【佐賀】鏡から探る邪馬台国の謎…吉野ヶ里歴史公園フォーラムで3氏講演、討論 「年代論の解決が邪馬台国論争の決定的な課題」 [樽悶★]
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「よみがえる邪馬台国」をテーマに開催されたフォーラム
https://www.sankei.com/images/news/201020/rgn2010200006-p1.jpg
吉野ヶ里歴史公園(佐賀県吉野ヶ里町)で「よみがえる邪馬台国」をテーマにした特別記念フォーラムがあり、佐賀女子短期大学名誉教授の高島忠平氏、大分県立歴史博物館主任研究員の越智淳平氏、兵庫県立考古博物館学芸員の種定淳介氏が講演。邪馬台国の女王卑弥呼が魏から贈られたという三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)配布の意味などをめぐって論議を交わした。(九州総局 永尾和夫)
◆海指向した人々
越智氏は「古墳のはじまり〜宇佐地域からみた古墳と首長居館」と題して講演。北部九州と瀬戸内地域に挟まれた大分県宇佐地域、福岡県豊前地域の古墳について説明した。
この中で赤塚古墳(大分県宇佐市)から出土した三角縁神獣鏡5枚は、石塚山古墳(福岡県苅田町)のほか、京都や奈良など畿内の古墳から出土した鏡と同じ鋳型で作製されていることを指摘。「当時のヤマト政権と九州の関係を知る上で重要」と述べた。また、小部遺跡(宇佐市)のように、海を指向した人々が古墳時代の始まりとともに出現。こうした墳墓や集落の動態を明らかにすることが、邪馬台国時代の解明につながると語った。
◆漢鏡7期の変遷
また、種定氏は「古鏡残照〜漢鏡の図像と銘文を読む」と題して、古代鏡の研究成果を披露した。漢鏡は「文様や銘文が多様で時間の変化に敏感」とされ、前漢から後漢まで、図像と銘文が7期にわたり変遷したと述べた。
吉野ヶ里遺跡から出土した異体字銘帯鏡は、この中の3期で紀元前1世紀前半の製作と指摘した。銘文は「久しく相見(まみ)えず、長く相忘る毋(なか)らん」と解読。この銘文はなぜか、鏡が製作された時代より百年古い表現とした。内容は主君を慕う臣下の心情を歌ったものとも、男女の愛情表現ともとれると語った。鏡のデザインはその後、儒教や神仙思想の影響を受けて変容、世界観を細かく表現するものになっていったと解説した。
◆年代論解決が課題
最後に高島氏が「考古学からみたこれまでの邪馬台国論争〜青銅器と古墳をめぐって」と題して、畿内説と九州説に分かれる邪馬台国論争の歴史的経過について講演した。
畿内説では、三角縁神獣鏡など3世紀の銅鏡が多数出土し、纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)一帯の前方後円墳が列島では最古とされることなどが根拠となってきたと紹介した。
これに対して九州説は、吉野ヶ里遺跡で国内最大級の環濠集落などが発見され、魏志倭人伝に描かれたクニと符合する遺構が現れたことが、有力な拠りどころとなったと指摘した。ただ、考古学者の間で、50年から100年の年代観の違いがあるとして「年代論の解決が邪馬台国論争の決定的な課題」と提唱した。
さらに、卑弥呼が魏の皇帝からもらったといわれながら、中国では一枚も出土していない三角縁神獣鏡について見解を述べた。この鏡は中国南部にあった呉の神獣鏡の系統なので、畿内は呉の地域との結びつきが強かったと考えるのが自然とした。これに対し後漢の系統の鏡が多く出土している北部九州こそ、中国北部の魏とのつながりが深かったと論じた。
この後、高島氏の司会で3氏が討論した。
この中では三角縁神獣鏡がやり取りされた背景について論議。「鏡は卑弥呼が下位の首長に下賜したのではなく、下位の首長が上位の首長に鏡を献上することによって、祭祀を委ねるということを表す儀礼用のもの。このため、首長間で大量の鏡が流通した」という見解が示された。
今後、鏡配布の背景について、さらに細かい研究が必要という点で一致した。
10/20(火) 7:55配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201019-00000003-san-l41 >>422
だからと言って
記述全体を疑うのはやりすぎ
中国だから数字を誇大表現するだろうくらいの先入観はあってもいいけど
方角が違うというのは無理やりすぎる
まるで畿内説信者のように見える >>406
記紀は聖徳太子の時に原型の本が火事でなくなっているからね
その事を忘れてはいかんと思うよ
今の記紀はそもそも半分は記憶の産物だから
それでも記紀の方が魏志倭人伝よりよほど正しい
卑弥呼の謎とやらもよく読めばわかると思うよ
正しい解釈をしていると思われるのはやはり本居宣長あたりだと思うけど >>422
虚心に読めば、北部九州ということになるだろ?
距離感についても、魏志全体で比較すれば不自然ではない。 >>425
記紀から魏志を読み解くのは無理w
邪馬台国と大和王朝には直接の関係がないとみるしかない。 >>361
完全にしてますよ
九州説は、吉野ヶ里遺跡で国内最大級の環濠集落などが発見され、魏志倭人伝に描かれたクニと符合する遺構が現れたことが、有力な拠りどころとなった
と、佐賀女子短期大学名誉教授の高島忠平氏が言ってます >>1 >>425
それ以前に、国家が主導して編纂した自国の歴史本とは、
自国の、当時の為政者に都合がいいように書かれていることも忘れてはいけないと思うよ
中国様から金印を賜ったのは自分たちの祖先だ
という事にしときたい
というねつ造なんて簡単に行うと考えるべき >>425
ついでに言うと朝廷内の文献は火事で焼失したけど
実際には文字はその頃には発達していろいろな豪族の中には文献を朝廷ほどではないけど保有していた
朝廷の運よく焼けなかった文献とそれら豪族の文献を元に今の記紀は制作されているよ >>429
記紀は日本の歴史書の再現だからね
しかも他の豪族などの文献なども参考にしている >>428
吉野ケ里以前から邪馬台国論争というのはありましてね >>427
いやいや十分に可能だよ
むしろ記紀を軸に日本の歴史を考えるのが妥当
該当する部分はたくさんあるから
但し魏志倭人伝の方位や距離はマジで無視するのがいい
これは神功皇后の右腕の武内宿禰の軍略だから 記紀については継体以降はそこそこ正しい感じかなって感じかなあ。
まあ、それ以降でも怪しいところはあるけど。 >>433
地図は当時の日本の軍事機密だから
武内宿禰がそんなものを簡単に中国に渡すわけがない
三韓征伐を成し遂げた軍師はそんなに間抜けではない >>431
だからこそ、
その当時の為政者、豪族に都合がいいように書かれていると考えるべき >>424
魏志倭人伝の元ソースがどういうものなのか?って点をもう少し考えるといいかも。
@洛陽の公文書・・・一番正確でアテになる
A帯方郡にあった出張報告・・・やや微妙
Bもっと古い文献の伝説や寓話(山海経など出典がわかってるものもある)
公文書部分はきっちり区分けできるので良いけど
他の分は玉石混交過ぎてアテにならない。
数字を盛ったというのも実態がわからなくなって困るし
本当に魏の使者が倭国にわたって各地を見てまわったのかどうかも不明 >>437
元ソースがなんであれ、
方角を間違えるのかね?
って事
畿内にたどり着きたいのに
東や南にしか進まない記述というのはおかしいだろ? >>1
日本の天才軍師の武内宿禰は三韓征伐を行った軍師
この武内宿禰に今の日本人の子孫さえも騙されていると言うわけだ
魏使者の張政の地図がデタラメなのも武内の戦略で実際には日本人は文字も持っていたし軍馬も保有していた >>438
当時「間違えた」のではなく、もっと過去の伝承が「間違ってた」であって
陳寿はそれを裏取りせずに転記したというだけの事だよ。
三国時代、西晋の時代に生きていた陳寿にしてみれば
距離だって「間違ってる」んだからね? >>440
過去の伝承が間違ってたと決めつけるのもおかしいだろ
なんで間違ってたと決めつけられるんだ? まぁ
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「倭奴國」「倭國」「光武賜以印綬」の記述と、その記述の印綬が出土したことや
後漢の系統の鏡が多く出土していることから
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や
佐賀の吉野ヶ里遺跡は
『後漢書』に書かれている、「邪馬台国」より50年から100年前の「倭奴國」(日本の記紀だと「筑紫城」)の遺跡
と考えるのが自然だわな >>441
明らかにおかしい山海経からの転載なんてかもあるからだよ。
>>349に3つの例を挙げたけど、うち二つは山海経からのパクリ
あと一つははっきりしないけど、現実的にあり得ないことくらいはわかる。
間違ったことを混ぜてしまった文書から、正しい部分だけ抜き出せってのは
他の当時の文献を大量に集めて答え合わせする以外に方法がない。
そして現代人にはもう既に文献が失われてしまって答え合わせはできない。
分離できない以上、アテにする方が間違い。 >>394
>欠史八代は神武天皇の後の事
>神代は神武天皇の祖先だよ
記紀の順番ではそうなってるんだけど、その順番が正しいのならばなぜ国譲りされてるはずなのに神武はすんなり畿内入りができず、
あれほど苦しんだのかって事。 またなんとか畿内入りした時になぜそこには出雲系の勢力が満ち溢れていたのかって事。 >>442
肝心の後漢書が後の時代の三国志より後に編纂されて
魏志倭人伝からの転記が混ざってるんだけどね。
後、後漢書には倭奴国は倭国の南端にあるとも書いてある。
福岡県は倭国の南端にあったのか?
中国正史を信じるなら志賀島の金印は矛盾してるか
後世に移動したってことになる。 >>443
よく知らんけど山海経に方角が書いてあったの?
>間違ったことを混ぜてしまった文書から、正しい部分だけ抜き出せってのは
そうなると、
朝鮮半島から九州に上陸した後に西に向かった可能性もあるわな
邪馬台国朝鮮説か >>446
山海経には倭国内の詳しいことは書いてないよ。
扶桑国とか小人国とかおとぎ話みたいな内容。
轆轤首も出てくるし、神話伝承の生き物も出てくる。
陳寿はそんなおとぎ話を魏志倭人伝に混ぜてしまってるし
他にも正確性に難のある伝承を混ぜてしまってる可能性が高い。
中国正史は全体的にアテにできないと思った方が無難。
魏志倭人伝に書いてることを全部正しいと思うのは100%間違ってる。 >>447
>可能性が高い。
あぁ、可能性ならどんなことでも言えるわな
>魏志倭人伝に書いてることを全部正しいと思うのは100%間違ってる。
全部正しいと言ってる人はまず存在しないだろうけどな
ただ、
東や南にしか進まないのに、北上しないとたどり着けない畿内はありえない >>444
ちゃんと日本書紀を読もうな
神武天皇と対峙し戦った長髄彦は神武天皇の親族の饒速日尊に仕えていた
しかし長髄彦は勘違いして神武天皇の軍に襲い掛かり神武天皇の兄を矢で射ってその傷がもとで死んだ
そしてBC660年に即位
出雲の時代はさらに過去だし中身も実は複雑なので省略
GHQが主張していた歴史が日本の歴史ではない 楽浪帯方の在った、313年以前に三韓征伐なんて無い。
卑弥呼を神功皇后に仕立てるとか、万世一系の歴史捏造なんて無理。
魏が制圧した馬韓、辰韓はともかく弁韓=加羅、任那は日本側の進駐地域である。
350年以降の百済新羅成立は、
楽浪帯方を追った楽浪帯方より北の民族、
高句麗が、中華貴族の幽州刺史、楽浪候となり、
半島南部に侵攻するのを
背後の日本の援軍と競合し押し返すことで成立している。
広開土王碑にもある、
この歴史が無ければ、日本に高句麗馬は移入できていない。
百済新羅の歴史は、七支刀や人質の日本への献上だが
これは征伐ではなく、対高句麗防衛に対する属国の朝貢。
これは南朝との、400〜500年の倭の五王による、
高句麗交戦権や半島利権の交渉でも明らか。
半島古代史で、高麗は韓民族ではなく北方からの侵略国である。
韓は、百済の白村江と新羅の高麗、モンゴル帝国で、完全に滅びている。
現代史では、大日本帝国が、既に無いw 大韓帝国の復興を試みた。 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫
倭國之極南界也 光武賜以印綬←
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見 邪馬台国は、もう1ミリも畿内に勝ち目はない。
日本の学者が畿内って言ってるだけw
本場の学者も天文学もDMAも九州1択w 新羅に纏足って伝わったのかな?
宦官は伝わったらしいけど。
こういう事言うと日本人もちんちん切除してたんだ!
とか言う人が現れるw そこまでの、支配して魅力ある国だとは
思えないんだけど。
🇯🇵弥生時代の日本w >>389
三韓討伐なんて日本の虚言だから
広開土王碑が知られてる今ではバレバレ >>448
洛陽の公文書部分以外が正しいという証明もできないんだよ。
本当に国が30もあったのか、一大率はいたのかも正しい事が証明できない。
卑弥呼に弟がいて政務を手伝っていたってのも証明できない。
陳寿にしたら短里も大間違いなんだよ?
そんなもの三国時代の魏でもその後の西晋でも使ってない。
アテにならないことだらけ >>451
はあ?十分にあり得るだろうよ?
三韓は馬韓 辰韓 弁韓だしちゃんと百済の王の名前も時期も符合するのいるし
GHQに洗脳されすぎなんだよ >>451
>卑弥呼を神功皇后に仕立てるとか、万世一系の歴史捏造なんて無理。
日本書紀にもそんな事は書いていないぞ
ただ日本書紀には神功皇后の時代に卑弥呼はいたと間接的に書いているだけだ
本居宣長の卑弥呼に関する記述も読めよ >>1
>この中では三角縁神獣鏡がやり取りされた背景について論議。「鏡は卑弥呼が下位の首長に下賜したのではなく、下位の首長が上位の首長に鏡を献上することによって、祭祀を委ねるということを表す儀礼用のもの。このため、首長間で大量の鏡が流通した」という見解が示された。
面白い視点だね
記紀にも鏡を配ったなんて記述は無いんだよね
卑弥呼がもらった鏡も魏の市中に出回っているものを集めたものだろう
ある程度の首長なら交易で手に入れることができたのじゃないか >>461
それも魏志云〜と、他人事みたいに書いてるだけ。
神功皇后即位何年にあれをした。これをした。どこそこへ行った。の羅列の後
魏志云、倭女王卑弥呼が云云かんぬん。
神功皇后と同一視して偽装するなら
神功皇后何年に魏に使いをやったと書くはず。 九州説に嫉妬した捏造近畿学者のせいで今では西日本各地でウチが邪馬台国だと声高に叫ぶ自治体が増えたからな。
マジな話すると邪馬台国は福岡の太宰府辺りだよ。 男系嫡子相続(万世一系)は女系、兄弟相続だった皇室が中国儒教から取り入れて改竄した家系図。
天智と天武の血の争いの原因になった相続法。 >>465
神功は架空人物なんですよ
中国の記録に女王がいたとあるから日本側もそれを無視できなくて
だからはっきりと神功が朝貢したとは書かないで卑弥呼と年代を合致させて女王は神功のことだと匂わせて偽装 >>465
確かに少しいい加減というか手抜きの記述
これは神功皇后が卑弥呼ではないと日本書紀が言っているようなもの
本居宣長の主張の方が正しいという事
三韓征伐は大小に関わらずに実際にあった事だろう
そこで当時新羅=辰韓=秦韓にいた秦氏の受け入れを決めた
実際に数多くの秦氏が朝鮮半島から日本に来て住み着いている
三国遺事とは少し相違があるけど神功皇后は存在しただろう
魏志倭人伝も本居宣長の説で説明できると思うけどね 単純に、三國志って昔から人気あるから
どんどんどんどん改竄が進んで
とんでもない方向行ってるだけなんじゃ。 だいたいちんちん切除した奴隷
どこに捕まえておくの?
建物すら無いぞw
東日本へ逃げたりしないの? >>469
それは無理だな
卑弥呼は日本では存在しないことになっていて
代わりに神功皇后の伝承だらけだから
源氏に至っては神功皇后の子の八幡様(応神天皇)は源氏の武神だから
信仰の対象だった
それどころか住吉大社を建立したのも神功皇后で戦後に日本の軍神たる神武天皇と神功皇后の名前が削除されただけだから >>469
記紀の神功皇后の所に卑弥呼の話が書いてある理由は簡単だよ。
歴代天皇の即位年、退位年から逆算していくと、丁度神功皇后の時代が
卑弥呼の時代と重なる。
神功皇后が摂政だった時期を西暦に換算するとAD200年から270年
記紀編纂者たちにしても、神功皇后のところに入れるしかなかったんでしょう。 >>470
>神功皇后が卑弥呼ではないと日本書紀が言っているようなもの
そうだと思う。
記紀が本当に都合よく歴史を捏造していて、卑弥呼と神功皇后を同一視させる目的があったなら
あんな書き方にはなってるはずがないね。
別人だけど、時代的に逆算したらちょうど一致したからついでに書いてるだけって印象。 ここの連中は魏志倭人伝すら読んでいないのな
正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した。しかし同年からの濊との戦いに続く韓との戦いにおいて、太守弓遵は戦死しているため、実行されていない。
正始8年(247年)、新太守の王(斤+頁)が着任する。女王は載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告した。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣したが、この派遣は同年の倭の報告によるものではなく、正始6年の詔によるもの。
正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された。
つまり卑弥呼はなぜか?倭国女王ではなく狗奴国と戦いしかも戦況は有利でなく不利で使者が遣わされた次の年に死んでいるのな
どうみても神功皇后とは別人物なんだよ
つまりは本居宣長の主張が全部ではないがある程度正しいというわけだ >>474
倭人伝に天皇がいるとか神功というもうひとり女王がいるとか一切書いてないんだわ >>478
訂正
つまり卑弥呼はなぜか?倭国女王ではなく狗奴国と戦いしかも戦況は有利でなく不利で使者が遣わされた年に死んでいるのな
どうみても神功皇后とは別人物なんだよ
魏志倭人伝でも卑弥呼が使者を遣わしたので死んだとも読めるし
卑弥呼は本当の女王の神功皇后ではなかったとみることができるよね
狗奴国との戦が不利なので女王の神功皇后に成りすました偽女王だったんじゃないのか?
しかも国が与えられるほどの地位の高い者だった >>479
中国側は天皇の事は倭国王と書いているよ
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見 >>430
>実際には文字はその頃には発達していろいろな豪族の中には文献を朝廷ほどでは
ないけど保有していた
基本的に同意だが、その「文字」はあくまでも「ローカル文字」であって「共通
文字」じゃない。つまり、小さなクニの中では通用しても、他のクニでは通用しな
いことの多い文字だっただろうということ。その原因は基になった文字がやはり漢字
だったはずで、漢字は「表意文字」であって「表音文字」じゃないといことに起因
する。だから、隣のクニでもコミュニケーションが不具合なことがあっただろうし、
まして遠隔地(九州と畿内とか)ではほとんど通じなかったはず。記紀の成立が
7世紀頃と非常に遅かったのはこれが原因だろうな。軍事的な覇権はすでに6世紀
頃にはぼ達成されていたにもかかわらず。
「言葉」とは政治権力の反映だ。ドーデ―の「最後の授業」はそれを雄弁に語る文学
作品だ。バカな考古学者にはこういう視点が全く欠けているwww 所詮、発掘バカ
www 本居宣長「邪馬台国は九州」
新井白石「やっぱり邪馬台国は九州だわ」
現代の学者の大半「九州だな」
キチガイ学者「邪馬台国は近畿ニダ」
纏向「嘘も百回言えば真実ニダ」
もし邪馬台国が西日本の広範囲で認知されてたらもっと邪馬台国についての記述が残ってるはず。
そう考えると本居宣長の邪馬台国は朝廷を騙った九州の豪族って説が一番しっくりくるよな。 神功皇后が三世紀にいたと、わりと真面目に話する人がいた驚かされる
じゃあ神武は紀元前660年に即位したと本気で考えてるのかな? >>畿内は呉の地域との結びつきが強かったと考えるのが自然とした
なんで魏の年号が書かれてるわけ? >>488
邪馬台国に背乗りしたから成りすまそうと必死だったのだろう
しかし鏡職人は呉人なので出来上がったのは呉鏡デザインのもの >>333
何この屁理屈wwwww
もし仮に神功皇后が卑弥呼ではないと知ってたら、魏志について何も書かない
妄想で凝り固まった頭でひねくれた解釈するより
古過ぎて何の伝承も残ってなく、単に知らなかったと解釈する方が現実的 >>486
神武天皇がBC660年に即位しなかったという科学的証拠はないからな
そもそもそれはなかったと強弁というか脅しをかけたのはGHQだけだからな >>393
九州説が有利と考える状況証拠って何ですか? 三角縁神獣鏡は魏の洛陽に相当する地域でも発見されている >>485
>本居宣長の邪馬台国は朝廷を騙った九州の豪族
本居宣長は記紀を否定できない。
現代歴史学者は記紀を全面的な歴史史料とは認めていない。
245〜247年に九州統合と言う日本古代史は、三国志倭人伝でしか読み取れない。
日本の古代史最重要の史料だが、考古学者はなんで誤読に誘導する?
大倭王は畿内に居た? 良いんだけど、
倭人伝は統一前の筑紫の話だ。
記紀ありきの戦前の皇室忖度は判る。
戦後の半島史忖度も判る。
学者ってのは、真実に付随するもんじゃないのかね?
日本の考古学、歴史学者は、歴史認識を改める必要がある。
記紀の九州起源は国家ではなく、水稲耕作の起源だし、
東遷説も完全に有り得ない、記紀忖度。
学術界の論争どころか、
事実がネットに転がってる現代で
漢文が読める中学生、高校生でも納得できない。 横やりだけど
神功皇后の伝書はかなり多いし書籍も山のようにあった
住吉大社の建立だけではないから
タイ飯は神功皇后の好物だし源氏や平家の軍神だし
八八幡神(応神天皇)は日本で有名な神様だし
それこそ昔の日本人から言えば神功皇后は紛れもない実在の人物で
卑弥呼は魏志倭人伝にだけ出てくるわけのわからん奴になる
しかも女王のはずなのに狗奴国一国との戦に悩まされて魏に支援を出してすぐに死んだ謎の人物と言う事になる 邪馬台国が九州以外だと本気で思ってる奴って脳に障害あるレベルだから病院行ったほうがいい
まだ邪馬台国なんてなかったのが説得力ある 三角縁神獣鏡が呉の影響が強い鏡だという事が定説になりつつあるのか
やはり機内にあった国は孫権伝に記述されている「トウテイ国」や「タン州(丹波?)」なのかもしれないな >>1
まあ記紀では少なくともBC660年に九州から近畿までが統一されているだけどね
それが事実ではないと証明されたわけでもないんだよな
GHQが無理やり神武天皇と神功皇后を否定しただけで別にそれが証明されているわけでもない
ただGHQの圧力により日本の教科書の中身が入れ替わっただけで
それまでの記紀を中心とした歴史学者がGHQの圧力で全部入れ替えられただけ
その中でGHQが持ち上げたのが歴史学者の津田左右吉(1873年 - 1961年)だった
当時はこれこそが珍説扱いで裁判にも敗訴した
だがGHQは歴史学者の津田左右吉を持ち上げたことで今のGHQ版古代歴史が完成して
それを多くの現代人が正しいと信じているだけである だがGHQが歴史学者の津田左右吉を持ち上げたことで今のGHQ版古代歴史が完成して
それを多くの現代人が正しいと信じているだけである
当時のGHQにおいては都合のいい解釈だった 日本人ってマジメだよねw
歴史に残る👩ひでえブサイクなお姫様だったとか
平気で書物に書くもんw >>1
日本史においては神武天皇以降の歴史は記紀こそが正史であり
魏志倭人伝は補足としてとらえるのが正しい >>501
大いにあるね
歴史教科書の中身がガラッと変化したのもGHQの圧力だし
戦後はあたかもそれが正しいかのように描かれてしまったから 記紀はファンタジーすぎて無理だわー
なろう小説として楽しめばいい >>1
まあ実際には日本書紀にも魏志倭人伝にも間違いは多い
でも大筋はどちらも正しく合致する面はあるのだが
GHQ教科書で過ごした日本人の多くは日本書紀だけが嘘と教え込まれている
ただそれだけの事
実際には日本書紀にも魏志倭人伝にも間違いがあり
日本の歴史においてはむしろ日本書紀の記述の方が正しいうえに詳しく細かいところまで窺い知れる
それが本当のところだ >>506
お前は神代部分しか見ていないよな
神功皇后の時代になると干支による年代表記や細かい部分までの表記があるはずだが >>496
記紀の神功皇后は万世一系を作る為の、三韓征伐捏造の為の創作だが?
楽浪郡帯方郡の在った、313年以前に三韓は無い。
313年以降に日本は半島進出全盛時代だが、
350年辺りで対高句麗戦で、百済、新羅を建国したのであって征伐ではない。
半島は基本的に植民地であって、漢四郡は中華植民地。
中華から馬韓辰韓を独立させた350年以降も、弁韓=加羅任那は日本人植民地域。
三国志韓伝は、245年の韓制圧戦以降に詳しいが
直轄化した、馬韓、辰韓に比べ、弁韓12国の領主=大夫の王政は、
韓王朝滅亡後の馬韓辰韓の臣智直轄化でも、
日本系領主に対しては直轄化できていない。
三国志戦記の上で、倭人伝は
筑紫の卑弥呼を大倭王認定して
東夷安定を図った皇帝の恥である。
それでも、陳寿が書き残したかった理由は
東夷伝序文と、評曰を読めば判る。
考古学者ってのは、古代漢文読めないのか? >>501
GHQが乗り込んできて墨で塗り潰させた教科書には神武は九州から奈良に東征したと普通に書いてあったらしい >>510
ちゃんと日本書紀読んでいる?
三韓征伐と言っても貢物を約束させただけで国を征服したわけではないからな
しかも馬韓、辰韓、弁韓の三韓はちゃんと神功皇后時代に存在したぞ 日本王朝の起源の話も大切だけど
九州が日本固有の領土になったのは663年でしょ?
半島とは、国境以前に国が無い。
百済、新羅は日本の属国だよ?
隋唐に対して、日本が出来たのが、600〜700年の記紀であって
白村江海戦で、対馬国境が成立した。
倭人伝〜隋唐書は、これを証明する。 >>445
『後漢書』に書かれている「倭奴國」(日本の記紀だと「筑紫城」)のものではなく、『魏志倭人伝』に書かれている「邪馬台国」のものだ
という根拠は全く無いよ ちょっと掘り返してダメだこりゃとわかっちゃったんでそっと埋めなおして、未来の人へのプレゼントってお茶濁した吉野ケ里 >>512
日本史には、神功皇后時代が、存在できる隙間が無い。
記紀は論外。 >>512
神功皇后と応神天皇の時代には秦氏を受け入れている
そもそも新羅の前身の辰韓=秦から逃げてきた人々から成っている
馬韓が領土を分譲してそこに住まわせた事に遡る
秦氏自身も秦の始皇帝の子孫を名乗り新羅でいじめられていたので日本への亡命を願い
それを神功皇后や応神天皇が認めて亡命させて帰化させた
別になんの矛盾もないのだがな 邪馬台国の邪と卑弥呼の卑をみると
中国の創作w
存在しない事実 >>517
日本書紀を読めって
ちゃんと年代が細かく書かれているから
卑弥呼が存在できる隙間がないというのならわかるがな 記紀原理主義者と魏志倭人伝原理主義者
困った事に、纏向遺跡を認めると
記紀が崩れる。距離を取ると魏志倭人伝が崩れる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています