【歴史】明智光秀も…「討ち死に」ばかりじゃない 武士の残念な死にざま ★2 [首都圏の虎★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
鎌倉時代から明治維新までの約700年間、時代の主役は「武士」だった。
武士は戦で戦うもの。けれど、武士たちが皆、戦場で討ち死にをしたわけではない。その死に方はさまざまで、「残念な死に方」をした武士たちも多くいたのだ。
『残念な死に方事典』(小和田哲男監修、ワニブックス刊)は、織田信長、明智光秀、坂本龍馬、沖田総司など、鎌倉時代から幕末までに登場する武士の死に方をイラストを交えながら紹介する。
大河ドラマ『麒麟がくる』(NHK)で話題の主人公・明智光秀。本能寺の変で織田信長を討った光秀の最期はどうだったのか。
本能寺で信長を討ち取って京を制圧し、天下人になるはずだったが、ここで誤算が起きる。本能寺の変を正当化するために毛利方に宛てて送った密書が毛利に届かず、備中高松城の戦いに挑んでいた羽柴秀吉の手に渡ってしまったのだ。さらに平定したはずの京では、反旗を翻した光秀こそが謀反人であるという主張も出て混乱。中国攻めの最中の秀吉は毛利と和睦を結び、光秀を討つために全ての軍を姫路へ引き返して来てしまう。
本能寺の変から11日後、天王山の麓である山崎で、光秀軍と秀吉軍の戦いが始まる。秀吉軍は4万近くに対し、光秀軍は1万余り。戦いが始まると、勝負がつくのは早かった。
光秀軍の主戦力である斎藤利三隊とその3千の兵が崩壊すると、秀吉軍が戦局を一気に掌握。光秀は敗走するしか術がなく、数名の家臣と共に坂本城へ向かう途中、農民による落武者狩りに遭い、山野で野垂れ死んでしまう。信長を討って天下人となって11日、あまりに短いその治世は「三日天下」と呼ばれる。
◇
本書では光秀のほかにも、多くの武士が登場する。戦国大名から乞食になり、浜に捨て去られた伊藤義祐。冷水を浴びて月にお祈りして勝利を願おうと、冷水を浴び続けて倒れた戦国時代の大大名・尼子晴久。信長に逆らい、日本で最初に爆死したという説がある戦国武将・松永久秀。石山本願寺攻略に手間取ったため追放の憂き目に遭い、体調を崩して湯治をする際、足を滑らせて転落死した信長の重臣・佐久間信盛などなど「残念な死に方」のオンパレードである。どうにもかっこう悪く、おおいにまぬけな死にざまの数々は、武士といえども私たちと同じ人間なのだという、当たり前の事実に気づかせてくれ、彼らへの親近感がわいてくる。
また、本書に登場する武士たちの思いもよらぬ最期を知ると、人生いつ何が起こるかわからないことを実感させられもする。武士たちの死生観を通じて、生死について改めて考えるきっかけとなるかもしれない。
(T.N/新刊JP編集部)
2020.05.02 15:00
https://biz-journal.jp/2020/05/post_154624.html
https://biz-journal.jp/wp-content/uploads/2020/04/200502bk.jpg
★1 2020/05/03(日) 18:31:16.10
前スレ
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1588498276/ ▼吉田定房(公卿、14世紀)
『赤ん坊級に弱い関西人が一騎当千の鎌倉武士に勝つなんて無理ゲー』
▼人国記(戦国時代の地誌、16世紀)
『関西侍は弱兵、卑劣、欲心深く、狐が服を着てるだけ』
▼武田信玄(戦国最強の将、16世紀)
『関西人は義理も作法も知らず、自分さえ助かればどんな卑怯もする』
▼甲陽軍鑑(甲斐武田の軍学書、17世紀)
『関西侍どもはあまりにも弱すぎる。そこいらの町人レベル』
▼雑兵物語(江戸時代の兵法書、17世紀)
『関西侍は馬にも乗れねえ屁っぴりだんべい』
▼葉隠(佐賀鍋島藩の武士道書、18世紀)
『関西侍は卑怯者だらけ。真似するなよ』
▼薩摩兵(西南戦争の頃、19世紀)
『またも負けたか八連隊(=大阪兵)、それでは勲章くれんたい(=京都兵)』
▼北九州久留米兵(ラングーンの兵站病院、20世紀)
『またも負けたか安兵団(=京都兵)』
▼湯川秀樹(京都大学名誉教授)
『日本では関西が弱くてね。東から北へ行くほど強いんです。わたしたちの住んでいるこのへんが一番弱いんですね(笑)』
▼古瀬正行さん(久留米第18師団)
『大阪とか京都の兵隊は途中で会ったけどその場でビンタですよ。「こん、ばかたれが」っていうような状態だったですからね、うん』
▼司馬遼太郎(大阪府出身・作家)
『大阪兵は日本最弱。上方者が兵にむかないのは当然なこと』
▼樋口清之(奈良県出身・考古学者)
『平安末期の関西人は、本当に男でも女のような体質ですね。肉体的鍛錬をしませんと関節が小さいんです』
▼清河八郎(山形県出身の幕末志士)
『京・大坂は人にへつらうばかりで意気が上がらず、東方男子の風と異なる』
▼杉浦明平(愛知県出身の作家)
『本当に京都は酷いですねえ。部落差別なんかでも、やっぱり今でもあそこは根拠地みたいなところがある』
▼井上満郎(京都産業大学教授)
『秦氏というのは新羅を母国といたしまして、五世紀の後半に日本列島に渡来してまいります。そしてこの京都に住みつきます』 >>93
輝宗の場合討ち死にって言うんか・・・むしろ味方に撃たれたって話だが
准有名どころだと足利義輝・上杉朝定・陶晴房・龍造寺隆信・長宗我部信親・高橋紹運・鬼庭左月斎あたりかな
意外と死なないよねさすがに大名クラスは >>51
風呂場では、管領の細川政元もだな
時代は違うが源義朝も 下総千葉氏29代当主の千葉邦胤の最期
元旦、新年の祝賀で家臣一同集まっていた
↓
食事の配膳係だった万五郎が大きな屁を2発かます
↓
邦胤は烈火のごとく怒る
↓
万五郎の言い訳に邦胤ガチギレ!万
五郎を蹴っ飛ばし斬り殺そうとする
↓
周りの重臣たちがたしなめその場は収まる。万五郎登城禁止
↓
その後登城を赦された万五郎は5月のある夜邦胤の寝所を襲撃。深々と2度刺された邦胤は絶命
元旦の恨みの他に、邦胤と万五郎は衆道関係で、他の男に手を出した邦胤に万五郎が怒ったという説もある
邦胤の死で千葉宗家(馬加氏系)は滅亡 >>105
風呂場で殺され過ぎだよな
まぁ丸腰は確実なんだろうけど、どんだけ警戒してんだよっていう >>73
「せめて御大将だけでもお食事を!」
「部下が飯を食えんのに俺だけ食えるか!(卓袱台返し」 >>69
伊東は日向の大名だが、大友宗麟に服従していた
(当時の宮崎県熊本県あたりの地方領主はみんな、大友と島津の間でコウモリ外交をしていて、伊東もそうだった)
伊東マンショのパトロンは大友宗麟。
マンショが帰国したとき、伊東家本家は滅亡して
従兄弟が島津に服属して存続していたが
マンショは従兄弟の元に戻らずに隠れ宣教師として生涯を送った。 いたずらしようとして身罷った天皇もいるでござるから(´・ω・`)きゃわ >>96
僕は謙信に会った事が無いんで受け売りだが、
BSP「偉人達の健康診断」という番組の
「謙信」の回で、謙信に関する文献・記録を調査した結果、お医者さん達が導き出した死因が>>87だった。 >>103
重臣クラスいれるなら甲斐武田にいっぱいいる
信玄時代も勝頼時代も 京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」
『吉田定房奏状』
「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんやwwwww」 >>95
せやで
でも福島正則は酔っ払って部下を手討ちにしといて
酔いが醒めた後に猛烈に後悔するような人だから
ちょっと有りそうかなって >>65
金吾は再評価してやって欲しい。朝鮮出兵の時は17歳で関ヶ原の戦いの時は19歳だぜ。 そういや大内義隆と陶晴賢も衆道関係あったと言われてるよね
謀反時はあったかどうか知らんけど >>1
落ち武者狩りにあって農民に身ぐるみはがされ惨殺された >>101 『宵越しの金はもたない』ってのは有名な表現。これ東京人。つまりヤセ我慢の文化。
一方関西人は、良く言えば、合理主義。
戦場でスタコラサッサの西の兵を語る時、根源的な価値観の問題を考察してみる必要はある。 >>98
伊達政宗は、若い頃に母親から毒を盛られて殺され掛けたことがある。
理由は、母親が政宗の弟を当主に推してたから。
戦国の世の常とはいえ、トラウマになったと思うよ。 忠臣蔵で襲撃された吉良上野介は蔵に隠れていたところを発見されたが
天下分け目の合戦で敗北した管領の細川高国も土倉に隠れてるところ発見されてるよね >>119
二代目片倉小十郎を追っかけ回したのはちょっと… 神保相茂と内ヶ島氏理
というか悪趣味なタイトルだな。 農民の一部は盗賊もしてたから東海地方の
農家の蔵からモノホンの国宝級の宝が出てくるわけです。 鯛の天ぷら食って脱糞した挙げ句に真田幸村に銃撃されて死んだ徳川家康w みんな切腹とかしたくないからね
結構残念というか悲惨な死に方した奴は多い 高野長英の最期とかも嫌だな。家を捨て、武士の身分を捨て、婚約者を捨て、ひたすら蘭学
の道を歩んでいたのに蛮社の獄で投獄。脱獄に成功してやれ宇和島だ奥州だと逃げ回って、
最後は江戸に潜伏していたところを役人に察知され、ぼこぼこのふるぼっこ死。 最も可哀そうな最期をとげたのは木戸孝允(桂小五郎)だよ。
明治の元勲と担がれたのはほんの一時で、すぐに中央政界から排除され引きこもる。
元芸者の妻幾松は若い役者と浮気を繰り返し、精神的に追い詰め詰められた木戸は、
伊藤博文に対する恨みつらみを日記に記しつつ鬱病をこじらせ悶死。
池田屋で新選組に斬られてたら英雄になれたのにね。 天王山の戦いの後、光秀は比叡山に逃げて僧侶となり家康と合流、
のちに天海と名乗って初期の徳川幕府を支えましたとさ 汚い部分を忠実に再現すると戦ドラマなんて作れない
ある意味ゲームの方が忠実だ 武士
ぶし ×
たけし 〇
また皆さん一つ頭良くなったw >忠臣蔵で襲撃された吉良上野介は蔵に隠れていたところを発見された
武林により切り殺された吉良の死体を倉のなかにある状態で皆が発見した(ドラマや映画は捏造)
因みに堀部安兵衛は忠臣蔵で一人も殺していない
これは高田馬場がマグレだったのではなく
わざと遺恨のない相手を殺したくなかった
と日記に書いてある(討ち入り前の記述と討ち入り後の聞き取り) >>143
輝宗「吾輩は武将である。名前はまだない」 この間読んだ本で
道三や宇喜多みたいに謀略と暗殺で勢力きづいた人は残虐みたいに言われるけど
戦でぶん取るよりよっぽど人死に少ないとあってなるほどと思った 人望なさすぎて部下に敗死したこと気づかれなかった大浦政信。 >>123
その手の母親に疎んじられた伝説は弟を殺しの正当化のためにできたストーリーに思えなくもない >>83
長野県の野尻湖で船遊び中に長尾政景と一緒に溺死。
しかし実在した人物かどうかは、よく分かっていない。 >>136
「はっ!」
「それで帰蝶殿はなんと?」
「はっ!」 >>74
竹製(諸説あり)ノコギリで首をギーコギーコ
だもんね カッコいい最期
真田信繁
織田信長
カッコ悪い最期
豊臣秀吉
徳川家康
武士に生まれたからには、戦場で散ってこそ本望。 菊丸は遊女や町娘達の無限のフミ矢で抹殺されるんだろ? >>135
デマっつーか小田原への遅参の言い訳だな そういや悪運強すぎて中々死なない奴とかもたまにいるんだよなあ。例えば勝海舟の場合
犬に急所を噛まれても死なない、刺客に20十数回襲撃されても死なない、船が転覆しかかっても
結局生きのびる、博多がどこかで攘夷派に外国人と間違われて一斉射撃を受けても死なない。
江戸で20十万人死んだコレラに感染しても結局死なない。勝海舟ってのは本当は生身の人間じゃ
ないんだろw 松永の爆死が本当だとすると残念どころかカッコいい死に方でしかないよな
記者の中の基準では残念なのか? >>38
鬼庭良直が入ってて安心した
日本史上二番目にカッコいいジジイ武将の死にざま
トップは斎藤実盛な >>163
普通の病死ならカッコいいも悪いもないよね
宇喜多直家は同じ病死でもケツから血だしまくった上に死ぬ直前に、家臣に俺が死んだら殉死してくれるかと尋ねたら無下に断られて死んでるんでかなり残念
暗殺しまくってた報いなのか >>149
弟も死んだ事にして、
こっそり出家させ関東の寺に潜伏させたんだっけ。
7代末の勘当扱いになったのも、
秘密保持の可能性がある。 >>158
戦場で死ぬってことは負けたってことだからなぁ
戦場で死んだ勝者はなかなかいないだろう
カッコいい敗者もそんなにいない 可哀そうな死に方といえば徳川12代将軍とかの場合、ペリーの「次は一年後に来るから
その時までに返事用意しておけ、その返答如何によっては江戸が火の海になるからそのつもり
でいろ」という恫喝で悶絶。ペリーが去ってから数日とたたないうちに死亡。最後の言葉は
「青鬼が見える恐ろしいのう」とかだったかな? >>171
自分が討ち死にすることで関ケ原での徳川の勝利につなげた鳥居さん >>131
高野長英を取り上げるなら、渡辺崋山も是非
数年後鳥居耀蔵が失脚するとはねまでセットで そういや高野長英に関しては娘も悲惨なんだよな。罪人の娘ということでさんざん差別を
受け、親族によって吉原に売りとばされて、大地震がおきて土蔵かどこかに閉じ込められて
いたため逃げるすべなく圧死したらしい。 >>174
鳥居耀蔵は明治まで生き延びて、
恩赦で謹慎とけ家族に看取られ大往生という。 >>174
渡辺華山は別に残念な死に方でもあるまい。きっちり腹切ってるしな
隠れてやってりゃいいものを男気出して別に見つかってもいいやと幕政批判の文章書いての死だしなんら恥じるとこはない
高野長英も同じく
同時期のみっともない死ってことなら平賀源内一択 >>8
>>103
平国香
平将門
木曾義仲
畠山重忠
和田義盛
大内義弘
斎藤道三
尼子政久
斎藤龍興
島左近
板倉重昌
天草四郎
キュロス大王
レオニダス1世
スパルタカス
孺子嬰
華雄
顔良
文醜
孫堅
夏侯淵
諸葛誕
鍾会
テオドリック1世
王仙芝
ハロルド2世
リチャード1世獅子心王
陳友諒
リチャード3世
グスタフ2世アドルフ
フェルディナンド・マゼラン
ダルタニャン
ホレーショ・ネルソン
チャールズ・ゴードン >>130
源頼家とかな
しかも実の母の命令で、しかもチン〇ちょんぱ 板垣信方もアレな死に方してるよな
信玄が神格化されたおかげで助かってる なんのかんので征夷大将軍やってた源氏の頭領さんを忘れるなって感じだけどな >>171
ネルソン提督
グスタフ・アドルフ
レオニダス1世 大坂の陣でも徳川軍12万で豊臣方を全滅させた
とか言われてるが
本当にそうだったの? そんな大軍統率とれるのか?
全滅させるにしても、爆弾も使わずに刀と槍、鉄砲だけで
数日でそんなにできるの? なんか現実離れしてる >>184
第一次三頭政治のクラッスス(映画スパルタカスの悪役)→パルティア遠征で捕虜になり、溶かした金を口に注がれて殺された 斎藤龍興は逃げて別人化して生存説があるんだね
光秀だって生存してたと思うがなあ
山奥に逃げれば当時ならほぼ完全に隠れられる
菊丸が最後に手引きするんじゃね あんまりよくわからんけど
戦場で腕切られたとかよくあったと思うけど
生き延びる奴もいるけど
とうぜん病院もなく復元もできないだろうし
そういう人はずっと腕なしで人生過ごしてたの?
宮本武蔵に勝負挑まれて両腕切られた剣の達人とかいたと思うけど
そういうのってその後の人生どうやって過ごしてたの? >>192
冬の陣で大砲使って、淀君をビビらせて和解させたことを知らんのか? 武人は死して名を残し
庶民は死して風になる
どちらも死して風になりは
七人の侍の人生観だ
黒沢は名を残したがね >>178
鳥居耀蔵は医学の知識があったみたいなのに己の資質を無視して権力の犬化した残念さと
かつての憎まれぶりを考えると平穏な死すらダサいと思う
>>179
切腹に至った経緯の一つが渡辺崋山の困窮を見かねての善意ある助言で
善意で舗装された地獄への道を歩まざるを得なかった袋小路の果てというのが
溢れた才能を持つ人に相応しくない、残念な死に方だと思う
武士=切腹が美しい死という価値観はあるからこそ、死に際が見苦しければ残念臭が漂うし
同時に天賦の才能を活かしきれなかった、環境によって殺されてしまうことも
残念だと思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています