【社会】江戸時代に、もしGoogleマップがあったら… 関東周辺のGoogleマップ風地図が完成 [次郎丸★]
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江戸時代の関東周辺のGoogleマップ風地図が完成 ストリートビューはありますか?
2020年5月31日 ねとらぼ
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2005/31/news028.html
https://image.itmedia.co.jp/nl/articles/2005/31/wk1167_200531edomap01.jpg
江戸時代の関東周辺のGoogleマップ風地図が完成 ストリートビューはありますか?
コピーライトも「(C)1840 Edo bakufu」になってるこだわり(画像提供:@chizutodesignさん)
1840年ごろの江戸時代に、もしGoogleマップがあったら……と想像して作られた当時の江戸近郊の地図がついに完成。江戸の日本橋から全国に伸びていく道は、現在も残っているものが多く、当時と比較したりとロマンを感じずにはいられません。
Twitterで「江戸時代にもしGoogleマップがあったら」とGoogleマップ風に再現した地図が話題になったのが1年前。それからコツコツとアップデートが施され、北関東(群馬・栃木・茨城)と山梨・静岡の一部などを新規に作成&追加したのが今回の最新バージョン。制作済みだった首都圏も一から見直して街道等が追加されています。
海岸線などの地形は国土地理院のデータを元にしており、旧国名の国境や街道などの地名は、当時作られた「天保国絵図」や「富士見十三興地全図」「伊能中図 関東」などを参考にして作られています。当たり前ですが東京湾の埋め立てされた場所はまだ海のままです。
制作・投稿したのはグラフィックデザイナーの@chizutodesignさん。年末には江戸時代(1840年頃)の大阪・京都周辺のGoogleマップ風地図も公開しています。この時は、紀伊半島南部のGoogleマップ風地図も公開されており、当時の人々も訪れたお伊勢参りと熊野詣に思いをはせることもできました。
※以下省略 埼玉県域が突っ込みどころ満載だな、調神社とか
そこらの村社レベルなのにわざわざ記すとか謎
あと行田は商人町の名前で、武家の住む町は忍の
はずだけど何の基準で行田のみ記したのか 太文字は当時の大藩だな
まあ明治時代前はただの山中だったところに藩自体あるわけないけどなw すげー!
日本橋に伝馬町牢屋敷があるからひょっとして!と見たら、
日光街道の江戸の北入口に見せしめの小塚原刑場、
南の江戸の入口東海道には鈴ヶ森刑場があったんだな!
よくできてんな〜 >>89
ネタ元のURL教えてくれ
今は相模原の橋本って昔もあったんだ? 日本の街で過去を示すものって石碑くらいしかないからな 今の地図と古地図を見比べるアプリなんてだいふ前からあるしな >>117
俺は下野國壬生藩があった場所で900年以上続いている宮司家の遠縁(俺の5代前が鎮守様から嫁を貰っている)だよw よりによって火盗改めの前の道を示すナビでお縄にかかる凶盗。本格はナビなんて使わないよ。木村様。
(道に詳しい大滝の五郎蔵談) 桜田門外でたまたま血だらけで倒れてるモザイクがかかったストリートビュー そのうちバーチャル体験で地図の中に入っていけるようになるんだろうな >>1
江戸湾も広くて綺麗だったのに今じゃ狭くて糞の海に早変わり >>97
しろんぼは逆生麦しまくりでんがな、まんがな
都合の悪いことは見ない、考えないタイプのお人ですか〜♪それともゴキブリ寄生虫野郎〜♪ >>97
現地の風習も知ろうとせず
タブーを侵すからそうなる...実際
道の脇に寄って下馬し
帽子をとって礼をしてた外国人には
なんのお咎めもなかったぞ? >>111
ソースにTwitterのリンクあるからそこ行けば参考文献も載ってる >>130
アレ、行列来てるのに馬から下りてやり過ごそうとしなかったことは不思議でならない
馬に乗って行列の傍で右往左往って普通におかしい >>123
だな、だから今は大して栄えてない川沿いの田舎町に
なんか知らんが歴史のある建物が残ってたりする >>135
口コミは是非、池波正太郎風でお願いしたいw >>135
明治時代だと、当時の番付が残ってたりするね
江戸だとさすがに幕末の頃のものしか無さげだけど 平安時代まで遡ったのも作成希望
千年前は渋谷駅前まで海 >>103
ほんそれ
蕨戸田無視して荒川どう渡るのか
浦和は金沢藩に工作して宿を蕨から変えて栄えた盗人根性の町
明治維新の時も春日部に決まってた県庁をどう覆したんかね? 利用する際、徳川宗家の許可が必要って訳ではないよなw >>136
料亭おおむら
「盗人ふぜいが連絡に集まる店じゃねぇなあ」と芋酒屋のおやじ >>138
香取海や太日川の時代か
今とは地形が違いすぎて想像できないから地図化してほしいね 今の地図に旧地名入れただけのクソつまらない出来栄え。
もっと荒凉とした関東を見せろよ。 >>5
それ、言っちゃいけないみたいな雰囲気になってるね
(寓話の裸の王様じゃないけど)
こういうのってセンス出るかも。
例えば「架空の街の地図」では無いけど こんなんでウケる奴もいるんだからマスゴミが世論操作しようだなんて勘違いするんだよなあ >>123 うんうん そうだっちゃ
銚子や野田の醤油を運ぶ水路系図も入れてよ
別レイヤーでいいけん >>153
千疋屋
埼玉の千疋村(越谷あたり)で採れた果物を船で江戸に運んで、人形町あたりで売っていたのが始まりだとか何とか
幕府の親藩、小江戸川越も新河岸川で日本橋川に繋がっていた 武蔵国では、江戸の次はやはり川越なんだなw
妥当なところ
所沢、扇町屋、飯能、八王子、府中も見える
国外では、佐倉、小田原、水戸か 国土地理院でここ数十年の東京の変遷を航空写真で見るだけでもかなり面白いんだよな。 >>124
甲州街道と青梅街道の分岐が新宿三丁目の交差点
内藤新宿はそこから東側ら辺 >>167
1840年当時なら概ねこれで合ってると思うよ。 新選組とか江戸から京都まで2週間くらいで移動してるからな
もちろん徒歩で
しかも冬に碓氷峠を超えて >>22
最初は江戸の古地図見ながらブラブラ番組だったんやで
それがいつのまにかタモリ忖度番組になって非常につまらん Q: 山手線の西側部分が、何故あそこを走っているか?
A: 人が住んで居なかったから!
群馬の生糸を横浜港に運ぶため、北の鉄道を南の官営鉄道に繋げるに当り、
土地買収が大変な上野駅ー新橋駅間に鉄道を引かず、代わりに
赤羽から、新宿の宿場の更に西、人が住んでいない地域を通して、
官営鉄道の品川駅まで迂回路を作ったのが、赤羽線・山手線の始まり。
江戸・明治の東京は、小さかったんだわw >>177
うちの亡くなった祖母の子供時代(昭和初期?)に青山あたりはまだ農村の名残で牛舎があったって言ってた >>177
後藤新平は凄いよ
彼の描いた帝都のまんま今も開発が続いているんだし >>178
1840年なら240年前に利根川付け替え工事始まってるから、
全然干潟じゃない
よく見るとわかるが海岸線は現在のものと違って、当時の海岸線になってる
その辺はよくできてる
旧国名と県域は合ってない
群馬だと館林藩と高崎藩と前橋藩に天領新田荘が少なくとも別れてるがそれは反映されてないしな >>175
関東地方の主だった藩主は三河の徳川家臣団だよ
我が壬生藩も徳川十六神将鳥居元忠公を祖とする鳥居宗家が約300年前に当地に入られ今の16代当主もよく壬生においでになられる 個人で作ったんならこんなもんじゃない? 自分用なんだろうし。 これは秀逸! 面白い。
古地図見るの好きなんだけど、
「当時のまま」で見せられるから、
不鮮明だったり歪んでたり文字が読みにくかったりするんだよな。
こうやって、「現在の画質で情報は当時のまま」の地図にすればよかったんだな! でもディテールが甘い
もうちょっと調べ込んで作り込んでほしい 甲州街道とか奥州街道って実際には〜道中って言ってたのか、街道の方がいいな やはり千住は宿場町として江戸の主要エリアだな。
これからも発展するぞ 古い地図をデジタル再現したのは結構あるんだよ
でも欲しいのはジオコーディングで使えるタイルデータなんだよなあ
誰か作ってくれ >>177
間違い
>当時の新橋の北には、江戸時代からの市街地が広がっており、
また神田から板橋にかけての台地の勾配を避けるため、台地の縁にあり、寛永寺の広大な売却地を利用できる上野をターミナルとした[注釈 5]。
上野 - 高崎間の路線には、「王子 - 赤羽 - 大宮 - 鴻巣 - 熊谷 - 高崎」という英国人技師ボイル案と、
「千住 - 岩槻 - 忍[注釈 6] - 熊谷 - 高崎」という米国人技師クロフォード案の二案があった。
当時の鉄道局長官井上勝がボイル案を採用し、現在の経路となった[10]。
しかし、政府財政の窮乏のために建設は進まず、
民間資金(当時は主に貴族や旧大名など華族の出資)の導入によって鉄道建設を促進するために、
株式会社である「日本鉄道」が設立され、国に代わって建設を行い[11]、日本鉄道の最初の路線(第1期線)として、
また日本初の「民営鉄道」として、1883年(明治16年)に上野 - 熊谷間が開業した。
開業時の開設駅は上野駅、王子駅、浦和駅、上尾駅、鴻巣駅、熊谷駅で、
現在は中距離列車の停車しない王子駅も含まれていた一方、現在の起点である大宮駅はまだなかった。
翌1884年(明治17年)に高崎駅、前橋駅まで延長され、全通した。
高崎まで開通した同年6月25日には、明治天皇臨席のもと上野駅で開通式が行われ、この際に明治天皇は上野 - 高崎間を往復乗車した[11]。
1885年(明治18年)に第2期線(後の東北本線)の分岐駅として、浦和 - 上尾間に大宮駅が開設された。
また、同年には赤羽(王子 - 浦和間)から官営鉄道の品川を結ぶ路線(現在の山手線・埼京線)が開業し、
群馬と横浜を結ぶ当初の計画が実現した。
まず新橋-横浜間、次に上野-高崎間、
それから大宮ができて、赤羽ができてから赤羽-品川間ができた
山手線の「東側」はこの絹の輸出貨物線なのが先
新宿の西なんて通らねえけど? Googleアースで様々な時代の地球見られたら凄い楽しいだろうな。 >>175
八王子に置かれた。
いわゆる千人同心ってやつ
東海道を登ってくるのに迎え撃つ最後の砦とでもいうべき、
旧徳川家臣団の足軽大将以下は全部そこ
他の農民と違うのは名字帯刀を許されて、平時から刀を持てるから、「同心」と呼ばれる
いわゆる屯田兵ってやつ
それより上になると山手台地に住んで江戸城勤するか、
あるいは小名として地方に家付の土地持ちか、国家老。
さらに上だと藩主。
三河人はほとんど八王子。
民間人は日本橋界隈で商売してる。これが三河屋。
あとは親藩を関東各地の街道宿に置いて、天領(近年は幕領とも)として徳川家の持ち物とし、
それ以外の各地を家康温故の譜代に与えてる
館林藩とか宇都宮藩とかがそう >>193
えっと、
>また、同年には赤羽(王子 - 浦和間)から官営鉄道の品川を結ぶ路線(現在の山手線・埼京線)が開業し、
が、新宿経由の路線のことだと思うけど。
秋葉原経由は、明治19年申請で貨物駅の開設が明治23年だから、もう少し後になる。 徳川慶喜が巣鴨近くに住んでて、山手線が出来ると聞いてうるさいのは嫌と引っ越したのは感慨深い >>179
大正時代に新宿に牧場があって牛がいたと聞いた >>195
以前はそうだったが今は違う喧嘩別れした ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています