが、村で言い伝えられている那須大八郎と鶴富姫の話の全容です。

こうした背景があり、村には、もともといた住人に加えて(1)源氏の子孫 (2)平家の子孫 (3)それぞれが結ばれた子孫が存在し、現在の村の人たちのルーツだと言われています。

山中さんによると、源氏側の先祖がいる人には大八郎のエピソードもあってか、「那須」という名字が好んで選ばれ、源平の争いが起きる前から村にいた住人、あるいは平家側の先祖がいる人には「椎葉」という地名から取る人が多くなったとのこと。

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■10軒のうち9軒が那須$ゥの集落

村の北東部にある、昔ながらの特徴的な石垣が残る十根川集落。全10軒のうち、9軒が那須$ゥです。かつて源氏側が、この十根川集落を拠点にして、平家残党が暮らす地域を調査していたと言われている集落です。

今も村に残る平家や源氏とのつながり≠感じさせる名残として、山中さんは以下の事柄を指摘します。

周辺地域には見られない椎葉村独自の方言として、武家言葉や公家言葉が残っていること。

また、椎葉村の昔ながらの一般的な家の構造について、部屋の名称やつくりなどが公家住宅と同じであること。海のない村にある椎葉厳島神社は、広島県廿日市市の宮島にある厳島神社の方を向いて建てられていること。

そのほか、「村に残る」と決めた源氏側の武将たちの名前がつけられた集落が複数存在していることを挙げました。(続きはソース)

10/14(月) 7:00配信
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