【歴史】鎌倉幕府は、なぜ滅亡したのか?〜「引き金」となった後醍醐天皇の常識外れ [首都圏の虎★]
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本日5月22日は旧暦で鎌倉幕府が滅亡した日。そこで、同書の一部を抜粋編集し、なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのかを紹介する。
北条氏得宗の専制政治
山川出版社の高校教科書『詳説日本史』で鎌倉幕府が倒れた原因としてあげられているのは、次の三点です。
1)蒙古襲来で、御家人たちは多大な犠牲を払って奮闘したにもかかわらず、十分な恩賞を与えられず、幕府への信頼を失った。
2)御家人たちは、分割相続の繰り返しで所領が細分化し、貨幣経済の発展に巻き込まれて、窮乏していった。
3)畿内やその周辺で、「悪党」と呼ばれる新興武士が、荘園領主に抵抗するようになった。このような動揺を鎮めるため、北条氏得宗家の専制政治が強化されたが、それがますます御家人の不満をつのらせ
この中でもっとも重視されているのが、「得宗専制」と呼ばれる当時の政治状況でしょう。最後の執権となる北条高時の時代、得宗の家人の第一人者である「内管領」長崎高資が権勢を振るいます。これが御家人の反発を生み、倒幕運動が起こったということになります。
鎌倉幕府が倒れた背景には、ここであげたような歴史状況があったことは確かです。しかし、実際に倒幕の核となる存在が現れないと、なかなか倒幕などできることではありません。そこで登場したのが、後醍醐天皇です。
後醍醐天皇の権力掌握の野望
当時、天皇家では、後嵯峨天皇の子の代に、またしても皇位継承の争いが起こっていました。詳しい説明は省きますが、後嵯峨の死後、後深草上皇の皇統と、亀山天皇の皇統が並立し、幕府の調停でそれぞれの皇統が交代で皇位に就く両統迭立という方式がとられていました。
後深草の皇統は、院御所の持明院殿に住んだので持明院統と呼ばれ、亀山の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住んだので大覚寺統と呼ばれます。
両統迭立は、スムーズに実現していたわけではなく、両統が幕府に積極的に働きかけ、できるだけ自分に都合のよい結果を得ようとしていました。
亀山の後、同じ大覚寺統の後宇多が天皇になり、その後、伏見、後伏見という持明院統の天皇が続きます。後伏見の後は、大覚寺統の後二条が天皇となり、次は持明院統の花園が天皇となります。そして、その次の天皇が大覚寺統の後醍醐です。
しかし、大覚寺統では後二条が直系と見なされており、後醍醐は中継ぎの天皇にすぎません。そのため、皇太子には後二条の皇子である邦良親王が立てられ、後醍醐は、退位した後は後宇多から譲られた所領をすべて邦良に譲り、後醍醐の子どもたちも邦良に仕えることにされていました。
大覚寺統で皇統が続くわけですから、当然、持明院統は抵抗しました。しかし、邦良の後は持明院統の後伏見の皇子、量仁親王が立つということで、妥協したのです。
ところが、後宇多法皇が没すると、風向きが変わってきます。祖父後宇多の後ろ盾を失った邦良側は、後醍醐に早く譲位してもらって皇位を確保したいと考え、持明院統も、邦良が即位すれば量仁が皇太子になるので後醍醐の譲位を望みます。後醍醐は、大覚寺統からも持明院統からも攻撃される立場になりました。
もし後醍醐が直系の天皇であれば、譲位して院政を敷くこともできます。しかし、後醍醐にその選択肢はなく、自らの皇統を続けていこうとすれば、あくまで皇位にとどまるしかありません。その最大の障壁が、両統迭立を支持する幕府だったのです。
そこで、後醍醐は、腹心の公家、日野資朝・俊基らに各地の武士を勧誘させます。しかし、これは京都の幕府の出先機関である六波羅探題に察知され、資朝らはとらえられます。これが正中の変です。
正中3年(1326)、邦良が没すると、後醍醐は皇子の世良親王を皇太子にしようとしますが、持明院統の巻き返しによって量仁が皇太子になります。
後醍醐は、皇子の尊雲法親王(後の護良親王)を天台座主(天台宗の総本山・比叡山延暦寺の住職)とし、僧兵勢力を頼ろうとします。こうした動きに危機感を持った大覚寺統側の腹心、吉田定房は、後醍醐の動きを幕府に密告します。これは理解できるところです。後醍醐が無謀な挙兵をすれば、大覚寺統そのものが倒れてしまうことにもなりかねないからです。定房は、それに恐怖感を持ったのでしょう。
全文はソース元で
5/22(金) 12:11配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/f045c07d0de5b94e29c6839e77aa557fa22f5e50
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200522-00010000-php_r-000-1-view.jpg 信長も元を辿ると平氏氏族だったりする
統一直前でやられて最後源氏系(家康)に持ってかれた当たりが
清盛と一緒で持ってないなとw >>103
何処が?
政子ちゃんの頭の中では、後継者は足利氏だ
大頼朝が所有していた源氏の宝刀(源氏の宝刀はいくつかあったらしい)は、政子ちゃんから足利義氏に譲られいる
最終的には、三河県西尾市の御剣神社の納められた
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)であり
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) >>99
後醍醐天皇はリアルランボーの巨ちんで
楠木正成とかいうハンニバルとくんでたから負けた この時代なんかコアすぎて好きじゃないと付いていけないだろ
現代の方が余程奇々怪々だが 新田義貞ってなんで有名じゃないの?
この人が鎌倉幕府滅亡させたんだろ 後醍醐天皇は結果を見ると統治の基本的な部分が何にも解っていない人だったオチだよな
妙に持ち上げられて偉人扱いされているけど 室町幕府の唐物基地外見れば支那の市場経済の影響は明らかだな。
南北朝の争いも北朝の農本主義と南朝の貨幣経済派の主導権争いだし、
その後の信長統一
明治維新
第二次世界大戦
いつの時代も争う原因は経済秩序の再編成 >>108
織田氏はいちおう清盛子孫称してる
江戸時代の系図によると >>112
いや、割と簡単だと思う
武士のトップがほしいから殺し合いを続けてた
でも結局泥沼化して足利時代でもまだ殺し合いを続け、
結局信長が中枢にいたほぼ全員駆逐するまで続いた >>113
名家に生まれただけのラッキーマンの一発屋だから
だけど忠誠心だけは高い
そこがいまの政治家とは似てるようで違う >>121
尊氏がなぁ
みんなで力を合わせて勝つタイプの主人公だったせいだよな
粛清して仲間の力を削がないから足利本家の力はそこまででもなく
力を持った仲間が多すぎた
そいつらがいちいち従わないからそりゃあ収まらねーわ 昔は源氏だと天皇を意味する御所様と呼ばれたりする
平氏も天皇の子孫なのに源氏だけ特別扱い >>102
戦後に「ムクリコクリ」が流行ったというのは恐怖からだろう
戦地は、専守防衛で日本の北九州だったので、勝利とはいうものの戦地は日本だし、
防衛戦で田植えもおろそかにしてたろうから、得るものなく与えられるものも無く、生産力や人口は打撃を受けただけ
不満が膨らんでいく過程に入った感じじゃないかな
しかも奮戦した急襲侍が没落したあとに得宗専制で九州の守護職を軒並み北条一門にしている
足利尊氏に九州武士が味方しても致し方なし、でも北条氏もそう言われても困ったろうけど
銭の発行する能力が無く、富裕なら銭の備蓄で凌ぐということが成り立たなかっただろうと思う >>116
たしかに
強かったけど節操無かったからね
木曽義仲・陶隆房的なタイプ 北条ぶっ倒して室町じゃ将軍から守護まで源氏で独占してんな。
鎌倉時代はなんで源氏連中は大人しかったんやろ なるほど、鎌倉後期から日本が核家族から直系家族へ移行し始めたわけか。移行期の室町時代が揉めまくったのも納得だなw
現代なら超少子化で解消しそうだけど。 >>128
頼朝超恐いからなあ
身内だろうと裏切れば絶対に赦さん人だから
力が集中してた >>55
戦国時代までは集住が進んでないから首邑といってもせいぜい数万レベルだからな
安土は灰燼に帰したから仕方ないとして、大坂、江戸と、集住によって飛躍的に都市が大きくなった
生産しない人間が集まった巨大消費都市の誕生で、経済もものすごく発展した 湊川の戦いに至る経緯もそうだし、保元の乱も確かそうだったと思うけれど、公家が
軍事作戦に容喙して武家がそれに押し切られると負けフラグが立つよね…。
まあ日本史全体では「瀬田の唐橋を落として戦えば絶対勝てる!」に勝るフラグは無い
かもしれんが。
あれなんか「戦争が終わったら結婚するんだ!」レベルの威力があるように思える 織田は物部氏とか藤原氏説が強い
徳川は征夷大将軍になる為の詐称であり決して源氏では無かった
源平合戦は足利尊氏で消息
ほぼバラバラになった平氏の落人は東北地方でひっそりと百姓になった >>122
新田は上野に土着した源氏としては本来主流の方だったが、
頼朝への加勢に日和見して、そもそも独立性が高いから、一度滅んだ義朝の子がどれほどのもんよと読み間違っても仕方ないとは思う
そして執権政治に入っても基本冷遇は続いた。
幕府が終わるころには、足利の方が格が上みたいな認識が世間に広がっていた。
そういうなにもかもに対する不満とかをご醍醐と言う兆しに投じたんじゃないかな?
勝手な憶測で合ってなんの史実でもないけども >>132
正成の最後は悲惨すぎるわ
数は足りないし戦い方限定させられるし
そんなもん勝てるかよと >>108
後の世でも光GENJIしか売れないしな 源頼茂も将軍狙ってたんかな?
平賀氏も足利氏も苗字を名乗らされたなか
源頼朝と源頼兼の子孫だけが源氏のまま
河内源氏の嫡流の源頼朝
摂津源氏の嫡流の源頼兼
これが鎌倉時代のブランド感覚だったが
後に足利氏が台頭してきた >>130
殺されるのみんなの総意ぽいな兄ちゃん怖す 後醍醐天皇は隠岐島から冬に脱出するくらいだから結構マッチョだよ。敵もその時期に戻って来るとは思わないよな。 >>37
これ面白いね
西側はむしろ鎌倉期に国宝建造が進んでるのは
なぜだろうかね >>123
高師直とか弟の足利直義に助けられた部分が大きかったからな
庶子の足利直冬をぞんざいに扱ったり、結構冷たいタイプ
でも御家人には大盤振る舞いしたから好かれた
が、それが災いして結局足利氏の地盤は脆いままだった
要は祭り上げられたトップの域を出られなかったのよね
太平記での佐々木道誉との関係は面白かったけど >>122
一発も実力のうちだw 鎌倉要塞と決死の北条本部武士団だから、六波羅落とすより絶対キツイ >>135
坊門なんちゃらだっけ、ドラマであくどい描かれ方をされてる人。
史実はどうあれ、あれには殺意を覚えますな そんな源氏最後の生き残りである武田も秀吉に滅ぼされ壊滅
源平は仲良く百姓になった
めでたしめでたし >>128
三河が独占すりゃ、結果的に源氏になって当たり前だろ
三河政権たる室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動 >>58
1185にしたいのは、今の教育が天皇とかに対して攻勢的な主義な人達の手にあるからだろう
源頼朝が後白河天皇からの官軍としての承認を独占する形で坂東武士たちの神輿として内側への権威として乗っかっていた
朝廷の武士勢力の均衡に乗るという在り方を突き崩す、勝手な奥州攻め以降揺らいでいた官軍を独占する立場に対して与えられていた承認による立場の正当性が揺らいでいた
征夷大将軍に任命されることで双方が和解したというシグナルとし外にも内にも機能しただろうし
名分として形式的上位からの承認が無くては成立しない、1185説の言いたいことは解るが、両方あって成立する名分を意図的に無視するのは教育というより政治的主張だろう
天皇が嫌なんだろうけど、それをスポイルする運動を歴史学に持ち込んだんだよ >>140
鎌倉時代の建物は新田の鎌倉攻めなど
後代の戦乱なども加わって燃えてしまったから >>144
秀吉が対武田戦に参加したのって長篠の戦いだけじゃね
武田殲滅軍は信長の息子の信忠が中心だった 鎌倉幕府の滅亡ほど壮絶なものはないよな
滅亡する寸前まで盤石にしか見えなかった政権がほとんど一瞬にして消滅して果てたんだから 北条高時がアホで遊び人だったから足利尊氏に裏切られて潰されたイメージ >>150
鎌倉カスターも一瞬で無くなるよね
多くてふた口ぐらいで喰っちゃう >>124
そりゃ源の方が平より格上だからな
源は天皇の息子が与えられるが平は孫だ 鎌倉幕府ってすごいよ
日本のトップは名目的に天皇で、天皇に代わって征夷大将軍が幕府を開いて政権運営してる
しかし鎌倉幕府ではその将軍も傀儡で、実際には北条家が世襲する執権が運営してた
しかし鎌倉幕府の後期になると北条家の家人である内管領が実力を付けてきて実権を握っていた
傀儡が何人いるんだよ!? >>1
なぜニュースでもないスレを立ててしまうのか? >>150
あとあの時代の忠誠心が凄い。東勝寺でかなりの人数自決してるのな。戦国なら大半逃げとるよw >>157
北条一族は裏切り者ほぼゼロだもんな
たいてい反主流派は寝返るもんだが、因縁のある名越すら裏切らなかった
まあ超優秀な一族だよな
それと比べたら足利はw >>155
責任所在のわかりづらさは現代に通づる物があると思う 平氏に共通するのは海
平氏は解散し百姓になるというよりは漁師となり各地に土着
源氏は野山だな 徳川みたいに諸大名を常に監視して嫌がらせしないと長く持たないわな >>163
家康は鎌倉室町の長所短所全部調べたでしょ。そしてあの盤石体制を思いついた。コレもまた大したもんだな >>25
それな
そのせいで豊臣も徳川もあくまで天皇から位を授けられて幕府を開いていた体になってしまったもんなー
何で公家衆もろとも天皇家を滅ぼさなかったのか理解に苦しむ >>10
鎌倉は山に囲まれてる分、都市としての発展に限界があるからな
まあ、12世紀ならアリだったのかな 平頼綱の家系は平資盛を祖と称するが、これは仮冒された系譜であるとされ、実際は
伊豆国の土人で古くからの北条家家臣の一族で得宗の執事(召使い)となる
おそらくは北条氏の私有畑ではたらいていた小作人であろう
北条さんの郎党でも、北条氏が強くなるにつれて、(実際は働かない)北条さんよりも
野良仕事や申次を請け負っていた伊豆国の土人のほうが金も権限もにぎるようになる
例えば北条義時は鎌倉を有する相模一国の守護、相模守を務めて幕府に優遇されていたが
三代将軍実朝に、「北条氏は特別なので、北条氏郎党を、侍に取り立ててほしい」と要求
これは北条義時の願いというよりも下からの突き上げ要求であろう
若い将軍は「郎党は武士ではない、郎党を御家人にするなど幕府の身分を壊すものだ」とはねつけてる
そのなかで平氏など身分を飾り、のしあがってきた
もともと郎党など、伊豆の平民以下の存在であろうが、こうして実力をつけてきた
全国の源氏平氏など9割はこのような私有畑ではたらいていた小作人 >>113
実は足利と太田の確執はこの時代から続いているわけよ
高崎と前橋の比じゃねぇんだよ
もう永遠に打ち解けねぇだろな
尊氏、足利来たことねぇんだけどなぁ・・・ >>159
足利のへっぽこっぷりはすごいからな
やや安定してたのは初代〜義持ぐらいまでで、
一貫して政権が安定しないというのは変わらなかった
尊氏なんて死ぬまで戦乱に明け暮れてたし 「目的に向かって限られた時間で効率を最大化する」
という発想があんまり無いのがデジタル化が進まない根本原因
終身雇用だから使用者はだらだら非効率な残業させてもいいし
従業員みんなメンツがあるから
自分が代替可能、果ては用無しにならないように
「俺がいないとこの会社は回らない」
って風に持っていく >>55
安土は地政学的に悪い選択ではないとは思う
平野がそこそこ広いし、琵琶湖を使った水上交通もできるし
土地が欲しかったら琵琶湖を埋め立てて造成できるし
運が悪かったな >>165
この流れみて、そんな事すると思うか?
三河の足利、三河の徳川共に、三河の先輩源頼朝の考えに沿って行動した
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 >>168
伊豆北条館のすぐ近くに長崎って集落がある
だから長崎氏は北条家の古くからの家人でしょ
ちなみに北条館の近くには江間って集落があってそこが江間義時、江間泰時の本来の本拠地
狭いところから鎌倉時代の支配者が出たもんだw >>167
鎌倉
駿府
関東平野
似てる地形が時代とともにでかくなるな 北条から旧領を受け継いで本拠を小田原にしなかったのは家康の凄さだと思うわ
鎌倉といい神奈川の限界を知っていたのかな ゴダイゴのメンバーが死んだのにこれか(´・ω・`) >>169
尊氏だけじゃないだろ
そもそも頼氏から下は、足利に行った事は一度もない
行動範囲は三河〜鎌倉
足利尊氏も三河で生まれた
徳川家康の生誕地から直線距離で約1.5キロしか離れていない
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 >>173
そりゃ家康は公家衆に賂をしまくって「我こそは由緒正しき源氏長者なり」と認めさせたけど、それじゃ源氏が天皇家に取って代わろうと思わなかったのが不思議でならんのよ
名実共に国王になればいいじゃん >>172
あそこは今からじゃわからんけてど当時は琵琶湖に接する城だったんよ
長浜、安土、坂本と琵琶湖に面する城で琵琶湖の水運を押さえた
当時の近江は80万石近い大穀倉地帯だし、琵琶湖の水運で中山道方面や日本海からの物資を京に輸送する当時の日本のチョークポイントだよ
そして東国から来る連中が西に向かう時に必ず通らなければならないポイントだから東国を平定するまでは極めて大事なポイントなんだ。
東国押さえたら西の大坂に移転して海外展開する予定だった >>115
今となっては立川真言流セックス密教の教祖的なイメージが付いちゃった >>170
初代から15代まで戦争続きだよ
路線が狂ったのは義持が勘合貿易やめて財政基盤失ったのと
義教が気紛れに家臣を討伐したり、相続問題に首突っ込んだあげく
謀殺されたあたり
義教は織田信長の先駆者みたいな再評価の向きもあるようだが、
やっぱりアホだと思う >>179
違う、部外者らしいな
吉良氏の威光が輝く地の方が統治しやすいだろう
三河から来たと言えば、吉良様の三河と恐れおののき臣従するだろうと
実際、無抵抗で三河の王に臣従した
有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
■平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡、三河県豊川市)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は三河県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
■室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
■戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖は源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼 家康はわざわざ一旦滅亡した北条氏規に大阪で1万石やって関東で蠢動するの防ぐようなことやってるからな >>182
だから、三河の先輩源頼朝に倣ってだろ
また、松平が日本一の親皇室の地にあった歴史も見逃せない
皇室が所有した最大面積の荘園は、三河国高橋荘、高橋新荘
松平郷に地の力があるのは流石は最大の皇室領と言うしかないわけだが
出自の悪い田舎者は見抜けず、何もない山の中に見えるらしいが
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる また三河キチガイが湧いてるのか
頼むからブログにでも書いておけ
リンク貼るだけでいいから 分断目的の朝鮮三河厨が湧くと歴史スレが臭くなる
さっさと北に帰って餓死しろよ >>159
伊勢新九郎は北条ちゃうで
しかし、権現様はマジで源氏名乗っておったのだろうか???
つ〜〜のはど〜〜もうちのご先祖様が東照宮に土地献上したらしいんだが
母方の家紋は平氏なんだよな・・・
そのあと一帯の庄屋になったらしいんだが<本家は
ま、うちは分家筋だったからそのさきのことはよくわからんのだけどね
>>165
それ将門のせいじゃね???
さすがに首になってまで飛び回るってどうよって思われていただろうからね
そりゃ天皇家立てておけば、それなりに浄土にいけるのならそのほうがいいだろ
ま、信長はもう一歩のところで及ばずってなっちゃったんだよな、光秀に感づかれて・・・
>>167
当事の鎌倉って、今の鎌倉のエリアじゃなくて、小田原あたりまでの一帯が鎌倉だから
あのごちゃごちゃしてるところに永田町があっただけだからな
その当事の江戸は大田道灌が城建てるまでずっと沼地だったからねぇ・・・
それこそ天然の要害だったんじゃね???
ま、それで安心しちゃって、新田を見くびっていたのかもしれないよね >>188
氏規は秀吉の時に大坂近辺に領地もらってる
7000石くらい
1万石になったのは氏規が死んで後継の息子が自分の領地と父親の領地足した結果 >>18
御内人は北条氏の家来、陪臣
江戸時代の旗本は将軍家直臣だから御家人だよ
長崎とか安東とかの御内人は大老井伊直弼の長野主膳や宇津木みたいなもんだ >>169
世良田に「足利麺」というラーメン店が。
戦争が勃発したのかと思った。 >>197
御内人の多くは御家人兼任だよ
将軍の家来であると同時に得宗の家来でもあるの >>194
鎌倉期、三河にいた藤原さんな
伊勢氏の出自については、徳川家康も周知していだろう
後北条氏(伊勢氏)の先祖、伊勢俊継
伊勢氏(藤原俊経→伊勢俊継(初代伊勢氏)→伊勢盛継→伊勢貞継)
■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は三河国滝山寺僧侶
・三河国滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・三河国滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■伊勢俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、三河国滝山寺に、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・天照大神のお告げで姓を伊勢に変える
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去
■円辰(****〜****):初代伊勢氏・伊勢俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・三河国滝山寺僧
・相模法橋
■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・伊勢俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・三河国滝山寺僧
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去 >>107
私もです
身近に共感者はいませんでした 義経が朝廷から官位をもらって、京都を中心に幕政を一気に
西日本一帯にも引いとけば、平家不在の空白地が恭順しただろに
頼朝の完全な判断ミスだよ。
頭わるかっただけな 令和は第126代天皇っていうけど
北朝の5代分の天皇はカウントされていないんだよな
南朝に正統性があるゆえに
今の天皇家は北朝の血統だけど
本来、令和天皇は血統を考慮して131代天皇っていうべきだろ >>183
ついでにいうと、焼き討ちにした比叡山の監視のためにあの地になったそうだ
ま、秀吉を長浜に、光秀を坂本に置いたのもよくわかる差配
はじめは公家衆を味方に入れるべくそっち方面に強い光秀を置いたのだろうな
そのうち、公家集たしたことね〜〜なっていうんで光秀を難癖つけて西方に飛ばして
結果叛旗を翻すことになったんだろ
同時期、武田、上杉の脅威も無くなって秀吉も西国討伐に向かっているわけだけど
田舎から田舎ならさほど苦にならねえけど、都会から土田舎に左遷させられちゃたまったもんじゃねぇからな
そりゃ逆恨みも出るし、成果が上がらなくても仕方ねぇよなぁ・・・ 法の支配という観点から北条泰時が作った御成敗式目は日本史における文明のターニングポイントの一つだじぇ
聖徳太子の十七条憲法 徳川吉宗の公事方御定書とともに重要なもんだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています