ネットに復活した「人身御供」

今年4月、東京・池袋で突然車が暴走して2人が死亡、9人が重軽傷を負った事故で書類送検された旧通産省・工業技術院の元院長、飯塚幸三容疑者(88)に対するバッシングが止まらない。

Twitterなどのソーシャルメディアを中心に、飯塚容疑者への憎悪が再び呼び起こされたのは、11月12日の書類送検前後からだ。

飯塚容疑者が11月9日にJNN(TBS系)の取材に対し、「安全な車を開発するようにメーカーの方に心がけていただき、高齢者が安心して運転できるような、外出できるような世の中になってほしい」と語ったことが火に油を注いだ。
自身の運転能力の問題を棚上げした言い訳にしか聞こえなかったからだ。

直後、〈飯塚幸三はほんとにゴミだな〉〈(アカウントが)凍結されてもいいから飯塚幸三は死ね〉など、Twitterのポリシー違反のリスクを冒してまで、飯塚氏を名指しして「死ね」と明確に書き込む者が次々と現れた。
これらの中には、数万単位でリツイート・いいねされるツイートもあった。

さらに激しい怒りを喚起したのは、テレビ東京の取材で「予約していたフレンチに遅れそうだった」という飯塚容疑者の警察に対する供述が明らかになったことだ。
「死刑じゃ軽すぎる」「ギロチンで処刑にしろ」など、つぶやきの内容もエスカレートした。

それはあたかも現代の電子空間に復活した「人身御供(ひとみごくう)」を想起させるとともに、近年顕著になりつつある「国民共通の『敵』に対する感情の発露」で社会の統合を図ろうとする動きの、最たる例ともいえた。

フランスの文芸批評家、ルネ・ジラールは、暴力と宗教に関する論考で「供犠(いけにえの儀式)の効果には共通点がある」と述べている。

〈それは内的暴力である。つまりそれは、軋轢であり、敵対関係であり、嫉妬であり、近隣者間の争いであって、供犠はそれらをただちに除去しようとするのである。供犠が修復するものは共同体の調和であり、供犠が強化するものは社会的統一性である〉(*1)

現代は、家族や地域社会などのソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の崩壊により、「万人の万人に対する闘争」(トマス・ホッブズ)のような状態に陥りやすくなっている。

わたしたちは「誰もが平等になると、それまで以上に小さな差異が気になる」という「平等のパラドックス」に囚われがちになり、「社会的つながりもなく、たんに隣り合って暮らすだけの人々からなる宇宙」でギスギスした生活を送り始めている(*2)。

そのような中で、「言葉による暴力」の対象となり感情の浄化をもたらす「国民共通の敵」=「パブリック・エネミー(公共敵)」の存在は、
前述の「万人の万人に対する闘争」状態を一時的に終わらせ、良くも悪くも「〈わたしたち〉という感覚(ナショナルなつながり)」に気付かせてくれる。

続きはソースで
2019.11.26
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68670