【歴史】鎌倉幕府は、なぜ滅亡したのか?〜「引き金」となった後醍醐天皇の常識外れ [首都圏の虎★]
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本日5月22日は旧暦で鎌倉幕府が滅亡した日。そこで、同書の一部を抜粋編集し、なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのかを紹介する。
北条氏得宗の専制政治
山川出版社の高校教科書『詳説日本史』で鎌倉幕府が倒れた原因としてあげられているのは、次の三点です。
1)蒙古襲来で、御家人たちは多大な犠牲を払って奮闘したにもかかわらず、十分な恩賞を与えられず、幕府への信頼を失った。
2)御家人たちは、分割相続の繰り返しで所領が細分化し、貨幣経済の発展に巻き込まれて、窮乏していった。
3)畿内やその周辺で、「悪党」と呼ばれる新興武士が、荘園領主に抵抗するようになった。このような動揺を鎮めるため、北条氏得宗家の専制政治が強化されたが、それがますます御家人の不満をつのらせ
この中でもっとも重視されているのが、「得宗専制」と呼ばれる当時の政治状況でしょう。最後の執権となる北条高時の時代、得宗の家人の第一人者である「内管領」長崎高資が権勢を振るいます。これが御家人の反発を生み、倒幕運動が起こったということになります。
鎌倉幕府が倒れた背景には、ここであげたような歴史状況があったことは確かです。しかし、実際に倒幕の核となる存在が現れないと、なかなか倒幕などできることではありません。そこで登場したのが、後醍醐天皇です。
後醍醐天皇の権力掌握の野望
当時、天皇家では、後嵯峨天皇の子の代に、またしても皇位継承の争いが起こっていました。詳しい説明は省きますが、後嵯峨の死後、後深草上皇の皇統と、亀山天皇の皇統が並立し、幕府の調停でそれぞれの皇統が交代で皇位に就く両統迭立という方式がとられていました。
後深草の皇統は、院御所の持明院殿に住んだので持明院統と呼ばれ、亀山の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住んだので大覚寺統と呼ばれます。
両統迭立は、スムーズに実現していたわけではなく、両統が幕府に積極的に働きかけ、できるだけ自分に都合のよい結果を得ようとしていました。
亀山の後、同じ大覚寺統の後宇多が天皇になり、その後、伏見、後伏見という持明院統の天皇が続きます。後伏見の後は、大覚寺統の後二条が天皇となり、次は持明院統の花園が天皇となります。そして、その次の天皇が大覚寺統の後醍醐です。
しかし、大覚寺統では後二条が直系と見なされており、後醍醐は中継ぎの天皇にすぎません。そのため、皇太子には後二条の皇子である邦良親王が立てられ、後醍醐は、退位した後は後宇多から譲られた所領をすべて邦良に譲り、後醍醐の子どもたちも邦良に仕えることにされていました。
大覚寺統で皇統が続くわけですから、当然、持明院統は抵抗しました。しかし、邦良の後は持明院統の後伏見の皇子、量仁親王が立つということで、妥協したのです。
ところが、後宇多法皇が没すると、風向きが変わってきます。祖父後宇多の後ろ盾を失った邦良側は、後醍醐に早く譲位してもらって皇位を確保したいと考え、持明院統も、邦良が即位すれば量仁が皇太子になるので後醍醐の譲位を望みます。後醍醐は、大覚寺統からも持明院統からも攻撃される立場になりました。
もし後醍醐が直系の天皇であれば、譲位して院政を敷くこともできます。しかし、後醍醐にその選択肢はなく、自らの皇統を続けていこうとすれば、あくまで皇位にとどまるしかありません。その最大の障壁が、両統迭立を支持する幕府だったのです。
そこで、後醍醐は、腹心の公家、日野資朝・俊基らに各地の武士を勧誘させます。しかし、これは京都の幕府の出先機関である六波羅探題に察知され、資朝らはとらえられます。これが正中の変です。
正中3年(1326)、邦良が没すると、後醍醐は皇子の世良親王を皇太子にしようとしますが、持明院統の巻き返しによって量仁が皇太子になります。
後醍醐は、皇子の尊雲法親王(後の護良親王)を天台座主(天台宗の総本山・比叡山延暦寺の住職)とし、僧兵勢力を頼ろうとします。こうした動きに危機感を持った大覚寺統側の腹心、吉田定房は、後醍醐の動きを幕府に密告します。これは理解できるところです。後醍醐が無謀な挙兵をすれば、大覚寺統そのものが倒れてしまうことにもなりかねないからです。定房は、それに恐怖感を持ったのでしょう。
全文はソース元で
5/22(金) 12:11配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/f045c07d0de5b94e29c6839e77aa557fa22f5e50
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200522-00010000-php_r-000-1-view.jpg 御内人とは北条氏の家臣
江戸時代で例えると単なる旗本が皇族を将軍にしたりしてた 長崎氏は平清盛の子孫を称する
長崎氏が滅んだ時民衆は長崎氏が滅んだのを見て喜んだとのこと 尾張系京都伊豆人源頼朝「日本一の猛者といえば武蔵国住人熊谷次郎直実」
藤原摂関家出身の慈円「武蔵国住人畠山重忠最強伝説」
最強鎌倉武士「下野の足利忠綱怪物伝説」
徒然草の吉田兼好「相州鎌倉住人安達泰盛こそ武士中の武士」
武蔵武士系河内国住人楠木正成「ガチンコ決戦なら武蔵相模の二国>その他オールジャパン」
剣豪将軍足利義輝「剣日本一は上州の上泉信綱、西国一は肥後の丸目長恵」
奈良興福寺「やはり甲斐越後が最強」
三河者の武田家軍師山本勘助「関西侍は下の下」
戦国最強甲斐侍「関東武士は馬上戦闘&長刀、関西武士は下馬戦闘」
越後の豪族北条氏「畿内、中国侍は町人似の弱兵」
尾張の太田牛一「馬上巧者の関東衆西上野小幡党」
宣教師フロイス「上方武士は馬から下りて戦う」
宣教師フロイス「島津軍は弓が多く長刀を巧みに操る」
近江の名族京極「西国最強は九州立花」
薩州島津家当主「信州真田兵が日本一」
ミスター三河武士大久保彦左衛門「上方奉行は口だけの腰抜け」
江戸本所の暴れん坊勝子吉&信濃の最強力士雷電「江戸の平山先生最強伝説」
豊後中津の天才剣士島田虎之助「幕臣男谷先生を筆頭に江戸の剣客は強すぎる」
陸奥の大剣豪千葉周作「江戸の高柳先生や男谷先生には生涯勝てない」
江戸の幕臣勝海舟「白井(江戸人)の剣は神の領域」
東京出身の文豪芥川「千葉の山田次郎吉先生が最強」
水戸の高野茂義&岡崎の三橋鑑一郎「天下第一の名人は栃木鹿沼の下江先生」
別府の堀「水戸の門奈正最強」
京都の大日本武徳会「技の水戸人門奈、気の水戸人内藤」
昭和天皇「天覧武道大会全制覇の法神流(群馬)」 天皇家は、遅くとも承久の乱の時点できっちり滅ぼして王朝交代しておくべきだった
おかげで中世以降の日本は上も下も二重権力三重権力当たり前のぐちゃぐちゃな状態に NHKで再放送してる。真田広之が沢口靖子がいるのに宮沢りえと子作りしてた >>18
それを言うなら佐倉あたりの陪臣が老中の職権で好き放題していた構図だな >>1
鎌倉幕府最後の執権は第16代の赤橋(北条)守時って習った気がする
ちなみに赤橋守時って足利尊氏の正妻の兄なんで義兄になるんだよね
(´・ω・`) 朕が新儀は未来の先例なりってね
後醍醐帝がもう少し器でかくて
部下の進言を聞ける人だったら
日本史はどう変わっただろうか
ひところ流行った架空戦記のノリで
書いてくれる作家さんいないかな(笑 >>4
意外なんだけど
ミッキー吉野が吉野つながりで
後醍醐天皇にシンパシー感じて
バンド名にしたこと
知らない人いるよね >>25
交代といっても当時の北条家は朝廷滅ぼして次の天皇かなんかになれるほどには
権力も求心力もなかったから反発する御家人の内乱になったと思うよ 国宝建造物数
関東 4(白鳳0 平安0 鎌倉0 室町2 近代2)
東京 2 (室町1 近代1)
神奈川1 (室町1) ←鎌倉時代一つも無し
埼玉 1 (近代1)
千葉 0
近畿 160(白鳳25 平安17 鎌倉51 室町22 近代45)
滋賀 22(平安1 鎌倉7 室町5 近代9)
京都 51(平安7 鎌倉10 室町7 近代27)
大阪 5 (鎌倉4 室町1)
奈良 64(白鳳25 平安7 鎌倉23 室町5 近代4)
兵庫 11(平安2 鎌倉2 室町2 近代5)
和歌山7(鎌倉5 室町2 )
鎌倉時代と名乗るほどのモノは無い
取り消すべき そんなことより、孝明天皇暗殺の件を議論しようよwww ゴダイゴ、ややこしいことばっかりするから
日本の歴史上で1番むかつくわ >>35
90年代とかキャバクラ幕府なんて名前の店が全国にいくつあったやら 柄本明の高師直、陣内孝則の佐々木道誉はハマり過ぎ。 北朝天皇上皇皇太子を拉致監禁
あいつキチガイでっせ
歴代天皇で断トツのキチガイ >>37
>近畿 160(白鳳25 平安17 鎌倉51 室町22 近代45)
>鎌倉時代と名乗るほどのモノは無い
>取り消すべき
すごいバカを見たw 『食後に毎回下痢をしてしまう』健康な腸なのに食後に下しやすい方がTwitterでのアドバイスを実行したところ下痢の頻度が減った話「これわかります!」
http://covmo.jazar.org/yd?z067oe3/la6su.html
友達の彼氏ばかりを狙う女がいて、ただの人のもん好きだと思ってたら、狙う理由が"日高屋"みたいだった
http://covmo.jazar.org/lr?wgpeoqc/5gdvs.html >>32
これマジなの?!
スゲー!!知らなかったわ なま倉卿や八島共神務帝始まって以来初の太罪やらかした? >>10
安土とかねー
行ってみて
え?ここ?って感覚は楽しい 『海道記』
抑相模国鎌倉郡ハ、下界ノ鹿渋苑、天朝ノ築塩洲也。
武将ノ林ヲナス、万栄ノ花万ニヒラケ、勇士ノ道ニ昌ヘタリ、
百歩ノ柳百タヒ中ル。
弓ハ暁ノ月ニ似タリ、一張ソハタチテ胸ヲ照ラシ、
剣ハ秋ノ霜ノ如シ、三尺タレテ腰ススシ。
勝闘ノ一陣ニハ爪ヲ楯ニシテ寇ヲ此ニ伏ス。
猛蒙ノ三兵ハ手ニシタカへテ互ニ雄称ス。
干戈威厳シテ梟鳥敢テカケラス。
誅戮罪キヒシクシテ虎狼永ク絶タリ。
此故ニ一朝の春ノ梢ハ東風ニアフカレテ恵ヲマシ、
四海ノ潮ノ音ハ東日ニ照サレテ波ヲ澄セリ。
貴賤臣妾ノ往還スル多駅ノ道隣ヲシメ、
朝儀国務ノ理乱ハ万諸ノ機カタカタニ織ナス。
(新日本古典文学大系)
鹿渋苑→麁渋苑。帝釈天の城外にある武器庫のごとき園
築塩洲→塩洲。唐代ここに築かれた城壁が匈奴の侵攻を防いだ
万栄ノ花万ニヒラケ…→養由基のような弓の名人がたくさんいる
勝闘ノ一陣ニハ爪ヲ楯ニシテ寇ヲ此ニ伏ス→死物狂いの白兵戦で敵を降伏させる
一朝の春ノ梢ハ東風ニアフカレテ恵ヲマシ→朝廷は幕府の威光によって栄え
四海ノ潮ノ音ハ東日ニ照サレテ波ヲ澄セリ→天下は幕府の威光によって平穏である
朝儀国務ノ理乱ハ→朝廷の儀式や政治の治乱は
万諸ノ機カタカタニ織ナス→機が多くの糸をさまざまに織るように、政務万端が見事に採られている >>22
どっちでも間違ってないけど今の教育だといい箱が主流 結局、鎌倉が崩壊したのも楠木とか赤松とか
土豪がちょこちょこと抵抗していた流れに足利
や新田が乗っかったからであって、後醍醐帝は
お飾りやからなあ BSプレミアムで太平記の再放送やってるぞ
真田広之が若くて全然貫禄がない
今とは大違いやな
あと、宮沢りえがデブい >>39
ダウト
1.鎌倉幕府滅亡は元寇T(文永の役)の59年後元寇U(公安の役)の52年後、これが原因ならもっと早く滅亡しているはず
2.鎌倉攻めしたのは関東の武士で、元寇に立ち向かったのは九州の武士 滅ぼした当事者たる三河人に聞け
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆 鎌倉武士に憧れる中世中国地方娘
↓
『田植草紙』は安芸・石見の山間部に濃密に分布しておりました田植歌の書き留め、同じような写本、田植歌本とか歌本と申しますか、そんなものがたくさん残っております。
『田植草紙』は田植歌本を代表する最も優れた一本でございまして、我せられた歌謡はほぼ中世小歌圏の中で醸成された田植歌であるという定評を得ております。
(友久武文・広島大学名誉教授)
・坂東殿ばらは弓は上手なるもの 空立つ鳥を射て落といたり さても上手や空飛ぶ鶴を落といた 若い殿御が翔け鳥射たる弓手は さても射たのふ見事や弓の姿は
→坂東武者は弓の上手、空かける鳥を射落とすそうだ。え、落したのは鶴だろうなんて冗談は無し。ほんと素晴らしいんだから。
・宮仕ひをせう坂東方へ 武士の奉公好むと人や思ふらう 武家奉公なんぼう見ては好いもの 殿に参らせ塗籠籐の弓おば
→弓と矢があれば坂東方へ赴き、武家奉公をと男の願い。女も意に添いたい風情。
→なんぼう…「何ほど」の変化形。今も関西方言に多い。どんなにか、とても多く。
・重籐巻いたる弓の振りをしてな 坂東殿原の肩に掛からばやな 弓のふりして坂東殿御に惚れたよ 何と言ふても思ふに寄らぬ我か身や いつくしいは坂東殿御の姿よ
→弓は女の暗喩として用いられることが多く、女として自分を殿の傍らに置いて欲しいの意を含むか。
(『田植草紙』新日本古典文学大系/岩波書店)
「さても上手や、空舞う鶴を落といた……見事や弓の姿」と鶴に結びつけて(坂東殿御の)弓上手を謡っている。
更に「武家奉公、なんぼう見ては良いもの」と坂東武士への憧憬につながって、「思ふ弓や、御前引かば……」と、
この憧憬が具体的なかたちに変わる。
田植歌謡圏(中国地方)に種々導入された話から、恰も映画やドラマの主人公に憧れるのと似たような形態で、
坂東武士(関東武士)に憧れたものであったろう。
「面影ばかり残して、あづまの方へ下りし人の名は、しらじらといふまじ」(『閑吟集』)とか、
「吾妻下りの殿は待たねど、嵐吹けとはさらに思はず」(狂言小歌・虎寛本・靱猿)などの気持ちである。
(『田植歌謡と儀礼の研究』、坂東憧憬と弓矢の章) 滅ぼした当事者たる三河人に聞け
関西(六波羅探題)、関東(鎌倉、中先代の乱)を同時にヌッ殺したのは三河だけだよな
足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」 ゴダイゴの曲をテーマに後醍醐天皇の大河ドラマやってほしいわ 君側の奸を除く、の典型みたいなモンだな。絶対後醍醐が悪いもんなw 「円喜。これでよろしいか」
「春渓尼。高時こういたしましたと母御前 にお伝えしてくれ」 ルールを強引に変えようとしたのが切っ掛けはそうだが
倒幕の気配は年中行事に忙殺されてる朝廷にすら伝わったん
だろうね。徳政令が行けなかった。破産した御家人が
増大したからね 新田義貞ごときに攻められた程度で一族郎党みんなで腹切りするような軟弱ぶりでは滅びるわ。
叡山や笠木に潜伏し、隠岐から逃げ出し、吉野に隠れる後醍醐帝のしぶとさに学んだのが
時行くらいだものな。 天皇なんて碌なの居ないのになんでお前ら天皇崇拝しとるの? 分かっている奴の答えはこうだ
霜月騒動の後、北条が手を出せなかったアンタッチャブルの三河に手を出した事を、足利氏が危険視したから
具体的には
・北条が初めて三河国の荘園の地頭職を獲得した
・北条の家人が初めて三河守になった
霜月騒動の黒幕とも言われる大仏宣時が三河国重原荘の地頭職を獲得した
六波羅探題北方に出仕してい北条仲時の家人が三河守になった 足利がようやく南朝を説得し終わるのが戦国時代の始まりだもんなあ
凄まじいわ 今東光「今だから言うが、叡山では後醍醐天皇は不徳の君主であるとするのが常識だ」
海音寺潮五郎「後醍醐天皇は我欲の旺盛な人柄だ」
とか、明治生まれの爺さんたちも戦後は後醍醐帝を批判しとるわな。
つか、太平記の冒頭でも「君主の失徳と武臣の政治の乱れのおかげで世の中が滅茶苦茶に
なっていた(大意)」とか書いてある。
戦前の学者は美化するのに大変な労力を要したんだろうな >2)御家人たちは、分割相続の繰り返しで所領が細分化し、貨幣経済の発展に巻き込まれて、窮乏していった。
いわゆる田分け者の語源だな
中世ヨーロッパも分割相続で身内同士で戦争ばかりしてた暗黒時代になってたな
まあ現代社会も分割相続だから他人の事いえないけど
時代が進むごとに国民が貧困化していくのはどこの国もこれが原因だな >>65
現代で置き換えれば、韓流ドラマを見て、韓国人男性に憧れるようなものかな。
現実に会うと、想像上の理想像と、現実の野蛮なギャップに驚くことになる。 >>74
一応日本の国土全ては天皇のもので我々は金払って借りてるだけ
この建前こそが最強の武器 >>74
俺は天皇を崇拝してない
俺の先祖に天皇いるから同族意識って感じだ
ちなみに俺がこの世で一番嫌いな思想はネトウヨ 元寇によってかえって北条得宗家の力は強くなったって説もあるみたいだね >>20
平家物語で平氏が壇ノ浦の戦いで滅亡したのかと思ったら
元寇辺りで政権中枢に平氏が居て何だ、最後に生き残ったの平氏じゃんって思った 三河は東国一番西の国である一方、西国の一番東の国でもあった
三河国の分国主は院、知行国主は関東申次、共に三河の源頼朝と縁が深い
そして同じく三河の源頼朝と縁が深い三河の足利氏が、幕府では守護としてある一方、京方の下司でもあった
三河はアンタッチャブルだったんだよ
三河国分国主、知行国主
1191年07年:九条兼実(知行国主)、関東申次、嫡男の嫁は一条全子(坊門姫の娘)
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守) 、孫が水無瀬信成(父は藤原親兼(室に足利義兼の娘)、後鳥羽院の命で養子入り後に水無瀬殿を譲られる)娘
1200年03月:七条院(分国主) 、姪は坊門信子(源実朝室)
1227年11月:七条院(分国主)、再任
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の玄孫、すぐに四条隆親と交代
1240年12月:四条隆親(知行国主)、再任
1254年04月:平敦朝
1288年02月:西園寺実兼(知行国主)、関東申次
1301年02月:持明院統(伏見院)(分国主)
1303年04年:持明院統(伏見院)(分国主)
1321年06年:日野俊光(知行国主)、辞退
1321年06年:西園寺実衛(知行国主)、関東申次
1324年01月:持明院統(花園院)(分国主) >>92
北条氏のことなら、平氏かどうかはかなり疑わしい
既に源氏とか平氏とか名乗ってても疑わしい家系が出てきてる >>51
畠山重忠が北条時政に滅ぼされなかったら執権は畠山氏になってたんだろうか? 高々数千行かない楠木正成相手にオールジャパンで挑んで一方的にボッコボコにされてたらそりゃあ失墜するわ
当時世界最強だったのかもしれんが
全く相手にならないんじゃあなぁ 北条が手を出すべきでは無かった、アンタッチャブルの源頼朝、足利氏縁故地の三河な
吉田経房(初代関東申次)
養和元年(1181年)に参議に昇進し、2年後に従三位に昇叙した頃から、一転して源頼朝の友人の一人として経房の名前が突然浮上する事になる。
今まで平氏政権の下で順調に出世し、反平氏の行動と全く無縁であった彼がなぜその地位を手に入れたのかは判然としない。
藤原俊忠
・忠成→女(以仁王妾)
・俊成(三河守、三河国竹谷荘・蒲形荘開発領主)→定家→為家→冷泉為相(初代冷泉家)
・女(藤原顕頼(三河守)室)
・女(藤原顕長(三河守)室)
・女→吉田経房(初代関東申次)
関東申次
吉田経房(三河国知行国主)
坊門信清(源実朝正室の父)
西園寺公経(母は一条全子(坊門姫の娘)、将軍九条頼経外祖父)
近衛家実
九条道家(祖父は九条兼実(三河国知行国主)、将軍九条頼経実父)
近衛兼経(道家の娘婿、道家の補佐役)
一条実経(道家の子、九条頼経の弟、道家の補佐役)
西園寺実氏(公経の子)
西園寺実兼(三河国知行国主、実氏の孫、先に病死した父・公相に代わる)
西園寺公衡(実兼の子)
西園寺実兼(三河国知行国主、公衡病死に伴い、復職)
西園寺実衡(三河国知行国主、実兼の孫、公衡の子) >>95
多分、北条時宗の御内人の平頼綱の事を言っているのではないかな?
源平ともに様々な系統があるのだが、平頼綱は良く言われる平家の平氏の系譜であるのは確かではあるが 元寇で勝って浮かれて滅亡した。勝って兜の緒を締めよ。はここから生まれた(´・ω・`) 実際はもう実朝が死んだ時点で滅亡したも同然なんだけどな
その後は北条に傀儡にされ、その北条も内管領の長崎氏に操られ
と、後醍醐から見たら傀儡の傀儡の傀儡の更に傀儡を闇のフィクサー操っているという恐ろしい構図
でも日本はこういうのが合ってるよね、今の官僚が牛耳ってる日本が全てを物語ってる >>101
あーそっちか
けど元寇の時の次の執権の時に殺されてるから
最後どころか短い栄華だったね 鎌倉時代中期から主に、元寇の影響が大きかった西国を中心に悪党が現れる。 政治が乱れている証拠である
北条時頼のとき、悪党対策が取られたが、充分な成果をえられなかった。鎌倉時代末期には
御家人の中にも落ちぶれて悪党になるものがあった。 しかし悪党は、幕府と正面切って対決する力はなかった。それで朝廷に属して幕府の圧力をかわそうとし
後醍醐天皇と手を結んで倒幕に加担する。 元弘の乱を引き起こした悪党の楠木正成も、後醍醐天皇と結びついた悪党で、御家人だったといわれている
峯相記の著者は、悪党こそが鎌倉幕府滅亡の原因と言っているほどである。悪党の反乱が討幕のきっかけとなった。 >>4
ビューティフル・ネームの気持ち悪さに耐えられず
けっこう好きから大嫌悪に変わった思い出 信長も元を辿ると平氏氏族だったりする
統一直前でやられて最後源氏系(家康)に持ってかれた当たりが
清盛と一緒で持ってないなとw >>103
何処が?
政子ちゃんの頭の中では、後継者は足利氏だ
大頼朝が所有していた源氏の宝刀(源氏の宝刀はいくつかあったらしい)は、政子ちゃんから足利義氏に譲られいる
最終的には、三河県西尾市の御剣神社の納められた
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)であり
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) >>99
後醍醐天皇はリアルランボーの巨ちんで
楠木正成とかいうハンニバルとくんでたから負けた この時代なんかコアすぎて好きじゃないと付いていけないだろ
現代の方が余程奇々怪々だが 新田義貞ってなんで有名じゃないの?
この人が鎌倉幕府滅亡させたんだろ 後醍醐天皇は結果を見ると統治の基本的な部分が何にも解っていない人だったオチだよな
妙に持ち上げられて偉人扱いされているけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています