【歴史】関ヶ原合戦を引き起こした「直江状」は本物なのか? [首都圏の虎★]
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(乃至 政彦:歴史家)
慶長5年(1600)9月15日に行われた関ヶ原合戦。この戦は上杉景勝の家宰である直江兼続が、徳川家康に対して叩きつけた「直江状」によって引き起こされたとされる。しかし、直江状には原書がなく、その写しも書かれた時期によって内容が変化していることが見えてきた。本文を考察しながら「直江状」の内容及び真偽に迫る。(JBpress)
■ 関ヶ原合戦の原因とされる書状
関ヶ原合戦を起こしたのは、直江状と言われている。
上杉景勝の家宰である直江兼続が、徳川家康に対して叩きつけた挑戦状である。
ただしよく知られている通り、直江状は原書が存在していない。いま伝わっているのはすべて写しなのである。このため、直江状は江戸時代に作られた文学的な作品であると見る作家や研究者が多い。もちろん逆に当時、兼続がほんとうに書いたものだという専門家もいる。
それで研究者たちが検証したところ、直江状の写しは、書かれた時期によって、内容が少しずつ変わっていっている様子が見えてきた。初期の写しは上杉家謀反の噂を聞いた徳川家康に「それは事実ではありません」と弁明する内容で、それがあとから往来物として挑発的に読み替えられていき、やがて「疑うならこちらまで来ればいい。お相手しますから」との追記が加えられることになったのである。
さて、直江状が実際にあったとして、それがもともとは上杉無罪を訴えるものだったとしたら、これを起点に勃発する関ヶ原合戦は徳川家康の強引さが巻き起こした事件ということになる。しかし、同時代の人々の記録を見ると、どうもそうではなく、上杉家は自ら挑発したということが伝えられている。これは家康の印象操作の可能性も疑われようが、それでは、景勝および兼続は、実際にどんな態度を取ったのだろうか。
■ 本文の考察
その訳文や本文およびその考察は書店に並ぶ歴史書だけでなく、インターネットでも検索することができるので、ここでは略する。ただ、直江状というのは徳川家康に宛てられたものではない。当時、京都にいた兼続の友人である僧侶に宛てられた書状なのである。
そして同時代の京都の記録に、この僧侶と直江兼続が手紙を交わしていたことが伝えられている。直江状の実在を肯定する論者は、この記録がその証拠ではないかと見ている。しかし、これが実は謎を解く大きな鍵となるのだ。
この僧侶が兼続に送った書状というのも写しが残されている。直江状はこれに対する答書の形をとっている。
通説によると僧侶の書状は、徳川家康の意を受けて、兼続に難詰する内容とされている。しかしよく読み返すとそのようではない。少なくともこの書状を送った西笑承兌という僧侶は、威勢ある権力に屈して友人を売るタイプの人物ではない。
明国から豊臣秀吉に国書が送られたとき、西笑承兌は翻訳を担当したが、秀吉の重臣・小西行長は「この国書を直訳すると秀吉さまは必ずお怒りになる。だからよく忖度するように」と助言されたが、そんなことお構いなく直訳して、予想通り秀吉を激怒させている。朝鮮出兵が長期化したのもこれが原因である。
真実を真実と言って憚らない、融通の効かない学者だったのだ。もちろん家康に懐柔されて、兼続や上杉家を政治利用する陰謀に加担することも考えにくい。
それで、長文の西笑書状を見ると、これは詰問状ではなく、兼続の動きを穏便に諭そうとする内容の手紙である。そこでは「上方では景勝がなかなか上洛しないことで、上杉討伐がすぐにも決まりそうなので、早く対応するのがいいでしょう」ということが懇々と述べられ、風雲急を告げるの観があり、緊迫する調子が強く感じ取れる。西笑はそれほど兼続と上杉家を心配していたのだ。
それがなぜか直江状では、こうした親切な忠告の細々とした部分を、いちいち論破するものとなっている。上杉討伐を主導しようとする家康からの難詰に対するものなら、わからないでもないが、なぜここで友人を論破しようとするのか、これだと兼続がまるでただの阿呆である。
家康は、上杉景勝が謀反するという情報の実否を確かめさせるため、上杉家に使者を向かわせた。通説では、かれらが西笑の書状を持たせられたとある。それなら、兼続が直江状で友人を論破するのも理解できないこともない。だがしかし、この認識が大きな間違いなのだ。西笑書状は兼続へのプライベートな手紙である。対する家康が派遣したのは上杉家へのパブリックな公使である。
これを一緒くたにしてはならない。
全文はソース元で
https://news.yahoo.co.jp/articles/2352fec45a371a09ffd0d49ac067fc7987d94ad7 関ヶ原ウォーランドってまだあるのかな?
衝撃的な施設だった 新潟はなんで上杉家のお膝元だったのに、
金沢は前田利家の文化力に負けてしまったのだ 徳川・・・徳のある川(ヨルダン川)
家康・・・イエズス >>10
徳川に降伏して移動させられたからだろ
前田家とは全然違う >>1
こいつ、徳川びいきだからいまいち信用できない。 毎年9.15の朝に町内放送でホラ貝の音が流れて山でのろしが上がるよ 家康「これからは俺が助けてやる、その時は言いな、兼ちゃんよおww」 >>10
越後が多くの大名に分割されたからだろうな。 実際の関ヶ原は通説とは違って、朝から小早川が裏切ってあっという間に西軍が壊滅した可能性が有るらしい。
もしそうなら「神君家康公が天下を取った、天下分け目の戦い」には相応しく無いから、
江戸時代に天下分け目の戦いに相応しいように、
午前中は西軍が優位だったとか、家康軍が前線に出て東軍が盛り返したとか、
問い鉄砲で小早川がようやく参戦したとかの創作をしたんだろう。
直江状もそれらの創作の一部かもしれない。 >>8
髪の毛を棒に縛り付けた生首を晒した像を見たときは衝撃だったな。 あん?
石田三成と呼応して東西から家康を挟み撃ちにする作戦じゃなかったんか? >>19
日本史の通説って物凄くいい加減だよね
はっきり言えば通説は「徳川に有利な部分はイエズス会の記載を採用」して
「徳川に不利な部分はイエズス会の記載を無視」して日本史を語っている
最近はイエズス会士たちの記載内容の正確性が明らかになって来ているのだから
「家康の長男と妻の殺害を命じたのは家康本人の意志であって信長は無関係だった」とか
「小早川は事前に家康側につくと確約して朝から実行したのにスケープゴートにされた」とか
「徳川家康の手筒花火より何十年も早く大友宗麟が庶民と一緒に花火(しかも打上花火)鑑賞をしていた」とか
徳川にとって不利なイエズス会の記述も日本史の通説としてドンドン流布して行って欲しいね >>19
小早川 関ヶ原前に西軍の城攻めてたとか。関ヶ原って色々突っ込み所多いよね。西軍は宇喜多 石田 小西だけ戦ってて他は傍観ってシナリオだけど東軍も黒田 福島くらいしか出てこない。実際は大垣城から敗走する石田達を黒田福島が追撃、小早川が完全に捕捉だとか。 小早川って裏切り者っていわれるけど
ぶっちゃけ小早川の生い立ちだったら当然徳川に味方するじゃん
秀吉にさんざん人生弄ばれてねねに擁護されてた立場なんだから
どこをどう見たって三成側に与するわけがないのに
それで世紀の裏切り者扱いされ続けてるのほんとに不憫 >>21
西軍に寝返った真田昌幸にあてて、上杉と連携したいから仲介して欲しいと書き送った三成の書状が残っている。
なので、上杉征伐の時点では上杉と三成は組んでなかったことは明らか >>21
主君の上杉景勝も乗り気なら挟み撃ち作戦に乗れるけど
反対してたら一家臣がそれをひっくり返すのは無理じゃね? 1.転写や伝文、後世の加筆により内容は多少違う説
2.内容はほぼ捏造説
3.そもそもそんなものはなかった説 そもそも東軍が関ヶ原に到着する前に決着は付いていた 直江に「うちの子を生き返らせろ!」と詰め寄ってきたやつを、「お前が閻魔様に頼みに行けよw」とぶち殺して晒した話はワロータ >>21 三成のバカが早すぎたからでしょ。
上杉とやり始めてから挙兵すればよかった 普通に考えて喧嘩売られた内容の手紙を大事に取っておかんわな
誰だって破り捨てる >>41
あの頃は情報伝達の手段が人の足だから
「始まるザマスよ!」って連絡が入ってからじゃ遅い 一方の権力者に融通の効かない学者が他方の権力者に阿ることなんか
いくらでもあるだろ 関ヶ原の合戦などあった当時の記録は残ってるのに近年のものは跡形もなく廃棄されている
昭和時代に残された富士山測候所の日誌も安倍政権下で溶解処分された >>42
おまえならそうかもな
普通の頭があれば文面が失礼であればあるほど証拠としていろいろ使えると考える >>46
信長公記は信長から豊臣の配下となった奴が書いたので
バイアスがかかっているとみるべき 今は関ケ原の合戦自体が無かったというのが考古学の主流だろ。 吉川広家が弁当なんて食わなければ
徳川家康は前面の石田三成、宇喜多軍と
背後からの毛利軍の挟み撃ちで戦死していた筈 農業生産力=国力の時代に越後一国を国持ち大名に与えるなんて危険すぎて有り得ない
西軍がかったところで越後復帰なんて叶わず会津周辺を加増されてお茶濁されただろうよ
徳川は越後をおもくそ細切れにしたが当然そうなるわな 何が書いてあったかは分かっていないが
直江兼続から来た手紙を見た家康が激怒したことは、近習の日記に書いてあって事実
本文が分かっていないだけで、家康が怒ったのは間違いがないこと 記事ちゃんと読んでないが、アベノミクスが悪いのだけは分かったわ 西笑承兌ってのは、「家康から命じられて」上杉と交渉していた
「友達だから」書状を送ったのではない
交渉の相手役だから、家康に渡してほしいというのがあってもおかしくはない 大したことない内容の書状をさも大変な煽りが書かれていたように捏造して出兵の口実にしたんだろうな
なんといっても狸だし 花の慶次で大物感出してたくせに
モブの中雑魚にボコボコにされててガッカリしたキャラ >>19
俺も日本の歴史は記紀にかかれていること以外信じてない >>19
一次史料にも関ヶ原について記載されてる書状がいくつか残ってるよ
(慶長5年)9月17日付石川康通・彦坂元正連署状 松平家乗宛
去る十四日赤坂に着陣され、十五日巳の刻(9〜11時頃)関ヶ原へさしかかり、一戦に及ばれました。
石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の四名は、十四日の夜五つ時(19〜21時頃)に大垣城の外曲輪を焼き払い、関ヶ原へ一つになって打ち寄せました。
この地の衆、井伊直政また福島正則殿が先手としてその他の諸将が打ち続き、敵の要害へさしかかり合戦した時、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・祐滋父子、この四人が御味方になり裏切りをされました。
そして敵は敗軍となり、追撃により際限なく討取りました。その大将は大谷吉継・島左近・島津豊久・戸田勝成・平塚為広と他にも討取りましたが、知られている衆はこの分になります。
打捨て鼻を欠いて捨てたので、誰を討ち取ったのかもよく分かりません。 >>74
最上はトップレベルの優秀な武将だろw
勝てる奴なんて戦国全体で見ても一握りだわw >>74
本当に言われているような人なら最上さん結構ヤバいよ 我らが戦道具を集めているとの事なれど、上方の武士が茶器などを御集めになるように我ら田舎武士は鉄砲や弓矢を集めるだけ。そのような事に拘るのは天下を与る御方らしからぬ御了見。我らに逆心は無いと申し上げたはず。にも関わらず「逆心無ければ上洛できるはずだ」とは。ふっ、赤子の理屈で全く話にもなり申さぬ。家康様に御分別が付いた頃には上洛できると存ずる。どこぞの誰かのように太閤殿下の御遺言に背き、起請文も破り、秀頼公を蔑ろにしたりは致しませぬ。左様な事をして天下を取っても悪人と呼ばるるのは必定。末代までの恥と相成ります故。 >>70
直江のやったことを佐渡の悪役にさせていて笑った >>28
日本は庶民の書物まで残ってるんだよな。平和だったから。 >>19
(慶長5年)1600年9月30日付伊達政宗書状 石川昭光・同義宗宛
たった今子の刻(深夜0時)、内府(家康)より注進があった。大垣より去る14日の夜、石田三成をはじめとして諸将が出陣し、美濃山中という所に陣を構えた。
翌15日早朝に内府勢は石田方に押し寄せ、即時に切り崩し、大谷吉継・島津豊久・戸田勝成などの先駆け衆を悉く討ち取った。
石田三成やその他の者はさっさと逃亡してしまい、山中に逃げ込み今になっても姿を見せていない。大垣の援軍として毛利秀元や吉川広家が出陣したが、戦場より三里(約12km)程離れた所に陣を構えていた。毛利勢はこの合戦には参加しなかったそうだ。
この度の負け戦は安国寺恵瓊の所行のよるものなので、毛利は安国寺を内府に渡し許しを乞うそうだ。
追伸
内府ははや東福寺方面へ陣を移されたそうだ。飛脚が江州高宮より参りこれらの事を報告してきた。
この飛脚は私が付けておいたもので、佐和山城も落城したそうだ。明日あなたがこちらへ参られるのをお待ちしています。 >>79
日本は負けた側と勝った側と観戦していた側の資料が残ってるから
信憑性高い。 家康にとって内容はどうでもいいわけで
ただ、会津征伐の大義名分が欲しかったから
それに釣られて三成が留守の隙に挙兵するのを待ってただけだし 手紙のやり取りはされてたけどいわゆる直江状は
関ヶ原が終わったあとにようやく家康の手元に届いたんじゃなかったっけ
大名ってあちこち移動してたからね
手紙が届くまで所在がお互いにわかりあってる
もう会いに行った方が早いだろって近場ならともかく
半年から一年近くは遠方だとかかりようやく届けたと思ったら
そこから移動してたとやたら時間がかかったからね 直江状があろうがなかろうが関ヶ原は起こってるやろ
直江状が関係すんのは上杉が西につくか東につくかだけの話だ 上杉家は関東管領だったし、景勝もお舘の乱で勝ち残った経緯もあるしで、謙信にびくついてた家康なんぞに頭下げられるかって
感じだったんだろう 謙信、信玄が長生きしてたらだいたい家康なんて世に出てこれなかった >>59
越後が農業生産力高いって勘違いってよくあるけど
江戸時代以後の話だからな
商業と鉱山で裕福な地域よ ネット時代のはるか昔から人間て勝手に話作り変える生き物なんだな 徳川家にとって都合が悪いから書き換えられる事になるんでしょ
今の政治家達もその都度経歴書き換えたりよくやってるよ 天地人ではメール並みの速さで直江状出回ってたよなw >>88
漫画を実写ドラマにする時に余計な設定やエピ入れるようなもんだろ 原書が残ってないのは怒った家康がびりびりに破いちゃったからでしょ
これって真田丸だったっけ? 書き換えられたってより創作ってことだよね
権力者に都合が悪いことを消すってのは秀吉の十八番 家康が西に向かった段階で関東に突入すれば勝てたのに
北へ向かう景勝を止められなかった
景勝と意思統一ができていなかった
いくら戦略たてても軍の統制取れてなければ意味ないじゃん
三成かわいそうだわ >>100
秀吉は農民ではないからね。もとから武士 後々言った言わないで揉めるから
コピー取っとくくらいすれば良かったのに >>65
信玄の亡霊もいて面白いぞ
しかも合戦をやめよとかいってるw 当時は5チャンなんてなかったが
お前らみたいのはいたと思う
そつらが「手紙」に勝手に手を加えただけ >>28
会津征伐時点で三成と景勝が連携していなかったってのはその通りだが、
別に真田に上杉の仲介をして欲しいと言うわけではなく、
三成と景勝が連絡を取る際に、三成の使者が会津まで行くのに真田領を通るから、通過する時にその使者を護衛して会津に送り届けて欲しい
またその使者が景勝の返事を携え上方へ戻る際にも、護衛を付けて使者の安全を確保して欲しいと要請してるだけだな >現職総理が集団就職で何が悪いの?
現職総理の時代は全国の高校進学率が半数を下回る程度で、地方はより低い。
だから集団就職は、中学卒業の生徒。
現職総理は高校卒業なので、いわゆる集団就職ではないよ。 テレビの半沢直樹も原作と違ってる
大和田なんて、好評につきで原作にないのに続投してる 武田信玄がさっさと今川領を完全制圧してればなぁ
本人は上杉と無駄に遊んでたし あんなの書いてスッキリしたかもしれないけど
おかげで上杉は大減封になっちまった
あほとしか言いようがない >>21
そういう方針だったのは確かだな
関ヶ原本戦の20日前の8月25日付の上杉景勝書状では、景勝は最上・伊達が会津に攻め込む気配を見せているからそれに対処しなければならない
関東には最上・伊達を撃破した後に攻め込む予定だ。但し家康が上洛することが決まり上方に出陣すれば、佐竹と連携して、全てをなげうち関東に攻め込むと三成等に返事してる
景勝は佐竹とも密に連絡を取り合っていたわけでもなく、最上・伊達にしても上杉単独で短期間に打ち破れる相手でもなく、
しかもこの書状が真田家に伝わっているってことは、真田信之の手に落ちて三成らの元には届かなかったってことを意味してる
連絡すら東軍に封鎖されてできてないし、かなりガバガバな作戦だったと言わざるをえない 関ヶ原なんて大勢で合戦できるようなところとちゃうで。
大合戦があったとしても別の場所か、そもそも関ケ原の合戦は無かったと考えるのが合理的や。 そもそも関ヶ原で合戦はなかった
これは徳川の創作である
「家康は合戦中、関ヶ原で戦闘指揮を執らなかった」
https://books.j-cast.com/2018/07/31007707.html 見事な甲冑に陣羽織、それで足下は草鞋なんだから、足が痛いだろう。 勝者が歴史を捏造するのは歴史の常
しりたきゃタイムスリップでもして見てこい マジレスすると難しいこと考えず
おまえら関ケ原散策して来いよ面白いから
駅の近くに名物肉屋あり
そこでコロッケと串カツ買って食えよ
楽しいよ
散策ラストは島津陣跡から豊久公墓場まで
敵中突破のランニングや 上杉に原因がなければ150→30万石に減封されて納得するわけないから
上杉に原因というか非があったのはあきらか ところで、上杉家は背乗りされて途絶えているらしいね。 直江状が家康に対する言い訳の手紙だったとは考えにくい
それでもし家康が許したら、石田の計画が狂う ポイントは松尾山に布陣した小早川秀秋勢
あそこは山城と言える堅固な地形なんだよなあ 小早川は関ヶ原前には既に西軍の城を攻めて
松尾山も勝手に占拠した状態で
西軍の指揮下に入ってなかったんだよね >>1
>関ヶ原合戦を引き起こした
これが間違い
そんなものあっても無くてもどの道衝突は起きていた >>39-40
妻夫木、このエピやりたかったらしいけど全く出てこなかったんだよな
真田丸の直江は演じた俳優さんがキャラ作りにこのエピを参考にしたとか >>113
武田信玄は、「義」のために戦う、戦い方を考えるのが三度の飯より好き
なんて変人が信濃の先に住んでるとは夢にも思っていなかった >>1
ウォーランドにはあるんじゃないの?
徳川家康が色紙についた手形は置いてあったぞ。 だいたい石田のごとき三下の文官風情が出しゃばろうとしてもムダだったんだな。 他にも信玄のラブレターとか、平気で古文書を捏造する奴がいるからな
高坂は完全に分盲で読み書き出来なかったのにそんなもんが書かれるわけがないだろ 実際そんなもの送りつけてたら
関ヶ原後に「お願いですから家を潰さないでくだされ〜これからはワシらも家康様の臣下でござる〜」とか言えんやろ。
少なくとも直江は切腹させられるか、恥ずかしくて自分で腹切るわ。 家康は戦びに来た景勝兼続に戦の事は何も咎めず丁重にもてなしたらしいな >>133
無断?でさっさと陣取ったいう話みたいだから、そもそも裏切りとかではなく徳川の指示だったのかな 歴史って結果は変わらないけど過程はいくらでも創作し放題よね
関ヶ原は流れがドラマチックすぎてな 義風堂々だと、開戦の口実にするため家康が怒った振りしてたな >>133
実際に、織田信長時代には浅井軍対策として松尾山は城になってた。今でも土塁や堀の跡は残ってる >>131
大勢の家臣の前で手紙を破りすて
演技をすることで
怒りを演出して指揮と結束を高める腹黒の
狸ですよ。 >>143
といって、上杉家の会津120万石から米沢30万石への大減封は史実だし
実はやらせの挑発だったという陰謀論が成立する余地は無いだろw
景勝は東軍に対し前哨戦を仕掛けてでも、会津城に取りつかせるべきだったし
三成はじっと我慢して東西挟撃戦略の機が熟するまで待つべきだった >>136
歴史交渉担当の小和田哲男先生が いろいろ指摘したがほとんど脚本家に無視された と
週刊誌で嘆いていたのを覚えてる タイムマシンでもあれば事実確認に行けるんだがな
本能寺の変の光秀の真意とか
レイテ沖海戦栗田艦隊の謎ターンとか
ダンケルクでイギリス軍を壊滅させなかった独逸軍とか
色々当人に聞いてみたいことはある >>13
その前に秀吉に会津へ転封されてるけどな。 書いたと言われる人が戦後もぴんぴんしてるのだから
後世の偽物でしょう 明治のプロシアの参謀メッケルさんの「西軍の勝ち」も無かった模様だし
なかなか靡かない(関白職に色目)小早川に向けた「問い鉄砲」も無かったみたいだし
人々の耳になじみやすい講談風の脚色ばかり流布しちゃったのかなあ
当日は半日の乱戦もなくて、朝から徳川方の勝ち戦だったのかもしれないし
何が本当なのか、さっぱりわからない >>54
般教の日本史の学年末試験が「田楽狭間(桶狭間)の戦いについて、『信長公記』の記述をもとにして説明しなさい。」 >>80
子どもを人質にするやつか。
まあ、あれは漫画じゃ画かれなかった仙北一揆だが。 まんが日本の歴史って
新説出る度に内容変更してるんか? >>156
前田家謀反を理由とした加賀征伐未遂と同じく
原因は家康が豊臣家に代わって政権を奪取しようと目論んだ野望にあるw
直江が家康を挑発しようが、しまいが会津征伐は実行に移されていただろう
加賀前田家は畿内に近いということもあって、利家の遺言を反故にしてまでも
見苦しいほど家康に恭順し危機を回避したが、会津の上杉家は危機感が薄かったんだろう >>92
上杉謙信は金持ちで、上方から糖質たっぷりの高級酒を取り寄せてたとか
糖尿病死亡説もあるそうだ >>156
勝手に帰国して
なおかつ越後の反乱を扇動して
その釈明もしなかったことだな
越後の堀の要請で上杉征伐が始まる 愛の兜も嘘くせえ
本当はアッーって書いてあったんだと思う >>165
あれ別にloveじゃないぞ
毘の旗にケチ付けたりはしないだろ?いくらお前でも
それと同じようなもんだ >>152
ま、あの愛って今の愛とは違うんでは?
って放送が始まってから気付いた程度の脚本家だし >>165
あれは愛染明王の愛で信仰の証だから一般的な愛の意味で付けてたわけじゃない >>74
最上家中は結束が強かったからな
籠城は大抵内応か降伏で陥落する
島津対大友でもそうだったが本気で籠もられた城はそうそう落ちないよ
最上の結束力を褒めるべきだね >>127
上杉どころか養子のやり取りで血脈が途絶えてるパターンの大名は多いよ
藩ってのは会社みたいなもんで、家臣は世襲の社員
大名家の後継者がいないと取り潰しで家臣は失業だからみな必死
血脈が繋がって無いことなんて家が潰れることに比べれば些細なこと >>169
戦争仕掛けてきたのがあっちだからなおさらな >>170
実子が婿養子の養子になってみたりな
家の存続が第一義っぽいからそこら辺の感覚もかなり今と違うよな >>151
いつだよそれ
あのタイミングより遅いと上杉やられるわ >>161
1600年推定人口(石高から)
摂津858,100
陸奥734,400
武蔵708,500
山城558,000
大和399,400
越後388,100
出羽338,500 >>176
前田利長の家康暗殺計画を家康に告げ口したのは三成の仲間の奉行だけどな
暗殺計画が事実かはともかく
あれも前田利長が勝手に帰国したからでっち上げられたのかもな >>153
レイテ沖海戦栗田艦隊の謎ターンについては
豊田譲が栗田本人に聞いている
その時、栗田は老衰が進んで寝たきりとなってたが、布団を引き上げて顔隠しちまった
そうだ
ちょっと可愛そうではある >>167
いやいや
そんなアホな脚本家いないだろw かかって来いよ!と調子こいて負けるとかむちゃかっこ悪いよな あまりに勝負があっけなかったせいもあって
NHK大河でもナレだけで片付けられているもんな
せめて一か月くらい決戦を続けてほしかった
黒田さん父なんかも呆れていたようだ 直江津のあるところに住み着いたから直江を名乗った。樋口もそう >>180
お江を見ても同じことが言えるなら言っていいザンス チャーチルが戦国時代に生きていたら
上杉は外交を知らないって嘯いていただろうな いまや関ヶ原は天下分け目どころでなく撤退する西軍の追撃戦かよ
「メッケルいわく西軍の勝ち」からずいぶん弱体化したものだな >>181
直江庄にあった津だから直江津
直江庄を納めた人だから直江氏 直江状が発端てのは語弊があるやろ
もう双方事前に準備してて口火切っただけやんけ >>19
武田の騎馬隊が最強!とかそういうのも
強い相手を倒した自分がもっと凄いっていう権威付けだしな 『天地人』残念大河ドラマだったよなぁ
なんであんな軟派でつまらないドラマになっちゃったんだろ >>21
成功してたら、今頃東京都は東京県で大阪府は大阪都だったんだよな 俺がもしも金だけある守護大名だったら、応仁の乱あたりで中央の統制が
崩壊した頃に、自分のでっけえお墓が欲しくて領内のあちこちの
良さげな場所に古墳そっくりの墓をつくりまくるぜ。生きてるうちの寿陵ってやつ。
でもって土器とかはどうしようかと思ってるうちに飽きて全部埋めるか放置。
今度は自分ちの家系図を捏造し始める >>196
ないない
家康を倒しても今度は毛利と宇喜多と奉行が殺し合うだけ
そして戦国時代へ >>197
生前に無駄にデカい墓作るとかテンプレートな暗君だな 歴史なんて嘘だらけ。有名になりたい、金が欲しいと思った奴らが勝手にでっち上げてるたけ。でっち上げて100年もたてばすべて事実にかわる 加賀の尾山で大軍を迎え撃つなんて無理だな。
遮るものが何もないから謝るしかない。
けど、会津は名城なんだろ1ヶ月や2ヶ月は持ちこたえるだろ。 >>201
さらに飽きたあとに思い出したようにあちこちの古墳を盗掘して
土器や埴輪を持ってきて、自分がつくったいんちき古墳に埋めて
さらに領内の各社寺にいんちきの文書を収めて、自分ちの領内が
古代にはしげえ勢力の政権があったことにして、後世の歴史家を
騙すことに腐心する 実際の関ヶ原って、大垣城から佐和山か大津に撤退する西軍主力が山中(関ヶ原の西方)に集結して休んでいたら、
戦にはやる黒田福島らの軍が追撃してきて、西軍主力は陣も張れずに壊滅。
関ヶ原に孤立していた大谷は、小早川・脇坂らに速攻で攻撃されて壊滅。
実際の関ヶ原はこんな感じかもしれないが、これじゃあ家康は上洛しただけで、
ほとんどが黒田長政の調略で決まってしまい、家康が全く活躍してないから、
江戸時代に史実を隠したんだろう。 >>205
実際関ケ原戦役の勝因は東軍先発隊による岐阜城の瞬殺だからな
関ケ原そのものは消化試合で後はどう落とし前をつけるかという段階だった
その辺理解していた毛利は西軍を切り捨てて生き残りを図った つまり農民が大事だろ。
殺し合いの話なんかすんじゃねーよ。
言うくらいどうでもいいけど。 >>8
あそこの宝物庫は凄いんだぞ
タイムスリップする >>185
お江
は酷すぎたなw
ファンタジーで最初の頃で見るのをやめたわw
それに幼女年代に三十路の女優使うてないだろwww 餃子の王将の元シャチョウサンに贈られた京都文章なんだ。 直江状が完全に否定される前に大河やって良かったな
これぐらいしか有名なのが無い陪臣だからな 江戸もEDOじゃんEDENと読めないことももやいよな
歌舞伎の世界なんか狭いもんやで、シナゴロの元老政治の粗悪さは中国見たら納得いくよな >>143
だから>>1の人が言うように兼続より景勝の方の意思だったんじゃないの
それで兼続の領地があった米沢に上杉家が減封処分になった >>179
吉良の正室は上杉家の姫だからね
その正室が生んだ正真正銘の外孫 つまり、直江兼続に泥をかぶってもらって事を穏便に済ませたってこと? >>169
伊達と南部、ともに家康側だからなあ。表向きはだけどw
そこらへんの政治力がやっぱ西軍は弱いな。
どっちかが西軍についていて2方面作戦を強いられたら、
最上も一瞬で崩壊してたやろし、上杉も動きやすかったやろな。 >>171
籠城して堪えてれば、上方で家康さえ勝てば、100万石も夢じゃなかったからな。
まあ、100万石には届かなかったが。
希望があるうちは結束するよ。最上に限ったことじゃない。
逆に、家康まけてたら、速攻で崩壊してたやろな。 >>205
>大垣城から佐和山か大津に撤退する西軍主力が
>山中(関ヶ原の西方)に集結して休んでいたら
大垣から佐和山や大津って1日の行程なのに
大垣からでたった数時間の関ヶ原で、なんで集団で休憩してるのかがいまいちよくわからないけど
やっぱり休んでたの? >>4 おぅ そうだな最初がリンゴでも
最後はスイカになるからな 「あんたらチャラついた武士が茶器を集めるように 俺らマジもんの武士は弓刀を集めてるだけなんで 気にしなくってイイっすよ」 >>10
上杉は秀吉により会津へ、家康により米沢へ。 なんで上杉だけ会津へ転封させらんたかね。
秀吉は上杉が嫌いだったのかね、それとも警戒してたんかね。 >>218
一次史料から上杉が誰にも伝えず帰国したのは明らか 原書が無いんじゃウリナラファンタジーじゃんWWWWW 秩父宮雍仁親王 - Wikipediaja.wikipedia.org › wiki › 秩父宮雍仁親王
秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年〈明治35年〉6月25日 - 1953年〈昭和28年〉1月4日)は、
日本の皇族。大正天皇と貞明皇后の第2皇男子。昭和天皇は兄、上皇は甥、
今上天皇は従孫にあたる。 妃は勢津子(旧会津藩主・松平容保の四男で
外交官を務めた松平恆雄の長女)。御称号は淳宮(あつのみや)。身位は親王。
お印は【(aidzu )若松(城)
閉じていたソビエト社会主義の北朝鮮から中国に入った地域の秩父宮の公園中を守ってください 友達に嫌な奴のグチ書いたら
どういう訳かおヒレ付きまくって嫌な奴に届いちゃったのね >>224
宇都宮家が改易された時に佐竹もやられかけたとかあったみたいだけどね >>205
誰ぞの説だな
難点は小早川の逡巡も無かったことになって辻褄の合わないことが増える
大垣城を出た理由は謎だが結果的に帝国陸軍のルソン>レイテ逆上陸の二の舞(逆だw)で大失敗
誰の献策だか知らんが忍城攻めといい手駒があってもかみ合わない男だな
「あった」説は信じないのに
「無かった」説は根拠がないのに信じるマヌケがいるよな
>>225
それはないな
景勝はこの書状の日付の二ヶ月前に家康の勧めによって帰国してる
勝手に帰国したのならこんな丁寧な文面にはならないだろう
(慶長4年)1599年10月22日付徳川家康書状
上杉景勝宛
御報令披見候、当表弥無相替儀候間、可御心安候、其元仕置被仰付之由尤候、
猶期後音候条、令省略候、恐々謹言、
(そちらのお手紙拝見しました。上方では特に変わったことはないので、安心してください。
会津国内の仕置きを家臣たちに命じられたとのこと尤もなことです。なおまた連絡しますので、詳しいことは省略いたします。)
十月廿二日家康(花押)
会津中納言殿 現在の政治家の権力闘争もよくわからないのに400年前の権力闘争がわかるわけないだろ。 >>75
西軍で戦ったのは
石田三成・小西行長・宇喜多秀家・大谷吉継
の4大名
勝てるわけないw 石田三成の人望のなさが露呈w
こいつはおとなしく家康がくたばるのを待っていたほうが
豊臣家にためになっただろうなwww >>92
当時の庶民の服の原料の植物(麻かなんかw)を独占していたから軍事費が
ふんだんにあったw >>102
最上と伊達がいるのに
関東に出張るのはムリポw
最低限 佐竹が伊達に向かってくれれば
備えを残して関東に出張れたかもなw >>239
三成は豊臣政権内では人気ないけど、民からは慕われてたんだろ。 >>137
川中島から上杉謙信の城まで
距離はたいしてない
自国防衛のために信玄とバトルしたのだろw
だいたいさ 義とかほざいてこう何度も戦していたら
配下の豪族から不満でるはずだろw
実際 それでも謀反した豪族が出ているしなw >>242
それなら佐竹が関東に打って出たほうがはるかに効果的なんじゃ つか、上杉と本当に連携していたのなら
三成は東北の有力大名を味方にすべき政治工作をおこなわんと。
そこらへんで既に負けてるんだよなあ。 >>19
実際はかなりショボい天下とりだからな
そりゃ脚色したくもなる >>239
3万くらいの兵力でしかも体勢が悪い
西軍から奇襲をかけるくらいじゃないと勝てないね 積極的に戦うでもないのに、西軍についていった大名は何を考えていたのかね。
負けたらお家断絶なのは誰にも分っていたのに。 特に島津とか何がしたかったか全くわからんw
伏見城に拒否されたからといって西軍についたら、敗戦した時点でお家も危ういだろ。
戦わずに逃げ時だけ頑張って多くの家臣を殺して、何がしたかったんやろ、義弘は人気高いけど
個人的にはこの一件だけで、あんま評価できない武将だわ。 >>102
それを期待した節があるけど
家康の動向を見失うというのはいただけないね
徳川シンパがウヨウヨいた今はなくなった関ヶ原スレでは西軍は何をどうやっても勝てなかったといってる連中がたいはんだったが
勝負は時の運だから景勝の動向、佐竹の動向なんどやっても歴史通りに運ぶとは限らんからな
それにしても偉そうなこといってたのに
練乳とかカルピスとか連呼するしょぼい荒らしにスレを潰された不甲斐ない奴らだったな
連中が石田三成の代わりに西軍の采配を振るったらそれ以上の惨敗劇を見せてくれそうだ >>239
人望云々より建前を信じすぎた
総大将が「主君」と共に大坂城にあれば豊臣恩顧の大名は動きが鈍るはず
て感じに
その割に自分は謀略まがいのやり口で武断派の押し込めを図ってるんだから心がアレだったんだろう ただ、中部はJRを引き込まないとあかんな。
名鉄だけだと不便な人は多いやろな。 >>254
三成もそこまで能天気じゃなかったかと。
多くの大名を恩賞で西軍に釣ろうとしているし。 >>246
伊達が南下して本領蹂躙されるだろw
それに佐竹なんて豪族連合の親玉みたいなものだから
本領留守したら裏切る豪族なんかいただろうしよw >>104
あの漫画のおかげで一躍有名人になったようなもんw >>257
伊達さんにそこまでの勢力はない。
上杉さんの相手だけでもおなか一杯。 直江ってよく目にするな
巨人の投手もそうだし、子の板でも若年性認知症の人が同姓 >>256
恩賞で釣れるかもって究極の能天気だろ
天下の差配は奉行が執り行うってのが事変の火種にもなった三成の基本姿勢
信用する方がどうかしてる
もう少し時代が下ればそれもありだったろうが 当時の上杉ごときが家康と戦って勝てるわけないだろ
そんなの分からない景勝でもないだろ >>250
家中が割れてた可能性もあるんじゃね?
毛利がそうだったし >>250
西国に領地があったら
周りが西軍だらけなら
しぶしぶ西軍に入るだろw
家康に味方した京極家みたいな漢はボコボコされているからなw 豊臣家の本領や毛利の石高をもっと増やして、
徳川を上回ったり、対抗できる形にしときゃあなあ >>254
そもそも名目上の総大将だった毛利輝元からして
四国の東軍を攻撃して領土拡張しに行ってるという
本気度が足りない >>251
薩摩本国で家老級の豪族謀反状態w
とても兵隊出す余裕なんてないわw
でも義弘は後の発言権が欲しいから
手持ちの兵隊でのこのこ出てきたけど
数が少ないから相手にされてないw >>251
出した人数が少ない
しかし日本は恵まれてるな。ここまで記録残ってるもんな。
外国じゃ妄想するしかない。 >>14
歴史ってこういう古文書やらが事実を反映してると考えると見誤るよね
現代のビジネスメールでも本心なんて書かないんだから
結果から読み解いた方が良い
家康は自分の幕府を開き、秀頼を大坂の陣で殺した
この結果のために上杉討伐や直江状はある >>251
伏見城の件は家康が島津義弘に留守居を依頼したのは義弘書状にも記載があるので間違いないが、鳥居に入城を拒否されたってのは創作だな
留守居の話が出たのは5月初めくらいで時期が全然違う
関ヶ原直前の義弘はどっちつかずみたいなイメージだけど、一次史料で見ると完全に西軍首脳として動いてる
上杉と連携するための書状も義弘メインで出されてるし、
国元の忠恒にも西軍主力として働くには兵力が少なすぎるから、至急兵を送るよう要請してる書状も残ってる >>254
三成はどうせなら家康に忠誠を誓って
側近になったほうが立つ瀬があっただろw
太閤検地とかいわゆる石(ゴク)て年貢米による
統治機構をつくったのは三成だからな
極めて優秀な能吏w
そのプロセスで豊臣家を擁護すれば良かったのだけどなwww 豊臣秀長と蒲生氏郷が生きてればまた違っただろうになあ。 >>266
家康に関東平野与えたのが失敗だろw
小田原城落城の後
関東平野見聞した秀吉は
あまりにも広大な関東平野を見て
ああ家康に与えたのは失敗したなと後悔したらしいwww
会津あたりならオッパれたけどなw 「それは事実ではありません」と弁明する内容
↓
あとから挑発的に読み替えられていき
やがて「疑うならこちらまで来ればいい。お相手しますから」との追記
ひでえ 結局は小牧長久手で家康を力付くでねじ伏せられなかったのが全て >>275
そうなんか
当時の関東平野って湿地帯で何もない土地やなかった? >>240
なるほど
直江状というのもそんな「かん」違いで後世に伝わったのか >>261
家康の方が恩賞で釣ってたんけどな。
まあ、戦前気前が良く豆に恩賞の手紙を書いてたのが家康で、
ただ、戦後に実際に守られた人はというと・・・だが。 >>277
大地震が原因だから狸の魔力は加藤保憲なみってことだな。
恐怖のあまりに漏らした糞が大地を揺するという… >>265
西国大名でも東軍多いよ。
ほとんどが恩賞につられてだけど。 >>278
当時はそうだったけど、
それを必死に開拓したのが家康さん。 応仁の乱みたく長期化して泥沼化しなかったのはやはり三成が小物すぎたからなのか >>272
まあ、義弘は三成に恩があるからな。
なら関ヶ原で真剣に戦わなかったの? ソビエト革命関ヶ原の1日の戦争なんて真夜中の「こうしんさん」みたいなもんだろ
だいたいこの平安ソビエト道貴族の真夜中のこうしんだって
よそのソビエトの一夜の核戦争電磁波戦争光子戦争や太陽核融合で太陽出したり隕石落とししたり、流星雨ふらせたるだった
大阪の門真や寝屋川のため池にあったあたりも随分流星が降ったな明治時代ころかな
日清日露戦争前後かも >>278
それは江戸城周辺の東部だろ
西側は武蔵野台地だよw
渋谷あたりの土地を家臣に1日馬で駆け込んだ分までやるとか
ケチくさい家康の大判振る舞いするほど
土地があの当時感覚するべあったwww 関ヶ原だけでなく、壬申の乱ももっと評価されるべき。 前田慶次と並び創作もので美化される代表格の人 逆に今川義元はリベロの武田ぐらいしか >>267
よく毛利輝元は家康そっちのけで、火事場泥棒のように九州や四国に派兵して自領拡大に余念がなかったと言われるけど、そもそも東軍西軍の誰もがこんな短期間で戦が終わると思ってなかったからな
膠着状態になると誰もが読んで動いてたんだから、輝元の四国九州派兵も決して愚策ではない >>278,283
よく言われるけど室町全般に渡って公儀の分裂を始めとして関東では騒乱が絶えなかったということだけでその価値が知れる
関東制圧であまり苦労しなかった西向きの大名たちにはよく分からなかったのだろう >>284
淀の方が知らんぷりだからなw
なんで豊臣家臣が争っているのて感覚w >>292
黒田なんかも「応仁の乱の再発キター」って感じで兵隊集めてたんだっけか。
応仁の乱のときなんて東軍同士、西軍同士で領地の取り合いやってたもんな。南北朝の頃もそうだし、日本の歴史から見れば当然繰り返すと思ったんだろうな。 >>295
あれ、カテジナみたいに「勝った方を愛してあげるよ」って感じだったんじゃね? >>285
国元の忠恒に兵を送るよう依頼するも、前年の庄内の乱の影響や義久の許可が下りなかったことから結局薩摩からの加勢が来ることはなかった
戦機を見極めていたと言うよりは、義弘が戦いたくても兵力不足で戦えなかったってのが本当のところだろう 秀忠軍の到着が遅れたせいで関ヶ原で活躍した西国大名に配慮せざる得なかったと聞いたな >>298
精力的には小さくて政局を左右する立場にはなれなくても
関ヶ原の局地戦で戦うのは可能だろ。 上杉さんも真剣に戦わなくていいから
ゲリラ戦でもしかけて東軍の退却の足を遅らせるくらいすればよかったのにね。 >>299
秀忠軍の到着が遅れはわざと兵力温存説もあるけどなw
そもそも失態した秀忠が2代将軍になれたのも
秀忠の母親が吉良の姫で正真正銘の源氏の血筋てこともあるw >>296
黒田如水の場合はちょっと違うな
通説だと第三勢力となって九州切り取ってから上洛して家康か三成の勝者と決戦みたいに言われるけど、
如水の場合はちゃんと家康から九州切り取り勝手の許可を事前に貰ってるな
一部抜粋すると、
(慶長5年)1600年8月25日付井伊直政書状
黒田長政宛
「何分ニも被入御精、又御手ニ可入所ハ、なにほとも御手ニ被入候へと可被仰遣候」
何事にもご精を入れられ、手に入る所はどこなりともお手に入れられるようにと家康が申していた >>304
葵紋使ってて源氏は厳しかったんだろうな >>8
5年ほど前にはまだあったな
隣の寺に「ノーモア関ヶ原」って書いた石碑が建ってたが仲間なのか? タイムスリップして傍観出来るのならこの戦いをみたいな。そんでもって透明になって小早川さんの狼狽ぶり
本当かどうか見定めたい >>1 徳川幕府のせいで 日本がおかしくなった 秀吉のまま 朝鮮中国を潰しておけば 第二次世界大戦もなかった >>300
その局地戦がなく一気に決着したのが関ヶ原本戦だよ >>304
譜代に一番槍を入れさせるために抜け駆けなどと状況的に上手くないことまでやってるくらいなんだから
秀忠率いる主隊の未着は相当痛手だったぞ 秀忠軍の到着が遅れはわざと兵力温存説ニダ
家康本体が負ければ、もう終わりなんですよ
東軍も家康個人でもってるようなもんだからね >>116
上杉は自業自得だろうけど毛利は悲惨としか言いようが無いな
そりゃ300年経っても恨んでるはずだわ >>313
原爆も山口に落とされていれば今頃「…まだ早い」とかやってたんだろうな 誰かが作った昔からのフェイクニュースだ。世の中嘘ばかり。 >>299
あの状況だと秀忠じゃなくても絶対間に合わないからな
膠着状態になると思ってたからこそ、家康も真田を倒してから合流するように前々から厳命してた
大垣城から三成らが出てきて突発的に戦が始まってしまったのが最大の原因
主力温存説はまずありえないな >>310
その関ヶ原に布陣していたのだから
関ヶ原ではきちんと戦えよと。 >>313
どっちかというと毛利の方が自業自得じゃね?
家臣団すらまとめられずに右往左往してて。 温故知新なんて、死語だろう。
歴史に学べとか、何を爺いがほざいてるんだ。
原爆も水爆も原発もない時代だし、勝てば何とでも言える。 家康にしたら、どっちもどっちだろ
毛利も上杉も、ほぼ同じ処置
そもそも、大老の勢力削ぐのが目的だから そもそもなんで家康を関東に移封させたんだろうな。
どうみても三河にいたほうが管理しやすいだろうに。
信州のごたごたを太閤の意向で適当に引き延ばしとけば勢力も削げるしw 当時は高速の連絡手段はなかったから
別ルートを行く部隊と足並みを合わせるのは不可能
遅参したとか家康が秀忠を叱ったとかはっきり言って怪しい 当初は信雄を移封する予定だったけど、断ったから、これ幸いに改易、尾張召し上げ
家康はあっさり飲んじゃったからな
叛意がないとみなされたんだろう 三成に人望ないとはいえ
裏切りなければ西軍の圧勝布陣だったんだろ、
その条件でみんなよく裏切ったよな 小早川秀秋寝返らせたのは元北条家臣だったな
>>325
信雄は旧家康領への転封を断った 信雄は関東じゃなくて
家康を関東に移したあとの旧領(三河、遠江、駿河、甲斐、南信濃)に転封する予定だった 信雄が素直に移封していたら天下は信雄のものになっていたのかw >>322
全員の名簿があったわけじゃないんじゃ? >>323
その他に
三河〜駿河は東海道が通る交通の大動脈でここを抑えられると東日本への軍勢の移動が困難になる、中山道は山道の多く移動に向かない
少し前まで敵地だったので領地経営失敗->さらに領土削減や改易を期待していた
旧領から切り離すことで土着の家臣の分断を図った >>203
明治政府が城壊しまくったのは鶴ヶ島城が銃や大砲使っても落とすのに苦労したからこんなもん残しておけねーって壊しまくった訳だしな >>325
信雄の国替え命令が出る直前の家臣宛の書状(1590年7月1日付)がちょっと面白い
国替えの風聞があり、下々の者が慌てふためき逃げ出したりしているそうだが、そのような事を固く禁ずる。
今後そのような不届き者が現れれば構わず成敗するように。
今のところ秀吉から国替えの命令はない。このように下々の者が騒ぎ立てるのはお前たちの仕置きが生ぬるいからだ。
八幡大菩薩に誓って国替えは絶対にないので、安心するように。
なおこの手紙から二週間後に改易される模様 >>323
当時の関東、と言うか江戸はど田舎もいいとこだからな
だからこそ家康の理想の街づくりが出来たんだろうけど >>326
毛利輝元が総大将では勝てるはずもないね
三成が実質的な総大将っていうのが今日の歴史における定説みたいになっているけど
かなり無理がある
仮に勝利を収めたと仮定して論功行賞で三成の差配した通りに決定することはないからね
三成の作戦通りに戦って大勝利を収めてもそれが評価されるかは全く不明
この状態で三成の指示に従う人がいるはずもないだろ
家康の方はもっとはっきりしている、「中立を守ったら所領を安堵するよ」って言われたら
積極的に西軍側に立って戦う必要がない >>303
上杉だけでなく、伊達、黒田なども「これで惣無事はご破産。また乱世に逆戻り。ヒャッハー」と思って自分の領地広げるのに走ったら、あっさり家康が勝って祭りはおしまい。
結果を知ってる我々は、天下分け目の決戦なのになにしてんだ?って思うけど、こんな結末になるとは誰も予想してなかったんだろう。 >>309
その前に金柑頭が信長コロしたのがアカンわ >>336
それぞれの大名は自分の利益を考えて、どちらにつくか中立にするかを決めたんだよね。
勢力半々の戦いだったから、勝てば自分の領地は5割増し以上だし、負ければ消滅。
結果としては勝っても負けてもそこまでにはならなかったけど、武将たちはみんなそう思って参戦した。 >>337
その前にあっさり殺された信長親子が情けない
さあ殺してくださいといわんばかりの条件のそろえかた この時の前田慶次って漫画では40代くらいに描かれてるけど
実際は70代の爺さんだったらしいな >>339
諦めよく逃げない倅はボンボンだったな。 >>339
謀反の力があるのは秀吉と家康だけだと思ってたんだろ。
二人が遠方にいる以上、少数警護でなんの心配もない。
光秀が謀反を起こしたのは、信じられないくらいの政治音痴だったから。
だって秀吉でも家康でも、光秀ごときは3日で成敗できる力を持ってた。 3大煽り書状
・聖徳太子(日出処の天子、日没する処の天子に…
・直江状 >>340
それより慶次と影武者での家康の変化を疑問に思えw 恐怖のあまりウンコを漏らすような狸も天下を取った。 >>345
さまざまな策略がとられるような時代になって、臆病者しか天下をとれない時代になってたんだろうね。 >>346
ゴップ議長を侮るなよとかなんとかみたいな 病床の前田利家があのとき家康の首を斬っていれば時代は変わった ああ、関東と上方方面への軍勢の移動だと確かに東海道大事だね。
ただ、よりによってその1番大事な関東に徳川さんを派遣せんでも。 >>9
そーいえば、関ヶ原の頃に歌舞伎者って上杉に味方をしようとして上杉景勝のとこに居たんだってな >>348
というか、小牧長久手を中途半端に終わらせないできっちりやっておけばな。
長期戦になればなるほど家康は不利なのだから。 >>323
関東支配してた北条を滅ぼした後だからな
家康が関東に行っても大丈夫だと思ったんじゃない?w
まぁ江戸に拠点を置いた方がいいってのは秀吉の助言だったようだけど
秀吉が東京を作ったな
家康も利根川の流れを変えて関東の土地を安定させたか よーわからんのは関東八州を家康は支配下に置いたのに
なんで江戸幕府になると関東は小藩に分立して幕府の直轄じゃないのかね。
関東全てが幕府の直轄だったら幕末でも長州とか雑魚は一瞬に屠っていただろうに。 中学生思考の隆慶一郎が持ち上げてる時点で無能確定やし なるほどなあ、書き写しっていうコピーしか存在しないから筆跡鑑定出来ないわけか。
それへの徳川のリアクション文書とか、当時の伝聞で判断せざるを得ないのか >>19
「小早川が裏切って」というのは間違いだぞ
小早川は仕方なく参加した伊勢攻めの後、
西軍を離脱して、西軍の要請も聞かずに勝手に関ヶ原に布陣してる
関ヶ原の時点では西軍ではなかったから、裏切りではない 小早川家って秀吉さんの愚甥をもらってから
毛利配下ではなくなったのかな? >>361
小早川に一番影響力があったのは北政所
彼女が家康に味方した時点で関ヶ原の趨勢は決まった >>353
大地震起きて秀吉方が継戦不能になるぐらいの大打撃を蒙るってすごいよな。
帝都物語も将門じゃなくて東照大権現の怨念に祈っておくほうがよかったな。 >>268
1500じゃね
いくら精鋭部隊とはいえ
万単位の軍のぶつかり合いに参加したらひねり潰されるからのき口までは何も出来んわな >>271
いい事言うな
関ヶ原スレでは
史料が全てだ
書いてあることの中にしか真実はないっ
てガイジみたいなこというやつがいて辟易とした
挙句の果て徳川家康は豊臣政権を必死に守ろうとしただけとか言ってるしw >>363
本妻と子持ち愛人の仲が日本の運命を決めたのか >>341
そこはうんこ野郎こと家康さんに見習わないとな
クソを漏らすどころか
クソを全身に塗ったくってでも脱出しなきゃw >>367
1000人単位で戦に参加した武将とか他にたくさんおるやん。 >>275
実際見ないと分からんてw
秀吉それは常識ない >>281
そう煮え湯を飲まされたあと
家康を総力でぶっ潰しにいくはずだった
もったいないよなぁ
このせいで日本の歴史が狂った 奥州征伐の後に いちゃもんつけて 家康潰しとけば豊臣も安心だったのに >>292
三成も輝元も長期戦を睨んでの戦略だったから立ち遅れたけど
展開によってはそれが正解
それを後付け講釈で何やっても無理とか言ってる奴は逆に頭悪い
歴史の先を知ってる人間が当時の人間を上から目線でバカとか何やってもとかいうのは傲慢すぎる
そういう奴に限ってその場にいあわせたらそれ以下のことしか出来んもの >>371
3000とかが多いな
でも1500はあかんでしょ
1番少なかった訳じゃないけど
島津にしては情けない動員 >>360
小早川裏切りというのも
裏切りもの代表の家康さんの罪を
カモフラージュするために
作られた秀秋像だったのかも >>379
織田から簒奪した羽柴さんはどうなんですかね ばーかばーか
おまえのかーちゃんでーべそ
しんじゃへ 三英傑とかいうけど
信長からしたら
同列に並べるなんて失礼極まりない 上杉が屈服していたら、次は家康は豊臣に手を出して、
そうなると三成と福島の共闘もあったかもな >>363
黒田長政と浅野幸長が秀秋調略した時も、北政所に連なる者としてこっちに味方しろってわざわざ北政所の名前出して調略してるしな
「貴様何方ニ御座候共、此度御忠節肝要候、二三日中ニ内府公御着ニ候条、其以前ニ御分別此節候、
政所様へ相つゝき、御馳走不申候ハてハ不叶両人ニ候間、如此候、早御返事奉待候」
貴方がどこに居ようと、この度の忠節が肝要です。2,3日中には内府がこちらに到着されるので、それまでにご分別されることです。
政所様と縁が深く、政所様のためにも奔走しなければならない両人(浅墅幸長・黒田長政)であるから貴方にこのように言うのです。早々にお返事お待ちしております。 小早川も島津も毛利も大谷義継の近くに陣を張ってた少数の武将たちも周りの武将の出方や戦況を気にしてばかりで西軍でまともに戦ってたのは石田勢や宇喜田勢や小西行長や刑部くらい
・・・というのが中卒の俺の見解だけど合ってる? >>365
秀吉の天下のときは
ちょうど今みたいに頻繁に地震があったからなw
止めは伏見の地震 清正活躍w >>367
島津お得意の戦法を三成に献策しても
小狡いとかで駄目w
島津むくれて関ヶ原では傍観www >>373
信長の天下布武 て印は
現実には今の機内を指しているw
それ以外は壁外の地
秀吉が若いとき坂東に行商でもしてなければ
関東平野の広大さは認識できないだろwww >>364
秀秋はずっと自分を庇護してくれ育ててくれたねねに恩義があるんだから
ねねの言うこと聞くの当たり前じゃん
なんでねねをないがしろにした愛人と愛人の息子を守る義務があんの
秀秋なんも悪くないのに悪く言われてて不憫だわ 小早川が西軍の意見も聞かずに勝手に陣をはって
すでに西軍から離れていたのなら、東軍が来る前にみんなで小早川をボコっておけばよかったのに。
あんな絶好の場所に陣をはらしといて味方か敵かよーわからんとか西軍は阿保じゃね? >>331
当時の東西の大動脈は中仙道だよ
関ヶ原だって秀忠率いる徳川本隊は中仙道を通ったろ
東海道は大河川や湿地が多く大軍の通過に不向きだった 島津「なんか戦闘開始したら完全孤立して四方囲まれたんやけど?」 >>355
石高=軍事力
江戸の周りが非力な雑魚藩ばかりなのは防衛上当然の処置。
遠くの大藩が攻めて来る心配より近くの藩の急襲を警戒する方が現実的。
現に江戸幕府はこの政策で260年の太平の世を保ったのだから大成功。 >>397
小藩に分割しないで、関東八州を全部徳川家直轄地にしちゃいなよ。 嘘に決まってんじゃん。
あいつ領地奪われとるやんって聞いてガッカリしたわw 関ヶ原もやっと勝った戦術オンチの家康だからな。馬鹿にされまくってたんだろ。 本当の書状なんてごくわずかでほとんどは誰かさんの書いた怪文書 >>401
その関ヶ原の戦いも一級資料と明治政府と司馬遼太郎経緯した通説関ヶ原の戦いと全く異なるw >>10
そもそも県なんて明治期に適当に線引きしただけだが? 俺が直江さんから家康さんに「降伏するから攻めてこないで、ごめんねごめんね」という書状を書いて残しとけば
200年後あたりには新説として取り上げられるのかもな。 >>399
https://i.imgur.com/x3rBcyB.png
1630年の大名配置図だけど
関東で目立つのは水戸藩と宇都宮藩位で
それもそう大きくない
あとは直轄地(白色)になってるね >>407
新潟も佐渡金山があるから一部直轄にしてるね >>404
いきなり始まった戦いじゃなく、準備期間が十分にあったにも関わらずこれはないなと思う。
家康が無能だったんじゃなく三成方に優秀なのが集まった結果かも知れないが。 >>239
たしか加藤清正が三成を殺そうとしてたんじゃなかったか?で家康のところに逃げ込んだ
家康「シメシメ」 正直いうと三成さんは秀吉がしんだとき追い腹切ってたほうが幸せだったのかも >>405
偶然だろが奈良県ってまるで朝鮮半島みたいな区割りで笑えるな >>394
ある人間に言わせるとあれは家康が自軍の温存のために故意に中山道行かせたらしい
真田に妨害されて遅参したというのは口実で、もし東軍が負け戦になったら即江戸に帰らせる >>412
その可能性があるな
罠にはまっても一度に壊滅はないし >>19
信長の桶狭間
秀吉の中国大返し
うんこ家康さんがセコい調略のヤラセではカッコつかんもんな
必死に脚色考えたんだろな >>399
旗本八万騎 を公称していたのだから
そいつらに領地やらないとならないだろw >>410
加藤清正は朝鮮の戦いの報告で三成にわるく書かれて
謹慎処分になったから恨みもあるけど
福島正則はなんで三成に恨み持っていたのか謎だなw
福島正則てDQN大名ながら頭も切れたしなw >>368
仕事でもなんでも一通りの結果しか想定しないなんてことはないからね
しかも家康は一か八かのギャンブルをやる必要がない
上手くいかなくても秀頼の二番手、上手くいけば天下
だから両方の意味合いの証拠が出ててくる
関ヶ原の結果、こっちが正になりましたってことだね >>21
計画にない場合でも
実際に上杉が征伐されるといよいよ
瓦解に歯止めが利かなくなるから
石田方は準備不足でも行動を起こすしかないわな
国元手薄かつ家康本隊のいる出陣先で知らされたら各大名も帰順確定やし
鳥居っちには気の毒だけど
どっちに転んでもな必勝の策やな 真田丸の直江声良かったから直江状の読み上げの時笑ったわ。 西軍って結局秀吉の威光で威張ってたやつらの集まり
確かに三成の差配で毛利、小早川を中心に軍勢を集め
明を撃破してきた
でも秀吉が死んだのに関ヶ原でそれを再現できるか?
人の心がわからないにも程がある >>275
そりゃないんじゃないか
滅ぼした北条氏の領地を与えたんだから
秀吉としては家康さん逆らったらあんたも滅ぼしますよってことだろ >>271
結果から原因を求めるのはおかしいだろ
原因と結果の間には様々な齟齬があるんだから
結果から考えると信長暗殺の黒幕は秀吉とかなるんだろ >>412
ちょっと考えにくいなあ。かなりスキー。そもそも最初から、関ヶ原の負けの可能性がかなり高くなっちゃうw
徳川本隊をごっそり抜いて、豊臣恩顧の大名に勝敗の帰趨を委ねるなんて。外様だけだで勝たれたら、戦後の発言力もかなり弱くなるしなあ
実際後の幕藩体制で、大封の外様が多く出来たのはその為。
井伊直政や松平忠吉が大怪我したのも、現地にいた少数の徳川直参の大義名分を保とうとムリしたからなんだよなあ >>271
史料批判とか知らなさそう
一次史料でもその史料単体で内容の真偽を判断するのは危険だから様々な史料と突き合わせて検討するよ >>421
奉行側の首謀者は増田前田だぞ
三成は謹慎中で途中参加 >>415
その8万旗は幕末で全く役にも立たなかったけどな 関東ってのは鎌倉の昔から独立勢力がはびこる土地
そんな場所に上杉、毛利を足したよりも多い石高、
秀吉自身より多い石高で野心家を置くとか、
こんなん遅かれ早かれ謀反ですよ >>429
だからこそ、中央から指名されてきた家康に反抗的であることを期待されたんだろ
反乱起こされたら、それを口実に今度は九州なり東北なりに飛ばせばいい >>430
家康を懲罰するなら移転した直後だろうなw
懲罰理由も捏造してさw 三成やらせばよいw
で 佐竹 伊達に 領土加増の恩賞の餌で使役するw
でもさ 秀吉て案外お人好しなんだよな
家康は妹の婿だから親族て百姓発想w
伊達の謀反容疑のときは花押に針で穴を開けたのが
正式とうそぶいたのを機智ありと喜び許すなどなw >>32
最新の研究でさ
「愛」→「アイーン」の武将から創作されたとの説が有力で実際のカネツグハかなりバカ殿っぽたみたいだよ なーんだやっぱり偽書なのか、お次は上杉謙信無敗説が
暴かれるかな >>431
戦国武将の中で伊達政宗の書状の現存数は秀吉に次いで5000通と多いが、
これだけある中で穴が開いてる原本は一つも発見されてないとこみると、現状で鶺鴒の花押に目のエピソードは創作と言わざるを得ない まあ家康に逆らったのは本当は上杉景勝で、
上杉藩では景勝を悪者にするわけにいかないから、
直江兼続にその役目を引き受けてもらうにあたり、
面白おかしく脚色したというのはありそうな話 >>275
かと言って旧領150万石を取り上げる以上はそれより広い土地与えないと
小牧長久手再びになるぞw >>292
三成が膠着状態にする事を失敗した、もしくは家康が上手だったという事か >>312
毛利輝元も三成が負ければ終わりだと分かってただろうけどな >>428
幕府始まってから幕末まで250年も経ってんだからしょうがない >>361
名前は小早川だけど明らかに豊臣の系譜の人だし
そして北政所の影響力が強かった >>393
小早川ボコりに行っても多分東軍と挟撃されて終了
どっちにしろ挟撃だけど >>421
そもそも論として豊臣家の親族や直参の家臣が少ないのが悪い
秀吉が亡くなっても秀次が残ってればもう少しマシな判断出来たわけで >>431
そんな事やっても佐竹や伊達が徳川に成り代わるだけで何の意味もない >>444
東軍が西へ向かう構えを見せ、それを阻止したい西軍が関ヶ原で待ち受けた
隘路で両軍がぶつかればどちらかが戦闘不能になるまで戦いが続く
この辺は家康の思惑どおりだろう お、直江状のスレ
まあね直江状といえば傑作漫画の「へうげもの」だよなw
主人公一党の数寄者連が東軍西軍のうち、悩みもせずに東軍に
つかざるを得なくなったことを1コマの下に説明している
いいシーンでしたな。
まあ、なんか詳細は忘れたけど、本物の直江状にもあるでしょ?
「上方ではゼニをもてば武士が茶の湯だなんだと風雅に遊んでいるか知らんが
こっちは武具とか買って武道の稽古に余念がないんで」でんでんみたいなの。
あの煽り文句も江戸在住の家康にいうかという気はしたがw
あれもまあ直江一流の挑発なんでしょうな。
まあスレの本題で言うところの直江状、本当に本人が書いたのならねwww ところで、まあ言ってもしょうがないんだけどさ
どういうわけか直江兼続ね、英雄視されてるけどさあ。
結局は主君上杉家を西軍につかせしめて、
徳川史観でいえば賊軍にしてるわけではないですかw
関東管領の謙信公以来の領土をボッシュートされ、
出羽米沢に送られちゃったわけで、これは国を誤っているよねwww
そういや越後といえば時代は下って幕末なんかさ
長岡藩の河井継之助、これもまあガトリング法調達の
英雄ってことになってるけど、でもまあ佐幕賊軍で長岡は苦労しているわけでね
2ちょんのネトウヨくんやネトウヨ軍オタくんらが
年中暑苦しく連呼している「リアリズム」じゃないけどさ
獅子奮迅の働きかなんか知らんけど、勝たなきゃしょうがないよなwww
もちろん敗者敗北の美しさはあるだろうし
勝者の醜さはもっとたくさんあるだろうがね。
でも、藩論に与り知らぬ一兵卒やら一指揮官の部将ならともかく
組織の帰趨を左右する家老レベルともなれば
そこはどういう事情があったかわからんけど
最終的な勝敗も含めた「英雄」な気がするけどなァ なぜネトウヨを絡めないとろくに意見もかけないのか
可哀想なオツム >>455
過疎スレなんでスレ違いのネタにもマジレス仕るがねw
「一将功成りて万骨枯れる」というだろ?
関が原でどういう事情があったか西軍につき結果所領没収米沢転封となった
上杉のお偉いさんたる当主や直江兼続、
今なおロマンティックに語られる戦国英雄の武将の皆さんは
そりゃいいかもしれませんがね、国を過つ上層部の誤った決断で
ひどいめにあわされた史書にも残らぬ山と消えた平民は
たまったもんじゃねーだろってことをゆうとるわけだ。
で、それがネトウヨ雑兵どもとどういう関係があるかと思えば
21世紀からこっち、ネトウヨどもの支持する愚劣な政府政権のおかげで
国は没落凋落の一方ではないか、それで自死した日本国民の数だけでも
何十万行の墓碑銘が刻まれると思っているのか。
にもかかわらず、国を過ち民を苦しめた上級国民の政官財、
なかんずく往時の政府政党政治家どもはネトウヨたちによって
現代の日本を築き上げた立派な英雄と讃えられているではないか。
こんなバカな話があるか、ってそういう話をしているんだよ。 >>444
家康も短期決戦を狙ってたわけでもあるまい
当初の予定としては徳川本隊である秀忠が合流して、万全を期してから戦いを始めたかったはずだ
思いがけず石田らが大垣城から出てきたから突発的に戦闘が始まりそれは叶わなかったけど いやでも左派の起源のジャコバン派が暴力独裁革命をしたから戦国時代にお似合いなのか >>456
だから意識が高いというか、欧米列強の装備を手に入れる事に
意欲的だった西の雄藩が勝利者になった >>458
秀忠隊が合流した徳川vs大津城の部隊が合流した三成
だったらどうなってたんだろうな >>452
>まあ、なんか詳細は忘れたけど、本物の直江状にもあるでしょ?
その本物の直江状というのを見た人がいない >>439
川中島周辺は戦のあと武田の領地になってるんだから実質謙信の負けだろ >>439
無敗って言った方が分かりやすいし面白いじゃないか、ってだけの話。戦はマジで強いし、
若き信玄、信長、家康みたいな惨敗もないからそう言われてるだけ。
局地戦や、結果城落とせなかったみたいな負けは普通にある。 文句あるならかかってこい!家康
あれはグッと来るね 城の修理や武具の強化は武士だから当たり前なんだよ、それを謀反の疑いとは?どういうこっちゃ、上洛しないから喧嘩売ってるとか、どこまでいやらしいことすんねん、あんたこそ大閣殿下に散々世話になっていながら無茶苦茶なことばっかりやろ?それが恩に報いとんかいな?
舐めたらアカンで
それでも喧嘩吹っ掛けるならこんかい!
やったるわ
卑怯者の家康よ
こんな内容でしたね >>462
横だが徳川方だってフランスから軍事顧問招いたりして軍備増強にはあたっていた
鳥羽伏見の戦いの時でも戦力的には上回っていたが慶喜がビビッて敵前逃亡、まともに
ぶつかっていたらどっちに転ぶかわからなかった
まあ慶喜が粘って内戦が長引いていたら外国に植民地にされかねなかったし結果的には
アレで良かったって感じかなw >>465
武田は地道に城築いたりして領地として確保したからな
時間掛かったので信玄の寿命は食い潰したが >>421
明を撃破?
撃破したのなら中国本土まで攻め込んでいるはずではw >>421
東軍だってそうじゃん
関ケ原は結果的には豊臣の内部闘争に家康が乗っかった形になった >>473
その角度からの視点は俺にとって斬新だ。
なるほど。
確かに豊臣家の内紛だよな。
最前線で戦ったのはほんと豊臣恩顧の大名ばっかだよな。
いや、目からうろこだ。
そりゃ毛利や島津はバカらしくて本気て戦おうとする気なんか起きんわな。 現代には謙信公のような正義のリーダーがいないから虚しいよ
私利私欲にまみれ民衆を虐げるだけの人の上に立ってはいけない人ばかりが大きい顔をしてる >>470
受だって?受ける〜w
愛だろが女子が言ってる意味では無くて愛染明王の頭文字らしいがな 関ヶ原って合戦前の調略でほぼ決着してた消化試合なんでしょ? >>475
いや、上杉謙信の関東出兵は上杉軍としては思いっきり私利私欲なんだけどねwww
略奪や人さらいOKだったから農民の反発を食らって関東支配は実現できなかったわけで。 >>475
また正義とかそう言う極端な事言うんだからw 謙信は潔いし男らしいし俺も好きだけどさ。
ただ潔くなくて汚いところもある信長秀吉家康がおらんと、乱世収まってないんだから。
謙信は別に統一国家作る気ないからさ。何が正しいかって難しいよw >>474
関ヶ原の戦いは、秀吉の遺言体制に歯向かって政争で負けた連中がクーデター起こした挙げ句順当に負けただけの話だからな 信長の野望で上杉謙信に真っ向勝負挑んでみたはいいが大損害出したのは
今では良い思い出 >>477
優柔不断な小早川秀秋が家康との約束守らなかったらヤバかっただろw >>483
小早川秀秋は最初に無理やり城攻めさせられて以降は西軍の言うこと全く聞いてないぞ
むしろ潔いくらい西軍勢力圏で好き勝手してた
関ヶ原での松尾山布陣なんて関ヶ原前日に西軍の武将がいたのに無理やり押しのけて占拠してる
明らかに西軍ではない >>478
横だが関東管領の職を引き継いだ謙信が関東を不法に占拠してる北条氏から関東を
奪還するって言う大義名分はあるのでは? >>478
それねつ造らしいよ
ただの捕虜交換だって >>479
足利将軍家にもっと頼りになる人がいればなんとかなったかもね >>484
ああそうなんだ
家康が秀秋の本陣に銃弾だか砲弾だか打ち込んだので慌てて寝返ったてのは事実じゃ無いんだ 2019年の讀賣マラソンで北朝鮮か韓国かシベリアかアラスカ?カナダ?
其れとも流行りのグリーンランド? モンゴルあたり。中国?ないに作った大阪城らしいですが、それで本当の大阪市の大阪市民が寄付で作った関一市庁の作った大阪城の代わりにはなりませんよ讀賣テレビの朝鮮人辛坊さんよ >>489
松尾山を下る道は布陣図でいう藤堂高虎の方か大谷吉継の方へ出る道があるんだけど
大谷吉継の方へ下るには尾根を迂回しなければならなくて、開戦してから下ると明らかに間に合わないそうな
だから最近の新説の、
「そもそも小早川秀秋は最初から交戦してたのではないか」
という説が出てくる
松尾山に鉄砲打ちかけても届かないのは当たり前で、もしかしたら鉄砲音も戦場音と区別つかないかもしれないという話もある >>484
そうなんだ
そんな状態で戦闘するなんて石田光成は馬鹿すぎ >>488
時代の流れやから無理だろ。下克上で中世の権威である守護や既得権益の宗教勢力も潰されたし
その象徴である将軍や室町幕府だけ延命しようと思っても、どたい無理な話だよ
元々基盤が弱くて、有力御家人達の跡目争いに介入したりして、武力じゃなく政治的に生き残って来た政権だし >>484
伏見城攻めで秀秋が無理矢理参加してたかどうかは一次史料では確認できないから何とも
本来東軍に味方したかった云々のエピソードは後世の軍記にしかない話だ
ただその後秀秋は伊勢方面に居たにも関わらず、安濃津城攻めには加わってないし嫌々だったって可能性も否定は出来ない
本戦では恐らく初めから松尾山の麓に陣取してて、初めから東軍として参陣してただろうな
一次史料だと正午頃には既に大勢が決しているから、大谷の布陣してた場所が正確なら、開戦後に下山してたら大谷隊撃滅なんて不可能だしな >>462
慶喜「フランスの指導の下、近代化を進めたんだけど・・・」 >>496
フランスの支援の申し出を受けていたら
イギリスかフランスの植民地になっていたと思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています