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【歴史】鎌倉幕府は、なぜ滅亡したのか?〜「引き金」となった後醍醐天皇の常識外れ [首都圏の虎★]
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0001首都圏の虎 ★
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2020/05/23(土) 01:16:02.50ID:oKGaxadf9
本日5月22日は旧暦で鎌倉幕府が滅亡した日。そこで、同書の一部を抜粋編集し、なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのかを紹介する。

北条氏得宗の専制政治
山川出版社の高校教科書『詳説日本史』で鎌倉幕府が倒れた原因としてあげられているのは、次の三点です。

1)蒙古襲来で、御家人たちは多大な犠牲を払って奮闘したにもかかわらず、十分な恩賞を与えられず、幕府への信頼を失った。
2)御家人たちは、分割相続の繰り返しで所領が細分化し、貨幣経済の発展に巻き込まれて、窮乏していった。
3)畿内やその周辺で、「悪党」と呼ばれる新興武士が、荘園領主に抵抗するようになった。このような動揺を鎮めるため、北条氏得宗家の専制政治が強化されたが、それがますます御家人の不満をつのらせ

この中でもっとも重視されているのが、「得宗専制」と呼ばれる当時の政治状況でしょう。最後の執権となる北条高時の時代、得宗の家人の第一人者である「内管領」長崎高資が権勢を振るいます。これが御家人の反発を生み、倒幕運動が起こったということになります。

鎌倉幕府が倒れた背景には、ここであげたような歴史状況があったことは確かです。しかし、実際に倒幕の核となる存在が現れないと、なかなか倒幕などできることではありません。そこで登場したのが、後醍醐天皇です。

後醍醐天皇の権力掌握の野望
当時、天皇家では、後嵯峨天皇の子の代に、またしても皇位継承の争いが起こっていました。詳しい説明は省きますが、後嵯峨の死後、後深草上皇の皇統と、亀山天皇の皇統が並立し、幕府の調停でそれぞれの皇統が交代で皇位に就く両統迭立という方式がとられていました。

後深草の皇統は、院御所の持明院殿に住んだので持明院統と呼ばれ、亀山の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住んだので大覚寺統と呼ばれます。

両統迭立は、スムーズに実現していたわけではなく、両統が幕府に積極的に働きかけ、できるだけ自分に都合のよい結果を得ようとしていました。

亀山の後、同じ大覚寺統の後宇多が天皇になり、その後、伏見、後伏見という持明院統の天皇が続きます。後伏見の後は、大覚寺統の後二条が天皇となり、次は持明院統の花園が天皇となります。そして、その次の天皇が大覚寺統の後醍醐です。

しかし、大覚寺統では後二条が直系と見なされており、後醍醐は中継ぎの天皇にすぎません。そのため、皇太子には後二条の皇子である邦良親王が立てられ、後醍醐は、退位した後は後宇多から譲られた所領をすべて邦良に譲り、後醍醐の子どもたちも邦良に仕えることにされていました。

大覚寺統で皇統が続くわけですから、当然、持明院統は抵抗しました。しかし、邦良の後は持明院統の後伏見の皇子、量仁親王が立つということで、妥協したのです。 

ところが、後宇多法皇が没すると、風向きが変わってきます。祖父後宇多の後ろ盾を失った邦良側は、後醍醐に早く譲位してもらって皇位を確保したいと考え、持明院統も、邦良が即位すれば量仁が皇太子になるので後醍醐の譲位を望みます。後醍醐は、大覚寺統からも持明院統からも攻撃される立場になりました。

もし後醍醐が直系の天皇であれば、譲位して院政を敷くこともできます。しかし、後醍醐にその選択肢はなく、自らの皇統を続けていこうとすれば、あくまで皇位にとどまるしかありません。その最大の障壁が、両統迭立を支持する幕府だったのです。

そこで、後醍醐は、腹心の公家、日野資朝・俊基らに各地の武士を勧誘させます。しかし、これは京都の幕府の出先機関である六波羅探題に察知され、資朝らはとらえられます。これが正中の変です。

正中3年(1326)、邦良が没すると、後醍醐は皇子の世良親王を皇太子にしようとしますが、持明院統の巻き返しによって量仁が皇太子になります。

後醍醐は、皇子の尊雲法親王(後の護良親王)を天台座主(天台宗の総本山・比叡山延暦寺の住職)とし、僧兵勢力を頼ろうとします。こうした動きに危機感を持った大覚寺統側の腹心、吉田定房は、後醍醐の動きを幕府に密告します。これは理解できるところです。後醍醐が無謀な挙兵をすれば、大覚寺統そのものが倒れてしまうことにもなりかねないからです。定房は、それに恐怖感を持ったのでしょう。

全文はソース元で
5/22(金) 12:11配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/f045c07d0de5b94e29c6839e77aa557fa22f5e50
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200522-00010000-php_r-000-1-view.jpg
0851不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:25:47.85ID:oPNOzkPI0
北畠顕家が後藤久美子 あれ
ドンパチ切りきられ好きじゃないけど あの大河は
見てたなあ
0852不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:26:44.60ID:xtBrMGuu0
今の政治も強権をとかいうけど、そうすると滅亡するのが早くなるかもね。
抑えられないから強権を発動したがるわけだからね。
0854不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:28:06.37ID:zNMRSUgp0
元寇のせい
0855不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:29:20.88ID:UP0NASnI0
>>850
聖武天皇入れるの忘れた
0856不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:30:26.91ID:H6Qn1Vjq0
>>852
程度によるのでは
日本の土地の半分が私物化というか私物になることはあり得ないだろ
0857不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:30:54.12ID:n/ijSsBg0
>>403
後白河法皇にも同じ事が言えると思う
後醍醐と後白河、何か似てるんだな
何度失脚しても諦めず復活し、ついに打倒平家・北条を倒す事に成功するが
新たな敵源氏・足利に負けてしまう
朝廷権威権力を高めようと戦ったが、結果は朝廷権威権力を弱める事となった点

日本の組織運営は、トップは何もしない軽い神輿の方が運営は上手く周り
実質指導者は2番手が行う
権威はトップ、権力は2番手
これに逆らい権威だけでなく権力を行使しようとすると
最初は上手くいったりするが、いづれ失敗に終わってしまう
武家政権でも将軍は神輿のような存在となり、鎌倉時代では2番手であったはずの執権得宗家が神輿となり
長崎氏が鎌倉末期には実質指導者となった
足利政権でも3代と6代が、権力も行使し独裁者となったけど、その一代だけで長続きしなかった
現代の総理大臣は何もしない神輿ではないが、実質政治を動かしてるのは官僚
田中角栄のようなのが出て来ても、引きずり落される結果となった
0858不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:33:34.63ID:0JfTQR3x0
なぜもなにも頼朝が馬鹿だったからとしか
身内よりも北条なんかを信用するからそうなった
0859不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:35:09.67ID:WWisxsuy0
要するに一族を全国に配置してただけで

支配体制の中身はとっくにスカスカだったんだろう
0860不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:35:23.98ID:H6Qn1Vjq0
>>857
リスクが少ない方が自由にできるからかもね
責任は上が取って、実務は下がこなす方が
大きな決断も、筋を通して迅速にできる
0863不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:40:26.04ID:WWisxsuy0
後白河も後醍醐も自身の軍事力が無い

武家が発言力を強めれば
武家どうしを争わせたところでいずれは武家に食われる

護良親王は足利を警戒し自身の軍事力を持とうとしていたが
後醍醐はこれを遠ざけた
0864不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:40:39.56ID:Bb6T8Uy90
なんな山と海に挟まれた狭い平地に首都が成立したか不思議しかたない。
0865不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:41:09.43ID:sbTzbLJk0
>>10
源頼朝が江戸に幕府を立ててれば初代で倒されてたと思うよ
諸国を完全に制圧できてない段階では陸の孤島に城を設けた方が絶対安全絶対安心
0866不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:42:10.03ID:H6Qn1Vjq0
>>862
全くない
京都の日野から。
0867不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:43:26.32ID:n/ijSsBg0
>>408
例えば田中角栄がタナカでなく、デンナカの読み仮名だったとして
未来の人は田中角栄をタナカと読んでたが、昭和の時代の文献にこんなのがあり
「電中角栄はロッキード事件で逮捕され」「伝中角栄と福田赳夫が争い伝中が勝利した」
もしかしてタナカでなく、デンナカなの?

護良親王を以前はモリナガが正しいと思われたが、後にモリヨシが正しいに変わった
これは上記のような例で、定説が変わったらしい
0868不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:43:34.15ID:WWisxsuy0
政治的中心地と同時に
天然の要塞でなければならないからな

新田に難なく攻略されたが
0869不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:44:54.74ID:H6Qn1Vjq0
>>867
読み方が分からんのが、漢字の良いところでいい悪いとこだな
0870不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:51:06.62ID:Ls3a2dhu0
>>868
新田義貞が攻めこんだ所こそが、唯一守りの手薄だった場所なんだよ。
そこへ行くにも、分倍河原での戦に勝っておく必要があったのだけどね。
0871不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 12:54:42.05ID:H6Qn1Vjq0
>>838
徳川が豊臣っていう主家を傀儡にして食ったそのものじゃん
0872不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 12:59:34.72ID:A2Q7oNl30
ゲームオブスローンズみたいな残酷エピソードが次々起こっていたんだろうなあ
0873不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:00:12.15ID:0Y05nPuO0
>>858
自分は革命やってついでに親の仇を果たせりゃそれでいい。あとの政はスポンサー(北条家)がオレ使って好きなようにやればいい
って感じだったのかもね
0874不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:00:29.28ID:H6Qn1Vjq0
>>868
天然の要塞って基本的に交通の便が悪くなるから政治をするには不向きなんだよな
そういう意味では鎌倉も地方だけど、ある程度両立できたのは奇跡的
0875不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:01:28.48ID:fWvx3LzC0
>>848
明治要らなくね
0876不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:03:27.43ID:yU1EpunG0
>>865
そもそも治水技術が上がって戦国時代以降は安定して住めるようになったって話で
江戸のあたりは荒川とかのせいで洪水頻発のとても住みにくい土地っていうことじゃないか
戦国北条氏の拠点も関東平野の端っこの小田原だし
0877不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:06:12.97ID:gsTAeXZj0
日本人にはあまり知られていない時代の話しは面白いな。
昔、大河で足利尊氏をやったが、あれも面白かった。
陣内孝則の佐々木道誉が好きだったわ。
0878不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:06:53.77ID:UDttAGyL0
天下統一しなければ商業が潤わない戦乱と隣り合わせの不安定な消耗都市になるからな。
秀吉か徳川時代並みに反乱分子に徹底した抑止力を発揮できなければ経済も続かん。
信長は道半ばで滅んだからな
0879不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:08:45.08ID:Ne1EDfOq0
大河太平記は石と花夜叉パートが壮絶に要らない
0880不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:10:41.82ID:EnFZEQNa0
>>876
もともと利根川が江戸湾に流れてたし香取海もあって湿地だらけだしね
0881不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:12:18.40ID:H6Qn1Vjq0
>>876
それよく言われるけど、東京の東部の低地側の話であって、山手側は問題なく住めるからな。
江戸湊も浅草、品川とならぶ、室町時代から武蔵の水運の重要な拠点で、港町もあり、だから太田道灌が城を築いた訳で。
0883不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:15:21.54ID:pKDQvaKj0
>>857
後白河は、ただの場渡で幸運だっただけで、
現在は曲者というイメージは否定されてるよ
0884不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:17:47.81ID:DrIyukCE0
この世で滅亡するのは地球と幕府だけ
0885不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:21:55.53ID:dLunrNyP0
>>1
ユダヤ中キリスト教派だった天皇制を三種の神器を使ってユダヤ人ユダヤ教に戻したかったんでしょ
0886不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:22:07.72ID:8iCZUqMA0
後醍醐天皇の墓は横浜にありますね
0887不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:23:33.92ID:n/ijSsBg0
>>434
足利が天下取れたのは、名門だった事が大きく
足利が立てば自然と兵が大挙集まった
尊氏なんてよく天下取れたなと思えるほど失敗が多く
意志薄弱で行き当たりばったり
この性格が後の足利政権にも災いし、個性強過ぎ将軍と空気将軍
両極端な将軍ばかりで終始安定しない時代だった

それにひきかえ北条一族は、それぞれ個性は少ないが安定して優秀な人が多かった
実力の北条、名門の足利、自分にはこんなイメージがある
鎌倉末期は元寇で不満が増え、衰えて滅んだと思われがちだが
北条得宗家は全盛期といってよく、後醍醐側も最初は圧倒的な差で負けていた
ダーウィンの「強い者が残るのではない、変われる者が生き残れる」
の例えのように変われず滅んだ例なんだろう
北条一門には裏切り者は存在せず、一門全滅のように滅んだ
高時の遺児が後に反乱し、途中から南朝になったりもしたが最後は殺され
歴史から北条一門はほぼ完全に消滅した
尾張に細々とした末裔がおり、賤ケ岳七本槍の平野長泰、幕末の横井小楠らが出た
名越の末裔で高倉健、たまに歴史にちょっと名を残してる
0888不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 13:23:43.47ID:7nlFYWtz0
うちの先祖は鎌倉幕府成立に戦って頼朝の御家人として地頭の職をもらい、後醍醐天皇について鎌倉幕府を倒したまでは良かったが、懐良親王を助けて新田義貞と一緒に幕府方と戦ってたが敗れ、地頭職も取られて没落していった。
0889不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 13:25:05.68ID:AqCypJlt0
徳川も源を名乗ってんだから
源氏征夷大将軍による統治は近世まで続いてた
0890不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:25:13.20ID:T7MDMoAP0
鎌倉幕府は室町幕府は100年ちょいで地方制御できなくなったよな
250年もばっちし支配してた江戸幕府最強
0892不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:36:26.77ID:n/ijSsBg0
>>539
昭和の神風特攻隊は、命令を下されたら
心の準備をし、親や知人に手紙を書いたりもしただろう
いざ出陣となった時、上官や同僚に叱咤激励され飛び立つ

しかし鎌倉武士は、さあ行こか!ってノリでモンゴル軍に単騎突入を繰り返す
ユーラシア大陸を蹂躙したモンゴル軍も、こんなキチガイ武士軍団には劣勢
平家を倒し朝廷を倒しモンゴル軍を倒した最強の鎌倉武士団
この最強軍団もキチガイ天皇と、新たな組織悪党の兵法には勝てなかった
0893不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 13:37:38.38ID:8mN6nNZz0
>>848
仁徳天皇がいない
仁徳天皇は不況の今に通じる経済政策をやったんだぞ
0894不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:39:04.95ID:UP0NASnI0
>>879
要らないは同意だけど一応直冬に繋がるから全く無意味ではないんだよな
駒と菊丸はどうすることやら
0896不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 13:39:28.82ID:buGH44K60
>>846
護良親王。
淵辺義博が護良親王を首の首を取ったと
されてるが、首の形相が怖かったので、
捨ててきたというから、それは嘘で、
たぶん護良親王は生かされたはずw
0897不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:39:55.56ID:ieFETiBN0
>>879
この前の回の藤夜叉はうざかった
見た目が美少女な分駒よりははるかにマシだけど
0898不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:41:59.19ID:ieFETiBN0
>>894
駒は小学生にも楽しんでもらえるように設定したキャラらしいよ
そのわりに逆ハーレム設定とか乙女ゲーム好きなヲタ女向けキャラになってるけど
0899不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 13:42:16.17ID:H6Qn1Vjq0
>>892
単騎突入したのは最初だけで
後は集団戦やってたぞ
0900不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:47:20.16ID:Cq9IS38B0
>>857
よく長崎氏が指導者いうけどさ
あれは得宗が若年だったり病弱だったりして
という事情のせいだぜ
将軍が傀儡で執権が権力握ったのと全然違う
長崎氏が得宗にあれこれ手出しする権力はない
0901不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 13:48:12.71ID:H6Qn1Vjq0
>>887
足利も北条の一門みたいなもんだったんだけどな…
0902不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:49:19.27ID:KGdzrUxR0
>>381>>821
天然の山城みたいな場所だからな
そりゃ、古人大兄の時代から負けた方が攻められないために逃げる場所だから当たり前といえば当たり前だがw
0903不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 13:50:14.96ID:UP0NASnI0
>>901
北条も足利は警戒してて代々北条の嫁を嫁がせてたんだよな
尊氏の父貞氏だけ例外で上杉の嫁貰ったらその子が謀反
政略結婚て大事だねw
0904不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 13:50:59.57ID:Cq9IS38B0
つまりあくまで長崎氏は虎の意をかるで得宗不在では力出せない
執権は全然違うしガチの権力者
将軍いなくても平気で上皇島流したし将軍のクビを挿げ替えてた
天下の副将軍言われたが要するに天下人
0905不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 13:51:02.06ID:tCo4R0Tb0
>>583
元寇を撃退したのは地元の九州御家人だよ
2回とも鎌倉からの本隊が到着する前に決着がついてる
0906不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 13:52:22.61ID:Cq9IS38B0
足利が天下取れたのは名門だったからではなく北条の外戚で
勢力伸ばせたから
新田が北条の外戚だったら新田が天下取れたよ
0907不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 13:52:33.39ID:H6Qn1Vjq0
>>892
しかし、江戸の武士なんてすぐ骨抜きになったのに
武士の野蛮さを保ってた鎌倉武士はすげえな
0908不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 13:56:22.90ID:tPhOxsbb0
北畠の東北勢=直前に東北へ下向した関東武士団

筑波山の麓、常陸国伊佐庄中村(下館市)から中村常陸介念西入道が子息らとともに伊達に下り、氏を改めて伊達氏を名乗ったのをはじめ、
相馬・蘆名・結城・二階堂・伊東・長沼の諸氏は一族または家人を地頭代として奥州に派遣し、新しい所領を経営した。
これらの諸氏はみな関東地方に本領を持つ豪族であり、家督が子息・一族郎党を引き連れてその主力をいち早く奥州に移した伊達氏を例外として、
ほとんどが鎌倉後期(南北朝期)まで関東の本領に住したのである。
(『福島県の歴史』山川出版社)
0910不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 13:57:56.45ID:Ls3a2dhu0
>>907
太平の世が続くと、気の弛みからそうなるんだよ。
鎌倉時代は、何かと御家人同士の争乱が起きていたから戦慣れしていた。
0911不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 13:59:24.29ID:AdM3gGBf0
イイクンニシヨウ鎌倉幕府
0912不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 14:00:16.65ID:RrF6YGJU0
ニュース速報 鎌倉幕府が滅亡しました
0913不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 14:00:41.84ID:WI5H6qZD0
>本日5月22日は旧暦で鎌倉幕府が滅亡した日

東京大学が創ったファンタジー歴史
〇〇幕府
征夷大将軍

そもそも鎌倉の文化財は、1600年に新築した建築物
0914不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 14:01:56.31ID:UP0NASnI0
>>907
江戸の武士も幕末になると侠気染みた切り合いするようになるけどなw
血は争えない
0915不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 14:02:54.56ID:KGdzrUxR0
>>864
鎌倉の事か?
ありゃ、ヨーロッパの城塞都市みたいなもん(天然の山と海だけどね)
攻める方にとっては極めて難儀な場所であったので平安時代から源氏の根城だった
ただ、一度破られると逃げる場所がないという欠点が幕府滅亡のときに露呈したので、
以後は有力な勢力に攻められたときは放棄して早々に逃げるのがデフォになった
0916不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 14:03:12.17ID:buGH44K60
日本のライバル国であるモンゴル帝国の政情がずっと不安定だったのが、
鎌倉幕府に断続的に不安を与え、瓦解に導いたんじゃないかな。
鎌倉幕府が倒れた1333年5月20日前後と見て、モンゴルの新しい政権も
同じ1333年の7月19日に誕生し、その後35年間も続く安定政権?となった。
0917不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 14:03:17.78ID:uzuGREQ70
護良親王の霊所も鎌倉にあったな
鎌倉宮だっけ
天皇直径の血筋だから、神社本庁でなく宮内庁で今も管理しているという。立派な神社だった
0918不要不急の名無しさん
垢版 |
2020/05/23(土) 14:04:50.15ID:tPhOxsbb0
『室町幕府東国支配の研究』 江田郁夫 高志書院
東国大名の存在は、擾乱以降、不安定な状況が続いていた畿内の政治、軍事情勢を回復するうえでも重要な役割を果たした。
尊氏は文和2(1353)年に東国大名を率いて大挙上洛した。
このとき尊氏に従って活躍した「東国ノ諸大名并軍勢」として次のようなものがいた(『源威集』)。
佐竹右馬頭義篤、同刑部大輔師義、結城中務大輔直光、同大内刑部大輔重朝、常陸大椽入道浄永、那須備前守資藤、
小田讃岐守孝朝、小山左衛門佐氏政、武田陸奥守信武のほか、高坂氏重らの平一揆や白旗一揆である。
尊氏勢上洛のさいには、「関東ノ武威ヲ恐テ、洛中ノ敵従退散」、「其武勢ニ恐、山陰道南方ノ御敵、不戦洛中ヲ退散ス」という(『源威集』)。
上洛してくる東国勢の精強は、南朝方もよく知るところであった。
足利政権にとって東国大名の保持する軍事力は、まさに切り札的な存在だったといえる。
その点は、畿内での戦闘においてもいかんなく発揮され、南朝らは以降も何度か入京を果たすものの、結局は一時的なものにとどまっている。
0919不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:06:02.15ID:aVOKsbmD0
【歴史】<トリビア>「鎌倉幕府成立」年号が、昔「1192年」→最近「1185年」、最新説は「1183年」!
ttps://www.nikkansports.com/entertainment/news/1734463.html
0920不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:07:37.25ID:tPhOxsbb0
とくしまの南北朝

佐々木経高
近江源氏佐々木秀義の次男、母宇都宮氏。平治の乱後、相模国渋谷荘で育ち、渋谷氏の婿となる。
治承・寿永期の平家追討戦で活躍。平家滅亡後、阿波・淡路・土佐の守護となる。
次男・高兼を守護代として阿波に派遣、自らは大番として在京。
承久の乱では朝廷方に加担、敗れて自害(1221年)。

小笠原長清
信濃源氏。承久の乱後、阿波国守護。
子・長経を守護代として阿波に派遣、佐々木高兼を滅ぼす。
長経の子・長房は三好氏始祖。

細川和氏
足利氏族。相模国鎌倉出身。1334年阿波守となり阿波入国。
板野郡の秋月に居を構え、吉野川流域を侵略。
和歌の達人。

細川定禅
鎌倉若宮別当。宮内卿律師。知勇兼備の人。
1334年讃岐入国。阿波の板東・板西を押える。

細川頼之
1362年讃岐にて白峰合戦に勝利、細川一族を掌握し四国平定。
1367年管領。
勝海舟が心服した事でも知られる。
0921不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:07:47.10ID:n/ijSsBg0
>>906
源氏は他にも武田や佐竹などいるが
最大の権力者北条と深く結び、上野だけでなく三河などにも勢力があり
祖先によって磨かれ輝いてた名門足利

新田の祖先は足利の兄であり、本来こっちの方が少し上だったが
祖先が失政ばかりし、鎌倉末期には足利の家来みたいな存在まで落ちぶれた名門
>>696に詳しく書かれてるな
新田義貞の大殊勲で、足利との立場をかなり縮めたが
義貞の軍にまだ子供だった後の二代将軍義詮が参陣しただけで、兵の数が一気に増えた
惨敗し九州まで落ち延びたのに、ここから一気に復活した背景など
足利と新田とでは当時の武士にとって、名門の大きさに差があったと思う
しかし足利尊氏にとって、自分の存在に取って代わる可能性あったのは新田義貞しかいなかったと思う
それだけに敵愾心も強かった
(弟の直義や庶子の直冬と対立したが、尊氏ブランドの方が上だったんだろうな)
0923不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:10:35.91ID:T7MDMoAP0
鎌倉末期すごい

天皇 おかざり
将軍 おかざり
得宗 おかざり
執権 おかざり
内管領 実際の支配者
0924不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:12:48.86ID:P/4IhdJt0
北条時宗が、元寇の後、
高麗征伐を急遽取り止めた事だ。
それによって倭寇が正当化されて、
各地の武士団が海賊化して、
富を蓄えていった。
名和長年も山陰の海賊。
尊氏が都落ちした後頼った
九州瀬戸内の武士団も海賊。
0925不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:13:19.42ID:n3YvnNkn0
>>838
源義家の四男かなんかが養子入りしたから、男系では源氏だ
本拠地は三河国菅生郷、比志賀郷



高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→滝口惟忠→大平惟行(三河国滝山寺)

高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→義定(御家人、近江国辺曾村)

高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→南頼基→惟宗→宗継(備中・三河守護、侍所頭人、室は高師兼の妹)→※宗久(遠江守、高師兼猶子)


【師行流】高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→高重氏(御家人、近江国辺曾村)→師行→

師秋(土佐守、家時置文保管者)→師有(関東執事)
師秋(土佐守、家時置文保管者)→三郎(三河国滝山寺)
師冬(播磨守・三河守、武蔵・伊賀守護、関東執事、室は高師泰の娘、高師直猶子)
女(高師直室)

【師氏流】高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→高重氏(御家人、近江国辺曾村)→師氏(三河国菅生郷・比志賀郷)→

師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→※師世(幕府執事)→いち(三河国総持寺住持)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→師秀(尾張守)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→明阿(高師冬妻、三河国総持寺開基)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→師武(国司師武)?
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師夏
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師詮(丹後・但馬守護)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師冬(播磨守・三河守、武蔵・伊賀守護、関東執事、室は高師泰の娘、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→女(渋川直頼(姉妹に足利義詮室)室)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師永(秋里師永)?
師重(三河国菅生郷)→師茂→重茂(駿河守・大和権守、武蔵守護、関東執事)
師重(三河国菅生郷)→師久(豊前守)→※師景
師重(三河国菅生郷)→貞円(三河国滝山寺)
師重(三河国菅生郷)→女(高師春室)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師春→※師兼(三河守護、高師直猶子)→※宗久(高師兼猶子)
師春→女(南宗継妻)
師信→※師幸(備前守)
女(稲荷女房、三河国比志賀郷)


※は武庫川で殺害された8人(師直武蔵守入道・師泰越後守入道・師兼高刑部・師夏武蔵五郎・師世越後大夫将監・高備前(師幸)・豊前五郎(師景)・高南遠江兵庫助(宗久)『園太暦』)
0927不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:14:16.47ID:tPhOxsbb0
鎌倉時代は実に宗教思想的にみて、日本精神史に前後比類なき光景を現出した。
平安時代の四百年も決して無駄ではなかった。
いずれも鎌倉時代のための準備であった。
こんな根蔕があったので鎌倉時代の春が来た。
ここで美しき思想の草花が咲き出した。
そして七百年後の今日に至るまで、それが大体において我らの品性・思想・信仰・情調を養うものになってきた。
(『日本的霊性』鈴木大拙・石川県金沢市出身の仏教学者)
0929不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:16:10.73ID:H6Qn1Vjq0
>>918
東国武士の頭が逝っちゃってるのはそうなんだが、
南朝は何度も何度も京都を落としてるけど
京都を守るのは基本的に無理で、京都に拘ったことがもともと寡兵の南朝の勢力を削ることになってしまった自滅だと思っている。
太平記の湊川の前の楠木の献策が事実かはともかく、守れないのは本当で
故に信長は京都をはずして安土城をつくり、秀吉は伏見城を作り、
家康が二条城を立て直してやっと安定したくらい。
0930不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:17:15.67ID:tPhOxsbb0
貴族で固めた文化財のなかからは宗教は生まれぬ、霊性はわき出さない。
美しい女の子が生れないで尊貴の身分に近付けぬ悩み、位が上がらぬので威張れぬ悩み、
文芸の際がなく男振りがよくないので異性に持て囃されぬ悩み・・・
そんな悩みくらいで宗教は生れぬ。
なるほど宗教は現成世界の否定性をもっている。しかしそれは心の底の底から感じられるものでなくてはいけない。
霊性そのもののおののきでなくてはならぬ。
平安時代の多くの「物語」または「歌集」中に見られる如き憂愁・無常・物のあわれなどというものは何れも淡いものである。
人間の魂の奥から出るような叫びは、どこにも聞こえぬ。
(『日本的霊性』鈴木大拙・石川県金沢市出身の仏教学者)
0931不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:19:18.17ID:n/ijSsBg0
>>923
戦国時代の尾張
守護大名斯波   おかざり
守護代織田大和守 おかざり
奉行信長     実際の権力者

尾張の奉行が、斯波の上の足利を滅ぼしてしまうんだから下克上ですな
さらに尾張の百姓に取って代わられる
0933不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:23:08.07ID:Dv6SY82O0
外戚が源氏将軍を殺して乗っ取った政権だから、最期はそれはもう凄惨だったな
0934不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:23:11.16ID:n3YvnNkn0
>>921
違うつーの
足利氏の貴種性は源頼朝との繋がりによるもの
三河の源頼朝は三河の源義兼に足利荘を安堵し、源姓足利氏を誕生させた
そして頼朝は、頼朝と足利義兼の従兄弟を日光に送り込み、東国の宗教界を支配下に置いた



三河の源頼朝(征夷大将軍)=三河の徳川家康(征夷大将軍)
寛伝(三河の藤姓熱田大宮司家)=明智光秀(進士氏(三河の藤姓熱田大宮司家))



三河の源頼朝は、三河にあった自身の母方の菩提寺の僧を日光に送り込んだ


■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた


源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝


寛伝(母方従兄弟、三河国滝山寺僧)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝

藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏)
0935不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:24:10.17ID:tPhOxsbb0
尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
南北朝以降は土岐、足利、今川、一色・・・と移り変わり、織田氏(福井県剣神社の神官出身)の登場を待つ。
0936不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:29:13.00ID:n3YvnNkn0
足利尊氏に新田が同族との認識は薄い

何故なら、当時、本当の先祖は源為朝と信じ込んでいたからだ


足利氏が親戚として尊重していたのは、為義の血を引く一族と三河の藤姓熱田大宮司一族


足利一門以外では足助氏、吉見氏、熊野別当家、佐々木氏
0937不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:29:34.36ID:D1Y6FF3r0
徳川も豊臣の対してそうだったけど
悲惨な滅び方てもなかったじゃん
0939不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:32:22.61ID:buGH44K60
>>430
うま〜〜いw
0940不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:32:25.54ID:tPhOxsbb0
今川貞世(了俊)
出生地は相模国鎌倉。幼少〜少年期を鎌倉、次いで東海地方で過ごす。
46歳のとき九州探題に任命され、以降25年に渡り九州の地で活躍。
0942不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:37:29.89ID:n3YvnNkn0
>>938
梅松論、難太平記に書いてあるだろ


梅松論
足利尊氏「為朝は当家の祖神」

難太平記
今川了俊「義兼は本当は源為朝の子」
0943不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:37:46.40ID:n/ijSsBg0
>>938
三河さんに直接レスするのは怖くてできないので、君に聞きたいのだが
源為朝といえば保元の乱で活躍し、その後太平洋の島に流され、そこでも活躍したと言われる
大きな弓を持った人だな
足利とは親戚になるが、決して近い親戚ではない
源為朝が活躍した保元の乱では、足利は天皇方に参陣してたな

「当時、本当の先祖は源為朝と信じ込んでいたからだ」
どう考えたら、こんな結論になるのか?自分の想像力では無理だった
0944不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:37:58.26ID:8mN6nNZz0
>>905
時宗が今の日本民族みたいに平和ボケ馬鹿だったら日本終わってたかもなw
時宗は2回目の撃退の後でも3回目が有るかもと考えてたんだろ
0945不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:42:24.51ID:TNBbIjAG0
鎌倉幕府を開いた源頼朝は熱田神宮関係者の息子
歴史を紐解くと、何かしら熱田神宮が関わってくることも多々あるから、
草薙の剣のある熱田神宮は歴史的に重要だね
0946不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:42:48.99ID:KGdzrUxR0
>>889
つっても、あいつ元は藤原だったじゃんw
家系図を捏造して源さんになっただけで
ちな、鎌倉時代には藤原氏の将軍もいる
0947不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:46:29.94ID:5/y4dGHS0
日曜日の早朝にbsで太平記の再放送やってるよね
宮沢りえの美しさに感動してるわ
0949不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:50:19.47ID:buGH44K60
>>909
男が女装するということは単に「私はホモセックスの受け身側
です。」という意思表示に過ぎなかったのでは?
南九州では、男色の伝統が明治まで続いていた。
クマソのカワカミタケルには男色の趣味があったということでは?
0950不要不急の名無しさん
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2020/05/23(土) 14:54:52.70ID:LokJHi0I0
奉公と恩賞の形が崩れて鎌倉幕府への信頼が崩れたからだろ
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。