【歴史】鎌倉幕府は、なぜ滅亡したのか?〜「引き金」となった後醍醐天皇の常識外れ [首都圏の虎★]
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本日5月22日は旧暦で鎌倉幕府が滅亡した日。そこで、同書の一部を抜粋編集し、なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのかを紹介する。
北条氏得宗の専制政治
山川出版社の高校教科書『詳説日本史』で鎌倉幕府が倒れた原因としてあげられているのは、次の三点です。
1)蒙古襲来で、御家人たちは多大な犠牲を払って奮闘したにもかかわらず、十分な恩賞を与えられず、幕府への信頼を失った。
2)御家人たちは、分割相続の繰り返しで所領が細分化し、貨幣経済の発展に巻き込まれて、窮乏していった。
3)畿内やその周辺で、「悪党」と呼ばれる新興武士が、荘園領主に抵抗するようになった。このような動揺を鎮めるため、北条氏得宗家の専制政治が強化されたが、それがますます御家人の不満をつのらせ
この中でもっとも重視されているのが、「得宗専制」と呼ばれる当時の政治状況でしょう。最後の執権となる北条高時の時代、得宗の家人の第一人者である「内管領」長崎高資が権勢を振るいます。これが御家人の反発を生み、倒幕運動が起こったということになります。
鎌倉幕府が倒れた背景には、ここであげたような歴史状況があったことは確かです。しかし、実際に倒幕の核となる存在が現れないと、なかなか倒幕などできることではありません。そこで登場したのが、後醍醐天皇です。
後醍醐天皇の権力掌握の野望
当時、天皇家では、後嵯峨天皇の子の代に、またしても皇位継承の争いが起こっていました。詳しい説明は省きますが、後嵯峨の死後、後深草上皇の皇統と、亀山天皇の皇統が並立し、幕府の調停でそれぞれの皇統が交代で皇位に就く両統迭立という方式がとられていました。
後深草の皇統は、院御所の持明院殿に住んだので持明院統と呼ばれ、亀山の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住んだので大覚寺統と呼ばれます。
両統迭立は、スムーズに実現していたわけではなく、両統が幕府に積極的に働きかけ、できるだけ自分に都合のよい結果を得ようとしていました。
亀山の後、同じ大覚寺統の後宇多が天皇になり、その後、伏見、後伏見という持明院統の天皇が続きます。後伏見の後は、大覚寺統の後二条が天皇となり、次は持明院統の花園が天皇となります。そして、その次の天皇が大覚寺統の後醍醐です。
しかし、大覚寺統では後二条が直系と見なされており、後醍醐は中継ぎの天皇にすぎません。そのため、皇太子には後二条の皇子である邦良親王が立てられ、後醍醐は、退位した後は後宇多から譲られた所領をすべて邦良に譲り、後醍醐の子どもたちも邦良に仕えることにされていました。
大覚寺統で皇統が続くわけですから、当然、持明院統は抵抗しました。しかし、邦良の後は持明院統の後伏見の皇子、量仁親王が立つということで、妥協したのです。
ところが、後宇多法皇が没すると、風向きが変わってきます。祖父後宇多の後ろ盾を失った邦良側は、後醍醐に早く譲位してもらって皇位を確保したいと考え、持明院統も、邦良が即位すれば量仁が皇太子になるので後醍醐の譲位を望みます。後醍醐は、大覚寺統からも持明院統からも攻撃される立場になりました。
もし後醍醐が直系の天皇であれば、譲位して院政を敷くこともできます。しかし、後醍醐にその選択肢はなく、自らの皇統を続けていこうとすれば、あくまで皇位にとどまるしかありません。その最大の障壁が、両統迭立を支持する幕府だったのです。
そこで、後醍醐は、腹心の公家、日野資朝・俊基らに各地の武士を勧誘させます。しかし、これは京都の幕府の出先機関である六波羅探題に察知され、資朝らはとらえられます。これが正中の変です。
正中3年(1326)、邦良が没すると、後醍醐は皇子の世良親王を皇太子にしようとしますが、持明院統の巻き返しによって量仁が皇太子になります。
後醍醐は、皇子の尊雲法親王(後の護良親王)を天台座主(天台宗の総本山・比叡山延暦寺の住職)とし、僧兵勢力を頼ろうとします。こうした動きに危機感を持った大覚寺統側の腹心、吉田定房は、後醍醐の動きを幕府に密告します。これは理解できるところです。後醍醐が無謀な挙兵をすれば、大覚寺統そのものが倒れてしまうことにもなりかねないからです。定房は、それに恐怖感を持ったのでしょう。
全文はソース元で
5/22(金) 12:11配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/f045c07d0de5b94e29c6839e77aa557fa22f5e50
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200522-00010000-php_r-000-1-view.jpg 楠木親子ってなんであそこまで後醍醐のために尽くしたんだろう >>254
明治の頃の大勢、及び皇室の見解も、南朝に正統性を認めているのに
あなたが北朝を正統というのは、ただの足利ファンだからということでよろしいか? 白頭山の噴火で渤海国が亡び、そこから出た武装難民が
朝鮮半島を日本海沿いに南下して、九州を襲撃。
所謂刀伊の乱で、関東に居た平家一門が動員されて
鎮西平氏に成るって話が教えられてないのは何故なんだろうな >>257
天皇だからだろ
勝手に北朝天皇を擁立する新参天下人のトンデモ足利の言うことなんか聞けるかよw >>247
御内人とか、駿河に楠木の地名があるダッペ、北条の御内人ダッペか?
三河の足助重範の生母は楠木正成の伯母さん、足助重範の嫁は楠木正成の息子
尾張の那古野荘の足助氏の嫁は三河の安達氏
観心寺荘は旧安達泰盛(三河国小松原荘地頭)領
楠木正成の出自を探るに一番重要なのは、三河の名族足助氏に正成の伯母さんが嫁入りしている事
つまり、その縁故で安達氏領の地頭職を獲得したと考えたほうが良い >>257
楠木親子は明治維新でいう旧幕府軍
足利が薩長 南北朝合一時の後小松天皇は南朝最後の後亀山天皇から譲位をされたわけじゃないんだよね
ということは後小松天皇以降の皇位は南朝由来ではないので、南朝を歴代に数えるのはおかしい ・・→平安→鎌倉 → 後醍醐天皇(南北朝) 足利 戦国 → 徳川 → 明治 大正 昭和 平成 令和2年 吾妻鏡、北条政子演説意訳
頼朝公に忠勇なる八幡太郎の武者たちよ。各々心を一にして聞いてほしい。
これは政子、最後の言葉である。
我々は英雄の子、実朝を失った。しかし、これは終焉を意味するのか?
否!始まりなのだ! 公家勢力に比べ、我等関東の国力は30分の1以下である。
にもかかわらず今日まで戦い抜いてこられたのは何故か?
諸君!関東の戦争目的が正義だからだ。これは諸君らが一番知っている。
我々は公家共にいいように使われ、関東移民にさせられた。
そして、一握りの公家が奥羽にまで膨れ上がった朝廷を支配して400余年、
関東に住む我々が自由を要求して何度公家どもに踏みにじられたか。
頼朝公が掲げた自由のための戦いを八幡神が見捨てるわけはない。
私の子、諸君らが愛してくれた実朝は死んだ。何故だ!?
新しい時代の覇権を我ら選ばれた関東武士が得るのは必然である。
ならば、我らは襟を正し、この時局を打開しなければならぬ。
我々は源家と共に過酷な関東を生活の場としながらも共に苦悩し、
錬磨して今日の文化を築き上げてきた。その恩義はシュミ山より高く、海よりも深い。
しかしながら朝廷の公家共は、自分たちが東国の支配権を有すると増長し我々に追討の偽綸旨を下す。
諸君の父も、子もその公家の無思慮な抵抗の前に死んでいったのだ!
この悲しみも怒りも忘れてはならない!
それを、実朝は死をもって我々に示してくれた!
我々は今、この怒りを結集し、公家共に叩きつけて、初めて真の勝利を得ることができる。
この勝利こそ、源家への最大の恩義となる。
坂東武者よ!悲しみを怒りにかえて、立てよ!坂東武者よ!
我ら関東武士こそ選ばれた民であることを忘れないでほしいのだ。
優良種たる我らこそ日の本を救い得るのである。
この演説で武士の時代は始まったと言う学者もいるくらいだからな 三河に繋がれば、みなが腐れ縁になる
それは徳川家康も例外ではなく、家康は楠木正成の血も引いている
部外者は、家康が高家として名門を優遇したのは家康は貴種好きだったと間抜けな事を抜かすが
家康にしてみれば、三河の腐れ縁を優遇したに過ぎない この時代、オリジナルネームじゃなく
後を付ける天皇多いな
それと、何でその先代の後を名乗ろうと思ったかってのは気になる 誰も責任をとらない国日本
天皇はとっくの昔にうわべだけの存在になり、将軍も形だけのもの、北条得宗家でさえ
傀儡になり、実際に政治を司っているのは長崎氏。しかも皇室は二派に二人の天皇の
上には上皇までいたw 太平記は今CSでやってる、日野俊基が捕まって楠木正成鉄矢に知らせが行ったところだが弟の赤井秀和が下手で見てらんない
今日最終回の秀吉では釜茹でされたけど5年たってるので演技はましだった
沢口靖子も両方出てるけど、どの役やっても同じ下手さ
若い宮沢りえは見れるけど、後藤久美子はどこにいるか分からん
もちろん真田広之は尊氏と三成で両方出てる
三成の子役で小栗旬が出てたらしい >>276
諡は死んだ後で勝手につけられるもんよ
後醍醐は自分で後醍醐にしろと遺言したけどこれは例外
後水尾とか父親と仲悪かったんで父親に後陽成という最低の諡をつけてしまった鬼畜 >>268
後小松天皇以前の北朝の皇位は南朝由来ではない
ゆえに、北朝は歴代天皇にカウントされない
ゆえに、正統は南朝
北朝の血統の明治天皇が、南朝に正統性があるって言ってんだから
北朝フリークは、ただの足利ファンだろw 第96代 後醍醐天皇系の南朝天皇家に対して
京都の足利将軍家は北朝天皇家を立てた
室町幕府 第3代将軍 足利義満は南北朝を合一した
足利将軍家が立てた北朝天皇家は 現在の皇統でもある まず平家と平氏の区別がついてない人、結構いるよなあ
あれ、関東平氏が源氏を責任者として担いでただけで
実質関東平氏VS伊勢平氏(平家)の平平合戦だから 足利尊氏ってあのザンバラ頭の肖像は間違いって本当?
家紋が違うとかなんとか。 『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、忍、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党の武士団と並んで将軍随兵となっており、
もとは利根川流域に基盤を持つ武蔵の党的武士だった可能性が高い。
武蔵の党的武士は、早くから北条得宗家(本家)の被官となって、播磨や摂河泉など北条氏の守護国に移住していた。
河内の勧心寺や天河など正成の活動拠点は、いずれも得宗領だった所であり、正成は本来得宗被官として河内に移住したものと思われる。
討幕運動への参加は、同じ得宗方の紀伊湯浅党との勢力争いがきっかけである。
楠木正成は得宗勢力の内紛によって、旧主を裏切って後醍醐に接近したのであり、この点では足利尊氏(相模国鎌倉出身)と何ら変わるところがない。
海津一朗・和歌山大学教授 公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん という落首が記録されている
この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる >>284
高師直という説が有力あのザンバラは
足利尊氏だろうと言われているのは伝平重盛像で、伝頼朝像が直義と言われている だから源頼朝、鎌倉将軍家はポッチじゃねーつの
密かに、三河の母方に繋がる人材でガッチリ固め、坂東平氏など排除されていた
北条が乗り越えられなかったのは、このネットワークであり
鎌倉将軍家の後を継いだこのネットワークの親分、足利氏に滅ぼされたのさ
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>276
後っていうのはヨーロッパ王室でいう2世だろ
よくあること
イギリスだってこの時代は
チャールズ2世
ジェームズ2世
がいたし
もちろん2世といっても1世と親子ではない
エリザベス2世はエリザベス1世の400年も後だしね
同じ系統で尊敬する人の2世を名乗ったんだろ >>107 >>202
ボーカルのタケカワユキヒデがリアルで
世界中の貧しい子を養子として引き取って育ててたからな >>255
見直しどころか中共も裸足でトンズラしかねん規模の文化大革命やらかしとりますがな 96後醍醐→97 光厳→98光明→99後崇光→100後光厳→101後円融→102後小松→…→128今上
南1後村上→南2長慶→南3後亀山
または
96後醍醐→97光明→98後崇光→99後光厳→100後円融→101後小松→…→127今上
北1光厳
南1後村上→南2長慶→南3後亀山
南朝を正統としたら後亀山がラストエンペラーになってしまう 明治維新後に長州が楠木正成に兵法教えたのが毛利だとか言い出してるしこの頃1330年前後に毛利時親は越後におったわけだけども 大江氏の軍法みたいなのがあるんだろ。
それが代々三河らへんに受け継がれてるから、
楠木正成の戦術=大江氏の兵法書 で間違いない 足利尊氏・直義兄弟が貞氏を父に上杉頼重娘の清子を母として生まれたのは
鎌倉大倉邸(ないし近くの上杉邸)であろう。
足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢(吉川弘文館/峰岸純夫著) >>295
知識が乏しいな
長州の萩は三河の萩に由来する
家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だ
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
事実上、徳川幕府は崩壊していない
http://books.google.co.jp/books?id=RVXyIQq5VMYC&pg=PA46&lpg=PA46&dq=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&source=bl&ots
=tYDHrH7uuT&sig=fBVt13JJ3pGPoJN1o7c5a6G4XE8&hl=ja&sa=X&ei=bHggU5HHKImgkgWuoYD4Bg&ved=0CDkQ6AEwAw#v=onepage&q=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&f=false
>三河の萩の南朝の末裔が、大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司)) 大江流は礼節を守って正々堂々とっちゅう精神論的なブシドーなので山岳ゲリラ戦やった楠木とは相容れないわけなんだが 検証すべきは何故なる理由で維新後の皇国史観に於いて南朝を正統と定めたかだろ ここを無条件に盲従していたら何も始まらない 政子=政所=マンドコロ=マンコで、女の大事な所=マンコのなったって本当? 第96代 後醍醐天皇は 建武の新政に依り 京都に大内裏を復旧すること等を令ずるが
人心を得ること叶わず
室町幕府 初代征夷大将軍 足利尊氏の方に 当時の人心が求心した 鎌倉時代は交互に天皇になってたんだから天皇の血統なんてもはや気にする必要はないだろ >>10
>鎌倉育ちだけど、こんな所が日本の中心だったとか信じられんかった
幕府って臨時の政府って意味だから鎌倉は政庁府。ずっと都は京で地方自治。 >>303
闘戦経でググれば礼法重んじる精神論なのわかるとおもうが >>92
あくまで清盛関連の平氏が滅びただけでそれ以外は生きてたから 北条がケチで不満溜まってたとこに天皇家のゴタゴタに巻き込まれたのが敗因ってこと?
鎌倉時代は北条と後醍醐のせいでろくな印象がない
さっさと滅んでくれて良かった 大体頼朝が自分の親戚をまともに取りしきれてなくて開始されたのんだからどうしようもねーわ
土台がなけりゃそうなるわって話
きっかけではあっても結局は仲間割れでぶち壊れただけでしょ >>92
壇ノ浦で滅んだのって、
平氏じゃなくて、その一部の平家じゃん。
(平家も、頼盛は生き残っている。) >>301
後醍醐天皇がいるのに、もう一人天皇を擁立するなんてことは許されないということ
これが第一義的なところ
後醍醐のやったこととか、性格が悪いとかは、皇統問題にとっては小さなこと
いかに嫌な奴でも天皇を引き釣り下ろすなんてことは絶対に許されない
これが許されたら天皇の地位なんて、時の政権が好き放題してもいいということになってしまうからな 後醍醐天皇のせいで話がややこしくなってるだけで
実質的には鎌倉〜三好政権ぐらいまでは一体的
支配層が北条から足利に移っただけにすぎんでしょ >>92
滅んだのは伊勢平氏だな。
平氏は伊勢平氏以外にも一杯おるよ。 >>316
これなー
あと初期の幕府っていってもおえらいさんから権力もらってーって程度のものでしかないイメージ
偉い人からお墨付きもらったなら、変なことじゃないかぎり従ってもいいか程度の存在 >>168
大河ドラマの平頼綱みたいに、
本当にどこの馬の骨とも分からないような人なんじゃないのかな。 成功したのは源氏棟梁の足利氏が博打覚悟で立ったからでしか有り得ない
足利に比べたら後醍醐も楠木も北畠も雑魚だし新田は足利の末端支流ド田舎侍 「北条氏『一味散々(1333)』滅ぼされ」 だっけ >>208
結局、天皇の正統性なんて、ご神体みたいなもので、
形がないものに形を与えなければいけないわけだから、
三種の神器を誰が持っていたかで決めるしかない。 BSでやってる太平記の再放送が面白すぎて早起きしてちゃんとテレビの前で見てる >>222
最後に負けたかどうかじゃなくて、
その時に権威を持っていたかどうか。
刻々移り変わる世界記録よりも、
剥奪されないオリンピックの金メダル。 太平記では片岡孝夫演じる後醍醐天皇があまりにも神々しかった。
さすが天下の二枚目、凄まじいオーラを周囲に放ち、帝を演じるとはかくあるべし、と後世に範を示した一世一代の好演だった。 >>230
朝比奈、名越方面には逃げ道あったっぽいが。 尊氏が北朝なんて擁立したせいで戦国時代になった感あるからなぁ
権力の簒奪を武士がやっていいってなっちゃったのあれのせいだろ?
まだ建前でも権力をもらってる感はもってたのにあれで全部ぐちゃぐちゃになった こういう議論いいよね
しかもニュース速報
いざキャバクラのぞく >>244
それを言うなら、
日本武尊だって、今の天皇の祖先なんだから、
歴代天皇に入れろと言うことができてしまう。
光仁天皇父とか崇光天皇と後花園天皇の間とか。 >>335
源氏台頭のきっかけになった前九年の役で
滅ぼされた安倍氏の末裔が総理大臣やってるってのが面白いところ >>1
鎌倉幕府、後醍醐天皇の好物:真言宗
↑これが一番の元凶
真言宗は激しいリバウンドがあるから、必ず滅ぶよ >>250
水戸学で南朝を正統と定めて、
水戸学に基づく尊王攘夷派が明治政府の核となったから、
そういうことになるんだろうね。 >>244
足利義満が北朝をカウントしないで南朝をカウントするから三種の神器を寄越せと交渉した
これにより北朝が継いで行くが南北朝時代は南朝が正統になった >>344
それは後付け
決まったのは足利義満のとき 日曜日朝6時からNHK BS で大河の太平記をやってるよ。明日が8回目。 >>346
義満の時に「カウント」なんて考え方があったの?
未来につながらないなら、
過去の正統性を認めてもらっても仕方ないし、
次の天皇の座を約束してもらうほうが優先されそう。 >>343
真言立川流信者の
単なる性交乱交好きのエロオヤジの子沢山
何せシャレコウベに愛液つけて祈祷しながら
文観たちとセクス三昧 >>107
名曲だし大好きだったけど
そういう人もいるんだ
ちょっとショックだな >>351
義満擁する北朝に圧されてて南朝はもうダメそうだった状況
義満側がだいぶ譲歩してる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています