上野動物園(東京都台東区)の東園と西園を結ぶ移動施設として親しまれた東京都交通局の上野懸垂線(上野動物園モノレール)が、車両の老朽化に伴い10月31日限りで休止した。
車両の更新には膨大な費用がかかることから再開のメドは立っておらず、このまま廃止される可能性も高い。

上野動物園モノレールが開業したのは戦後の1957年12月。
これ以前にも遊園地や博覧会の乗り物としてモノレールが運行されたことはあるものの、地方鉄道法という鉄道法規に基づき営業運行を行うモノレールは、上野動物園が初めてだった。

このころ、東京都は路面電車に代わる都心部の交通機関としてモノレールの整備を考え、日本車輌製造と共同でゴムタイヤの懸垂式モノレールを開発。
実証実験的な営業運転を行うため、上野動物園内にモノレールを整備した。
しかし、都心部は地下鉄の整備が中心になり、東京都が開発したモノレールも上野動物園モノレール以外の路線で採用されることはなかった。

■上野公園を南北に縦断

実は戦前にも、上野にモノレールを整備する動きはあった。
その名は「上野懸垂電車」。上野動物園モノレールと同様、軌道桁にぶら下がって走る懸垂式モノレールの計画だった。

国立公文書館が所蔵する上野懸垂電車の申請書類などによると、地方鉄道法に基づく免許(営業許可)の申請があったのは、昭和初期の1928年11月2日。
上野―動物園間の全長845mに複線のモノレールを整備し、5年間の期間限定で運行するものとしていた。
申請書には「動物園其他参観者ノ交通利便ヲ計リ且ツ学生児童等ノ懸垂電車ノ科学的研究資料ニ供シ」とあるから、事実上の実証実験路線として短期間だけ運行するつもりだったのだろう。

駅の数や位置は正確には不明だ。国立公文書館所蔵の図面によれば、起点の上野駅は現在の京成上野駅付近に設置。
ここから上野公園内を北上するルートで清水観音堂や現在の上野動物園表門付近などに駅を設置し、
動物園の旧正門付近に終点の動物園駅を設置する計画だったらしい。空中と地下の違いはあるものの、現在の京成本線のルートとほぼ同じだ。

国立公文書館には線路や車両の構造を示す図面も残されている。それを見る限りでは、I字型の軌道桁の下辺に車輪を置いて、車体をぶら下げる方式。
車体の寸法はかなり小さく、現在の路面電車よりさらに小さい感じだ。

しかし、東京市(現在の東京都)は上野公園内の景観を損ない、交通機関としての効果も期待できないとして計画に反対。国は1929年5月17日付で却下してしまった。

■図面になぜか「渋谷」「井ノ頭」の地名

ところで、国立公文書館に残されている上野懸垂電車の文書には、不思議な図が2つ描かれていた。
1つは停車場(駅)の断面図。
ここには「神宮橋停留場」「渋谷行のりば」「井ノ頭方面のりば」という文字が記されている。
このうち「神宮橋」は、原宿駅付近にある山手線をまたぐ陸橋と思われ、渋谷―神宮橋―井ノ頭方面なら現在の京王井の頭線に近いルートになるはず。上野からは大きく外れる。

もう1つの図は「省線ヲ横断スル場合ノ図」。「省線」とは当時の鉄道省が運営していた鉄道路線(国鉄線)のことで、いまのJR線と立体交差する部分の図面になる。
しかし、上野懸垂電車のルートには省線と立体交差する部分がない。ただ、渋谷から山手線の内側に沿って北上し、神宮橋付近で西に向きを変えて井ノ頭方面に向かうルートなら、当時省線だった山手線をまたぐことになる。

日本では1910年代以降、海外のモノレールの事例を知った起業家らが各地でモノレールの計画を相次いで申請。
しかし、当時の日本ではモノレールの実績がなかったことなどから、ほぼすべて却下処分となった(2016年2月10日付「戦前にも練られていた『蒲蒲線』構想の全貌」)。
上野懸垂電車の発起人グループのひとりだった有吉喜兵衛も、これ以前に神奈川県内でモノレールを計画して申請したが、いずれも却下されていた。

筆者の推測だが、上野懸垂電車の発起人グループは、もともと渋谷―井ノ頭間のモノレールを申請しようと申請書や図面の制作を進めていたのではないだろうか。
しかし、このまま申請しても過去の申請と同様に却下される可能性が高いと考え直し、期間限定の短距離路線を建設する方針に転換。最初に制作した図面を流用し、上野懸垂電車の申請を行ったと思われる。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191212-00318790-toyo-bus_all&;p=2
12/12(木) 5:00配信

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