勝者は勝つべくして勝ち、敗者は負けるべくして負ける──。極真空手の創始者・大山倍達の“勝負の神髄”は政界にも通じるのか。9月16日、菅義偉総理大臣が誕生した陰で、自民党総裁選で敗れた岸田文雄、石破茂はほぞを噛んだ。政治評論家の小林吉弥氏が話す。

【写真】自民初の「総理になれなかった総裁」河野洋平氏

「総理の座を掴むには、『天地人』の3要素が必要になる。天の時=運、地の利=立場、人の和=数です。菅氏には全てがあった」

 歴史を紐解けば“総理になれなかった男たち”には、3要素のいずれかが欠けていた。1987年の中曽根裁定で竹下登に総裁の座を譲った安倍晋太郎は、「天の時」を得られなかった。「竹下の次」が確実視されていたが、リクルート事件で竹下が辞任した時、安倍も事件に関与して「謹慎中」だったことから後継総裁の椅子を逃した。その後、膵臓がんに倒れ、2年後に逝去した。

 渡辺美智雄は「地の利」がなかった。1991年の宮沢内閣で副総理として次期総理の最有力候補だったが、膵臓がんを患い、病を押して1993年の総裁選に出馬するも河野洋平に敗れた。

「人の和」が得られなかったのがその河野だ。野党時代の自民党を率いて自社さ連立の村山内閣をつくって副総理に就任。村山が河野への禅譲を提案した時、自民党内の強い反対にあう。自民党総裁選で橋本龍太郎と争うことになったが、同じ宮沢派の加藤紘一が橋本支持を表明、河野は出馬を断念した。

「首相になる人物は権謀術数を使い、票を増やす。自分の考え方と違っても完全な喧嘩はせず、いざという時は手を握れる余地を残しておく。頭を下げられないとダメだが、人が良過ぎても推進力に欠けて天下を取れない」(小林氏)

三木武夫は「何度でも挑戦」の精神で総理の座を得た
 その加藤は1999年の総裁選に出馬。小渕恵三に敗れたものの、次の総理のポジションを得た。ところが、小渕が急死すると、密室の話し合いで森喜朗首相が誕生する。不満を持った加藤は、“加藤の乱”を起こすも、党内の支持を得られず失敗に終わる。

 その後の加藤と河野の政治家人生は対照的だ。加藤の裏切りで「総理になれなかった総裁」となった河野は森内閣で外相に就任、最終的には三権の長である衆院議長にのぼりつめた。一方の加藤は、秘書スキャンダルで議員辞職に追いこまれた。

 今回、総裁選初出馬の岸田、4度目の挑戦で完敗した石破の今後はどうなるか。

「国会議員票を伸ばした岸田氏が次期総裁の有力候補。ただ、もう禅譲の線はない。一人歩きして力を付ける必要がある。石破氏は茨の道になる。しかし、三木武夫は総裁選に3度敗れても『何度でも挑戦する』と意気込み、田中角栄の金脈問題での辞任後、突然首相の座が回ってきた。何が起こるかはわからない」(小林氏)

 以下に総理の座を目指しながら、それが叶わなかった政治家4人のエピソードを紹介する。

●渡辺美智雄(享年72)

 1991年の総裁選で宮沢喜一、三塚博と争った。最大派閥・竹下派の会長代行である小沢一郎が3人を面接。金丸信、竹下登、小沢の会談でいったんは「渡辺総理」が決まるが、金丸の変心で宮沢が総理の座を射止めた。渡辺は副総裁に就いたが、翌年膵臓がんが発覚。1993年の総裁選では河野洋平に敗れた。1995年9月に死去。

●河野洋平

 自民党が下野した1993年7月、16代総裁に。翌年、自民党、社会党、さきがけの連立政権誕生に尽力。社会党の村山富市委員長が首班指名を受けて与党に復帰したが、自民初の「総理になれなかった総裁」に。その後、歴代最長の約6年間にわたって衆議院議長を務めた。

●加藤紘一(享年77)

 1999年の総裁選では、小渕恵三に敗れて2位。将来の総理は確実とみられていたが、“加藤の乱”で失脚。田中真紀子は「タイミングが半年遅かったし、半年早すぎるのよ」と加藤の政局観のなさを指摘した。

●安倍晋太郎(享年67)

 1982年、58歳の若さながら総裁予備選で中曽根康弘、河本敏夫に次ぐ3位につけた。中曽根内閣で外相を務め、竹下登、宮沢喜一とともに次世代のリーダーとして期待された。1987年の総裁選は中曽根裁定で竹下に首相の座を譲り、1991年に世を去った。

(文中一部敬称略)

※週刊ポスト2020年10月2日号

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