地下鉄サリン25年 オウムとの闘い後世へ 旧上九一色村の住人ら「監視日誌」保存
2020年3月18日 夕刊
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/202003/CK2020031802000276.html


 十三人が死亡、六千人以上が重軽傷を負った地下鉄サリン事件から二十日で二十五年。オウム真理教の拠点施設「サティアン」があった山梨県旧上九一色(かみくいしき)村(現甲府市・富士河口湖町)で、住民が教団との闘争の歴史を保存しようと動き始めている。
教団対策委員長を務めた江川透さん(83)は「地下鉄サリン事件を起こしたオウムが確かにこの地にいたという事実を残したい。闘いの軌跡や止められなかった反省もひっくるめて」と思いを語る。 (奥村圭吾)

 平成三(一九九一)年七月十三日、天候はれ 14・55 ベンツ来て事務所のところまでバックする。麻原か?

 対策委のメンバー二十人が、同年から一年数カ月にわたり二十四時間態勢で記録した「監視日誌」。茶色い染みが付いたファイルが過ぎた年月を物語る。

 教団が高さ約三メートルの鉄壁の奥でサティアン建設を進める中、住民は高台のプレハブ小屋から見張った。江川さんは稼業の酪農で夜間に牛の搾乳をする妻と昼夜交代で監視に当たった。

 監視活動に教団以外からも「宗教弾圧じゃないか」との批判もあったが、抗議や工事の差し止め訴訟を続け、「危険な集団」の暴走を止めようと闘った。

 九五年三月二十日、自宅で地下鉄サリン事件のニュースを見た時、「オウムがやったな」と直感した。サリンは過去に異臭騒ぎが起きた「第七サティアン」辺りで製造したと思った。残念ながらその通りだった。

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山梨県旧上九一色村にあったオウム真理教の施設=1995年3月27日、本社ヘリ「わかづる」から

 教団との闘いの記録を残そうと、江川さんらは今月、地元の公民館の一室に雑然と置かれていた監視日誌や第七サティアンにあったガスマスク、ホーリーネーム(信者の教団内の名前)が書かれたヘルメットなど千点以上を、新たに購入した専用ロッカーに保管した。今後、資料に目録を付けて管理する。

 資料の大半は教団が破産した九六年以降、破産管財人から譲り受けた。一時は処分を検討したが、教団幹部に死刑が執行された二〇一八年七月以降、事件の風化が進む状況に危機感を覚え、保存へとかじを切った。

 地下鉄サリン事件からもうすぐ四半世紀。富士山麓に広がる旧上九一色村にはのどかな空気が流れ、教団がいた当時の面影はない。「教団さえいなければ、もっと酪農や観光で栄えた。無駄に時が失われた」と江川さんはつぶやき、こう訴えた。「まだ後継団体の信者は残っている。二度と同じような事件を繰り返させてはだめだ」

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<旧上九一色村とオウム真理教> 山梨県旧上九一色村(現甲府市・富士河口湖町)では、1989(平成元)年からオウム真理教が教団施設「サティアン」の建設を開始。第1〜第12サティアンや医療棟、礼拝堂など30棟以上で信者らが共同生活や修行をした。
94年の松本サリン事件や95年の地下鉄サリン事件で使用されたサリンは、第7サティアンがあった「第3上九」と呼ばれる地域で実験、製造。
同3月、警視庁が強制捜査に入り、多数の幹部らを逮捕。同5月、第6サティアン内の隠し部屋に潜んでいた元代表の麻原彰晃(しょうこう)元死刑囚=執行時(63)、本名・松本智津夫(ちづお)=を逮捕した。98年までに全てのサティアンが閉鎖され、取り壊された。