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どっちかというと清和源氏の名門である、
新田氏を冷遇したから。
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1180年(治承4年)、伊豆に流罪となっていた義朝の子源頼朝、木曽では義賢の子源義仲らが京都の平氏政権に対して挙兵し、治承・寿永の乱となる。
平家に属し、京に滞在していた新田義重は、頼朝討伐を命ぜられ東国に下った。
義重は上野国八幡荘寺尾城に入り兵を集めながら事態を静観し、頼朝追討に加わらなかった。
その後、木曽勢は上野国へ進出し、下野国足利荘を本拠とする平家方の藤原姓足利氏の足利俊綱と対立するが義重は中立を保つ。
一族の中には、甥・足利義兼や子・山名義範、孫・里見義成など、鎌倉を本拠とした頼朝のもとへ参じて挙兵に加わるものもあったが、義重自身は参陣の要請を無視し、静観していた。
頼朝勢が関東地方を制圧すると、12月に義重は鎌倉へ参じる。
義重は頼朝から参陣の遅さを叱責されたといわれる。
その後の平家との合戦や奥州合戦にも義重が参陣したとの記録はなく、
義平の未亡人となっていた義重の娘祥寿姫を頼朝が側室にしようとしたところ義重がそれを拒否したため頼朝から勘気をこうむったと伝えられている(『吾妻鏡』)。
1221年の承久の乱にも惣領は参陣せず、代官として庶家の世良田氏が参陣している。

これで新田氏と支流の足利がキレた
当たり前。天皇から「夷狄を払え」が命令でまだ解かれてない