【東京】「トキワ荘」来月7日博物館に 手塚治虫さんら生活 [爆笑ゴリラ★]
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6/27(土) 10:37配信
時事通信
木造アパート「トキワ荘」を忠実に再現したトキワ荘マンガミュージアム=27日午前、東京都豊島区南長崎
漫画家の手塚治虫さんらが若き日を過ごした東京都豊島区の木造アパート「トキワ荘」を再現した「区立トキワ荘マンガミュージアム」(同区南長崎)が来月7日、開館する。
区は漫画・アニメ文化の発信拠点にしたいと期待を込める。
手塚さんは1953〜54年にトキワ荘で生活。その後も、藤子不二雄さんや石ノ森章太郎さんら昭和を代表する漫画家が移り住み、創作活動にいそしんだ。老朽化により82年に解体されたが、ファンの間では聖地として知られている。
同ミュージアムはトキワ荘の跡地近くに建設され、内装や外観を忠実に復元した。1階ではゆかりの漫画家らの名作を自由に読め、2階の部屋や共同炊事場などでは当時の生活を垣間見ることができるという。
トキワ荘の解体時に警視庁池袋署を拠点としていた記者らに頼まれ、手塚さんが「リボンの騎士」の主人公サファイアと自画像を描いた天井板も1階に展示される。
3月にオープン予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大で延期されていた。開館時間は午前10時〜午後6時(月曜日は休館)で入館無料。感染防止のため、当面の間は入館に予約が必要という。
https://amd.c.yimg.jp/im_siggxpJzMs5xXOS..03JIYrqWQ---x900-y602-q90-exp3h-pril/amd/20200627-00000039-jij-000-2-view.jpg
https://news.yahoo.co.jp/articles/50a21bb8a636beeb36bc116a1f954dbefa1d3d9f >>348
後に赤塚自身がタモリに同じことしてる
赤の他人でも優しくできた時代なんだろう
藤子不二雄も上京初期は親戚の時計職人の家族に居候させてもらってるからな ま、80年代の藤子不二雄は神懸かってたよな
テレビアニメは週3回ぐらいで視聴率は20%越え
まんが道はドラマ化、少年時代の映画化、その主題歌は井上陽水の代表曲になる
コロコロコミックでは何本も連載、藤子不二雄ランドの全集がテレビcm、ドラえもんの映画化、我孫子がギミアブレイクで準レギュラー
80年代の藤子不二雄を超える漫画家はもうでないだろう >>439
そんなマンガ家出てきたら今のご時世ならアメリカに潰されるよ
キャラクタービジネスで日本に負けまくった結果が
サザエつぶしクレしんつぶし妖怪ウォッチつぶしワンピースつぶし鬼滅つぶしだ >>433
なお悪いw
あすこのタワマンの住民(余所者)だべさ〜とかやってるだろうから
そりゃ人もいなくなるよ
地元住民の代わりにコンビニやスーパー、ドラッグストアが入っててマット殺人とかなければもう少し人入ったかもねw
それにしてもこのド不便なとこに数千万で売り出すこの強欲さw
嫌だねえカッペは タモリは芸能界入りしたくて赤塚不二夫や山下洋輔が行き付けの飲み屋に通い
赤塚不二夫が来店するとフルチンになってイグアナの物真似などをして必死で気に入ってもえる様にした >>444
トキワ荘って建築が1952年だから30年でえらい貫禄が出るなぁw
昔だからか もし1982年のトキワ荘残してたとしてもとても耐久性悪すぎて中に入れないと思う
階段なんか腐って足踏み外すんじゃないかと >>394
高級アパートだったトキワ荘に別の賃貸の家賃滞納したことがあるつげさんは住めないと思う >>444
ちょっと前の朝ドラの舞台になってたアパートそのものやん、共同台所とか >>444
下から2番目の様子、覚えてる。懐かしい。ありがとうございます
解体の日にふらっと行ってみたが、マスコミなんて来てなくて、どこからともなく来た漫画ファン風の人達が、木材とかを貰ってたな
私も貰っておけばよかった
子どもの頃に赤塚不二夫本人に、目の前でイラスト入りサインを色紙に描いてもらったことがある。トキワ荘だったか、すぐ近くのアパートだったか、西落合の家だったが忘れた。色付きのひみつのアッコちゃんをさらっと描いてくれた。他の友達は別のイラストだった。子どもに優しい人だった印象
当時、友達と横山光輝の家とかも訪ねた ほんと戦後の焼け跡から安普請でもとにかく住宅、って感じで
雨後のタケノコで出来た安アパートのひとつ。
80年代のバブル直前で漫画が海外にもグローバル展開する前だったら
もうさっさと解体しちゃえ、でも仕方ないな、、 その頃ってそこらじゅうにトキワ荘みたいな木賃アパートが建ってた。銭湯もたくさんあった
椎名町駅から目白通りにかけては、染め物工場がたくさんあった。当時はそこらじゅうに川やどぶ川があった >>450
直筆イラスト入りサインなんてお宝じゃん。裏山
赤塚不二夫のまんがにもよくドブとか土管出てきたな 大泉の駅前にアトム、999、ジョー、ラムちゃんといった往年の漫画スターの銅像が並んでるんだが
ラムちゃんだけやたら性的で目につくんだよw
子供に変な影響与えそう >>453
ところが子どもの頃だから、価値なんてわからずメンコとか一緒に、どっかにいってしまった
南長崎には巨人軍専属の吉田接骨院ってのもあって、長嶋や王などが怪我すると来てたので、皆でサインをよく貰っていた。そんなのもどっかにいってしまった >>455
バカボンの絵入りサインなら10万ぐらいしそうだ ついでに話すと
吉田接骨院ってのは外から庭が覗けた。庭には大きな犬がいた。王は娘を連れて来て、その犬と遊ばせていたような。また、長嶋が怪我して来る時は土井が運転してた
いつ選手が来るかってのは、後楽園の試合で、巨人の選手がデッドボールをくらうと、大概、翌日に来るパターンだった
それと南長崎は落語家もたくさん住んでいたと思う。ひと駅隣に池袋演芸場があったからだと思う >>442
タワマンに住む=自慢って、都会の感覚じゃないか? >>435
それはA先生のお仕事
F先生は学年誌にちょっとかくだけ
アシはほぼ一人だけ
毎日定時帰りだった >>457
赤塚不二夫に友達(たぶん、3、4人で)とサインを貰った時のことで覚えてるのは、それぞれに違うイラストを描いてくれたこと。それと、自分達は黒いペンしか持っていかなかったが、赤塚さんは何色かのペンを自分で玄関みたいな所に持ってきてくれていて、さっさっさっと色まで付けてくれたこと。しかも一瞬で。子供ながらに、この人は天才だと思ったのを覚えてる >>455
ひぇえ〜 そうか。。
そういう自分も昔手塚治虫の「マンガの描き方」とかいう本の
4コマ漫画募集!に応募して参加記念ハガキ的なのもらったけど
本ともども捨ててしまったわ、、とっときゃ良かった >>462
あっ、そうだ。赤塚さんは立ったまま、描いてくれたな
あの頃ってスマホなんて無いし。今ならツーショット写真もお願いしたんだろうな。壊れされる前のトキワ荘の写真も友達の誰も撮って無かっただろうな。撮るもなにもカメラなんて持って無かったんだから
作品の前後はわからないけど、赤塚不二夫って言えばニャロメが凄い人気だったよね。当時の学生運動の象徴だったんだよね。日本の政府なんかに従ってられるかよ。ニャロメー >>463
ある。というより、当時の本物で残ってるのは松葉だけ
メニューはラーメン、タンメン、餃子とかで、アトムラーメンとかトキワ荘タンメンとかバカボン餃子みたいな変なネーミングのメニューは無い ニャロメは後に大学教授がなんかになり
人間(生徒はバカボンパパなど)に数学や天文学、性科学から麻雀、囲碁まで教える
偉い先生になってしまった >>467
そういえば、トキワ荘商店街って看板がかかってた気がします
商店なんてほぼ壊滅状態なのにね
道路マップでもそのうちトキワ荘通りに変わるのでは >>244
西新宿にあったスタジオゼロの建物も平成まで存在してた バカボンのパパってバカ田大学卒ですよね
完全に早稲田大学を意識して
トキワ荘にしても、中井駅にしても早稲田大学は近いっていえば近いしね
本当はトキワ荘からは学習院と立教が近いんだけど
そういえばタモリは早稲田ですね。タモリはイグアナや四か国麻雀の頃は面白かったな。赤塚不二夫がいなかったらタモリは存在しなかった トキワ荘の住人でまんが道に出てこなかった奴いるよな
よこた何とかって人
彼はなんだったんだ >>452
窓の下には神田川 三畳一間の小さな下宿 >>449
「ひよっこ」のアパートには藤子不二雄もどきの漫画家が居た。 >>464
手塚治虫のマンガの描き方の後に出た
石ノ森章太郎のマンガ家入門の方が若き漫画家達のバイブルとして支持された
これで手塚がまた嫉妬するんだ >>450
横山光輝の家って、確か千早町のフラワー公園や城西中高のそばだっけ >>319
褒める割には安孫子の漢字を間違えるという >>473
新漫画党の一期しかまんが道にでてこない アパートでたった30年で解体とか
よっぽど痛むのが早い物件だったんだろうな >>476
漫画家志望者らの質問コーナーまであって面白いんだよな
悩みはいつの時代も変わらないw >>476
押井守も読んで影響受けたと公言してたわ石森本 >>475
藤子不二雄にあこがれた二人組だとナレーション説明あったよ まあ壊した時はもうトイレも付いてない4畳半一間なんてみんな避けた頃じゃね 去年まで椎名町の北に似たような玄関共同のボロアパートがあったなあ 昭和のアパートのテンプレのひとつみたいな設計だよなトキワ荘って
90年代後半の東京の裏路地にはそっくりなアパートが結構残ってた
今の40代ぐらいまでならどうにか記憶として残ってるはず アパートは風呂無しで
風呂は銭湯ってのが普通だった時代だからなぁ >>436
たしかに相対的にはそうかもしれんが
「キテレツ大百科」「エスパー魔美」「モジャ公」
「21エモン」「ウメ星デンカ」はアニメになったし、
SF短編集はF先生でないとかけないだろう すでにオバQが大ヒットしているだろ、どっちがメインが知らんけど >>488 あれは復元したヤツ。あんなキレイじゃなかったみたいよ。写真でしか見たことないが >>493
幕末志士が集まった写真に匹敵するな
あちらは偽だけど 最近神保町スレも立ってたけど
昔の学生や若者の文化って良いもんだな >>476
手塚先生はかなり古くから「マンガの描き方」をテーマにした作品を描いてるけど
文字がメインの「マンガの描き方」は石森先生の「マンガの描き方」よりも後だったように思う
ただ、手塚作の「マンガの描き方」は、「マンガなんて描いた事が無い」という
「普通の人」に向けて「マンガを描く事を勧める」というものであったのに対して
石森作の「マンガの描き方」は、「雑誌に掲載できる作品」を作る為のものだったように思われる
若きマンガ家に支持されたとしたら、そういう事へのアドバイスが丁寧だった事かな
>>464
自分も読んで、投稿したけれど、なんの反応も無かった
どうしようもない(そう思われても仕方ないような)作品って事だったのかな… >>478
我孫子だと常磐線の駅名だね(でも「安孫子」も候補には上がった) >>23
ヒット作はあったし、漫画の依頼も舞い込んでいたが
自分の進む道と、雑誌社から求められる作風の違いに嫌気がさして自ら筆を折ることに。 寺田ヒロオの作風でも昭和50年ぐらいまでは学年誌で
それ以降は歴史物とか描ければ描けたんだろうけど
やっぱ新漫画党で1番でいたかったのかな
けどトキワ荘から早々に出て
1番遅かったのが石ノ森ってのがなんとも面白い >>499
将棋の棋士と相撲取りと売れっ子漫画家のヨメは美人ばかり
経済力が嫁のルックスに出るイヤな現実を見せられる気分だよ >>462
訓練だよ訓練
あんたがキーボード叩くスピードを当時の赤塚氏が見たら鬼かと思うだろうよ
慣れと天才を混同してはいけない >>74
そうでもないと思うよ
自分は全く世代じゃないけどトキワ荘は知ってるしあの昭和感を再現してくれるならレプリカでもちょっと行ってみたい あそこで暮らしてたみんながみんな成功した訳じゃなく
夢破れて嫌な思い出になってる人もいるんだろうな >>505 多分もう亡くなってる人のほうが多いかと >>504
俺も世代じゃないから本当の価値が分かっているか?
と問われたら自信持ってハイとは言えないけどさ
でもまんが道その他でトキワ荘関連のエピソードは知れ渡っているよね
平成の漫画好きでも普通に知っているレベルの教養ではある トキワ荘に1番思い入れがある層は
藤子不二雄黄金期が小学生だった年代だろ
つまり団塊ジュニア、40代、氷河期世代な >>12
82年当時は、手塚先生も藤子先生も赤塚先生も石森先生も存命中
今でこそ「神様」だの「伝説」だの言われてるけど
当時はドラえもん等が絶好調だった藤子先生以外は
「昔すごかったらしい人」程度
トキワ荘なんて聖地どころか
よっぽどのマニアしか聞いたこともないただのボロアパート
残す意味なんてないよ >>459
それをこんな何にもない犯罪県に作っちゃったからだよ
数百万のタワマン(笑)今じゃ訳有りDQNの寄せ集めw >477
主婦の店の通りじゃなく、長崎神社の通りを北に向かって行ったと思う >>493
ジョージ秋山は今の椎名町公園の横の渡辺建設の隣辺りの家に下宿してた
当時は椎名町公園は無く、古い木造平屋の都営住宅の集落だった 日曜日の式典に来たのは里中満智子って新聞に出てたけど、思い出話を聞きたかったな
もしかしたらトキワ荘って女は出入り禁止だったのかな
里中って大阪出身みたいだから、やっぱりトキワ荘周辺に下宿してたんじゃないのかな
さいとうたかおも関西出身で中野住みだったらしいね。そういえば、トキワ荘近くに南長崎2丁目ってバス停があり、そこから哲学堂、新井薬師経由の中野駅行きバスに乗れる そうだ
中央線沿線からトキワ荘ミュージアムに来るには中野駅のサンプラザ横のバス停から池袋行きのバスに乗ればいいってことだね これのニュース映像で
水野英子?ていうばあさんが
こんなんやわーまた描きたくなるわー言うてたで 辰巳ヨシヒロ「劇画漂流」読むと劇画畑の人達の様子がわかる >>445
高度成長と技術革新で生活様式、建築資材が一変したんで
今の直近30年と当時の30年じゃ変化が全然違う。 手塚の伝説的月刊誌「COM」が「トキワ荘ものがたり」を毎号掲載していた。
漫画家達(勿論、現役で活動中)が、当時の生活や思い出を「自伝漫画」として描いた。
執筆した漫画家は多分15〜16人(15〜16回掲載)だったと思う。
当然、いろいろの話題(例えば新漫画党の話)が被るが、執筆者の立場の違いにより、
微妙に食い違っているのが面白かった。
記憶がかなり怪しいが、
@執筆者=横田とくお
他のメンバーから「お前、臭い」と指摘される→部屋を捜すと→腐った牛乳瓶があった。
(腐って中から溢れて蓋を押し上げていた)
腐った臭いが体に染みついていたのだが、鼻が慣れて自分では気が付かなかった。
そういう恥ずかしいことでも「自伝」として描いている。
A執筆者=赤塚不二夫
石ノ森章太郎のおごりで、毎日、映画を見た(当時見た映画のタイトルを手書き文字で
駒に一杯書き込んである)
机が無い→ミカン箱にベニヤ板を釘で打ち付ける→執筆のために肘を乗せたところ→
釘が外れて→板が跳ね上がり→横に居た編集者に墨汁をぶちまけた。
B執筆者=森安なおや
彼は破滅型の人物。
才能を期待されながら、トキワ荘メンバーで唯一人、漫画家として成り立たなかった。
漫画家を諦める→生活のため→牛乳配達のアルバイト→皆へ何本も押し付け売りする。
皆は「あんな奴、追い出せ」と怒る→それを寺田ヒロオがかばう→その寺田も最後には
堪忍袋の緒を切って、森安を叩き出す。
そういう自分の恥ずべき顛末を、隠すことなく「自伝」として赤裸々に描いた。
この森安の「自伝」が、悲劇的で、一番面白かった。 寺田が書いた後輩の連絡係みたいな立場になってくさってる漫画も前スレに出てたよね。
子供のころまんが道のあとにそれ読んで違和感感じたの思い出した。 >>462
初期の天才バカボンはドン引きするくらい下手くそな絵だぞ 確かにね
>>503
こどもの頃だったから速く感じたのかもしれない
>>521
こどもの頃だったから上手く感じたのかもしれない
こどもの頃だったから、いい人に感じたのかもしれない ケモンパスとかベシってユニークなキャラだったよね
ウナギ犬ほどメジャーじゃないけど
ところでおそ松くんって、最近はおそ松さんに変わったよね。何でかな >>519
それ、まとめたのがトキワ荘物語として出版されてて自分も持ってる。
「そのやましゅんじ」が書いてないのが違和感。誰か理由知ってる人いるかな? >>523
「おそ松くん」のキャラクターを使った完全なる二次創作だから おそ松くんの頃のご馳走と言えばビフテキ。1ドル360円だったし、牛肉の輸入規制もしてたからビーフステーキなんて庶民は聞いたことしか無いような裕福な家だけの食べ物だったな。同様にビーフカレーなんて無くて、庶民にとってカレーは当たり前のようにポークカレーか鶏肉のカレー
公園のドラム缶に住んでるとか、パンツしかはいてないデカパンとか、昔は違和感無かったな。チビタが持ってたようなおでんは庶民の食べ物だったか贅沢な食べ物だったかは、よく覚えてないな >>372
ゲイジュツカの生活保証しろー! と言うのは、文化の発展を損なうって事だな。 >>523
「おそ松くん」達が成人したという設定での話だから、かな >>510
殆どの一般人はこんな評価だろうな
価値を理解出来るのは漫画好きだった60代以上だよ >>531
椎名町駅の頭上には山手通り、山手通りの地下には首都高を造ったから、線路は今の地面以外に無理でしょ
方法としては、駅より高い位置の山手通りより更に高い位置に線路を造らなければならない 中国洪水スレに貼られていた上海水没動画、中国人のおっさんがドラえもんTシャツ着ててワロタ
https://you
tu.be/wMbGu-K3d4Q?t=17 藤子F先生が昔住んでいたトキワ荘
藤子F先生が尊敬しているから手塚先生は漫画の神様
所謂80〜90年代に少年時代を過ごした藤子世代とその子ども世代からしたらこのイメージ なんで1建の建物に天才たちが集まれたん?
偶然集まったのか昔の日本人に天才が多かったのか >>530
その世代よりも今の40代の方がトキワ荘を伝説だと思ってるよ
逆に60代以上にとってはそれこそ汚いアパートとしてしか認識出来てない
だから何の感慨も反対運動も無くあっけなく取り壊されてしまった訳でね >>535
ガキにコロコロコミック読んでた世代からすると、やっぱ藤子不二雄が一番かなぁ
手塚治虫の漫画は散髪しに行ったら置いてあったブラックジャックや火の鳥を読んでた程度
コロコロは愛読書だったからやっぱ藤子先生推し
当時の小学生が自分の持ってるマンガ以外のものをいろいろ読めたのは散髪屋か健康ランド ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています