【考古学】古代の「海人」に思い馳せ 兵庫・洲本で展示「古代淡路島の海人と交流−青銅・鉄・朱・塩−」
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https://www.sankei.com/west/news/191108/wst1911080011-n1.html
古代の淡路島で製鉄や製塩技術の発達に貢献した海の民「海(あ)人(ま)」に焦点を当てた淡路島日本遺産展
「古代淡路島の海人と交流−青銅・鉄・朱・塩−」が9日から洲本市山手の市立淡路文化史料館で開かれるのを前に、7日、関係者向けの内覧会が開かれた。
古代の淡路島で海人が果たした役割を出土品から考察しようと、島内3市と淡路県民局などでつくる「淡路島日本遺産委員会」と県立考古博物館(播磨町)が企画・主催した。
近年、島内で行われた発掘調査で明らかになった出土品のうち、国指定重要文化財1点、県指定重要文化材30点を含む計176点を
「青銅」「鉄」「朱」「塩」の4つのテーマ別に展示する。
青銅では、国指定の「慶野銅鐸」(弥生時代)や有力者の存在を裏付ける「後漢鏡」(弥生時代、舟木遺跡)。
鉄では、朝鮮半島から技術を導入したとみられる板状鉄斧や工具(同、五斗長垣内遺跡)のほか、管玉や毛抜き形鉄製品(5世紀、木戸原遺跡)など、
素材の切断や曲折など技術の進化がわかるものもある。
このほか、徳島県を産地とする赤色顔料の朱やベンガラの精製道具(弥生時代、二ツ石戎ノ前遺跡)、塩のコーナーでは海水を煮詰める製塩土器を
弥生時代から奈良時代まで年代順に並べ、家庭用から大量生産、朝廷への献上に至るまでの技術の進歩が分かる構成になっている。
淡路市教委の伊藤宏幸部長は「島の歴史の背景に必ず登場する『海人』の営みやストーリーの面白さを、展示品を通じて再認識してほしい」と話す。
来年3月1日まで。午前9時〜午後5時。月曜休館。入館料は一般500円。
サテライト展示として、淡路市の五斗長垣内遺跡・活用拠点施設で「舟木遺跡から甦る古代淡路島の海人」を同時開催する。
期間中には記念講演会(12月)やシンポジウム(来年2月)もある。問い合わせは淡路文化史料館
※連絡先はソースで
https://www.sankei.com/images/news/191108/wst1911080011-p1.jpg 淡路島には北部九州から海人族が進出してたからね
弥生時代の瀬戸内海は北部九州勢力の天下だった
邪馬台国の頃には大阪湾岸まで北部九州勢の手に落ちている
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml
> エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。 海の民にとって重要なポイントだと思う
黎明期の漂着民すら連想される
がんばって >>5
もうそこまで九州勢が来てたのに畿内が邪馬台国はあり得ないよね
やはり九州にあったんだな 戦国三傑はどこ生まれでどこで権威を持ったか考えたらそんな単純な考えて出来んけど 淡路は大陸ー北部九州ー畿内に至る交通の要衝だからな
この時代は潮の関係で宇佐も経由していたらしい >>10
古津路の銅剣も松帆の銅鐸も出雲と同種類があるからなあ 淡路島は橋…高速道路を通らないと行けないからなあ 行きにくいわ 『古事記』と『日本書紀』をみたら
対馬から九州の海人族が移動して来てんだよな 海底人8823は海どころか箱根湖付近で撮影した特撮ばっかり
だったわけだが.....憎まず 殺さず 許しませう(番組が違うぞ) 日本で成長した中では、最初に生まれた子供(島)だね。
古事記では次に四国-隠岐-筑紫・・・本州になるけど、
日本書紀だと次に本州-四国-筑紫・・・が多い。
で、最初の子で上手く育たなかった子にヒルコで、次に淡島(アワシマ)があるらしい。
このアワが阿波だとして、古事記では阿波の国を食物神としてるようだ。
ま、出て来ては泡のように腹に消えて無くなるから、そんなもんかもしれん w
記事では阿波の特産は赤色顔料の朱やベンガラとなるのか。
泡=食料で淡路(淡道之穂之狭別島)で、穂が付いてるし食料の道と見ても良いが、まあライフラインと見るべきかもね。 >>5,9
瀬戸内海沿岸にも北部九州の海人が祀る綿津見神社があちこちにあるしな
古代の海辺は北部九州の海人に占拠されていたのだろう 大海人ってアイツこんな名だけどド金槌だったんだったかな >>9
畿内からは瀬戸内海を通らないと魏に行けないからな
瀬戸内海の制海権が九州にあった=畿内説終了
だわな でもすべての文明は海の向こうの半島からもたらされたんだけどね 今の朝鮮人じゃないし当時は日本の統治だったんだがな三韓征伐とか知らないのか 神戸市の垂水区に五色塚古墳があるけど
4世紀末-5世紀初頭に淡路島の北の先っぽと対岸の本土側一帯を
同じ豪族が治めてたぽいんだよな
明石海峡を通行する船を監視してた海洋族がいたんだろう >>1
> 海の民「海(あ)人(ま)」
「海部」も「あま」と読むみたいだ。 松帆銅鐸(紀元前3〜前2世紀)
五斗長垣内遺跡(1世紀半ば〜2世紀後半)
舟木遺跡(2世紀半ば〜3世紀初め)
西暦57年 漢委奴国王の印をもらったころには
九州北部の勢力が余裕で淡路に進出してただろうね
大阪に池上・曽根遺跡もあるし1世紀には
九州北部の勢力が畿内のかなりの範囲を治めてて
2世紀終わりまで東海の勢力と小競り合い
倭國亂相攻伐歴年(魏志倭人伝)
倭国乱れあいあらそうこと歴年
そして九州北部にいた王族卑弥呼を纏向に呼び寄せて
突貫で都市を作る >>36
吉備真備とかその辺りの元有力豪族なんだよな
吉備だけに >>21
バーカはお前、海人がただしいウミンチュとは沖縄方言 >>39
愛知県あま市の「あま(海部)」は海人族ではない「海部氏」に由来するらしい。 淡路島は日本列島で1番最初に出来た島だと神話にある
何か意味がありそうだ >>36
垂水区には海神社もあるよな
祭神の綿津見三神は安曇族の祖神で、総本社は福岡県志賀島にある志賀海神社 >>39
>他にも「海士」とか「白水郎」なんかもアマと読む
海士はまだなんとか分かるが、白水郎が何でアマなんだろう? >>39
>この図の「貝の消費地 北部九州の弥生のクニグニ」ってあたりが邪馬台国ね
ほほう >>34
両方とも関係ありません
ワタツミ海人族で北九州中心に中国華南の商人と交易していた人々
稲作導入の人々 >>42
沖縄のイモガイやそれをかたどった釧がたくさん関西で出ています
淡路島には沖縄語の地名もありますよ >>50
ワタツミのワタは、古朝鮮語で海を表す「パタ」じゃなかったっけか。
秦(ハタ)氏もたぶんそっち系の名乗り。
ついでに言うと、やまとことばで海を表す「アマ」に関しては、
沖縄方言で母を表す「アマ」、青森や秋田の方言で母を表す「アバ」あたりと
同根だという説がある。
三好達治の詩にもあるよね。
海よ、僕らの使う文字では、お前の中に母がいる。
ユーラシア大陸の東と西で同じ発想してるのね。
そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある ↑
なんか行を間違えた。三好達治先生ごめんなさい。
海よ、僕らの使う文字では、お前の中に母がいる。
そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある >>52
古代朝鮮語という従来の括りよりも古代の列島海人語という方が適正
現代でも秦氏の多い旧新羅の江原地域から済州までは蒙古が入り込むまでは海人族である倭人の韓地入植地域
秦氏のハタは機織りのハタ
養蚕に長けていた特徴がある 海を越えていく海人は航海能力にすぐれた渡しの神でもあったのでワタシのミ(神) 半島がシベリアと日本の交わる文化圏だわな
縄文時代から日本海側と半島及び沿海州の日本海交易圏もあった >>39
やっぱり邪馬台国は九州北部
はっきりわかんだね >>45
豊玉彦命の子・振魂命の子孫に尾張氏がいることをもって尾張氏を海人族とするのは、
千秋氏の先祖に源氏と藤原氏と尾張氏がいることをもって三氏を同祖とするのに似ていると思う。 >>59
ぜんぜん違うだろ
綿津見豊玉彦こそ海人の祖神なんだからそれに連なる氏族を海人族とするのは妥当 >>59
尾張氏の祖の1人の建稲種は尾張海人集団の長なのだが
景行時代の東方遠征の内容も知らないとか呆れる >>52
でも鵜飼という風習は中国から朝鮮を経ることなく直接日本に来てるそうだ
ワダツミー隼人が中国から九州へ直接流れついて国を築いたが、朝廷からの侵略で日本各地へ流れていったという
日本各地に鵜飼があった理由もこれ >>61
日本史板で検証されているが、ホアカリの孫の天村雲命は安曇磯良の別名 >>62
建稲種命は尾張氏のヒーローだよ、情けない死に方だったけど。(´・ω・`) 淡路島にある断層の博物館は行った方がいいよ
阪神淡路大震災の時のやつそのまま保存してる >>64
「天村雲命」って伊勢神宮の度会氏の祖なのか。
つまり、熱田神宮の尾張氏と伊勢神宮の度会氏は同祖ということになるのか。 >>64
安曇磯良をリアル年代で考えるならば神功皇后時代
時代が全然合わない
それなら文献史学者のいう神武天皇=天村雲説の方が信憑性が高い 海人→対馬海峡あたりが勢力範囲→半島南部と混血→日本列島の海人の勢力範囲に伝播
これが弥生人の混血のメカニズムだろ ホテルニューアワジのユダヤ民族っぽい
遺物とか、伊奘諾神社など淡路島は古代史
の謎が多いな。
秦氏は、淡路からほど近い赤穂など
播磨地域にも地盤を構えてたし、
調査進めばもっといろいろ出てきそう。
昔から文明の海の通り道だったんだろう。 海面は上がってないこと証明されてるんだよね
つまり元から海の中 日本史によらないけどこういう◯◯族とか△△族ってのは人種が違うのでしょうか >>70
それは記紀の嘘に騙されてる
神功皇后は神武より前の人物
安曇の祖とされる安曇磯良(あずみのいそら)には磯武良(いそたけら)という別名があり、素戔嗚命の長男・五十猛(いそたける)と同一人物
そしてその五十猛は神功の三韓征伐で水先案内をしている
天照大神の甥にあたる五十猛が神功の手伝いをしているのだから、神功が天照大神の五世孫である神武より後の人物であるわけがない
http://sohsha.jp/under02.php
> 御祭神 射楯大神 いたてのおおかみ
> 五十猛命(いたけるのみこと)と称し、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子神であられ、檜や楠等の木々を植樹して、日本の国土を緑豊かな国にされた
> 植樹の神様と崇められています。
> また、神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅遠征の折に、御船の先導をしたという播磨国風土記の故事から、勝利や幸福へ導く道開きの神様としても崇敬されています
事績に神功皇后の新羅遠征で水先案内をしたとあるが、太平記や磯良神社の社伝によれば、神功の水先案内を務めたのは安曇磯良とされる
天村雲命の別名に天五多底(あめのいたて)があり、上記の射楯大神(いたてのおおかみ)と同一神
安曇磯武良=五十猛=天村雲命 >>75追記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
> 民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある
> (磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
> 『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
> 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より)
http://www.genbu.net/saijin/isora.htm
> 袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。
> 一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。
> 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。
上記のとおり鹿島神宮の武甕槌も磯良とされる上に、やはり神功の梶取(舵取り)を務めたとされている
実際、武甕槌の神使は鹿であり、安曇の祀る志賀海神社には大量の鹿の角が奉納されている
その武甕槌の葦原中津国平定は神武東征よりも前の時代の出来事とされているし、神武が東征中に熊野で苦戦しているときに
天照大神から手助けを命じられてフツノミタマの剣を神武に与えたのも武甕槌とされている
射楯兵主神社の射楯大神=五十猛といい、神武東征以前の神が神功の水先案内を務めたという伝承が多いのは
本当は神功は神武よりも前の人物だということだろう
記紀で神武より後の人物ということにされたのは、神武即位を紀元前660年という考古学的にあり得ないほど昔に設定したがゆえのことか
8世紀の記紀編纂者が外征の大勝利という功績を大和朝廷のものにしたかったという事情によるものだろう もう一個補足
記紀のカラクリについて
> 487 :日本@名無史さん :2019/10/21(月) 21:32:39.81
> >>483,485関連
>
> まさにそこが今回最大の収穫かもしれない
> つまり記紀神話の年代のでっち上げの手法が判明したということだ
>
> 五十猛は素戔嗚命の息子なので神代の人間、というか神だが、五十迹手を褒めたのは仲哀だし、磯良は神功の水先案内を務めているから人代の話である
> つまり実在の人物として人代に記録されている人間が別名を使って素知らぬ顔で神代にも書かれていることになる
> 従来考えられていたように神代が九州で人代が畿内というような分かれ方ではなく、人代の出来事を神話仕立てにして遠い過去の出来事として
> 投影したのが神代であり、人代と同一人物が重複して登場しているのだ
>
> これはつまり、他の神々にも人代におけるモデル人物が存在する可能性を示している
> 例えば天照大神のモデル人物は神功皇后かもしれない、とかな
> スサノオの子であるイソタケルが安曇磯武良なら、天照大神はその伯母にあたるから一世代上だが概ね同時代の人物とみると
> むしろそう考えたほうが自然なくらいだろう
>
> 単に伊都国が安曇の国であることを実証するのが目的だったのだが、思いがけず記紀の嘘を暴いてしまったのかもしれない
>
> もっと深い問題もある
> 天村雲命が五十猛=安曇磯武良=五十迹手と同一人物だということが分かったわけだが、この天村雲命は
> 「然が宋の太宗に献上した王年代記にも登場する
> 曰く
> 「初めの主は天(御)中主と(号)す。 次は天村雲尊と曰い、其の後は皆な『尊』を以って(号)と爲す。」
> とうとう倭王になってしまった
> しかもなんと天之御中主に次ぐ二代目の倭王にされてしまっている
>
> 王年代記は記紀よりも後に作られており、神武の即位が周の時代と書かれていることからも明らかに年代が捏造されている
> そして二代目倭王が天村雲命=五十猛=安曇磯武良になっているのを見ても、単に年代を何百年かスライドさせたのではなく
> 倭王の即位順までメチャクチャに改竄されているし、倭王じゃない人まで倭王にされている有様
>
> 要するに、大和朝廷が作成した史書は、個々のエピソードについては脚色、改変はあれど元になった事実があるのだろうが
> その年代観も天皇の順番さえもまるで信頼が置けないということである >>79
長文コピペの値打ちすらない駄文というか気の毒な病人の盲文
>天村雲命が五十猛=安曇磯武良=五十迹手と同一人物だということが
>分かったわけだ
>スサノオの子であるイソタケルが
>安曇磯武良なら
スサノオは出雲か紀国
五十猛命は「いたけるのみこと」で紀国を木だらけにした人
実年代は無理やりいえば弥生前期から中期だろう
スサノオの描き方は縄文海進もすっかりおわり、寒冷化が
進行中の縄文終期だろ
ここまでホームラン級の出鱈目バカって日本人か?
ホルホルのような脳ミソに願望妄想回路しか無い頭の病気だよな 中世の物語をもとにして夢想三昧も暇つぶしにはいいかもw
「石清水八幡宮御縁起」. 上巻・下巻の2巻から
なり、下巻奥書に室町幕府第6代将軍足利義教
公奉納の絵巻を橘継雄という人物が享保13
(1728)年に謹写したもの >>79
反論できませんってことだね
OK
>>80
君は記紀に書かれている内容を盲信しているだけ
射楯兵主神社の社伝に五十猛は神功の舵取りを務めたとある以上、安曇磯良と同神と見るのは当然のこと
>スサノオは出雲か紀国
知識が無いとこういう嘘にすぐ騙される
完本とされる出雲国風土記にヤマタノオロチ伝説も国譲り伝承も記されていない事実を知らないからそんな盲信ができるのだろう
それを知っていれば嘘をついているのは記紀の方だとすぐに分かる
> 489 :日本@名無史さん :2019/10/21(月) 21:38:00.00
> >>480の山鹿・菊池関連
>
> 山鹿・菊池は怪しいねえ
> なんとスサノオのヤマタノオロチ退治の逸話がこのあたりにもあるらしい
> 実はヤマタノオロチ退治の逸話って地元のはずの出雲国風土記にはなぜか載ってないんだよね
> 本当はこの地域の話だったんじゃないか?
>
> https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12513375590.html
> >熊本県山鹿市菊池市一帯は「肥川 ひのかわ」と呼ばれる菊池川が流れ、八岐大蛇(やまたのおろち)神話の櫛稲田姫(くしなだひめ)生誕の
> >伝説の地・熊本県山鹿市に旧稲田村があります。櫛稲田姫の本来の名称は「稲田媛」。
>
> >福岡県高良大社の「高良玉垂宮神秘書」第1条に「ヤマタノオロチと天叢雲の剣」について古典的記載があります。 >>83
>完本とされる出雲国風土記にヤマタノオロチ伝説も国譲り伝承も記されていない事実を知らないからそんな盲信ができるのだろう
えっマジ?
あんな日本神話のハイライトみたいなシーンが2つとも地元の風土記に載ってないってどういうこと? 出雲とヤマタノオロチ伝説は疑いもしてなかったわ
風土記に載ってないってなにかあるんだろうな 博多湾を根城に活躍した安曇族と住吉族、宗像地方を根城に活躍した宗像族
この海人族が作った神社は日本各地に存在しているが淡路島の海人族が日本全国で
活躍したとは聞いた事が無い、単に淡路島だけのしょぼい海人族なんだろうな
そうでなければ対岸の神戸市に安曇族の海神社が出来る訳が無い うみんちゅだろw
ちなみに ちゅ は、 ひと「人」 ひちゅ ちゅ と語形変化したものやで。 たしかに瀬戸内海の島の出身者は、
地黒で独特な風貌の人が多いね。 >>78
この場合仲哀と神功は人代だけど九州の逸話だと思えばよろしい。 >>81
ふつうは地元の自治体職員の地元活性化狙ってる県史編纂室でも正史から大きく外れる中世の創作話一つだけで起源主張はしないよな
そういう創作話よりもこの15年ほどの考古学の成果に応じて全国の阿曇研究会は中央高地への進出に興味を持って研究してるだろ >>81,94
だいぶ貴重な史料のようだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E6%84%9A%E7%AB%A5%E8%A8%93
>八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)は、鎌倉時代中期・後期に成立したとされている八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起である[1][2][3]。
>略
>元寇(文永の役、弘安の役)についての記録としても有名で、特に対馬・壱岐入寇について記された史料は他にないとされる[3]。 藤原不比等一派が記紀の神話を作る時に、近くにある島を中心として色々
創作しただけなんじゃね? 伊勢神宮とかもひょっとしたら記紀の時に作ら
れた可能性もあったりして。 >>87
速吸門にある五色塚にしても西求女塚にしても歴史上先行安曇族である振魂系図の海人族のものと言われている
五色塚は明石国造で西求女塚の國香姫は可能性が高い
大阪湾型銅戈も彼らだろう >>78
神武即位の年代が嘘なのはほぼ衆目の一致するところだが、単純に時代をずらしただけでなく順番の入れ替えや重複もあるのか
そうなってくると>>75にも成立の余地が出てくるな >>87
そうじゃなくて、北部九州から瀬戸内海を東進してきた阿曇族が淡路島を統治していたんだよ
だから>>5に書かれているように北部九州の技術で作った鉄器がある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています