EU、香港への輸出制限 国安法に対抗策 [ブルーベリーフラペチーノうどん★]
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【ブリュッセル時事】欧州連合(EU)加盟国は28日、中国による「香港国家安全維持法」(国安法)制定への対抗策で合意した。抑圧や通信傍受、インターネット上での監視に用いられる恐れのある機器や技術の香港への輸出を制限する。
EUは声明で、国安法への「深刻な懸念」を表明。「『一国二制度』の原則下での香港の自治への政治的な支持と、香港市民への連帯を示す」と強調した。
https://www.jiji.com/sp/article?k=2020072900237&g=int >>64の続き
それでですね、「どうしても信じられない」という人がたまにいるんです。
河南省の農民が日本軍に協力して中国国民党軍をやっつけた、という事をです。
何度も言いますが、当時の中国民衆は軍閥の家畜のような存在であり、
国家・国民意識が希薄だったのです。
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■日本軍を軍閥の一つと勘違いした中国民衆の無関心
日中戦争の一つの山場、徐州会戦(1938年)当時、日本の第十三師団は
通過する村々で「熱烈歓迎」を受けた。
不思議に思った部隊が通訳を通じて訳を聞いたところ、
村人たちはみな、日本軍をこの頃評判のよかった広東軍だと思い込んでいたことがわかった。
中国の民衆は、必ずしも皆が日中戦争のことを知っていたわけではなかった。
これは笑い話でも何でもない。
日中戦争中、中国の人口を圧倒的に占める農民は、伝統的な愚民政策のもと、
当然のことながら「天下」の情勢には無知、無関心だったということだ。
戦乱の世にあっても、どの党、どの派閥の軍隊が天下をとろうと、
彼らにとっては個人の力ではどうしようもできない。
ただ受け容れるほかにないという、あたかも晴れ・曇り・雨といった天候のようなものだった。
だから、自分のその日の生活だけが唯一の関心事であり、通過する軍隊が
外国軍だろうが軍閥軍だろうが関係なかった。
日本軍と出会っても、たとえ言語が違ったところでそれが外国軍だとは必ずしもわからない。
なぜなら中国各地の言葉はみな異なり、出身地が違えば言葉も通じないのはごく普通のことだからだ。
また、多くの中国人は日本という国自体を知らなかった。
交通が未発達だったこの国では、多くの農民は自分の村から出たことすらなく、
村の山の向こうの世界がどうなっているかなど、知りもしなければ
興味すら持たなかった。
だから日本軍兵士は農民たちから、よく「どこから来たか」「日本は歩いて何日くらいの場所にあるのか」などと尋ねられた。
これは大勢の従軍経験者が語っている事実である。
つまり多くの民衆たちは、日本軍を単なるどこかの地方軍閥と見ていたのだ。
「日中戦争知られざる真実」 黄文雄 光文社
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↑このような状態で日本軍が飢えた河南省の民衆を救ったわけです、どうなりますか?
>>64になるのは分かりますよね? 中国がやってる事は、侵略な。
侵略してる側は、侵略じゃないと言うだろうよ。
こんな法案に、賛同する人や国は洗脳されてるわ。 >>54の続き
「日本は中国に侵略した」論者の論点は二つ
1、満州国建国関連
2、盧溝橋から始まる日中戦争
それでは次に1の満州国建国についてですが、実はこれこそが侵略論争の主体です。
いつも貼ってるものではなく、たとえば満州国を巡って日本が国際連盟を脱退した経緯についてなども書きたいのですが、
しかし取りあえず最重要な・・・いつものを貼りましょう。
よく知らない人でもいきなりハイレベルになれるようにまとめてあります。
プロの反日左翼(歴史担当)と議論するならばもうちょっとだけ肉付けは必要ですが、しかし
これを知っていいるだけでも十分ですね。 >>71の続き (投稿制限で書き込めなくなるので少しずつ)
現在問題となっているチベットや新疆ウイグル問題と絡めて話を進めましょう。
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オランダがインドネシアを300年以上支配していたのはご存知の方も多いと思います。
さて、オランダによるインドネシア統治が終わる時に
「今まで支配していたのだから、今度は逆にインドネシアがオランダを支配するべきだ」
という人はいるでしょうか?
それはイギリスのビルマやインド、フランスのベトナムなどにも言えますが、
「今度は逆に支配されるべきだ」と感情的になって言ったとしても、本気で言う人はいないでしょう。
しかしもしも両者が話し合ってそのように決まったならば、
つまりインドネシアによるオランダ統治が決まったならば、どこの国も異議を唱えないでしょう。
両国は協定を結び、インドネシアによるオランダ統治が始まった(とします)
しかしここでインドネシアが協定を破棄した事により、オランダが前のように独立するとなったら?
誰もオランダを責めたりする人はいないでしょう。
では満州国について・・・ >>72の続き
17世紀に満州の地にあった「満州族」の国家である大清が、
「漢民族」の国家である明を破り、漢民族を支配した。
ここで大清(満州族)による帝国においての他民族や国との支配関係を見てみましょう。
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しかし、清帝国支配化のアジア諸民族の地位はそれぞれ違っていた。朝鮮や越南は属国であり、
モンゴルは盟友で、チベットは教王領として、ダライ・ラマとパンチェン・ラマは、皇帝の国師となっていた。
新疆の回部とともに藩部と称され、外様大名であった。だから、モンゴル・チベットは朝鮮のような属国ではなかった。
清朝支配下の中国について、たとえば岡田英弘教授のように「清の植民地」とみる学者もいる。
ではなぜ清王朝の中国支配が「植民地支配」とみなされるのだろうか。
それは征服国家が植民地に対して行う取り扱いと共通項があるからだ。
たとえば、満州人は宦官にしない。漢族を絶対に官女としない。漢族の藩部、藩属、化外の地への移住禁止。
対外公文書は漢文を使わずすべて満蒙文やラテン文。漢人の夷語(外国語)学習の禁止。
夷人への漢語・漢文伝授も禁止。満州人と漢人の二重官僚制度、皇帝直属の最高権力者の軍機大臣に漢人を登用しない。
天朝の国家軍隊が満蒙八旗軍、漢人は地方部隊の経営。漢人はいかなる重臣といえども、
清皇帝に対し、「家奴」(家内奴隷)と自称・・・・・など。
清の皇族も、亡国寸前まで「国家を外人(列強)に渡すとも、家奴(中国人)には渡さない」という主人意識を持っていた。
だから、中国は清王朝の「植民地」というよりも、「家奴国家」であったろう。
『捏造された近現代史―日本を陥れる中国・韓国の罠』黄 文雄 (著)
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辛亥革命というのは「自民族の王朝を倒す革命」ではなく、
「漢民族による大清帝国からの独立運動」だったのである。
アジアの植民地が欧米諸国から独立するようなものです。
三民主義を知っているだろうか?
みんなも学校で習ったと思うが、ある事が隠されていた。
反日左翼教師が教えなかった事がある。
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ウィキペディア【三民主義】
1905年、中国同盟会が創設されたときに「韃虜の駆除・中華の回復・民国の建立・地権の平均」の
「四綱」が綱領として採択され、孫文はこれを民族(韃虜の駆除・中華の回復)・民権(民国の建立)・
民生(地権の平均)の三大主義と位置づけた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B0%91%E4%B8%BB%E7%BE%A9
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韃虜(だつりょ)=満州族の蔑称
「韃虜の駆除」である。それが隠されていた。
まぁなんというか「隠すほどに現るる事はなし」(隠そうとした事で却って人に知れ渡ってしまう)
この三民主義の場合、何が現れるかというと「満州国建国の正当性」である。
「満州国建国の正当性」を論じる上で漢民族と満州族をはっきりと区別し認識する事は
大事なことだ。
・・・続く 日本もAmazon筆頭に通販会社に、
中国企業の商品、またはメイドインチャイナ商品の販売禁止命令すれば
中国はあっという間に干上がる。
Amazonの中華製品ろくなのないからちょうどいい。 >>75の続き
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シナでの革命が危険なものに思われはじめた時、
満洲朝廷は満洲へ隠棲する可能性を見過ごしていたわけではない。
それどころか、この問題は真剣に議論されたのであり、
シナと満洲の多数の帝国主義者は、これこそ追求すべき最も賢明な方策だと主張したのである。
ところが最終的に摂政と多くの親王が北京に残留することを決断したのは、
袁世凱が優待条件の中で彼らのために確保した条項を、彼らが、愚かにも、
そしておめでたくも、すばらしいと信じたからである。
完訳 紫禁城の黄昏(上) 祥伝社R・F・ジョンストン 中山 理(訳) 渡部昇一(監修)
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この時に大清の満州族が父祖の地である満州に帰っていたら、
中華民国とは別の国、大清(国名はそのままかどうか分からない)が
満州の地で続いていた事になる。
しかし最終的に北京に留まったのは、袁世凱から提案された優待条件、
すなわち清帝退位協定を中華民国政府と結んだからである。
これは一体どういう協定か? >>78 清帝退位協定
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中華民国政府が清朝と締結した『退位協定』(抜粋)
1 大清皇帝(宣統帝・溥儀)は辞位(退位)後も皇帝の尊号を廃止せず、
中華民国(支那共和国)は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する。
2 大清皇帝は年金として毎年400万両(テール)を中華民国より受領する。
3 大清皇帝は暫時、紫禁城内に居住し、後日、頤和園に移住する。
4 大清皇帝の宗廟・陵(墓所)は永遠に奉祀し、中華民国はこれを慎重に保護する。
5 先帝・徳宗景皇帝(光緒帝)陵の工事は予定通り続行する。その奉安の儀式も旧制のままとする。
6 紫禁城内の各職員は従来通り使用出来る。但し太監(宦官)は今後採用出来ない。
7 大清皇帝の私有財産は中華民国が特別に保護する。
8 禁衛軍(皇帝守備軍)は中華民国陸軍部の編成下に置かれる。
http://www.teikoku-denmo.jp/history/honbun/chuuka_minkoku1.html
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清帝退位協定付属の第二文書(皇族、他民族待遇について)
満、蒙、回、蔵各族待遇条件
第一条 満、蒙、回、蔵各人種ハ漢人ト完全ニ同等ナルベシ。
第二条 満、蒙、回、蔵各人種ノ私有財産ハ完全ニ之ヲ保護ス。
第三条 満蒙ノ王公其ノ他ノ貴族ハ従前ノ通リ其ノ称号ヲ保持スベシ。
第四条 貧困ナル王公ニハ生活費ヲ支給ス。
第五条 八旗ノ生計ニ關スル規定ハ速ニ之ヲ定メ其ノ規定ノ制定セラルルマデ八旗ノ俸給ハ従前ノ通トス。
第六条 満、蒙、回、蔵各人種ニ対スル通商及居住ニ關スル制限ハ之ヲ撤廃シ爾今各省県ノ居住ハ自由タルベシ。
第七条 満、蒙、回、蔵各人種ハ完全ナル信教ノ自由ヲ享有ス。
ブロンソン・レー著『満州国出現の合理性』(日本国際協会、昭和11年8月)、付録ノ三より。 >>80の続き
この協定によって中華民国は大清の版図を承継した事になった。
しかしこれは漢民族(中華民国)と満州族(清帝国)の取り決めであって他の民族は従う必要が無い。
盟友(>>73)であるモンゴルは「漢民族に従うなんてまっぴら御免。
(満州族)皇帝が復辟すればすぐに帝国に馳せ参じる」として去ってしまった。
当然チベットや新疆もその権利がある。
しかし一番重要な事は、中華民国政府はこの清帝退位協定をハーグ国際法廷に登録し、
諸外国に通達して国際法として遵守するとしていたのに、12年後の1924年に協定を破棄してしまったのである。
つまり中国は国際法的にも道理の面でも、チベットや新疆ウイグルの主権を主張する根拠が全くないのである。
そして1928年、協定にもあった「4 大清皇帝の宗廟・陵(墓所)は永遠に奉祀し、中華民国はこれを慎重に保護する」が
蒋介石の北伐軍によって蹂躙された(墓荒らし)。
宣統帝溥儀はこの先祖の墓荒らしをされた事で、父祖の地である満州に還る決心をした。 >>81
>宣統帝溥儀は先祖の墓荒らしをされた事で、父祖の地である満州に還る決心をした。
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他のことなら、たとえば侮辱でも、嘲笑でも、死の威嚇でも、財産の没収でも、
そして契約の破棄でも許す事ができよう。
しかしこの残忍極まりない、神聖冒涜のおぞましい行為だけは絶対に許すことができない。
このとき以来、シナに対する皇帝の態度が変化したのである。
もっと正確に言えば失政の責任を負うべき人々に対する皇帝の態度が変化したのである。
皇帝は生まれつき寛大で思いやりがある方なので、最も凶暴な敵に対してでさえ、
今までただの一言も怒りや不平を漏らしたことがない。だが今度ばかりは、
さすがの皇帝も到底見逃せない事件だったのである。
その時まで皇帝は、満州に勢力が結集していることは知っていたものの、
独立運動にはまったく関与していなかった。また、皇帝自身が先祖の故郷の満州へ戻るよう
誘われる可能性についても、まともに考えたこともなかった。
皇帝は、いつかシナが正気に戻り、万事がうまく運ぶだろうとという希望を抱きつづけていたのである。
だが、今やその希望も消えうせてしまった。私が次に皇帝を訪ねたときは、
目立った変貌ぶりを見せていた。あまりにも変化が著しいので、皇帝は侮辱された先祖の霊魂と霊的な
交わりを持ったのではないか、そしてそれまで自国と先祖を辱めたシナに向いていた顔を
三百年前に帝国の強固な礎を築いた国土に向け、満州を注視せよと、
先祖の霊魂にせきたてられているのではないか、と思ったほどだ。
完訳 紫禁城の黄昏 祥伝社R・F・ジョンストン 中山 理(訳) 渡部昇一(監修)
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