【大分】「邪馬台国は別府温泉だった!」日本史最大のミステリーに新説 「距離・方向ともに魏志倭人伝の記述とぴったり一致する」 ★2 [樽悶★]
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邪馬台国はどこにあったのかー? 日本史最大のミステリーにこの夏、新たな説が登場した。タイトルはずばり「邪馬台国は別府温泉だった! 火山灰に封印された卑弥呼の王宮」(小学館新書・840円税別)。
著者は、従来の学説にとらわれない柔軟な思考で古代中国の文献「三国志 魏志倭人伝」を丁寧に検証している。別府温泉の湯煙を思い浮かべつつ読めば、大分県人の夢広がる一冊だ。
著者の酒井正士さん(64)は東京都出身。東大農学部卒業後、ヤクルト本社に勤務し、脳機能改善や老化予防のための医薬品・食品開発などに力を注いだ。
邪馬台国の「謎」に興味を持ったのは約10年前。「邪馬台国の秘密」(高木彬光著・カッパノベルズ)がきっかけだった。歴史には門外漢の酒井さんだが、邪馬台国に関する文献を読みあさり、在野の研究者が集う「全国邪馬台国連絡協議会」の会員になって独自の研究を進めてきた。
着目したのは、魏志倭人伝に残された「距離と方向」に関する記述だ。多くの学説は、古代中国の使節がまず日本に上陸した「末廬国」(まつろこく)を現在の松浦地方(唐津市)としている。これは「まつろ」と「まつうら」という、地名の類似からきており、邪馬台国研究の“元祖”である、江戸時代の朱子学者・新井白石が提唱したことも大きい―と酒井さん。
同じように、使節の行程記録にある伊都国(いとこく)は糸島市とする説が多く、「九州説」「畿内説」のベースとなっている。しかし魏志倭人伝には、伊都国は末廬国の南東に位置するとの記述があり、2都市の実際の位置関係である「東」とは方向が異なる―と、酒井さんは指摘する。
「高い測量技術を持ち、古くから正しい方角を重視してきた古代中国人が書き残した魏志倭人伝は、距離や方角について正確に記載されていると思います。現代に残された“生データ”を分析し、私は末廬国を北九州市として、その他の国の場所を推定していきました。すると、現在の日向街道を別府方面に進んだ道筋が、距離・方向ともに魏志倭人伝の記述とぴったり一致するのです」。
酒井さんは実際の地図や地形図、航空写真などの資料をインターネットなどで入手し、魏志倭人伝の記述を照らし合わせた。そして、最終的に邪馬台国は別府市街にあった―と結論しているが、その遺跡は残念なことに、貞観9年(867年)の鶴見岳・伽藍岳の大噴火によって火山灰の下に埋もれてしまったのではないか―と考察している。
「別府市街地の海岸部をのぞく一帯は奈良時代と平安時代の2回の噴火によって火山灰に埋め尽くされた―と考えます。地下には、イタリアのポンペイ遺跡のように、古代の遺跡が手つかずのままに残されているのでは―。調査したら遺物が出てくるかもしれません。
9/11(金) 11:37配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200911-00010001-mjikenbo-l44
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200911-00010001-mjikenbo-000-1-view.jpg
★1:2020/09/15(火) 11:33:25.01
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1600137205/ >>867
その神話が何故できたかを考えるのが歴史という学問だ。
歴史を侮辱しているのが畿内説。あれはもはや学問ではない。
学問の様なもの を利用した単なる政治だ。
いや、研究費詐欺という犯罪かもな。 魏志倭人伝をよく読めば伊都国が卑弥呼の王都だと書かれてる事が分かる
何で皆分からんのかな?
おらが村に誘致したい気持ちが強すぎて目が曇ってるな。 >>849
畿内詐欺を暴かれて顔真っ赤だぞw
>至位三公鏡は、魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265〜316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
残念でした
北部九州で多く出土する位至三公鏡は魏や西晋の鏡です >>867
神功皇后の時代は邪馬台国より後の話で、倭の五王、平群朝の前でしょ。
武内宿祢という役職が幾台も続いたから混同してるパターンでは? ヤマトの意味は、山の平ら つまり盆地を意味する。
古くはヤマタイと呼ばれていたのが、ヤマトに転化した。
すなわちヤマタイもヤマトも同じ意味の地名だ もともと畿内説は「日本は古代から中国の属国だった」という主張なんだから
山川出版の教科書をバイブルにするのは当たり前 >>876
wikipediaで調べてみれば
詳しく年代が記されています >>882
意味がわからん
少し飲み過ぎじゃないですか? >>871
はぁもう何百回目の質問かもしれんがw
>卑弥呼は神功皇后と疑うことなく伝えてきた、このことだけは確実な事実
出来れば論拠を頼む 伝えてきたと思わせて来たとでは意味がまるで違うからね 卑弥呼はアマテラスだ
神武天皇は元邪馬台国の人間だ
卑弥呼をアマテラスとして神格化させた張本人が神武天皇
神武天皇自ら、邪馬台国をスーパーリスペクトして作ったのが
ヤマト王権なのだ
ああ、わかってしまった、すべて繋がるw
イザナギ=伊邪那岐=いと、しま、なこく、岐(き)
↑これもう答えw 畿内説はスナック卑弥呼でグチたれてろよ
やってられっかーてさw
神功の年代なんだよー!! >>884
wikipediaの神功皇后の記事に
>>『日本書紀』には『魏志』と現存しない『晋起居注』から「倭の女王」についての記述が引用されている。『魏志』での倭の女王とは邪馬台国の卑弥呼のことであり、江戸時代までは神功皇后が卑弥呼だと考えられていた。
との記載があります 大和朝廷が九州を配下に収めたのは筑紫国造が出てきてから後
魏志倭人伝にはそんな支配者は出てきません >>887
wikiの考えられていたが論拠ですか そうですか了解しました
あなたの考えは無いわけね? >>880
ヤマタイだったら邪馬多伊とかの表記だったと思うよ。
興味がある人は、邪馬台国をヤマト国と発音する人の方が主流じゃないかな ヤマトという単純な国名は畿内だけど、文献に乗ってる邪馬台国は豊玉姫と物部イニエが朝貢した都万国
実は後世にこの二重システムの合理性に気付いた人たちが居る。
大宰府ってヤマトの位置を胡麻化すために作った場所らしいね >>855
「この戦いの時期は、中国からもたらされた鏡の分布の中心が北部九州から近畿に移動する、2世紀末から3世紀初めのことと考えられる」と自分で言った件から遁走www
畿内説論者はこれだからwww 山川出版社以外の教科書の記述
東京書籍『新選日本史B』2020年
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡の発掘結果や、『漢の鏡』の出土分布などから、
大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
なお、漢の鏡とは中国鏡のこと 日本の仮にも正史の日本書紀の本文にでもない注釈に卑弥呼を思わせるような文
挟んで、神功皇后は卑弥呼だったのかと読者に思わせる
思ったのはあんたらの勝手だし〜〜〜ってことですかw
少しはおかしいだろと他の史料なり調べようと思わんのかいな >>890
神功皇后は九州はおろか朝鮮半島に出兵して三韓征伐をしたわけですが
皇居は奈良にありました 中央集権作るには九州じゃ都合が悪いからね
九州から移ったんだろな
大分は先進的だったて中国の文献も書かれてる
ここに住んでる人は私たちと同じ水準だと
当時の日本で大陸と同じ生活してるのがどんだけ特異だったか ああ間違えた
九州から移っただけじゃなくて各地から奈良に集まったが正解だろう
それ以前に九州にすごい先進的な都市があったてこと 逆なんだよ
記紀編纂者も神功とかをデッチ上げながらも
卑弥呼とか邪馬台国とかが九州だと思ってたわけよ >>896
まず実在性が疑われてるし
畿内に帰ってきても、あんた誰?状態で皇族が手向かってるんだけど?
畿内説がファンタジー論拠なのはわかった >>898
銅鏡の配布システムが北部九州から畿内に移動してるからそういう動きはあったんだろうな
東征というほどではないにしても 記紀が作成された時期って、邪馬台国の時代って、せいぜい今の時代から見ても江戸時代くらいだろ?
今よりもっと簡単に遡れたんだよ
余程の事情があって、つい最近の事でもごまかして万世一系を作りましょうとなってた事を想像するべきだね >>897
隋書の秦王国の記述だな
宇佐は瀬戸内海航路で必ず経由するところだったから栄えていたようだ アーサー王のモデルが居たからアーサー王は実在してたは飛躍だから >>903
それでも分からないものは分からないんだよね
写楽って誰?みたいなもんよ 一応能役者の人ってことに
なってるけど異論たーくさん
200年ほど前でさえこのありさまw >>894
漢鏡とありますが、三角縁神獣鏡が漢鏡ではないことは、周知の事実ではないのですか?
『漢の鏡』と「漢鏡」とはまた別のものなんでしょうか? >>903
記紀は新王朝が誕生したんで王朝の正当性を主張し権威を高める為に創られたものだからな
誕生して間もない奈良時代くらいが天皇の力が一番強い。 >>897
朝鮮半島まで含めた中央集権のシステム作るなら九州北部か山口県あたりが適当だと思うが まぁこれはあくまで推測だが、北部九州の王族は畿内にいて地元を派遣に監督させてたのかもしれんね
古墳時代も有力豪族は奈良周辺に集まっている 応神から新王朝なんだろな
これ昔から結構言われてるよね
神武って初代武内宿禰なんじゃないの? >>880
やまと 山戸
みなと 水戸
えど 江戸
やと 谷戸 (谷は音読み)→ ○○やつ(鎌倉周辺に多い地名)
※やと は谷戸じゃなくて、やまと が訛った可能性はあるかも。 >>857
端から論争のための論争でしかねーからな
日本国内であった戦いなんて対蝦夷くらいしかなかったのに 昔は権力を継承するのに何しろ血縁にこだわってた。
神功皇后は、アメノヒボコから薄〜く、母系の血筋。父親は葛城系だった。
三冠征伐は、王族の長男が日本に追い出され、王権は次男が継いだんだけど、結局王族の血筋は途絶え、部下が国を継いだから
その時点で正当性を主張し、王族として認めてやるから税金を納めろとなったわけだ。
神功皇后が仲哀天皇との間に子供を産むが、それが幼くして夭折。だから上州から年の近い奴を秘密裏に養子に迎えた。
これが同じ月の女神を奉じる豊国の、豊来入彦の子孫だった。
次に皇后が生活を共にしたのが武牛宿祢の子孫、武内ソツ彦王。この系統が平群王朝につながった。
このころには既に北陸の蘇我氏と平群氏に分かれてた。
平群王朝の最後の武烈さんは評判が悪く、重鎮たちの物部氏も彼らを見限った
そして、武内宿祢の血筋を遡り、北陸の蘇我家から王様になってちょーだいと継体天皇が出来る事になった だがしかし、そのころの蘇我氏の家督を継いでいたのが、東出雲王家から婿入りしてたフト彦だった。
結局平群の姫様と再婚することになった継体帝だったが、没後に北陸蘇我氏の時に住んでた時の息子二人が乗り込んできて王位継承を主張
歴史は繰り返す。 >>910
かつて半島南部と組んで交易を独占したのが九州やまと(邪馬台)。
それを滅ぼし列島を統一、やまと(大和)と名乗った奈良は、
邪馬台の本拠地に大宰府を、その相手方の半島南部に任那日本府
を置き、両者を監視・統治した。
この時期、華北崩壊で朝貢が停止したので、朝貢でもたらされる
財が無かった。九州が列島の権威で居続けられない世界情勢だった。 傭兵軍団の武内宿禰系はさ
その必要性から万世一系の男系だったんじゃないの?
稼業的な話だからね
本来は母系の王朝のサポートだったのが
実質的に王朝になっちゃったんだろうな
神武の兄貴筋の稲飯命やらも新羅で王様になっちゃったとかさ
同じ話だけど
新羅は万世一系とかじゃなく三系統に王権があるとしてるね >>911
柳田氏の説がそれに近いが、あまり支持されてないようだ
九州の威信材副葬の文化は畿内だけに伝わったものでなく、また前方後円墳の一要素に過ぎないから
東遷や東征を想定するのは苦しいだろうな 陳寿は倭人伝以上に複雑な報告書の数々を
まとめる能力があると考えていい
倭人伝は主にこの3つくらいでできてる
・梯儁の報告
・張政の報告
・魏の中央の公文書 謁見のやり取りとか朝貢や返礼の品とか
たったの3つくらいまとめるとか陳寿にとっては簡単
合戦の記録とかになると
たくさんいる魏の各武将の報告だけではなく
敵国も含めて矛盾なくまとめないといけないが
陳寿は三国志(正史)においてそれをやってる
三国志(正史)は晋の中国統一後の280年くらいにできたとされる
魏の資料だけでなく呉や蜀の資料も入ってきてるわけで
3方面からみておかしくないようにまとめないといけないが
陳寿はそれをやってる 陳寿は現代人から見ても膨大な報告や記録を読んで記憶する力と
その記憶から矛盾なくまとめる力がかなり優れてると考えていい
魏志倭人伝を昔の知能が低い人がまとめたとか思ってるならそれは間違い >>919
宿禰って名前自体が階級的に下だと思うけど?
大君とか彦とか大王が軍で言う大将だとすると
宿禰は少将
少ないミタマの略が宿禰 オレが昔読んだ本には邪馬台国は八幡平と書いてあったよ 当時の日本が魏の国と手を切るきっかけになったのが張政の存在。
豊玉姫と、物部イニエの子である物部イクメは、豊来入彦と、豊来入姫の腹違いの兄弟。
イニエの前妻はアタツ姫=サクヤヒメ。
結局大和入りしたイクメは政権運営が楽になると感じて前王朝9代関係者(卑弥呼)である磯城家のサホ姫と、前王朝の娘であるヒバス姫を娶ることになる。
この時点でサホ彦とは同盟になるのだが、厄介なことに豊玉姫の後継に張政が指名したのは豊来入姫である「トヨ」
魏の国の権威と、義兄弟が詰め寄ったことにより、せっかくの落としどころが無くなってしまったのと、連合してた朝鮮系のタジマノモリが
制御不能になってきて邪魔になってたイクメは策をめぐらす。
タジマノモリ退治には、依然力を持ってた出雲に密かに出兵を依頼する。
物部トオチネを蹴散らして国造に収まってた千家に、お前早速に役に立て、お前のほうが出雲をうまく運営できると言ったな?
困った千家は東出雲王家に頭を下げて何とか出兵をして貰えることになった
一方、前政権を切ったのだからサホ彦が敵になるから豊来入彦、お前はサホ彦を倒せ
結局出雲兵は、タジマノモリが追い出した三輪山祭祀一族の太田氏と挟み撃ちに成功し豊国勢力を追い出すことに成功
豊来入彦は上州方面まで逃げ込む。その先で諏訪大社の神長菅系統の千鹿頭勢力と習合し落ち着く
現在も千鹿頭神が落ち着いた先にはツツコワケ神社があるが、南部は豊来入彦とアジスキタカヒコが習合している
結局イクメ王は更にツクヨミを奉じて三輪山の西側で祭祀を行ってた豊来入姫を追い出しにかかる。
彼女は結局椿大社で暗殺されてしまう。 <まとめ>
邪馬台国については魏志倭人伝、日本書紀、古事記の3つしか探るものがないる
確実な物証として漢委奴国王印が福岡の志賀島から出土し、魏志倭人伝の記載の
確かさの裏取りが出来ている。この発見についても当時の甚兵衛という百姓の
口上書、福岡藩の鑑定書、那珂郡奉行の資料など多々の古文書がありケチを付ける
のが難しい状況である。つまり、奴国が福岡市周辺であることは確証が取れている訳だ。
そうなると畿内説はあり得ず、九州の何処か、という話しか残らない。
現に北九州には古墳時代の遺跡は多くある。
では奈良県桜井市の纒向遺跡はなんぞや、という話だが、普通に日本書紀に
垂仁天皇が纒向に宮を起こすとあり、卑弥呼とは全く関係ないと読み取れる。
魏志倭人伝、日本書紀、古事記を全て並べてみれば、畿内説が歪で基地外さが
際立っている。何も物証も証拠なしにこじつけているだけだからだ。 距離、方位がぴったり一致するって逆にダメだろ
魏志倭人伝の記載なんていい加減なんだから >>924
征夷大将軍も本来は大した将軍職じゃなかったけど、
いつの間にか権限に独立性があって重宝されたみたいなことがあったんじゃない?
たぶんタケルがディスカウントされて
相対的に偉くなっちゃっとかさ
カダフィ大佐みたいなもんだなw 昔は前政権の奴らが名前を変えたり、遠くに逃げたら許す習慣があったのだが、イクメ王はちょっと根に持つタイプだった。
元々、自分らより魏国から良い官位を貰えないように初代武内宿祢に対し、豊玉姫と父親であるイニエが嫌がらせしたことがきっかけで彼が大和側に鞍替えしたのに逆切れして
前政権の関係者として暗殺を企てる。
それを知らせたのがヒバス姫。イクメとは不仲だったらしい。これが古事記のいサナギ、イザナミの人物上の投影になったと言われている
武内宿祢は出雲に逃げ、弟のウマシウチ宿祢と合流する。
かくして日本の名門である蘇我氏の祖である後の武内臣太田根=武内宿祢を守った形になった出雲は蘇我氏によって大事にされることになる
物部氏って教科書ではいきなり出てきて蘇我氏に滅ぼされるところから始まるけど、
子供たちは死んでない。
長男は村屋神社の社家になり、美細津姫を祭神にしてる。次男は諏訪の神長官家の守矢家三代に養子入り。
何年か前に村屋神社の宮司さん(今でも守屋さん)が諏訪の神長官記念館に来て家系図をもってきて照合。
一致したらしいね。
蘇我氏の奥さんが物部守屋の兄弟だった関係で、相続の必要性があった。
故に、石上神宮も壊されなかった。守屋の屋敷が四天王寺に上書きされただけ。
秩父国造の神社の甘南備山である武甲山は熊野修験系の山だけど社家は守屋家。
里見屋には物部なんとかの石塔が立ってるよ。 >>927
漢委奴国王印は卑弥呼とも魏とも関係が無い >>927
垂仁天皇は、物部イクメの父親で物部イニエの事とされてる
彼は実際には東征計画を立てたけど、実際には大和入りしてない。
纏向遺跡は物部と豊国の攻め込んできた処で、三輪山の西側、昔出雲屋敷と呼ばれた地域に近い場所だったはず。
だから九州式土器が出てきて注目されたんだよね。 >>928
倭人伝だけよんでるのは流石にボケかかった爺さんくらいだろうなw
考古学資料や学術論文を読めと >>290
馬小屋の前で生まれたというのはキリストの逸話から >>602
神武東征の話は、天皇家が、天孫降臨の地である九州から来た、天孫の子孫であるということを主張する重要な部分。
わざわざ記紀にそう書いたということは、倭国の正当な支配者を名乗るには、九州から来たとする必要があったということ。 古記云。夷人雑類謂毛人(えみし)。肥人(くまひと)。阿麻彌人(あまみ)等類。問。夷人雑類一歟二歟。仮令。隼人(はやと)。毛人(えみし)。本土謂之夷人也。 >>2
白人の頂点にあるゲルマン人はもっと野蛮人だったのでなんとも 継体帝の頃って朝鮮半島から日本に人質が来てたよね
その関係で、継体帝の息子たち二人が暗殺されたことは伝わってたらしい。
昔から朝鮮半島から見れば日本は大国で、人質を出したり、納税してたりしたんだよね。
兄の国だとか、安倍氏は朝鮮人とか、本当に朝鮮人の考え方はウザくて仕方がない 邪馬台国って日本ではなく朝鮮半島とも言われてる。
金印は日本人が盗み出して隠したとも。 大別すると、
畿内説
A.大和王権(邪馬台国)大和発祥説
B.卑弥呼前東遷説
九州説
A.卑弥呼後東遷説
B.邪馬台国(九州倭国)滅亡説
畿内説AとBの論争てあまり見ないね
知らんだけかも知れんけど
寺澤など畿内説Bに近い論が畿内説の雄として存在するのなら、九州説Aも特段おかしなものとは思わないけどな >>940
>>941
うげぇ。やっぱり朝鮮右翼がスレッドに張り付いてたwww >>927
時代が全く違うものを無理やりくっつけてもバカにされるよ。 関西人が発狂するけど北部九州説が濃厚なんだろ?
去年だかにも曹操が使ってた皿かなんかと同じ物が発見されたらしいし。 >>944
纏向遺跡そのものは邪馬台国以前からあり、九州式土器が発見された時代が第二次物部東征
でも、古事記によって時期が操作されてるから時代が合わないとなってしまう。 >>935
そういう事。
九州やまと(邪馬台)は、漢代の覇権国。奴国を使い朝貢。
漢衰退期の倭国大乱(2C末?)で奈良が覇権を奪う。
邪馬台は、権力無き権威となるも、その権威は却って増した。
なので、奈良がやまと(邪馬台)を滅ぼした(4C前半?)後、
列島を治めるには、その権威を継ぐしかなかった。
そこで自ら やまと(大和)と名乗り、東遷神話を作った。 >>945
末廬、伊都、奴、不弥ってかなり近い範囲のところから急に投馬、畿内の邪馬台国って
無理がありすぎる。
仮に邪馬台国が奈良の桜井市だったら、その周辺の地名がもっと色々出てくるはず
明日香だの葛城だの難波とか >>948
そう、それが正にダメ押し。
葛城も尾張も宇田も出てこないなんてそもそもがおかしい >>942
魏志倭人伝の記述を見れば、九州Bしか無い訳で。
大倭(奈良だろ)が邪馬台周辺の交易を管理してること
までしれっと書かれてる(びっくりw)。
魏は、大倭が何か知らなかった? 薄々気付いて居たかな。 >>28
中国の史書の辺境の扱いなんて
おもしろ珍獣伝でしかないから
史料価値なんか無い。
例えば、明史の日本伝なんて、「明智がアキジで平秀吉は木下人」だぞwww
日本はいちおう明の交戦国で、秀吉が最高責任者なんだが。 >>942
畿内説AかBを議論するには材料不足だし、どちらも一長一短あるから難しい
ただ、突出部付きの円形周溝墓が奈良で見つかって、Aが補強されたようにも感じる >>942
卑弥呼の時代に畿内・瀬戸内海の女王国連合と北部九州がどういう関係だったかで見解が分かれている
最近は既に連合関係があったのではないかという説が優勢ではある >>951
元々中国の歴史書は、日本人名を短く書く習慣があった
だから初代武内宿祢だって「たけしうえつ」みたいな字になったし
タジマノモリも「だしょうまい」みたいな字になった
いい加減というわけじゃない。
そもそも航海技術や測量技術の無かった当時の日本に対し、何故ごまかしたりする理由があるというのだ? 本にもなってるけど、こういう開設ページのほうが見やすいかな
ttps://omouhana.com/2018/02/02/%e5%ae%87%e4%bd%90%e7%a5%9e%e5%ae%ae%ef%bc%9a%e8%a6%aa%e9%ad%8f%e5%80%ad%e7%8e%8b%e3%83%8e%e9%83%bd%e3%80%8005/comment-page-1/ >>957
jama ジャマ とよむのは英語、ヤマと読むのは欧州大陸言語。
すまん、関係なかったw 魏志倭人伝があるから九州北部は否定できるんよ
鹿児島南部とか鹿児島の島だとの主張に対しては否定できない >>954
中国の国内問題。
魏志が編纂された晋の時代には
「我らの先祖が活躍した魏の国には地の果てからも朝貢があった。呉とか蜀とは格が違うんでwww」と、日本までの距離を長く盛る動機があり
正確性なんてどーでもいい 魏志倭人伝に書いてあるから九州北部だって主張はおかしい
それはちゃんと読んでないかこのあたりを無視してる
>その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。
>有無する所は?耳、朱崖と同じ。
>倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆、徒跣。
無視するのはいいんだけどそれには正統な理由が必要で
解釈を歪ませていいところとダメなところがあるのが
わかるレベルまで魏志倭人伝を読み込んだり
作られた際の背景を知って欲しいんだよ
要するに九州北部主張主張者は
都合のいい部分だけを抜き出して
それをゆがめてるだけの低レベルの主張でしかない
低レベルであることに気づくくらい勉強が必要
無知の知ってやつ
理解してないことを自覚しないと賢くなれない 邪馬台国と言うからには山門と
呼ぶ地名がついているのが最低条件なので宇佐や大分は当てはまらない したがって邪馬台国は筑後地方にあったと考えるのが1番妥当 宇佐や大分は筑後地方にあった
邪馬台国連合国家の一つだ >>945
皿じゃなくて鏡な
YouTubeで再現動画あがってるから是非見てみるべし >>929
平安時代に新撰姓氏録で「皇別・神別・諸蕃」とあって、
武内宿禰は皇別の下のランクの神別氏族なので
いくら有能でも総大将クラスにはなれなかったんだと思う >>962
陳寿は元資料にあった太白の後(魏略にはある)をわざわざ削っている
つまり呉越の東では、盛り方が足りないと判断したんだね
そして盛るために意図的により南方の地を書き加えたのではなかろうか >>935
天皇が半島から逃げてきた一族で奈良に住み着きましたじゃ臣民に対して受け入れられにくいもんな >>963
秦王国の八幡信仰はヤバタ(邪馬台)から来てそうじゃね
外国人にはヤマトがヤバタに聞こえるとかありそう 畿内は文献に残るのとはおそらく違う国だったんだよ。天皇家以前に日本に入植してた人でさ。天皇家は後から日本に入ってきて、九州に一旦定着した。その後、九州から勢力を広げるために東征を行い、近畿を拠点にした。
天皇家は大陸から渡ってきた人だろう。ただその前から日本に渡ってきてる人がいて、日本の存在は知られてたのかもしれない。古い入植者と新入植者で争いがあったんだな。 >>940
もちろんその可能性はあるが、焚書されたり改ざんされたりで全く根拠がないんだよなあ
想像や願望では真相は掴めない 「邪」だとか「卑」だとか偉い人に使う文字じゃねーだろ、
馬鹿にされたんだよ中国人に。倭王とか呼ばれて喜んでる場合ないわ恥を知りなさい。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。